フォト
2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

デイヴィッド・リンチ

2009年9月10日 (木)

リンチの新インタビュー集のおハナシ

新しいリンチ関連本ネタ。

Lynch_interviews 本家公式サイトではリンチによる「Interview Project」が進行中だけど、こちらは「David Lynch: Interviews」っつーデイヴィッド・リンチのインタビュー集が刊行されるという話題。刊行予定は9月21日、版元はミシシッピー大学出版局で「Conversations With Filmmakers Series」というシリーズの一冊である模様(他にはウェルズとかコッポラの本が出てますね)。すでに米アマゾンで予約が始まっておりまして、ペーパーバック版が通常価格$22.00のところ、現在なんと32%引きの$14.96也。日アマゾンでも予約受付中で、こちらは¥2,610也。

著者のRichard A. Barney氏はアルバニー大およびニュー・ヨーク州立大の助教授で英語専攻であらせられるらしく、そっち方面のお堅い著作も多いご様子なのだが、なぜにいきなりリンチ本? ひょっとしてもしかして、単なるファンだったりする?(笑)

リンチのインタビュー集といえば、クリス・ロドリーの「リンチ・オン・リンチ」という先行書があるのだけども、あれは単独のインタビュアーによるロング・インタビューでありました。今回出版されるのはそれとは違い、いろんなインタビュアーによって行われ、雑誌やらウェブ記事やらに掲載されたものを再録した「よりぬきインタビュー集」という体裁であるようです。

ネタとしては、「グランドマザー」といった初期作品から最新作「インランド・エンパイア」までの映画作品はもちろん、絵画作品や写真作品をも含めたアレやコレや。「質問に対しリンチが韜晦をもって答えるのでなく、率直に答えたレアなインタビューを集めた(editor Richard A. Barney has chosen the rare interviews in which Lynch opens up to questions rather than deflecting them)」とゆーのがウリになっております。ホンマかいな……とお思いの方も多いでしょうが、実はインタビューの仕方によっては案外マトモに答えていることも多いんですよ、このシト。日本語によるインタビューのほとんど全部が「韜晦の彼方」であるのは、「新作公開」のタイミングでしかそういう機会がないことが大きいように思うのと同時に……まあ、そーゆーわけですな(笑)。

とうゆーわけで、とりあえずポチっとな(笑)。現物が届いたらまたレビューなんかやらかしてみるつもりでありますので、乞うご期待っつーことで。

2009年9月 3日 (木)

ロンドンでリンチ話

本日のdugpa.comネタ。

「Mapping the Lost Highway New Perspectives on David Lynch 」と題したデイヴィッド・リンチに関するカンファレンスが、イギリスはロンドンで開催される模様。会場は「Tate Modern  Starr Auditorium」、期間は10月30日~11月1日の三日間、参加料は25ポンド也とか。

Gregory_crewdson10 参加パネリストは、写真家のグレゴリー・クリュードソン(リンチが好きな画家エドワード・ホッパーの影響下にある作品を撮る)、ダリア・マーティン(「Harpstrings and Lava」(2007)など「内面」と「外界」の関係性をテーマにした作品を作り続ける)、ジェインとルイーズのウィルソン姉妹(双子姉妹でインスタレーションや写真作品を作る)、ブルネル大学心理学者のパーヴィーン・アダムス(「The Inter-subjective Unconscious: Contemporary Art and the Time of Nachtraglichkeit」等の芸術/映画に関する著作あり)、批評家のサラ・チャーチウェルとかとか。バダラメンティの旦那も、はるばる海を越えて来るようです。元気だな(笑)。

んでもって、それにあわせたリンチ作品の上映が行われるとともに、このカンファレンスのために撮られたリンチのインタビュー映像も流される様子。

うーむ、あっち方面では、フランスのデパート「Les Galeries Lafayette」11店舗の正面玄関に「Women of Influence」と題したリンチの絵画が展示されるってぇイベントもあって、これは9月3日から10月3日までなんだよな。もうちょっとどちらかがズレてれば、きっとハシゴするヤツが出たに違いないのに(笑)。

いずれにせよ、リンチ作品に関する基礎研究の動きのひとつとして、このカンファレンスが実り多いものとなることを、遠く極東から祈っておりますデス。あ、当日の記録集とかは出版されないんですかね?

2009年7月14日 (火)

リンチの子供向アニメーション、再始動?

IMDbのディヴィッド・リンチの項を久しぶりに見てみるってえと、「In Development」のところに、あらま、いつの間にか「Snootworld」とゆー作品が2010年リリース予定として追加されておりました。

実は、この作品、2003年頃、アチラのリンチ・ファンの間でちょいと話題になったブツでありまして、そこらへんの経緯に触れているのがコチラに掲載されているTheNextBigThing氏からの情報

かいつまんで説明すると、その年のストックホルム国際映画祭にゲストとして招聘されていたリンチが、席上、「アニメーション作品を作ってみたいと思ったことはありますか?」とゆー質問に答えて、「イエス。実際に『Snootworld』というアニメーション作品のスクリプトを書いたことがある」と発言した、と。んでもって「この作品は子供を対象としたCGアニメにしたいと思っている」と語った……とゆーよーなことがあったんでござーます。

リンチの子供向けアニメかよ! それって一種の語義矛盾じゃね? とか一時は盛り上がったんでありマスが、まるで実現する気配もないまま「インランド・エンパイア」等をはさんで早や幾星霜……とゆーのは大袈裟にしても(笑)、ほとんど忘れかけていたところにIMDbの情報なわけで(どーやら有料のIMDb Proのほうでは、かなり前から掲載されてたみたい。うーむ、有料会員になるべきなのかしらん?)、リンチってば、やっぱ気が長いとゆーか執念深いとゆーか(笑)。この後、どーゆー形で進展してどーゆー形で発表されるやらさっぱりわかりませんが、こーなったらコチラも気長かつ執念深く完成を待たせていただくことにいたしますデス……とゆーお話しでした(笑)。

2009年5月 6日 (水)

「Stranger on The Third Floor」を観た

とわいえ、連休中は「芸者vs忍者」だけを観ていたわけでもなく(笑)、たとえばボリス・イングスター監督の「Stranger on The Third Floor」(1940)なんぞもやっとこ観たりしておりました。で、この作品をつうじて、いわゆるフィルム・ノワール作品とリンチ作品の親和性を改めて確認できたように思ったり思わなかったり。

この作品がフィルム・ノワールの先駆的作品とされたり、あるいはもっとも初期のフィルム・ノワール作品そのものとして扱われるのは、一般的定義ではこのジャンルの始まりとされる「マルタの鷹」(1941)の一年前に製作公開され、かつテーマ的にも映像的にもフィルム・ノワールの特徴とされるものに合致しているからであります。でも、逆にいうと、そもそものフィルム・ノワールの一般的定義自体が、実は第二次世界大戦後、解禁されたハリウッド映画を集中的に受容したフランス人批評家の発言に端を発する「言説」に過ぎないこと……要するにフィルム・ノワールという明確な「ジャンル」がハリウッドに存在したわけではなく、あくまで当時のハリウッド映画が内包していた傾向の一部を後付で曖昧に切り取っただけであること、「単一的な現象としてのフィルム・ノワールというものは存在しない(As a single phenomenon, noir, in my view, never existed)」(Steve Neale / Genre and Hollywood. London, Routledge, 2000)ことを、間接的に裏付ける作品であるとゆーことですね。

ざくっとした粗筋としては、新聞記者の主人公が連続殺人事件の遺体発見者となり被疑者として拘束されてしまうわけですが、彼が目撃した真犯人と思しき人物を主人公の恋人が捜し当てて、そしたらホントにその人物が真犯人でよかったよかった……ってな感じの、まあ、予定調和っちゃあ予定調和な話で、特に最後に主人公と恋人が結婚するところなんか、いわゆるハリウッド映画における「美徳の観念」の範疇にあるといえます。映画評なんかをみると、真犯人役を演じたピーター・ローレの演技が評価されている様子で、確かにこの作品においてもローレの神経症的な演技は光っています。ただ、この真犯人は「M」(1931)の幼児誘拐犯の人物像を踏襲しているといえ、その後の「マルタの鷹」におけるジョエル・カイロとも重なる部分があったりで、ある意味でローレの演技パターンのヴァリエーションのひとつとして理解してしまえる部分があるように感じます。

かようにローレが高評価される一方、主人公のマイケル・ウォード役のジョン・マクガイアの演技はあまり評価されていないようです(てか、ある評では、恋人役ジェインを演じるマーガレット・タリチェットともども「大根」とまで言われちゃってる始末です)。しかし、この作品をそのテーマの面からフィルム・ノワールとして捉えた場合、むしろ興味深いのはローレ演じる真犯人よりもこのマイケル君の人物像であるように思いました。

キーとなるのは、作中で時間的にもかなりのウェイトを占めるマイケル君の「内省」および「悪夢」の部分です。この時期のフィルム・ノワールのテーマ的特徴として「人間の内面における対立概念の衝突」ってのがあります。要するに、それまでのハリウッド映画では、たとえば「善と悪の対立」がわかりやすく「善玉の主人公」と「悪玉の敵役」に別れて提示され、最終的に善玉が悪玉を倒すことで「悪に対する善の勝利」が明瞭に描かれていたわけですが、フィルム・ノワールに分類される多くの作品では、たとえば同じ「善と悪の対立」にしても「ある人物(フツーは主人公)の内面で発生している葛藤」として描かれます。でもって、下手したら「ひょっとして、善が勝利した……のかな?」ってな曖昧な結末しか描かれなかったりする。てなことを踏まえたとき、この作品におけるマイケル君の「内省」および「悪夢」は、まさにこの「人間の内面における葛藤」の典型であるといえるっちゅーことです。

とゆーよーな観点から特筆すべきは、常日頃から仲が悪かった隣人の中年男が殺害されているのを発見したあと、マイケル君がみる「悪夢」のシークエンスです。これがモロに表現主義的な映像の連続で、思わず大受け(笑)。

ご覧のようにこの「悪夢」のシークエンスは、「光と影」や「二重露光」を駆使した演出はもとより、あんたは「最後の人」かというくらい「ぐもももー」と迫るビルディングとか、「MURDER」と全面に書かれた新聞とかという表現主義的な映像によって、「隣人の殺人容疑で逮捕されて、裁判やら処刑やら」というマイケル君の「不安」をみごと描くことに成功しております。というか、フィルム・ノワール作品の特徴としてしばしば「ドイツ表現主義映画からの影響」が挙げられますが、「Stranger on The Third Floor」のような例をみていると、それはあくまで前述したような「内面の葛藤」というモチーフあるいはテーマを具体的映像としてするために採用された「手法」に過ぎないんじゃないか……とすら思えてくるんですが、さて、どんなもんでしょー?

