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インランド・エンパイア

2008年9月20日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (117)

さて、この後、「インランド・エンパイア」は……

・ロコモーション・ガールの二人による「ポーランド・サイド」の「ストリート」へのスー=ニッキーの誘導(1:11:30)
・ロスト・ガールによる「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」と「腕時計の必要性」の示唆(1:13:08)
・「スミシーの家」の内部で上下に交わされるニッキー(あるいはスー)の「視線」(1:13:55)
・ロコモーション・ガールによる「向かいの建物」の提示(1:14:14)
・腕時計をし、シルクの布に煙草の火で穴を開けてそれを覗くスー=ニッキー(1:17:03)

……などの映像イメージを提示し、「映画を作ることについて」に関連する事象だけでなく「映画を観ることについて」に関連する事象の記述を開始していくが、これ以降の「イメージの連鎖」に関してはすでに述べたことの繰り返しになってしまうので、割愛することにする。

敢えて付け加えるなら(1:06:05)および(1:16:46)において、「スー=ニッキーの様子をうかがいながら、廊下のドアの中に姿を隠すピオトルケ」のショットを挟んで提示される「無人のリビング・ルーム」の映像である。「スミシーの家」がニッキー(あるいはスー)の「内面」であり、この「無人のリビング・ルーム」がその「空虚さ」を表象するものであると捉えるなら、(1:08:24)の映像を含めたその繰り返しの提示や、(1:28:25)からの”「ロコモーション」にあわせて踊る「ロコモーション・ガールたち」の姿が消失し、「無人のリビング・ルーム」だけが残る”という表現もその延長線上にあるとして理解することが可能だろう。

     **********************

……てなわけで、非常に未整理なうえに、いろいろと「見落とし」あるいは「勘違い」も多々あるかとは思いつつ、「インランド・エンパイア」に関する個人的な「解釈」(あるいは「誤読」)については、ひとまずこれでひと区切りとしたいと思います(なんか思い付いたら、また書くかもしれないけどね)。行き当たりばったり、テキトーに書き散らした文章に最後までお付き合いいただいた皆様、お疲れさまでした。

締めくくりとして、何度目になるかわからないが雑感をば。

何を隠そう、大山崎自身にとっても、リンチ作品をここまで詳細に論じるのは初めての体験でりありました。ショット単位までさかのぼった映像の確認作業を通じて「見逃していたもの」がいろいろと見つかるのはスリリングな体験であったし、リンチが採用する「表現」の再認識や整理ができたのは大きな収穫だったと感じております。でもって、そうした作業を通じて実感したのは、「インランド・エンパイア」が冗談抜きに「リンチ作品の集大成」であるということ。これは、単に過去のリンチ作品が提示してきたテーマやモチーフが「インランド・エンパイア」においてもなぞられているからでもなければ、ましてや映画作品を売り込むに際に「なんか褒めとけ」的に用いられる思考停止気味な「キャッチ・フレーズ」でもございません(笑)。以前からの共通テーマやモチーフが有機的に結合されて、「映画というメディア」における……「映画」を「作る局面」と「観る局面」における様々な事象を描く上で、効果的に援用されていることが「集大成」と呼ぶ所以であります。

だが、逆にいうと、そのせいで、リンチが過去作品において展開してきたテーマやモチーフを把握できていない受容者にとって、「インランド・エンパイア」が非常に敷居の高い作品になってしまっているのも確かだと思う今日この頃。特に中盤から後半にかけての「抽象的表現」や「象徴表現」が咀嚼できなかった受容者が確実に存在していることは、巷に流れている”リンチの「作家性」など一切無視した感想”……たとえば「ナラティヴに理解しようとする試み」や「『統合失調症』をキーにしたアプローチ」などが証明しているわけで。

念のために補足しておくと、ここでいう「象徴表現」とは、非常に卑近な例でいえば、たとえば「鳩」が「平和の象徴」であるという「共通認識」を前提に、「平和な状態の終結=戦いの勃発」を「鳩の死体」の映像に仮託する……というようなことであります。結果として、「映像」と「それが表象するもの」がダイレクトに一致せず、いわば乖離状態にある、と。この「鳩の死体」の映像を”「鳩が死んでいる」という事実”を表していると具象的に捉えてしまっては、当然ながらそれが真に「表象しているもの」を見逃すことになってしまう……と書けば「なーんだ」なのだけど、リンチ作品の場合、コトがそれほど簡単ではないのはご存じのとおり。リンチは、「鳩=平和の象徴」といったような誰でもわかる「共通認識」とか、あるいは「図象学(イコノロジー)」上の象徴(イコン)なんかには見向きもしてくださらない。そうではなくて、リンチが採用するのは、リンチ自身の感覚や発想に基づいた独自の「象徴」なんであります。毎度引き合いに出して申し訳ないけれど、前述した「ナラティヴな理解への試み」や「『統合失調症』をキーにしたアプローチ」なんかは、リンチ独自の「象徴」を読み取ることに失敗して「映像」を具象的/表層的に受け取ってしまっている……つまり、「鳩の死体」の映像を「鳩が死んでいる」としか理解できていない「典型例」なんであります。

で、荒っぽくいうと、リンチ作品において「論理」がつながっているのは……つまり、「コンテキスト」を形成しているのは、この「象徴」の部分においてなわけです。大山崎は「イメージの連鎖」という言い方を用いましたけど、”「ある象徴」と「他の象徴」との関係性によって表されるもの”こそがリンチ作品が描いているものであるわけですね。別にしなくてもいいヤヤこしい書き方をするなら(笑)、いわゆる記号論における「連辞」やらナニやらが成立しているのは「シニフィエ(意味されるもの)=象徴=共示」間においてなのであって、「シニフィアン(意味するもの)=具体的映像=外示」間においてではないっつーことです。逆にいうと、リンチが用いている独自の「象徴」が理解できなければ、それを表している「映像」と「映像」の”つながり”がまったく認識できないのは当たり前で、それこそ「統合失調症患者が抱く妄想を描いている」などという粗雑な議論が発生してしまう理由は、まさにここらへんにあるといえましょう。

加えて、リンチ作品における「象徴」が一定の幅をもつこと……つまり、複合的/複義的で抽象的なものであることも問題を混迷させているといえます。たとえば「インランド・エンパイア」において、「サーカス」によって表されるものが「メディア」であると同時に「組織」でもあり得る……てか、この二つの間に境界がなく「融合」したものであるっつーのがその好例です(あくまで、「言語」で説明するなら、ですが)。んでもって、リンチ作品の場合、各「象徴」間の「つながり」が、この「融合」した状態で発生しているのがミソなんでありますね。「サーカス=メディア」と「ファントム=映画の魔」がくっつくと思えば、「サーカス=組織」と「夫の抽象概念=ピオトルケ」が連鎖するってなことが起きるわけです。こうした見方に基づくなら、「スミシーの家」の「裏庭」のシークエンスは、「夫の象徴=ピオトルケ」や「ニッキーの情緒の記憶=ロコモーション・ガール=私的なもの」が存在しているところに、「組織=メディア=公的なもの」を指し示す「サーカス団員」が乱入してくるという、複義的っつーか意味深っつーか、まあ、いろいろな具合に受け取れて「一粒で三百米走れるうえに、二度(以上)おいしい」場面だということになります。

話は戻って、もちろん、こうした「作家独自の象徴の採用」自体は、現代芸術全般においてごくフツーに認められるものであって、リンチ作品に限った話ではありません。のだけれど、それはそれとして、リンチ作品を受容する際して第一の障壁となっているのが、こうした点にあるであろうこともまた間違いないわけで。じゃー、それを理解するにはどーすればいーのよとなると、これがまた輪をかけて困ったちゃんな話になります。なぜなら、こうした「リンチ独自の象徴表現」に対する理解は、基本的に「過去作品を含めたリンチ作品を観ること」を通してしか得られないからです。つまり、リンチ作品を理解するためには、リンチ作品全体に対する(本来的な意味での)「作家論」的なアプローチが必要になる……つまり、実際の「映像」に対する分析的なアプローチの「集積」が不可欠である……というマコトに真っ当だけど、循環論法めいたコトになってしまう。小難しくいえば、あるリンチ作品を「テクスト分析」したうえで、他のリンチ作品との「間テクスト」を構築する……ってなことになるんでしょーか。いや、思いっきりぶっちゃけた言い方をすれば、単にリンチの「手癖」や「足癖」を把握するってだけのことなんですが。

前述したとおり、これは真っ当な方法論ではあるけれど、リンチ作品に対する「とっかかり」を求める受容者にとっては、非常に敷居が高い話ではあります。簡単に「とっかかり」を手に入れる手立てとしては、そうした分析的アプローチの「集積」がどこかに参照できる形で存在すれば……たとえば、書籍として存在すれば事足りるはずで、「David Lynch Decorded」の方法論自体はそういう点では正しいわけです……内容は、ちと、アレだけど(笑)。ところが、少なくとも日本に限っていえば、人口に膾炙する形でそうした観点からリンチ作品を論じたテキストはほぼゼロに等しくて、日本語による基礎資料と呼べるものは、実質上クリス・ロドリーによるインタビュー集しかないというのが現状であります。ま、実際問題として、リンチ作品に関する基礎資料を出版しても数としちゃそんなにハケないだろうなと思うので、大人の大山崎としてはそのこと自体の是非は問いません(笑)。

ただひとつ、明確にいえるのは、最初からリンチの「表現」を理解する「試み」を放棄してしまえば、そもそもそれを理解できるはずなどないということ。「そんなの、当り前やんケ」といわれればそのとおりなのだけど、なかなかこういう当たり前の議論がリンチ作品に関して起こらないのも、また事実なんですよねえ……。

てなことをツラツラ考えつつ、リンチ作品の「集大成」として「インランド・エンパイア」をみたとき、この作品はちょいと皮肉な事態を引き起こしているよーな気がします。っていうのは、「インランド・エンパイア」について何か言及することによって、その「語り手」の(「インランド・エンパイア」だけでなく)リンチ作品全般に対する「理解度」が透けてみえてしまうから。うーん、意地悪ですね、そーですね。とはいえ、作品公開当時の文章だけでもって、評論家筋の方々の「理解度」を計ってしまうのもフェアではないでしょう。試写で一回観せられただけで「何か書け」って言わわれても、「ナニをどーしろと」なんですわ、こーゆーの(笑)。ここはひとつ、リベンジの意もこめて、大山崎のみたいなウダウダのヤツでなくて(笑)、もっとちゃんとした「インランド・エンパイア」論をばどなたか提出していただけないもんでしょうかしらん?

……なんか最後は思いっ切り愚痴っぽくなってしまいましたが(笑)、それはともかくとして、「インランド・エンパイア」を牛のごとく繰り返し咀嚼する作業自体は、ヒジョーに(面倒臭いけど)面白いものでありました。まさか、一年以上もこのネタで引っ張るとは思わなかったけどな(笑)。安物リーフリDVDプレイヤー&安物液晶付きポータブル・プレイヤーも、連続ゴー&ストップ&リヴァースの「耐久テスト」によくぞ耐えてくれました。偉いぞ(笑)。

てなことで、これに味をしめたわけではないがって、ウソ、味をしめて(笑)、自分なりの「リンチ作品に関するテクスト分析の蓄積」を続けてみようかなと考え始めている今日この頃であります。次は何にし・よ・う・か・な……と迷った結果、引き続き「ロスト・ハイウェイ」に関するテクスト分析めいたことをやらかしてみる予定。この作品を選んだ理由はいろいろあるのだけれど、準備が整い次第、そこらへんもあわせてボチボチ明らかにしていくつもりでおります。さて、鬼が出るか蛇が出るか……いや、ミステリー・マンが出てくることだけは確実なんスけど(笑)。

2008年9月17日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (116)

てなわけで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の補追作業である。今回は、(1:09:09)から(1:11:30)までをば。

毎度おなじみ、まずは具体的な映像から。とりあえず、このシークエンスの前半部分をみてみよう。

「スミシーの家」の内部 小部屋 (続き)
(1)細長い青い電球のアップ。傘はついていない。そのままズーム・アウト。
(2)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。暗闇。テーブルの上の青い電球がついたライト・スタンド。闇の中に女性が二人(左からラニ、カリ)いるのが見える。少し右へパン。
(3)スー=ニッキーのアップ。驚きに息をのみ、目だけで自分の右の方向を見ている。
女性: (画面外から) Who the hell are you?
(4)ミドル・ショット。スー・ニッキーの主観ショット。たくさんの女性たちが暗い部屋の中にいる様子が、ところどころの明りのなかに見える。左からロリ、チェルシー、サンディ、ドリ、テリ。左から右へパン。
(5)ラニのミドル・ショット。暗闇の中、光の中に立っている。黒髪。
ラニ: Hey. Look at us and tell us if you're known us before.
(6)スー=ニッキーのアップ。呆然と様子を見ている。踊る光と影。
(7)テリのアップ。黒髪に青い目。
テリ:
There was a man...
(8)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の左手に視線を向ける。
(9)テリのアップ。
テリ: I once knew.
(10)スー=ニッキーのアップ。左手を見ている。
[心臓の鼓動に似たビート音]
(11)ロリのアップ。黒髪をアップにし、窓の下に座っている。
ロリ: [ささやき声で] I so liked to spread my legs wide for him. 
彼女は自分の右手の方に目をやる。踊る光と影。
(12)スー=ニッキーのクロース・アップ。口を半ば開け、呆然としている。
ラニ: (画面外から) Did he do that thing...
スー=ニッキーが声のした方(右手)を見る。
(13)ラニの斜め左からのアップ。肩までの黒髪。白いキャミソールに黒いブラジャー。
ラニ: you know... that little shaking thing, while he was...
(14)スー=ニッキーのクロース・アップ。
(15)ラニの斜め左からのアップ。
ラニ: you know. [笑う]
(16)スー=ニッキーのクロース・アップ。
チェルシー: (画面外から) wasn't that great?
スー=ニッキーが声がした方(左手)を見る。
(17)チェルシーのアップ。カールした金髪。踊る光と影。
チェルシー: (笑みを浮かべて) Yeah.
後退しつつ少し右へパン。
(18)スー=ニッキーのクロース・アップ。左手を見つめたいたが、やがてスー=ニッキーは目をつぶる。涙が彼女の右目からこぼれる。
(19)ドリのバスト・ショット。両肩に刺青。白いキャミソール。背後には積まれた箱が見える。
ドリ: I'd let him do... anything.
[女性たちの笑い声]
(20)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは目を閉じて泣いている。
(21)テリのアップ。左へパン。
(22)ラニのアップ
ラニ: (笑って)Yeah.
(23)スー=ニッキーのクロース・アップ。涙をため、右手を見つめている。目をつぶるスー=ニッキー。
チェルシー: (画面外から) Yeah.
(24)チェルシーの斜め右からのアップ。
チェルシー: [笑う]
(25)カリの斜め左からのアップ。ノースリーブの黒いドレス。背後には机の引き出しが見える。
カリ: [囁き声で] Yeah.
(26)スー=ニッキーのクロース・アップ。呆然と右手の方を見つめている。左下に目を動かした後、正面を見る。

現在論じているシークエンスは、(1:08:18)の「無人のリビング・ルーム」のショットからずっと継続しており、前々回および前回採り上げたシークエンス群とあわせて理解されるべきものである。そのことは、(1:08:18)からこのシークエンスの途中まで、「心臓の鼓動に似たビート音」がサウンド・ブリッジとしてずっと継続していることによって明示されている。

なによりもまず指摘したいのは、カット(7)(9)におけるテリの発言である。これは、Mr.Kのオフィスにおいて、スー=ニッキーがMr.Kに向かって行う発言(1:22:55)と同一である。テリが発言した後、カット(11)からカット(25)にかけて、ロリ、ラニ、チェルシー、ドリたちによって行われる言動は、すべて男性との「性行為」に関連したものであるが、スー=ニッキーがMr.Kに向かって行う発言も、基調として男性との「性行為」に端を発する「トラブル」に関連している。つまり、ロコモーション・ガールたちによって行われる発言は、Mr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーによって「リフレイン」されており、基本的に「同一」なのである。そして、「インランド・エンパイア」に登場する数々の「キー・ワード」が示すように、これらの「リフレイン」ないし「ヴァリエーション」に関連する「者」は、基本的に「等価」なのだ。

こうしたスー=ニッキーとロコモーション・ガールたちとの「同一性」、およびそこから導かれる「等価性」は、「ロスト・ハイウェイ」におけるフレッドとミステリー・マンの間に横たわる「同一性/等価性」と同質のものである。つまり、ロコモーション・ガールたちは、リンチ作品に頻出する「概念の登場人物化」という「常套表現」のヴァリエーションなのだ。そして、ミステリー・マンがフレッドの「内面」に内在するものであるように、ロコモーション・ガールたちも、スー=ニッキーの「内面」に内在する「感情」を表すものとして捉えることができるのである。「心理展開の要請/心理展開のエスカレーション」を表す「青のモチーフ」がこのシークエンスにおいて基調として現れるのはそのためであり、なによりこの事象が発生しているのは「スー=ニッキーの『内面』」を表象する「スミシーの家」の内部なのである。

かつ、「ロコモーション・ガール(によって表わされるもの)」がニッキーの「記憶」であることは、彼女たちの発言が基本的に「過去」に発生したこととして、「過去形」で語られることによって示されている。カット(7)(9)におけるテリの発言に端的に現れているように、それは「以前、知っていた男のこと(There was a man...I once knew)」なのだ。であるならば、ロコモーション・ガール「たち」が「複数」であらねばならない理由、あるいは「女性形」であらねばらない理由は容易に理解できるだろう。それは演技者=ニッキーが彼女の「現実」で遭遇した、さまざまな「実体験」の反映であるのだ。忘れてはならないのは、「ロスト・ハイウェイ」のフレッドや「マルホランド・ドライブ」のベティが抱く「幻想=感情によって歪んだ記憶」に明らかなように、リンチ作品における「記憶」は(いや、現実に我々が抱える「記憶」も)必ず「感情」を伴うことである。ならば、「ニッキーの記憶=ロコモーション・ガールたち」も、ニッキーが抱いた「感情」を内包したものであることは自明だろう。

この「過去の感情=ロコモーション・ガールたち」は、前回に触れたように、”スーによる「ビリーについての回想」”をキーにして喚起されている。より正確にいえば、「登場人物=スーが登場人物=ビリーを回想する」にあたって、スーの「内面」においてどのような「感情」が発生しているかについて、演技者=ニッキーが「内省」を行うことによって、ロコモーション・ガールたちが喚起されているのだ。そしてそれが演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じるうえで……つまり、スーになりきるうえで必要とされる「感情移入=同一化」を獲得する「手段/方法論」であることを考えるとき、「メソッド演技」の基本理論における「情緒の記憶」という概念が「ロコモーション・ガールたち(によって表わされるもの)」と結びつけられることになるわけである。

敢えて言及しておくなら、最終的に演技者=ニッキーが主として採用した「情緒の記憶」が「ラニとロリによって表わされるもの」であることは、この後のいくつかのシークエンスにおいてこの二人が「キー」となって登場していることから推察される。この二人は「ポーランド・サイド」の「ストリート」にスー=ニッキーを誘い(1:11:40)、「ストリート」挟んだ向かいの「建物」を提示し(1:14:15)、同じく「ポーランド・サイド」の「ストリート」でロスト・ガールを「魅了」する(2:11:34)。そして、最終的には「ファントムの崩壊」によって「迷宮めいた場所」から「解放」されるのだ(2:47:11)。

このように「ロコモーション・ガールたち」を演技者=ニッキーに内在する「情緒の記憶」として捉えるとき、「Mr.Kのオフィスにおけるスー=ニッキー」が表象するものについてまた新たな光が投げかけられることになる。スー=ニッキーがMr.Kに向かって話す「男性との性交渉」とそれが引き起こす「トラブル」の話は、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」に基づくものとして、彼女の「内面」から現れたものだ。では、彼女が話す「男性との性交渉」以外の話、たとえば「世界の終わり」を見て泣き叫ぶ少女(1:35:51)や、ファントムの片足の妹などの話(1:47:24)は、いったい誰の「情緒の記憶」なのか? ノース・カロライナに関する言及やファントムの片足の妹の話が、映画監督としてのリンチの私的な部分から生まれたものであることについては、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(27)および(28)において触れた。そこから推察するに、もしかしたら、Mr.Kに向かってスー=ニッキーが言及する事項には、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」だけでなく、その他のスタッフ……監督やシナリオ・ライターの「情緒の記憶」も同時に投影されてはいないか? つまり、スーという「登場人物」の「人物像」の成立には演技者=ニッキーだけでなく、他の製作スタッフの力も与っているということが、スー=ニッキーのMr.Kに対する一連の「言及」をとおして表わされているという可能性である。

もう一点、指摘しておきたいのは、カット(11)においてロリの背後に見える「窓」と、カット(19)においてドリの背後に見える「積まれた箱」、そしてカット(25)においてカリの背後に見える「机」である。(1:25:53)からの映像との対比において、この「窓」「積まれた箱」「机」が「小部屋」に存在していることは明らかであり、現在論じているシークエンスの事象はすべてこの「小部屋」内で発生していることになる。だが、これ以降、たとえば(1:26:28)からのシークエンスにおいては、スー=ニッキーが存在しているのは確かにこの「小部屋」であるが、ロコモーション・ガールたちは「リビング・ルーム」に存在していることが確認される。そして、これ以降、ロコモーション・ガールたちは、(1:31:08)や(1:48:31)あるいは(2:06:52)にみられるように「小部屋」あるいは「リビング・ルーム」に存在しているか、あるいは(1:37:20)からのシークエンスのように「裏庭」に存在しているかのどちらかであり、「スミシーの家」のそれ以外の場所には現れない。

ピオトルケとの対比において、これは非常に面白い事実である。「ピオトルケ(によって表されるもの)」が「ベッド・ルーム」を起点として現れ、そこをメインの場所としながら「廊下」「ダイニング」「裏庭」と姿をみせ、(2:16:32)の「殴打シーン」においてそれまで足を踏み入れる描写がなかった「リビング・ルーム」に初めて現れる。それに対し、「ロコモーション・ガールたち(によって表されるもの)」は「小部屋」を起点に、主に「リビング・ルーム」に姿を現すのである。これは前回述べた、”「スミシーの家」の内部にある部屋の役割”とも密接に関連するものだ。「トラブル=機能しない家族」は「ベッド・ルーム」にその要因を内包し、「内省」や「認知/認識」は「小部屋」にその根源をもつ。そして、「裏庭」においてのみ、ピオトルケとロコモーション・ガールは同時に存在するのである。この構造は、「ニッキーの屋敷」における「高低のアナロジー」と一見「類似」したものであるように見える。だが、「スミシーの家」の内部における事象は、基本的に「内面」で発生しているものであるとういう点ですべて「私的」なものであること、その領域内でもっとも「公的」な場所が「半ば公的で半ば私的」な「裏庭」であることには留意しておかなければならない。「スミシーの家」におけるアナロジーは「水平方向」のものであり、「トラブル=機能しない家族」の要因である「ピオトルケ」と、「内省」「認知/認識」の結果である「ロコモーション・ガール」は、ともにニッキー(あるいはスー)の「感情の反映」として同一の「水平面」に存在するのである。

(27)ラニのアップ。
ラニ: Strange... what love does.
(28)スー=ニッキーのクロース・アップ。
ロリ: (画面外から) So...
(29)ロリのアップ。左手を見ている。彼女にクロース・アップ。
ロリ: strange.
(30)スー=ニッキーのクロース・アップ。目を閉じるスー=ニッキー。
["Ghost of Love"が流れはじめる]
(31)長椅子に埋まるように座ったサンディのアップ。黒髪。ピンクのキャミソール。両側には他の女性の腹部あたりと腕が見える。
サンディ: In the future...
(32)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の右の方に視線を移すスー=ニッキー。
(33)ドリのアップ。下方からから上へ女性の顔までパン。彼女は右手の方を見ている。
ドリ: you will be dreaming...
(34)テリのアップ。右手の方を見ている。
テリ: in a kind of sleep.
(35)スー=ニッキーのクロース・アップ。右を見つめているスー=ニッキー。
(36)カリのアップ。
カリ: When you open your eyes...
(37)スー=ニッキーのクロース・アップ。声のした方(自分の左手)を見るスー=ニッキー。
(38)ラニのアップ。
ラニ: someone familiar will be there.
(39)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の左手を見ているスー=ニッキー。
-- Strange
スー=ニッキーは目をつぶり、両手で目を覆う。
(40)ラニのアップ。ズーム・イン。
-- What love does
(41)両手で目を覆っているスー=ニッキー。ズーム・イン。
(フェイド・アウト)

続いて、このシークエンスの後半部分では、二つのものが提示される。

ひとつは、「Ghost of Love」という曲によって示唆される「トラブル=機能しない家族」の発生要因である。「家族」の始まりが「男女の関係」に起因するなら、そしてその「男女の関係」が両者の相手に対する「愛」によって成立するなら、「トラブル=機能しない家族」は”「愛」が起こす「奇妙なこと」”のひとつに他ならない。

もうひとつは、ロコモーション・ガールたちによる「映画というメディア」についての言及だ。「近い将来/眠りのようなものの中で/あなたは夢を見る。そして目を開けたとき/よく知っている者がそこにいる」……すなわち、「時間と空間に対する見当識の失当」の果てに「感情移入=同一化」の対象を見付けるであろうことを、ロコモーション・ガールたちは「予告」する。そして、その「予告」どおり、「インランド・エンパイア」はこの後、「映画を作ること」「映画を観ること」についての記述を交錯させることによって、演技者と受容者による登場人物の「共有」を描くことになる。

このようにしてみる限りにおいて、このシークエンスの後半が提示しているのは、やはり「機能しない家族」と「映画についての映画」という二つのテーマを「インランド・エンパイア」が内包していることの「宣言」であるといえるだろう。と同時に、これは「映画」というメディアが映像と音響でもって、何をどう伝えることができるかということの「例示」でもあるはずだ。つまり、映像が「映画についての映画」についてのテーマを展開しつつ、そのかたわらで音響はそれが「機能しない家族」に関連していることを伝えるという多重構造を形成しているのである。我々=受容者が、「映画」が提示するこうした多層的な「情報」を受け取り、それを統合して総体的に理解する作業を意識的/無意識に行ないつつ「映画」を受容することを考えるとき、これもまた「インランド・エンパイア」が行なう「自己言及」のひとつであり得るし、我々=受容者の問題としての「映画受容」に関する言及となり得るのだ。

2008年9月15日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (115)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の追補の続きである。今回は(1:08:24)から(1:09:09)までをば。

では、さっそく、サクサクと具体的な映像から。

「スミシーの家」の内部 廊下 (昼)
[心臓の鼓動に似たビート音]
(1)ミドル・ショット。誰もいない暗い廊下。左から右へ移動するショット。
(2)ミドル・ショット。スー=ニッキーが暗い廊下に立っている。逆光でシルエットになっており、その詳細は見えない。彼女が立っているのは廊下の右側、リビング・ルームの隣の小部屋の前である。彼女はドアを開き、小部屋に入る。赤い光が小部屋から漏れ出る。

「スミシーの家」の内部 小部屋 (昼)
[心臓の鼓動に似たビート音]
(3)ミドル・ショット。背の高い赤い傘のライト・スタンドが、サイド・ボードの上に置かれている。赤い光を放っている。
(4)スー=ニッキーのアップ。左下方からのショット。彼女は首をやや左に傾け、壁にもたれている。あたり一面、ライト・スタンドの光で赤い。
(5)スー=ニッキーの主観ショット(左に傾いている)。背の高い赤い傘のライト・スタンド。急激に明るくなるスタンドの灯り。
(6)スー=ニッキーのアップ。息をのみ、瞬きをするスー=ニッキー。赤い光が彼女の顔を照らしている。
(7)スー=ニッキーの主観ショット(左に傾いている)。 背の高い赤い傘のライト・スタンド。スタンドの灯りが暗くなっていく。
(オーヴァーラップ)
デヴォン=ビリーのバスト・ショット(0:36:24)。
(オーヴァーラップ終了)
サイド・ボードの上の背の高い赤い傘のライト・スタンド。また明るくなる灯り。
(8)スー=ニッキーのアップ。赤い光に照らされたスー=ニッキ。
(9)ミドル・ショット。赤い傘のライト・スタンド。白いフラッシュ光が明滅を始める。
[クラック・ノイズ]
(10)赤い傘のライト・スタンドを見詰めるスー=ニッキー。白いフラッシュ光が彼女を照らす。
(フェイド・アウト)

この段階で具体的映像としての明示はないが、後に提示される(1:16:54)あるいは(1:25:53)などのショットから、カット(2)でスー=ニッキーが入ったのが、リビング・ルームの隣の小部屋であり、カット(3)以降はその内部であると了解される。

「スミシーの家」の内部構造については、映像で説明されない不明な部分が多々ある。その「実体化」以降、映像として登場する「部屋」を登場順に挙げると、以下のようになる。

リビング・ルーム
ベッド・ルーム
小部屋
キッチン
ダイニング

これに加えて「前庭」「裏庭」も「スミシーの家」は備えているのだが、それについてはひとまずおいておこう。

さて、これらの部屋で起こっている事象をみたとき、それぞれゆるやかな役割分担が与えられているように捉えられなくもない。そしてそのなかでも、「小部屋」は少しく特殊な位置づけがされているようだ。

たとえば、「ベッド・ルーム」が「夫=ピオトルケ」とダイレクトに関連付けられ、”「トラブル=機能しない家族」の要因が存在する場所”として描かれていることは何度か述べたとおりだが、その他の部屋においても「機能しない家族」に関連した事象の発生は描かれている。キッチンにおいてはスー=ニッキーが妊娠を悟るショットが提示され(1:15:28)、ダイニングではスー=ニッキーから妊娠を告げられたピオトルケが彼女の不倫を悟る(1:29:26)。加えてリビング・ルームでは、ピオトルケによるスー=ニッキーへの暴力が振るわれるとともに、彼が子供を作ることができないという事実が告げられている(2:16:43)。それに対し、この「小部屋」においては、スーとピオトルケの間に発生している「トラブル=機能しない家族」を指し示す具体的な映像がまったく登場しないのだ。

そのかわり、この「小部屋」の内部で発生しているのは、「スー=ニッキーによる『ロコモーション・ガール=情緒の記憶』の幻視」(1:09:09)(1:26:19)であったり、「『訪問者2』の来訪の感知」(1:56:54)であったりするわけだが、なによりこの「小部屋」の「性格」とそれが果たしている「機能」を明瞭に提示しているのは、そこが「スー=ニッキーがシルクの布に煙草の火で穴を開け、腕時計を用意したうえでその穴を覗くという行為を行う場所」(1:16:54)(1:25:53)(1:48:53)であるという映像である。

これらの映像からまず読み取れるのは、この「小部屋」がニッキー(あるいはスー)の「内省」の場所として性格づけられ、機能しているということである。加えて、ニッキー(あるいはスー)が「訪問者2」の来訪を知るのがこの「小部屋」であることに表されるように、”「スミシーの家」の「内部」=「内面」”から「外界」に関する「認知/認識」を行う場所でもあるということだ。この「外界に対する認知/認識」をキーにして考えるなら、「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」が行われるのがこの「小部屋」であることは、非常に正当な意味を持つことになる。なぜなら、以前にも述べたとおり、「この行為」は「撮影カメラを覗く行為」=「映画を作る行為」を指し示すとともに、「映画を観る行為」をも示唆しているからだ。そして、「映画を観る行為」はリンチにとって「世界を体験する行為」であり、つまりは「世界を認知する行為」に他ならないからである。

さて、そうした「内省」「認知」を行う場所である「小部屋」の内部で、現在、どのような事象が発生しているのか? それを提示しているのがカット(3)以降のシークエンスのショット群であり、それを理解するための「手掛かり」のひとつになるのが、オーヴァー・ラップで提示されるカット(7)の「ビリー=デヴォン」の映像である。このショットは(0:36:24)で提示された映像と同一のものであり、そこでは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影現場の映像として、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」内の1シーンという扱いで現れていたものだ。

他の撮影現場のショット/シークエンスで提示された映像と同じく、現在論じているシークエンスにおける「デヴォン/ビリーのショット」の提示もまた、複合的/複義的な理解が可能である。ひとつは、登場人物=スーに関連する「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語内」で発生している事象として、つまりビリーに思いを寄せているスーの「回想」としてこのショットが表れているという理解だ。そして、この場合、スーの「回想」が喚起された契機となっているのは、(1:05:47)から提示される「ベッド・ルーム内のピオトルケ」という”スーにとっての「トラブル=機能しない家族」の要因”を彼女が目撃したことから始まり、「無人のリビング・ルーム」によって表される”彼女が感じた「空虚さ」”を経て、この”ビリーとの逢瀬の「回想」”へと至るという「物語=ナラティヴ」が「インランド・エンパイア」の受容者である我々の「内面」で構成されることになるわけである。カット(2)以降のシークエンスにおいて、「赤のモチーフ=物語展開の要請」が顕著に現れる第一義的な理由は、こうした点にあるはずだ。

もうひとつの理解がもたらされるのは、これを演技者=ニッキーに関する事象として捉えた場合だ。ここで基本として押さえておかなければならないのは、演技者=ニッキーは登場人物=スーに対して「メタな立場」にいるということである。つまり、スーの身上にどのようなことが起きたか/起きるかに関して、彼女は「シナリオ」を通読することによって既に知っているのだ。このことは、たとえば(0:25:49)からのリハーサルに際し、キングズレイが選択したシークエンスに対して「好きなシーンだわ(I love that scene)」とニッキーが発言することで明示されているといえるだろう。つまり、ニッキーは、スーがビリーに思いを寄せ彼を「回想」することを「知っている」という「俯瞰的立場=メタな立場」にいることになる。だが、もう一歩踏み込んで「ニッキーが既にシナリオを通読していた理由」を考えれば、ニッキーがスーに対して「メタな立場」に置かれる「根本的な理由」が明瞭になるはずだ。それは、ニッキーがスーを「演じる立場」であるということである。少なくともニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」が完全でない時点では、この「メタ」な関係性は変わらない。

ニッキーがスーを「演じる立場」であるということは、逆にいえば、ニッキーはスーという「人物」の人物像を、不自然でなくかつ一貫性をもって「創出」する義務=「演技」する義務をおわされている。簡単にいえば、ニッキーはスーという「人物」になりきることを、職業上の必然として「要請」されているわけだ。その「要請」に応えるために、演技者=ニッキーは(「メソッド演技」の基本理論に基づけば)登場人物=スーが抱いている「感情」を理解する必要に迫られているのである。そのような観点から、カット(3)以降の”ニッキーの「内面」”において発生しているものを端的に捉えるなら、それは”スーが「ビリーとの逢瀬」を回想するにあたって、スーがどのような「感情」を抱いているか”についての「内省」であり「認知/認識」だということになる。そして、演技者=ニッキーの「内省」がどのように行なわれ「認知/認識」が成立していくかについては、この直後のシークエンスにおいて、リンチ独特の表現主義的な手法を用いた「映像」によってより詳細に提示されるだろう。

そうした「詳細」に向けての「場面の接合」を表す表現として、カット(9)(10)において「フラッシュ・ライトによる明滅」と「クラック・ノイズ」という「電気に関するモチーフ」が現れる。同様の「場面の接合」を指し示す表現は、(2:06:01)においても「Rabbitsの部屋」から”「スミシーの家」の裏庭に座るスー=ニッキーのショット”への転換においても現れており、どちらも「赤のモチーフ」を基調としている点など、その「表現」としての「同一性」は明らかだ。つまり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開の要請」が高まり、それを連動して「心理展開の要請」が喚起されるポイントでこうした「表現」が用いられていることが、この二つの「場面の接合」をつうじて確認されることになる。こうした表現もまた、リンチが採用する「常套表現」のひとつであるわけだが、それについての詳細は「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(60)の項を参照されたい。

2008年9月12日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (114)

引き続き「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についての追補作業であったりする。今回は、(1:05:47)から(1:08:24)までをば。

んでわ、今回もまずはこのシークエンスの具体的映像から。

「スミシーの家」の内部 リビング・ルーム(昼)
(1)ミドル・ショット。玄関のドアが開き、スー=ニッキーがゆっくりと部屋の中に入ってくる。後ろ手でドアを閉めるスー=ニッキー。しばらくドアのノブに手を掛けたまま、部屋の中を見回していたが、やがてバッグを両手で抱えてゆっくりと部屋を歩き始める。それに連れて右から左へと移動するショット。スー=ニッキーは自分の右手にある他の部屋に通じる廊下に視線を向ける。
(2)ミドル・ショット。他の部屋に続く暗い廊下。廊下の左手前には他の部屋(ダイニング・キッチン)へと続く開口部が見える。廊下の両側と突き当たりにドアがある。突き当たりのドアは、後に”「Axxon N.」の扉”とわかるものだ。画面右手からスー=ニッキーが表われ、廊下に向かって歩き始める。
(3)スー=ニッキーの主観ショット。薄暗い白い廊下と、他の部屋に続く白いドア。視線はゆっくりと廊下を進み、突き当たりのドアへと進む。T字に交わる短い廊下。視線は左に曲がる。短い廊下の先にある部屋(ベッド・ルーム)の一部が視界に入ってくる。部屋のドアは一杯に開かれている。部屋の左側の壁に絵が掛けられている。正面の壁の前にチェストと、その上に置かれた四角いシェイドのライト・スタンドが見える。ライト・スタンドはボディも直方体で出来ていて、その灯りは点っている。 
(4)スー=ニッキーのアップ。スー=ニッキーはドアのところで立ち止まり、ベッド・ルームの内部を見回す。背後に見える廊下と他の部屋のドア。
(5)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。ベッド・ルームの内部。
(6)スー=ニッキーの右からのアップ。短い廊下を進むスー=ニッキー。
(7)スー=ニッキーの主観ショット。ベッド・ルームの内部。視線は部屋の中に入り、壁の角を右側に曲がる。今まで見えなかったベッド・ルームの内部が見えてくる。
(8)スー=ニッキーのアップ。右側に視線をやりながら、ゆっくりと部屋に入るスー=ニッキー。
(9)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。緑の布が掛かったベッド。一度右に振って木のクローゼットを映したあと、左にパンするショット。女性の肖像画がベッドの頭の方の壁に掛かっている。ベッドの両側には低いサイド・テーブルがあり、それぞれのテーブルの上には同じ背の低いライト・スタンドが載せられている。左には先ほど見えたチェストと四角いライト・スタンドがある。ベッドの右側には、別の部屋に続く入り口が、真っ暗な口を開けている。ベッドに留まる視点。
(10)スー=ニッキーの右からのクロース・アップ。スー=ニッキーが角のところからベッドを見詰めている。
(11)スー=ニッキーの主観ショット。ベッドとその両脇のテーブル、それに載ったライト・スタンド、壁に掛かった肖像。かすかにベッドに近付く視点。
(12)スー=ニッキーの右からのクロース・アップ。スー=ニッキーは左手を見る。
(13)
スー=ニッキーの主観ショット。右から左へパン。背の低いクローゼットと、その上に置かれた四角いシェイドのライト・スタンド。
(14)スー=ニッキーのクロース・アップ。若干後退する視点。 
(15)ミドル・ショット。四角いライト・スタンド。
(16)スー=ニッキーのクロース・アップ。
(17)誰かが、クローゼットの前で緑色のコートをたぐっている。その人物の足しか見えない。
(フェイド・アウト)
(18)ピオトルケの右背後からのバスト・ショット。
(19)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは自分の右手を見詰めている。
(20)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。ベッドの左側に潜り込むピオトルケ。上がけを腹の上に引きよせた後、彼はベッドの向かって左側のライト・スタンドのスイッチに右手を伸ばす。
(21)ベッドに横たわったピオトルケのアップ。画面外でスイッチを引き、彼はライトを消す。
[スイッチが切れる音]
暗闇。

このシークエンスで提示されているものを端的に言い表すなら、それは「スー=ニッキーによる『スミシーの家』のベッド・ルームへの侵入」である。彼女の「侵入」は、カット(3)(5)(7)(9)(11)にみられる”廊下からベッド・ルーム内部へと「侵入する視点」”というモチーフを伴って提示されており、その映像的特徴の「同一性」からみても、(0:56:20)からの”「ピオトルケ」による「侵入する視点」”を伴ったシークエンスと「対置関係」にあるとみてよい。そして、この「対置性」が第一義的に示唆しているのが、(0:56:20)からのシークエンスで発生している「事象」と、このシークエンスにおいて発生している「事象」の「等価性」であることは指摘するまでもないだろう。すなわち、どちらのシークエンスにおいても「侵入する視点」が見る/観る「対象」となっているのは、「トラブル=機能しない家族」に関する「事象」であるということだ。

このシークエンスにおける事象が「トラブル=機能しない家族」の問題に関連していることは、スー=ニッキーを「スミシーの家」の内部に追い込んだはずの「ピオトルケ」が、「スミシーの家」の内部に、それも「ベッド・ルーム」に存在するというカット(17)(18)の表現によって、端的に表されているといえるだろう。加えて、(1:03:11)に現れる”「家」の内部にいる「ピオトルケ」”と”「スミシーの家」の内部にいる「ピオトルケ」”の対比を通じて、演技者=ニッキーにとって「夫」が「トラブル=機能しない家族」の要因であったように、登場人物=スーにとっても「夫」が「トラブル=機能しない家族」の要因であることが明示されるのだ。この瞬間、「ピオトルケ(によって表されるもの)」は、具象的な意味での「ニッキーの夫」の範疇から外れ、「スーの夫」としても機能し始める。そして、この「ピオトルケ(によって表されるもの)」が「『夫』の抽象概念」であることは、彼が「不特定多数の受容者=ロスト・ガールの夫」として「スミシーの家」に息子を連れて現れるとき(2:49:07)、完全に明示されることになる。