てなことはともかく、こうしたマイケル君の「内面」を描く映像から感じられるのは、彼が非常に現代的な「漠たる不安」を抱いている人物であることです。いつもは普通人として日常を平和裏に暮らしているくせに(いや、だからこそ)「隣人殺害の動機」を山ほど抱え込み、それによる「葛藤」に悩まされることになる。ナニを隠そう、マイケル君こそ、この作品のなかでもっとも(実存的な意味で)イカれている人物であるように大山崎には思えるわけですね。ローレ演じる真犯人が(その描写の妥当性はともかくとして)わかりやすく精神的均衡を崩している「だけ」の人物であり、それがゆえにこの作品において彼の「内面」が詳しく描かれることがないのとは、まったく対照的です。

とまあ、ここまで書けば後はいわずもがななんですが、このマイケル君の人物像は、そのまんまリンチの諸作品に登場する人物たちと重なり合うといえます。内面に「葛藤」や「漠たる不安」を抱え、それがゆえの「悪夢」や「幻想」に追い詰められるマイケル君は、たとえばヘンリーやフレッドやダイアンたちとどこがどう違うのか。あるいは、もっといえば、今ここでこうしている我々自身といったいどこがどう違うのか。かつ、彼/彼女たちの「悪夢」や「幻想」が、表現主義的な映像によって彼/彼女たちの「感情」を反映しつつ展開されるという構造においても、この作品は(あるいはフィルム・ノワールと呼ばれる作品の一部は)リンチの諸作品と明瞭な同一性/類似性を備えているといえます。リンチ作品とフィルム・ノワールとの親和性はよく指摘されるところですが、それは特定作品からの引用といった表層的な問題などではなく、実はこうした本質的な部分での同一性/類似性からくるはずです。

さて、もしマイケル君にヘンリーたちと違うところがあるとすれば、彼が「悪夢」から逃れることに成功し、前述したように恋人ジェインとの幸せな結婚に至ること「ぐらい」です。それは当時のハリウッド映画の「範例」にしたがった解決であり、それにしたがうならマイケル君が「無実」であるかぎりにおいて彼が「不幸」なまま終わることは許されません(それはつまり、「悪」が「幸福」なままでいることが許されないことの裏返しであるわけで、案の定、ローレ演じる真犯人のほうは悲劇的な結末を迎えます)。しかし、「なにかと妄想体質」のマイケル君のことでありますからして、その後、彼はきっとフレッドと同じよーな状況に陥ったであろうことを大山崎は信じてやみません……なんちって(笑)。

2009年5月 2日 (土)

リンチのプロジェクト、いろいろ取り揃え

本日のdugpa.comネタ。

デイヴィッド・リンチの公式ページで、「インタヴュー・プロジェクト(Interview Project)」なるものの予告がされております。

思えば公式ページで何か立ち上がるのも久々な印象がありますですが、トレイラー映像でのリンチの説明を聞く限りでは、要するにアメリカのあちこちを回って(リンチの弁によれば「70日間で2万マイル」のロード・トリップちゅーことであります)いろんな人にインタヴューをするという、まあ、なんといいますか、タイトルのまんまな企画であるっぽいです。

実際の映像の配信は6月1日から始まるみたいでありますが、上記公式ページでアドレスを登録しておくと、配信スタートとともに連絡がもらえるみたい。というわけで、大山崎も早速ポチっと登録しておきました。

トレイラーには、おそらく実際の映像に登場するのであろう方々がチラリと映っておりますが、どこにでもいるフツーの方々であります。若干、「ジジイ率」が高そうな感じが「ジジババ使いがウマイ」と定評のあるリンチらしいっちゃ、リンチらしいかも。

つい先日もMobyの「Shot In The Back of The Head」のPVが公開され、加えて「Dark Night of the Soul」という音楽プロジェクトの映像を担当するという話も出たばっかりで(こちらは詳細待ち)、いろいろとリンチの活動が始まっている様子で楽しみ。

てなことで、乞うご期待ってことで。

2009年4月20日 (月)

リンチ in ロシア

本日のdugpa.comネタ。

4月の上旬にデイヴィッド・リンチはロシアに行ってた模様で、現地のファンからのレポートが掲載されております。フランスのシューズ・デザイナーであるクリスチャン・ルブタン氏が同行していたとのことで、氏と組んでリンチが写真作品を出展している展示会「Fetish」のモスクワでの開催にあわせてのことであった様子。

Fetish_1 このルブタン氏とのコラボのそもそもは、パリで開催されたリンチの作品展「The Air is on Fire」の際に、リンチがその展示の一部として、ルブタンが作った靴によるオブジェを出展したいと申し出たことに端を発しているらしい。そのお返しにとして、ルブタンは自作の靴の写真撮影をリンチに頼んだそうなのだが、そのときの注文が「自分の靴がフェチシズムの対象以外のなにものでもないことを表すような写真を撮ってほしい」。で、リンチが語るところによれば、出来上がった写真は「自分の欲望を抑えるために、安全で人目につかない場所に隠しておくこと」という注意が必要な出来だったそーで、実際の作品のひとつがこのよーな感じ。さて、欲望が抑えられるかどーか、みんなで勝負だ(笑)。

でもって、4月10日からはかの地で「The Air is on Fire」も開催されているとの話なんでありますが、こちらはどうやらロシア語で「Aura of Passion」というタイトルになっている模様。その詳細&機序はdugpa.comの記事からではちょいとよくわからず……って、なんかいきなりロシアでリンチ関係花盛りになってるのはどーゆーことなんスか? うー、ウラヤマしいわ、ジェラしいわ(取り乱している)。だが、しかーし! パリ、イタリア、ロシアと来たからには、きっと次の開催は日本に違いない……などとまったく根拠のない希望的観測を言ってみるワタシ(笑)。

続く4月11日には、Russian State Cinema University (VGIK)でリンチの特別授業が開講され、会場になったホールは満員御礼札止状態、ステージに立つリンチの足元にまで人が座り込む大盛況であったそーな。学生たちからは「夜に夢をみるか?」とか「東欧およびロシアのどういうところに関心があるか?」とか「長編のアニメを作る気があるか?」とか「この世界危機に際して、どうやって自分を失わず、作品を作り続けているのか?」とかいった質問に混じって、「『マルホランド・ドライブ』を観た夜に悪夢でうなされましたぁ」という感想やら「一緒にお仕事がしたいですぅ。ワタシの名前はナニナニで、電話番号はコレコレですぅ」という売り込み、はては「ローラ・パーマーを殺したのはダレですかー?」ってなお問い合わせもあった模様で場内爆笑。

その後、リンチは市内の書店に移動し、「Catiching the Big Fish」のサイン会が開催されたちゅーことなんでありますが、どーやらロシアでの翻訳版が3月に出版されたばかりであったようでアリますね。現地のファンの方の話では、サイン会には100mを越える列ができて、1時間半ほどで店内にあった「Catiching the Big Fish」は売り切れてしまったとのことであります。レポーターの方は「ロシアでのベスト・セラーに入るかも」とゆーてはりますが、アチラのベスト・セラーって平均何万部くらい売れるもんなんですかしらね?

そんなこんなで、翌12日にはリンチはキエフに向かってモスクワを出立。そこで何日かを過ごす予定だったそーですが、ってーことは、そろそろアメリカに帰ってる頃かも?……というお話でありました。

2009年3月12日 (木)

「ツイン・ツイン・ピークス」、快調に製作進行中!

本日のdugpa.comネタ。

いつまでたっても「ツイン・ピークス」の続きをリンチが作ってくんないなら、テメーたちで作っちゃうぞ! とゆーわけで、ポートランド州立大の学生たちを中心にファン・フィルムが製作中だそーな。題して「TWIN TWIN PEAKS PROJECT」(笑)。

公式ホームページによると、ファン・ベースで書かれた30エピソードの「サード・シーズン」シナリオをもとに、なんとスノコルミーやノース・ベンドをはじめとするオリジナルTVシリーズのロケ地で撮影を行うとゆーから、こりゃまた豪勢な話だ(笑)。あ、そのかわりといっちゃーなんだけど、キャストもすべてファンが手弁当でやっておりますのでご注意(笑)。

公式ホームページでは、現在「撮影日記」が三日分掲載されております(いや、全部3月9日のアップだけどな)。それによると、「グレート・ノーザン・ホテル」の内部として使われた「キアナ・ロッジ(The Kiana Lodge)」での撮影や、「ダブル・R・ダイナー」の内部撮影で使われ、火事で焼けたあと現在では「ツゥエード・カフェ(Twede’s Cafe)」となっている食堂での撮影が行われた様子。今後も進行にあわせて順次アップされる(と思うぞ)。

Lauraslog300x225 ところで、こちらは「キアナ・ロッジ」の前の湖畔に転がっている、ローラ・パーマーの死体が見つかった近くに鎮座ましましていたとゆー由緒正しい「丸太」(笑)。何年か前、いつの間にかドンブラコと湖に流れ出しちゃったことがあって、ボートで回収するのに大騒ぎだったそーだ。また流れ出したりしないように、今はアンカーで固定されているとゆー話。いやー、この丸太の横で客をビニールでグルグル巻きにして10分寝転がらせる……とゆー「ローラ・パーマー体験アトラクション」を10ドルぐらいの料金でやったら、儲かりませんかね?(笑)

てなわけで、「ツイン・ピークス・フェスティヴァル」での公開を目指して、快調に(ホントにホントだな?)製作が進んでいるよーです。いや、監督が主演女優に惚れて、口説いてフラれて、ショックのあまり製作中断……ってな、自主制作映画によくありがちな事態が発生しないことを祈りつつ(笑)、乞うご期待!(笑)

2009年2月28日 (土)

結婚式の鐘がキンコンカン

本日のdugpa.comネタ。

Ringing 前々から噂になっていた女優エミリー・ストーフル(Emily Stofle)とデイヴィッド・リンチの結婚式が、現地2月26日に執り行われた模様。おめでとうございます。

Twitterでも「Wedding bells are ringing」なんて発言してたりして、完全に舞い上がってますなあ、リンチ御大(笑)。レジオン・ドヌール勲章の授与式のときとか、カンヌ映画祭のレッド・カーペットのときとか、もーベッタベタ状態だったもんなー。

個人的には、この後、作品製作において、前妻メアリー・スウィニーとの関係はどーなるのか……とゆー点が気になったり。彼女のプロデュースや編集作業ってのも、リンチ作品の重要な一部であったのではないかと思っておるのですが、はてさて。

2009年2月12日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (12)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の記述の続きをば。

さて、ここから先は落穂拾い的にOlson氏の記述で興味深かったところをばピック・アップしてみることにします。

Olson氏は、リンチの諸作品の根底にある「家族」の概念が、やはり「エレファント・マン」にも見出せることを指摘します。その端的な表れがメリックがトレーヴスの家を訪問するシークエンスで、「リンチはトレーヴス家の者と訪問者を、まるで家族写真のような配置に置く。すなわち、妻のアンとトレーヴスがジョン・メリックを守るようにだ」とOlson氏は述べ、トレーヴス家がジョン・メリックの「拡大家族(extended family)」として機能していることを示唆します。また、バイツによって檻に入れられたジョンを解放する、小人をはじめとするサーカスの畸形たちもジョンの「拡大家族」として捉えます。この文脈において、トレーヴスは「善き父(good father)」として機能し、逆にバイツは「悪しき父(bad father)」として機能するとOlson氏は述べますが、このあたりは「ブルーベルベット」に登場するさまざまな「父親」と比較してみるのも面白いかもしれません。

もうひとつ、面白いと感じたのは、トリーヴスがバイツに金を払い、メリックを検査のために病院に連れて行こうとする際の映像に関するOlson氏の記述です。バイツはトレーヴスの襟をつかみ、息がかかるほど顔を寄せるのですが、Olson氏はこうした登場人物の動作あるいは配置が、その後のリンチ作品にも頻繁にみられるモチーフであると指摘します。そして、このモチーフの底流にあるのは、「身体のもっとも重要な機能は、精神をいろいろなところに運ぶことにあるように思える」というリンチの発言であると氏は捉えます。つまり、人間の「頭」は「精神の容れ物(mind's vessel)」であり、そしてそこには「想像、夢、意識」だけではなく「天国と地獄」=「善いものと悪いもの」も収められているとリンチは捉えている、と。

Lynch_distorted_nude そして「容器」である「頭」と「頭」が接近したとき、その「内容物」である「善いもの」と「悪いもの」は……この作品に従っていうならトレーヴスの意識とバイツの意識は、「物理的には交わらないものの、融合する危機に瀕することになる」とOlson氏は述べます。この氏の記述を読んで思い出されるのが、リンチの写真作品「Distorted Nude」シリーズの一作品です。この写真作品では、二人の女性の接近した頭部の間で、明らかに「融合」が発生していることがみてとれます。まさしく「リンチの世界では、空気を介して、電線を伝う信号を介して、あるいは目を見るだけで、もっとも忌避し恐れるものにその者の心を変貌させてしまう。静かに、そして怖いぐらい易々と、闇はあなたの内面に滑り込む」ことを、この写真作品は表しておりますですね。でもって、「エレファント・マン」において、トリーヴスとバイツの「頭」が接近し、その「容器の内容物」が融合した結果生まれたものが、トリーヴスがバイツに対して感じる「精神的な類似性(psychic kinship)」であることになります。それは、つまり「メリックを搾取している点で、自分とバイツがどう異なっているのか」という思いであるわけですね。

さて、そんなこんなで「エレファント・マン」は好評をもって迎えられ、1981年のアカデミー賞において最優秀監督賞を含めた8部門にノミネートされます。このアカデミー賞授賞式はレーガン大統領が拳銃で撃たれるという事件のために、史上初めて開催が延期されるわけですが、実はロナルド・レーガンは普段はあまり政治的な発言をしないリンチが、唯一、支持を表明した政治家でもあります。ただし、Olson氏はリンチがレーガンの政治施策にどれだけ賛同していたかは疑問に感じているようです。むしろ、リンチがレーガン本人を評した言葉……「彼は昔ながらのハリウッドの雰囲気、カウボーイのたたずまい、力強さを備えている」に表されるように、非常に雑駁にいうなら、リンチが惹かれたのはレーガンに付随する「イメージ」であって、その政治能力ではないのではないかっつーことですね。ま、ここらへんはリンチ本人による詳細な発言があるわけでもないのでアレですが、娘ジェニファーを含めたさまざまな人の証言などからも、どーもOlson氏の言うとおりっぽい印象ではあります。

結果としてこのオスカーでは無冠に終わるものの、いずれにせよリンチは商業映画監督として非常に幸先のいいスタートを切ったといえます。それは「砂漠の惑星」の監督として抜擢されることにつながるわけですが、それについてはまた次回でということで。

2009年2月11日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (11)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の解題の続き。

さて、「第二の抽象表現」のパートで具体的に「メリックの夢」としてまず提示されるのは、蒸気の音に伴われた「工場の鉄パイプ」です。「カメラの視点」は鉄パイプの群れを伝って下降し、「産道を思わせる暗い隘路」を通って「トレーヴスと我々が最初にジョン・メリックに会った、つまり彼の生きたイメージが初めて生まれたバイツの掘っ立て小屋に続く地下道」へと侵入していきます。これらの通路に付随する「子宮に似た」イメージは、「インダストリアルな音響」に伴われており、Olson氏はリンチが採用した「異形のジョン・メリックが、工業化時代に生まれ、それによってねじ曲げられた子供であることの暗喩」の強調をみます。ざっくりいえば、「抽象表現」のパートに登場する(あるいは全編を通して語られる)「象」のイメージは、「産業革命」あるいは「工業化/近代化」のイメージに重ねられているっつーことですね。それは、たとえば「プロローグ」に現れる「象の足音とも機械音ともとれる音響」によっても、すでに示されていたといえるわけですが。

「メリックの悪夢」は、次いで「レバーを動かす男たち」のイメージを提示します。ここでOlson氏はある疑問を呈します……すなわち、これは「男たちが機械を動かしているのか? それとも、機械が男たちを奴隷の如く使役しているのか?」。「男たち」と同じくジョン・メリックもバイツによる「使役/搾取の日々」を過ごしており、トレーヴスの助力でそれから逃れたわけですが、それでもやはり「逃れられようのない自らの異形性が生み出す恐怖の影が、メリックの夢を脅かしている」ことをOlson氏は指摘します。その「恐怖の影」を反映して、「メリックの悪夢」は「突き出された鏡に映る自分の顔」や「顔めがけて蹴りつけられる長靴」の映像を提示します。「(トレーヴスによって提供された住まいや紳士服などの)表面上の通常性は取り去られ、逃れようのない『エレファント・マン』としての自己が残される」わけですね。それらの「悪夢」は「メリックの主観ショット」によって我々に提示され(そして我々=受容者に共有され)、それを見て脅えるジョン・メリックの「目」のクロースアップが彼の悲痛な「叫び声」とともに重ねられます。これらの映像から、Olson氏が指摘するように「第二の抽象表現」が表象しているものはジョン・メリックの「内面」において発生している「意識」であることは明らかであり、ならば「同質の抽象表現」である「プロローグ」の映像も「メリックの内面におけるもの」であるということになります。

「第三の抽象表現」のパートは作品の結尾、「エンディング」において現れます。前述したような理由で、Olson氏はこのパートにおいて提示されている映像もまた「作品の粗筋を説明するものではなく、ジョン・メリックの内なる声を表すもの」であり、「彼の意識がかりそめの現世を離れて、精神的な世界で再生する」ことを表しているという具合に捉えます。そして、これはキリスト教的なコンテキストに収まりきらない概念だとOlson氏は指摘します。つまり、そこにはリンチが「瞑想」を通じて触れたヒンズー思想の反映がみられること……具体的にいうなら「バガヴァッド・ギーター(聖なる神の詩)」の一節である「人がその体を離れるとき、最後に思い浮かべるものはすべて、その人によってその後の現実となる。なぜなら、そのとき心にあるものこそ、その人が生涯を通じてずっと思い続けていたものだからだ」からの影響があると氏はみます。

この氏の見方に沿ってみたとき、「第三の抽象表現」のパートに至る直前の映像とその後の映像において、この「キリスト教的コンテキスト」と「ヒンズー思想」の対比は明らかです。「ベッドに横たわったメリックの頭部から彼の母親の写真へと、そして十字架が浮き彫りされた聖書を写したあと、メリックが作った聖堂の模型の尖塔まで、リンチはカメラをパンさせる」という具合に、そこにまず現れるのはキリスト教的なコンテキストを表す記号群です。しかし、「カメラの視点」が窓を越え、星がちりばめられた夜空に向かった瞬間から「第三の抽象概念」が始まり、そこで提示される概念は、その範疇に収まらなくなります。

「第三の抽象表現」の具体的映像においても、やはりジョンの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージが登場します。彼女は、「決して、そう、決して。何も死に絶えることはない。川は流れ続け、風は吹き続け、雲は漂い続け、心臓は鼓動し続ける」とジョンに呼びかけます。彼女のイメージは星々が輝く夜空を背景に、「全き世界を表す白い光の環」に囲まれています。そして「永遠に続く誕生-生-死-再生のサイクルの新しい発生を描いて、彼女のイメージは消滅し、次いで我々は『プロローグ』に現れた白い煙が逆方向に内側に向かって流れ、生命の流れに回帰するのをみる」ことになります。「しかし、ジョンがトレーヴスの助けで家を手に入れ、バイツによる誘拐によってそれをなくし、また再び手に入れるという物語をなぞるように、メアリー・ジェーン・メリックの顔が再び現れる。彼女は息子を慰撫する……”何も死に絶えることはない”。『プロローグ』に現れたのと同じメアリー・ジェーン・メリックのイメージを写すカメラは、『プロローグ』のときとはちょうど逆に、彼女の眉毛と目に向かってクロースアップし、フェイド・アウトして作品は終わる」……という具合に、この最後の「抽象表現」のパートで描かれているのは明確な「死と再生」のイメージであり、かつOlson氏によれば、「メリックの思い」である点において先に述べたヒンズー思想の踏襲であることになります。

この「抽象表現」の三つのパートをみると、「多くの人間と共同作業を行い、スタジオの工業生産的なシステムによる制作でありながら、それでもなおリンチは『エレファント・マン』の世界を自らのものに変えてしまった」というOlson氏の見解は、まったくもって正しいし、「(この作品なら)妥協を要求されない」というリンチの判断も正しかったといえるでしょう。その中心にあるのは、それまでリンチ作品でも繰り広げられた(そしてその後も繰り返される)”「誕生」および「疎外された生」”です。同時にリンチはこの作品の主人公であるジョン・メリックに”「現実/現世」と「その後の世界」との連結/統合”を用意しますが、その連結/統合においてジョン・メリックを「慰め、救済する」のは、「グランドマザー」の祖母や「イレイザーヘッド」のラジエーター・レディと同じく、やはりメアリー・ジェーン・メリックという「女性」であることをOlson氏は指摘しています。

さて、このようにOlson氏による解題をみる限りにおいて、この三つの「抽象表現」のパートは、「エレファント・マン」という題材にリンチが見出した「基本テーマ」が凝縮されているといえるように思えます。表向きの明確なストーリーはジョン・メリックに関する歴史的事実を基にしたものであるわけですが、それは彼個人の物語に収まりません。”「メリック」と「象」”の関係性は”「ヴィクトリア朝時代の人々」と「工業化/近代化された社会」”の関係性を経て、”「敵対的な外界」と「それに脅かされる人々」”というより大きな関係性に経て、最終的に彼/彼女たちに「精神的/内面的な救済」が用意されるという普遍的なテーマに至るわけですが、この最終的なテーマはむしろ三つの「抽象表現」のパートにおいて明瞭に提示されているように大山崎は思います。そして、このテーマがリンチ作品において繰り返し提示される共通のものであることは、この作品の主人公であるジョン・メリックの「救済」が、たとえば「グランドマザー」の少年や「イレイザーヘッド」のヘンリー、「ツイン・ピークス 劇場版」のローラ・パーマーといったリンチ作品の登場人物たちの「救済」と完全に重なっていることからも明らかだといえるでしょう。

(「エレファント・マン」に関して、も一回くらい続く)

2009年2月 9日 (月)

「Beautiful Dark」を読む (10)

ああ、そーゆーのもあったわね……と思い出しつつ続く、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。「エレファント・マン(The Elephant Man)」(1980)製作前後のころに関する章を読み終わったので、今回はそこらへんについて。

「イレイザーヘッド」が完成したあと、リンチは映画製作の実作業から離れて、早朝一回の新聞配達(まだやってたんかい)と近所の「ビッグ・ボーイ」で「チョコレート・シェイク+砂糖をガバっと入れたコーヒー」で「シュガー・ハッピーな日々」三昧でありました。リンチが何年間も毎日毎日「ビッグ・ボーイ」で昼食をとっていたことはつとに有名な話で、Olson氏はここらへんにもリンチの嗜好……「コントロールが効くミニマルなもの」への嗜好をみとてりますが、まあ、それはそれとして。