このように考えるとき、(0:56:20)からのシークエンスが備える「複合性/多義性」と、それが内包するものがまたひとつ明瞭になるだろう。「スーの夫としてのピオトルケ」にとって、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の登場人物であるピオトルケにとって、「スーとビリーの不倫」は「トラブル=機能しない家族」に他ならないということだ。これは、後に「ピオトルケにとってあり得ないスーの妊娠」(1:29:26)や「ピオトルケによるスーへの暴力と告白」(2:16:32)によって、誤解のしようもなうほど明確に裏付けられる。そして、このコンテキスト上に捉えるなら、(0:56:20)からのシークエンス(の持つ意味のひとつ)と、現在論じているシークエンスの「対置性」がどのようなものかが、よりはっきりと浮かび上がってくるはずだ。すなわち、(0:56:20)からのシークエンスが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」内の事象として「男性=スーの夫としてのピオトルケ」の視点から「トラブル=スーとビリーの不倫」を描いているのに対し、現在論じているシークエンスは「インランド・エンパイア」内の事象として「女性=ニッキー(あるいはスー=ニッキー)」の視点から「トラブル=ピオトルケによる監視・干渉」を描いているのである。

しかし、以前にも述べたように、(0:56:20)からのシークエンスの最大のポイントはそれが内包する「複合性/多義性」であり、そこを結節点としてさまざまなコンテキストが交錯/混合し、「複合的なイメージ」を構成している点にある。それは現在論じているシークエンスにおいても同様で、要諦となるのは、上に挙げたような「対置性」が交錯/混合し、「等価性」へと置換されていることなのだ。すなわち「ニッキーのトラブル」と「スーのトラブル」が個別例として「等価」であり、それはこの二人の女性がともに「ピオトルケ」を「夫」としてもつという「表現」によって示されているのである。

「スミシーの家」の内部 リビング・ルーム (昼)
[心臓の鼓動のようなビート]
(20)ミドル・ショット。廊下に続くあたりからのショット。黄色のカーテンが閉められている窓の方からほのかな光が入っている。その光で長椅子と、白いコップと灰皿が置かれたテーブルがほのかに見えている。左から右へパン。

続いて、インサート・ショットとしてカット(20)が提示される。このショットから始まる「低音のビート音」は、これ以降のシークエンスにおいても継続し、これらのショットが一塊のものとして理解されるべきものであることを明示している。

「スミシーの家」がニッキーの(あるいはスーの)「内面」を表しているならば(言葉を変えれば、これも表現主義的手法によるものと捉えるならば)、この「無人のリビング・ルーム」は、ピオトルケをベッド・ルームで目撃したニッキーが(あるいはスーが)感じた「空虚さ」を表象していることになる。同時に、本来「家族の構成要員」であるべき「家人」が集合するはずのリビング・ルームが「無人」であることは、そこで発生している「機能不全」をも表象していると読むことも可能だろう。

だが、このショットが担っている機能を映像的特徴から述べるなら、まず気がつくのが(0:03:12)の「無人の部屋」のショットとの「類似性/共通性」である。この(0:03:12)の「無人の部屋」が「顔のない男女が性交を行った部屋」であることを考えるなら、この”無人の「スミシーの家」のリビング・ルーム”のショットが指し示すものは明瞭だろう。この「類似性/共通性」は、そこで”発生している/これから発生する”事象の「類似性/共通性」あるいは「等価性」を指し示すものであり、「顔のない男女」の間の「関係性」がスー=ニッキーとピオトルケの間で「リフレイン」される/されていることの宣言である。

と同時に、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(91)の項でみたように、(0:03:12)の「無人の部屋」のショットが、直前に提示される「第二の顔のない女性(ロスト・ガール)の部屋」のモノクロ・ショット(0:03:02)との「対比」として現れ、「撮影カメラのレンズ」のショットをインサートしつつ、カラー化した「ロスト・ガールの部屋」のシークエンスへと移行することを考えるならば……そして、これが「顔のない女性」と「ロスト・ガール」の「等価性」を指し示しているならば、「ニッキーあるいはスーあるいはスー=ニッキー」と「ロスト・ガール」も「等価」であることになる。「インランド・エンパイア」における「受容者=登場人物=演技者」のネスティングは、このような形でも提示されているのだ。

といった具合に「顔のない女性」「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「受容者=ロスト・ガール」の四者に関連する事象が「等価」であることが明らかにされたとき、「顔のない男女」が繰り広げていたのが「機能しない家族」の「典型例」であり「原型」であることが総体的に……「冒頭での提示」「顔をもたないという匿名性=一般性」「スー=ニッキーとピオトルケの間に今後発生する事象群」などともに、了解されることになるのである。

2008年9月 9日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (113)

前回から継続している「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の追補作業である。今回は(1:03:43)から(1:05:47)までをチビチビとやってみる。

まずは、このシークエンスの具体的映像から。

「スミシーの家」の内部 リビング・ルーム (昼)
(1)ミドル・ショット。スー=ニッキーが左手に黒いバッグを持ち、後ろを振り返りながら、部屋に入ってくる。玄関のドアを叩きつけるようにして閉めるスー。あえぎながら、彼女はしばらくドアを見つめ、次いで「スミシーの家」のリビング・ルームを見回す。明るい陽光が、ドアの横の黄色いカーテンがかかった窓から射し込んでいる。左から、ソファ、背の高いライト・スタンド、長椅子、サイド・テーブル、その上のライト・スタンド(点灯中)が見える。長椅子の前には低いテーブルがあり、その上には白いカップと灰皿がある。長椅子の上の壁には絵が掛けられている。左には、他の部屋に続く入り口がある。
(2)スー=ニッキーのアップ。あえぎながら自分の左手から背後を見回す。
(3)スー=ニッキーの左からのアップ。口を開け、荒い息をしている。
(4)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。画面左下から右上へパン。壁の前に置かれた一人掛けの椅子から、壁に掛かった時計まで。
(5)スー=ニッキーのアップ。口を開け、驚きの表情を浮かべている。後退する視点。
(6)スー=ニッキーのアップ。スー=ニッキーの背後からの右肩越しのショット。壁にかかった時計の方を見ている。急激に右を振り向くスー=ニッキー。それに連れて右へパン。視点はそのまま彼女から離れ、窓にかかっている黄色いカーテンを映す。
(7)スー=ニッキーのアップ。玄関のドアに近づくスー=ニッキー。それを追って右へパン。ドアを開けようとノブにとりつくスー=ニッキー。
(8)ミドル・ショット。スー=ニッキーの背後からのショット。両手でドアノブを握り、それを回してドアを開けようとするスー=ニッキー。
スー=ニッキー:
Uhh.
ドアの右手、黄色いカーテンが掛かった窓に、誰かのシルエットが見える。それを認め、窓の方に走るスー=ニッキー。
(9)ミドル・ショット。窓に掛けより、外を見るスー=ニッキー。
スー=ニッキー: Billy!
(10)ガラス越しのデヴォンのアップ。スー=ニッキーの主観ショット。彼が「スミシーの家」の汚れたガラス窓越しに、中をうかがおうとしているのが見える。背後からの光を受けつつ、右に移動するデヴォン。それを追いかけるショット。少し左に移動するデヴォン。
(11)ガラス越しのスー=ニッキーのクロース・アップ。「スミシーの家」の外からのショット。光に照らされつつ、スー=ニッキーも汚れたガラス窓越しに外をうかがう。上から下へパン。
スー=ニッキー: Billy!
(12)ガラス越しのデヴォンのアップ。スー=ニッキーの主観ショット。デヴォンは汚れたガラスに手をつき、窓越しに中をうかがっている。それを追って左右に動く視点。
(13)ガラス越しのスー=ニッキーのクロース・アップ。「スミシーの家」の外からのショット。汚れたガラス窓越しに外にいるデヴォンに呼びかけるスー=ニッキー。それを追って揺れ動く視点。
スー=ニッキー: Billy!
(14)ガラス越しのデヴォンのアップ。スー=ニッキーの主観ショット。デヴォンが汚れたガラス窓越しに顔を擦り付けて、中をうかがおうとしている。
(15)ミドル・ショット。スー=ニッキーの右から背後に回り込むショット。身をよじって、呼びかけるスー=ニッキー。
スー=ニッキー: Billy!
スー=ニッキーの右横顔へクローズ・アップ。驚きで、息を飲むスー=ニッキー。
(16)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。ガラス窓越しに、家の外部が見える。日の光が射す前庭。鉄製の門へと続く土の道と、その両側の芝生。左手の芝生には、木が生えているのが見える。門の両側の外壁。ゲート越しに家の前の道と、木々の植わった向かいの家が見える。 
(オーヴァー・ラップ)
(17)スー=ニッキーの主観ショット。汚れた窓ガラス。ガラス越しに、ステージの暗闇が見える。
(18)スー=ニッキーのクロース・アップ。右からのショット。ガラス窓越しに外を見つめ、息をのむスー=ニッキー。
(19)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。日の光が射す前庭。そよ風が木の枝を揺らしている。鳥のさえずりが聞こえる。
(20)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは口を開けたまま、外を見詰めている。少し後退する画面。
[ドアが開く音]
音がした方向(画面手前)を見るスー=ニッキー。少し後退する画面。
(21)ドアノブのアップ。いつの間にかドアが開いている。
[ドアが開く音、ラッチの金属音]
かすかに揺れるドア。
(22)ミドル・ショット。スー=ニッキーは玄関のドアに近づき、少しそれを開ける。しばし外の様子を伺った後、家の外に出て行くスー=ニッキー。ドアが閉まり、無人のリビング・ルームが残される。
(23)ロング・ショット。家の内部からの窓越しのショット。スー=ニッキーが家や回りを見回しながら、後ろ向きに前庭の土の道を歩いているのが見える。やがて、立ち止まるスー=ニッキー。
(24)家の内部からの窓越しのショット。スー=ニッキーのバスト・ショット。彼女は絶望的な表情を浮かべながら、家の方を見回している。鉄のゲート越しに、向かいの家の植え込みと木、鉄柵、窓がある白い壁が見える。やがて、諦めたように彼女は家に引き返し始め、画面の右手に姿を消す。

このシークエンスにおいて、「スミシーの家」は明確に「実体化」を遂げる。リンチ作品における「家」が”人間の「内面」”を指し示すことを念頭におけば、これはとりもなおさず、これ以降の映像がスー(およびニッキー)の「内面」で発生している事象であることを宣言するものだ。

カット(8)からカット(15)にかけての映像がそれを裏付ける。映像を観るかぎり、「スミシーの家」の内部にいるスー=ニッキーからは外にいるデヴォンが見えるが、外部から中をうかがうデヴォンにはスー=ニッキーの姿が見えず、彼女の呼びかけも聞こえていない。こうした「表現」から読み取れるのは、スー=ニッキーとデヴォンが「断絶された場所」にいるということであり、これもリンチ作品がしばしば採用する「常套表現」のひとつである。

たとえば「ロスト・ハイウェイ」おける「レネエによるフレッドの捜索」(0:38:07)という「表現」が指し示すのは、この二人が”「断絶された場所」にいること=レネエがすでにフレッドを殺害していること”を表わすとともに、”フレッドが自身のレネエ殺害を思い出しつつあること”を示唆するものだった。もしくは、「マルホランド・ドライブ」における「ブルー・ボックス」開封直前に発生した「リタによるベティの捜索」(1:53:07)は、この二人が”「断絶された場所」に向かっていること=ダイアンが覚醒しようとしていること”を指し示している。この両者とも、「現実から離れた記憶=幻想」と「現実に近い記憶」という「外界認識」上の「界」の差異を表わすための表現であり、それに際してリンチは好んで「誰かの不在/消失」というモチーフを用い、その具体的映像として「誰かによる他の誰かの捜索」を採用する。カット(8)からカット(15)の映像が提示する「デヴォンにとってのスー=ニッキーの不可視性」あるいは「デヴォンによる侵入者(スー=ニッキー)の捜索」も、上述したような「表現」と同一のパターンを踏襲しており、その「ヴァリエーション」として捉えられることは明瞭だろう。

たびたび指摘してきたように、ここで表わされているのは”人間の「内面」の不可視性”である。スー=ニッキーには「スミシーの家」の外部にいるデヴォンの姿が見えるように、「内面」から「外界」をうかがうことは可能だ。だが、逆にデヴォンには「家」の内部にいるスー=ニッキーの姿が見えず彼女の声も届かないように、「外界」から「内面」を計り知ることは困難……というより不可能なのである。(0:29:41)の映像は同一の事象を「外界」からの文脈で描いているものとして捉えられるが、デヴォンが窓越しにうかがう「スミシーの家」の「内部」は、単なる「不可視のもの=暗闇」でしかない。これらの表現と、リンチにとっての定番テーマである「何かよくないことが起きる場所としての家」の関連からみえてくるのは、”人間の「内面」の不可視性”であり、「外界」と「人間の内面」という「界(plate)」の差異であるわけだ。

カット(17)からカット(24)にかけて、「スミシーの家」は完全に「実体化」を果たす。特筆すべきなのは、カット(19)以降に表われているように、「スミシーの家」の「実体化」に連れて、「外界」もまた”「スタジオ4」の内部”から”「スミシーの家」の前庭”に変わってしまっていることだ。「内面」の変動に連れて「外界」も変動することを……正確にいえば、”「外界」に対する「認識」”は「内面」にあるものによって変わってしまうことを、カット(17)-(24)の映像は如実に指し示している。これもまた、リンチが好んで採用する「表現」……端的にいえば「表現主義的手法」に則った「表現」の非常にわかりやすい例だといえるだろう。もちろん、このシークエンスにおける”「内面」の変動”とは、演技者=ニッキーの「内面」における「登場人物=スーのアイデンティティの形成」、ひいては「両者の混淆物であるスー=ニッキーの形成」を指すことはいうまでもない。そして、それはどうしても開かなかった扉が自然に開くとき(カット(21))、ひとつの達成をみるのである。

見落としてはならないのは、カット(4)である。パンを用いて誘導される「視線」の先に、壁に掛けられた特徴のある形状の「時計」が提示される。前後のカットにおけるスー=ニッキーの継続動作(カット・イン・アクション)から、カット(4)の映像がスー=ニッキーの主観ショットであることが明示され、我々=受容者は彼女の「視線」を共有しつつ、この「時計」を見ることになる。言うまでもなく、こうしたカッティングの目的は壁に掛かった「時計」の強調であって、我々はこの「時計」がこれ以降の展開においてなにがしかの重要性を帯びていることを示唆される。そして、案に違わず、「インランド・エンパイア」はこの後、繰り返し「腕時計」を含めた「時計」のイメージを提示する。たとえば(1:17:03)あるいは(1:49:02)においては「煙草の火で穴を開けられたシルクの布」とともに「腕時計」を提示し、「映画」における「空間/時間のコントロール」のイメージを伝える。あるいは、そうしたコントロールのもとに、”登場人物に「感情移入=同一化」を果たした演技者/受容者”が抱く「時間に関する見当識の失当」を、”「腕時計」の所持者である「口髭の男の死」”(1:43:17)という表現を通して記述することになるのだ。

以上のような事項を考えたとき、この「スミシーの家」に入ったばかりの……登場人物=スーに「感情移入=同一化」した直後の演技者=ニッキーの「内面」において、「時計」のイメージがまず提示されることは非常に興味深い。これにはいろいろな読み方が可能だろうが、彼女がこの時点では「時間に対する見当識」を保持しているということの表われとして捉えるのがもっとも妥当なように思われる。なぜなら、カット(23)(24)にみられるように、「実体化」した”「スミシーの家」の前庭”に対して彼女があらわにする動揺は、彼女がまだ「場所に対する見当識」を保持していることの逆説的な表われだからだ。「空間に対する見当識」を彼女が保持しているなら、もう片方の「時間に対する見当識」も同様に保持していると考えるのがもっともストレートだろう。

しかし、この後、前述したような”「映画」による「時間/空間のコントロール」”を体験し、登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を進めたニッキーは、「時間に対する見当識」を失っていく。それを表わすかのように、この”「スミシーの家」の「時計」”が明瞭に映し出される映像は、これからしばらくは存在しない。それが再びスー=ニッキーの背景として姿を表わすのは、もう一人の”「腕時計」の所持者”である「訪問者2」の訪問(1:57:03)を受けたときである。この「訪問者2」による「時計」のイメージの再喚起が表すものは、彼女が付随させる「介入/コントロール」のイメージを考えれば明瞭だろう。”「スミシーの家」の「時計」”の存在は、ニッキーの(あるいはスー=ニッキーの)「時間に関する見当識の失当」の程度を表象する「指標」であり、「訪問者2」が付随させる”「外部性」と「介入」のイメージ”によって、一時的にせよニッキーは「時間に対する観念」を回復させるのである。

2008年9月 5日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (112)

てなわけで、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(34)あたりから始まった具体的映像をもとに「イメージの連鎖」をさぐる作業は、一通り終わったことになる。ただし、最初はこんなに詳細にやるつもりがなかったので、(1:00:00)から(1:15:00)あたりまでの記述には、かなり抜けがあったりするのだな。大山崎がいかに行き当たりばったりで書いてるかを物語るものではあるが、ま、そんなもんス(笑)。これからしばらく、そのあたりを追補しつつ、整理する作業をしておきたい。

では、前回触れたときは省略した(1:00:00)から(1:03:43)までのシークエンスの具体的映像を引用してみよう。まず、”第一回目の「Axxon N.」の発現”のシークエンスから”スー=ニッキーの「スミシーの家」への侵入”までである。

裏通り 外部 (昼) (1:00:00)
(フェイド・イン)
(1)ロング・ショット。右から左へ移動。寂れた裏通り。左右に建物の壁があり、右の壁には円柱。画面手前には銀色のオープン・カーが駐車している。画面の奥から、緑色の柄のブラウスと黒のハーフ・パンツ姿、サングラスをかけたスーが、左手に食料品の入った紙袋、右手から黒のバッグを下げて近づいてくる。画面奥の通りでは、車が行き交っているのが見える。オープン・カーの前に立った彼女は自分の右手に何かを認めて、そちらのほうを見る。
(2)ミドル・ショット。若干左からのショット。食料品の袋をオープン・カーの後部座席に置きながらも、スーは自分の右手ののほうを見詰めている。背後の建物の壁には、茶色の鉄の扉が見える。扉の上には、白いエアコンの室外機が取り付けられている。壁に書かれた白い文字の落書き。奥の方の壁際には、水色のダスターが見える。
(3)ミドル・ショット。スーの主観ショット。半ば開かれた、薄汚れた灰色の鉄製の扉。扉には白い文字で"Axxon N. →"と書かれている。文字の下の方には、四角い枠の何かを剥がした跡のようなものがある。
(4)バスト・ショット。書かれている文字の方ををしげしげと見詰めるスー。
(5)スーの主観ショット。"Axxon N. →"へクロース・アップ。
(6)バスト・ショット。なおも文字を見詰めているスー。やがて、ゆっくりと左に歩き始め、画面の左手へと姿を消す。
(7)ミドル・ショット。スーの主観ショット。"Axxon N. →"が書かれた扉。扉の左には灰色い煉瓦の壁が見える。スーが歩くに連れて、近づいてくる"Axxon N. →"の扉。
(8)ミドル・ショット。やや右側からのショット。オープン・カーの横を通って、扉に近づいていくスー。それにつれて、左へパン。ゆっくりと扉の中に入っていくスー。それを追いかけるショット。扉の中の暗闇に、電球が灯っているのが見える。
(9)スーの主観ショット。右にパン。"→"がチラリと見える。闇に沈む通路。その奥に入っていく視点。丸電球が天井から下がっている。暗闇。ぼんやりとした照明を受ける天井。またもや暗闇。
[扉が閉まる音]
(10)闇の中、階段の手前で立ち止まるスーの姿がぼんやりと見える。一瞬、下に続く階段の踊り場にいるスーの姿が、閃光の中に浮かぶ。

カット(1)からカット(9)までのシークエンスにおいて「具体的映像」として提示されているものが、(0:56:20)からのシークエンスで女性/ニッキー/スーによって「言及されたもの」の「映像によるリフレイン」であることは明白だ。そして「インランド・エンパイア」の「実上映時間軸」からみたとき、この二つのシークエンスが”「昨日」と「明日」の関係”にあることについても、前項で述べたとおりである。映像からは明瞭ではないが、女性/ニッキー/スーの言及にしたがうなら、カット(4)-(6)におけるスーは「何かを思い出し始め(I start remembering something)」「すべての記憶が流れ込んで(I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory)」いる状態であるはずだ。そして「彼女が何を思い出しているか」に関しては、この後のシークエンス……スーが(あるいはスー=ニッキーが)、実体化した「スミシーの家」に入るまでのシークエンスにおいて明示されることになる。

続いて、もうひとつの”「昨日」と「明日」の関係”が提示される。

「スタジオ4」(内部)
(11)暗闇。アウト・フォーカスからイン・フォーカスに。足音ともに近づいてくるスー。彼女は正面の何かを見詰めている。アップになるまで近づくスー。
ニッキー: (画面外で) "Oh, shit."
ニッキー:
(画面外で) "Look in the other room."
(12)ロング・ショット。人影が横切り、画面の左外へと消える。そこは「スタジオ4」の内部である。ニッキーとデヴォンの背後からショット。ニッキー、デヴォン、キングズレイ、フレディが、白い布をかけた長いテーブルにつき、椅子に座っている。彼らはリハーサルの最中だ。
フレディ: what the hell is that?
キングズレイ: Freddie, shh.
フレディ: No, somebody's over there.
驚いてフレディの方をみやり、慌てて正面を向き直るキングズレイ。全員がステージの奥のほうを見る。
キングズレイ: (溜息)
(13)スーのアップ。口を半ば開け、四人の方を見ている。背後は暗闇である。
キングズレイ: (画面外で) This stage is supposed to be ours and ours alone.
(14)ロング・ショット。スーの主観ショット。立ち上がって腰に手を当てているキングズレイ。座ったままのフレディ。左手で涙を拭っているニッキー。デヴォンも立ち上がっている。
デヴォン: (キングズレイに向かって)Let's have a look.
向き直り、ステージの奥(画面手前)に向かって歩き始めるデヴォン。
キングズレイ: (両手を広げ、ニッキーに)I'm sorry.
(15)スーのアップ。
ニッキー: (画面外で) It's Okay.
(16)ミドル・ショット。スーの主観ショット。キングズレイがテーブルの向こうで、腰に手を当てて立ったまま、彼女の方を見ている。フレディはテーブルの向こうに座ったまま、彼女の方を見ている。だが、そこにニッキーの姿はない。テーブルの上、キングズレイの左手には黒いコーヒー・メーカーが置かれ、その他マグカップやなどが置かれている。
(17)スーのアップ。しばしキングズレイたちの方を見つめたあと、画面の右方向に消える。

カット(11)において、そこが「スタジオ4」の内部であり、ニッキーたちを始めとした「四人」による「リハーサル」の最中であることが明示される。そこで交わされている様々な「会話」や発生している「事象」の「同一性」からして、これが(0:23:59)からのシークエンスで提示された「事象」と同一であることは明らかだ。「インランド・エンパイア」の実上映時間軸からみたとき、これもまたカット(10)までの映像と同じく過去に提示された事象のリフレインであり、二つの事象は”「昨日」と「明日」の関係”にあるわけである。

(0:23:59)からのシークエンスについて述べた項でも説明したとおり、このリフレインされる「リハーサル」の映像は、”第一回目の「Axxon N.」の発現”がどの時点でのことであったかを理解する端的な「手がかり」となるものだ。一連の映像を観るかぎり、それはこの「リハーサル」が行われている最中にすでに起きている。実上映時間軸上における「カット(1)-(10)」=「『Axxon N.』の発現」と「カット(11)-(17)」=「リハーサル」の「前後関係」あるいは「位置関係」からして……つまりこの二つのシークエンスの”「昨日」と「明日」の関係”からして、”第一回目の「Axxon N.」の発現”が「リハーサル」が始まった後のどこかの時点……すなわち「ニッキーがスーを演じている時点」で発生しているのは明瞭だからだ。

こうした一連の表現をつうじて、(0:14:56)で「訪問者1」が言及していた”「昨日」と「明日」の問題”が「映画」というメディアに関する「言説」であると同時に、「インランド・エンパイア」自体に関する「言説」でもあったこと……つまり、「自己言及」であったことが了解される。我々=受容者は、「インランド・エンパイア」においてこうした”「昨日」と「今日」の関係”が発生することを、あらかじめ「訪問者1」によって予告されていたのだ。我々=受容者は、「映画」というメディアにおいて物語記述上の「時系列操作」が発生していることを、なんら疑問を抱かず日常的に受け入れている。「操作を受け、入れ換えられた時系列」を認識し整理したうえで「正常な時系列」として再構成する……という非常に複雑な作業を、(ときとして「字幕」や「テロップ」の補助を受けることはあっても)我々はほとんど無意識にやってのけるのだ。「小説」などのメディアに比べ具体性が高い(言い替えれば「現実」に近い)「映像」というメディアの受容においてさえこうした作業が達成可能であることは、我々=人間=受容者が備える「高いパタン認識能力」と「ナラティヴに物事を理解する特性」を指し示すものである。このように、「インランド・エンパイア」が提示する「映画」における「時間コントロール」の問題……”「昨日」と「明日」の問題”について考えるとき、我々はそれが”「感情移入=同一化」の問題”と同じく、我々=受容者側の問題でもあることに思い至ることになるのだ。

そして、カット(16)における「ニッキーの消失」である。演技者=ニッキーの「内面」における「登場人物=スーのアイデンティティの形成」を経て、この二人の混淆物である「スー=ニッキーの形成」が行われたことを、この「ニッキーの消失」は物語っている。かつ、ここで発生している「観るもの」「観られるもの」の関係性の発生が、この後二回にわたって発生する「Axxon N.」の発現に共通して認められ、そこで発生する「視線の交換」が映画というメディアにおける「感情移入=同一化」の喚起のキーになっていることは、何度か述べたとおりだ。

ただし、このシークエンスにおける「視線の交換」が、実は「スーからニッキーへ」の一方通行であること……つまり「交換」が成立していないことは注目すべきだろう。これは、基本的に(0:56:39)からのシークエンスにおいて提示される「スーのアイデンティティの形成」あるいは「スー=ニッキーの形成」が、演技者=ニッキーの「内面」で発生している事象であり、「外界」からは認知不能であることの表象として受け取るのが妥当なはずだ。それを裏書するように、”「スミシーの家」の実体化”後のシークエンスにおいて、同様の事象が「デヴォンとスー=ニッキーの間に発生する『視線の交換』の不能性」という表現で再提示されている(1:04:07)。

興味深いのは、ニッキーたち四人のなかで、フレディだけが朧げとはいえスーの存在を認めたことだ。「動物」に関する言及を行ったり「金銭」に関連する言動をみせたりと(0:38:39)、彼が”映画監督としてのリンチの「代弁者」”という機能を担っていることは確かだ。ただし、彼が「スーの目撃者」である理由がそれであるのかどうか、映像からは明瞭ではない。

(18)ミドル・ショット。アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。暗闇のなかを、画面手前に近づいてくるデヴォン。アップになり、イン・フォーカスになった位置で立ち止まるデヴォン。
[スー=ニッキーの足音]
それを聞いたデヴォンは再び歩き出し始め、画面手前に姿を消する。暗闇だけが残る。
(19)ミドル・ショット。スー=ニッキーの右手からのショット。暗闇のなか、ステージの奥に向かうスー=ニッキー。それを追って、右へパン。大きな鏡の前を通り、カーテンの向こう側に姿を消す。
(20)デヴォンのアップ。背後は暗闇。
[スー=ニッキーの走る音]
それを聞きつけたデヴォンも走り始め、画面右に姿を消す。
(21)ミドル・ショット。ステージの中を、奥(画面手前)に向かって走るスー=ニッキー。それにつれて後退する視点。背後には組み立て中のセットが、背後右手にはステージの壁が見える。あえぐスー=ニッキー。
(22)ミドル・ショット。暗闇のなか、スー=ニッキーの走る足音を追いながら、画面右から左へと姿を消すデヴォン。
(23)ミドル・ショット。暗いステージの奥(画面手前)に向かって走り続けるスー=ニッキー。それに連れて後退する視点。彼女の右の肩越しに、セットの窓からこちらを見ているピオトルケの姿が見える。彼は緑色のコートを着ている。
(24)ミドル・ショット。スー=ニッキーは「スミシーの家」のセットの前までたどりつく。立ち止まり、後ろを振り向く。何かを目にする。
(25)スー=ニッキーのアップ。何かを目にして、息を飲むスー=ニッキー。
(26)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。 暗闇のなか、緑のコートを着たピオトルケが、そこだけ明るい窓の中から彼女を見ている。揺れながら急激にクロース・アップ。
(27)ミドル・ショット。デヴォンがステージの暗闇の中を歩いている。デヴォンの背後からのショット。早足で画面左から右へと姿を消す。
(28)スー=ニッキーのアップ。戦きの表情。彼女の背後には「スミシーの家」のセットが見える。彼女の左手には白い扉、右手には窓の一部が見える。
(29)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。窓の中から彼女を見ているピオトルケ。
(30)バスト・ショット。ステージの暗闇の中を、画面手前に向かって走るデヴォン。それに連れて後退する視点。彼の背後には組み立て中のセットが見える。 (31)スー=ニッキーのアップ。恐怖の色を浮かべている。
スー=ニッキー:
Billy!
(32)デヴォンのアップ。セットの暗闇の中を、画面手前に向かって走るデヴォン。それに連れて後退する視点。彼の右の肩越しに、窓からこちらをうかがっているピオトルケの姿が見える。
(33)スー=ニッキーのアップ。
スー=ニッキー: Billy!
(34)スー=ニッキーのクロース・アップ。
スー=ニッキー: Billy!
(35)スー=ニッキーは踵を返し、「スミシーの家」のセットに駆け寄る。彼女の背後から、まばゆい照明が彼女と「スミシーの家」を捕らえる。玄関のドアの前でスー=ニッキーは立ち止まり、左手をドアのノブにかけたまま、照明の方を振り返る。「スミシーの家」の玄関ドアの左側の壁には、"1358"という標識と郵便ポストがある。右側の壁には、鉄製の枠でできた外灯と、窓越しの黄色いカーテンが見える。窓の下のあたり地面から、雑草が生えているのが見える。
(36)スー=ニッキーの主観ショット。窓越しのピオトルケのアップ。下から上にパン。
(37)スー=ニッキーのアップ。彼女は自分が目にしたものに慄いている。「スミシーの家」のドアを開け、中に入るスー=ニッキー。

カット(18)からカット(37)にかけて、再び「監視/干渉」のイメージを付随させた「ピオトルケ」の映像が提示される。カット(26)(29)に明瞭であるように、彼は「緑のコート」を着用しており、(2:05:17)からのシークエンスでジャック・ラビットが言及する「緑のコートの男(It was the man in the green coat)」がピオトルケを指していいることを明示している。そして、それを裏付ける形で、「スミシーの家」のベッド・ルームに置かれているクローゼットの中で、老人がピオトルケに手渡した「拳銃=物語展開の要請」が「緑色のコート」とともにスー=ニッキーによって発見されることになる(2:40:54)。

同様にカット(18)からカット(37)の映像によって明らかなように、スー=ニッキーを「スミシーの家」に……つまり、彼女の「内面」に追い込むのは「ピオトルケの視線」である。繰り返し述べたように、これは演技者=ニッキーが登場人物=スーに「感情移入=同一化」を果たすうえで、個人としてのニッキーが抱える「トラブル=機能しない家族」に接した際の「感情」がキーとなっていることの表れとして了解される。こうした「感情」こそが、ニッキーが(あるいはスー=ニッキーが)思い出した「記憶」であることの明示に他ならない。(0:56:20)のシークエンスにおいても、同じく「ピオトルケの視線」がニッキーの「感情移入=同一化」の成立に関与していることが描かれており、このシークエンスにおいて提示されているのは、その「リフレイン」であり「ヴァリエーション」であるといえる。

かつ、ピオトルケは「家」の窓から「監視」の視線を送るが、つまりこれは彼が「家」の内部にいることの表象である。ニッキーの「トラブル=機能しない家族」は、当然ながら彼女の「家」の内部に存在するのだ。しかし、「スー=ニッキー」が生成された時点で、彼女(たち)の「内面」としての「家」は「スミシーの家」によってとって変わられている。もともとニッキー個人の「家」であったものは彼女から切り離され、その「内部」にある「トラブル=機能しない家族」の要因である「ピオトルケ」とともに、”機能しない家族の「個別例」”として「スミシーの家」と「対置」されるものとなる。カット(23)以降の映像において、ピオトルケが「内部」に存在する「家」(のセット)が、「スミシーの家」(のセット)と対面する形で位置していることが見て取れるが、これはそうした”「家」の分化”を指し示す表現として理解可能だ。

見落とせないのは、スー=ニッキーを追いかけるデヴォンもまた、「ピオトルケの視線」に晒されていることだ。(0:56:39)からの「スミシーの家」のベッド・ルームにおける事象と同じく、このシークエンスで発生している事象も、女性/スー/ニッキーと男性/デヴォン/ビリー、そしてピオトルケの三者の間で発生している事象であり、女性/スー/ニッキーと男性/デヴォン/ビリーはともに「ピオトルケの視線」に晒されているのだ。その意味において、カット(18)からカット(37)のシークエンスで提示されている事象は、「スミシーの家」のベッド・ルームにおける事象の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。そして、当然ながら、この二つの事象がそれぞれ指し示すのは、ニッキーのスーに対する”「感情移入=同一化」の形成/深化”に「夫=ピオトルケ(の視線)」が関与しているということに他ならない。

このようにしてみるかぎりにおいて、(1:00:00)から(1:03:43)までのシークエンスが提示/表象するものは、基本的にそれまでのシークエンスが提示/表象したものの「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。そしてその一部は、これ以降のシークエンスにおいても、また違った形で繰り返され、変奏されることになる。「同一テーマ/同一モチーフ」の「リフレイン/ヴァリエーション」の提示はリンチ作品が共通してもつ特徴であり、「インランド・エンパイア」もその例外ではない。こうした「同一テーマ/同一モチーフ」の把握は、この作品を理解するうえで重要なポイントになるはずだ。

2008年8月31日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (111)

なんやかんやで、やっと「ダーク・ナイト」を観たりしたのだけど、コレが9.11以降のアメリカで大当たりする状況ってのは、なんか非常に複雑なものがありますナー。かつ、アチラの映画評をあれこれ探しても、そのあたりに触れているものがどうにも見当たらないというのが、かえって不気味とゆーか、「根の深さ」を表わしているとゆーか。ま、なんかまとめられるようだったら、またの機会に詳しく。

とゆーよーなコトに関係なく続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。(0:56:39)から(1:00:00)までのシークエンスについての第三回目ということで。

概論的なところが終わったところで、では、具体的な映像を追いかけてみよう。ポイントとなるのは、カット(16)以降における女性/ニッキー/スーと男性/デヴォン/ビリーの会話である。念のため、重要と思われるカット(16)からカット(37)までの、台詞部分のみを再掲しておこう。

(16)ニッキー: (ささやき声で) You remember... remember that night...
(17)ニッキー: (画面外で) when I said that thing...about it being a--
(18)ニッキー: (画面外で) Oh, you feel that?
デヴォン: Yeah.
(19)ニッキー: (画面外で) Oh, remember--
(20)ニッキー: (画面外で) remember I told you... about thing,
(21)ニッキー:this thing that happened?
(22)ニッキー: (画面外で。ため息)
(23)ニッキー: It's a story that happened yesterday,
(24)ニッキー: (画面外から) but I know it's tomorrow.
デヴォン: That doesn't make sense.
(25)ニッキー: It was that scene that we did yesterday, when I'm getting groceries for you with your car. And it was in that alley,
(26)ニッキー: (画面外から) and I parked the car. There's always parking there.
(27)ニッキー: So there I am.
デヴォン:
(画面外から) What?
(28)デヴォン: Sue, damn.
ニッキー: (画面外から) It's a scene we did yesterday. You weren't in it. That one when I'm in the alley.
(29)ニッキー: I' going to get groceries for you with your car, and I park there 'cause there's always parking. You know the one.
(30)ニッキー:(画面外から)I see this writing on metal.
(31)ニッキー:And I start remembering something. I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory. I start to remember. And I-- I don't know. I don't know what it is.
(32)ニッキー: (画面外で)[荒い呼吸音]
(33)ニッキー: It's me. Devon, It's me. Nikki.
(34)ニッキー: (画面外で) [荒い息をしている]
デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!
(36)ニッキー:(画面外から)  Oh, Please. Please.
デヴォン:
[笑い声]
ニッキー:
(画面外から) Please. Oh--
(37)ニッキー: (ささやき声で) Look at me.
デヴォン: (画面外で)[笑い声]
ニッキー: Please.

まず明解に指摘できるのは、女性/ニッキー/スーが話しているのが”「Axxon N.」の発現”に関連した事項であるということだ。それは、カット(30)における「鉄の上に書かれた文字を見た(I see this writing on metal)」という言及によって明らかである。あわせて指摘できるのは、彼女がカット(25)からカット(30)にかけて語っている事象が(「鉄の上に書かれた文字」を含め)、このシークエンス直後の(1:00:00)からのシークエンスにおいて、「具体的映像」としてそっくりそのまま提示/反復されていることだ。

「インランド・エンパイア」がしばしば映画作品として「自己言及」を行なっていることについては何度か触れたが、この二つのシークエンスの関連によって表されるものも、そうした「自己言及」のひとつとして受け取ることが可能だだろう。(0:57:39)において語られていることが、(1:00:00)から映像として提示される……つまり、「インランド・エンパイア」の実上映時間(我々=受容者にとっての「実時間」でもある)のうえで、「昨日の話(It's a story that happened yesterday)」であったことが「明日、発生する(but I know it's tomorrow)」のだ。

要するに、(「感情移入=同一化」などの問題と同じく)これもまた「インランド・エンパイア」という映画作品による、自身を具体例とした”「映画」というメディアに関する記述”……「自己言及」に他ならない。基本的に「映画」というメディアが提示する「映像」自体が「過去=昨日」に撮影されたものであること、その「映像」は反復性/再現性をもって「明日」以降も同一性を保ちつつ上映/提示され「受容対象」となること、あるいは実際の「撮影」の順序が映画内の時系列に沿って行なわれるわけではないこと、はたまた「フラッシュ・バック」などの「物語記述」の技法としての時系列操作の問題……等々、「映画」が種々の「時間コントロール」を伴うメディアであり、そうした「時間コントロール」自体が「映像としての表現」の一要素であることが、”「昨日の話」「明日の事件」の関連性”という表現で表象されているのだ。当然ながら、「インランド・エンパイア」あるいは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「登場人物」であり、その「時間コントロール」下にある男性/デヴォン/ビリーには、自らが属する「時間」に関する概念が「理解できない(That doesn't make sense)」(カット(24)(34))。当然ながら、同じ立場である女性/ニッキー/スー自身にも「どういうことだかわからない(I don't know what it is)」(カット(31))ことになる。「インランド・エンパイア」の「時間概念」を理解できるのは、それに対してメタな視点をもてる「我々=受容者」だけなのだ。

また、このカット(31)における女性/ニッキー/スーの言及を子細にみると、それが(0:14:56)における「訪問者1」の言及と対応したものであることが確認される。

訪問者1: An old tale. And the variation....a little girl went out to play.
訪問者1: Lost in the marketplace as if half-born.
訪問者1: Then ... not through the marketplace --  you see that, don't you --  but through the alley behind the marketplace.
訪問者1: This is the way to palace. But it isn't something you remember.
訪問者1: Forgetfulness. It happens to us all. And...me? Why, I'm the worst one.
訪問者1: Oh. Where was I?

訪問者1: I can't seem to remember if it's today, two days from now, or yesterday. Hmm. I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight.
訪問者1: For instance, if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.

これらの「訪問者1」による言及が、上述したような「映画」というメディアが内包する「時間」(あるいは「空間」)の諸要素に関連していることは、すでに当該シークエンスについて述べる際に指摘したとおりだ。これらは「映画製作」における「時間/空間コントロール」の概念につながり、また一方でそれを受容する者はそうした「時間/空間コントロール」の制御下におかれ、結果として「実時間/実空間に対する見当識の失当」を引き起こすことになるわけである。

だが、「yesterday」「tomorrow」とあわせ、女性/ニッキー/スーによる言及と「訪問者1」の言及を関連付けるもうひとつの「キー・ワード」……「remember」が示唆するものをみたとき、「訪問者1」の言及がそれ以外の概念をも含み、非常に複合的な意味合いを内包していることが逆照射されることになる。それを端的に表わしているのが、カット(31)における女性/ニッキー/スーの言及だ。みてのとおり、ここで記述されているのは、「映画」における「時間/空間のコントロール」や「時間/空間に対する見当識の失当」に関してではない。そこで語られているのは、「何かを思い出す(And I start remembering something)」という肯定的な文脈上における、「記憶(memory)」についてなのだ。

これもまた、前回述べた「演技者=ニッキーの『内面』における登場人物=スーのアイデンティティの形成」に、過去、彼女が「夫=ピオトルケ」との「トラブル」に際して抱いた「感情」が関与していることを示唆している。この「演技」と「記憶」に関する問題は、「ロコモーション・ガール」によって表される「情緒の記憶」という表現につながっていく。そう考えるとき、「訪問者1」による「それはあなたが思い出せないでいるものだ(But it isn't something you remember)」という言及が何を指し示しているのかが、おぼろげに見えてくる。彼女の言及によれば、それは「宮殿に至る道」であり、そこへは「市場の裏側の路地」を通ることによって到達できる。そして、女性/ニッキー/スーが”「Axxon N.」の発現”を目撃し「何かを思い出した」のは、「市場(いちば)で食料品を買った後の路地」であるのだ。「市場ーいちばーしじょう」という複合的なイメージの連鎖に基づき、「『映画』というメディアが内包する商品/工業製品としての性格が、作品に対してもたらす制限からの脱却」という概念と、「登場人物を演じるうえで演技者が援用する自身の『情緒の記憶』」という概念の両方が、少しずつずれながら「訪問者1」の言及に内包され、ともに「宮殿に至る道」として語られているのである。

もうひとつ、キー・ワードとして表出しているのが、女性/ニッキー/スーが男性/デヴォン/ビリーに対して何度も繰り返す「私を見て(Look at me)」である。このキー・ワードはこの後、「スミシーの家」の小部屋でロコモーション・ガールの一人によって(1:09:20)、あるいは「スミシーの家」の裏庭におけるホーム・パーティの席上でスー=ニッキーによって(1:37:21)、あるいは、ポーランドの夜の「ストリート」においてロスト・ガールによって(2:11:22)、それぞれ「リフレイン」され「変奏」される。より正確に述べるなら、これら三つの「リフレイン」においては、必ず「あなたは私(たち)を以前から知っているか?(...and tell me if you've know me/us before)」という問いかけが伴われている。つまり、これらの諸例をみるかぎりにおいて、「Look at me」というキー・ワードは「自己のアイデンティティの確認」のために発せられているのだ。こうした文脈上に捉えるなら、当然ながらこのシークエンスにおける女性/ニッキー/スーの「Look at me」も、彼女の「自己確認」の試みとして捉えられることになる。ただし、この「自己確認の試み」の命題が、「自分がニッキーであるのかスーであるのか」などという「対立概念」の範囲に収まらない。それは上述した「ロコモーション・ガール→スー=ニッキー→ロスト・ガール」という「Look at me」のリレーに表されている。彼女たちはそれぞれ自分たちの「自己確認」を試みるが、それは「自分(たち)がどういう存在であるのか」という実存的かつ根源的な問いかけの反映に他ならない。

ここで見落としてはならないのが、まずカット(13)において、男性/デヴォン/ビリーが……

デヴォン: Shh... (ささやき声で) Look at me.

……という具合にこのキー・ワードを発していることだろう。「インランド・エンパイア」は基本的に女性を中心にした視点で描かれているが、それはイコール”男性が「機能しない家族」の問題を抱えておらず、「自己確認」も必要としていない”ことを表わしているわけではない。それは作品構成上「省略」を受けているだけであり、男性もまた同じ問題を抱えていることは、「インランド・エンパイア」の随所で断片的に示唆されている。この男性/デヴォン/ビリーによる「Look at me」も、そうした断片的な示唆のひとつなのである。

いずれにせよ興味深いのは、こうした「自己確認」の問いかけが、「Look at me」という”自らを「観られるもの」と規定する発言”によってなされることだ。この後「インランド・エンパイア」が三度にわたる”「Axxon N.」の発現”をとおして、「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「受容者=ロスト・ガール」の三者間における”「観るもの」と「観られるもの」の関係性の発生から消滅まで”を描き、”「映画」における「視線の問題」”に関するいろいろな事象を提示することを考えると、これは非常に示唆的だといえるだろう。

しかし、だ。”「映画」における「視線の問題」”そのものが”優秀な「感情移入装置」としての「映画」”を指し示すのであれば、このシークエンスにおいて「ピオトルケの視線」が「主観ショット」で提示されていること自体が……すなわち、彼の「視線」を我々=受容者が「共有」し、”「スミシーの家」のベッド・ルーム”=”ニッキーの「内面」の奥深いところ”への侵入を「共有」していること自体が、これまた非常に「示唆的な表現」ではないだろうか。なぜなら、あるいは、これも「インランド・エンパイア」による、自身を具体例とした「『映画』における視線の問題」の提示であり、「自己言及」であり得るのだから。もし、この見方が正しいのなら、これもまたリンチによる「周到な仕掛け」のひとつであるわけだ。

(この項、おしまい)

2008年8月28日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (110)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。引き続き前回と同じ(0:56:39)から(1:00:00)までのシークエンスについて、ひとくさり、ふたくさり、あ、もひとつついでに、みくさり。

さて、このシークエンスが「インランド・エンパイア」の作品構造上、どのように機能しているかについては前回で説明したとおり。それはそれとして、さて、では、このシークエンスの映像群はいったい何を表象しているのだろう?

この後、徐々に明らかになっていくように、「インランド・エンパイア」において「スミシーの家」の内部で発生している事象は、基本的に「家族間のトラブル」に関するものである。その具体的な一例が「ピオトルケにとってあり得ないスーの妊娠」(1:29:26)であり、その結果としての「ピオトルケによるスーへの暴力」(2:16:32)だ。この「家族間のトラブル=機能しない家族」というテーマは、その最初期からリンチ作品に繰り返し登場するものである。たとえば「イレイザー・ヘッド」における「奇形の幼児殺し」や「ツイン・ピークス」における「リーランドによるローラ殺害」にはじまり、リンチ作品のなかでももっとも具象的な作品であるといえる「ストレイト・ストーリー」においてさえ、「兄と弟の長年の確執」という形で「機能しない家族」は描かれている。その根底には、これまたリンチが映画作品のみならず絵画作品においても一貫して採りあげ続けてきた「家=何かよくないことが起きる可能性がある場所」というモチーフが存在しており、「スミシーの家」はその典型例なのだ。

「家」が「何かよくないことが起きる可能性がある場所」であり得るのは、そこが「外界から遮断され、外からはその内部で何が発生しているかわからない場所」だからであり、リンチ作品において、それは「『人間の内面』の象徴」としての「家」という発想/表現につながっていく。たとえば「ロスト・ハイウェイ」における「砂漠の小屋」がフレッドの「内面の奥深い場所」として成立し、そこに住むミステリー・マンがフレッドの「隠匿された意識」の「代弁者/代行者」であり得るのはこうした発想に基づくものだ。そして、「スミシーの家」もまた、そうした発想/表現の延長線上にあるものとして、登場人物=スーの(あるいは彼女に「感情移入=同一化」する演技者=ニッキーの)「内面」の表象として捉えられ、その「内部」で発生している事象は、ニッキーの(あるいはスーの)「内面」で発生している「思考」や「感情」の表われであると理解される。その端的な例が、たとえば、(1:06:06)からの「スー=ニッキーによるベッド・ルームのピオトルケ目撃」から「『情緒の記憶=ロコモーション・ガールたち』との邂逅」へと続くシークエンスだ。それが提示しているのは、演技者=ニッキーが、登場人物=スーの「トラブル」が「夫との関係」に起因していることを理解したうえで、自らの「夫との関係」において体験した「感情=情緒の記憶」たぐる過程において、演技者=ニッキーの「内面」で発生している事象の映像化に他ならない。リンチが採用する諸表現がきわめて「表現主義的」なものと捉えられるのは、それらがこうした「人間の内面の映像化」であるからである。

前置きが長くなったが、このシークエンスにおける「スミシーの家」のベッド・ルームで発生している事象も、上述したようなリンチ固有のテーマやモチーフの表われとして理解されるものである。まず、「スミシーの家」の内部で発生している他の事象と同じく、このシークエンスで発生している事象も「トラブル=機能しない家族」の個別例のひとつである。と同時に、それはニッキーの「内面」で発生している事象であり、彼女が抱く「意識/感情」の反映なのだ。とういうような観点からみたとき、このシークエンスの映像自体にも、それがニッキーの「内面」で発生している事象であることの具体的な証左が散りばめられていることに気づくことになる。

たとえば、シークエンス全体をとおして認められる「青」のモチーフだ。総論部分で述べたように、「青」のモチーフは「心理展開の要請」を表すものとして、「物語展開の要請」を表す「赤」のモチーフに対置されるものである。このシークエンスはその「青」のモチーフが初めて表出する場面であり、そこで発生している事象が「心理/内面」に関連していることを指し示している。だが、より端的にそれを指し示しているのは、カット(34)およびカット(35)における男性/デヴォン/ビリーと女性/ニッキー/スーのやり取りだ。

(34)デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!

これをみる限り、男性は相手に「スー」と呼びかけている。それに対し、女性は自分がニッキーであると主張し、相手の男性に「デヴォン」と呼びかけている。(0:54:07)からのシークエンスなどのように、「インランド・エンパイア」は何度か「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影風景」の映像を提示してきたが、そこにみられたのは「演技者の混乱」……すなわち「ニッキーによる、自身とスーとのアイデンティティの混同」として理解されるものだった。だが、このシークエンスで発生している事象は、それとは真逆の現象である。すなわち、ここで描かれているのは、いわば「登場人物の混乱」……つまり、「スーによる、自身とニッキーのアイデンティティの混同」なのだ。

しかし、リンチ作品において、これが”「(作品内)非現実」の「(作品内)現実」化”……要するに、「架空世界の登場人物が、現実に現れる」というような「常套表現=クリシェ」を指し示していないことは明瞭である。それはあまりに「ナラティヴな理解」に過ぎるし、なによりも、その後「インランド・エンパイア」が提示する映像が伝えるものに合致しない。では、なぜ、ここで「アイデンティティの構造」が裏返されるのか? それが指し示すものは二点ある。一点目は、このシークエンスが「ニッキーの内面」であり、それまで描かれていた客観描写から主観描写へと転移したことだ。「外界」から「内面」へと「視点」が裏返ったとき、そこで発生している事象もまたそれにあわせて裏返るのである。二点目は、演技者=ニッキーの「内面」において、登場人物=スーのアイデンティティが形成された(あるいは、形成される過程にある)という事実だ。

ニッキーの「内面」において、スーのアイデンティティが形成されたこと……つまり「登場人物=スー」が生まれたこと、そしてそれが「演技者=ニッキー」のアイデンティティを混在させた”「スー=ニッキー」と呼ぶべきもの”の成立につながっていくことに関しては、この後に発生する”一回目の「Axxon N.」の発現”のシークエンスにおいて明瞭に示唆される。「ステージ4」の内部において、「視線の交換」を行った後の「演技者=ニッキー」が消滅するシークエンスがそれである(1:02:31)。そして、この「ニッキーの消滅」が「ステージ4」で行われた「リハーサル」のシークエンス(0:27:00)で発生していることは、この「登場人物=スーの成立」がどのように起きたかを誤解のしようもないほど明確に説明している。「登場人物=スー」は、演技者=ニッキーがリハーサル時にみせた、優れた「演技能力」によって成立しているのだ。

もちろん、ニッキーの「演技能力」の高さは、「リハーサル」のシークエンスで彼女が流す「涙」によって表わされているように、その「感情移入=同一化」の能力によるものである。これらの事項すべてから読み取れるのは、ここで発生している事象は、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」そのものであるということだ。言葉を変えれば、演技者がどう登場人物の役になりきるか、それは演技者の「内面」においてどのような過程を経て成立するか……そうした事柄が「凝縮」され、「複合的」な形で伝えられているわけである。

ここでいう「複合的」とは、このベッド・ルーム内で発生している事象が、複数の文脈上に同時に置くことができるという意味だ。上述した「登場人物=スーのアイデンティティの形成」は、一連の「『ON HIGH』の撮影風景」を表わすシークエンスの文脈上にある。と同時に、以前にも述べたように、このベッド・ルームのシークエンスは、「窃視」のモチーフを内包した一連のシークエンス……(0:18:14)からの「二階からニッキーたちを見下ろすピオトルケ」のシークエンス、あるいは(0:42:13)からの「ピオトルケによるデヴォンへの恐喝を覗き見るニッキー」のシークエンスの文脈上にもあるのだ。この「窃視」のモチーフが、”ニッキーの「夫」としてのピオトルケ”が付随させている「監視/干渉」のイメージの表われであることについてはすでに何度か触れたが、このシークエンスにおいてもこの”「窃視」=「監視/干渉」のイメージ”は、「ベッド・ルームに侵入するピオトルケの主観視点」という形で明瞭に認められるのである。

このシークエンスが「ニッキーの『内面』」における事象を表わしており、彼女の「心象風景」であることを前提にするなら、この「ピオトルケの視線の侵入」という表現そのものが特に興味深いものになる。なぜなら、この”ピオトルケによる「監視/干渉」のイメージ”はニッキーの「内面」において発生しているものであり、そうしたイメージの発生自体が”彼女がピオトルケにによる「監視/干渉」を受けていると感じていること”と同義だからだ。彼女の抱く「夫=ピオトルケに対する『感情』」が「登場人物=スーのアイデンティティの成立」に関与していることが、このシークエンスに”「ピオトルケによる視線の侵入」が現れること”によって表象されているのである。

同時に、「夫=ピオトルケ」に対してこのような「感情」が表われていること自体が、演技者=ニッキーにとっての”「トラブル=機能しない家族」の発生”を物語っていることはいうまでもない。総論で述べたように、これもまた「トラブル=機能しない家族」の「個別例」のひとつであり、他の「個別例」とあわさって”「機能しない家族」の抽象概念”を構成する一要素なのである。前述したように、登場人物=スーもまた、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」のなかで彼女の「トラブル=機能しない家族」を抱えている。”演技者=ニッキーの「内面」における登場人物=スーの成立”にあたって、ニッキーの「感情移入=同一化」の能力が機能していることについては先に述べたとおりだが、その「感情移入=同一化」は、ともに「トラブル=機能しない家族」を抱えているという「共感」に裏付けられて発生しているのだ。これ以降の「スミシーの家」のシークエンスにおいて、ニッキーの「夫」であった「ピオトルケ」がスーにとっても「夫」であり得るのは、まさに「登場人物=スーのアイデンティティ」がこのような経緯を経て形成されたからに他ならない。

このようにみる限りにおいて、このシークエンスが最終的に提示しているのは、演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じるうえにおいて、どのようにスーに対して「感情移入=同一化」したかである。このモチーフについては、後に表われる「スミシーの家」のシークエンスにおいて、”演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を表わす「ロコモーション・ガールたち」との邂逅”という表現によって、形を変えて再提示されることになるだろう。

あるいは、このシークエンスにおける諸表現から読み取れるのは、「インランド・エンパイア」が内包する「機能しない家族」というテーマと「映画における『感情移入=同一化』」というテーマの、最初の接触である。いままで別々の事象として描かれていた二つのテーマが、このシークエンスにおいて接合される。そして、これが”「映画」による「感情移入=同一化」を通じての「自己確認」”という「インランド・エンパイア」の最終的なテーマに発展していくのだ。

(この項、まだ続く)

2008年8月25日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (109)

なーんかこのまま秋になっちゃうんですかねー。地球温暖化はどーなったんでしょーか。大山崎が暑い暑いと連呼していたら、地球温暖化は免れるのかもしれません。それでどーなるかは、責任もたないけど(笑)。

それはそれとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:56:20)から(1:00:00)まで。

大きく作品構成的観点からみるなら、このシークエンスは(0:36:24)から提示され続けてきた「映画を作ることの映画」に関する事象にひとつの区切りがつけられるポイントである。一連の「撮影現場」のシークエンスを通じて提示されてきた演技者=ニッキーの「混乱」はエスカレートし、このシークエンスにおいてひとつの「集約点」を迎える。だが、ここまで描かれてきた「撮影現場」のシークエンスが、ニッキーを「第三者の視点」で外側から捉えたものであったのに対し、これ以降の「インランド・エンパイア」は”一回目の「Axxon N.」の発現”とそれをキーにする”「スミシーの家」の実体化”を経て、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「混淆物」であるスー=ニッキーの「内面」描写を重ねていくことになる。このシークエンスが果たしているのは、こうした「外面」から「内面」へという作品構成上の「転回」に対する「ブリッジ」として機能である。

このシークエンスの映像的特徴としてまず目につくのは、「インランド・エンパイア」がくり返し「リフレイン」する数々のモチーフが集中的に現れていることだ。たとえば、「心理的展開の要請」を指し示す「青のモチーフ」は、「スミシーの家」のベッド・ルームを舞台にしたシークエンス全体を通して基調色として用いられている。あるいは、「侵入する視点」というリンチ固有のモチーフは、「ピオトルケの主観視点」という形で明瞭に確認されるのだ。そうした映像的特徴からみてもこのシークエンスは特異であり、全体構成のなかで非常に重要なポイントのひとつであることが理解される。では、上述したような作品構成上の「転回点」に対するブリッジとしての機能以外に、このシークエンスのどこがどのように重要な役割を果たしているのか?

結論からいうと、「インランド・エンパイア」がこの時点まで平行して提示してきた二つのテーマが、始めて関連付けられ接合されるのがこのシークエンスなのである。二つのテーマとは、もちろん、「映画というメディア」と「機能しない家族」のことだ。

それについて詳述する前に、まずはこのシークエンスが提示する具体的な映像を追いかけてみよう。

どこか
(1)ニッキーのアップ。ニッキーの斜め左からのショット。暗闇の中でニッキーがゆっくりと上方を見上げる(スロー・モーション)
[ノイズ]
(2)ツー・ショット。ニッキーの右斜め後ろからのショット。ニッキーとデヴォンが暗闇の中でキスを交わす(スロー・モーション)
[高まるノイズ]
(3)ツー・ショット。デヴォンの左斜めやや後ろからのショット。暗闇の中でキスを交わしているニッキーとデヴォン(スロー・モーション)
(ディゾルヴ)

「スミシーの家」のベッド・ルーム 内部
(ディゾルヴ)
(4)ミドル・ショット。スミシーの家のベッド・ルームの内部。青い光であふれている。ベッドに向かってクロース・アップ。ベッドの上の上掛けが盛り上がり、誰かがその下にいるのがわかる。なおも盛り上がった上掛けに向かってクロース・アップ。
(5)ツー・ショット。ニッキーとデヴォンのアップ。喘いでいるニッキー。
ニッキー: You feel that?
デヴォン: Yeah.
ニッキー: Oh...
(6)デヴォンのアップ。
デヴォン: You move like that again and I'll come.
ニッキー: (画面外から) Okay.
(7)ニッキーのアップ。ベッドに横たわっている。うごめいているデヴォンの影が画面右端に見える。
ニッキー: Wait. Stop. Stop, baby.
(8)デヴォンのアップ。
ニッキー: (画面外から) Oh, God. Oh, yeah.
(9)ニッキーとデヴォンのツー・ショット。喘いでいるニッキー。
ニッキー: Just do it one more-- Oh, yeah.
ニッキー: Oh, God.
デヴォン: Yeah.
ニッキー: Oh, God damn.
(10)デヴォンのアップ。たまらないように首を上下に振るデヴォン。
デヴォン: (笑って) Yeah.
ニッキー: (画面外から) Yeah, Yeah.
(11)ニッキーのアップ。
ニッキー: Okay. Our first time. Fucking this good.
(12)デヴォンのアップ。
デヴォン:  You're talking through the whole thing.
(13)ニッキーのアップ。
ニッキー: Oh, Please.
デヴォン: (画面外から)You talk too fucking much.
ニッキー: Uhh!
デヴォン: (笑う)
デヴォン: (画面外から) Are you gonna talk through this whole thing?
ニッキー: Oh, God. Stop.
デヴォン: Shh... (ささやき声で) Look at me.
(14)デヴォンのアップ。ニッキーはあえいでいる。
(15)ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームの入り口への廊下から見た、ベッド・ルームの内部。視点は、ゆっくりと部屋の中に入っていく。向かいの壁際に置かれたクローゼットと、その上に置かれた四角い電気スタンドのシルエットが見える。左手の壁の陰に隠れて、まだベッドは見えない。
ニッキー: (画面外で) Ohh... Ohh...
(16)ミドル・ショット。ピオトルケがゆっくりとベッド・ルームの入り口に姿を現す。
ニッキー: (画面外で) Mmhh...
入り口からベッドの方向を見ているピオトルケ。
ニッキー: (ささやき声で) You remember... remember that night...
(17)ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームの中に入っていく視点。徐々にベッドが視界に入ってくる。
ニッキー: (画面外で) when I said that thing...about it being a--
(18)ベッド・ルームの入り口のところに立つピオトルケ。彼はベッドのほうを見詰めている。
ニッキー: (画面外で) Oh, you feel that?
デヴォン: Yeah.
[荒い呼吸音]
(19)
ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームの内部。ニッキーとデヴォンいるベッドが観える。
ニッキー: (画面外で) Oh, remember--
(20)ピオトルケのアップ。ベッド・ルームの入り口に立って、ベッドのほうを見詰めている。
ニッキー: (画面外で) remember I told you... about thing,
(21)ニッキーのアップ。
ニッキー:this thing that happened?
(22)デヴォンのアップ。黙ってニッキーの言うことに耳を傾けている。
ニッキー: (画面外で。ため息)
(23)ニッキーのアップ。
ニッキー: It's a story that happened yesterday,
(24)デヴォンのアップ。
ニッキー: (画面外から) but I know it's tomorrow.
デヴォン: That doesn't make sense.
(25)ニッキーのアップ。
ニッキー: It was that scene that we did yesterday, when I'm getting groceries for you with your car. And it was in that alley,
(26)デヴォンのアップ。デヴォンは狐につままれたような顔をしている。
ニッキー: (画面外から) and I parked the car. There's always parking there.
(27)ニッキーのアップ。
ニッキー: So there I am.
デヴォン: (画面外から) What?
(28)ニッキーのアップ。困惑した表情である。
デヴォン: Sue, damn.
ニッキー: (画面外から) It's a scene we did yesterday. You weren't in it. That one when I'm in the alley.
(29)ニッキーのアップ。
ニッキー: I' going to get groceries for you with your car, and I park there 'cause there's always parking. You know the one.
(30)デヴォンのアップ。
ニッキー:(画面外から)I see this writing on metal.
(31)ニッキーのアップ。
ニッキー:And I start remembering something. I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory. I start to remember. And I-- I don't know. I don't know what it is.
(32)デヴォンのアップ。上目遣いにデヴォンはニッキーをまじまじと見る。
ニッキー: (画面外で)[荒い呼吸音]
(33)ニッキーのアップ。
ニッキー: It's me. Devon, It's me. Nikki.
(34)デヴォンのアップ。無言でニッキーを見詰めるデヴォン。
ニッキー: (画面外で) [荒い息をしている]
デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキーのアップ。
ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!
(36)デヴォンのアップ。
デヴォンが顔をゆがめて笑う。
ニッキー: (画面外から)  Oh, Please. Please.
デヴォン: [笑い声]
ニッキー: (画面外から) Please. Oh--
(37)ニッキーのアップ。
ニッキー: (ささやき声で) Look at me.
デヴォン: (画面外で)[笑い声]
ニッキー: Please.
(フェイド・アウト)
(フェイド・イン)
(38)ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームに続く廊下。青い光と影が廊下にたゆたっている。廊下を後退していく視点。
(フェイド・アウト)

(0:56:20)から(0:56:39)までのシークエンスは、どこを舞台にしているのかを含めて、非常に不明瞭なショットの積み重ねで構成されている。その背景はほとんど「暗闇」であり、場所の特定自体が不能だ。場所の不明瞭性を受けて、そこで提示されている映像そのものも非常に不明瞭である。果たして、このキス・シーンは「ニッキーとデヴォンの不倫」を指し示しているのか? それとも、彼女/彼が演じる「スーとビリー」による「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影風景なのか? それを判別する材料も一切ない。次第に高まるノイズとスロー・モーションによる映像が、何かがエスカレーションしていることを表わしているだけだ。この「不明瞭さ」をごく素直に受けとるなら、このシークエンス自体が、直後に提示される”「スミシーの家」のベッド・ルーム”のシークエンスへの「ブリッジ」として機能しているを指し示していることになるだろう。後述するように、このシークエンスで提示されている映像そのものが、ベッド・ルームのシークエンスで提示される映像と関連付けられている。”「Axxon N.」の発現”および”「スミシーの家」の実体化”という「転回点」に向けての「移行」は、このシークエンスからベッド・ルームを舞台にしたシークエンスを含めて、段階的に行われているわけだ。

(0:56:39)からの「スミシーの家」のベッド・ルームのシークエンスへは、ディゾルヴによるカッティングによってつなげられるが、直前のシークエンスでの「不明瞭さ」は、このシークエンスにおいても引き継がれている。舞台となっている「場所」が具体的にどこであるのか、実はこの時点で我々=受容者には判断する材料がない。そこが”「スミシーの家」のベッド・ルーム”であることは、「スミシーの家」が実体化した後、(1:06:06)からの映像によって明示されるまで了解されないのだ。直前のシークエンスと同様、この「場所」の「不明瞭性」はそこで発生している「事象」自体の「不明瞭性」にそのまま直結し、そこで発生する疑問もまた同じである。すなわち、この映像が提示しているのは、「ニッキーとデヴォンの不倫現場」なのか? それとも二人が演じる「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影現場」なのか?

だが、実体化した後の「スミシーの家」の内部で発生する事象の数々を目撃した我々は、少なくともこのシークエンスに関する限り、そうした「具象的な問いかけ」が無意味であったことを知らされる。そして、それを知る過程をつうじて、この「スミシーの家」こそがリンチが繰り返し提示する「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』」というモチーフのヴァリエーションであり、同時にその「内部」が演技者=ニッキー(および登場人物=スー)の「内面」を表象していることを了解するのである。

こうした了解に基づけば、このシークエンスが保持する「不明瞭性」とは、実はその「抽象性」の表われに他ならないことが理解されるだろう。これまで、「インランド・エンパイア」は「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影風景」という形で、「(作品内)現実」と「(作品内)非現実」という概念の「対立(あるいは混同)」を何度か描いてきた。しかし、このシークエンスで発生している事象に対して、そうした「対立概念」はまったく適用できない。明らかに「撮影風景」を表わす一連のシークエンスで描かれていた「ニッキーとデヴォン(あるいはスーとビリー)関連」の事象を継続して描きながら、このシークエンスは突然、その「表現方法」を「具象性」(あるいは「半具象性」)から深い「抽象性」へとずらすのである。このシークエンスが「ブリッジ」として機能している理由は、このように、「インランド・エンパイア」がこれまで提示してきたものの内容と、これから提示するであろうものの形式をともに内包している点にあるのだ。

(この項、続く)

2008年8月21日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (108)

うええええ、お盆休みが終わったら終わったで、ドタバタ忙しいんでやんの。ワケのわからんことになっていた各方面のトラブルをシュートしつつ、修羅場を縫って進む(笑)「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話であるが、気がついたら「X回目」の「108回目」である。うむ、「煩悩」でやんスな(笑)。

もう採り上げるべきシークエンスも残り少なくなってきた感じだが、今回は(0:55:24)から(0:56:20)まで。デヴォンとプロデューサーが「4-7」の製作が中断された理由と、それが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影に影響を与えているかどうかを語るシークエンスである。まずは、具体的な映像から。

スタジオのオフィス 内部
(1)デヴォンのアップ。
プロデューサー: (画面外から) And we just don't know the actual real reasons 
(2)プロデューサーのアップ。
プロデューサー: why this film wasn't finished. Now, you know some stories. 
(3)デヴォンのアップ。憮然とした表情である。
プロデューサー: (画面外から) But stories are stories. Hollywood's full of them.
(4)プロデューサーのアップ。
プロデューサー: Thank god. In this case, the same thing-- stories which grew out of imagination. And we're surrounded by these screwball stories every day. And they shouldn't be taken as truth or given credence... and jeopardize Nikki's performance.
どうだと問いたげにデヴォンを見つめるプロデューサー。
(5)デヴォンのアップ。まだ納得できない様子である。
デヴォン: Unless the stories are true.
(6)プロデューサーのアップ。デヴォンの台詞に被せるように。
プロデューサー: Devon.
言葉を切り、デヴォンを見つめるプロデューサー。
(7)デヴォンのアップ。黙ったまま、不満気にプロデューサーを横目で睨んでいる。
(8)プロデューサーのアップ。しばらく黙ったままデヴォンを見つめる。
プロデューサー: There is absolutely no proof that anything bad happened around this film.

 

二人の遣り取りには、「ストーリー(story)」という言葉が繰り返し登場する。これがこのシークエンスにおけるキー・ワードであるのは間違いないだろう。

もっとも「具象的」に受けとるなら、いうまでもなく、ここで言及されている「ストーリー」とは、キングズレイがデヴォンとニッキーに話した、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の原型とされる「4-7」という映画作品に関する「噂話/裏話」である(0:30:28)。つまり、過去において「4-7」という映画が撮影途中に製作を打ち切られたこと、打ち切られた理由が主演の俳優二人が殺されたことであり、その映画は呪われていること……という「ストーリー」である。この「噂話/裏話」は、カット(3)のプロデューサーによる「ハリウッドはそうした『ストーリー』で満ちあふれている」という言及によって、「サイド・ストーリー」あるいは「ゴシップ・ストーリー」全般のことにつながっていく。ネガティヴな「ストーリー」もあればポジティヴな「ストーリー」もあり、なかには「伝説化」していく「ストーリー」もあるかもしれない。マリリン・レーヴェンスが「商品」にした「ニッキーとデヴォンの不倫」という「ストーリー」も、そのなかのひとつであるわけだ。

しかし、「ストーリー(story)」という概念が内包するものを考えるなら、このプロデューサーによる一連の言及自体も「複合的」なものとして理解されることになる。「ストーリー」は「噂話」であるし「記事(news report)」であるし、「嘘(lie)」のことであるだろう。だが、同時にそれは「物語(tale)」であるし、「小説や映画の筋」のことでもあるのだ。ハリウッドには「噂話/裏話」だけでなく、「映画作品」という形の「ストーリー」もまた満ちあふれている。すでにフィルムとして(あるいは「商品」として)完成された「ストーリー」が存在すれば、まだそこまで至っていない「スクリプト」あるいは「企画」段階の未完成な「ストーリー」も存在する。あるいは「4-7」のように、あるいは「クィーン・ケリー」のように、完成に至るまでの間になんらかの理由で製作が「中断」される「ストーリー」もごく稀に存在するのだ。それら全体をも含めて、それこそ「よくある話(we're surrounded by these screwball stories every day)」なのである。もちろん、「インランド・エンパイア」自体が、そうした「ストーリー=映画作品」の一本なのである。

逆に最大限「抽象的」に捉えるなら、「ストーリー」という概念がもつ根本的なもの、つまり「事件や出来事を記述したもの(an account describing incidents or events)」という概念に帰着することになる。かつ、この”「事件」や「出来事」の発生”という事象自体が、”我々が「外界」を認識すること”と関係しているのは指摘するまでもないだろう。そもそも、我々が「認識」しない(できない)「事件」や「出来事」は、はたして我々にとって「発生」したことになるのだろうか? このような関連性の上に捉えるならば、このシークエンスにおいて「ストーリー」というキー・ワードによって言及されているのは、やはり”我々が「外界」を認識すること”全般についてだ。何度か述べたように、我々の「外界認識」には、必ず「物語化すること=ストーリー(ナラティヴ)を作ること」が伴う。その「外界認識=物語」が正しいかどうかを……すなわち「出来事」と「出来事」の間に認められた「因果律」が本当に存在するかどうかを我々は経験則に従って判断するしかなく、そこには決定的な「正確性」あるいは「客観性」など存在しない。むしろ往々にして我々が「主観」と「感情」に歪められた「物語」をすら作り上げてしまうことを鑑みるならば、カット(4)のプロデューサーの言及どおり、まさしく”「ストーリー=外界認識」は「真実(truth)」からではなく「想像(imagination)」から生まれ育つ”のである。いわばハリウッドだけでなく、我々が存在する「世界」そのものが「ストーリー」に満ちあふれているのだ。

「インランド・エンパイア」は、「感情移入」や「視線の問題」といった映画というメディア全般に関する言及を行うが、それはそのまま「インランド・エンパイア」という映画作品自身に関する「自己言及」であると同時に、我々=受容者の問題に収斂していくことについては、何度か述べたとおりだ。このシークエンスにおける「ストーリー」というキー・ワードによって表わされるものも、やはり「インランド・エンパイア」自身に関する「自己言及」であると同時に、受容者である我々の問題に帰着していく。そうした視点でみたとき、非常に興味深いのは、プロデューサーが発する最後の「台詞」である。「この作品に関して、何かよくないことが起きているという決定的な証拠は何もない」と彼は語るが、さて、この「作品(film)」とは、何を指すのか? 単純に受け取るなら、もちろんこれは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のことに他ならない。だが、これが「インランド・エンパイア」に関する「自己言及」であり、かつ「我々=受容者の問題」であるならば、この「作品(film)」が「インランド・エンパイア」自身を指していないと言いきれるだろうか? もしそうであるならば、あるいはこれは、時系列整理や人物整理を行い、「殺人」などの「事件」や「出来事」が散りばめられた「何かよくないことが起きる物語」として「インランド・エンパイア」を「認識」しようとするであろう受容者に対する、痛烈な「牽制球」ではないのか。

(0:36:24)から提示され続けた「演技者=ニッキーの感情移入」や「撮影現場の混乱」を表象する一連のシークエンスは、この直後の”「スミシーの家」のベッド・ルーム”のシークエンスで明瞭な「集約点」としての区切りをみせる。その後の「インランド・エンパイア」が提示する映像群が、ニッキー=スー=ロスト・ガールの「内面描写」の度合を深めていくことを考えるとき、このシークエンスで提示される「ストーリー」というキー・ワードが”「外界認識」の問題”に集約されていくことは、非常に興味深いといえる。なぜなら、そうした「表現主義的な映像群」こそが、ニッキー=スー=ロスト・ガールが「どのように『外界=世界=映画』を認識したか」を表わすものに他ならないからだ。受容者=ロスト・ガールによるこの「外界認識」は……「映画=世界」を体験したことによって発生した「感情移入=同一化」とその結果としての「自己確認」は、最終的に彼女自身の「内的変化」へとつながっていくのである。

2008年8月16日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (107)

オリンピック期間中も関係なくチマチマと続く、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。あいかわらず時事ネタ・フリーなんである(笑)。今回は(0:44:19)から(0:52:19)までを、飛び飛びに。

この後、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する撮影風景がいくつか提示される。そのうち、「演技者=ニッキーの混乱」に関連するシークエンス群については既に述べたので、ここでは触れない。残る撮影風景のほとんどは、演技者ではなくスタッフを中心に描かれているが、そこに発生しているのは「統制のとれた活動」というよりはむしろ「混沌と混乱」である。こうした「スタッフの混乱」を描いたシークエンスを以下に列挙してみよう。この一連のシークエンスでは、日本語字幕では訳出されていない「台詞」が多々あるので、それを補完するために原文も同時に引用しておく。

パート1 (0:44:19)-(0:45:40)
キングズレイ: (メガホン越しに) Yeah. Yes. Look. Bucky Jay, are you there?
キングズレイ: (横に立つスタッフに向かって) Is-- Is he-- Is he up there?
スタッフ: (画面外から) He's there, yes.
キングズレイ: (メガホン越しに) I-- I think we-- we haven't still got the 2K quite in the right place. I-- I think I'd say up two feet. You'd know better than me. But, uh, it's-- it's still...
バッキー・ジェイ: (画面外から) Boss, you want that 2K down?
バッキー・ジェイ: (画面外から) You want it down?
キングズレイ: (メガホン越しに) Yeah. Uh, I'd say about... two feet down, Bucky.
バッキー・ジェイ: (画面外から) How far do you want it to go down?
キングズレイ: (メガホン越しに) Yeah, a bit-- a bit more. Keep--
バッキー・ジェイ: (画面外から、さえぎるように) No. How far?
キングズレイ: (メガホン越しに) Another foot, Bucky. (he looks at assistant)
バッキー・ジェイ: (画面外から) I haven't even-- I haven't even touched it yet!
キングズレイ: (メガホン越しに) Well, then put it two feet from where it is-- No, a foot down from where it is now, Bucky.
バッキー・ジェイ: How much?
キングズレイ: (メガホン越しに) What?
バッキー・ジェイ: (画面外から) Got it, boss!
キングズレイ: (メガホン越しに) Uh, Bucky, I-- Bucky, just lower it two feet, would you? From there. No, Bucky. It's going up. I want it down, Bucky. Two feet lower.
バッキー・ジェイ: (画面外から) First goddamn time I-- I had a cramp! Just minute! I'm getting on it!
ファーストA.D.: He's got issues with his wife.
キングズレイ: (苦笑いして) Yeah. Okay.
キングズレイ: (メガホン越しに) Thank you, Bucky.

パート2 (0:45:40)-(0:45:51)
キングズレイ: (画面外で) Can we have someone else do--
ファーストA.D.:(画面外で) Let me go talk to him.
キングズレイ: Uh, just, uh... relax for a minute. Yeah, Okay.

パート3 (0:45:51)-(0:45:59)
スタッフ : (画面外で) Listen--
ファーストA.D.:  (画面外で) Okay, the medic-- the medic's gonna see him, check it out, see what's going on, 'cause it just--he's not acting right.

パート4 (0:45:59)-(0:46:33)
ファーストA.D.: (画面外で) Yeah, but who's-- If he was on anything, I'd kick him out right off the set.
スタッフ: (画面外で) Phill's on it.
キングズレイ: (画面外で) Okay.
ファーストA.D.: Phil-- Phil's in-- We've got Phil up there now. Bucky Jay's gonna take a little coffee break.
キングズレイ: (画面外で) Okay. Fine.
ファーストA.D.:
Please, guys, let's work on these lighting cues, all right? We need to work together.

パート5 (0:49:43)-(0:50:08)
キングズレイ: Here we are. I was right. Didn't anyone else read the script? The light should fade after Billy's line: "Do you see?" Look.
キングズレイ: (スタッフに向かって) Well?
ファーストA.D.: All right. All right. (インカムに向かって) Uh, we go again, please. Back to one, everybody.
スタッフ: [ノルウェイ語で] (画面外の別のスタッフに向かって) n#vdo+&es. (Ole Johan, I gave you too late cue for that fade out. It was my fault.)
別のスタッフ:(画面外から) [ノルウェイ語で] 9v37$(k&.

パート6 (0:50:08)-(0:50:19)
アル: (画面外で) It was a car.
キングズレイ: (画面外のスタッフに向かって)  No, it was a click, Al. It wasn't a car. It was a click.
ファーストA.D.: (インカムに向かって) Guys on lockups outside. Can we work on that, please? I-- Really, I can't have cars going by.

パート7 (0:50:19)-(0:52:19)
ファーストA.D.: (画面外で) I thought we had, uh, ITC.
キングズレイ: (画面外で) I don't think it was a car. I think it was click.
キングズレイ: (画面外で) It's something in the wire. I don't know what--- will you pick that up?