これまた有名な話ですが、「イレイザーヘッド」製作の途中から、リンチは「ロニー・ロケット(Ronnie Rocket)」という作品のシナリオを書き始めておりました。しかし、リンチ本人はこの作品を「イレイザーヘッド」と同じように自主制作的に作る心積もりはなかったようです……まあ、ありゃシンドかったもんな(笑)。「イレイザーヘッド」が自主制作作品としてはそこそこ興行的にも成功したこともあって、リンチとしては「ロニー・ロケット」をメイン・ストリームでの製作を……つまりどこかのスタジオに企画をもちこんで誰かの資本を使うという、ハリウッドの製作スキームのもとで製作する道を探っていたようです。しかし、メジャー・スタジオはこの作品の興行的価値を認めず、リンチは内心鬱々とした日々を送ってた様子です。まあ、巷に流布しているシナリオを読んでも、そりゃ無理からぬところがある……というか、結局「ロニー・ロケット」は、今日現在に至るまで日の目を見ていないわけですけども。

そんな鬱々リンチのところに、スチュワート・コーンフィールド(Stuart Cornfield)というプロデューサーが訪れます。彼は「イレイザーヘッド」を観て「今まで観たなかで、もっともユニークな傑作」と感じ、リンチのところにやってきたのでした。それをきっかけに二人は友人になりますが、ある日、鬱々のリンチは「(自分は)他の人間が書いたシナリオで映画を作ることも考えている」由の発言をします。これを聞いたコーンフィールドがリンチに話したのが、自分が最近読んだクリストファー・デヴォア(Christopher De Vore)とエリック・バーグレン(Eric Bergren)の二人の脚本家による「エレファント・マン」のシナリオのことでした。後に、リンチは「『エレファント』と『マン』という言葉をコーンフィールドから聞いた瞬間、頭の中で小さなノイズが起こり、自分がこの作品を製作することになるだろうと悟った」と発言しています。ピピッときたわけっすね(笑)。

また、これも後になっての言及になりますが、リンチは「エレファント・マン」という作品が「(自分を)メイン・ストリームへと連れて行ってくれると同時に、妥協を要求することもない格好の乗り物だった」と述べています。「自分にとっての関心事がそれだった。芸術を一般的なものにしたいと思っていたんだ。自分が本当に入れ込み、それを作ることが気に入ると同時に、他の人々も作品を気に入っていれることを望んでいた。それが可能なのかどうか、考えていたんだ」と。

この企画は、リンチとコーンフィールド、そして同じくプロデューサーのジョナサン・サンガーの三人による「ビッグ・ボーイ」(笑)での会議を経て、コメディ映画監督のメル・ブルックスのところに持ち込まれます。当時、ブルックスは「ブルックスフィルムズ」という会社を立ち上げ、作品のプロデュースを開始しようとしていたところでした。リンチのことをよく知らなかったブルックスにコーンフィールドが「イレイザーヘッド」を観せ、それをブルックスがいたく気に入って話がまとまったこと等はすでにいろいろなところで言及されているので、割愛。いずれにしても、リンチ、大ラッキー(笑)。

ロンドンで撮影を開始したリンチが、ジョン・メリックの特殊メイクを作ろうとして時間を無駄に費やし、「そーゆーことは専門職に任せろ」と諭された件や、当初トリーヴス博士役のアンソニー・ホプキンスと衝突した件なども、有名な話なのでこれまた割愛。追記しておくべきかと思われるのは、1979年の秋にロンドンに到着したリンチがまずこだわったのは、テーマ的なところではなく美学的なところ……端的にいうと「モノクロ」での撮影であったようです。「この作品はモノクロでなければならなかった。モノクロの画面は魔法のようなものだ。それは観る者を現実から即座に一歩切り離し、茫洋とした気分にさせる」というのがこの件に関するリンチの弁。幸い、ジョナサン・サンガーもメル・ブルックスもこれに同意し、「エレファントマン」はイギリス人撮影監督フレディー・フランシスによって撮影されることになります。

さて、作品そのものに関してもOlson氏の詳細な分析があるんですけど、そのなかから興味深かったポイントをいくつかピック・アップしてみますってーと。

Olson氏は、「エレファント・マン」において、リンチ特有の「抽象的表現」が三つのパートにおいてみられることを指摘しています。つまり、「プロローグ」「作中におけるジョン・メリックの夢」「エンディング」の三箇所です。逆にいうと、それまでの作品……たとえば「グランドマザー」や「イレイザーヘッド」では全編にわたって爆発していた「抽象的表現」が「エレファントマン」では限られたパートにおいてのみ現れているということです。かつ、それらは全体を通して語られる明確なストーリー・ラインのなかに組み込まれる形で提示されており、こういう形式が採用されたのは、リンチが「商業作品」を意識したことの現われではないか……という具合にOlson氏はみています。

まず、「プロローグ」で提示される「第一の抽象表現」ですが、そこに現れるさまざな映像と音響……「インダストリアルな音響をバックに現れるジョン・メリックの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージ、そこに重ねられる象のイメージ、象に打ち倒されて地面で叫び声をあげるメアリーのイメージ、そして白い煙のイメージに重ねられる赤ん坊の泣き声」ですが、Olson氏はまずここにヴィクトリア朝時代に人口に膾炙したいわゆる「胎教(maternal impression)」の概念をみてとります。といっても、その当時のことだもんで、「妊婦のお腹に苺をのっけたら、苺型の痣がある子供が生まれる」ってな民間信仰的っつーか非科学的っつーかなものなわけですが、要するに、この「プロローグ」は「サーカスで象をみて脅えたメアリー・ジェーン」から象に似た身体的障碍を備えたジョンが生まれた……ということを伝え、これから登場する主人公の生い立ちに関する「説明」として機能しているということですね。

しかし、「プロローグ」に対するこの見方は、「第二の抽象表現」……作品のなかほどで提示される「メリックの悪夢」が表すものによって、修正を迫られることになります。まず、この「第二の抽象表現」のパートで提示されるイメージ群は、明らかにジョン・メリックの内面において展開されている「悪夢」であることが示されています。それを何よりも明確にしているのは、ここで採用される「カメラの視点」です。Olson氏いわく、「リンチのカメラはメリックが人前に出るときに被っている布製のフードを見つけ出す。そのフードには、彼が外を見るための長方形の穴がひとつ開けられている。リンチはこの暗黒の開口部を通り、そこに流れているメリックの暗い夢の中へと潜っていく」……とまあ、ここでもリンチ作品に頻繁に現れる「侵入する視点」のモチーフが認められ、その直後に提示される映像群は「メリックの悪夢」そのものを表象しているというわけですね。かつ、この「悪夢」において、「プロローグ」にも現れた「叫び声をあげるメアリー・ジェーン・メリック」のイメージが再提示されるとともに、「プロローグ」と同じくこの「悪夢」もまた「白い煙」のイメージで締めくくられることになります。これらの共通点からOlson氏は、「第二の抽象表現」が「メリックの夢」であるならば、「プロローグ」もそうであるはずだと結論付けます。つまり、「プロローグ」で描かれているのは、ジョン・メリックが想起している「自分の母親や自分が属する時代に関する事柄」である……という具合にOlson氏は捉えるわけです。

(ちょいと中途半端だけど、続く)

2009年2月 5日 (木)

フランスやイタリアは遠いけど、カナダもね

またもや本日のdugpa.comネタ。

フランスのパリに続き、2007年10月9日から2008年1月13日にかけてイタリアのミラノでもデイヴィッド・リンチの作品展「The Air is on Fire」が開催されたのは、以前にこのブログでもご紹介したとおり。その時のリンチの様子を題材にしたドキュメンタリー「David Lynch: The Air is on Fire/Milano」が、カナダのArt Gallery of Ontarioで開催される映像展「Reel Artist film festival」で世界に先駆けて公開されるそうな。

作品展を準備中のリンチを中心に、ローラ・ダーンやデニス・ホッパー、作家のクリスティン・マッケーナ、作品展のキュレーターを勤めたイラーナ・シャモン(Ilana Shamoon)などへのインタヴューなどなど。

監督のマリナ・ゼノヴィッチ(Marina Zenovich)は、ロマン・ポランスキーをとりあげたドキュメンタリー「Roman Polanski: Wanted and Desired」を昨年のサンダンス映画祭で発表し最優秀ドキュメンタリー編集賞を獲得、同作品はカンヌ映画祭のオフィシャル・セレクションにも選ばれた経歴をお持ちの方でらっさいます。IMDbでたぐってみると、この監督さん、2004年から2008年にかけて放映されたテレビのドキュメンタリー・シリーズ「Art in Progress」のなかの一話でもすでにリンチをとりあげていた様子でございます。そのときのタイトルもやはり「David Lynch: The Air Is on Fire」……んーと、ってーことは、こっちはパリでの作品展のときに取材したのかしらん? それともこれがオンタリオで上映されるんかい? だったら、世界初公開じゃなくね? うーん、ちょいと、よくわかりません。

上映は2月28日の午後7時から、Al Green Theatreにて。上映時間は29分。えーと、今頃のカナダって、サーモンが美味しいんだろーか?(笑)

2009年2月 4日 (水)

そうだ、死体とリンチに聞いてみよう

本日のdugpa.comネタ。

ブラジルの監督ダビ・デ・オリヴィエラ・ピンへイロ(Davi de Oliveira Pinheiro)によるweb発表の5話短編シリーズ「Boundaries of Thought: THINK TANK」の最終話「THE SOUL DETECTIVE」に、ディヴィッド・リンチがご出演中でございます。

死者に残っている「想念」を聞くことができる「探偵」が主人公。打ち捨てられた客車の中に横たわる男の死体の「記憶」を聞き取っている探偵のエピソードのところどころに、リンチの語りが入る形で作品は展開されます。リンチが語っているのは、アイデアを得て、さまざまな断片が集まるが、最終的にすべてが揃うまで何がどうなるかわからない、というよーなこと。そして、死体は「この場所で撮られた二つの映画のこと」について語りはじめるという趣向。監督いわく、「ある意見が、どのようにもともととは完全に異なったフィクションとなり得るか」だそーで、ああ、そーゆーことね、なるほど。最後にリンチが語る「人間は探偵のようなものだ。世界を目にすれば、そこにはさまざまな手掛かりが存在している。そして、我々はいろいろなことを不思議に思う (Human being are like detectives. And when we see our world, and there are clues in the world. And we wonder about things)」という言葉が作品タイトルにつながっているよーであります。

このピンヘイロさん、ブラジル初のゾンビ映画「ビヨンド・ザ・グレイブ(Porto dos Mortos)」(2009)を作った方で、予告編を先に作って製作資金を集めたという苦労人でいらっしゃいますよーです。うむ、誰かさんみたいですが、この「Boundaries of Thought: THINK TANK」シリーズもweb発表っちゅーことで、ますますもって誰かさんみたいです(笑)。

ご本人の弁によれば、「『THE SOUL DETECTIVE』は『ビヨンド・ザ・グレイブ』を下敷きにしている。同じアイデアから、まったく新しい成果物を作りたかった。『ビヨンド・ザ・グレイブ』は実験的な要素をまじえた一般作品だが、それをまったく逆にして一般的な要素をまじえた実験的な作品を造ろうとしたんだ。それが『THE SOUL DETECTIVE』だ」とのことであります。んでもって、リンチと一緒に仕事して、どーだった? という質問には「彼のファンとしては楽しい時間だった。だが、映画監督として、短編作品作法についていろいろと聞けた」とのことでありました。

2009年1月 4日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (9)

これがまた続くときは続く、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。

さて、今回は寄り道とゆーかオマケとゆーか。「イレイザーヘッド」の製作途中にリンチが製作した短編作品「切断手術を受けた人(The Amputee)」(1974)について。

リンチがこの作品を作った経緯をおさらいすると、まだカセット方式のヴィデオ・システムが爆発的に売れるようになる以前、ソニーが自社のビデオ・テープを評価用としてAFIに持ち込んだことに始まります。このビデオ・テープをお偉方が精査するためのテスト用カラー・パターンの撮影を任されたのが、「イレイザーヘッド」の撮影を担当していたフレッド・エルムスでした。エルムスからこのことを聞きつけたリンチは、キャサリン・コールソンに声をかけ、そのビデオ・テープを使って5分間の作品を撮影してしまいます……って、いや、無茶すんなあ(笑)。

あえてリンチを弁護するなら、そのころ「イレイザーヘッド」撮影用のフィルムを買うための資金捻出にリンチおよびスタッフ一同は非常に苦労していて、スタッフによるカンパなんかは当たり前、コールソンなんかはウェイトレスまでして製作資金を提供するとゆーよーな状況でありました。そういう撮影できるんだったら何でも見境なく撮っちまえ的な精神状態であったであろう連中のところに、のこのこビデオ・テープなんか持ち込むほうが悪いといえなくもなく……うむ、あんまり弁護になってないな、これ(笑)。

さて、てっきりテスト・パターンが写されているとばかり思っていたAFIの教授たちは、映像を観てびっくり。しかし、一人の教授が映像スタイルからリンチがそれを撮ったことを見分け、「リンチがコレにからんでるのか?」と尋ねたという話もあって、わはは、完全にバレてら(笑)。逆にいえば、その頃からリンチの映像は特徴的であったということの証明でもあるわけですが、それを見て取った教授もさすがとゆーことでありましょーか。そして、「初期短編集」のDVDにこの作品が収録されているということは、AFIの教授たちは作品が収められたビデオ・テープを取り上げたりしなかったっつーことですね。うーん、寛大だなあ。リンチ・ファンとしては感謝すべきなんでしょーね。

しかし、そっかー、確かクリス・ロドリーのインタビュー集では「ビデオ・テープ」のメーカー名は明らかにされてなかったと思いますが、ソニー製であったのかー。「インランド・エンパイア」よかずっと以前に、リンチはソニーのビデオ機材を使って作品を撮ったことがあったわけでありますね。

……というような経緯で作られたこの作品、観ればわかりますが出演者はコールソンとリンチの二人。ただし、リンチは終始カメラに背を向けていて、顔は映っていません。特にストーリーというべきものもなく、コールソンは足の切断手術を受けた患者を演じ、リンチは白衣を着て医師の役を演じています。椅子に座ったコールソンの前にリンチが跪き、包帯を解いて傷口をあれこれ調べている間、コールソンはまったくの無表情のまま煙草をくわえ、手紙を書きつつその内容を声を出して読み上げています。最後にリンチが画面から走り去り、暗転して作品は終了。

このコールソンが読み上げる断片的な「手紙」の文言に、Olson氏はリンチ特有のモチーフやテーマを認めます。

「そこには本能に対する重圧がある(『彼は何も言わなかったけれど、私にはそれが本当のことだとわかっていたわ』)。破壊的な炎の力がある(『ハリーは小屋の中にある全部のレンジに火をつけたわ--彼は近所の家を全部焼こうとしたの』)。そして、作品が終わったあとも終わらない謎がある(『ポウルが夜中の三時に家に帰ってきたとき、あなたはどこにいたの?』)。」

大山崎としては、そこに散りばめられた「小屋(cabin)」「家(house/home)」というキーワードも気になるところでありますが、それはそれとして。

「興味深いのはリンチ自身が、自然の謎を”調査”することを通して混沌と破壊に挑戦する”科学の側に立つ者”を演じていることだ……ちょうど彼の父親がそうであったような。そして、この後のリンチ作品には、彼の代行者である探偵役の人物たちが何度となく登場することになる」

うーむ、ってーことは、キャサリン・コールソンも「自然の謎(enigmas of nature)」であるわけですかー。なるほど「丸太おばさん」だもんなあ(そーゆーことなのか?)。そーいえば、リンチがコールソンが眼鏡をかけるのを見て「丸太を抱えた彼女」のイメージを想起したのも、「イレイザーヘッド」製作中のことであったのでした。

2009年1月 3日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (8)

お屠蘇片手に、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」をチマチマと読み続ける、新春の日々(早い話が、酔っ払っている(笑))。今回は「イレーザーヘッド」の作品そのものに関するOlson氏の記述なんかを、とりまとめて。

この作品の主人公であるヘンリーがその当時のリンチと等身大のキャラクターであり、作品自体がリンチの個人的な部分の反映であることは、これまでにもいろいろな論者から何度となく指摘され続けてきました。Olson氏も「この作品のいくつかのシーンは、スクリーン上にというよりも自分の頭の中に存在すると感じる」というリンチの発言を引用しながら、「『イレイザーヘッド』ほど、その創作者の実生活上の経験と緊密にリンクしたリンチ作品はない」と述べており、こうした見方を根底におきつつ作品をみていきます。

なかでも「イレイザーヘッド」に直接反映された実体験として氏が挙げているのは、娘ジェニファーの誕生とその結果としてのペギーとの早い結婚、そしてジェニファーが内反足の障碍をもって誕生し、生後まもなく大手術を受けなくてはならなかったこと、そして結果的に妻ペギーとの結婚生活がうまくいかず、離婚することになったことなどです。これらの諸事項はすでに他の論者によっても指摘されており、「イレイザーヘッド」を解釈するうえで基本的な見方であることは間違いないと思います。

と同時に、リンチが「ヘンリーを平凡などこにでもいる人間存在」として描いていることをOlson氏は指摘します。「(ヘンリーは)人生が投げ掛けるさまざまな無理難題となんとか折り合いをつけつつ」「自分や他者を傷つけないように日々を生きている」というのがOlson氏のヘンリーに関する人物評です。ヘンリーが抱える無理難題とは「メアリーXは彼を夕食に招待し、X夫人は彼に性的攻撃をかける。彼は夫と父親の役目を押し付けられる。彼の子供は異形の奇形児で、彼の自由を制限する。メアリーは彼を捨てる」などといったような事柄です。それらの難題を、ヘンリーは「生来の寛容性でもって辛抱強く受け止め」ます。映像からも明らかなように、「彼はメアリーなどよりよっぽど熱心に可哀そうな赤ん坊の面倒をみる。その点で、ヘンリーは世間一般が彼に対して要求する義務を問題なく果たしているといえる」わけです。

と同時に、「彼は精神的な避難所を希求するが、荒れ果てた工業的な環境やX家の食卓や、メアリーや赤ん坊とともにいる自分の部屋にすら、それを見つけられないでいる。ヘンリーは『家』に帰りたいだけなのだが、それはどこにも存在しないのだ」という具合にヘンリーの「希求」を位置づけます。結局、作品の途中でメアリーXは家を出て行ってしまうわけですが、Olson氏は彼女をはじめとして「向かいの部屋の美女」と「ラジエーター・レディ」が構成する「対立構造」に注目し、これらをヘンリーの「選択肢」であると捉えます。同時にこれらの「対立構造」を述べるうえで、グノーシス主義の世界観との類似性を指摘します。グノーシス主義者たちは、「世界」を「下位の劣った神が自らの優位性を主張するために作ったとんでもない間違い」であるとし、「人々が本当の心の拠り所に至る道に気がつくことを待ち望んでいる真の神は、下位の神によって人々の目から隠されている」とします。それに対し、Olson氏は「惑星の男」や「ラジエーター・レディ」を「生殖を強いる下位の神」……「メアリーX」や、彼女が家を出て行ったあと入れ替わりにヘンリーと生殖行為を行う「向かいの部屋の美女」……と対立するものとして捉えます。ヘンリーは、これらの選択肢のあいだで揺れ動きますが、最終的に「ラジエーター・レディ」を選択し、彼女によって救済されることになるわけです。

それに加え、Olson氏は「イレイザーヘッド」が内包する「再生」のイメージについて指摘します。たとえば、ヘンリーの頭が抜け落ち、工場で消しゴムにされたあと、工員がテストで鉛筆で引いた線を消し、その消し屑が宙を舞って再び頭が揃ったヘンリーに「再生」されるというシークエンスがその嚆矢です。すなわち「何よりも、ヘンリー自身が『消しゴム』である。彼は今までの自分を消し去り、新しく生まれ変わるのだ。鉛筆をヘンリーの身体のメタファーとしてみるならば、赤ん坊を作ることで、彼のペニスのペン先は世界に『印』をつけたといえる……何とかして消し去りたいような『黒い印』を」とOlson氏は記述します。

んでもって、氏は、この「再生」のイメージを、作品製作中にリンチが始めた「瞑想」……「Transcendental Meditation」との関連性において指摘します。この見方を裏付けるのが、当初リンチがAFIに提出した22ページのシナリオと、実際に出来上がった映像との差異です。Olson氏によれば当初の「イレイザーヘッド」のシナリオは、いろいろな点において前々回に触れた「Gardenback」との類似性が強いものでした。何よりもシナリオ版の結末は「巨大化した赤ん坊」にヘンリーが(文字通り)食われて終わるというもので、これは「Gardenback」の「家の中で育った怪物に侵食される主人公(同名のヘンリー)」とまったく同じだといえます。それが、最終的な映像では「ラジエーター・レディ」とヘンリーが「白い光」に包まれる「ハッピーエンド」になっており、完全に「転倒」しているわけですね。ペギーの証言によれば、「ラジエーター・レディ」は当初のシナリオには存在しておらず、この登場人物が「イレイザーヘッド」に現れたのは、リンチが瞑想を始めた後だったとのことです。Olson氏は、この「結末の変更」は、明らかにリンチが「TM」に触れた以降に行われ、その根底にある「ヒンズー思想」の影響下にあると指摘しています。

しかし、ヘンリーとリンチが「等身大」であるとするなら、このヘンリーの「選択」……「メアリーX」でも「向かいの部屋の美女」でもなく、「ラジエーター・レディ」を選んだという選択は、その当時のリンチの「選択」でもあったということです。ここで思い出されるのが、前回に触れた「美術館で、仏陀の頭の彫刻から白い光がピカ!」のエピソードなわけで、要するにリンチが家族生活よりも芸術生活を「選択」したことが、「イレイザーヘッド」でヘンリーが行った「選択」の構造と重なっているっつーことですね。

てな具合に、最終的にヘンリーは「ラジエーター・レディ」(と「白い光」)を選択するわけですが、Olson氏はそこに至る「過程」を問題とします。つまり、「ラジエーター・ガール」を選択し彼女との「抱擁」に至る前に、ヘンリーは「赤ん坊殺し」という行為を経るわけですが、それがヘンリー(とリンチ)にとってナニを意味するのか? ということですね。