パート1~4では、「ステージ4」を舞台に「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションが提示される。キングズレイ監督と照明係バッキー・ジェイとの間の、照明用ライトの位置についての遣り取りである。だが、実はこの「成立しない会話」が「機能しない家族」というテーマのヴァリエーションに収束していくことは、以前にも述べたとおりだ。残念なことに、日本語字幕ではアシスタント・ディレクターがキングズレイに耳打ちする「彼は嫁さんとの間に問題を抱えてまして(He's got issues with his wife)」という台詞が訳出されておらず、このシークエンスが内包するものを明確に伝えていない。バッキー・ジェイが抱える「妻との間の問題」は、当然ながら「機能しない家族」の「個別例」のひとつであり、ニッキーやスーやドリスが抱える「機能しない家族」の諸例とあわせて、「機能しない家族」の抽象概念を構成するのである。あわせて、バッキー・ジェイが演技者でもなければ登場人物でもない「スタッフ」であり、かつ彼が「男性」であるにもかかわらず「個別例」として提示されていることは、「機能しない家族」という概念の「一般性/普遍性」を強調するものだといえるだろう。

この後パート2~4において、バッキー・ジェイを医者に診せたり、彼の代役を探したり、ようやっとフィル(Phil)という交代要因が持ち場についたりと、実はバッキー・ジェイの不在が撮影現場に大きな影響を与える様子がいくつか描かれる。また、このバッキー・ジェイがらみのパートの諸映像から思い浮かぶのは、「ロスト・ハイウェイ」のプロデューサーであったディーパック・ナヤールによる、「映画製作」は「金と時間と人間によるパズル」であるという言及だ。ここで提出されている事象は、そうした「人的パズル」の解を求める作業であり、映画製作が集団作業であることの一端を垣間見させるものである。

パート5でも、引き続き「照明」に関するトラブルが発生する。今回はライトの位置ではなく、どのタイミングでライトをフェイドさせるかという、ライティング操作の「キュー」の問題だ。だが、パート4を子細にみると、最後にファーストA.D.によって「キューのタイミング」について注意が促されている。であるならば、やはりパート5で発生しているのも「バッキー・ジェイという熟練スタッフの不在」が引き起こしている「混乱」だといえなくもなく、もしそうであるならばこのパート5もバッキー・ジェイのエピソードの一部なのである。それを裏書するように、このパートにおいても、「異国語を喋るスタッフ」という形で「成立しない会話」のモチーフが断片的に提示される。これをストレートに捉えるなら、やはり「コミニュケーションの断絶」……スタッフ間の「コミニュケーション不全」に起因していると理解されるだろう。だが、よりポイントとなると思われるのは、キングズレイが照明スタッフたちに向かって言う「誰も台本を読んでないのか?(Didn't anyone else read the script?)」という発言だ。「台本」があくまで「言語」によって記述されるものであることを考えるなら、これもまた”「言語」と「映像」の間に横たわる「差異/断絶」”を表わすモチーフのヴァリエーションとして機能していることになる。キングズレイをはじめとするスタッフたちが現在行っているのは、「言語」で記述されている「台本」を「映像(の言語)」に置換していく作業に他ならないのである。

パート6およびパート7においては、撮影時の自動車の音と「キュー」出し用のクリックの混乱による「トラブル」が描かれる。このシークエンスをみるかぎり、現場のトップであるはずのキングズレイ自身ですら「混乱」しているのは明白だ。これらの撮影時の「ドタバタ=トラブル」が実際にリンチが体験したものかどうか、非常に興味深いところだが、いずれにせよ、こうした「混乱」の制御を目的とした「トラブル・シュート」=「介入/コントロール」の必要性が、一連のシークエンスによって強調されていることは間違いない。

そこで働くスタッフたちが、こうした「介入/コントロール」の対象であること……「動物」であることは、パート7でフレディが他のスタッフから「金」を借りているショットによって示唆される。そこでフレディが発する「台詞」が、彼がニッキーとデヴォンに無心をするシークエンス(0:40:01)における「台詞」の「リフレイン」であることからわかるように、このショットにおける「スタッフたち」と「ニッキー/デヴォン」は、どちらも「動物=自律しながらも上位からのコントロールを受けるもの」であるという点で「等価」である。当然ながら、この”「動物」としての「等価性」”は、この項で取り上げたシークエンスに登場するすべての「スタッフたち」に対して適用されるもんだ。なによりも、一連のシークエンスにおいて描かれる、「トラブル」に対してスタッフたちが「介入/コントロール」を行う様子は、フレディによる「犬」に関する言及…………「犬たちが自身の考えに基づいて困難な状況から抜け出す様子(I have seen dogs reason their way out problems, watched them think through the trickiest situations)」(0:39:28)という言及そのままではないだろうか。

2008年8月13日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (106)

まったりと続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回は前回の続き、(0:42:13)から(0:44:18)までのシークエンスについての第二回目であったりする。

さて、では二階に上がったニッキーが、ピオトルケとデヴォンの様子を「覗き見る」シークエンスを、実際の映像に従ってみてみよう。

ニッキーの屋敷の内部 廊下
(1)ミドル・ショット。廊下へ続く開口部。薄暗い廊下の壁には、額縁の入った風景画が掛けられているのが見える。その右手には、部屋の内部が見える。部屋の壁際には縁取りのある鏡と、その前に置かれた机が見える。鏡の左の壁には照明が取り付けられており、点灯している。
ニッキーが廊下の奥から現われ、開口部の左角のところに立ち、左手のほうをうかがう。
(2)ニッキーのアップ。薄暗い廊下から左手の方を窺っているニッキー。不安そうな表情だ。背後の廊下の天井に取り付けられた照明が見える。背後の壁には、左手からの灯りによるニッキーの影がうつされている。
[足音]
(3)ミドル・ショット。左半分が開けられた両開きの扉。扉の手前、左手には二人の少女を抱いて椅子に座る白髪の老人の絵がかかっている。その前に置かれた台の上には、左から白い陶器の踊り子、鉢の上に積まれた果物、白い花が生けられた緑の花瓶が置かれている。画面右手下には、壷が見切れている。扉の向こうには、明るい照明にてらされた白い壁と、閉ざされた木の扉が見える。両開きの扉をくぐって、まずダーク・スーツにネクタイ姿のデヴォンが、それからノーネクタイに白いワイシャツ姿のピオトルケが姿を現わす。
ピオトルケ: I'm listening to you, but... I don't hear you.
そのまま進み、バスト・ショットのツー・ショットまで近づいて、立ち止まる二人。画面左手にデヴォン、画面右手にでピオトルケ。ピオトルケを見るデヴォン。
デヴォン:
I'm not exactly sure what you're getting at.
ピオトルケ: I'm going put my arm around you.
ピオトルケは右腕をデヴォンの肩に回す。
ピオトルケ: I want to holds you close. You don't mind that, do you?
笑みを浮かべるデヴォン。
(4)デヴォンのアップ。笑いを浮かべ、ちらりを下を見てから、再びピオトルケを見る。
デヴォン: What do you mean?
(5)ピオトルケのアップ。真顔である。
ピオトルケ: Well, sometimes people don't say exactly what they mean, (笑みを浮かべて小首を傾げ)and you have been guilty of this all evening.
(6)デヴォンのアップ。次第に笑いが消え、不安そうな表情になる。
デヴォン: Yeah.
(7)ピオトルケのアップ。にんまりと笑いを浮かべている。
ピオトルケ: Now I'll tell you something, and I will mean everything I say.
(8)デヴォンのアップ。ひきつった表情を浮かべている。
(9)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: My wife is not a free agent. I don't allow her that.
(10)デヴォンのアップ。呆然としている。
ピオトルケ: (画面外から)The bonds of marriage are real bonds.
(11)ピオトルケのアップ。
ピオトルケ: (言い聞かせるように)The vows we take, we honor... and enforce them...
(12)デヴォンのアップ。呆然としている。
ピオトルケ: (画面外から) for ourselves... by ourselves, or... if necessary...they're enforced for us.
(13)ピオトルケのアップ。かすかに笑みを浮かべている。
ピオトルケ: Either way, she is... bound. Do you understand this?
(14)デヴォンのアップ。呆然としている。
(15)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: There are consequences to one's actions. And there would, for certain, be consequences to wrong actions. Dark, they would be...
(16)デヴォンのアップ。
ピオトルケ: (画面外から) and inescapable.
(17)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: (言い聞かせるように)Why instigate a need to suffer?
(18)ツー・ショット。
ピオトルケは笑みを浮かべつつ、デヴォンの肩から腕を外す。足音を立てつつ、両開きの扉をくぐって立ち去るピオトルケ。脱力した表情を浮かべて立ち尽すデヴォン。
(19)ニッキーのアップ。不安気な表情を浮かべている。
踵を返し、立ち去るニッキー。
(フェイド・アウト)

まず、ピオトルケによる言及の前半(カット(3)-(8))にみられるのは、「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションである。ピオトルケ自身が発言しているように、ピオトルケはデヴォンの言っていることを「聞こえているが、理解できない(I'm listening to you, but... I don't hear you)」。この状態は、(0:34:00)で提示された「ポーランド語を理解できないニッキー」と同じ状態だ。同時に、この「聞こえるが、理解できない」ピオトルケの状態は、(2:01:35)からのシークエンスでピオトルケが発する「聞こえるが(ロスト・ガールの姿が)見えない」という言及と「対置」されるものであることがわかる。いずれにせよ、これらのシークエンスで描かれているのは「コミニュケーションの不在」であり、その結果としての「一方的な関係」以外のなにものでもない。ピオトルケとデヴォンは、まるで異なった言語を使用しているように、互いの意思疎通が図れていないわけだが、それは何に所以するのか。

それが明確になり始めるのは、カット(9)-(14)にかけてのピオトルケがニッキーとの「夫婦の絆(The bonds of marriage)」を語るシークエンスである。彼の言うことは、真っ当過ぎるほど真っ当で、健全だ。だが、「インランド・エンパイア」をあくまで「映画についての映画」としてみたとき非常に興味深いのは、彼が主張する「婚姻に関する価値観」が、黄金期の「ハリウッド映画」が提示し続けた「価値観」そのままだということである。だが、もちろんそれはハリウッドがそうした「価値観」を信じていたからではない。それ以前からときとして「映画」というメディアが抱えている扇情性は政界や宗教界から度々糾弾を受けていたが、20年代以降のハリウッドで顕在化した度重なるスキャンダルのおかげで、その糾弾は世論までを巻き込んで一層激しくなった。それが「映画」の商品価値の下落につながることを恐れたハリウッドは、対応策として「映画製作倫理規定(プロダクション・コード)」いわゆる「ヘイズ・コード」を設けることになるわけだが、その規定の第二項である「性」の項目には、以下のような条文が謳われていた。

「結婚の制度ならびに家庭の神聖さを称揚しなければならない。低級な形での性的関係を受容されたものであるとか、あるいは普通のことであるように示唆してはならない」*

あるいは、この条文に関する「具体的条項の根拠」として、以下のような文章がある。

「結婚と家庭の神聖さを尊重するために、三角関係、すなわち既婚者に対する第三者の恋愛の扱いには注意を要する。これを扱うことによって制度としての結婚に反感を抱かせてはならない」**

この「規定」が制定された1930年から、それに代わるものとして「レイティング・システム」の運用が開始される1968年までの間、ハリウッドで作られる映画はすべてこの規定条文の制限下にあり、1934年からは「PCA(映画製作倫理規定管理局)」いわゆる「ブリーン・オフィス」によるシナリオや完成作品のチェックが義務付けられた。繰り返すが、これはハリウッドによる自主規制であり、法的な縛りがあったわけではない。だが、事実上、「PCA」の認可のない作品を上映する映画館が存在しなかったことを考えると、この「映画製作倫理規定」がこの時期のハリウッド映画に与えた影響が多大なものであったことが理解できるだろう***。当然ながら、リンチが好む50年代ハリウッド映画もこの「規定」下のもと「健全な価値観」を提示しつづけ、その当時の「文化的状況」の形成に少なからず寄与したのである。だが、こうした「健全な価値観」をハリウッド映画が「売り」続ける一方で、たとえばヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズのような芸能記者たちはまた違った「ハリウッドの価値観」を「売って」いた。非常に大雑把な言い方をすれば、ハリウッドはあからさまに「建前」と「本音」を持ち、その両方を「商品化」してきたといえるのだ****

というような事項を念頭においたとき、このシークエンスが提示する「ニッキーの屋敷」の内部で発生している事象は、上述したような「ヘイズ・コード」下のハリウッド映画界における「価値観に関する二重構造」の図式化として捉えられる。「公的なイメージ」を付随させた場所である「二階」において、同じく「公的イメージ」を付随させるピオトルケが「健全な価値観」を語る。そして、その語る相手はデヴォンであり、物陰から様子を窃視しているのはニッキーだ。デヴォンとニッキーはともに「映画界」に属し、かつこの二人はピオトルケが語る「価値観」とは異なった「価値観」……マリリン・レーヴェンスによって「商品化」された「健全でない価値観」そのものなのである。デヴォンの言うことをピオトルケが「聞こえるが、理解できない」のは、まさしくこうした「立場の違い」に起因しているのだ。

また、「二階」に付随する「公的なもの」のイメージを考えたとき、ある疑問が浮かび上がる。このシークエンスにおけるピオトルケによるデヴォンへの「恫喝」が、「スミシーの家」の「裏庭」でサーカス団員たちが繰り広げた「ハンマー争奪戦」(1:43:37)と、はたしてどれだけの質的差異があるのか……という疑問だ。いずれにせよ、ニッキーの意志がなんら反映されていない以上、ピオトルケのニッキーとの「絆」に関する言及は一方的なものである。ここではニッキーは「獲得されるべき対象」でしかなく、その意味合いにおいて「ハンマー」と実質上の差異はない。

続いて、カット(15)-(17)にかけて、ピオトルケは「行動は結果を伴う(There are consequences to one's actions)」というキー・ワードを述べる。同様のキー・ワード……「行動は結果を伴う(Actions do have consequences)」は、「訪問者1」によってすでに発せられており(0:17:06)、このピオトルケの言及がその「リフレイン」であることは言うまでもない。だが、同じキー・ワードであっても、「訪問者1」が述べた意味合いと、ピオトルケが述べる意味合いは、「同義」であると同時に少しく「異なって」いるように思える。「訪問者1」によるこのキー・ワードが「映画」に関する「ナラティヴ」を成立させる「因果律」……つまり、”「原因」と「結果」の関連性”について述べていることについては、すでに述べたとおりである。受容者側は、「作品」が提示する「原因」(と思われるもの)と「結果」(と思われるもの)を関係づけながら受容行為を行い、その作品が内包する「ナラティヴ」を再構成する。こうした行為こそが、一般的な意味合いでの「作品解釈」であり「作品理解」であるわけだ。

だが、この”「原因と結果の関連付け」=「解釈」を通じた「理解/認識」は、「非現実=架空」に対してのみ適用されるわけではない。それは「現実」に対しても、等しく適用される。「現実」に発生した事象であれ、あるいは「非現実=架空」で発生した事象であれ、我々は基本的に”「原因」と「結果」の関連性の構築”という形で……つまり、「ナラティヴの再構成=物語化」することで「理解/解釈/認識」しようとするのだ。こうした観点からみたとき、「訪問者1」が「非現実=映画」に対する「物語化を通じた理解」を述べているのに対し、ピオトルケは「現実」に対する「物語化を通じた理解」を述べている。逆にいうと、両者の差異は、「理解/解釈/認識」する「対象の差異」でしかない。であるならば、これらのキー・ワードのリフレインでもって「インランド・エンパイア」が提示しているのは、我々が「理解」し「認識」する対象としての「映画=非現実」と「現実」の「等価性」である。そして、それがリンチの言う「映画=世界」という概念の「言い換え」であることは、いまさら指摘するまでもないだろう。


*
「映画 視線のポリティクス」(加藤幹郎・筑摩書房刊)P.161

**同 P.172

***「映画製作倫理規定」の条文に対する抜け道の模索……たとえばビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白」における「回想方式」の採用などを含めての話である。この作品における「回想方式」採用の理由に関しては、「映像/言説の文化社会学」(中村秀之・岩波書店刊)で触れられている。

****リンチ作品が、その最初期から「機能しない家族」や「なにかよくないことが起きる可能性がある場所としての家」というテーマを提示し続けてきたことは、以前にも述べたとおりである。つまり、リンチは、自らが成長期に享受したハリウッド映画の「結婚や家族の神聖性」に対して、ずっと疑義を投げかけてきているわけだ。50年代ハリウッド映画作品が提示した「家族像」から、(リンチやスピルバーグを含む)40年代末のベビー・ブーム期に生まれた映画監督たちが提示する「家族像」への変遷については、「サバービアの憂鬱」(大場正明・東京書籍刊)に詳しい。

2008年8月 9日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (105)

お盆休み突入、アーンドなんやかんやでエントリー200件目でございます。地球温暖化が着々と進行中なのが実感できるほどクソ暑い今日この頃、皆様にはいかがお過ごしでございましよーか。こないだなんか、昼飯を食ってたらいつの間にか大雨で外が大洪水状態になってて、オドロキましたよ、ええ。このまますっかり遭難して、ラーメン屋で一晩過ごすのかなーとか思ったことでありますが、ま、それならそれでいっかー。とりあえず食料はあるしな(笑)。

などと厄体もないことを呟きつつ、まだ終わらん「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回は(0:40:49)から(0:44:18)まで。

このうち、(0:40:49)から(0:41:15)のシークエンスに関しては、「90歳の姪」が表すものを含めて、すでにこちらなどで詳述しているのでここでは繰り返さない。あえて付け加えておくべき事項があるとすれば、「スミシー」のスペルの問題についてだろうか。「インランド・エンパイア」では「Smithy」になっており、匿名を希望する映画監督が使用する「アラン・スミシー(Alan Smitee/Smithee/Smythee)」とは異なっている。これについては、後者の「スミシー」が「監督=映画を作る側」が使用する「匿名」であるのに対し、前者を「映画を受容する側」の「匿名性/一般性」を表すものとして峻別するために、リンチが故意にスペルを変更した可能性を指摘しておきたい。

さて、(0:42:13)以降のシークエンスでは、舞台は「ニッキーの屋敷」の内部に移る。「屋敷の外観」のエスタブリッシュメント・ショットを挿んだ後のシークエンスで表象されるのは、「映画制作」の問題が「ニッキーの屋敷」の内部における「トラブル=機能しない家族」の事象に関係づけられる様子である。

ピオトルケとデヴォンが二階にいることを、ニッキーは執事の示唆によって知るわけだが、このときの執事の表情をみる限り、彼は「トラブル」の存在(あるいは発生)を察知している。執事(およびメイドたち)は「マリリン・レーヴェンス」による「示唆」を認知しており、それが「トラブル=機能しない家族」の要因となることは了解済みだ。それは、ピオトルケとデヴォンの行方を尋ねるニッキーに対して、「すみません。旦那様がバークさんを二階に連れていきました(I'm sorry. He's taken Mr. Berk upstairs)」と答えた執事の表情からも、明らかである(0:41:39)。だが、おそらくそれ以前から、彼/彼女たちは「ニッキーの屋敷」の内部に発生している「トラブル」を認識している。レーヴェンスによる「示唆」はその「新たな要素」に過ぎない。

執事の返答をきいて、ニッキーは二階に上がる。そこではピオトルケとデヴォンの会話(といえるのなら、だが)が展開され、ニッキーはそれを「覗き見る」ことになる。

彼らが交わす会話の詳細は次回に譲るとして、このシークエンスにおける「映像的特徴」として指摘できるのは、ニッキーがピオトルケとデヴォンの様子を「覗き見ている」という構造そのものである。これは、(0:18:14)で提示された「ニッキーと友人たちの様子を、ピオトルケが階上から覗き見ている」という構造に「対置/対応」されるものだ。この二つのシークエンスを対比させたとき、まず目にとまるのは、前者において「覗き見」をするのがニッキーであるのに対し、後者がピオトルケであるという「視点に関する対置関係」……つまり「覗き見るもの」が入れ替わっていることである。だが、むしろ重要なのは、前者において「覗き見られる対象」が「家の階上で発生している事象」であるのに対し、後者の「覗き見られる対象」が「階下で発生している事象」である点だ。つまり、「インランド・エンパイア」に頻出する「高低のアナロジー」が、一連の「覗き見」のシークエンスにおいても認められるわけである。

ただし、ここでの「高低のアナロジー」によって提示されているのは、「家」と「ストリート」の対置関係ではない。なぜなら、事象は”「家」の「内部」”にのみ発生しているからだ。それでは、この二つのシークエンスに現れる「高低のアナロジー」は何を表象しているのだろうか? たとえばピオトルケが「ニッキーと友人たち」を二階から見下ろすという「図式」にも表れているように、「家」の内部における「二階」は「夫(の抽象概念)」の「領域」である。また、このシークエンスにおいても、「二階」で発生している事象はピオトルケとデヴォンという二人の「夫」によるものだ。加えて、ピオトルケが「実力者」であるという言及(0:22:39)や、後にピオトルケが「サーカス」という「組織」に参加すること(1:45:11)から提示されるように、「夫の領域」である「二階」は「公的」なイメージを付随させることになる。そうした事項をもとに捉えるなら、ここで提示されているのは「公的なもの=階上の事象」と「私的なもの=階下の事象」という「対置関係」なのである。

興味深いのは、この後に現われる”三つ目の「覗き見」のモチーフ”……(0:57:40)でリフレインされる”「スミシーの家」のベッド・ルームを「覗き見る」ピオトルケ”のシークエンスである。このシークエンスを”「公的なもの=階上の事象」と「私的なもの=階下の事象」の対置”という観点からみたとき、そこでは「高低のアナロジー」が消滅していることが……「観る側」であるピオトルケの「視点」と「観られる側」であるニッキーとデヴォンがまったくの同一高度上に存在し、フラットな位置関係が描かれていることが確認されるはずだ。つまり、ここでは「公的なもの」あるいは「私的なもの」という区別が存在せず、すべてが同一水準に存在しているのである。「スミシーの家」の内部を(登場人物=スーと演技者=ニッキーの混淆物である)スー=ニッキーの「内面」として受け取るならば、そこにあるのはスー=ニッキーの「主観=私的なもの」のみであるはずで、「客観=公的なもの」が侵入する余地はない。逆にそれは「スミシーの家」と「ニッキーの屋敷」の構造自体に反映されており、そもそも「スミシーの家」は「二階」をもたない(もてない)のだ*。

「ニッキーの屋敷」で発生した「覗き見」と「スミシーの家」で発生したそれとの大きな差異は、まさしくこうした点にあるわけだが、同時にこの「視点位置の変遷」と「舞台の転移」は、演技者=ニッキーの「内面」としての「家」が「ニッキーの屋敷」から「スミシーの家」にシフトしたことを……ニッキーによる登場人物=スーへの「感情移入/同一化」が深化したことを指し示しているといえるだろう。この第三の「覗き見」のシークエンスがそのまま”1回目の「Axxon N.」の発現”シークエンスに連鎖していくことや、それがそのまま「スミシーの家」の実体化につながっていくころからもわかるように、「内面」が「外界化」し、「私的なもの」と「公的なもの」の境界が消滅していく様子が描かれているわけである。

次回では、このシークエンスにおけるピオトルケとデヴォンのやり取りを中心に追いかけてみることにする。

(この項、続く)

*そのかわり「スミシーの家」には、「公的なもの」と「私的なもの」(あるいは「外的なもの」と「内的なもの」)が交錯する場所としての「裏庭」が存在する。

2008年8月 4日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (104)

お盆休みまであと一週間っちゅうことで、いろいろ切羽詰まりまくりの大山崎です。んが、それとはまーったくカンケーなく、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話は続いちゃったりなんかして(概ね、広川太一郎風)。今回は、(0:38:39)から(0:40:49)までを追いかけてみることにする。

以前にも述べたように(0:36:24)から(1:00:00)までの間、「インランド・エンパイア」は「映画を作ることについての映画」として、前項で挙げた「撮影風景」のシークエンスに加え、「映画製作そのもの」に関連するシークエンスを集中的に提示する。今回とりあげるシークエンスもそのひとつであり、そこでの「主役」は助監督のフレディだ。スタッフ側からみた「映画製作」に関するシークエンスであるという言い方も
できるのではないかと思うが、まずは具体的な映像から追いかけてみることにしよう。

ステージ4 内部
(1)ミドル・ショット。暗いステージの内部。三脚のディレクターズ・チェアが横に並べて置かれている。正面からのショット。やや背後に置かれた真ん中のディレクターズ・チェアには、フレディが座っている。背後のパネルには「7」と書かれた白い文字が二ヶ所ある。白地に花柄のドレスを着たニッキーが、画面右手から登場する。続いて明るい色のスーツを着たデヴォンも右手から登場する。
ニッキー: (向かって左側のディレクターズ・チェアに座りながら)[溜息](足を組む)
デヴォン: (向かって右側に座りながら)[溜息]
フレディー: (ニッキーに向かって)Going well?
ニッキー: (フレディを振り返って)Very well. Thank you, Freddie.
デヴォン: (フレディを振り返って) Very enjoyable.
フレディ: (デヴォンの方を向き) "Enjoyable,"(左手の人差し指でデヴォンを指差しながら) yes, that's the word.
(2)ニッキーのアップ。画面の右寄りにいるニッキー。フレディの方を振り返ったままである。
ニッキー: Are you enjoying yourself, Freddie?
(3)フレディのアップ。ニッキーの方を見ている。背後のパネルには「7」の白い文字が見える。
フレディ: well...there's a vast network, right?
(4)フレディを見ているデヴォンのアップ。背後のパネルにはステンシルで書かれた「7」の文字が見える。
フレディ: (画面外から) An ocean of possibilities.
(5)ニッキーのアップ。フレディが何を言い出したのかわからないまま、彼の方を見つめている。
(6)フレディのアップ。
フレディ: I like dogs. I used to raise rabbits. I've always loved animals...their nature...how they think. I have seen dogs
(7)ニッキーのアップ。半ば口を開け、呆然とフレディの方を見つめている。
フレディ: (画面外から) reason their way out problems, watched them think through
(8)フレディのアップ。
フレディ: the trickiest situations. Do you have a couple of bucks I could borrow? I've got this damn landlord.
(9)ニッキーのアップ。しばし呆然とフレディの方を見ているが、やがて彼が「金の無心」をしていることに気づく。
ニッキー: Oh.
うつむいて画面外で財布をさぐるニッキー。彼女は画面外でフレディにお札を渡す。
(10)デヴォンのアップ。彼はニッキーがフレディに金を渡すのををながめている。
(11)フレディのアップ。画面外で受け取ったお札をガサガサとしまう。
フレディ: Thanks. I've got a lot of nerve, I know, seems like only yesterday
(12)ニッキーのアップ。とまどったように一瞬目をフレディからそらし、再びフレディの方を振り返る。まだとまどっており、目をまばたかせるニッキー。
フレディ: (画面外から) that I was carrying my own weight.
(13)フレディのアップ。
フレディ: Yeah.
(14)ニッキーのアップ。落ち着かなげに視線を伏せつつ、フレディから目をそらすニッキー。
(15)デヴォンのアップ。デヴォンもフレディを振り返ったままだったが、やがて目を伏せ、まばたきをしながら無言で正面に向き直る。
(16)ニッキーのアップ。正面を向いたまま、居心地の悪そうな表情を浮かべ、唇を引き締めている。ディレクターズ・チェアの上で身じろぎし、自分の正面の方を向くニッキー。
(17)デヴォンのアップ。デヴォンは自分の膝に目を落としてる。が、やがて何かを感じ、フレディのほうを振り返る。
(18)フレディのアップ。彼はデヴォンをじっと見詰めている。
(19)フレディとデヴォンのツー・ショット。デヴォンをじっと見詰めているフレディ。デヴォンも見詰め返していたが、やがてはっとしたようにズボンのポケットを左手で探り、黒い財布を取り出す。彼は財布から何枚かの札を取り出し、フレディーに渡す。それを左手で受け取るフレディ。
(フェイド・アウト)

このシークエンスにおけるフレディの発言には、さまざまな要素が盛り込まれている。非常に大雑把な言い方をするなら、フレディは映画監督としてのリンチ自身が投影されており、彼の言及にはリンチの私的な部分の思いが表われていると捉えられる。

なによりもポイントになる事項として、「動物(animal)」に関する言及がここで初めて登場する。具体的に挙げられる動物名は「犬」であったり「ウサギ」であったりするが、フレディの言及をみる限りにおいて、彼が「動物好き」であるのはその「外見」からでなく、むしろその「性質」や「思考形態」といった「内面」に関してであることがうかがえる。そうした「動物の内面」に関するものとして、フレディが具体例を挙げて特に強調しているのは、「困った状況から犬がどう抜け出すか」についてだ。この言及によって第一義的に提示されているのは、「犬」が「固有の思考形態」を持ち、自律して周囲の状況に対応する動物であることだ。が、同時に、犬が自律的に対応している様子を”フレディという「上位のもの」が見ている”という構図もあわせて読み取ることが可能である。つまり、「インランド・エンパイア」がこの後何度か提示する「動物=自律しつつも、より上位の存在の介入/コントロールを受けるもの」という概念の基本構造が、すでにこのフレディの言及に内包されているということだ。

しかし、「犬」や「ウサギ」に対して「上位のもの」であるフレディも、”「家主」への支払い”を理由にニッキーとデヴォンから「金銭の無心」をする(カット(8))。すなわち、「賃借関係」という点において、フレディも「家主」から「介入/コントロール」を受ける存在であり、「家主」にとってフレディは「動物」であるという「多重構造」が、この言及によって示唆されているわけだ。”あるものに「介入/コントロール」を行う存在が、より上位のものの「介入/コントロール」を受ける”という構造も、たとえば”ファントムやピオトルケによって表されるもの”に関する描写として、この後、繰り返し提示されることになる。

もう一点、指摘できるのは、この”「動物」に関する言及が「金の無心」へと連鎖していく流れ”は、「工業製品」あるいは「投資対象」としての「映画」という文脈上に捉えられるものであり、「映画製作」が多額の資金を必要とすることの「反映」として理解されるということだ。当然ながら、映画作品に投下される「資金」は、厳重な「介入/コントロール」のもとにあるわけで、「資本のコントロール」は「商品」としての「映画」の内容への「介入/コントロール」へとそのままつながっていくことになる。こと映画制作に関する限り、フレディの言う「困った状況(trickiest situations)」のなかに「金銭的な状況」が含まれているのは確実であり、その「処理」に関しては、これまたフレディが自分自身を指していうように「いい根性をしている(I've got a lot of nerve)」ことが必要とされるはずだ。

また、映画製作が大規模な「共同作業」であり、「漠然としたネットワーク(there's a vast network)」によって成立するものである以上、フレディが述べるように「自分のことだけ考えていればいい(I was carrying my own weight)」という状態が現実的に無理であることは明らかである。あるいはリンチにとって、「イレイザー・ヘッド」やそれ以前の初期中短編を作っていた「少し前まで(only yesterday)」は、基本的に自分が判断し自分で動くことによって物事を進めることが可能であったかもしれない。しかし、「エレファント・マン」で商業映画製作の世界へ足を踏み入れたときに、一人ですべてを処理することはもはや不可能であることを、リンチは身をもって了解済みだ*。逆に、「インランド・エンパイア」の製作に際してリンチが採用した「DV撮影による素材集積」と「その素材を使った作品構築」という手法は、この「共同作業」の規模をいかに縮小して「自力で処理をする」範囲を広げるかというコンセプトに基づいているように思える。それはリンチにとって、いわば「イレイザー・ヘッド」製作時の製作手法への回帰であり、言葉を変えれば「自由度の拡大」に他ならないことは言うまでもないだろう。

このシークエンスがフレディを中心に展開していることは、すでに指摘したとおりだ。映像を観れば明らかなように、ニッキーとデヴォンはフレディに終始主導権を握られ、彼の「脈絡のない突飛な発言」に対して積極的な反応ができないばかりか、請われるまま「金の無心」にすら応えてしまっている。”「動物」と「介入/コントロール」という概念の表象”という観点からみたとき、こうした状況が何を指し示しているのかは明瞭だろう。少なくともこのシークエンスにかぎっていえば、ニッキーとデヴォンの二人は、フレディの「介入/コントロール」下にある「動物」なのだ。フレディの発言によって表わされるものだけでなく、このシークエンスで発生している「フレディとニッキー&デヴォンのやりとり」という事象自体が、「動物」という概念と「介入/コントロール」という概念の関連性を記述する「図式」として機能しているのである。

一方で、フレディのいう「可能性の海(An ocean of possibilities)」という表現は、リンチの自著である「Catching the Big Fish」の書名を想起させるものだ。この本の序文で、リンチは「アイデア」を「魚」にたとえ、それは自分の「内面」にある「Unified Field」において獲得されるものだとしたうえで、「より大きな魚を獲るためには、より深く水の中に潜らなければならない」と書名の由縁を語る。そして、リンチ自身にとって重要なのは「映画のためのアイデア」だが、その他「ビジネス」や「スポーツ」を含めたあらゆる分野に役立つ「魚=アイデア」が、そこでは泳いでいるはずだと述べる。どのような理由に基づくのかはともかくとして、リンチが「水」のイメージに「アイデア」や「可能性」といったポジティヴな事項を関連づけていることは指摘できるように思う。あるいは、「砂の惑星」をはじめとしたリンチ作品で時々提示される”「水」のイメージと「炎」のイメージの相克”といった表現とも通底しているものであるのかもしれないが、ここでは可能性の言及のみに止めておこう。

もうひとつ、重要な要素として、フレディとデヴォンの背後にあるパネルには「7」の文字が何度か現われる。これもまたリンチ作品に現われる「テクスチャーとしての文字」であるのは間違いないと思うが、問題はこのシークエンスの舞台が「スタジオ4」の内部であることだろう。組み合わせれば「4-7」となるこのテクスチャーが、後に明らかにされるようにやはり「一般性/普遍性」につながるものであるなら、このシークエンスで発生している事象そのものが「一般的/普遍的」なものであることの示唆となる。つまり、フレディが行う言及の数々は、「ON HIGH」という個別例にのみ当てはまるものでなく、「映画製作に関する一般論」として受け取ることが可能なわけだ。

しかし……これらの「困った状況(trickiest situations)」を差し引いても、リンチにとって「映画製作作業」は「楽しい(Enjoyable)」ものであろうことも、また確かだ。

*「エレファント・マン」の製作時、主人公メリックの特殊メイクをリンチが自分で用意したがうまくいかず、プロデューサーのメル・ブルックスから「二度とこういうことには手を出しちゃだめだ。君は監督の仕事だけでも十分大変なんだから」と釘をさされたというエピソードが残されている。(「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.138)

2008年8月 1日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (103)

お盆を控え、なんかやたら忙しい大山崎です。いっそのこと、お盆休みも年末年始休暇もゴールデン・ウィークも、なーんもないフラットなほーが楽チンかもしれない……とゆーよーなことを、どーも去年の今頃も書いたような記憶があって「でじゃ=う゛」なわけですが、「なんなら毎日、日曜日にするか? ん?」とか言われそーで口に出すのはヤめております今日この頃(笑)。

それはそれとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(0:36:24)から(1:00:00)までの一部を概括する形で。

これ以降、「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作撮影風景を中心にした一連のシークエンスを提示する。それらのなかでも非常に明瞭な連続性をもって捉えられるのが、演技者=ニッキーが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を深化させていく過程のシークエンスである。具体的に挙げるなら……

パートA (0:36:24)-(0:38:39)
撮影現場 ガーデン・ハウス 内部

パートB (0:46:33)-(0:49:43)
撮影現場 ビリーの屋敷 内部

パートC (0:52:19)-(0:54:07)
撮影現場 ステージ4 内部

パートD (0:54:07)-(0:54:24)
撮影現場 ビリーの屋敷 内部

パートE (0:56:12)-(1:00:00) 
スミシーの家 ベッド・ルーム 内部

……の五つのシークエンスである。

確かにこれらのパートは、「演技者のアイデンティティの混乱」を描いたものとして、「クリシェ(常套句的表現)」といっていいぐらい、非常にわかりやすい。とりわけパートD以降は、明瞭に「演技者が抱えたアイデンティティ・クライシス」として受け取ることが可能だ。「インランド・エンパイア」全編を通じてもっとも具象的な部分であり、たとえば今敏の「パーフェクト・ブルー」などといった作品の延長線上に「インランド・エンパイア」を置く意見は、この部分に焦点を当てたものであるといえる。

ただし、この後「インランド・エンパイア」は、受容者=ロスト・ガールを含めたさまざまなレベルの「感情移入=同一化」や「見当識の失当」を描き、それをとおした「自己認識の獲得」や”「機能しない家族」の機能回復”というテーマを明瞭にしていくことは何度も述べたとおりだ。リンチが「演技者=ニッキーの混乱」を表す一連のシークエンスを過剰なぐらい「明示的」かつ「具象的」に描いているのは、上述したような諸テーマへの「導入部」としての機能を負わせるためだ。そのなかでも”映画における「感情移入=同一化」”というテーマに関していうなら、現在触れているパートA~パートDにおける「(作品内)現実のフェイクとしての撮影風景」のリピートが、”「ハリウッド・ブルバード」におけるスー=ニッキーの(フェイクの)死”(2:29:18)の「導入部」あるいは「予告」として機能しているのは明白である。そのことは、パートA~パートDおよび「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスが、すべて「構造」の面からみてまったく同一の「パターン」を踏襲していることからもみてとれるだろう。これらのシークエンスにおいて、ニッキー(あるいはデヴォン)がスー(あるいはビリー)を演じている映像が提示され、それからキングズレイたちスタッフや撮影カメラなどの機材が「フレーム」に映り込む……という「パターン」が繰り返し提示されているのである*。そして、最終的に、「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスによって明示される”「感情移入=同一化」の破断”をつうじて、この「感情移入=同一化」の問題が「演技者」だけでなく「受容者=我々」側の問題でもあることが明示される。「演技者=ニッキー」から「受容者=ロスト・ガールの混乱」へと受け継がれた「混乱」は、ここでついに「我々」のものとなるのである。

もうひとつ、また違った「我々=受容者側の問題」を浮かび上がらせるのが、以前にも触れた「ニッキーとデヴォンの不倫関係」であるといえる。映画評などをみるかぎり、上述した”「演技者の混乱」の問題”とこの”「役柄をトレースした演技者間の不倫」の問題”は、多くの場合「混同」され「同一視」されている。別項でも触れたとおり、ニッキーとデヴォンの間に実際に不倫関係が成立していることを指し示す映像は「インランド・エンパイア」に存在せず、この二つの問題を同一視する根拠はどこを探しても見つからない。にも関わらず多くの人がこの二つの異なる「問題」を切り分けられず、ニッキーともども「混乱」の中に巻き込まれているのである。しかし、我々はなぜこのような「混乱」を起こすのか?

それは、我々=人間が「物語=ナラティヴ」を求める動物であること、正確にいえば、物事を「物語化」することによって理解する動物であるからに他ならない。”パートDおよびパートEの「ニッキーの混乱」”、マリリン・レーヴェンスによる「示唆」、そしてデヴォンによるニッキーへの「イタリアン・レストランへの誘い」(0:51:00)といったいくつかの「点」の間を我々は「線」を引いて結びつけ、成立する可能性のある「因果律」を「補完」する。それは非常に当然なことであり、我々はそのようにして「欠落」を埋めつつ(あるいは「省略」を把握して)「映画」などを受容する。そればかりでなく、日常のすべてのものをそうした「作業」をつうじて解釈し認識している。我々にはこの「方法」でしか……つまり「物語化」することでしか「世界/外界」を認識できないのだ。

だが、「インランド・エンパイア」は……いや、リンチ作品は、こうした我々の”「世界/外界」に対する認識作業”自体に対しての「再認識」を迫る。我々が「補完」した「物語」は、本当に正確なのか? フレッドやダイアンがそうであったように、自らの「願望」や「感情」によってその「物語=外界認識」は歪められてはいないか? ニッキーが抱く「演技者の混乱」を「クリシェ」としてのみ安直に捉えたとき、我々は「演技者間の不倫」という、「物語」における「クリシェ」にも同時に捕らわれてしまってはいないだろうか?

デヴォンとニッキーの間に不倫関係が成立していたか、あるいは成立していなかったのか、「インランド・エンパイア」は一切明らかにしない。であるのにもかかわらず、我々はそこに「幻の因果律」をみてしまう……そうした「表現」によって浮き彫りにされるのは、”「物語化」をつうじた「外界認識」”という、これまた「我々側の問題」なのである。ある意味で、多くの解釈が「インランド・エンパイア」を時系列整理や人物整理をつうじてナラティヴに理解しようと試みていること(そして、破綻していること)自体が、我々が普段から”いかに「物語化=言語化」することによって、物事を理解しているか”の証明に他ならない。加えて、自分たちが「こうあって欲しい」と望む「物語」を造りあげる動物であることを、「インランド・エンパイア」のそのもの受容を通じてだけでなく、その周辺情報からも我々は自覚させられるのである。

「インランド・エンパイア」がきわめて「映画を観ることについての映画」でありえるのは、まさしくこうした緒事項においてだ。この作品は、「映画を観る作業の再確認」を我々=受容者に対して突きつけ、「自覚的に映画を受容すること」を要求する。そして、それに応えられるかどうかは受容者次第だ。

*パートCでは映像提示の順序が逆になっているが、「OKだ。二人もいいかな?(We got it. You two happy?)」というキングズレイの声がニッキーのアップに被せられて、シークエンスは終わる。また、パートEにおいても、実は「ピオトルケの視点」が「撮影カメラの視点」と重なっているのは明らかだ。

2008年7月26日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (102)

このクソ暑いなか、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話は一層暑苦しく続くのであった。今回は、(0:33:51)から(0:36:25)までについてのアレコレやソレコレ。

さて、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「いわれ」が明らかになり、撮影がまさに始まろうとしているこの瞬間、「インランド・エンパイア」は非常に表現主義的な映像に満ちたシークエンスを二連発する。ひとつは「ニッキーの屋敷」を舞台にしたシークエンスであり、もうひとつはどこにあるとも知れない「警察署」とおぼしき場所でのシークエンスだ。このように「ルック」としての場所は異なっているものの、基本的にこの二つのシークエンスは「インランド・エンパイア」が扱うモチーフやテーマの「ヴァリエーション」として現れており、いずれも演技者=ニッキーの「内的」なものとして理解が可能である。

まず、(0:33:51)から(0:34:19)までの「ニッキーの屋敷」におけるシークエンスをみてみよう。

ニッキーの屋敷 内部
ニッキー: (微笑みながら) What?
Zydowicz氏: [ポーランド語で] You didn't understand what I said?
ニッキー: (首を振って) Um, I don't understand.
Zydowicz氏: Mmm. You don't speak Polish.
ニッキー: No.
Zydowicz氏: [ポーランド語で] A half...
ピオトルケ: I-- I think she understands more than she lets in.
ニッキー: But I don't speak it too, so...

既に何度か触れたが、ここに表れているのは「成立しない会話」という、リンチが繰り返し提示する基本モチーフのヴァリエーションである。「インランド・エンパイア」に登場する同一モチーフによって表されるものをあわせて考えたとき、このシークエンスが表象していると捉えられるものには二つある。

ひとつは、「ニッキーの屋敷」の内部で発生している「機能しない家族」の事象である。これは演技者=ニッキーの個人的なものであり、夫(の抽象概念)であるピオトルケとの間に起きているものだ。このシークエンスにおけるニッキーとピオトルケは、明らかに「意思の疎通」を欠いている。それはまるでニッキーがZydowicz夫妻のポーランド語を理解できないのと同じように、だ。それにもかかわらず、ピオトルケは「彼女は自分が考えているよりも理解している」などという根拠のない発言をし、この意識の「擦れ違い」が「ニッキーの屋敷」で起きている「機能しない家族」の要因であることを提示している。ピオトルケとZydowicz氏はどちらもニッキーと「意思疎通」を欠いており、彼らと彼女との間に「一方的な関係」しか成立させられない点において「等価」なのだ。

もうひとつは、これまた演技者=ニッキーの内部で発生している「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への……というより登場人物=スーへの「感情移入=同一化」への予兆である。すでに「スタジオ4」での「読み合わせ」において、”1回目の「Axxon N.」”は発現しており、彼女はこの後、急激にスーへの「感情移入=同一化」を深化させていくことになるわけだ。その一方で、「インランド・エンパイア」において、「異国語」が「映像の言語」として表象されていることは「訪問者1」の「東欧訛り」などの緒例に表れているとおりで、ここでZydowicz氏が話す「ポーランド語」もその文脈上に捉えることが可能だろう。ニッキーとZydowicz氏の会話を字義的にみたとき、実は二人の間にコミュニケーションは「成立」している。ひとつめの事項とは矛盾しているようだが、「ニッキーがポーランド語を解さない」あるいは「しゃべれない」という一点において、二人の「意思」は「疎通」されているのだ……そう、ちょうど我々が、「映像の言語」を、通常の意味での「言語」に完全に置き換えられないのと同じように、ニッキーは「部分的(A half...)」にしか「ポーランド語」を理解できないのである。こうした表現から受け取ることができるものがあるとすれば、それは、演技者=ニッキーが自らの「感情=情緒の記憶」をもって登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を深化しはじめ、自分の「演技」をつうじて「シナリオの言語」を「映像の言語」へ置換し始めたことの示唆だ。

この「成立しない会話」のシークエンスは、上記の二点のイメージを内包しつつ、「夜空に浮かぶ月」のショットをブリッジにして、次の「警察署内部」のシークエンスへとイメージを連鎖させる。

この(0:34:24)から(0:36:25)のシークエンスには、非常に重要なものがいくつも内包されている。

まず、”「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開上の要請」”あるいは”女性たちが互いに抱く「悪意」”を表象する「スクリュー・ドライヴァー」の提示である。(後にドリスとわかる)女性の腹部に突き刺さったそれは、この後、ロスト・ガールやスー=ニッキーの腹部にも刺さることになるが、この時点ではまだそれはわからない。まず、ドリスがハッチンソン警部に向かって説明するのは、「誰かをスクリュー・ドライヴァーで殺せ」と命じられたということである。その命令を下したのが「ファントム」であることは、「ビリーの屋敷での修羅場」のシークエンス(1:54:03)において、このシークエンスにおける「背後を振り返るドリス」の映像のリフレインをキーにしつつ明示されるのだが、このシークエンスの段階ではまだそれもわからない。映像として確実に明示されているのは、ドリスが誰かを刺すために使われるはずの「スクリュー・ドライヴァー」が、今現在、彼女自身の腹部に突き刺さっているという一見矛盾した状況だけだ。だが、後に提示されるロスト・ガールやスー=ニッキーを含めた”「スクリュー・ドライヴァー」による死”をみれば、この現在の「ドリスの状況」がそれらの事象の端的な「略図」になっていることが明瞭に理解できるはずだ。彼女たちは「互いに傷つけあう存在」であり、相手が感じている「痛み」はそのまま自分が抱えている「痛み」と同じものであることが、このシークエンスにおける「ドリスの状況」によってあらかじめ宣言されているのである。

あわせて、ドリスに”「スクリュー・ドライヴァー」による「殺人」を命じた者”の存在も示唆される。これが「ファントム=映画の魔」であることは、同じく「ビリーの屋敷」における「修羅場」のシークエンスで映像として明示されるわけだが、このシークエンスにおいて明確にされているのは、彼が「コントロールを行なう存在」であることだ。そして、その「コントロール」が「hypnotize=催眠術=魅了」をつうじて行なわれることも同時に明らかにされる。また、冒頭「Openingからの侵入許可」を禿頭の老人に対して訴えていた「ファントム」がそれを許され、すでに「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込んでいることも同時に明示されているといえるだろう。

さて、しかし、ドリスの「誰を殺すかはそのうちわかると彼が言った(he said that I would know who it was)」という発言をみる限り、少なくともこのシークエンスの時点では、彼女はまだ「自分が誰を殺すのか」を理解していないようだ。これをニッキーの「内面」の反映として考えるなら、彼女の登場人物=スーへの「感情移入=同一化」が現在も形成中であることの表われであると理解できる。リンチ作品では、往々にして、このような「すり替え」を伴った「表現」が登場する。たとえば、「ロスト・ハイウェイ」における”闇の中に消えたフレッドを「レネエが探す」”シークエンス(0:36:43)や、「マルホランド・ドライブ」における”ブルー・ボックスを開封するのがベティ=ダイアンではなく、リタ=カミーラである”という表現(1:52:43)などにみられるように、「主体」となるべき登場人物からでなく、それと「対置」される人物の「視点」から「事象」が描かれるのだ。同様のことがこのシークエンスにおいても指摘でき、ニッキー(あるいはスー)のかわりに、ドリスを主体として「スクリュー・ドライヴァーによる女性間の相互関係」が描かれていることがみてとれる。このことは、仮にこのシークエンスが提示する「事象」に現われる人物をドリスではなくスー(あるいはニッキーあるいはロスト・ガール)に置き換えても、まったくその表象するところが変わらないことからも理解されるだろう。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」の例では、こうした「表現」は”「主体」となるべき「対象」(フレッドやベティ=ダイアン)の「消失」の強調”として機能している。それに対し、このシークエンスがニッキーではなくドリスを主体として描かれている理由は、この”「スクリュー・ドライヴァー」に関する「事象」”が「抽象的なもの」であり「普遍的なもの」であることを強調するためだ。ドリス→ロスト・ガール→スー=ニッキーと”「スクリュー・ドライヴァー」に関する「事象」”に現われる登場人物が変遷することにより、この”「スクリュー・ドライヴァー」による死”というモチーフが、「機能しない家族」という普遍的なテーマの一部であることが明瞭になるのである。

同様に、”ニッキーの「内面」の反映”としてこのシークエンスを捉えた場合、舞台が「警察署」の内部であること、かつドリスが「警官」に向かって「告白」する形で事象が進行していることは、”「介入=コントロール」のイメージ”の表われとして非常にわかりやすいものであるといえる。すなわち、演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」はまだ「コントロール下」にあり、”時間や場所に対する「見当識」の失当”にまでは至っていないことの提示なわけだ。「介入/コントロール」が行われる場所として、この「警察署」は「Mr.Kのオフィス」と「等価」であり「対置」されるものと理解できるし、「ハッチンソン警部」は「介入/コントロール」を行う存在として「Mr.K」と「等価」であり「対置」されることになるだろう。

となると思い浮かぶのが、スー=ニッキーがMr.Kに話した「バルト地方の巡回サーカス」の行く末である。サーカス団員たちは酒場で乱闘を起こした結果、「ファントム」以外の全員が逮捕されて「警察署」に連行される(He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested...they take'em all down too the station)とスー=ニッキーは語る(1:46:54)。当然ながら、これは「ウサギ/老人」たちによる「介入/コントロール」が行われたことの表象であるわけだが、やはりここでも「警察署」が”「介入/コントロール」のイメージの表象”として登場しているのは明らかだ。と同時に、「サーカス団員」たちによる「乱闘」が「酒場(bar)」で行われていることも興味深い。ドリスもまたハッチンソン警部に向かって、「『ファントム』とは酒場で出会った( I saw him looking at me once when I-- when I looked around the bar)」と語る。また、スー=ニッキーはMr.Kに向かって、「酒を奢ってもらうために男たちといちゃいちゃしていた(I was screwing a couple guys for drinks)」と話す(1:13:11)。加えて、北米版DVDに映像特典として収録されている「More things that happened」には、ナスターシャ・キンスキーがニッキーに向かって「酒場で出会った男にビールを奢ってもらった」ことを話す未公開シーン(0:34:24)が収録されている。その未公開シーンにおいて、同時にキンスキーはその男と出会った結果として「時間および空間に対する見当識の失当に陥った」とも言及することから、彼女が出会ったのが「ファントム=映画の魔」であると考えておそらくは間違いない。これらの女性たちがすべて「ファントム=映画の魔」と「酒場」で出会っているとするなら、これは、はたして何を表わしているのか?

ここでまず思い起こさなければならないのは、エンド・ロールに現われるナスターシャ・キンスキーが、”「ハリウッド伝説」の一部”を表象していたことである。それを念頭においたとき、特典映像の未公開シーンが提示するのは、自身が「伝説化」する過程において、キンスキーは「ファントム=映画の魔」と出会っているということだ。”キンスキーと「並列」して長椅子に座るニッキー(あるいはローラ・ダーン)の映像”は、彼女もまた演技者として「ハリウッド伝説」化したという「表現」につながっていたわけだが、スー=ニッキー(あるいはローラ・ダーン)もまた、「ファントム=映画の魔」と”「スミシーの家」の隣家”において明瞭に遭遇していること(1:59:39)はいうまでもなく、それもキンスキーと同様にニッキーが「伝説化」するためには必然的な出来事であったわけである*。あらためて指摘するまでもないが、彼女たちと「ファントム=映画の魔」との「遭遇」によって表象されているのは、「作品」あるいは「自分が演じる登場人物」に対する彼女たちの「感情移入=同一化」が形成され、深化しているということだ。

興味深いのは、”「酒場(bar)」という「場所」によって表わされるもの”である。「インランド・エンパイア」が提示する「酒場」に関連した一連の「表現」をみる限りにおいて、そこは”「スミシーの家」の「裏庭」”と同じく、「公的なもの」と「私的なもの」が交錯するところであるように受け取れる。「サーカス」という「組織」に属する団員たちが出入りし、彼らが「幼児的な乱闘」を引き起こす一方で、スー=ニッキーは女性としての「セクシャリティ」を「酒」という「実利」に置換し、ついでに「機能しない家族」の「要因」をも手に入れる。また、ドリスとキンスキーはそこで出会った「ファントム=映画の魔」に「魅了」される。このように、「酒場」の内部で発生している「事象」もまた複合的であり、そこでは「インランド・エンパイア」が内包するいろいろなテーマが「交錯」しているのは明らかだ。しかし、たとえばスー=ニッキーが切り売りする「セクシャリティ」をキーにして考えたとき**、「酒場」が基本的に「ファントム」や「(ピオトルケを含む)サーカス団員」などの「男性」による「視点/価値」が主体になっている場所であると理解して差し支えないはずだ。だとすれば、同じく「公的なもの」と「私的なもの」が交錯する「場所」である「裏庭」との対比は明らかである。”「スミシーの家」の「裏庭」”における「事象」が「私的なもの=ホーム・パーティ」への「公的なもの=サーカス団員」の乱入という形で発生していることからも明らかなように、本来そこはスー=ニッキーの「私的なテリトリー」なのである。それに対し、基本的に「酒場」が「公的な場所」であることは間違いなく、ということは、”「女性のセクシャリティ」が切り売りされている場所”が”「公的」なイメージ”を付随させつつ描かれていることになる。

こうした「酒場」のイメージを端的に「縮図」として表わし、そうした「公的な場所」の「状況」に対するリンチの「視点」が明確に表われているのが、(2:12:05)からの「クラブ」の映像であるといえる。そこで踊る女性ダンサーが「女性としてのセクシャリティ」を切り売りし、利益に還元していることは明らかだ。そして、そこでスー=ニッキーの「友人」であるカロリーナが働いていることは……「セクシャリティを切り売りする仲間」が働いていることは、まったくもって当然である。以前、この”「クラブ」によって表象されるもの”のひとつとして、「メディア」そのものを挙げた。「メディア」としての「クラブ」が「セクシャリティの切り売り」によって成立しているという描写自体、”「ドロシー・ラムーアの星」の「引用」など”とあわせて、リンチの皮肉な「視点」を感じずにはいられない。だが、リンチの「視点」はそうした「フェミニズム的視野」の範疇に留まっていないのも、また確かなのである。たとえば、カロリーナによる「誘導」を得て「伝説化」へと向かうスー=ニッキーといった描写や、クラブの「女性ダンサー」と対置されるものである「バレリーナ」(2:50:07)といった表現をつうじて、「映画」というメディアにおけるセクシャリティの問題は、まったく正反対のポジティヴな方向からも同時に描かれている。その根底にあるのは、「ハリウッド」という「場所」とそこで作られてきた「伝説」に対する、あるいは「サーカス」という「メディアの原型」に対する、あるいは「いかがわしさ」をも内包した「映画の魔法」に対するリンチの「総合的な視野」であることは間違いないだろうと思う。

*このスー=ニッキーによる「ファントム」への「訪問」自体が、「訪問者2」による「クリンプという名の隣人を知っているか?(Do you know the man who lives next door? "Krimp" is the name.) 」という示唆(1:57:02)によって喚起されたものである。やはり「訪問者2」の言及は、(外部からの)「言説」として非常に正しいものであったことになる。

**キンスキーと「ファントム」の邂逅においても、「セクシャリティ」の介在は匂わせられている。

2008年7月22日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (101)

なんか、気がついたらこのブログのために書いた文章の容量が、テキスト・データで700KB越えてました。大体、普通の書籍一冊分が400~500KBなんで、「インランド・エンパイア」に関して書いた駄文だけ抜き出しても本一冊分ぐらいになっちゃってるわけですね。よくいえば「継続は力なり」なんですけど、ま、どっちかとゆーとヒマで物好きなだけですね、大山崎のバヤイ(笑)。

そんなこんなで続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回も前回と同じく(0:23:59)から(0:33:51)までのシークエンスがお題。

さて、「姿なき侵入者」に憮然とするデヴォンとニッキーに向かって、キングズレイとフレディは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「いわく」を説明し始める。

キングズレイ: (何事かを口の中でつぶやいたあと) ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS is, in fact, a remake.
デヴォン: It's a remake.
キングズレイ: (画面外から) Yeah.
デヴォン: I wouldn't do a remake.
キングズレイ: (画面外から) No, no, no, no, no. I know. Of course.
キングズレイ: But you didn't know. The original was a different name. It was started, but it was never finished.
キングズレイ: (画面外から) Now...Freddie's found out that our producers knew the history of this film and they have taken it on themselves not to pass on that information to us. Purposefully. Well, at least, not me, and I assume not the two of you.
キングズレイ: (画面外から) True?
ニッキー: No. Uh, absolutely. Nobody told me anything.
デヴォン:
No. Me, neither. Uh, I thought this was an original script.
キングズレイ: Yeah. Well.
キングズレイ: (画面外から) Anyway, the film was never finished.
キングズレイ: Something happened before the film was finished.
ニッキー: I-- I don't understand. Why wasn't it finished?
キングズレイ: (画面外から) Well, after the characters
キングズレイ: had been filming for some time... they discovered something...
キングズレイ: (画面外から) in-- in-- [sighs]
キングズレイ: something insi-- inside the story.
デヴォン: Please. Kingsley.
キングズレイ: The-- The two leads...were murdered. (笑う)
キングズレイ: (画面外から) It was based on a Polish gypsy folktale.
キングズレイ: The title in German was VIER SIEBEN-- Four Seven. And it was said to be cursed.

キングズレイが語るこれらの「いわく」とは、いったい何なのか……それについて述べる前に、まず指摘しておきたいのは、このキングズレイによる「言及」は、「訪問者1」による「言説」と対をなすものであると考えられることである。

もちろん、”1回目の「Axxon N.」の発現”において発生した二つの「視点」と同様、「訪問者1」による「言説」とキンズレイの「言及」の間に、「具体的な対応」があるわけではない。だが、両者が語ることは、どちらも「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する(そして、「映画」というメディアに関する)「言及/言説」であるという点で「共通」している。異なっているのは、「訪問者1」が作品製作の「外部」から「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」について言及しているのに対し、キングズレイが作品製作の「内部」からそれについて述べていることだ。両者の「言説/言及」が「対置関係」にあるのは、まさにこの点においてである。かつ、これまた「訪問者1」の「言説」と同様、キングズレイの「ON HIGH」に関する「言及」も「半具象性」を備えた抽象的なものであり、そこで語られている「事象」を具象的に捉えることはできない。要するに、「訪問者1」が語る「残虐な殺人が関係している」などの言及と同じく、キングズレイによる「呪われている」とか「主役の男女が殺された」などという「言及」も語義どおりに受け取ることはできないわけだ。

たとえば、キングズレイが「4-7」を「ポーランドのジプシー民話に基づいていた(It was based on a Polish gypsy folktale)」と発言し、「ドイツ語」の作品タイトルに言及するとき、それが指すのは「インランド・エンパイア」に何度となく現れる「異言語性」による「表現」……つまり、”「訪問者1」の「東欧訛り」”や”「90歳の姪」が喋る「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice)」”が表象する「映像の言語」のことであり、また「ファントム=映画の魔」がドリスを「魅了」する際に唱える”「呪文」によって表象されるもの”と同義である。加えて、「ジプシー」に関する言及が、スー=ニッキーによってMr.Kに向かってなされていることにも留意したい。彼女は、ピオトルケが参加した「サーカス」について語る際、そこで働く者たちが「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」であると語る(1:46:08)。スー=ニッキーのこの言及は、他者の「感情」を操るものである”「ファントム=映画の魔」が付随させる「いかがわしい」イメージ”を評したものであるわけだ。であるなら、同じく「ジプシー」というキーワードが課せられる「4-7」にも同じ”「いかがわしい」イメージ”が付随させられ、それは「他者の感情を操作するもの」であることになる。「インランド・エンパイア」において、リンチが「映画」などのメディアの「原型」として「サーカス」を提示していることを考え合わせるなら、つまり、キングズレイがこの言及によって明らかにしているのは、「4-7」によって表わされるものが”「映画」というメディア「そのもの」”のことであり、「ジプシー民話」によって表象されるのは”「メディア」を介して伝えられる「物語」”のことに他ならない。また、「民話(folktale)」を「原型」と同義である捉えるなら、これは「古くからの話(Old Tale)」のことでもある……そう、「訪問者1」が自分の語る「言説」を「古くからの話(Old Tale)」と呼んだのと同じく、実はキングズレイの「ON HIGH」に関する「言及」も「古くからの話」であるのだ。

我々は、「インランド・エンパイア」の冒頭で、「映画」「ラジオ」「レコード」といったさまざまな「メディア」が提示されるのを観た。そして、「顔のない男女」によって”「機能しない家族」の「原型」”が提示されるのも目撃した。「Axxon N.」のことを「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ(Axxon N, the longest running radio play in history)」と「レコード」に録音されたナレーションは紹介するが、それは「映画」を含めた「メディア全般」によって延々と語られ続けるものである。そして、その「語られるもの=物語」の中には「機能しない家族」というテーマも含まれ、いろいろな「メディア」において、さまざまな作品の形で遥か昔から連綿と「提示されて続けてきた/提示され続けている」ことは間違いない。このように、”「メディア」を介して伝えられる「物語」”という「概念」自体が「古くからの話」なのである。

だが……もしそうならば、だ。多くの作品は、それ以前の作品の「ヴァリエーション」であり「リメイク」に他ならないのではないか? もちろん、これが非常に乱暴で大雑把な言い方であるのは承知している。しかし、「古典」が「古典」として現在においても存続している理由は、間違いなくそこにあるはずだ。我々=人間は「物語」を作り始め、あるいは受容し始めてから、そんなに変わっていない。人間が理解できる「論理」の「幅」は案外狭く、それはつまり、「ナラティヴなもの」の構成要素である「因果関係」が「有限」であることを意味している。かつ、我々が抱えている根源的な問題……たとえば「機能しない家族」といった問題が思い出せないくらい「古くからの話」であるなら、”何がそれを描いた「オリジナル」であるのか”という議論すら、おそらく成立しないだろう。そうした視点に基づくなら、デヴォンによる「リメイクには出ない(I wouldn't do a remake)」という「発言」は、非常に皮肉なものである。彼が露わにする「オリジナル信奉」は、明らかに「幻想」でしかないからだ。

さて、しかし、説明の順番が逆になったようだ。まず、「4-7」について言及するに先だって、キングズレイは「情報(information)」について、自らの思うところを述べる。

キングズレイ: (画面外から) Now, Freddie is purposefully out and about gathering what in this business is most valuable commodity-- information.
キングズレイ: Information is indispensable. You probably know this from your own lives. we all have people who gather-- agents, friends, producers. And sometimes they share. Sometimes not. Politics I don't know. Huh! Ego.(首筋を掻きながら) Fear.

彼の弁にしたがうなら、「情報」は「この商売ではもっとも貴重なもの」であり「なくてはならないもの」である。そして、彼は、「4-7」に関する「情報」をプロデューサーが故意に隠匿していると述べる。もちろん、実際にプロデューサーが監督であるギングズレイ以下のスタッフに「4-7」についての「情報」を意図的に隠したかどうか、「インランド・エンパイア」にはそれを明示的するような映像はまったく存在しないのだが、それはどうでもいい。ここで重要なのは、「情報」というものが、「政治的意図」のもとであれ、あるいは「エゴ」や「恐れ」からであれ、「意図的に隠匿され得る」ものであるということだ。なぜ、そんなことが起きるのか? もちろん個々の理由はさまざまだろう。だが、最大の理由は「情報」が「取り引き可能」な一種の「資本」であり、その集中は「権力の集中」と同義である。

……という観点に立ったとき、この「情報」に関するキングズレイの言及は二つのものを示唆することになる。ひとつは、キングズレイとフレディが「コントロールを受けるもの」であるという事実だ。当然ながら、これは「インランド・エンパイア」が後に言及する「動物」の「概念」、つまり「自律しながらも、より上位のものからのコントロールを受ける存在」につながるものであり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作において、キングズレイとフレディも”「動物」という概念が表すもの”に含まれるということを明示しているといえるだろう。興味深いのは、この「4-7」に関する「情報」をどこからか手に入れてきたのがフレディであることである。これは彼が後にニッキーとデヴォンに向かって「私は動物が好きだ(I've always loved animals)」と言及すること(0:39:27)と無関係ではないはずで、なおかつ彼が「Gable」という名の亡くなったスタッフの代役としてこの情報収集を行ったことが示唆されている。いずれにせよ、この後の描写をみても、フレディがいろいろな意味で「動物の扱いがうまい」ことは間違いなく、あるいはそれは自身が「動物」であることの自覚からくるものであることをうかがわせる。

もうひとつの示唆は、「映画」というメディアが抜き難く「工業製品」としての特性や、「集団作業」によって作られる「商品」であるという性格を備えていることである。そこでは経済的な「資本」と一緒に、「情報」という「資本」も同時に運用されることになることは自明だろう。もちろん、これらの事項は「映画」以外のメディアでも発生しうることではあるが、他のメディアに比べて格段に大きな資本投下が必要な「映像製作」において、こうした問題が占める比重が大きくなることもまた確かなのだ。こうした「映画製作」にまつわる「資本の問題」……正確にいうとそれを事由として受ける「作品内容のコントロール」がリンチにとって不本意なものであることは、「砂の惑星」のファイナル・カット権をめぐる経緯や、その後の「ブルー・ベルベット」製作に至るまでのリンチの動きを顧みれば明らかである。あるいはDVを使った「インランド・エンパイア」の製作や、その後の公開に向けて「ABSURDA」を設立した経緯にも、リンチの「映画」というメディアに対して感じている「不自由さ」は明瞭に表れている。以上のような事項を考慮したとき、「4-7」に掛けられた「呪い」とは、こうした”「映画製作」に関する「諸問題」”のリンチ流の「言い替え」なのではないかという可能性に行き当たる。

キングズレイは「4-7」の製作が中断され、完成しなかった理由を「完成前に何かが起こった(Something happened before the film was finished)」と語る。これもまた非常に漠然とした物言いだが、問題はその直後の彼の発言……「something insi-- inside the story」のほうだろう。キングズレイの話の文脈を優先して考えるなら、これは「『47』という映画の製作に関する内部事情(inside story)」のことを述べているように受け取れる。だが、このキングズレイの台詞を字義どおりに理解するなら、彼が言及しているのは「物語の内部(inside the story)」のことだ。続いて、キングズレイは「主人公の二人が殺された(The-- The two leads...were murdered)」と語るが、さて、この「殺人」は「4-7」の製作時に発生した「内部事情(inside story)」のことであるのか、それとも「物語の中(inside of the story)」でのことなのか? もし、この一連のキングズレイの発言も複合的なものであるのなら、これもまた「混乱」を引き起こすための周到な「仕掛け」であるといえるだろう。我々=受容者は、この時点で「現実」と「(作品内)現実」と「(作品内(作品内))現実」の見分けを失い、「受容者=登場人物=演技者」の「ネスティング」の中に取り込まれてしまう。この後、「インランド・エンパイア」はさまざまな「感情移入=同一化」を描き、その果てに存在する「見当識の失当」を提示するが、それはもうこの段階で始まっており、我々=受容者をもそのなかに巻き込んでいくのである。

2008年7月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (100)

えー、Linux用3号機を手に入れ、現在仕込み中の大山崎でございます。今度の機械も7年落ちだから、さては、まったく懲りてねえな(笑)。とりあえず動作確認をしようと、CDからブート……したら、いきなり「IRQ#15 Dsiabled」とか出てきて途中でハングしやがるのよ。ななな、なんだンねン……と、思わず「芦屋雁之助」化する大山崎(笑)。いきなり壊れたわけ? と青くなりつついろいろ調べたところ、どうやら故障とかじゃなくてこの機種特有の問題らしいことが判明。ブート・オプションをつけて再度トライ。今度は無事に立ち上がっていただけまして、メデタシメデタシ。まだ完全にセッティングは終わってませんが、んなこんなを経て、現在、3号機でこの文章を書いております。

閑話休題、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」であったりする。今回は(0:23:59)から(0:33:51)までを追いかけてみることにする。

「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のプリ・プロダクション期に関する事項は終わり、このあたりから撮影を含めた「製作(プロダクション)期間」に発生する事象についてのシークエンスが提示され始める。言葉をかえれば、これからしばらくの間、「インランド・エンパイア」は「映画を作ることの映画」であるということだ。

と同時に、このシークエンスあたりから、リンチ作品特有の「表現主義的な描写」や「半具象性」が、その存在を明瞭に主張し始める。

たとえば、このシークエンスにおいて、初めて「スミシーの家」が姿を現す。とはいえ、デヴォンがニッキーに説明するとおり「スミシーの家」のセットはまだ作られている最中である。木の板に遮られ帆布に覆われて、ステージ内の薄闇に沈む「スミシーの家」の「全貌」は、まったく明瞭ではない。ここで映像として提示される「スミシーの家」のセットは、まるで「人間の内面」のように外から中を伺えない状態であり、そのままリンチの言う「何かよくないことが起きる場所」としての「家」の体現化であるといえるだろう。「インランド・エンパイア」において、「スミシーの家」は第一義的には登場人物=スーの「内面」である。と同時に、演技者=ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」が深化することによってニッキーにも「共有」され、"1回目の「Axxon N.」の発現"以降は両者の「混淆物」である”スー=ニッキー”の「内面」となるとともに、「実際の家」として「実体化/具現化」する(1:03:40)。

だが、現在のシークエンスの段階において、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」はまだほとんど形成されておらず、「内面の共有」など存在すら覚束ない状態である。建造途中の「スミシーの家」のセットが表象しているのは、今現在のニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の状態……つまりは彼女の「内面」にあるものだ。ニッキーの「スーという登場人物」に対する理解が「漠然」としたものに留まり、まだ「感情移入=同一化」の形成にまで至っていない限り、「スミシーの家」は「雑然」とした「構築途中」のものでしかない。「インランド・エンパイア」が提示する「スミシーの家」に関する「映像表現」は、リンチ特有の究めて表現主義的な発想に基づくものであるわけだが、それはこのシークエンスにおける”建造途中の「スミシーの家」”の描写からすでに始まっているのだ。

しかし、”ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の状況は、(0:27:00)からのニッキーとデヴォンによる「シナリオの読み合わせ」が始まった途端、それこそあっという間に激変する。キングズレイが言うように、それこそ軽いラン・スルーであったはずのこの「読み合わせ」において(this is just a rough run-through, so don't... be hard on yourself)、いきなりニッキーは「演技者としての高い能力」を発揮するのだ。そして、彼女のほほを伝う「涙」が示唆するように、ニッキーの「演技能力」を成立させているのは、彼女の「感情移入能力」に他ならないのである。

さて、ここで、いくつかの「疑問」……というより、「思い付き」が浮上する。「読み合わせ」から続く「姿なき侵入者」のシークエンスが、(1:00:00)からの"1回目の「Axxon N.」の発現"のシークエンスと「対応」するものであるのは、間違いないところだろう。たとえば(1:01:57)のショットは明確に「読み合わせ」中のニッキーたちの映像であるし、その後、デヴォンが「姿なき侵入者」を確認に行き、「スミシーの家」の内部を窓越しにうかがうシークエンスは(当然、「内部=内面」は見えない)、明らかに(1:04:06)あたりのシークエンスに対応している。それを前提にするなら、"1回目の「Axxon N.」の発現"を喚起したものは、実はこの「読み合わせ」において発揮された演技者=ニッキーの高い「感情移入=同一化の能力」に他ならないのではないか……というのが、まず第一の疑問である。なによりも、「インランド・エンパイア」の作中、三回にわたって発現する「Axxon N.」が"演技者=ニッキーの登場人物=スーへの「感情移入=同一化」の成立/深化/解体"と関連していることは、繰り返し述べてきたとおりだ。その限りにおいて、このシークエンスで提示されるニッキーの「演技者としての能力=感情移入能力」は、「Axxon N.」およびそれに関連する事象に、ダイレクトに関係するものであるはずだ。

次に気になるのは、この「対応」する「姿なき侵入者」と"1回目の「Axxon N.」の発現"の二つのシークエンスが、「同時性」を備えているのかどうかという点である。ひらたくいえば、現在論じている「姿なき侵入者」のシークエンスと、"1回目の「Axxon N.」の発現"を描いた(1:00:00)からのシークエンスは、「同一」の「事象」を異なった「視点」で描いたものであるか否か……ということだ。その妥当性はともかくとして、この可能性は「インランド・エンパイア」の作品構造について、また異なった方向からの光を投げかける。この考えに沿うなら、"1回目の「Axxon N.」の発現"の際に発生した「視線の交換」をキー・ポイントにして、「インランド・エンパイア」は二種類の「視点」を発生させていることになる。「視点」のひとつは、もちろん現在論じているシークエンスの(0:27:00)から(1:00:00)までがそれであり、「演技者=ニッキー」に関連する「事象」を……「スミシーの家」の「外」の事象を描いている。もう片方の「視点」は(1:03:40)の「スミシーの家の「実体化/具現化」」以降のシークエンスがそれにあたり、「登場人物=スー」および彼女とニッキーの「混淆物」である「スー=ニッキー」に関連する事象を……つまり、「スミシーの家」の「内部」で起きる「事象」を描いていることになる。

もちろん、この二つの「視点」による両シークエンスで描かれている”具体的な「事象」”の間に「連動性」が存在しているわけではない。たとえば、「ニッキーを描く視点」のシークエンスで提示されている「照明係バッキー・ジェイ」のエピソードに対応したエピソードが、「Axxon N.」が発現した以降のシークエンスに存在していたりするわけではないのは明白だ。基本的に、この二つのシークエンスは「ニッキー」あるいは「スー(=ニッキー)」を描くものとして独立しているし、どちらがどちらに対して「優位」にあるわけでもない。敢えていえば、前者がどちらかといえば「外的な事象」であり、後者が「内的な事象」という言い方ができるかもしれないが、前者のパートにおいてもニッキーの「感情移入=同一化」が進むに連れて表現主義的な映像が頻出しているので、実際にはそうした単純な切り分けは無意味だし不可能である。最大の差異はといえば、前者が演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」を描く「映画を作ることの映画」のパートであるのに対して、後者はロスト・ガールの「感情移入=同一化」に関するシークエンスを内包する「映画を観ることの映画」としてのパートであることだろう。

なによりも、"「Axxon N.」の発現"は、「観るもの」と「観られるもの」の発生である。このシークエンスにおける「観られるもの」はニッキーであるわけだが、その一方で「観るもの」の具体的な「姿」がまったく現れないことは非常に示唆的だ。ここで発生した「観るもの」は「ニッキー=スー」という、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の結果として生まれたものであり、そして「感情移入=同一化」が形成されるのが「人間の内面」である。その限りにおいて、ニッキー=スーが「目に見えるもの」=「観られるもの」になることはあり得ない。ニッキー=スーが「観られるもの」に転じるのは、「スミシーの家」の実体化という「内面」が「外面」に転じるイベント以降であり、受容者=ロスト・ガールという究極の「観るもの」を得てのことである。このように、「インランド・エンパイア」は、「演技者の登場人物への『感情移入=同一化』」を経て、次に「受容者の『登場人物=演技者』への『感情移入=同一化』」へと、「観るもの」と「観られるもの」の関係をシフトさせていく。そして、この「関係のシフト」をつうじて構築されているものこそが、「受容者=登場人物=演技者」の「ネスティング」という「インランド・エンパイア」の基本構造なのである。

(この項、続く)

2008年7月13日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (99)

今回の「インランド・エンパイア」話は、ちょいと趣向を変えて、「マリリン・レーヴェンス」の原型となったのかもしれない二人の女性芸能ゴシップ・コラムニストについて、ぶっ書いてみる。一人はルエラ・パーソンズ(Louella Parsons)、そしてもう一人はヘッダ・ホッパー (Hedda Hopper)である。

Parsons ルエラ・パーソンズは1881年8月、イリノイ州生まれ。1910年ごろからの「シカゴ・トリビューン」紙の記者や映画会社とのシナリオの仕事を皮切りに、1914年には「シカゴ・レコード-ヘラルド(Chicago Record-Herald)」紙に映画関係の芸能記者として自分を売り込み、雇われる。当時はまだ、いわゆる「ザ・トラスト」の流れをくむ映画会社による東海岸での映画製作が続いており、シカゴでも「ザ・トラスト」の特許の縛りから逃れた独立系の映画製作会社が存在していた。それと並行してハリウッドでの映画製作が1907年から始まっており、そのためニュー・ヨークとロスアンジェルス間で映画スターの行き来が発生していた。その際、汽車は経由地であるシカゴで2時間停車する。そこを狙って移動中の映画スターからインタビューを取る……というのがパーソンズのアイデアであり、それが認められての採用であったらしい。こうして、世界最初の「映画コラムニスト」が誕生する。

ところが、1918年、突然「シカゴ・レコード-ヘラルド」紙は買収され、彼女はそこでの仕事を失ってしまう。このときの買収したのが新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)であり、彼女は東海岸に移り、「ニュー・ヨーク・モーニング・テレグラフ(New York Morning Telegraph)」紙でシカゴ時代と同様の映画コラムを書くことになった。ニュー・ヨークでの仕事を続けていたパーソンズは、1923年、大きなチャンスを得る。彼女の書いたコラムがハーストの目に止まり、抜擢を受けた彼女は好条件で雇われ、ハースト傘下の「ニュー・ヨーク・アメリカン(New York American)」紙で映画コラムを書くことになったのである。

1925年、結核を患ったパーソンズは、療養のためにアリゾナ州を経てカリフォルニア州パーム・スプリングスへ転地したが、これが新しい転機となった。翌年、回復した彼女はニュー・ヨークでの仕事への復帰をハーストに申し出るが、それに対して彼はこう答える……「いまや映画産業の中心はハリウッドだ。そこが君の留まるべき場所だと思う」。映画産業の興隆は西海岸を中心にして続いていくだろうこと、そこで作られる映画作品が今後大きな文化的影響力を持つであろうこと……つまりは「ハリウッドがネタとして美味しいこと」*に彼らは気づいていたのである。西海岸に活動拠点を移したパーソンズに、ハーストは大きなプレゼントを用意した。彼女の書いた芸能記事が、全米400紙以上の新聞に配信されることになったのだ。このコラムを武器に、パーソンズはハリウッドでの影響力を高めていく。

1928年、パーソンズはコラム執筆のかたわら、ラジオで芸能インタビュー番組を担当し始める。だが、番組は短命で終わり、その後も何度か番組を担当したものの、初めて大きな人気になったのは、1934年から始まった「ハリウッド・ホテル(Hollywood Hotel)」という番組だった。番組の中では出演した映画スターがこれから公開される映画の宣伝として、台本の一部を読み上げるというコーナーがあり、いわゆる映画の「スニーク・プレヴュー(sneak preview)」というコンセプトを初めて採用したのは、この番組が最初である。

パーソンズは芸能コラムニストとして不動の座を維持し続け、1964年に引退するまで、ハリウッドに対して大きな影響力を発揮した。ときとして彼女が「記事にしないこと」は「記事に書くこと」と同じくらい重要であり、さまざま思惑のもとにさまざまな情報が彼女の元に集まった。その調査力は多くのアシスタントによるものだったが、ハリウッドのあらゆる所に多くの「情報提供者」を直接抱えてもいたらしい。嘘か本当かわからないが、ある女優が妊娠していることを当の本人よりも先に知っていたなどという話もあるぐらいだから恐るべしである。だが、彼女の書く記事はしばしば「事実」と「虚構」の混淆物であり、純然たる「報道」であるとは限らなかったらしい。

しかし、今なお語り草となっているのは、彼女と、同じく芸能コラムニストだったヘッダ・ホッパーとの間の「確執」だ。

Hedda ヘッダ・ホッパーは1885年3月、ペンシルヴァニア州生まれ。劇団のコーラス・ガールを経て、俳優だった夫とともに1915年にハリウッドに移住する。「Battle of Hearts」(1916)で映画デヴューした後、1930年代半ばまでに端役として100本を越えるサイレント映画に出演したが、基本的にずーっと鳴かず飛ばず。何か他の収入源を探していた彼女に芸能コラムニストの話が舞い込み、執筆を開始したのが1937年、50歳を越えてからの転身だったということになる。

皮肉なことに、ホッパーが芸能コラムニストとしてデヴューするにあたっては、ルエラ・パーソンズの助けがあった。彼女をウィリアム・ランドルフ・ハーストに紹介したのは他ならぬパーソンズであり、彼の伝手でホッパーは「ワシントン・タイムズ-ヘラルド(Washington Times-Herald)」紙の芸能コラムニストの職を手に入れる。これで終われば単なる「いい話」なのだが、その後、「ワシントン・タイムズ-ヘラルド」紙が「ロスアンジェルス・タイムズ(Los Angeles Times)」紙に買収され、ホッパーの記事が全国配信されるようになったころから話はヤヤこしくなった。そもそも生来のゴシップ収集能力を買われて芸能コラムニストに転身したホッパーのこと、ハリウッドの映画業界を舞台に、彼女とルエラ・パーソンズとの間で文字どおり「抜きつ抜かれつ」の「スッパ抜き合戦」が始まってしまったのだ。当然ながら、パーソンズにとって、ホッパーは「縄張荒し」以外のなにものでもなかったわけである。

ホッパーのトレード・マークとなったのは、写真でも被っているような派手な「帽子」だった。芸能コラムニストとして後発だった自分を目立たせるためのパフォーマンスであったのか、あるいは女優だった頃からのナチュラルな好みだったのか、ちょっとわからない。が、自伝のタイトルが「From Under My Hat」だったりするところをみると、こうした「外見上の差異」をセールス・ポイントとして意識していたことは間違いないだろう。一応はジャーナリスト出身であり、対称的に地味な服装でとおしたルエラ・パーソンズとしては、こうしたホッパーのパフォーマンス自体が目障りだったかもしれない。

こうした出自の違いは執筆スタイルにも表れていて、正直な話、パーソンズと比べてホッパーはあまり文章が堪能だったわけでないようだ……というより、本人はスペルや文法すら怪しかったという説があるくらいで、口述筆記を行い、何人かのゴースト・ライターがリライトして仕上げた記事をチェックするというのが、ホッパーの記事作成手順だった。「シナリオ作成術」に関する著作もあるパーソンズとは、このあたりも好対称であったといえるだろう。ホッパーの筆は辛辣であり、自分が気に入らないスターに関しては、記事でケチョンケチョンにけなしたが、さて、これも「口述筆記」による「口の勢い」だったのかどうか。「鳴かず飛ばずの女優だったホッパーの、スターに対するルサンチマンの表れ」という見方もあるが、真相はなんともである。ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)などの政治家や、FBI長官のエドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)ともコネクションがあり、それを取材活動に活用するとともに、逆にマッカーシーの「赤狩り」が映画業界に対し行われた際には、その対象となる映画関係者のリスト・アップを行って彼に協力したという話もある。

1939年11月からCBSで始まった「The Hedda Hopper Show」を皮切りに、ホッパーもパーソンズと同じくラジオでの芸能ゴシップ番組を担当するようになる。さまざまなラジオ局でいろいろな番組を担当した後、テレビにも進出し、1960年1月には「Hedda Hopper's Hollywood」というスペシャル番組がNBCでオン・エアされた。この番組にはホッパーの親友だったルシル・ボール(Lucille Ball)をはじめ、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)などの過去のスターを含む多彩なゲストが出演した。

1966年に肺炎で死去する直前まで、ヘッダは「シカゴ・トリビューン」系列の各紙や映画情報誌にコラムを書きつづけた。

……とまあ、この二人がハリウッド黄金期における「芸能ゴシップ・コラムニスト」の二大巨頭であったわけだが、彼女たちが「ポジティヴなもの/ネガティヴなもの」を全部ひっくるめた「ハリウッド伝説」の成立に直接的間接的に寄与したこと、ひいてはリンチのスタンディング・ポイントである50年代アメリカの文化的/社会的状況のある面を形成する一端として機能したことは間違いないだろう。面白いのは、ハーストがオーソン・ウェルズの「市民ケーン」(1941)の公開を阻止しようとした際には、当然ながらパーソンズもホッパーもそれに加担する記事を書いたことだ。彼女たちの間に横たわる確執や差異はともかくとして、その行動原理が基本的に同じものであったことは、このことからも明らかである。

もし本当に「マリリン・レーヴェンスのモデル」としてリンチが彼女たちを意識したのだとしたら、ウェイト的に高いのは、どちらかというとヘッダ・ホッパーのほうではないだろうか……と個人的には思う。テレビ番組のホストをつとめたのもさることながら、実はホッパーはリンチのフェイヴァリット作品である「サンセット大通り」(1950)に、セシル・B・デミルとならんで本人役で出演しているのだ。ホッパーの出演シーンは終盤近く、ギリスの死体が運び出された直後のデズモンド邸で一人の警官が電話を掛けようとすると、誰かが先に別の電話機で回線を使っていてつながらない。警官は「誰が電話を使っているんだ?」と受話器に向かって怒鳴るが、そのとき先に電話を使っていたのがホッパーだ。彼女は「こっちの話の方が重要だから、そっちが切れ」と強引に主張して逆に警官に電話を切らせ、「タイムズ」へ電話送稿を続けるのである……どういう手を使って入り込んだのかはわからないが、警官で一杯のノーマ・デズモンドの寝室から。いや、ホントに取材中にそーゆーことをやってたんだろうな、と思わせるエピソードではある。いずれにせよ、こういう芸能記者に目を付けられたのではニッキーもたまったもんじゃなく、デヴォンがマリリンを挑発するに至っては「ナニすんだよ、ヲイ」な感じだったであろうことは想像に難くない。

当然ながら、二人ともHollywood Walk of Fameに「星」を残している。ヘッダ・ホッパーの「星」は「6313 1/2 Hollywood Blvd.」にあり、一方のルエラ・パーソンズには二つの「星」がある。ひとつはラジオでの仕事に対して(6300 Hollywood Blvd.)、もうひとつは映画界での業績に対して(6418 Hollywood Blvd.)である。


*
実際、1921年に起きた喜劇俳優のロスコー・アーバックルによる女優暴行殺人事件(裁判では「事故」ということで決着がついた)を始めとして、20年代のハリウッドではさまざまな「醜聞事件」が頻発した。ルエラ・パーソンズたちにとっては「美味しいネタ」であったわけだが、相継ぐ不祥事を起こす映画業界に対する世間の非難が高まり、それは以前からあった宗教界や政界からの「映画の作品内容」への批判を激化させる「引き金」となった。対抗手段として映画産業は作品の「自主検閲」を強め、最終的にこの流れはいわゆる「ヘイズ・コード」と呼ばれる「映画製作倫理規定」の制定と、その厳格な運用につながっていくことになる。

2008年7月12日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (98)

うおお、暑いぞ。というわけで、外出する気分にもなれず、クーラーが入った部屋に引き篭ってビールを飲みつつ書きなぐる「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続きであったりする。いやあ、やっぱ昼から飲むビールがうまいのう。メタボ一直線だのう。

この後、「インランド・エンパイア」はしばらくの間、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品の「プリ・プロダクション期間」における事象を提示する。タイム・スタンプでいうなら、(0:19:13)から(0:23:59)までの間がそれにあたる。そこで描かれているものは、「映画スタッフの顔合せ」であったり、「テレビ」のトークショーでの紹介であったりで様々だ。だが、そのいずれのシークエンスにおいても、「インランド・エンパイア」が内包するいろいろな「もの」が表出している。

これらの事象を表す映像に先立ち、以下のような映像が提示される。

ハリウッド 屋外 (0:19:13)
ロング・ショット。「HOLLYWOOD」のサインの遠景。ズーム・アウトしながら、下方にパンして、灰色の屋根に白い壁の建物と、その壁に大きく書かれた「ステージ32」の表示を映し出す。

いうまでもなく、このショットは「エスタブリッシュメント・ショット」として機能している。これから提示される「場所」が「ハリウッド」であることはもちろん、題材とされている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」がハリウッド映画であることや、演技者=ニッキーが「ハリウッド伝説化」することまでを全部合わせて我々=「インランド・エンパイア」の受容者に向けて説明しているわけだ。なおかつ、直後に提示されるシークエンスの舞台が、下方にパンした後の「建物」の……「ステージ32」の「内部」であることまでを説明して、このショットは終わる。

続いて提示される(0:19:23)-(0:20:36)のシークエンスも、基本的に我々=受容者のための「説明」のためのものであることは明白だ。そこでは演技者であるニッキーやデヴォンだけでなく、監督のキングズレイなどのスタッフについての「説明」もなされる。だが、「受容者に対する説明=エスタブリッシュメント・ショット」という視点からみたとき、このシークエンスの映像は少しおかしい。というのは、そこにはニッキーとデヴォンとキングズレイの「位置関係」を「説明」するショットが欠落しているのだ。かろうじて「説明的」に機能しているのは(0:19:30)のミドル・ショットだけだが、そこにはニッキーの姿はない。明らかに「視線」を交換しているはずのニッキーとデヴォンのツー・ショットすら存在せず、結果として、このシークエンスにおけるニッキーの正確な位置は明らかにされないまま終わってしまう。おそらくは、キングズレイの「視線」の方向にニッキーがいるのであろうという推測はできるが、それを裏付ける映像は完全に欠落している。普通に考えて、これは矛盾している。「インランド・エンパイア」全体をマクロにみれば、このシークエンスがデヴォンとキングズレイたちといった主要登場人物の紹介という重大な機能を果たしているのにもかかわらず、このシークエンス「自体」の説明というミクロな機能を果たせていないのだから。

なぜこのような「カッティング=表現」がされているかについては、いろいろな考え方ができるように思う。たとえば、「ハリウッド」におけるニッキーの演技者としての「位置」の不確かさや、まだ顔合わせをしたばかりで「分断」された状態のスタッフ/演技者の関係性など、この「曖昧さ」を伴った「表現」の解釈として思いつくものは様々にある。特に前者に関しては、これから展開されるのが「ニッキーの伝説化」である以上、あるいは必然的なものであるといえるはずだ。だが、より重要なのは、極論すればニッキーが同じ部屋の中にキングズレイやデヴォンたちと一緒にいるのかどうか、それすら映像的には保証されていないという「事実」であり、そういう「表現」が採用されているいうことである。これがどういうことであるかについては、後ほどもう一度触れよう。

「歓声と拍手」をサウンド・ブリッジとして続く「マリリン・レーヴェンス・ショー(The Marilyn Levens Starlight Celebrity Show)」のシークエンス(0:20:36)-(0:22:19)には、多くのものが内包されている。まず確実にいえるのは、これば「テレビ」というメディアの表象であるということだ。「映画」およびその周辺に関連するものの情報が、「テレビ」という類似/対抗メディアによって伝えられるという状況が、まず提示される。ロスト・ガールが「モニタ」で観ている「ノイズ」に、このショーの映像が内報されているかどうかは微妙なところだが、過去何度か触れたように、ニッキーやデヴォンという「演技者個人」に対する「関心」が、結果的に「感情移入=同一化」に連結されることは見逃してはならないだろう。

そして、そこで提示される「話題」は、ある意味でニッキーにとって新たな「トラブル=機能しない家族」の発生であるという側面を持つ。マリリンによって挑発的にデヴォンとの間を問われること自体が、演技者=ニッキーにとって本意でないのは彼女の様子をみても明らかだ。たとえば、ドロシー・ラムーアがそれまでの自分のイメージを変えるためにサロンを焼くパフォーマンスを必要だった事実の根底には、受容者を含めた周辺がそうした情報を求め(正確性は問題ではない)、メディアが乗るという構造が存在していたことは間違いない。誰かの「イメージ」は、ときとして、本人の意志とは関係なく第三者によって作られる。ショーのアナウンサーが「言及」するように、(「スターが夢を作る」のと同時に)「夢がスターを作る(dreams make stars)」のである。ドロシー・ラムーア自身の「イメージ」がその出世作での役柄の「イメージ」によって「規定」されたように、「ニッキーとデヴォン」との関係がマリリンの言動によって「規定」されようとしているのだ。おそらく、「マリリン・レーヴェンス・ショー」を観た視聴者の何割かは、「ニッキーとデヴォンの不倫」を「既定事実」として理解したはずである。こうした意思に反した「セクシャリティ」の「切り売り」は、ニッキーにとって「自らの意思が反映できない一方的な関係」であることは間違いない。ニッキーにとっては、これは広範な意味での”「娼婦」と「客」の関係”の強要である。

だが、では、我々は……「インランド・エンパイア」を受容している「我々」はどうなのだろう? 