Olson氏は、この問題を考察するに際して、「頭が抜け落ちたヘンリーの体から、赤ん坊の頭が顔を出す」映像に注目します。要するに、ヘンリーと赤ん坊の「等価性」ですね。これについてOlson氏は「ヘンリーは『叶えられない希求』という自分の傷口を、自分の子供に投影する。そして、それを自分自身とは別の生き物として、つまり『他者』としてみなす。『他者』は消却することが可能であり、それとともに彼の『苦痛』も消滅させることができるのだ」と述べます。「赤ん坊」はヘンリーの内面にあるもののを「他者化」したものであり、そーゆー意味で「同一」のものだということですね。この捉え方の根底には、人間の内面には「善や悪」などを含めたいろいろなものがごちゃまぜに内包されているという、リンチ作品が共通して採用する基本的概念があると(これはグノーシス主義の「世界観」とは相違している点であるという指摘とともに)Olson氏は述べるわけですが、このような機序で「赤ん坊殺し」は「ヘンリー自身の『何か』を殺す作業」として位置づけられることになります。

つまり、「ラジエーター・レディ」との抱擁に至るには、ヘンリー自身も何かを「犠牲」にしなくてはならず、それはたとえば「ヘンリーが自分の頭を失くすこと」あるいは、「ヘンリーの頭が落ちる」シーンに登場する巨大サイズの「鉢植え」が「血を流し」、その血に「ヘンリーの頭が浸かる」映像に表れているというのがOlson氏の見方です。逆にいえば、自分の内面に存在する(「他者化」された)「おヨロシくない部分」を消滅させることが、「再生=精神的成長」につながるということでありますね。Olson氏は、この「ヘンリーが自分の生命を失うこと(=頭を失うこと)は、瞑想者が自我意識を失うことのメタファーである」と述べ、リンチの「TM」への傾倒がこの作品に与えた影響を強く示唆します。

大山崎にとって、この「再生」のイメージとその「TM」との関連性の指摘は、なかなか興味深いものでありました。Olson氏も文中で述べていますが、このあたりは「キリストの受難」と「復活」というキリスト教圏のメンタリティに裏付けられた発想なのかもしれません。

さて、その後さまざまな紆余曲折を経て、「イレイザーヘッド」は「ミッドナイト・ムーヴィー」の代表作としてカルト的人気を獲得するわけですが、そこらへんはJ.Hoberman & Jonathan Rosenbaum著の「Midnight Movirs」などで既に紹介されているので割愛します。

というわけで、「Beautiful Dark」の「イレイザーヘッド」製作時期に関する章はおしまい。次は(ちょいと寄り道をはさみつつ)「エレファント・マン」の製作時期に関する記述が始まります。

2008年12月31日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (7)

Beautifuldark えーと、忘れたころにやってくることになっている、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」についての話題。今回は、「イレーザーヘッド」を製作する前後のことなんか。

前回も述べたように、結局、 「Gardenback」に関してAFIの教官から不本意な指導を受けた挙句、作品が形にならなかったことで、リンチは一挙にヤル気を失くします。まあ、この頃から自分の作りたいものしか作る気ナッシングだったわけでありますね。あわせて、リンチはAFIの二年生のクラスに編入されるはずだったのですが、何故か手違いで一年次のクラスに入れられてしまっておりました。それもあって、リンチ、ぶんむくれてAFIをやめることまで考えます。

そうした荒れ模様のリンチに気づき、「何か問題があるのか?」と問い掛けた教授がおりました。名前はFrank Daniel教授。教授は「もし君が動揺しているのだとしたら、我々は何か間違ったことをしているのだと思う。自分が本当は何をやりたいのか、話してみてくれないか?」とリンチに声をかけます。そんなこんなでクラスの件が手違いであることがわかり、リンチは教授の誠意に感銘を受けつつ、「自分がやりたいこと」として「イレイザーヘッド」の核となるアイデア……「体から離れた頭が少年に拾われ、工場の機械にかけられて、鉛筆の頭につけられる消しゴムにされてしまう」というアイデアを話します。

というわけで、「イレイザーヘッド」はその「助走」を始めるわけですが、これに関してもやはりいろいろと紆余曲折があったようです。当然ながら、「Gardenback」と同じくリンチは「イレイザーヘッド」をAFIでの課題製作とするつもりだったのですが、一部の教授から「これはAFIが作るべき作品ではない」という反対を受けたみたいです。これに対して反論してくれたのもFrank Daniel教授で、教授は「(「イレイザーヘッド」の製作が)認められないなら、私はAFIを辞める」とまで言い、本当に辞表を提出します。教授自身はパフォーマンスのつもりで、まさか誰も本気に受け取らないだろうと思っていたようですが、これがなんとなんと受理されてしまいます。あれま(笑)。いわば教授は体を張ってリンチを守ろうとしてくれたわけで、リンチはDaniel教授のことを「史上最高の映画教育者だった」と賛辞を贈っていますが、いやまあ、これくらいは当然で、一生足を向けては寝られないんじゃないスかね、リンチ(笑)。

そのような騒ぎのすえに、最終的に「イレイザーヘッド」の22ページのシナリオは承認され、21分間の作品として製作することが認められます。1971年から製作がスタートしたこの作品は、結局89分間の作品として1977年に完成することになるわけですが、作品そのものに関するOlson氏の記述については次回以降に譲ることにして、今回は「イレイザーヘッド」製作期間におけるリンチ自身のことに絞って「Beautiful Dark」の記述をまとめてみます。

Olson氏は、「イレイザーヘッド」の製作をつうじて、リンチは二つの面で成長を遂げたと指摘します。まず、一つ目はは「芸術家」としての成長で、子供の頃の絵から少年時代の絵画に始まり、「アルファベット」などのアニメによる短編を経て、アニメと実写の混合作品である「グランドマザー」、そしてついには完全な実写長編作品を作るに至るという成長です。と同時に、Olson氏はリンチの人間としての成長をも見てとります。すなわち、自室に閉じこもりフィルムに延々と絵を描きこみアニメを創る、社会から切り離された寡黙な芸術家であったリンチが、多くの協力者たちや出資者たちとコミユニケーションをとって作品のヴィジョンを共有できるようになったという点でです。「イレイザーヘッド」を製作していた約5年間は、リンチにとって経済的な点を含めて苦しい期間であったわけですが、その一方で自身が言うように「長く素晴らしい旅(wonderful long juorney)」でもあったわけです。

しかし、この時期、リンチにとって「転換」となったのはそれだけではありません。私生活においても、大きな転換点を迎えることになります。

リンチが一日二回の「瞑想」を欠かさないことは有名な話ですが、その「瞑想」……正確にいうなら「Transcendental Meditation」との出会いも「イレイザーヘッド」製作期間中、27歳のときのことでした。事の始まりはリンチの妹のマーサがスキーに行ったときのこと。そのときについたインストラクターの男性が「いつも落ち着いていて、幸せそう」なことに気づいた彼女が「なぜ、そんなふうにいられるのか?」と尋ねたところ、彼の解答が「Transcendental Meditationを行っているから」というものでした。これがきっかけとなってマーサ自身も「Transcendental Meditation」を始め、彼女はリンチにもこの瞑想方法を紹介して……という次第だった様子。ただし、最初はリンチも懐疑的な部分を残していた様子が伺えます。「丸太おばさん」キャサリン・コールソンの証言によれば、同じように「Transcendental Meditation」に興味を持った彼女に対し、リンチは「キャス、もし制服を着せられて行進させられそうになったりしたら、走って逃げよう」と発言していたようで、やはり「洗脳」やら「統制」やらを受けるのを恐れていた様子です。いずれにせよ、その後「TMは自分にぴったりだと思った(knew TM was for me)」と発言していることからもわかるように、リンチにとって「瞑想」は切っても切れないものになっていくわけですが。

しかし、では、なぜリンチが妹の勧めに従って「Transcendental Meditation」のレクチャーを受けようと思い立ったのか。それについては、Olson氏はこのような事実を紹介しています。

その頃、リンチは当時の妻ペギーとうまくいかなくなっており、自宅には帰らず「イレイザーヘッド」のセットで……あのヘンリーが使っていたベッドで寝泊りするというようなことをしていたらしいです。リンチいわく「精神的にも最低の時期だった」とのことですが、なぜペギーとうまくいかなくなったのかについて、具体的な理由等は本書では明らかにされていません。ペギー側の談話として、「彼(リンチ)も結婚生活を続けたいと思っていなかったし、自分もそうだった」と、リンチだけでなく「早過ぎた結婚」が彼女にとっても負担であったことを匂わせています。あるいは「イレイザーヘッド」のテーマは、リンチだけでなくその当時の彼女にとっても「リアルなもの」であったのかもしれません。

加えて、「Gardenback」を製作していた時期の話として、ペギーは以下のような発言を残しています。すなわち、それまで……つまり、「グランドマザー」までは、リンチは自分(ペギー)と討論を重ねながら作品を製作していた。ところがロサンジェルスに移りAFIに入学してからは、他にもリンチと作品に関して意見を戦わせる相手が(若い女性も含めて)たくさんできてしまった、と。

これは大山崎の意見ですが、フィラデルフィアの美術学校で同級生だったペギーの幻術的感覚をリンチは評価していたということなのでしょう。共同製作とまではいかなくても、製作に迷ったときなど、リンチがペギーの意見を参考にしていたであろうことは容易に想像がつきます。そのあたりの実際は、前回触れた「『Gardenback』がなぜうまくいかなかったか」に関するペギーの分析にも表れているといえるでしょう。リンチがAFIに入学しそうした環境が変わったとき、ペギーはリンチの創作面で自分の価値が相対的に低下したように感じてしまったと告白しています。あるいはこうしたこともリンチとペギーの間の「パートナーシップ」がうまくいかなくなった要因としてあったのかもしれません……結局、二人は1974年に離婚してしまうことになるわけですが。

また、ペギーとうまくいかなくなった頃の話として、このような話が記載されています。

まだ「イレイザーヘッド」の製作が始まる前のこと、ロサンジェルス・カウンティ美術館で西インドの古代彫刻展が開かれ、リンチはペギーとまだ幼かったジェニファーを連れてこの展覧会を訪れたそうです。閉館時間も近くなった頃、リンチは家族から離れて一人で通廊をふらついていました。で、以下はリンチの証言--「他に人はおらず、彫刻が並んでいるだけで、非常に静かだった。ある角を曲がり、通路に目をやると、いちばん奥にひとつの台座があるのが見えた。台座に沿って上を見上げたら、そこには仏陀の頭部の彫刻が展示されていた。それを見たとたん、白い光が仏陀の頭部から自分の目に向かって放たれ……ブン!……私は至福感に包まれていた」。

えーと、「オーラの泉」っスか?(笑) とかいうのはともかく、実はリンチはペギーにもこの体験を話していなかったようで、このリンチの「体験」を彼女が知ったのは2000年のこと、それもOlson氏に教えられて初めてそのようなことがあったと知ったらしいです。そして、Olson氏はこの「美術館での体験」を、「リンチの芸術生活が家族生活から切り離されたことのメタファーである」と述べます。要するに、リンチが家庭を捨てて芸術生活に専念することを決意したことを、ゴータマ・シッタルダが仏門に入るとき「家族や王宮生活を捨てたこと」に例えている……というのがOlson氏の見方であるわけですね。

しかし、いや、そっかー、仏様のお導きじゃ離婚してもしょーがないわなー……などと思ってしまう大山崎は、近頃めっきり不信心者なのでした(笑)。

2008年12月22日 (月)

いつも足もとに「Fire walk with me」

久々のdugpa.comネタ。

Nike社スニーカーの2009年新作ラインアップに、ぬわんと「Twin Peaks」モデルっちゅーのが予定されているらしい。
Twinpeaksdunk1 Twinpeaksdunk2 Twinpeaksdunk3



                    

ご覧のとおり、黒を基調にした本体に、アンクル・ストラップには「殺人事件に関する三つの手掛かり」の一つ「The owls are not what they seem」の「フクロウ」があしらわれ、チラっと「カーテン」の「赤」がのぞくのもオサレ。何よりも極めつけは、靴底の「白黒の波模様」……いや、一瞬、「地下足袋か?」とか思っちゃったのはナイショ(笑)。

正式商品名は「Nike SB Dunk High Premium - "Twin Peaks"」で、来年の春頃発売とゆー予定であるらしい。お値段は……よくわかりませんが、同シリーズの日本価格をみる限り、だいたい15,000円弱ってなイメージでよいのかしらん? 詳しいひと、教えてください。ただし、ざっと当たってみた限りでは、現在のところ国内外ともに予約を開始しているところはなさそう。まあ、発売日自体がまだ未定だしな。

しかし、だ。Nike社の元記事についたコメントを読むと、「靴はカッコイイけど、『TP』は観たことないんだよネー」とゆーのが並んでいて、ちょいと教育的指導をカマしたくなりますな……いや、ほんの1496分+135分ばかり、テレビの前に縛り付けて不眠不休のマラソンで(笑)。

そーさのう。次は「赤」を基調にした「踊る小人」ヴァージョンとかも出してくれんかのう(笑)。

2008年12月 4日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (6)

んなわけで、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」をば、チマチマ読んだり読まなかったりする日々。

AFIに入学して妻ベギー&娘ジェニファーとロサンジェルスに移り住んだ直後、リンチは「サンセット大通り」のノーマ・デズモンドの屋敷として使われた建物を捜して、あちこちうろついたらしいです*。リンチの「サンセット大通り」に対する思い入れはいろいろな形で有名だけど、ということは1970年までにすでにリンチはこの作品を観ていたわけですね。根拠ナシなんだけど、なんとなくもっと後で観たのかと思っていたので、ちょっと意外。

「影響を受けたもの」という件でいえば、カフカの「変身」やゴーゴリの「鼻」をリンチが読んだのはAFIに入学してからだった……という事実がこの伝記中で明らかにされております。特に「鼻」に関しては、リンチは深い感銘を受けたようで、そのシュルレアリスム的な描写や、数回に及ぶナラティヴのシフト、オープン・エンドな結末等々に影響を受けた様子であります。当時の妻だったペギーの証言によると、「彼は『鼻』を翻訳で読んだので、より簡略化され(リンチ自身の考えや感覚や想像を反映させることができる)『余白』を残した形で体験することができた」ということでありますが、Olson氏はこれは、「(作品を作るに際して、観客が)夢をみる余地(give you room to dream)を残すように努めている」というリンチの発言と重なる……と述べています。

さて、映像作家を養成する学校であるからには当然至極ではありますが、AFIは学生に作品を作ることを求めておりました。リンチはそれに応えて「Gardenback」という作品のシナリオを書きます。これまたペギーの証言によれば、この作品はリンチが描いた「背中から緑色のものを生やし、前かがみになった人物」の絵に基づいたものであるようですが、ざくっとした粗筋はこんな具合。

「ヘンリーとメアリーは彼らの家で幸せに暮らしておりました。ある日、ヘンリーは別の女性を見掛け、『何か』がその女性からヘンリーへと移ります。その『何か』とは『虫』で、それはヘンリーの心に似た屋根裏で大きく育ちます。彼の家は、彼の頭のようなのです。『虫』は育ちつづけ変化して怪物になり、ヘンリーを乗っ取ってしまいます。ヘンリー自身が怪物になってしまったわけではありませんが、彼はそれと折り合いをつけつつやっていかなくてはなりません。しかし、そのせいで彼の家庭は完全に滅茶苦茶になってしまいます」

とまあ、Olson氏の指摘を待つまでもなく、みてのとおりこの作品のテーマは、完全に毎度お馴染みの「何かよくないことが起きる場所としての『家』」あるいは「人間の内面を表すものとしての『家』」であるということですね。Olson氏の指摘によると、このように「頭」を「家」になぞらえるという考えは、過去、多くの創作者や哲学者によって採用されていたようです。ただし、リンチはそのような過去の著作物に触れる前にこの「家」に関するテーマの作品を作っており、かつ、現在でもそのような著作物をほとんど読んでません。

もうひとつ、この作品のテーマとして採用され、後のリンチ作品にもみられる共通テーマとみなされるものとして、Olson氏は「不倫(adultery)」を挙げています。たとえば「イレイザーヘッド」の「向かいの部屋の女性」、「ロスト・ハイウェイ」の「レネエ」、「インランド・エンパイア」の「スーザン」にみられるような、っつーこってすねい。これまたペギーの証言によれば、リンチはロマンチストで、「互いに相手を連れた見知らぬ同士が、エレベーターの中で出会って一目惚れ」なんてなことが本当に起きる可能性があるなどとのたまっていたようです。そんなこと嫁さんと話してていいのか、リンチ(笑)。

興味深いのは、この作品に登場する”「虫」によって表されるもの”についてのOlson氏の考察です。当然ながら、これは「ヘンリーのメアリーに対する裏切りの象徴」であるわけですが、Olson氏は過去の文学作品において「虫」が「不安や欲望や恐怖によって不安定になった精神状態」を表すものとして使われていた例を挙げるとともに、ルイス・ブニュエルの諸作品に現れる「虫」についても触れています。ただし、リンチはそうした文学作品を読んでいないし、ブニュエルの映画作品を観たのも、この「Gardenback」のシナリオを書いた後であることも明らかにされています。この「虫」は、明らかにカフカの「変身」からの影響であるわけですが、同時にOlson氏は、むしろリンチが12歳のときにアイダホで観たカート・ニューマン監督の「蝿男の恐怖(The Fly)」(1958)、あるいはエルビス・プレスリーの「恋にしびれて(All Shook Up)」の歌詞「My friend's say I'm acting wild bug; I'm in love, I'm all shock up」からの影響だったんじゃねーの? と述べています。

このように改めて指摘されると、リンチ作品における「虫」のモチーフの共通性に気づかされます。Olson氏は例として、主人公のジェフリーが「害虫駆除員」になりすましてドロシーの部屋に入る「ブルーベルベット」を挙げていますが、思うに「ロスト・ハイウェイ」においてもピートの部屋の壁を這う「蜘蛛」や、照明器具の傘の中でもがく「蛾」が登場していますね。これらの「虫たち」が(駆除されるものをも含めて)何を指し示しているかといえば、やはり「よからぬ感情や意識や考え」であるように大山崎は思います。また、Olson氏はリンチのドローイングに「ant in house」というまんまな作品があることも指摘していますが、これもまたやはりモチーフとしては完全に同根であるのでしょう。

しかし、結局、リンチは「Gardenback」の作品自体を全ボツにします。その理由のひとつは、当初リンチはこの作品を45分くらいの中編として考えていたのですが、AFIの教官から「リニアなストーリーやダイアログを加えて、長編作品にせい」という教育的指導が出たことです。それは自分がやりたいことではなかったので、やる気を削がれたリンチは気分シオシオ。ううむ、この頃から「テメーの作りたいものを作りたいように作る」という基本姿勢を確立していたわけですね、エライなあ(笑)。そしてそれ追い討ちをかけるように、ワロン・グリーン(Walon Green)監督の「大自然の闘争 驚異の昆虫世界(Hellstrom Chronicle)」**(1971)が劇場公開されます。この作品は「虫」による世界支配を科学者が警告するっつー体裁のセミ・ドキュメンタリーでありました。これをみたリンチは、他人様が先にやっちゃったものの二番煎じはヤダ! とゆーことで「虫」関連について一気にやる気をなくし、このシナリオはなかったことになってしまいました。

実はリンチはこのシナリオを書いている最中、ペギーと繰り返し討論を交わしており、彼女はこの作品の問題点を以下のように指摘しています。すなわち、「デイヴィッドは不倫という巨大で邪悪な怪物を、悪として捉えられないでいた。なので、彼はこの怪物をドラマ的に適切に倒す方法を見付けられなかった」と。えーと、そりゃまあ、「エレベーターで見知らぬ同士が一目惚れ」なんて言ってるようでは、この「虫」は退治できなかったかもしれません(笑)。

とゆーよーな経緯でこの「Gardenback」は幻の作品となってしまったわけですが、「心のような屋根裏(attic, whitch is like his mind)」や「頭のような家(The house is like his head)」がというイメージを、リンチは映像的にどのように表現するつもりだったのか、ちょっと観てみたかったよーな気もします。しかし、この作品の「ヘンリーとメアリー」という登場人物名はそのまんま、「不倫」というテーマは形を変えて「イレイザーヘッド」に引き継がれることになるわけです。

*結局、当時のリンチは見つけられずじまいだったみたいですが、IMDbによるとノーマ・デズモンドの屋敷として使われたのは「641 N. Irving Boulevard, Midtown, Los Angeles」の「Getty Mansion」という建物で、現在はすでに取り壊されてしまっているそーです。

**
余談ですけど、この「大自然の闘争 驚異の昆虫世界」、フランク・ハーバートの小説作品「Hellstrom's Hive」(1973/未訳)に触発されて作られたらしいです。「砂の惑星」の監督を引き受けたとき、リンチがそれを知っていたかどーかは不明。いや、たとえ知っていたとしても、さすがのリンチも「二番煎じは……」とか言い出して「砂の惑星」を蹴飛ばしたとは思えませんが(笑)。

2008年11月30日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (5)

うええ。なんだかなんだでなかなか読み進まないGreg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」でありますが。今回は、お約束どおり「グランドマザー(The Grandmother)」(1970)製作の前後あたりをば、Olson氏の作品分析を中心に。

AFI(American Film Insititute)から製作資金を得たリンチは、さっそく「グランドマザー」の製作に取りかかります。途中、AFIから追加資金を受けるなど「なんやかんや」しながら完成したこの作品にも、やはりリンチ作品の共通テーマ……「家族間のトラブル」あるいは「何かよくないことが起きる可能性のある場所」としての「家族の住む家」が現れていることをOlson氏は指摘します。

この作品に表れる「家庭内のトラブル」は、「厳格かつ野卑で暴力的な父親」と「父親から迫害を受ける息子」という形で現れます。少年はそれから逃れるために「祖母」を種から育てます。彼は祖母に甘え、祖母は彼に愛情を注ぐと同時に過酷な環境から逃れる「種」を彼に受け付けます。「祖母」は死んでしまうわけですが、少年のなかに受け付けられた「種」は育ち続け、彼を忌避すべき環境から解放することになる……というような「厳格な両親/慈しむ祖母」というテーマを、著者のGreg Olson氏は「グランドマザー」から読み取ります。

同時に、この作品に登場する「厳格かつ野卑で暴力的な父親」は、後のリンチ作品に表れる「野獣のようなキャラクターの原型」として捉えられるとOlson氏は述べます。たとえば「ブルーベルベット」のフランク・ブースや「ツインピークス」のキラー・ボブのような「存在」の「原型」でありますね。Olson氏によれば、こうした「野獣的なキャラクター」も、リンチ作品に頻繁に現れる共通モチーフのひとつとして理解されることになります。つまり、キラー・ボブの例に顕著なように、これも”何か他の存在が、自分の「内面」に侵入することへの恐怖”であり、”「無秩序で混沌とした外界」が「内面」を脅かすことへの不安”に基づいているということであります。「グランドマザー」に話を戻すと、「少年」の抱く「恐怖」というのは、自分も父親のような「野獣」になってしまうことである……というのがOlson氏の分析であります。