この後のシークエンスを綿密にみれば明白なのだが、「スーとビリーの不倫」を表す映像は間違いなく存在するものの、「ニッキーとデヴォンの不倫」を表す具体的かつ明瞭な映像は、実は「インランド・エンパイア」のどこにも存在しない。たとえばニッキーとデヴォンはイタリア料理レストランでの食事の約束をするが(0:51:04)、食事の後に何が起きたかの映像はもちろん、食事をする場面の映像すら欠落している。本当に二人が食事に行ったのかさえ、我々には確認不能なのだ。(0:56:20)からのシークエンスに至っては、デヴォンは一貫して自分が「ビリー」を演じているという認識であることが伺え、あまつさえその「場所」は「スミシーの家」のベッド・ルームであることを考えると、この「映像」を100パーセント「作品内現実」のものとして捉えることは不可能だ。このように、ニッキーとデヴォンの間になんらかの”関係”が発生していたのか、いなかったのか、映像上はまるで定かではないのである……そう、ちょうど、「ステージ32」の中の部屋にニッキーがいるかどうかも定かでないのと同じように。

にもかかわらず、多くの映画評が「女優のニッキーがリメイク映画の撮影をしているうち、演じる役と同様に共演者と不倫関係に陥っていく」という配給会社が出した「内容紹介」を検証もせずに引用し、かつ多くの受容者が「ニッキーとデヴォンの不倫」を「既定事実」として受け止めてしまっている状況は、「マリリン・レーヴェンス・ショー」が表すものとの対比において実に興味深い。マリリン・レーヴェンスによる「仄めかし」や「虚言」を彼女の番組の視聴者たちが「既定事実」として受け取るのとまったく同じように、「インランド・エンパイア」の受容者である我々は「ニッキーとデヴォンの不倫」を「作品内の既定事実」であると思い込むのだ。我々にとっての「事実」とは、ときとして、我々が「事実」と思い込みたい「錯誤」のことである。そうした我々自身の「認識の構造」を、「インランド・エンパイア」はさまざまなレベルで我々に向かって突き付ける……すなわち、「マリリン・レーヴェンス・ショー」のシークエンスそのものと、作品が内包する「表現」自体との、「合わせ技」でもって。

そして、我々=受容者がここで「『インランド・エンパイア』についての事実」と思いたい「もの」の一部には、「マリリン・レーヴェンス・ショー」で顕在化した「セクシャリティ」の問題も絡んでいる。「マリリン・レーベンス・ショー」の視聴者と同じく、我々はニッキーにデヴォンと不倫して「欲しい」と思い、それを「当然」だと思っているのだ*。この構造は、当時の受容者がドロシー・ラムーアに「サロン」を着て「欲しい」と思っていたのと、まったく同じである。映画館の安全な暗闇のなかから、あるいは回りに誰もいない自室で、我々は「スクリーン」や「モニタ」に映し出された”ローラ・ダーンとジャスティン・セロー”による「セクシャリティ」の切り売りを「窃視」する。「感情移入=同一化」の問題をはじめとして、「インランド・エンパイア」で描かれている多くの事象がその受容者である我々に直接跳ね返ってくるものだが、この「セクシャリティ」の問題もまた例外ではないのである。

「セクシャリティ」の問題は、収録終了後の控え室(0:22:19)-(0:23:24)においても継続する。デヴォンとマネージャーとの会話は明白に「セクシャリティ」の問題についての事項であるし、運転手による「でも、確かにいいケツしてるよな(Your gotta admit, though, she's got a nice ass)」という発言が、それを明確にしている。当然ながら、これも「ニッキーの意思の反映」ではない。かつ、このシークエンスにおいてニッキーの「夫」のことについても言及され、彼が「監視/干渉」のイメージを付随させ、場合によれば「懲罰を下す存在」であることについても明らかにされる。

「デヴォンとの仲」を匂わせる(というより喧伝する)マリリンの言動は、ニッキーにとって、すでに存在する「トラブル」を……夫=ピオトルケによる「監視/干渉」をエスカレーションさせるものでしかない。これもまた「ニッキーの意思の反映」ではないのは明らかだが、帰宅する彼女を待ち受けるのはエスカレートした「トラブル=機能しない家族」であることを、ニッキーは認識している。その状況を表すのが、帰宅するニッキーのシークエンス(0:23:24)-(0:23:59)である。「友人の乗った自動車が走り出すのも待たず、ニッキーが戸口に向かうこと」や、「彼女が玄関の前でしばし躊躇い立ち止まる様子」、そして「屋敷に入る際の彼女の表情が逆光になったライティングのためによくわからないこと」などが、彼女の「内面」にあるものを映像として伝えているといえるだろう。その後、実際に「ニッキーの屋敷」の内部でどのようなことが起きたかのか。それは形を変えて、別のシークエンスにおいて提示されることになる。

*もちろん、「ニッキーとデヴォンの不倫」が「事実」であったほうが、「ナラティヴ(物語)」上もわかりやすいという理由もある。だが、いずれにせよ、これまでもみてきたように、「非ナラティヴ」な作品である「インランド・エンパイア」がそうしたアプローチによる理解を許さないのは明白である。

2008年7月10日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (97)

Linux1号機がオシャカになってから、Linux2号機を書き物用に使用しておりますんですが、この機体は発熱がすごくて冬場はカイロ代りになっておヨロシイんですけど、これからの季節はちょとツライもんがあるのだな(笑)。てなわけで、代替機を探しつつ「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。今回は(0:18:14)から(0:19:13)まで。 

……といいながら、その直前のシークエンスの最後の「映像」から、具体的に追いかけてみることにする。 

ニッキーの屋敷の内部 (0:17:46)-(0:18:14)
(1)半ば画面右を向いた「訪問者1」のアップ。目だけはニッキーの方をうかがっている。
訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there. 微笑みともつかぬ表情を浮かべつつ、台詞とともに画面右の方向を向く「訪問者1」。
(2)「訪問者1」の主観ショット。人差指で部屋の向かい側にある長椅子を指差している「訪問者1」の右手。
(3)ニッキーのアップ。口を半ば開け、いぶかしさと恐れが混じったような表情を浮かべている。目だけを「訪問者1」に向けたまま、画面左の長椅子のある方向に頭を巡らせるニッキー。
(4)ニッキーの主観ショット。長椅子の方を見ている「訪問者1」のアップ。
(5)ニッキーのアップ。長椅子の方向からのショット。ゆっくりと頭を巡らし、それとともに視線を「訪問者1」から長椅子の方に向けるニッキー。
訪問者1: (画面外から)Do you see? 

ニッキーの屋敷の内部 (0:18:14)-(00:19:13)
(6)ミドル・ショット。カット(5)でニッキーが座っていると思われる方向からのショット。ニッキーと二人の友人が長椅子に座って、話し込んでいる。ニッキーは真ん中に座り、足を半ば長椅子の上にあげて、画面左手の友人1の方を見ている。画面向かって左に座った友人1は、右手を膝の上にのせ少し身を乗り出すようにしてニッキーを見ている。右に座った友人2は、肘掛部分に背をもたせかけ、右足を完全に長椅子の上にのせて、背もたれに右手の肘をのせて頭を支えつつニッキーの方を見ている。
ニッキー: You think that's really what he meant?*
(7)長椅子の方向からのミドルショット。黒いスーツ姿の執事が左手から姿を現す。画面の中央には二脚の椅子と、その前に置かれた低いテーブルが見える。カット(1)-(5)において、左の椅子にはニッキーが座り、右の椅子には「訪問者1」が座っていた椅子だが、今はどちらの椅子にも彼女たちの姿はない。
執事: (画面中央まで歩きながら)Excuse me, ma'am.
(8)ミドル・ショット。長椅子に座って話し込んでいるニッキーと二人の友人たち。
執事: (画面外から) Excuse me, ma'am.
三人は会話をやめて、執事の方を見る。
(9)ミドル・ショット。長椅子の方向からのショット。画面のほぼ中央、二脚置かれた椅子の向こうに、長椅子の方向を向いて立っている執事。
執事: Telephone. It's for you.
台詞とともに、右へ迂回しながらコードレス電話の子機を持ってニッキーたちに歩み寄る執事。右へパン。
(10)長椅子に座っているニッキーたちのショット。全員、執事の方を向いている。ニッキーがあげていた足を降ろし、長椅子の上で姿勢を変える。
(11)長椅子の方向からのミドル・ショット。右手に子機を持ってニッキーたち歩み寄る執事。
執事: It's your agent.
バスト・ショットまでアップになる執事のショット。煽り気味に少し右へパン。画面外で、ニッキーに電話機の子機を渡す執事。
(12)少し左からのニッキーのアップ。黒と白の模様のドレスを着ている。口を半ば開け、執事の方をみて差し出された子機を画面外で受け取る。うつむき気味に、右手で受け取った子機を耳にあてるニッキー。
ニッキー: (電話に向かって) Greg?
視線を上げて画面のやや右手を見るニッキー。不安そうな表情から、息をのみ、喜びの表情になり、立ち上がる。少し引きながら、上方にパン。

ニッキー: (息をはずませ) Greg?
電話の相手の言うことを理解し、大きく喜びの表情を浮かべて跳ねるニッキー。

ニッキー: (喜んで) Greg!?  (飛び跳ねながら) Aah! I got it! I got it! I got it!
後退するショット。ニッキーの両脇にいる友人たちも画面に入ってくる。ニッキーと一緒に飛び跳ねる友人たち。
ニッキー: Oh, I got it! I got it! I got it!
(13)ミドル・ショット。長椅子の方向からのショット。画面の中央、二脚の椅子の背後で、手を握り合わせ、片足を後ろに上げて「やったね!」のポーズをする執事。
(14)ニッキーのアップ。目を見開き、口を大きく開け、歓喜の表情を浮かべながら、画面右手の友人の方を見るニッキー。少し後退するショット。次いで、ニッキーは左の友人の方を見る。
友人1: Good for you!
友人2: Oh, I knew it!
ニッキー: Oh, I...I got it!
(15)ミドル・ショット。二階に続く階段の下からのショット。黒いスーツを着たニッキーの夫(ピオトルケ)が、左手を飾り格子が施された手摺にかけ、二階の階段の上から階下の様子を伺っている。
(画面外で)[ニッキーたちの歓声]
左手を手摺に掛けたまま、階段を降りながら階下の様子を伺うピオトルケ。少し左へパン。足元を確認しつつ、階段の途中まで降り、右手を階段の折り返しにある手摺の支柱の頭にかけ、なおも階下の様子を伺う。
ニッキー: (画面外で)I got it! I got it!
飾り格子がはめられた階段の手摺が見える。調度の基調は白で、ピオトルケの背後には部屋に続く扉が見える。画面右手には、壁に掛けられた絵が見える。
(16)ピオトルケの主観ショット。階下の部屋のミドル・ショット。画面ほぼ真ん中を区切る大理石の円柱。木の床に敷かれた絨毯。絨毯の上には長椅子が一脚と、椅子が四脚置かれているのが見える。長椅子の前で歓声を上げているニッキーと友人たちの三人。ニッキーと友人1が向かい合って飛び跳ねており、友人2はニッキーの背後で手を叩いている。
ニッキー: I got it!
(17)ピオトルケのバスト・ショット。階段の途中に立ち、なにやら不穏な表情を浮かべながら、階下の様子を伺っている。
(画面外で)[なおも続く歓声]
(フェイド・アウト)

 

さて、このシーケンスを、今までも何度かキーとなった「視線の問題」を中心に追いかけてみよう。

まず、映像的なところで気がつくのが、カット(1)-(5)における「視点の変遷」である。「訪問者1」とニッキーの「インタビュー/会話」が始まって以降、ずっとイマジナリー・ラインを意識した単純な「切り返し」が連続していたが、突然、この箇所で複雑な「視点の転換」を発生させる。具体的に挙げるなら、カット(2)の「訪問者1」の主観ショット、カット(4)のニッキーの主観ショット、そしてカット(5)のショットである。「訪問者1」とニッキーの間の「横方向」にのみ発生していた「視点の方向」が、「長椅子がある方向」を含めた「縦方向」にも発生している。と同時に、それまで明瞭でなかった「主観ショット」が、この部分になって急に「主張」を開始し、「観るもの」と「観られるもの」の「関係」を発生させる。一見「客観ショット」のようにみえるカット(4)も、カット(3)でニッキーが右方向へ(「長椅子」の方向へ)視線を巡らせ始め、カット(5)でもその動きが「継続(コンティニュー)」している間にインサートされていることから「主観ショット」として捉えることができる。さて、このように「変遷」した「視点」は、どこに向けられ、何を見るのか? だが、それを確認する前に確認しなければならないことがある。それは、その「視点」の持ち主の行方だ。

カット(5)カット(4)のカウンター・ショットとして捉えたとき、続くカット(6)カット(5)のカウンター・ショットとして捉えられる。端的にいえば、カット(6)カット(5)のニッキーが「観たもの」、彼女の「視線の先にあるもの」として捉えられるということである。ところが、カット(7)をみれば明白なように、カット(1)-(5)においてそれぞれの椅子に座り、「視点の持ち主=観るもの」であったはずの「訪問者1」とニッキーの姿が、カット(6)以降いつの間にか「消失」してしまっている。彼女たちはいったい、どこに消えたのだろう?

その後の「インランド・エンパイア」を観たあとならば……ニッキーあるいはスー=ニッキーあるいはニッキー=スーあるいはロスト・ガールによる「視線の問題」が意味するものを観たあとならば、この「視線の持ち主の消失」が何を表しているか、はっきりと理解できる。これは、「訪問者1」あるいはニッキーの「視線」が「我々=受容者」の「視線」に転換したことの提示だ。そのまま、この後のシークエンスは、カット(6)からカット(14)まで、「縦方向」のショット/カウンター・ショットによる「切り返し」に移行すしてしまい、我々はカット(6)の時点で自分たちが登場人物たちとの「視線の共有」を開始していることにすぐには気づかない。だが、この後、「インランド・エンパイア」は様々な「視線の交換/共有」を描き出し、それが”映画における「感情移入=同一化」の形成”と密接な関係をもっていること……たとえば、(1:01:51)における「観られるもの」としてのニッキーの「消滅」のように……を考えるなら、この一連のシークエンスが示唆する「視線の変遷/視線の共有化」は重要である。「インランド・エンパイア」における我々=受容者の「感情移入=同一化」を巡る旅は、すでにこの時点で始まっている。

もちろん、これらのショットによって強調されているのは、「明日であれば、あなた(ニッキー)はあそこに座っているはずだ」という「訪問者1」の「言及」であることはいうまでもない。この「視線の変遷」を通じて……特に、カット(2)の「無人の長椅子」のショットとカット(5)の「ニッキーのアップ」のショットを通じて、「ニッキー」と「長椅子」の関係性が浮かびあがってくる。

このカット(5)の映像が、(2:52:09)において再提示され、そこでの「視線の対象」が「長椅子に座っている青いドレスのニッキー=伝説化したニッキー」であることについては、すでに何度か触れた。このカット(5)のニッキーの映像は「括弧記号」として、あるいは音楽でいう「ダ・カーポ(反始記号)」として機能しており、結果として、(0:18:14)から(2:52:09)までのシークエンス全体と、(2:52:09)から現れる「長椅子に座った青いドレス姿のニッキー」の映像は「等価」であって、後者は前者の「ヴァリエーション」であることが理解される。逆の視点からこの「等価構造」をみたとき、「青いドレス姿のニッキー」という映像は、”(0:18:14)から(2:52:09)までのシークエンス全体”によって表されるものすべてを……「演技者=ニッキーの役の獲得」から始まり、「受容者の抽象概念=ロスト・ガールの感情移入」を経て、「伝説化するニッキー」という時間経過を伴った「概念」を……「内包」している。

そして、「ニッキーのハリウッド伝説化」を表すこれらのシークエンスやショットを接合する「機能」を担っているのが、「長椅子」というプロップである。すなわち、カット(2)で「訪問者1」が指し示す「無人の長椅子」、カット(6)のニッキーが役を獲得したという知らせを受ける「長椅子」、(2:52:09)およびエンド・ロールを通じて青いドレス姿のニッキーが座っている「長椅子」といった具合に、この三つの「長椅子」のショットを軸にして、演技者=ニッキーの「ハリウッド伝説化」が語られているのだ。逆にいえば、”「受容者=演技者=登場人物」の「ネスティング」”とは異なる、もうひとつの「インランド・エンパイア」の基本構造を……「ニッキーのハリウッド伝説化」という「省略されたストーリー」の基本構造を、この「共通項」である「長椅子」が明確にしているわけである。

さて、「視点の問題」から離れて、カット(6)からカット(17)までのショットによって形成されるシークエンスをみたとき、これらの映像群が伝えるものは二つあることが理解される。両方とも「訪問者1」が言及した「言説」に関連するものであり、そのうちの一つは早々と実現する。つまり、ニッキーが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」での役を獲得することである。残る一つは、演技者=ニッキーの「家」の内部で発生している「トラブル=機能しない家族」の提示……つまり、「訪問者1」が言及した”「結婚」と「夫」の関与”だ。実は、少なくとも演技者=ニッキーに関する限り、彼女が「トラブル=機能しない家族」の問題(の個別例)を抱えていることは何度か示唆されるが、実はその描写は「具体性」を欠いている……あるいは「顕在化」していない。それは、「ポーランド・サイド」におけるロスト・ガールとファントムのシークエンスや、「スミシーの家」におけるスーとピオトルケのシークエンスとの対比において明らかだ。そのことの意味は別の機会に述べるとして、このシークエンスにおいて、「ニッキーの屋敷」の「内部」で「トラブル=機能しない家族」の問題が発生していることが提示されているのは、カット(15)以降のショットによってである。 

”「ニッキーの屋敷」の内部の「トラブル=機能しない家族」の問題”という観点からみたとき、もっともわかりやすくキーとなるのは、階下を見下ろしているピオトルケの表情……特にカット(17)における表情だろう。彼が、妻=ニッキーが役を得たことを喜んでいないことは、その不穏な表情から明らかだ。かつ、「二階から階下をうかがう」という彼の行為自体に、「監視」のイメージが付随していることも見逃せない。だが、彼の「内面」をより雄弁に語っているのは、カット(16)の”ピオトルケの「主観ショット」による「階下の映像」”そのものである。この「階下の映像」が大理石の柱によって大きく「分断」されていること、そしてニッキーと友人たちが「分断」を発生させている「柱」と「長椅子」の間の狭い空間に押し込められていることは、ピオトルケの「演技者=妻=ニッキー」に対する「感情」を明瞭に表すものだ。これらの描写が伝えるのは、ピオトルケが、”ニッキーの「演技者」という職業およびそれに関連するもの”を、ひいては”ニッキー自身”を矮小化し見下しているということ、そしてそれを「要因」として家庭内に「分断」が発生していることである。 

ただし、「家」を「人間の内面」とする観点に立ち、「ニッキーの屋敷」を「ニッキーの内面」と捉えたとき、この「ピオトルケの行動/感情」についてはまた違った見方が可能である。なぜなら、そこにニッキー自身の「主観/感情」というバイアスがかかっている以上、これらの映像がピオトルケの「主観/感情」そのままの反映であるかどうか、我々=受容者は明瞭に断定できないからだ。少なくともこの時点において我々が確実に断定できるのは、「自分の『夫』が自分の職業に対して、そうした『感情』を抱いているとニッキーが感じている」あるいは「自分の『家』の内部に『トラブル=機能しない家族』の問題を抱えていると彼女が感じている」もしくは「自分は『夫』監視/干渉を受けていると彼女が感じている」いうことだけである。なによりも、我々が今現在、ニッキーと「視線を共有」し、彼女の「屋敷」によって表される彼女の「内面」を観ていることを忘れてはならないだろう。この後も、「インランド・エンパイア」には、繰り返し「ニッキーの屋敷」の「内部」で発生する「トラブル=機能しない家族」の示唆が現れる。それがニッキー個人に関連する「機能しない家族」の「個別例」であり、基本的に彼女の「視点」に基づくものであることを忘れてはならないはずだ。

*このカット(6)のニッキーの台詞も、(彼女が認識している)ピオトルケとの関係を考えると意味深である。「彼は本気でそう言ってると思う?」の「彼」とは「夫=ピオトルケ」のことなのか?

2008年7月 6日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (96)

ども、アルコール・レスの大山崎です。嘘です。今日も飲みました(笑)。でも、酔っ払ってても素面でも、言ってることはあんまし変わりません(笑)。

そのようなわけで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。前回からの続きとして、(0:08:37)から(0:18:14)までの「訪問者1」に関連するシークエンスをとりあげることにする。

さて、「訪問者1」による様々な「言及」のうち、三つ目に表れるのは「映画」というメディア全般に関することである。

パートD (0:14:03)-(0:16:07)
訪問者1: A little boy went out to play. When he opened his door he saw the world. As he passed through the doorway he caused a reflection. Evil was born. Evil was born and followed the boy.
ニッキー: I'm sorry. What is that?
訪問者1: An old tale. And the variation....a little girl went out to play.
訪問者1: Lost in the marketplace as if half-born.
訪問者1: Then ... not through the marketplace --  you see that, don't you --  but through the alley behind the marketplace.
訪問者1: This is the way to palace. But it isn't something you remember.
訪問者1: Forgetfulness. It happens to us all. And...me? Why, I'm the worst one.
訪問者1: Oh. Where was I? Yes.

パートE (0:16:45)-(0:17:06)
訪問者1: Yes. Me, I... I can't seem to remember if it's today, two days from now, or yesterday. Hmm. I suppose if it was 9:45,  I'd think it was after midnight.

パートF (0:17:06)-(0:17:44)
訪問者1: For instance, if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.
訪問者1: Actions do have consequences.
訪問者1: And yet. there is the magic.

この一連の発言の各所に、(リンチが考える)「映画」というメディアに関するキーワードが出現していることは、何度か指摘してきた。「映画」とは「世界(world)」であり、「映画を観ること」は「世界を体験すること」である……というのが、自著やインタビューで繰り返しリンチが表明している考えである。この「世界の体験」という考えに対するリンチのこだわりは「映画の受容環境/手段」のこだわりにつながっており、「iPhone」等の小型端末での視聴に対するリンチの批判の根底にはそうしたこだわりがある。このリンチの「こだわり」は「インランド・エンパイア」の各所にも反映されており、たとえば(2:35:49)からのシークエンスにおいて提示される、「映画館での受容」と「モニタを介した受容」の間に横たわる「等価関係/対置関係」の表現などに明瞭である。

まず、パートDをみてみよう。「映画」は「映写スクリーン(あるいは「モニタ画面」)」という「枠(フレーム)」に区切られている……そう、まさしく少年が「扉(door)」という「フレーム」を通して「世界」を見るように、我々は「映写スクリーン/モニタ画面」という「フレーム」を通して「映画」を観る。そして、「映画」という「感情移入装置」によって少年=受容者の「感情移入=同一化」が形成されるとき、彼=受容者はその「扉=フレーム=スクリーン」を通り抜けることになる。そうした事象が起きることがリンチのいう「(映画の)魔法(magic)」であるわけだが、その”「映画の魔法」の「概念」”が「ファントム」という怪しい”登場人物”によって表されているように……もしくは、ニッキー=スーによるサーカス団員たちに対する寸評(「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」(1:46:08))にも表れているように、それは時として非常に「いかがわしいもの」であり得る。映画史が明らかにするように、それは「映画」における「感情移入=同一化」が、実は受容者に対する「感情操作」と同義であり得ることと無縁ではないはずであり、それを表すのが”少年が扉をくぐったとき発生する「邪悪なもの(Evil)」”という表現であるわけだ。

この「邪悪なもの」=「映画の魔(法)」は、少年が「扉」をくぐり抜けるに際し、「reflection」が引き起こされた結果生まれる……と「訪問者1」は語る。我々が「映画」を観るときに実際に目にしているのは、「映写機の光」が「映写スクリーン」に「反射(reflection)」したものだが、それによって引き起こされた「感情移入=同一化」の結果として生まれるのは、「受容者の内面」における「内省(reflection)」である。そして、演技者=ニッキーが登場人物=スーに自らの「情緒の記憶」を投影したように、その「内省」には、我々=受容者自身がそもそも保有している(感情を伴った)記憶/回想(reflection)」「反映(reflection)」されているのは間違いない。「映画=世界」を体験することで(あるいは「感情操作」を受けたことで)受容者の内面で生まれた「感情」は、それが「内的なもの」であるがために「映画」が終わった後もずっと「つきまとう(followed the boy)」ことになるのだ。

「訪問者1」が言うとおり、確かにこれは「古くからの話(Old tale)」である。我々はもう辿れないぐらい昔から、いくつもの「感情を喚起するもの」を創り出してきた。「プリミティヴ(原初的)」な「絵画」「舞踏」「音楽」「演劇」に始まり、「口承」から「文字」による「物語記述」の変移などを経て、我々はそれらの「喚起するもの」を洗練させると同時に、技術の発達による新しい「伝達手段」も獲得した。そうした「伝達手段」が出現した結果、たとえば同時に受容可能な者が増えたり、遠隔地での受容が可能になったり、あるいは繰り返しやタイム・シフトによる受容が可能になったりといったように、「受容スタイル」の変化は発生したものの、それらが伝えるのが「なんらかの感情を喚起するもの」であるという本質は変わらない。「インランド・エンパイア」において、そのあたりを端的に表しているのが冒頭に提示される「様々なメディア」であり、あるいは「メディア」のひとつの原型として現れる「サーカス」であるといえる。リンチにとって「サーカス」がメディアであるのは、それが昔から存在する「感情を喚起するもの」の「集合物」であること……「舞踏」や「演劇」などの「原初的」なものを含めた「感情を喚起するもの」を集大成的に伝える「媒体」であるからだ。そして、「90歳の姪(90-year-old niece)」が「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice of hers)」を喋る(0:40:59)のも、「映画」というメディアにもこうした「古くから」の「感情を喚起するもの」が内包されているからに他ならない。

続いて、「訪問者1」は”ヴァリエーション”を語り始める。「少年」の話が「映画というメディアに関する言及」であるなら、当然ながらこの「少女」の話もまた「映画というメディアに関する言及」の”ヴァリエーション”であるはずだ。ここでキーになるのは、「市場(marketplace)」という言葉である。さて、これは「いちば」であるのか「しじょう」であるのか……という疑問を以前に呈したが、これを「しじょう」と捉えたとき、やはり浮かび上がるのが「映画」がその創成期から備えている「工業製品」あるいは「商品」としての性格である。「映画」というメディアが「発明」され、しばらくして「物語」を語り始めたとき、さまざまな「映画論」が従来のメディアとの比較において「映画」というメディアを規定しようとした。そのなかで共通して指摘されたのが、「集団作業を前提とした製作」といった部分や、「資本力を必要とする投資対象」といった産業的な部分である。ごく一部の例外を除いて、基本的に「映画」というメディアの「産業的な性格」は現在に至るまで変わっていないし、我々もそれを前提として「映画」を受容していることは間違いない。たとえば、我々が「ハリウッド映画」という言葉を耳にしたとき想起するものには、「資本投下&回収システムとしてのハリウッド」という概念だけでなく、そこで作られる映画の「ルック」や「テーマ」や「内容」までが含まれる。正直なところ、「枠組が内容を規定してしまう」というのはありふれた話なわけだが、となると、「『市場』の中を通るのでなく、その裏道をたどることが宮殿に至る道である」という表現が含意するところは、露骨なぐらい明瞭だろう。リンチは、資本原理を理由とした「介入/コントロール」から離れることを……他のものと引き換えにしてでも「ファイナル・カット権」を自分で確保することを「ブルーベルベット」の段階から自らに課した。それは「砂の惑星」製作時における「ファイナル・カット権」を巡るトラブルを経てのことであり、それが「市場の中で迷った」リンチにとって「宮殿に至る道」であったわけだ*

加えて、「宮殿への道」を「忘れている者」を表すものとして、演技者=ニッキーが言及される(But it isn't something you remember)。だが、この「you」が間違いなく「単数」であるという保証はない。我々は、「インランド・エンパイア」が描く作品内の事象が……たとえば、「ハリウッド・ブルバード」における「スー=ニッキーの(フェイクの)死」が喚起する「感情移入=同一化」の切断(2:32:23)のように……しばしば、それを観ている「我々=受容者の事象」とそのまま重なりあっていることを知っている。であるならば、”「宮殿への道」を「忘れている者」”である「you」のなかに、「我々=受容者」が含まれていないと誰が断言できるだろうか。なにしろ、「忘却(Forgetfulness)」「私たち全員に起こるのだ(It happens to us all)」

それを裏付けるように、パートDの終わりからパートEにかけて、「訪問者1」は自身の「忘却」についての言及を始める。だが、彼女が語っているのは、「映画」というメディアが引き起こす「場所と時間に関する見当識の失当」についてだ。注意がひかれるのは、「9時45分」や「真夜中過ぎ」というキーワードと並んで、「あれはどこだったのか?(Where was I?)」というキーワードも発せられていることである。このシークエンスで「訪問者1」が発言する”「感情移入=同一化」による「見当識の失当」”を表す「あれはどこだったのか?」と、(0:02:45)からのショットにおいて「顔のない女性」が発言する「自己認識の欠落」を表す「ここはどこ?(Where am I?)」とは「対置関係」にある。前者は「機能しない家族」というテーマを表すものであり、後者は「感情移入装置としての映画」というテーマを指し示すものだ。「インランド・エンパイア」が内包するこの二つのテーマは……この二つの「ここはどこ?」は、「ハリウッド・ブルバード」においてスー=ニッキーが発する「ここはどこ?」(2:07:39)に向かって収斂していき、最終的に融合して”「映画による見当識の失当」を経て「自己確認」に至る”という複合的なテーマを形成するわけである。

パートFにおいて、まず「訪問者1」は「ナラティヴなもの」に関する言及を行う。この時点では明瞭ではないが、「行動には結果が伴う(Actions do have consequences)」という概念が、そのまま「物語(narrative)」を成立させるうえでの「因果律」を指しており、「支払われていない請求書(an unpaid bill)」が「伏線の回収」を表していることは、その後の「インランド・エンパイア」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関して行う記述/表象によって明らかにされていくことになる。言い替えれば、この「訪問者1」によるこの二つの事項に関する言及は、彼女が今現在、ニッキーに向かって話していることの内容……つまり、「映画」が(通常)「ナラティヴなもの」を内包しており、それは新しく創られる「映画」=「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関しても当てはまることの宣言である。その一方で、「行動には結果が伴う」に関しては、ピオトルケによって、デヴォンに向かって発言され(0:43:36)、「支払われていない請求書」については「訪問者2」によって、スー=ニッキーに対して二回に渡り(1:57:55)(1:58:50)言及されることになる。この二つの「言及」もまた「リフレイン」であり、キーワードであるわけだ。前者は当該シークエンスにおいて再度触れるとして、後者に関しては「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「伏線の回収」の必要性を示唆するものとして受け取ることができることに関しては、すでに述べたとおりだ。

こうして、「インランド・エンパイア」はその「序説」を終える。そこで紹介された「要素」は、「映画」をはじめとする各種メディア、「機能しない家族」の「原型」、ロスト・ガールという「受容者」、ニッキーという「演技者」など多岐にわたる。同時に、「機能しない家族」と「(映画における)感情移入=同一化」という、二つの基本テーマも提示された。この後、三時間弱にわたって「インランド・エンパイア」は、この二つの基本テーマを「核」にして展開され、「訪問者1」による様々な「言説」が達成される様子を描いていくことになる。


*公式サイトでの作品公開を経て、「インランド・エンパイア」の公開を機に自らの会社「ABSURDA」を立ち上げて作品配給を始めた時点で、ひとつの「完結したシステム」を作り上げるまでに至ったといえるだろう。既報のとおり、その「システム」をホロドフスキーやヘルツォークといった他監督の新作公開に使用することになったのは興味深い。この試みが今後どうなるかはわからないが、リンチは「宮殿への道」を他の監督とも共有し始めたということになるのだろうか。

2008年7月 4日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (95)

うはは。とりあえず「酔っ払い週間」は終了しましたが、連日酔っ払ってるうちにLinux1号機のマザー・ボードがぶっ壊れました。うーむ、ほぼ10年選手の機械だったもんなあ。仕方ないので2号機をメインに昇格。でも、こちらもすでに9年目の機械なんで、さて、どーなりますやら(笑)。

さて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(0:08:37)から(0:18:14)まで。「訪問者1」に関連するシークエンスをとりあげることにする。

幕が開いてから8分あまり、「インランド・エンパイア」は「これがメディアについての映画であり、とりわけ映画についての映画であること」、「その受容者であるロスト・ガール」、「映画を製作し、そのコントロールを行うもの」「映画の魔法」という概念を提示してきた。ここから先、「インランド・エンパイア」は、その具体例である「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関しての記述を深めていく。

このシークエンス全体をつうじて舞台となるのは、「ニッキーの屋敷」の内部である。「インランド・エンパイア」において「家」が表すものを考えるとき、この屋敷は「ニッキーの内面」を表象していると捉えて差し支えないだろう。であるからには、その中で発生する事象は、ニッキーの感情や主観によってバイアスがかかった状態で提示されていると考えていい。

たとえば、彼女の屋敷を突然訪れる「新しい隣人」という表現自体が、ニッキーの「心象」の反映であるといえる。この後に繰り広げられる両者の会話の様子をみればわかるように、「訪問者1」による「訪問」は、演技者=ニッキーにとって必ずしも「心地よい」ものではないことは明らかだ。あるいは、「訪問者1」の「東欧訛りの英語」である。これが、リンチが繰り返し提示する「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションであることはいうまでもないだろう。老婆の「言葉」が備えるこの「異言語性」は、すなわちニッキーにとってその「内容」が「異質なもの」であることの表象である。ひいては、これによって表されているのは、演技者=ニッキーと「訪問者1」の「立場」の違いであり、両者の間に横たわる「溝」であるといえるだろう。

加えて、「アメリカにおける物語を語るものとしての映画」を表す「90歳の姪(90-year-old niece)」が「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice of hers)」を喋る(0:40:59)というような「表現」にも表れているように、リンチは「インランド・エンパイア」に現れる「異言語」を、「映画が語る言語」としても提示している。それを考えれば、「訪問者1」の英語が東欧訛りであることによって表されているのは、彼女が語る言葉が「映画についての言及」であること……「映画が語る言語」を「文学的な言語」に置換して語っていることの提示でもあるはずだ。

以前にも触れたように、このシークエンスの「訪問者1による訪問」は、後に現れる「訪問者2による訪問」と対になっている。「庭を歩いてやってくる訪問者」等という「描写」そのものも意識して揃えられていると同時に、「訪問者1」が執事の「出迎え」とメイドによる「もてなし」を受けるのに対し、「訪問者2」はまともな「あいさつ」もできない状態のスー=ニッキーが応対すると言った具合に、この二つの「訪問」の「等価性」と「対置性」が明確に理解できるように構成されている。逆にいえば、「訪問者1」による「訪問」の舞台となる「ニッキーの屋敷」が、「訪問者2」による「訪問」の舞台となる「スミシーの家」と「等価」であり「対置」されるものであることが、これらの事項によっても保証されることになる。「スミシーの家」が登場人物=スーと演技者=ニッキーによって(また最終的には受容者=ロスト・ガールによって)「共有」される場所であるのに対し、「ニッキーの屋敷」は演技者=ニッキーの「個」に所属する場所だ。かつ、「スミシーの家」と同様、「ニッキーの屋敷」の中でも「トラブル=機能しない家族」の事象が発生していることは、この後にピオトルケという「夫の抽象概念」の紹介とともに提示されることになるが、それについてはそのシークエンスをとりあげる回で詳述しよう。

さて、ニッキーの屋敷に入り込んだ「訪問者1」は、様々な「言説」をニッキーに向かって「言及」する。
その内容は複合的でかつ融合してはいるが、あえて大きくわけるなら、彼女が「言及」しているのは、以下の三つの事項についてだ。

一つ目は、「演技者=ニッキーについての言及」である。その部分をまずピック・アップしてみる。

パートA (0:13:02)-(0:14:03)
訪問者1: So... you have a new role to play, I hear?
ニッキー: Up for a role. But, uh, I'm afraid far from getting it.
訪問者1: No, no. I definitely heard that you have it.
ニッキー: Oh?
訪問者1: Yes. It is an -- It is an interesting role?
ニッキー: (うれしそうに) Oh, yes. Very.
訪問者1: Is it about marriage?
ニッキー: Um...perhaps in some ways, but, um...
訪問者1: Your husband. He's involved?
ニッキー: No.
訪問者1: Hmm.

この会話自体が、実は「我々=『インランド・エンパイア』の受容者」に対する「ニッキーが演技者であること」の「紹介」として機能している。かつ、ニッキーが「新しい映画」おいて「役」を獲得したことを「訪問者1」は述べるが、それはニッキー自身にもこの時点では確定事項ではない。同時に、その「新しい映画」が「結婚」に関連していること、そして「ニッキー自身の夫」とも関連していることを「訪問者1」は告げるが、この「言及」自体がすでに複合的な意味を帯び始めている。第一義的に捉えるなら、これはこれから作られる「ある新しい映画」の内容に関しての言及である。だが、同時に、演技者=ニッキーがどのようにそれに関与するかについての言及でもあるのだ。スーはスー自身の「結婚」や「夫」の問題を抱えており、ニッキーはニッキー自身の「結婚」や「夫」の問題を抱えている。「訪問者1」が指摘しているのは、ニッキーとスーのそれぞれの家庭が「トラブル=機能しない家族」の問題を内包しており、この後その「共通性」をキーにして、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「重なり=ネスティング」が展開されることの宣言でもある。

そして、その結果としてニッキーに発生する事柄についても、「訪問者1」は言及する。

パートB (0:17:46)-(0:18:14)
訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there.
訪問者1は部屋の向かい側にある長椅子を指差す。
ニッキーのアップ。いぶかしがるニッキー。
ニッキーは頭を巡らし、長椅子の方を見る。
訪問者1: Do you see?

この部分のシークエンスが、(2:51:52)における「長椅子に座った青いドレス姿のニッキー」のショットにつながること……「訪問者1」が「見える?」と問いかけているその「見る対象」が「ハリウッド伝説化した演技者=ニッキー」であることは、「インランド・エンパイア」の最終ショットにおいて明らかにされることになることは、以前にも述べたとおりだ。後に詳述するが、これが「インランド・エンパイア」の「序章」の終わりであり、「本編」はこの直後から始まることになる。

二番目に言及されるのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という新しく製作される映画作品そのものについてだ。まず、それが「結婚」を題材とし、「夫」が関与していることが言及されることについては、前述したとおりである。次いで……

パートC  (0:16:08)-(0:16:41)
訪問者1: Is...Is there a murder in your film?
ニッキー: Uh, no. That's not part of the story.
訪問者1: No? I think you are wrong about that.
ニッキー: No.
訪問者1: Brutal fucking murder!
ニッキー: Uh, I don't like this kind of talk the things you've been saying. I think you should go now.

……という具合に、その映画では「殺人」が、それも「残虐な殺人」が取り扱われていることが、「訪問者1」によって言及される。ここでのやりとりも、やはりパートAと同じく「複合的」だ。まず、ニッキーには、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「残虐な殺人」を扱っていることの「自覚」がこの時点ではない。というより、両者がいう「残虐な殺人」が意味するところが、食い違っている。ニッキーは、当然ながら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品中に「具象的な事件」として「殺人」が起きないと言っている。だが、「訪問者1」がいう「残虐な殺人」とは、女性たちが「悪意=スクリュー・ドライヴァー」で互いを傷つけあうという「内面的/抽象的な事件」*のことだ。

もちろん、この時点ではそのようなことが我々にわかるはずもないが、いずれにせよ、ここで問題とされるべきなのはニッキーと「訪問者1」の「どちらが正しいか」という議論ではない。問題となるのは、両者の間に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」がどのような作品であるかについて「認識/意見」の食い違いがあるという、その「表現」自体だ。そこには様々なものが内包されているように思われる。たとえば「解釈の多様性」の問題、「具体的映像とそれが表象するものの乖離」の問題など、「作品」とそれを何らかの形で「受容」する者との様々な関係性がこの「表現」から読み取れるといっていい。

このように、この時点において、「訪問者1」の「東欧訛り=異言語性」によって表される、ニッキーと彼女の「立場の違い」や「溝」がどのようなものかが明瞭になってくる。この「立場の相異性」は、「家」の中にいる者と「家」の外部から訪れる者との違い……映画製作の内部にいる「演技者」と、外部からそれに関する様々な「言説」をもたらす「評者」との違いだ。そう考えたとき、あることに思い当たる……「訪問者1」と「演技者=ニッキー」とのこの「会話」は、限りなく「インタビュー」に近くはないか?

(続いたりなんかして)

*結局のところ、この「残虐な殺人」とは、「ポーランド・サイド」でのロスト・ガールの刺殺、あるいは「ハリウッド・ブルバード」での「スー=ニッキーの(フェイクの)死」によって表されるように、ロスト・ガールやスーあるいはニッキーをはじめとする女性たちの「内面で発生している事象」である。そして、このことが、リンチの他作品についてもある洞察を与えるものであることは間違いない。果たしてヘンリーは異形の赤ん坊を殺したのか? フレッドはディック・ロラントやアンディを殺したのか? 本当にダイアンはカミーラの殺人を依頼し、自らの命を絶ったのか? それらはすべて、彼/彼女たちの「内面」で発生している事象……彼/彼女たちの「感情」に歪められた「心象風景」ではないのか?

2008年6月28日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (94)

なんか知らんが、連日酒をかっくらっているような気がする大山崎です。おっかしーなー。なんでそーなるかなー。などと首を捻りつつ、酔っ払いの戯言の続き……じゃなくて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(0:05:57)から(0:08:37)まで。

さて、「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作に関する事象の本格的な提示を開始する。それは「Rabbitsの部屋」のシークエンスの終わり間際、ウサギたちが「誰かの足音」を聞きつけるところから始まる。

「Rabbits」の部屋 内部 (0:05:57)
(32)[足音]
ジャック・ラビット: (右を向き、ジェイン・ラビットに向かって)I hear someone.
スージー・ラビット:
(笑う)
(33)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(34)扉の方を見ているジャック・ラビットとスージー・ラビット。ジェイン・ラビットも扉の方を向く。
ジェイン・ラビット: I do not think it will be much longer now.
ジャック・ラビットが立ち上がり、扉に近づく。彼は扉を開け、部屋を出ていく。閉められる扉。閉ざされた扉を見守る残された二匹。

豪華な部屋 (内部) (0:6:41)
(35)薄暗い豪華な部屋の内部。
[扉がきしみつつ開く]
ジャック・ラビットが両開きの扉の左側を開け、部屋に入ってくる。扉のところの照明が明るくなる。次に、部屋全体が明るくなる。それにつれて、画面右を向いたままのジャック・ラビットの姿が、徐々に消えていく。明るくなった豪華な部屋。右手にはピンクのカーテンが開けられた窓が二つ。それぞれの窓の白いレースのカーテンは閉じられている。正面奥にはジャック・ラビットが入ってきた両開きの扉。扉の両側には大きな鏡がはめ込まれている。左手にはピンクを基調した壁。壁には絵がかかっている。壁際と鏡の前には何脚かの椅子が置かれている。絨毯が敷かれた部屋の真ん中には、中央に長椅子が一脚、その両側に椅子が一脚ずつ置かれている。
(36)禿頭の老人の右からのバスト・ショット。彼自身には正面となる画面左手を見ている。徐々にアウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。
(37)画面左手を見ているファントムのバスト・ショット。背後にはピンクのカーテンが開けられた窓と、台座に載せられた金色の彫刻がみえる。ファントムは、ちらちらと老人の方をうかがいながらときどき目を伏せるようにし、落ち着かない様子である。
(38)
老人のバスト・ショット。
[ポーランド語で]
老人:
You are looking for something?
(39)部屋のロング・ショット。真ん中の長椅子に老人が座り、その右に置かれた椅子にファントムが座っている。
ファントム: (老人のほうをみながら)Yes...
老人:
Are you looking to go in?
ファントム: (苛立って) Yes.(手をもんでいる)
老人: An opening?
ファントム: (立ち上がって老人に近寄りながら)I look for an opening. Do you understand?
老人: Yes. I understand.
ファントム: (立ったまま、苛立って) Do you understand I look for an opening?
老人: Yes. I understand completely.
ファントム: (老人の方に身を傾けるようにして)Good. Good that you understand.
(40)正面を見たままの老人の右からのバスト・ショット。イン・フォーカスからアウト・フォーカスへ。
(41)立ったままのファントムのバスト・ショット。
ファントム: (老人を見下ろし、苛立って)That's good! You understand!
画面右端に見きれていくファントム。
(ディゾルヴ)
(42)薄暗い豪華な部屋の内部。扉の近くだけが明るくなる。長椅子の向こうで、扉を向いて立っているジャック・ラビットが、右側から画面手前を振り返る。徐々に暗くなっていく照明。
(暗転)

「Rabbitsの部屋」と「豪華な部屋」の位置関係は、映像からは明確にはされない。後に現れる「47の扉」と「Rabbitsの部屋」の関係(2:46:15)などから、おそらく「暗い通路」を介してつながっているのだろうという推測は可能だが、それを裏付ける映像も存在しない。いずれにせよ、確実に指摘できるのは、この「豪華な部屋」の内部のシークエンスで発生している事象が、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に対する「介入/コントロール」に関連したものであるということだ。それは、ジャック・ラビットが現れる二つのショット……カット(35)のショットとカット(42)のショット……によって表されている。この二つのショットはシークエンスの始まりと終わりの両端に配置され、いわば「括弧」のように機能している。後述するように「Rabbitsの部屋」のウサギたちは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入/コントロール」を行う存在として位置づけられており、その一員であるジャック・ラビットによる「括弧」でもって囲まれている「もの」は、やはり「介入/コントロール」に関連していると理解されることになる。

そのことを裏付けるのが、その「括弧」の内側に現れる、禿頭の老人ともう一人の男との「関係性」……後に「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの発言によって「ファントム」あるいは「クリンプ」と判明する男との「関係性」だ(1:46:41)(1:59:18)。その「関係性」がどのようなものかは、以降のシークエンスにおいて徐々に明らかにされていくわけだが、この「豪華な部屋」のシークエンスにおいてもその基本部分はすでに現れている。

カット(36)で「豪華な部屋」に現れる老人が、後に「バルト地方」でピオトルケとともに「ファントム」を捜索すること(1:53:57)、また同じく「バルト地方」のどこかにある家の内部で行われる、三人の老人たちによる「介入/コントロール」の場にピオトルケを連れていく役目を担うこと(2:01:35)を、すでに我々は知っている。この禿頭の老人が、他の老人たち(あるいは、ウサギたちやMr,K)のように直接「介入/コントロール」を行っている映像は「インランド・エンパイア」には存在しない。が、彼がその手助けをしていることは確実であり、やはり広い意味で「介入/コントロール」を行う立場にいる存在であることは間違いないだろう。

そして、「ファントム」がここで初めて登場する。「ファントム」によって表されるものは、まだこのシークエンスではまったく明らかではない。また、「Rabbitsの部屋」のシークエンスでウサギたちが耳にした「足音」が「ファントム」のものだったかどうかも、定かではない。このシークエンスから読み取れることは、たとえばカット(37)の様子から、彼が「禿頭の老人=介入/コントロールを行う存在」よりも弱い立場にある、あるいは彼が老人を恐れていることである。同時に、カット(39)において老人に向かって訴えかける様子から、ファントムが彼に対して何かを希求していることも明瞭だ。言葉をかえれば、老人が「ファントム」に対して何らかの”「許可/許諾」を与える存在”であること、つまり「ファントム」が老人の「コントロール下」にあることが、この二人の会話の様子にも表れているといえるだろう。たとえば、映像からみてとれるように、彼らは「視線の交換」を行わない。この後何度となく「インランド・エンパイア」に登場する「視線の交換」が意味するところを敷衍するなら、この二人に「感情の共有」など存在し得ず、それが成立しないほど「異質な立場」であることがこの「視線を合わせない」という「表現」から読み取れることになる。

さて、では「ファントム」は「禿頭の老人=介入/コントロールを行う存在」に、何を訴えかけ、何を希求しているのか。

「ファントム」は、しきりに「入りたがっている(look to go in)」。そして、そのための「開口部を求めている(look for an opening)」ことを二度にわたり訴えるとともに、老人が自分の希求を理解していることを繰り返し確認する。もちろん、この時点では、彼が「どこに」入りたがっているのか、「何の」開口部を探し求めているのかは明瞭ではない。だが、後に我々は「ポーランド・サイド」に彼が現れロスト・ガールに暴力をふるう様子を観ている。あるいは、「ポーランド・サイド」の「ストリート」でロスト・ガールと遭遇するところを目撃している。加えて、「アメリカ・サイド」の「スミシーの家」の隣家の裏庭でスー=ニッキーの前に姿を現すのを我々は知っている。そして、最終的に彼が「スミシーの家」から通じる「暗い通路」に現れ、「47の扉」の前の「暗い通路」でニッキー=スーが放つ銃弾によって「崩壊」するの場面に我々は立ち会った。逆説的に、彼が現在入りたがっているのは、”それらすべての「場所」によって表されるもの”であることになる。

結論からいうと、それらの「場所」は基本的に人間の「内面」を表している。「スミシーの家」を代表とする「家」が表すもの、その「家」の集合体である「ポーランド・サイド」の建物、「ストリート」によって表象されるもの、そして「47」の扉へと続く「暗い通路」……これらの場所は「家」と「ストリート」という対置概念を構成しつつ、「高低のアナロジー」によってむすばれている。そして、それぞれの場所で発生する事象は、「機能しない家族」を起因とする登場人物=スーや演技者=ニッキー、そして受容者=ロスト・ガールの「感情」の反映だ。「ファントム」が今ここで「入りたがっている」のは、かつ結果的に「入りこむ」ことに成功したのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品を”観ている者/演じている者/演じられている者”すべての「内面」なのだ。

そう考えるとき、「Opening」という語句自体が複合的な意味を帯びていることが理解できるだろう。まずそれは、「ファントム」が入りたがっている「人間の内面」への「開口部」である。加えて、禿頭の老人が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する「介入/コントロール」を行っていることを考慮するなら、それは「(映画作品の)始まり」をも意味するはずだ。だが、「インランド・エンパイア」を観すすめるうちに、我々はこの「Opening」が、その両方の意味であったことを理解することになる。なぜなら、「ファントム」が「人間の内面」に入り込むその「開口部」こそが、実は「インランド・エンパイア」においては「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品=感情移入装置」に他ならないからだ。

この「ファントム」が行う”「開口部=映画作品」を介した「人間の内面」への「侵入」”というイメージは、リンチが繰り返し唱える「映画の魔法」という概念と密接に関係している。なぜなら、リンチがいう”「世界」としての「映画」”が成立するためには、「映画」が受容者の「感情」に対して働きかけ「感情移入=同一化」が構成されること……非常にあからさまな言い方をしてしまえば、受容者に対して「感情操作」が行われることが必須であるからだ。この「感情操作」のイメージが、「ファントム」が「魅了(=催眠術=hypnotize)」を行うという表現(1:53:23)に直結していくことは容易に理解されるだろう。一言でいうなら、たとえば”「ハリウッド伝説」の概念”を表すNikoなどと同様に、「ファントム」は”「映画の魔法」という概念”を表す存在である。

ひとつ指摘しておきたいのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に「侵入」を許されたファントムが、基本的にその後もずっと、老人たちやウサギたちによる「介入/コントロール」の管理下にあることである。「サーカス」によって表されるものが「公的」なイメージや「組織」のイメージを付随させていることは何度か指摘してきたとおりだが、ならば「ファントム」が「サーカス」に所属しているという「表現」そのものが、彼が「介入/コントロール」を受けていることの提示として理解できるはずだ。逆に、「ファントム」が「バルト地方」の「サーカス」から姿を消した(1:46:47)という表現が表象するものは、彼が一時的にせよ「介入/コントロール」するものの管理から逃れたことに他ならない。であるからこそ、禿頭の老人は「ファントム」の行方を探さねばならない。「ファントム」に「侵入」を許諾したのは、彼であるからだ。だが、最終的に、Mr.Kが電話の相手に向かって告げるように、「(ファントムが)間違いなく、どこか近くにいる(He's around here someplace. That's for sure)」こと(2:19:44)は把握されており、ウサギたち/老人たち/Mr.Kの管理から「ファントム」が完全に逃れることは不可能であったのは明らかだ。なによりも、「バルト地方」の老人たちがもたらす「拳銃=物語展開の最終要請」から放たれる銃弾によって「ファントム」が崩壊すること(2:44:32)からもわかるように、彼の決定的な生殺与奪の権限が「介入/コントロール」するものの手に握られていたことは、「インランド・エンパイア」全編を通じて変わらない。

……という具合に、「インランド・エンパイア」は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に「介入/コントロール」を行うものと、それを「開口部」として侵入する「映画の魔(法)」という二つの概念を紹介し終えた。続いて現れるのは、「訪問者」と「演技者」であるニッキーだ。

2008年6月26日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (93)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:04:04)から(0:06:41)までをば。

さて、受容者としてのロスト・ガールの位置づけを明確にした後、続いて「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する事象を提示し始める。それは、ロスト・ガールが観ているモニタ画面が映し出す波打つ「ノイズ」のなかから、「Rabbtis」の映像が浮かび上がるショットからスタートする。

「Rabbis」の部屋 内部 (0:04:04)-(0:06:41)
(ディゾルヴ)
(26)「Rabbitsの部屋」の内部。左手に木の扉。扉の左には、木の台に載せられた黒い電話機。扉の上の通風窓は開けられている。部屋の左奥では、ピンクの服を着たスージー・ラビットがアイロン台に向かって白い布にアイロンをかけている。正面奥の壁には角ばったアーチ状の開口部があり、開口部の両側には黒い柱がある。開口部の奥には、木の枠がはまった窓が見える。窓の向こうは闇である。開口部の手前には長椅子が置かれ、その右端にはジェイン・ラビットが座っている。長椅子の右側には、小さなテーブルがあり、その上には緑色の本体にクリーム色の傘の背の低いライト・スタンドが置かれている。ライト・スタンドは点灯している。扉が開かれ、スーツ姿のジャック・ラビットが部屋に入ってくる。
[歓声と拍手]
ジャック・ラビットは扉を閉め、そのまま喚声が終わるのを待っている。
[歓声と拍手が終わる]
長椅子に歩み寄り、ジェイン・ラビットの左に座るジャック・ラビット。
ジェイン・ラビット:(ジャック・ラビットの方を向いて)I am going to find out one day.
スージー・ラビット:(左肩越しに二匹の方を振り返り)When will you tell it?
ジャック・ラビット:(ジェイン・ラビットを見て)Who could've known?
ジェイン・ラビット:(正面を見て)What time is it?
[笑い声]
ジャック・ラビット:(立ち上がってジェイン・ラビットを見下ろし)I have a secret.
(27)ロスト・ガールのアップ。目と鼻に向かって、よりクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(28)スージー・ラビット:(アイロンをかけながら)There have been no calls today.
[笑い声]
再び長椅子に座り、正面を向き直るジャック・ラビット。
(29)ロスト・ガールのアップ。よりクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(30)スージー・ラビットがアイロン掛けをやめ、他の二匹が座っている長椅子に歩み寄り、その背後に立つ。
(31)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
[汽笛]
[足音がする]
(32)ジャック・ラビット:(右を向き、ジェイン・ラビットに向かって)I hear someone.
スージー・ラビット: (笑う)
(33)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(34)扉の方を見ているジャック・ラビットとスージー・ラビット。ジェイン・ラビットも扉の方を向く。
ジェイン・ラビット: I do not think it will be much longer now.
ジャック・ラビットが立ち上がり、扉に近づく。彼は扉を開け、部屋を出ていく。閉められる扉。閉ざされた扉を見守る残された二匹。

前回述べた”「心象風景」としての「モニタ画面」”という考えに基づくなら、このディゾルヴによる画面転換によって表されるものも明瞭である。一言でいえば、受容者=ロスト・ガールの「内面」に、「Rabbitsの部屋」によって表されるものが受容されたことの提示だ。そのことは、このシークエンスにおける「Rabbitsの部屋」のショットに対し、「涙を流すロスト・ガール」のショットがカット(27)(29)(31)(33)と四回にわたり、「カウンター・ショット」としてインサートされることからも明らかである。ロスト・ガールは「Rabbitsの部屋」の映像を観ている。だが、表現主義的な手法の連続であるリンチ作品においては、そこで提示されている「Rabbitsの部屋」が「モニタ」上に映し出されているものの「客観描写」であるとは限らない。前回触れた”画面上の「ノイズ」とそれに映り込む「ロスト・ガールの部屋」”という映像表現から連続するものとしてこのシークエンスを捉えるとき、そこで提示されているものもやはり彼女の「感情」や「主観」のフィルターを通したものであるはずだ。

しかし、同時に、そこにはリンチ自身が抱える「感情」や「主観」が投影されているであろうことも、また確かである。たとえばウサギたちがウサギたちとして提示される理由自体が、リンチが「インランド・エンパイア」の中で繰り返し提示する「動物=自律しながらも他者のコントロールを受ける存在」という概念を構成している一要素であるのは間違いない。「動物」のイメージは「サーカス」によって表される「組織=公的なもの」のイメージと連鎖し、一方で助監督フレッドや浮浪者2による「言及」を引き出しながら、リンチが考える「映画製作」に関するイメージを構成していくことになる。

さて、何度か触れたように、「Rabbitsの部屋」の内部で交わされる「文脈(コンテキスト)を欠落させた会話」あるいは「断片化(フラグメンティション)された会話」によって表される「異言語性」は、リンチが繰り返し作品に登場させる「成立しない会話」のモチーフに基づくものである。ウサギたちが発する「台詞」は、それぞれ単体では構文的に成立し断片的な意味を伝えてはいるものの、三匹の会話全体をとおして具体的な「意味/概念」を形成することは決してない。

以前にも述べたように、こうした「断片化」の手法は、たとえばウィリアム・S・バロウズやJ・G・バラードによる小説作品を思わせるものだ。これらの小説作品群は「人間の意識の流れ」を再現すること……つまり、我々の「意識の流れ」や「思考」自体が「整理され、順序立てられたものではないこと」を描くためにこうした手法を採用している。我々の思考はノン・リニアでランダムであり、何かのイメージが他のイメージとつながる理由は非常に私的なものであって、他人の理解をにわかには許さないケースも多々ある。こうした人間の「思考」の仕組みを「リアル」に再現すれば、「断片の集積」になってしまうというわけである。だが、では、「Rabbitsの部屋」における「断片化された会話」もこうした「意識の流れの再現」であるのか……となると、どうもそうとは言い切れないようだ。

この「断片化」の手法については、リンチ自身による以下のような発言がある。

----自分が以前に書いたもの、あるいは他人が書いたものでもいいんだけど、それを細かく切ってアトランダムに配置し、それから、まるで他人の仕業みたいにまきちらす。そうして読んでみると、素晴らしかったりするんだ。
(「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.36)

これを読むかぎり、少なくとも「断片化された会話」という「手法」そのものに、バロウズやバラードのような具体的な「意図」をリンチが仮託しているとは思えない。上に引用した言及は、シュルレアリスムの「自動書記」の話題に関連して発言されたものだが、むしろこの発言から連想されるのは、リンチが「絵画」に多用し「インランド・エンパイア」の各所にも現れる「文字のテクスチャー」だ。もしかしたら、この「断片化された会話」は、「絵画」に貼り込まれた「文字」や「映像」の各所に現れる「文字」と同様の発想による、いうなれば「音声のテクスチャー」なのではないのか? そう考えるとき、実は「インランド・エンパイア」に現れる他の台詞も……いや、ひょっとしたらすべての台詞が、リンチにとっては基本的に「テクスチャー」なのではないかという可能性に思い当たる。そもそもリンチにとって映画の製作とは、「映像」というキャンバスに「文字」や「音声」や「音楽」を貼り付ける作業なのではないのだろうか? そして実際、映像におけるポスト・プロダクション作業全般には、そうした感覚に近しいものがある。

話を「Rabbitsの部屋」の事例に限れば、他の可能性として思い付くのは、直前のシークエンスで現れた「ノイズ」との関連である。つまり、「受容者にとって意味をなさない単なるデータの集積」を表すものとして、「成立しない会話/断片化された会話」という手法が使われているのではないかという可能性だ。もちろん、「Rabbits」が短篇シリーズとしてリンチの公式サイトで公開された時点では、まだ「インランド・エンパイア」の企画は存在しておらず、流用を前提にして製作されたわけはない。当然ながら、そこに現れる「成立しない会話/断片化された会話」によって表されるものが、そのまま「インランド・エンパイア」に組み込まれた形で表されるものと同一とは限らないだろう。だが、リンチ自身の発言にもあるように、この短篇シリーズがテレビ番組、「ラフ・トラック(laugh track)」の使用などから特にシットコムを意識して作られたことは事実であり、その意味では「テレビ」を表象するものとして「Rabbits」を捉えることは、決して乱暴な見方ではないはずだ。逆にいえば、リンチが「テレビ」というメディアに関してどのような「感情」を抱いているかを確認することが、「Rabbits」によって表されるものをぼんやりとでも理解するキーになるのは間違いない。

その観点からすれば、やはりリンチがTV版「ツイン・ピークス」製作中のドタバタや、「オン・ジ・エアー」のシーズン途中でのキャンセル(打ち切り)*、パイロット版製作までは到達した「マルホランド・ドライブ」の企画が却下された顛末をつうじて、リンチ自身が受けた「介入/コントロール」の数々は見逃せない。「ツイン・ピークス」に関しては、局側の要請によって作られたヨーロッパ版パイロットの別エンディングについて、「その必要性が理解できなかった」という自身の発言が残されている。また、局側からの圧力によってローラー・パーマーの殺人犯をあの時点で明らかにしなくてはならなかったのは、当然ながらリンチとマーク・フロストが考えていた当初の「大枠」からは外れていたことは間違いなく、その後の展開をみてもわかるように、結果として「ツイン・ピークス」という作品自体にクリティカルな影響を与えたのは事実だ。また「マルホランド・ドライブ」のパイロット製作に関しても、リンチは「尺の調整」を局側から要請されている。時間調整が必要となった理由はCM枠の確保であり、リンチによる「あれは悪夢だった」由の発言が存在する。

いずれにせよ、リンチが「テレビ」というメディアについて、少なくともそこで作品を製作することに関して、「映画」以上の制約を……「介入/コントロール」を感じたことは間違いない。であるならば、「インランド・エンパイア」の中に組み込まれた「Rabbits」が「テレビ」を表象するとともに、それに付随する「介入/コントロール」のイメージを内包しているのも、また当然だろう。


*
最大の皮肉は、視聴率不振を理由にキャンセルされた「オン・ジ・エアー」が、そうしたTV番組製作に関するドタバタそのものを題材にしていることである。おまけに、そのなかに登場するTV局の名前が「ABC」ならぬ「ZBC」だというのもなんともだ。

2008年6月22日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (92)

カラ梅雨だとか言ってると、いきなり大雨が降り出しました。「雨乞い」の儀式っスか、このブログは(笑)。

……生贄のニワトリ等々を片付けつつ、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話を続けることにする。今回は(0:03:21)から(0:03:57)まで。

「カメラのレンズ」という「括弧記号」をまたいだ「インランド・エンパイア」は、続けて”「ロスト・ガール」によって表されるもの”の提示を開始する。 

ロスト・ガールの部屋の内部 (0:03:21)
(14)左側から部屋の内部のショット。ベッドに座っているロスト・ガール。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。
(15)クローゼットの上に置かれたモニター。画面に映し出されるノイズ。白いレースのカーテンが半ば開けられた窓の外には、向かいの建物が見える。窓の前に置かれている椅子の一部が見える。
(16)ロスト・ガールの背後からのショット。右肩越しに、クローゼットの上に置かれたモニターが見える。画面には、ノイズが映し出されている。モニターの右側には扉が見える。
(17)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。画面右側にはライト・スタンドが見える。
(18)モニター画面のアップ。「Rabbits」の映像が早送りで再生されている。
(19)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。
(20)モニターのアップ。画面には「訪問者1」がニッキーの屋敷の前庭を歩く映像が早送りで再生されている。
(21)モニター画面のアップ。モニターに早送りで映し出されている「訪問者1」がニッキーの屋敷の玄関の扉に手を伸ばす映像。部屋に置かれた電気スタンドが、モニターのブラウン管に写り込んでいる。
(22)ロスト・ガールの右側からのアップ。少しクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(23)モニター画面のアップ。ノイズだらけの画面に、部屋に置かれた電気スタンドの光が映り込んでいる。
(24)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。よりクローズ・アップ。
(25)モニター画面のアップ。ノイズだらけの画面に、部屋に置かれた電気スタンドの光が映り込んでいる。
(ディゾルヴ)

このシークエンスにおいて、「インランド・エンパイア」はまた新しい「メディア」を二つ提示する。カット(15)に登場する「モニター」によって表される「テレビ」、そしてカット(18)(20)(21)に登場する「ビデオ」である。   

構造的にこのシークエンスをみたとき、カット(16)はエスタブリッシング・ショットとして機能している。つまり、カット(15)で提示されるモニターの画面を観ているのがロスト・ガールであることを、彼女とその肩越しに映されたモニターを同一フレーム内に収めることで状況説明しているのだ。この明示に基づいて、カット(18)(20)(21)(23)(25)のモニター(およびその画面に映されているもの)のショットに対し、カット(17)(19)(22)(24)のロスト・ガールのショットが「カウンター・ショット」として機能していることが理解される。つまり、このシークエンスでは、「観るもの=ロスト・ガール」と「観られるもの=モニターの画面に映されているもの」という関係が、何度も繰り返し提示されていることになるのだ。これが「メディア」とその「受容者」の関係を表していることはいうまでもなく、こうしてロスト・ガールは”「受容者」の概念”を表しているものとして位置付けられる。

このように「受容者」としてロスト・ガールを位置づけたとき、前回述べた、「普遍=顔のない女性」から「個別例=ロスト・ガール」への「置換」のキーがなぜ「カメラのレンズ」のショット(カット(13))であるかが理解される。なによりも、「カメラのレンズ」と「受容者=ロスト・ガール」がともに「観るもの」であるからだ。そして、「括弧記号」の始まりが「観るもの」であるならば、その終わりが「観られるもの」=「映写機の光」=「登場人物=スー」であるのも、また当然であるはずだ。

同時に、以前にも述べたように、ロスト・ガールが「モニタ」を通じて映像を受容しているという描写そのものが、リンチが抱く「映画」というメディアに対する「考え」に基づいたものである。「映画」を「映画館」で観ることの重要性についてリンチは繰り返し言及しているが、それは逆にいうと、「モニタ」による「家庭内での視聴」が我々の「映画受容のスタイル」としてむしろ主流になっていることの表れでもある。そのこと自体の是非はともかくとして、我々にとって「映画館で映画を観ること」と「モニタで映画を観ること」は感覚的に限りなくイコールに近く、ともすればその二つの行為の間にあるはずの「差異」を見失いがちなのは確かだ。

さて、では受容者=ロスト・ガールは何を観ているのか。具体的映像として提示されているのは、以下の三つだ。

(A)ノイズ=カット(16)(23)(25)
(B)「Rabbits」=カット(18)
(C)訪問者1=カット(20)(21)

(A)の「ノイズ」はひとまずおくとして、まず(B)の「Rabbits」と(C)の「訪問者1」が表すものから述べてみよう。

(B)の「Rabbits」が、自身の公式サイトについて語るリンチの発言から、「テレビ」に関連するものであるのは確かである。かつ、その形式において、「シット・コム(Sitcom)」と略称される「シチュエーション・コメディ(Situation Comedy)」を踏襲しているのも明らかだ。この部分からみれば、これはやはり「テレビ」という「メディア」への言及であり、かつ「早送り」の映像で提示されている点からして「ビデオ」への言及であることは間違いない。しかし、「Rabbits」に登場するウサギたちに関連したこの後の描写をみるとき、彼/彼女たちが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に対して「介入/コントロールするもの」の概念として……端的にいえば、その「製作者」を表すものとして描かれていることが理解されることになる。それは、ジャック・ラビットとMr.Kの関連性を提示する映像(1:20:40)や、老人たちがウサギたちに変貌する描写(2:04:31)などに明らかだ。上記のような事柄を踏まえたうえで、受容者=ロスト・ガールとの関係性をポイントにするなら、これは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する情報を受容者=ロスト・ガールが「テレビ/ビデオ」という「メディア」を通じて受け取っていることへの言及と捉えるのが妥当だろう。

同様のことが、(C)の「訪問者1」に関しても指摘できる。この「訪問者1」が付随させる「外部性」のイメージに関しては、これまでも何度か述べてきた。彼女が「ニッキーの屋敷」を訪問するシークエンスでの描写(0:13:03)から理解されるように、彼女は「映画」というメディアに関する「言説」を述べる存在……つまり評論する存在である。ウサギたちに表される「製作者」と同じ「映画に関係するもの」でありながら、「訪問者」たちは「外部」にいる。訪問者1がニッキーに語る「言説」がどこか予言めいているのは、まさしくそのためだ。彼女は「外部」から「内部」を覗き見ることしかできず、自分の考えるところを述べることしかできない。その「言説」が正しいかどうかは……たとえば「ニッキーが明日になれば、向こうの長椅子に座っているかどうか=伝説の一部となっているかどうか」は、結果をみるしかないのだ。そして、(B)の「Rabbits」の映像と同じく「訪問者1」の映像も早送りで提示されていることからわかるように、彼女の「言説」も「テレビ/ビデオ」といった「メディア」を介して受容者に向け流布される。我々は、こうした「メディア」によってこれから公開される「映画」の情報や言説を、日常的に受け取ってはいないだろうか? また、この「訪問者1」の「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「言説」に限っていえば、彼女がニッキーの屋敷を「訪問」することからも明らかなように、演技者=ニッキーに関するものも含まれている。マリリン・レーベンスのTVショウと同じく訪問者1の「言説」も、受容者が抱く演技者ニッキー個人への「感情移入=同一化」に対して機能しているのだ。

残る(A)の「ノイズ」だが、これは様々な読み取り方が可能であるように思われる。基本として、これもまた「テレビ/ビデオ」という「メディア」の表象であることは間違いない。かつ、それが映し出しているのが、受容者にとって何の意味もなさない「データの集積=ノイズ」であり、過多な情報は結果として単なる「空白(ブランク)」に等しいものになることを考えると、この表現自体が「テレビ/ビデオ」という「メディア」に対するリンチの皮肉として(「テレビは死んだ」)受け取ることもできるかもしれない。だが、より重要なのは、カット(23)(25)にみられる、「ロスト・ガールの部屋の内部」がモニター画面上に反射して映り込んでいるという描写だ。これを表現主義的なものとして捉えるなら、この映像が提示するものは、モニターに映される「ノイズ=空白(ブランク)」同様、そこに二重写しされた「ロスト・ガールの部屋の内部」も「空虚(ブランク)」であることに他ならない。当然ながら、それは”ロスト・ガールがその「内面」において「空虚さ」を感じていること”を表しているのと同義である。「鏡」などの反射物を使った登場人物の「内面描写」は、映像における表現主義的手法としてひとつの定番だが、カット(23)(25)は基本的にそうした表現の延長線上にあるものとして理解すべきなのだ。

ひるがえって(B)(C)に関連したカット(18)(20)(21)を子細にみたとき、実はそこでもモニタ画面に「ロスト・ガールの部屋の内部」が映り込んでいることが確認できるはずだ。正直なところ、これらのカットを観ただけではなんのことだかよくわからない。だが、カット(23)(25)が表現主義的手法に則ったロスト・ガールの「内面描写」であることに気づいたとき、同じくカット(18)(20)(21)の映像もロスト・ガールの「内面描写」ではないのかという可能性に思い当たる。つまり、「モニタ」に映し出されたものを受容者であるロスト・ガールが受容した際にその「内面」に発生した事象が、あるいはその「内面」に喚起された感情が、映像として提示されているのではないか……ということだ。この後の「インランド・エンパイア」の映像を読み取るに際して、この見方は非常に重要なポイントとなる。たとえば「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といったリンチの過去作品において、そこで提示されている映像を我々はフレッドやダイアンの「内面」にある「心象風景」として、あるいは「感情や主観に歪められた記憶」として理解した。同じように、「インランド・エンパイア」が提示する映像もまた誰かの「心象風景」であり、その人物の「感情や主観が反映された事象」を表しているものとして理解されることが、このシークエンスにおいてすでに示唆されているのだ。

話を戻して、上記のように「ノイズ」によって表されるものを捉えるとき、なぜ「受容者=ロスト・ガール」が泣いているのかが端的に理解される。彼女が感じている「空虚さ」は、「ここはどこ?(Where am I?)」というキーワードに表されている「自己確認の欠落/不能性」からきているのだ。その「欠落/不能性」が「機能しない家族=トラブル」に起因することを、”「機能しない家族」の「原型=普遍」”が「個別例=ロスト・ガール」に「置換」されるシークエンスを通じて我々は理解している。

ここで留意しなければならないのは、カット(5)-(10)で提示される「機能しない家族の原型」によって表されるもの……つまり、「顔のない男女」によって演じられる”「娼婦」と「客」の関係性”が、”「自分の意志」を反映させることが不可能な、一方的な関係性”を表象する「表現」であること(もしくは「表現」でしかないこと)だ。そして、「娼婦」という存在によって表されるものも、やはり「インランド・エンパイア」においては抽象的なものであり、”一方的な関係性を強要される「対象」”を表す「象徴」なのである。この後の「インランド・エンパイア」が提示する様々な「機能しない家族」の「個別例」をみればわかるように、そこには必ずセックスの要因が介在するとは限らない(もちろん、大きな要素ではあるが)。根底にあるのは「家族間に発生する一方的な関係性」なのであって、「娼婦」という「表現」を短絡的に「セックスの要因」に帰することは、「インランド・エンパイア」が提示する「トラブル=機能しない家族」の本質を見誤ることになる。冒頭において提示されるこれらの「原型」や「概念」は、この後の「インランド・エンパイア」が提示する映像表現を理解するうえでの基礎となるものだ。たとえば「機能しない家族」の「個別例」の集積がその「抽象概念」を構成するといった「表現」の根底には、「機能しない家族の原型」という「概念」が確実に横たわっている。あるいは、スー=ニッキーやドリス、ロスト・ガールが「娼婦」として「ストリート」に立つという「表現」から浮かび上がるのは、彼女たちがすべて”一方的な関係性を強要される「存在」”であることだ。開巻4分弱程度の間に、「インランド・エンパイア」はこれだけ凝縮された「イメージの連鎖」を展開するのである。

2008年6月21日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (91)

うおお。暑いぞ。カラ梅雨だし。と、汗をかきつつ進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話なのであった。前回とりあげたシークエンスと一部重複しつつ、今回は(0:02:45)から(0:03:25)まで。 

というわけで、さっさと具体的な映像から。 

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:02:45)-(0:03:06)
(10)ベッドと思しき布の上に横たわる女性の、消された顔のアップ。頭上に伸ばされた左腕と、それを押さえつける男性の右手。覆いかぶさり、性交を行う男性。
女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......

部屋の内部 (白黒) (昼)  (0:03:06)-(0:03:12)
(11)左側からの薄暗い部屋の内部のショット。ベッドに座っている顔の消された女性。膝に肘をつき、顔を覆っている様子。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。カット(14)と同一の部屋であり、カット(9)およびカット(12)とは異なる部屋である。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:03:12)-(0:03:16)
(12)カット(11)と同じく左側からの誰もいない部屋の内部のショット。右手に白い扉。椅子が一脚。点灯したライト・スタンド。長椅子が一脚。長椅子の背後には、レースのカーテンが掛かった窓。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。画面の左端、長椅子の前には履き捨てられたミュールが一足。左側のミュールは転がっている。

どこか (0:03:16)
(13)緑がかった光を反射するカメラのレンズ
(ディゾルヴ)

ロスト・ガールの部屋の内部 (0:03:21)
(14)左側から部屋の内部のショット。ベッドに座っているロスト・ガール。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。

構造的なところからこのシークエンスをみてみると、まず、カット(11)-(12)-(13)がクロス・カッティングになっていることが理解される。つまりカット(11)カット(13)のロスト・ガールの部屋のショットの間に、カット(12)の「顔のない男女」が性交を行った部屋のショットが挟まっている形だ。これらのショットの間、カット(10)の終了間際から流れる「Polish Poem」がサウンド・ブリッジとして機能し、カット同士の関係性/連続性を明示している。 

さて、ではこれらのカット間にどのような関係性が存在しているのか。

まず、カット(11)カット(12)の部屋がそれぞれ異なった部屋であることは、その内部構造と置かれている備品の位置から明瞭である*。かつ、(2:48:41)でニッキーと抱擁を交わした後のロスト・ガールが部屋から出て走る「廊下」が、カット(5)で「顔のない男女」が登場する「廊下」と同一であることから明らかなように、ロスト・ガールの部屋は「第一の顔のない女性」が性交を行った部屋と同一の建物の内部にある。「廊下」の映像を観る限り、この二つの「部屋」以外にも「部屋」が存在していることは明瞭で、後に繰り返し登場し変奏される”「普遍」とそれに含まれる「個別例」の関係”というモチーフが、すでにこの段階で認められることになる。二つの「部屋」に置かれた調度品は同一の意匠のもとにあり、部屋自体は異なっても基本的に「類似」のものであることを示唆している。もちろん、リンチの表現主義的な発想を前提とするなら、この「外見上の類似性」は「その内部で発生している事象の類似性」……つまり、どちらの部屋の内部でも「機能しない家族」の事象が発生していることを示している。 

そして、この「内部で発生している事象の類似性」、そして「普遍」と「個別例」の関係性は、カット(5)-(10)に表れる「第一の顔のない女性」と、カット(11)に表れる「第二の顔のない女性」の関係性に引き継がれる。カット(10)の部屋の内部で「第一の顔のない女性」が関与している事象と、カット(11)の部屋の内部で「第二の顔のない女性」が関与している事象は、いずれも「機能しない家族」の事象であるという点で「同一」のものである。それを踏まえたうえで、カット(12)の”「第一の顔のない女性」が消失した部屋”が表すものを考えるなら、参照項となるのはエンディング・ロールの「ファントムの妹の消失」と「長椅子に座るニッキー」のショットの関係によって表象されるものだ。この二つのショットが「ファントムの妹」と「長椅子に座るニッキー」の「同一性/等価性」を表すのであれば、カット(12)カット(14)の二つのショットによって表されているのは、「第一の顔のない女性」と「第二の顔のない女性」の「同一性/等価性」であることになる。もちろん、リンチ作品において、この「同一性/等価性」とは、あくまで「内面における同一性/等価性」=「同じ感情の共有」のことを指す。間違っても「登場人物の同一性」などという具象的なものではない。 

「普遍」と「個別例」の関係でいえば、「第一の顔のない女性」は「『機能しない家族』の原型=普遍」に関与し、「第二の顔のない女性」はその「個別例」に関与している。カット(11)から(14)までによって構成されるシークエンスが提示しているのは、「第一の顔のない女性」が関与する「原型=普遍」が、「第二の顔のない女性」が関与する「個別例」に、「等価性/同一性」を保持しながら置き換わりつつあることなのだ。カット(11)ではモノクロの画面処理と「顔がない」という共通した描写を残しつつ、カット(12)では同じアングルで「第一の顔のない女性」の部屋を提示し、なおもそのアングルを保持したままカラーに変わるカット(14)において、この「置換」の描写は最終的に「第二の顔のない女性=ロスト・ガール」であることを明示して終了する。 

この「置換」のキーとなるのは、カット(13)の「カメラのレンズ」のショットである。この「カメラのレンズ」のショットが、(2:46: 59)から三回にわたって現れる「映写機の光」のショットと対になっていることは、以前にも述べた。この二つのショットは対応する「括弧記号」として機能しており、「インランド・エンパイア」の本体部分を囲んでいる。すなわち、この「レンズのショット」は、これ以降が「映画というメディア」に関する記述であることの宣言である。この後、三時間弱にわたって提示されるものを考えたとき、その初めの"括弧記号=「"が、「カメラのレンズ」であること自体、きわめて示唆に富むものであるといえるだろう。「映画における『感情移入=同一化』」は、「インランド・エンパイア」が内包する基本テーマのひとつである。それは「映画というメディア」特有の「観るもの」と「観られるもの」の関係として……つまり「登場人物と受容者の『視線の共有』の問題」として、あるいは「登場人物と演技者の『視線の交換』の問題」として提示される。であるならば、ここで”一方的に「観るもの」”である「カメラのレンズ」が提示される理由は、非常に明白であるはずだ。逆に、閉じる側の”括弧記号=」”が対をなして「対置」されるものである以上、それが「映写機の光」という”一方的に「観られるもの」”である理由も、また当然だといえるだろう。

なぜ「置換」のキーが「カメラのレンズ」なければならないのかについては、続くシークエンスにおいて明らかになる。


*カット(9)で「顔のない女性と男性」が画面右側からフレーム内に入ってくることからわかるように、カット(9)の部屋の入り口はその方向にある。仮にこの部屋が「ロスト・ガールの部屋」であるなら、(2:47:27)でニッキーが入ってくる入り口との位置関係からして、カット(9)の椅子とライト・スタンドがある位置には、「モニター」が置かれていなければならない。おそらく撮影は同じ部屋で行われたのだろうが、椅子の位置などで微妙に異なる部屋に仕立てられているのだ。

2008年6月18日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (90)

というわけで、サクサク頭から進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(0:00:07)から(0:03:16)までのシークエンスをば、ひとつ。

といいながら、このシークエンスが実は、前回とりあげたオープニング・シークエンスの一部であることは映像から明らかだ。念のため、前回取り上げたオープニング・シークエンスを含めた形で具体的な映像をみてみる。

オープニング (0:00:07)-(0:01:33)
(1)暗闇。映写機の光がそれを切り裂く。アウト・フォーカスから直ちにイン・フォーカスへ。左にパン。
(オーヴァーラップで) "INLAND EMPIRE"のタイトルが左側から現れる。
画面の右へと見切れる映写機の光。アウト・フォーカスへ。
(2)[レコードのスクラッチ・ノイズ]
回転するレコードとレコード針のクローズ・アップ。
[歓声]
録音された男性の声: Axxon N, the longest running radio play in history -- tonight continuing in the baltic region, a gray winter day in an old hotel.
(ディゾルヴ)
(3)アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。回転するレコードのガラス越しのショット(別カット)。
[ポーランド語で]
女性: The stairway is dark.
(ディゾルヴ)
(4)回転するレコード(別カット)
(ディゾルヴ)

薄暗い廊下 内部 (白黒) (0:01:33)-(0:2:05)
(5)両側に扉が並んだ薄暗い廊下。画面手前から廊下の奥へと向かう「顔が消された」男性と女性。
※天井の灯りの形状から、(2:47:13)でロコモーション・ガールの二人が、そして(2:48:41)で部屋を出たロスト・ガールが走ったのと同じ廊下である。
[ポーランド語で]
女性: I don't recognize this hallway. Where are we?
男性: At our room now.
二人はある扉の前で立ち止まる。
(6)ミドル・ショット。男性と女性のツー・ショット。右手に持ったバッグの中を探る女性。
女性: I don't have the key.
男性: No. You gave it to me. I have it.
(7)カット(5)と同じ廊下のショット。逆光でシルエットになっている「顔が消された」男性と女性。
女性: What's wrong with me?
画面左手の扉の鍵をあける男性。そのまま扉を開く。部屋の中に入る男性と女性。誰もいない廊下だけが残される。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:2:05)-(0:02:45)
(8)若干上から見下ろした部屋の内部のショット。右手には白い壁と白い扉。正面にはレースのカーテンがかかった窓。窓の前には長椅子と椅子がそれぞれ一脚。そして、ライト・スタンドがある。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。
[ポーランド語で]
女性: This is the room? I don't recognize it.
画面右手から表れる女性。画面の真ん中、絨毯の上で立ち止まる。続いて男性が表れ、右手の壁に背をもたせかける。
男性: Take off your clothes.
女性: Sure...
長椅子に向かい、座る女性。男性は壁にもたれたまま、膝を曲げ、右足の裏を壁につける。
男性: You know what whores do?
女性: Yes. They fuck. 
(9)男性の左側からのミドル・ショット。画面右端に見切れる形で男性、女性は画面左の長椅子に座っている。男性と女性の間にあるライト・スタンド。女性の背後のレースのカーテンがかかった窓からは光が入っている。女性はスカートをたくし上げ、脱ぎ始める。
女性: Do you want to fuck me?
男性: Just take off your clothes. I'll tell you what I want.
女性: Fine. 
女性は黒いショーツを脱ぐ。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:02:45)-(0:03:06)
(10)ベッドと思しき布の上に横たわる女性の、消された顔のアップ。頭上に伸ばされた左腕と、それを押さえつける男性の右手。覆いかぶさり、性交を行う男性。 
女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid...... 

部屋の内部 (白黒) (昼)  (0:03:06)-(0:03:12)
(11)左側からの薄暗い部屋の内部のショット。ベッドに座っている顔の消された女性。膝に肘をつき、顔を覆っている様子。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。カット(9)およびカット(12)とは異なる部屋である。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:03:12)-(0:03:16)
(12)カット(11)と同じく左側らの誰もいない部屋の内部のショット。右手に白い扉。椅子が一脚。点灯したライト・スタンド。長椅子が一脚。長椅子の背後には、レースのカーテンが掛かった窓。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。画面の左端、長椅子の前には履き捨てられたミュールが一足。左側のミュールは転がっている。

カット(3)カット(5)以降のシークエンスとの関連性をもっともストレートに受け取るなら、このモノクロ映像のシークエンスはカット(2)(3)(4)の「再生されるレコード」によって伝えられるもの……つまり、その「録音内容」であることになる。より詳しく述べれば、カット(5)以降のシークエンスによって表されるのは、カット(2)で「録音された男性の声」が伝える「Axxon N.」という題名のラジオ・ドラマの「映像化/視覚イメージ化」だ。カット(2)(3)(4)とディゾルヴによるカッティングを施され提示される「再生されるレコード」のショットは、文字どおり「史上最長のラジオ・ドラマ」が延々と流される有り様を時間経過を省略しつつ伝えており、男女の顔が消されているのはラジオ・ドラマであるがゆえの「具体的描写の欠落」を表している……という見方である。

だが、「インランド・エンパイア」全体を見通しつつこの「顔のない男女」のシークエンスをみたとき、また違った捉え方の可能性が浮かびあがる。すなわち、このシークエンスが提示するものが、この後「ポーランド・サイド」および「アメリカ・サイド」の両方において提示される、多種多様な「機能しない家族」の「原型」であり「典型」なのではないかという可能性だ。言葉を変えれば、このシークエンスで提示されているのは、そうした”様々な「機能しない家族の具体例」の「総体」によって表されるもの”と「等価」の、「『機能しない家族』の抽象概念」なのである。となると、「男女」が「顔」を持たない理由は明瞭だ。彼/彼女は、「機能しない家族」の「原型」あるいは「抽象概念」の当事者である。彼/彼女自身が「抽象的かつ総体的な存在」であり、他の誰にでも置き換え可能であるがために、彼/彼女は「顔」という「具象性」を持てないのだ。

この捉えかたの延長線上にカット(2)(3)(4)で現れる「再生されるレコード」のショットを置くなら、これまた別の意味合いを帯びてくる。この映像が「記録メディア」が備える「再現性」や「反復性」を表していることは前回にも述べたとおりだが、ひとたび「機能しない家族」の「原型」として「顔のない男女」のシークエンスを捉えたとき、それは「Axxon. N」という固有の「作品」の話ではなくなるし、「ラジオ」や「レコード」といった特定の「メディア」の話でもなくなる。つまり、いろいろな「メディア」においていろいろな「作品=物語」が伝達されるが、たとえ細部は違っても、多くの「作品」が提示しているのは「機能しない家族像」の「個別例」であり、「原型」をもとにした「リフレイン」や「ヴァリエーション」……「再現」や「反復」であるということだ。非常に乱暴な言い方をしてしまえば、それは「よくある話」である。だが、同時に、それは有史以来人間が繰り返してきた営みの一部であり、かつ明確な「解決策」などなく、それがゆえに「普遍性」を備えているともいえる。そもそもリンチが「機能しない家族」や「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての家」というテーマに惹かれ、それをリフレインし続けるのは、その「普遍性」のためであり、それこそが「現実」における最大の「不条理」だからではないのか。いや、リンチだけでなく、現在過去を問わず多くの創作者が、様々な「メディア」において多様な「機能しない家族」像を描いてきた(いる)のも間違いのない事実なのだ。

「現実」において、このシークエンスが提示するような事象は、いつだって、どこでだって発生してきた。そして、現在も発生し続けている。当然ながら、それは「作品=非現実」においても同様だ。それを端的に表すのが、カット(10)における「ここはどこ? こわいわ(Where am I? I'm afraid. I'm afraid......)」という女性の台詞である。これと同じ台詞が「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいて、「私は娼婦よ(I'm whore)」という呟きとともにスー=ニッキーによってリフレインされる(2:07:37)ことは、すでに指摘したとおりだ。しかし、このキーワードのリフレインがスー=ニッキーによって「のみ」行なわれるのは、たまたま「インランド・エンパイア」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「作品」を「個別例」としてとりあげているからに過ぎない。他の作品において、他の登場人物が同様のキーワードを発していたとしても、いったい何の不思議があるだろう?

さて、このキーワードは、「顔のない女性」による「場所の見当識の失当」を訴える台詞である。カット(5)では彼女は「薄暗い廊下」の場所を認識できないし、カット(8)では「部屋」を認識できない。かつ、カット(7)の台詞にあるように、彼女は自分のそうした見当識の失当が何故であるのかも理解できてない。それはカット(10)においても同様で、彼女は結局「場所に対する見当識」を獲得/回復できないままでいる。この描写もまた、この時点ではその表すものは定かではない。だが、この後、本編において展開されるスー=ニッキーおよびロスト・ガールの「意識の変遷」と「自己認識の獲得」を踏まえれば、「顔のない女性」の「混乱」は、そのままの彼女の「自己認識」の欠落とイコールであるといえるだろう。彼女が「こわいわ(I'm afraid)」と漏らすその恐怖の対象は「自己認識の欠落」であり、自分が拠って立つところの喪失に他ならない。そして、「顔のない女性」を始めとする女性たちが「自己認識」を獲得できないでいる要因は、このシークエンスで描写されるような「男女関係」……女性が「自分の意志」を反映させることが不可能な、一方的な関係性……つまりは「娼婦」と「客」の関係性である。このシークエンスが提示する「機能しない家族の原型」が発生要因はこの「関係性」にあり、それは登場人物=スーや演技者=ニッキー、そして一般的受容者=ロスト・ガールにとっても同じであることが、この後、描かれることになる。

カット(11)に登場する、ベッドに座るもう一人の「顔のない女性」のショット、そしてカット(12)における「顔のない女性」の消失は、続くロスト・ガール関連のシークエンスへと引き継がれるものである。それについては、次の回で述べよう。

2008年6月16日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (89)

んなわけで、振り出しに戻って続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。

御存じのとおり完全に行き当たりばったりで書き進めてるので、こりゃまったくの偶然なんでありますが、「インランド・エンパイア」を映像に則して論じる場合、頭から順番どおりやるより途中から始めちゃったほうが楽チンでありますな(笑)。このあたりも、リンチ作品の言語化が困難な理由のひとつなのかもしれんけど、やっぱり総体的に理解されるべきものなのでありましょう。あ、あくまで「論じやすい」んであって、「わかりやすく」書けてるかどーかはまた別物ですので、念のため(笑)。 

さて、「インランド・エンパイア」の開巻と同時に提示されるのは、以下のような映像だ。 

(0:00:07)-(0:01:33)
(1)暗闇。映写機の光がそれを切り裂く。アウト・フォーカスから直ちにイン・フォーカスへ。左にパン。
(オーヴァーラップで) "INLAND EMPIRE"のタイトルが左側から現れる。
画面の右へと見切れる映写機の光。アウト・フォーカスへ。
(2)[レコードのスクラッチ・ノイズ]
回転するレコードとレコード針のクローズ・アップ。
[歓声]
録音された男性の声: Axxon N, the longest running radio play in history -- tonight continuing in the baltic region, a gray winter day in an old hotel.
(ディゾルヴ)
(3)アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。回転するレコードのガラス越しのショット(別カット)。
[ポーランド語で]
女性: The stairway is dark.
(ディゾルヴ)
(4)回転するレコード(別カット)
(ディゾルヴ)

このシークエンスによって提示されているのは、「映画」「レコード」「ラジオ」といった「メディア」のかなり直截なイメージだ。こうしたイメージの提示により、オープニング全体をとおして行われているのは、「インランド・エンパイア」が「メディアについての映画」であることの宣言である。

日本語では「媒体」という訳語が当てはめられる「メディア(media)」(正確にいうとこれは複数形で、単数形は「メディアム(medium)」である)だが、そのもともとの語義には「中くらいのもの」という概念と同時に、「中間にあるもの」という概念も含まれている。つまり、何かと何かの(誰かと誰かの)「中間」に存在し、 仲介して伝達を行うものが「メディアム」であって、よりさかのぼればその語源は神と人間をつなぐ「霊媒師」にまでたどりつく。これらの概念が、まさしく「インランド・エンパイア」が描く「映画」の姿と、あるいはリンチが考える「映画」の機能と、根本部分で重なりあっていることは容易に理解できるだろう。たとえば、「インランド・エンパイア」において、リンチがいう「映画の魔法」は「ファントム」という「媒介者」として提示される。彼が文字どおりの「触媒」として機能すること……もしくは「ミルクをチーズに変える微生物」のように機能し、受容者=ロスト・ガールの「内面」を変えることは、本編を観てのとおりだ。一方で、演技者=ニッキーは登場人物=スーと「同一化」を果たし、その「感情」を「伝達」する「仲介者」となる。上述した「メディア」の語源を考えれば、このニッキーのスーに対する「同一化」の過程は、託宣を得るために神に憑依され融合する「巫女」のイメージと、どこかで重なるものだといえるだろう*。「誰かを他の何か(誰か)とみなす」あるいは「他の誰かに共感する」という「能力」は、おそらくは「人間」が「人間」になった太古にはじまり、そして現在に至るまで連綿と引き継がれるものだ。

そして、これらの「メディア」のなかでも、「インランド・エンパイア」の「核」となるのが「映画というメディア」であることが、カット(1)カット(2)によって明示される。闇を横方向に切り裂く円錐形の光が、「映写機の光」を表すことをは間違いない。そして、そこに「インランド・エンパイア」というタイトルが浮かび上がる。このカッティングが指し示す「映写機の光」と「タイトル」の関連性は、「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」であることの明瞭な提示だ。

「ラジオ」というメディアについては、カット(2)での「録音された男性の声」による「ラジオ・ドラマ(radio play)」という言及があるのみで、具体的な映像としては提示されれない。かわりに提示されている映像が「回転し再生されるレコード」であることをストレートに受けとるなら、「男性の声」はその「レコード」に録音されたものであるということになるのだろう。だが、より重要視しなければならないのは、「インランド・エンパイア」が提示する「メディア」が、基本的に「記録メディア」であることが示唆されている点だ。それは、このカット(2)に続き、ディゾルヴによるカッティングでカット(3)(4)が重ねられていることにも表れている。なぜ、ここでこのようなカッティングが……別テイクによる「再生されるレコード」のショットの繰り返しが用いられているのか? 単に「録音された男性の声」と「再生されるレコード」の関係性を表すだけなら、同じテイクのワン・ショットで十分なはずである。可能性として考えられるのは、カット(3)(4)が、カット(2)のリフレインであると同時にヴァリエーションであること、そして「記録メディア」が備える「再現性」「反復性」を表象しているということだ。

注意をひかれるのが、カット(3)における抽象的な紋様のような「ガラス様のもの」のショットである。これが何を表すのか、この時点では定かではない。だが、後にこれと類似するショットが(1:04:33)において現れたとき、その意味するところがぼんやりと見えてくる。(1:04:33)において提示されているのは、実体化した「スミシーの家」の内部から、スー=ニッキーが窓ガラス越しに「家の外部」を見るシークエンスだ。このシークエンスにおいて提示される、「薄汚れた窓ガラス」の映像がアウト・フォーカスからイン・フォーカスに転じるショットは、このカット(3)で提示される映像と酷似している。もし、これが同一のものであるならば、カット(3)の映像は(1:04:33)の映像と同じ機能を果たしていることになる。「スミシーの家」が「人間の内面」……特にニッキーおよびスーの「内面」を表すものと捉えられることについては、何度か述べてきた。この観点に基づくなら、「スミシーの家」から窓ガラス越しに外を見ることは、すなわち「内面」から「外界」を見る行為の表象として理解されることになる**。もし、このカット(3)における「汚れたガラス」越しのショットが「内面からの外界の認識」を表しているのなら、問題になるのは、その「認識される外界」が「回転するレコード」という「記録メディア」であるというまさにその一点にある。なぜなら、後に明確になるように、「インランド・エンパイア」が描いているのは、そうした「外界にあるもの=記録メディア=映画」によって、人間の「内面」が変化するということに他ならないからだ。

そして、「男性の声」は、「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ」のことを語り、そのドラマのタイトルが「Axxon N.」であることを告げる。この後、この「Axxon N.」は、本編において「視線の交換」を伴いつつ三度にわたり発現し、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「感情移入=同一化」の成立/深化/解体に対して機能する。この「男性の声」によるアナウンスがまず伝えるのは、こうした「感情移入=同一化」が「映画」以外のメディアにおいても発生し得ること……たとえば、「ラジオ」においても発生し得ること、ひいてはどのようなメディアにおいても「Axxon N.」が発現する可能性が存在することだ。加えて、このアナウンスは、「インランド・エンパイア」は「メディア」について語るが、その内容が「技術的な発達史」に関するものではないということをも表している。この作品が描くのは、そうした技術を「手段」として「感情」を伝えることについてであり、「物語創造/物語伝達」についてである。そのことは、後に「90歳の姪」に関するキングズレイ監督の言及によって、より明確にされる(0:40:59)。

同時に、「男性の声」は「バルト地方(baltic region)にある、曇った冬空の下の古いホテル」についても言及する。「インランド・エンパイア」においてこの「バルト地方」が何を表すかについては、この時点では定かではない。だが、後にピオトルケが参加するサーカスが「バルト地方」を巡業しているという言及があり(1:43:37)、それを考慮すれば「バルト地方」によって表されるものには、「サーカス」によって表されるものが付随させる「公的」「社会」「組織」といったイメージが伴っていることは明らかだ。いずれにせよ、「バルト地方」が「ポーランド・サイド」と同じく、「アメリカ・サイド」と併置され対置されるものであることは明瞭だ。基本的に、「ポーランド・サイド」は一般的受容者=ロスト・ガールに関連するものを表し、「アメリカ・サイド」が演技者=ニッキーと登場人物=スーに関するものを表象している。それを考えるとき、要素として残されているのが、ウサギたち/老人たちといった「介入/コントロールを行うもの」とピオトルケであること、そして老人たちによる「介入/コントロール」が「バルト地方」のどこかにある「家」においてピオトルケに対し行われること(2:01:35)は、一考に値するだろう***

しかし、先に述べた「再現性」「反復性」の問題は、この後に続く、カット(3)における女性の「階段が暗くて」という台詞に対応するシークエンスにおいて、また違った意味を帯びる。それについては、次のシークエンスについて述べるときに触れよう。


*余談になるが、このように「メディア」の語義をキーにして、ニッキーのスーに対する「同一化」の過程を「統合失調症の症例」とするアプローチをみたとき、加藤幹郎氏のラカン派精神分析学に対する「精神分析学は人間救済をめざした宗教の権威が地に堕ちたときに登場した擬似科学的な新興宗教のようなものです」(「ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学」P.149)という指摘が奇妙に符合してしまうことに気づかされる。おそらく、依代となり「神」に憑依された古代の「巫女」は、現代の精神分析医の診断によれば「統合失調症」を発症していたことになるのだろう。精神分析学が「宗教の代替物」であるならば、これは極めて正当な見方だ。たとえば、上記の「おそらく~」以下のセンテンスの、巫女が信じる「神」を「異神=自分達が信じるのとは違う神」という語句に入れ換え、「統合失調症を発症していた」を「自分達の戒律を破った」という語句に入れ換えてみても、さて、どれくらいの違いがあるのだろうか?

**ついでにいえば、「スミシーの家」の「窓ガラスの汚れ」は、人間の「外界」に対する認識能力の「限界」や「不確実性」の表れ……文字どおり「主観に歪められた外界認識」を表すものと受け取ることも可能だ。だが、それは逆に、「人間の内面」を第三者が「覗き込む」ことの「限界」と「不確実性」、そして「主観に歪められた他者の内面に対する認識」の表れでもある。

***どの「場所」にでも現れる(あるいは、侵入する)「ファントム=映画の魔(法)」と、外部的なものである「訪問者たち」は、要素として除外される。

2008年6月14日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (88)

なーんか、一挙に夏っぽくなってきておりますが、一年を過ぎてまだヘロヘロと続く「インランド・エンパイア」話であります。「長いでっせ? 三時間ありまっせ?」と関係の方に念を押されつつ試写を観たのは、去年のこのような季節の頃でありましたのですなあ。

それはそれとして、エンド・ロールの続きをば。

さて、前回で述べたような事項を押さえたうえで、改めてエンド・ロール全体を見回したとき、新たに気づくことがいくつかある。

たとえば(0:09:37)の映像などと比較しつつ、このエンド・ロールが繰り広げられる「舞台」を改めて観れば、実はそこが「ニッキーの屋敷」の内部であることが確認される。絵画を含めたリンチ作品全般において、「家」はしばしば「人間の内面」を表すものとして描かれてきた。それはリンチが抱く「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての家」というモチーフに基づいており、「インランド・エンパイア」もその例にもれないことは、たとえば「スミシーの家」によって表されるものをみても明らかだ。演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であるロコモーション・ガールたちが初めて現れるのが「スミシーの家」の内部であるのは(1:09:11)、そこが登場人物=スーの(そして演技者=ニッキーの)「内面」であるからに他ならない。そして、その延長線上に「ニッキーの屋敷」を捉えるなら、そこにロコモーション・ガールが現れるという表現自体が、逆説的にその「場所」がニッキーの「内面」であることを指し示していることになる。言い替えれば、エンド・ロールで提示されている映像はすべてニッキーの「内面」で発生している事象であり、そこで繰り広げられる「祝祭」も、ニッキーの「内面」に存在する「感情」を表象するものとして読み取られるべきだということだ。

「内面としてのニッキーの屋敷」という観点を考えるうえでキーになりそうなのが、「ファントムの妹」による「ステキ(Sweet)」という台詞である。この「ステキ」という台詞が、(1:28:24)においてすでに登場していることにお気づきの方も多いかと思う。その「ステキ」という台詞は「スミシーの家」の内部において、ロコモーション・ガールの一人から、他のロコモーション・ガールの胸を評する言葉として発せられていた。この(1:28:24)の「ステキ」に限定していえば、ロコモーション・ガールたちがニッキーの「情緒の記憶」である限りにおいて、いわばニッキーの「内省」であるといって差し支えないだろう。だが、「記憶」という概念をキー・ポイントにしたとき、ある思いに行き当たる……「ハリウッド伝説」に限らず、「伝説」というもの全般がある種の「記憶」であり、必ずなんらかの「感情」を伴って成立するものではないだろうか? いや、それをいうなら、何かが誰かの「心」に残るとすれば、それは例外なく感情や主観のバイアスがかかった「心象風景」としてであることを、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」などのリンチ作品は提示してはいなかったか? いずれにせよ、ロコモーション・ガールによる「ステキ」が「自らの記憶」に対する「感情」の発露とするなら、「ファントムの妹」による「ステキ」をそうでないとする理由は見当たらない。もし、この二つの「ステキ」がなんらかの「共通項」をもち、「対置」され「対応」するものであるとすれば、それはおそらく、ともに「記憶」に対する「感情」である点においてだ。

興味深いのは、前回にも少し触れた「ファントムの妹」の消失である。この表現を理解するキーとなるのは、(2:54:08)および(2:58:38)におけるニッキーのアップのショットだ。このショットにおける彼女は、長椅子に座ったまま、どこか”上方を見上げている”。この”上方を見上げる”ニッキーは、「ステキ」と呟きつつ”上方を見上げる”「ファントムの妹」(2:53:12)の明らかなリフレインである。この二人によって引き継がれる「上方への視線」という共通した動作は、同一の「感情」を共有していることの表象以外のなにものでもない。そして、もちろん、彼女たちがともに憧憬をもって見上げているのは「ハリウッド伝説」だ。だが、同じ「感情」を抱く同じ「映画関係者」でありながら、ニッキー自身はハリングやキンスキーとともに「伝説」の一部となってそこに残り、「ファントムの妹」は姿を消し、いなくなる。「残るもの」と「消え去るもの」、「伝説となって記憶に残るもの」と「いつしか忘れ去られるもの」……こうした「対置関係」の提示として、ニッキーと対比する形で「ファントムの妹」の消失は描かれているのだ。

ただし、エンド・ロールを「ニッキーの内面」と捉えた場合、ポイントになるのは「ファントムの妹」とニッキーの対比ではない。むしろ重要なのは、二人の間で引き継がれた「感情」そのもの強調であり、それに加えて「同一の動作=同一の感情」の「共有」が示唆するこの二者の「同一性」……つまり「同一の存在」であることの可能性だ。もし二人が同一の存在であるのなら、ニッキーが登場する一方で「ファントムの妹」が消失することには、何の不思議もないだろう。

もうひとつ、「ファントムの妹」と同じく、ニッキーとの対比として表れていると思われる要素がある。それは、(2:54:13)を皮切りに、3回インサートされる「椅子の背でとび跳ねる猿」のショットだ。この猿のショットを、浮浪者2によって言及された「糞をまき散らしつつ、ホラー映画みたいに叫び声をあげる猿(This monkey shit everywhere, but she doesn't care... This monkey can scream... it scream like it in a horror movie)」(2:28:44)の具体的な映像提示と理解するのは、Nikoや「ファントムの妹」の例がある限り、さほど不当なことではあるまい。この「猿」が「サンセット大通り」へのオマージュとして提示され、「動物=自律しながらも、他者のコントロールを受けるもの」を表すものであることについては以前に述べた。「インランド・エンパイア」において「動物」という概念によって表されるものは様々だが、「糞をまき散らしつつ、叫び声を上げる猿」が「介入/コントロールに失敗した映画作品」として理解可能であることについても、以前に述べたとおりだ。我々が「ハリウッド伝説」として記憶に残すのは「華々しい成功例」ばかりではない。「壮絶な失敗例」もまた「伝説」となり得ることは、「インランド・エンパイア」にも引用されている「クィーン・ケリー」の例が指し示している。ニッキーと猿のショットの対比から立ち表れてくるのは、こうした「成功例」と「失敗例」の対置関係であるといえる。

もう一点、注意をひくのは、上述したニッキーと猿のショットとともに、「丸太を切る木樵」のショットもインサートされることだ。つまり、「成功例」と「失敗例」という対置構造に加えて、「丸太を切る木樵」という「木のモチーフ」がもうひとつの要素として持ち込まれている。前回述べた、「木のモチーフ」がリンチにとっての「ある価値観」なのではないかという個人的な印象の根拠のひとつは、このようなところにある。端的にいうなら、「成功」や「失敗」の二つと対置されるまた異なった「価値観」として、「木のモチーフ」=「丸太を切る木樵」が表れているのではないか……という可能性だ。こうした「価値観」の問題は、「インダストリアル・シンフォニーNo.1」における「浮遊するジュリー・クルーズ」と「丸太を切るマイケル・アンダーソン」の対置とも、どこかで重なっているように思える。はたしてこの「価値観」は、森林研究者であったリンチの父親と、そして自身が幼少時代を過ごした50年代のアメリカの「価値観」と密接な関係があるのかどうか。

このエンド・ロールを「構成」という観点からみた場合、大きく三つのパートに分かれていることがわかる。一つ目のパートは、前回触れたカット(1)(2)の部分であり、ここではエンド・ロールの「核」=「ハリウッド伝説」がまず提示されていることについては、すでに述べたとおりだ。同時に、そこでは「ハリウッド伝説」自体を受容する「ファントムの妹」という存在が描かれ、ローラ・ハリングとニッキー(あるいはローラ・ダーン)との関係性を描くことで、ニッキーが「ハリウッド伝説」の一部となったことが示唆される。二つ目のパートでは、ロコモーション・ガール+女性ダンサーたちによる「祝祭」、およびハリングやキンスキーをはじめとする「伝説となった人々」のショットにインサートされる形で(あるいは、平行する形で)、上で述べた「ニッキー」「跳びはねる猿」「木樵」という対置される三要素が提示される。

そして、三番目の最終パートにおける具体的な映像は、以下のようなものだ。

(2:59:06)
(3)ニッキーのアップ。点滅するフラッシュ・ライト。視点はゆっくりと後退していき、ニッキーとキンスキーが赤い長椅子に座っているミドル・ショットになる。
Title: INLAND EMPIRE (白い文字で)
視点はなおも後退し、ロング・ショットに。女性ダンサーたちが、ロコモーション・ガールたちの前で踊っている。
(暗転)

 

このカット(3)が、カット(1)(2)の関係性において提示された「ニッキーの伝説化」の再提示であることは、改めて説明するまでもないだろう。あわせて、中心となっているニッキーからカメラの視点は後退し続け、キンスキーによって表される「他の伝説」の提示を経て、「祝祭」的イメージを含めた全体像を俯瞰する形までワン・ショットで収められてている。

……と、このようにみていくと、エンド・ロール自体が「三幕構成」によって成立していることが確認されるだろう。まず「テーマ」が提示され、次にそれに対する対立概念がぶつけられて、最終的に対立概念を含めた形の全体像が敷衍される……という「三幕構成」である。実際にリンチの意図であるかどうかは定かではないが、このような「シナリオ作法の基本形」がエンド・ロールに認められることは、リンチ作品における「ハリウッド古典的編集の遵守」と並んで、ぜひ指摘しておきたい事項のひとつだ。

繰り返し述べたように、エンド・ロールが提示する「テーマ」とは、「ハリウッド伝説」と「ニッキーの伝説化」である。エンド・ロールが、本編のラストに現れるニッキーのショット(2:52:09)によって表されるもののリフレインあるいはヴァリエーションであり、再提示であることについては前回も触れた。と同時に、そこにみられる「三幕構成」が表すように、エンド・ロールがそうした「テーマ」の詳細な「展開図」として機能していることは明らかだ。こうした「展開図化」あるいは「図式化」は、リンチ作品にしばしばみられる特徴であることも、改めて述べておきたい。

というわけで、これでとりあえず、「インランド・エンパイア」の後半2時間分に関する「イメージの連鎖」について、実際の映像に則しながらひととおり述べたことになる。次回からは、立ち戻って、残る前半1時間分の「イメージの連鎖」をたどってみることにしよう。

2008年6月10日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (87)

なんだかんだしているうちに、試写で初めて「インランド・エンパイア」を観てからほぼ一年が経過したんでであります。いやー、一粒で二度オイシイというか、一粒三百米というか、風速四十米というか、もはやなんのことだかよくわかりませんが、まあ、そのくらい長い間楽しませていただいてるワケで、安上がりといえば安上がりな道楽でありますナ(笑)。

というような感慨はともかくとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業は、「エンド・ロール」に差し掛かるのであったりするのであった。

この(2:52:50)から(2:59:31)までのエンド・ロールによって表されるものの「核」は、その冒頭においてすぐさま提示される。それは、リンチが抱える「ハリウッド伝説」のイメージであり、それに対するリンチ自身の「感情」だ。

(2:52:50)-(2:53:48)
(フェイド・イン)
(1)左から右へパン。白い大理石の柱。枠がはまったガラスの扉と、その両側に置かれた赤い二脚の椅子。右側の椅子の横には背の高い傘付きのライト・スタンドがある。スタンドの横には、大きな木のテーブルがある。左足に木の棒の義足をつけた女性が、松葉杖をついてやってくる。歩きながら、部屋のなかを見回し、あるいは見上げている。大理石の柱まで歩き、それに背をもたせかけ、上方を見上げる。
海兵隊員の妹: Sweet.
左から右へパン。ブロンドのかつらをかぶったNikoが右側の赤い椅子に座っている。椅子の背には彼女の猿が座っている。彼女にクローズ・アップ。
左へパン。ローラ・ハリング(黒いドレス姿)が、左側の赤い椅子に座っている。彼女はほほ笑み、右手で投げキッスをおくる。
(2)ニッキーのアップ。彼女は長椅子の右端に座り、ほほ笑みながらハリングの方を見ている。彼女の背後には、ナスターシャ・キンスキー(黄色いドレス)が、長椅子の左端に座っている。画面外のハーディングに向かって投げキスをするニッキー。

本編の中で、台詞によってのみ言及された二つの「もの」が、このエンド・ロールにおいて「実体」となって現れる。

一つ目は、ブロンドのウィッグを被り、猿を連れて登場するNikoだ。その映像イメージは、「ヴァイン・ストリート」の路上で浮浪者2が言及したそのままである(2:26:30)。当該シークエンスについて述べる際に触れたように、これらの「ブロンドのウィッグ」や「猿」といった「付属物(アトリビュート)」が、彼女が「ブロンド嗜好」や「サンセット大通り」からの引用などの混淆物であり、「ハリウッド伝説」の抽象概念として表れていることを示唆している。そのNikoが登場することによって表されているのは、このエンド・ロールそのものが、リンチによる「ハリウッド伝説」のイメージであるということだ。

映像に登場する順番とは逆になったが、二つ目は「義足の女性」である。彼女は、本編では「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの台詞のなかで言及されている(1:47:35)。この「義足の女性」も言及どおりの映像イメージであることは、改めて指摘するまでもないだろう。キャスト表における「海兵隊員の妹(Marine's sister)」という役名が指し示すとおり、彼女は「ノース・カロライナの海兵隊員だったファントム」の妹である。そして、この「ファントムの妹」が、何よりも強くリンチ自身を指し、ひいては「映画関係者全体の抽象概念」を表象していると捉えられることについては、「ノース・カロライナ」関連の回で述べたとおりだ。彼女がエンド・ロールにおいて「ステキ(Sweet)」と評するものが何であるのかは、前述したNikoの存在によって明瞭だろう。すなわち、この「ステキ」という台詞は、リンチ自身が抱える「ハリウッド伝説」への肯定的な感情の表れとして受け止めるべきものなのだ。

そうしたリンチの「感情」を考えたとき、(2:54:16)を含め何度か登場する「丸太を切る木樵」によって表されるものもまた、リンチが抱く「ハリウッド伝説」への感情の表れとして捉えることができるといえる。この木樵を、「”Hollywood”を切る」との連想において、リンチによる「ハリウッド批判」と捉える意見も目にするが、前述の「ステキ」に付随する肯定的イメージを考えれば、一概にそうも言い切れないようだ。過去作品をみればわかるように、あるいはリンチ自身の発言にあるように、リンチにとって「木」に関連するイメージやモチーフは非常に根元的なものであり、個人的にはもはやある「価値観」であるとすら感じる。実際、最初期の「グランドマザー」や「イレイザーヘッド」のころから「木」のモチーフは表れており、それ以降も「ブルー・ベルベット」の舞台であるランバータウンの設定や、「丸太おばさん(Log Lady)」などに表れる「ツイン・ピークス」の基本トーンなどに、作品を越えて連綿とつながっている。「インダストリアル・シンフォニーNo.1」に至っては、マイケル・アンダーソンが木挽台に乗った丸太を鋸で切ってみせるという、「丸太を切る木樵」とまったく同一のモチーフすら存在するぐらいだ。

「青」のモチーフと同様、ことほどさように、リンチ作品における「木」のモチーフは高度に抽象化されており、ストレートな象徴化を許さない。敢えて指摘すれば、リンチ作品における「木」のモチーフが、ポジティヴなイメージを伴って表れることも稀ではないのだ。たとえば「グランドマザー」に登場する「木」から生まれ出る祖母は、主人公の少年にとって、厳格で口喧しい両親の対極にあるものである。あるいは、「イレーザーヘッド」において表れる「鉢のない鉢植えの木」は、ヘンリーの(そして、ヘンリーと重なる当時のリンチ自身の)、覚束ないかもしれないが将来につながる「才能」を表すものとして読み取ることができるものだ。「インダストリアル・シンフォニーNo.1」におけるマイケル・アンダーソンのパフォーマンスも、空中を浮遊し失墜するジュリー・クルーズと対置される、「確固とした地上のもの」のイメージを内包しているとも受け取れる。

……というようなコンテキストの上に「丸太を切る木樵」を置くなら、それが必ずしもネガティヴなイメージを伴っていないことが理解できるだろう。そもそも自らを投影した「ファントムの妹」が呟く「ステキ」という台詞に表されているように、リンチにとって、「ハリウッド」は基本的にポジティヴな感情の対象である。たとえその中での自分の現状が不本意なものであっても、少なくとも50年代(あるいはそれ以前)の「ハリウッド映画」は、「木」や「森」と同様、リンチの「原体験」のひとつであり、自身の「価値観」を形成する要素となっていることは明らかだ。繰り返される「サンセット大通り」(1950)や「オズの魔法使い」(1939)へのオマージュなどにみられるように、過去の「ハリウッド映画」を含めた50年代に対するリンチの嗜好は何度となく指摘されており、かつ自らもそれについて認める発言を繰り返している。それらの点を踏まえるなら、この「丸太を切る木樵」というモチーフもまた、「ハリウッド批判」というより、むしろそれに対するリンチの肯定的なイメージを伝えるものと受け止めた方が、妥当ではないだろうか。

こうした「ハリウッド伝説」あるいは「過去のハリウッド」に対するリンチのポジティヴなイメージは、ロコモーション・ガールも混じった女性ダンサーたちの乱舞による「祝祭的イメージ」に引き継がれる。リンチのフェイヴァリット作品のひとつである「8 1/2」(1963)の結末でフェリーニは、「ロケット発射台」の(映画内)映画のセットの前で登場人物たちが手をつなぎ、輪になって踊るという「祝祭的イメージ」を描いた。その直前に主人公のグイドが行う「人生は祭りだ。共に生きよう」という呼び掛けは、「インランド・エンパイア」が内包する「映画を介した感情の共有」というテーマとも、どこか重なっているように思える。そもそも参加者の「感情の共有」がないところに、真の「祭」などあり得るだろうか?

上記のような事項をひとまず押さえたうえで、では、このカット(1)カット(2)の具体的な映像をみてみよう。

まず指摘できるのは、カット(1)において、「ファントムの妹」とNiko、そしてローラ・ハリングの映像が長回しのワン・ショットで提示されていることだ。映像から推し量る限り、このショットは周到な計算に基づき、演技者と打ち合わせたうえで撮影を行っていることがわかる。「ファントムの妹」が最初に登場する映像では、Nikoあるいはハリングが座っているはずの椅子には誰もいない。その後Nikoが映され、次にハリングが映される映像では、すでに「ファントムの妹」は姿を消している。カメラの移動とキューに連動して、演技者たちが移動し、あらかじめ決められた所定の位置についているのは明らかだ。この「ファントムの妹」の消失が意味するとことは別項で述べるとして、結論として、この表現によって意図されているものが「ファントムの妹」とNikoとハリングの三者間の「連続性」であり、その「関係性の強調」であるのはいうまでもない。つまり、「ファントムの妹=映画関係者」と「Niko=ハリウッド伝説」、そして「ハーリング=伝