Olson氏はこのような「恐怖」を抱く「少年」に、リンチの「自己投影」をみます。当然ながら「外界からの侵入」をもっとも怖れているのはリンチ自身であるわけで、であるからこそ共通モチーフとして様々な作品に現れることになるとゆー機序でございます。と同時に、少年が地面から生まれたことに驚く「両親」のキャラクターのほうにも、長女ジェニファーの誕生に驚き慄いたリンチの「自己投影」がなされているとOlson氏は喝破します。で、この作品の「両親」に対するリンチの「自己投影」は、続く「イレイザーヘッド」でも継承され、テーマとして発展していくわけですね。このあたりは、たとえば「ロスト・ハイウェイ」でピートがフレッドの「代弁者/代行者」であるのと同じような意味で、リンチ作品の諸登場人物はリンチ自身の「代弁者/代行者」として機能しているとみなされること……つまりは、リンチ作品が非常に「リンチの私的なもの」の投影であることの指摘として捉えてヨロシいんじゃないか……と大山崎は考えましたことでした。

ちらっと前段で書きましたけど、この作品の「少年」も「両親」も「地面の中から生まれてくる」んであります。「祖母」のほうも「種」から生まれてくることに表されているように、「土」の中から生まれてきます。Olson氏は、そこに毎度お馴染み「表層の下にあるもの(beneath the surface)」 のモチーフを見いだしています。これは、後に述べる「区分けの消滅」というこの作品の特徴とも関連しているわけですが。

次いで、「学ぶ」ということをキーにして、Olson氏は「アルファベット」と「グランドマザー」を「対比」させ、その「差異」を述べます。「アルファベット」では「強制的に学ばされることのへの嫌悪」が描かれているのに対し、「グランドマザー」では「知識を獲得することの喜びと価値」が描かれているということですね。つまり、「アルファベット」におけるアルファベットの文字によって表されている「知識」は、少女=子供にとって”敵対的な大人の世界から見下ろされつつ、無理矢理「注入」されるもの”であったわけですが、逆に「グランドマザー」の少年は、”両親が属する野卑で暴力的な階下から、自分で階段を上って「直感と愛情」そして「世界とのつながり」という「人生教育」を受けに行く”というのがOlson氏による両作品の比較です。大山崎の私見ですが、”「すでに体系化された規則」に従った「知識」”と”「体系化されていない」感覚的な「経験則」”の違いが、リンチ作品において「ネガティヴに扱われるか/ポジティヴに扱われるか」の差異になっているんですかね? あるいはその「獲得」が、結果として「受動的であるか/能動的であるか」の違いにあるのかもしれません。「受動的」である場合は、これはいいかえれば”「外界」からの「侵入」への恐怖”としても理解可能なような。

Olson氏の指摘のなかで大山崎がもっとも面白いと感じたのは、この「グランドマザー」においては、「アルファベット」でみられたような「実写部分」と「アニメーション部分」の区分けというのが消滅しているという点でした。前回にも述べたように、「アルファベット」では「実写=現実の少女」というフレームと「アニメ=少女の内面」という「区分け」が(最終的には消滅するとしても)まず存在しているわけですが、「グランドマザー」ではそもそもそうした「外面/内面」の区分け自体が存在しないとOlson氏は述べます。「アニメ部分」が減少して「実写部分」が増えているという映像的比率の違いはさておき、それとも関係なく本質的なところで、少年や両親や祖母の「実写部分」と、たとえば両親や少年が地面の中から生まれるといった「アニメ部分」が完全に等価なものとして地続きに扱われている、ということですね。Olsoin氏が言うように、「イレイザーヘッド」や「ロスト・ハイウェイ」などをみても、こうした「区分けの消滅」はその後のリンチ作品の明確な特徴になるわけですが、実際問題としてこれ以降、「Dumb Land」などの例外を除いて、リンチは基本的に映像作品を「実写」でのみ製作するようになったのも事実です。このような理由で、この作品をOlson氏は”「時間経過とともに変化する絵」を作っていた「画家」としてのリンチ”と”「映画」というメディアを意識した「映像作家」としてのリンチ”の「明確な分岐点」として位置づけています。

ところで、こうした「区分けの消滅」は、「グランドマザー」に関してリンチ自身が述べた短いキャッチ・フレーズに端的に表れています。1970年にBellevue Film Festivalでこの作品がコンペ出品されたときに述べた、「a journey into the mind of lonley boy」っつーのがそれなわけですが、こりゃもう、確かにまんまっちゃあ、まんまです。大山崎としては、「lonley boy」の部分を「despairate husband」に置き換えれば「イレイザーヘッド」や「ロストハイウェイ」になるし、「brokenhearted actress」に置き換えれば「マルホランド・ドライブ」になってしまうよーな気もしますですが、それはそれとして(笑)。この「journey into the mind」というフレーズに関連して、Olson氏はリンチの家にある数少ない書籍のなかに、ウィリアム・ブレイクの詩集が含まれているという事実を指摘しています。「For in the Brain of Man we live」とか「To Me This World is all One continued Vision of Fancy or Imagination」とかいうブレイクのフレーズは、まんまリンチの諸作品にも当てはまるわけですね。

余談として、Olson氏は、リンチは自作についてそれぞれ短いキャッチ・フレーズをつけると指摘します。確かに我々もよく目にする光景ですが、新作の記者会見やインタビューで自作についての「説明」を求められたとき、リンチはそうしたキャッチ・フレーズを繰り返すだけですませてしまいます。たとえば「インランド・エンパイア」の「A woman in trouble」なんつーのも、その典型例であるわけですね。で、それ以上の説明は一切せず、受容者の解釈(ないしは誤読)に任せてしまう……てなことを、リンチは「グランドマザー」の頃からやっていたことになります。こうしたリンチの自作への態度を、Olson氏は皮肉っぽく「戦争中に捕虜になった兵士が、敵軍兵士のどのような尋問に対しても、自分の名前と所属と認識番号しか答えないがごとく」とか評しておりますが、まあ、そのようなことを評論家に言わせたくなるほどリンチの口が堅いとゆーことでありましょーか(笑)。

てなわけで、これで第一章「FEARFULLY AND WONDERFULLY MADE」は読了。リンチは「グランドマザー」を完成させるわけですが、AFIから追加資金を受ける際に、実はリンチはもうひとつのオファーを受けておりました……ロスアンジェルスに来て、AFIに入学しないか、と。このあと、リンチは友人のジャック・フィスクやらアラン・スプレッドたちと一緒にフィラディフィアからロサンゼルスに移り住み、そこで初の長編映画「イレイザーヘッド」を五年かけて製作することになります。そのあたりの話は、次回からとりあげる第二章「FACTORY CHILD」にて……ってことで。

2008年11月 8日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (4)

忘れたころにやってくる(笑)、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」の話題であります。

うむむ、電車のなかで読めないと、なかなか読み進みませんなあ。いまだにフィラディルフィア時代をさまよっているワタシ(笑)。なんとか「アルファベット」が作られる前後のところまで読みましたんで、そこらへんまでご紹介。

「アルファベット」に関する記述の紹介と前後して、リンチ作品全体に関するOlson氏の見方とゆーか記述があるので、ちょいとこれを先に紹介しておきます。

リンチ作品の製作過程の根底にあるのは、リンチが言うところの「act and react」であるとOlson氏は述べます。リンチが画家を目指していたころに「絵画」におけるパラダイム・シフト……つまり、伝統的な「現実の説話的な描写(narrative representation of reality)」が棄却されて、「自由な抽象表現(freedom abstraction)」や「アクション・ペインティング(action painting)」なんやかへのシフトがあって、リンチはその洗礼を受けているとOlson氏は指摘します。でもって、そういうまず「絵画」において採用された「何が正解でバランスがとれているかを判断するにあたって、その瞬間その瞬間の感覚にしたがう」といった手法をリンチは映画作品にも持ち込んでいて、「絵筆をふるうように映像や音響を使ってムードや感情の高まりを描き、それを時間経過とともに変化するよう構成する」ってなことをやっている、と。んで、その結果として、「(リンチの作品は)我々が大多数の映画を観る際に慣れ親しんでいるような、安定し理路整然とした可読性を欠いている(lack the stable, orderly readablility of most of what we are accustomed to seeing on the screen)」ちゅうこってす。でも、一見「予測不能で、安定を欠き、混沌としている(unpredictable, unstable, and chaotic)」ようにみえるリンチ作品てーのは、「時として言葉では表せないような感覚的-感情的な意味を伝える動的な過程のなかで、相互的に作用する諸要素によって出来上がったものである(they are composed of elements interacting in a dynamic process that conveys often sublingual sensory-emotional meanings)」とOlson氏は述べます。

まあ、ぶっちゃけたハナシ、大山崎がしつこく言及しているリンチ作品における「イメージの連鎖」ちゅうのは、Olson氏の見解をちょっと別な角度から、非常に雑駁に述べたものと捉えていただいてかまわねーかなと思います。リンチ作品が登場人物の「感情」をキーにして理解できること、リンチ独自の感覚に基づいた「抽象的概念の結節=イメージの連鎖」によって成立していること、そしてリンチの映像作品と絵画作品は手法として共通していること等について、氏は指摘しているわけです。「予測不能で、安定を欠き、混沌としている」ってーと、まるで「統合失調症患者の妄想」みたいですが、決してそーではないとゆーことですね(笑)。

んでもって、「アルファベット(Alphabet)」(1968)に関して。

ちょっと「Beautiful Dark」内での記述とは前後関係が入れ違うんですが、Olson氏はこの作品がリンチが「映像のみ」で表現することに軸足を移した最初の作品であることを指摘しています。つまり、ご存知のように、「嘔吐を催す六人の男」が、リンチの頭部を原型とした「彫像」がスクリーンに貼り付けられているといういわゆる「インスタレーション」のジャンルに属する作品であったのに対し、「アルファベット」はそうした(いわば)ギミックを排した「映像一本」での表現を目指しているということです。リンチの画家から映像作家への軸足のシフトは、この作品において決定的に行われた……ということですね。とはいえ「アルファベット」を作ったときには、リンチは映像製作に関する教育などまったく受けてなかったので、ま、見よう見真似とゆーか、この作品にみられる映像文法は、自分が観たことのある数少ない映画作品から本能的にリンチが学び取ったものであると、Olson氏は述べています。

この作品が、当時のリンチの妻だったペギーの姪の「悪夢」をもとにして作られたことはよく知られた事実でありますが、Olson氏はそこに「強制的な教育に対する恐怖」というテーマを読み取ります。特に、この作品に明瞭に現れているように、「言語」を強制的に「習得」させられることに対する「恐怖」ですね。そして、リンチが「言語習得」に対して抱く「恐怖」の根底に、氏は「言語習得前の子供が抱く自由な発想や概念が、言語によって整理/体系化されることによって制限を受け、無味乾燥なものになってしまうことへの精神的苦痛」を読み取ります。リンチにとって、そのような「制限」はそのまま創作の障害につながるものであり、その姿勢は現在に至るまで変わっていない、と氏は指摘します。リンチが自作について語ることを頑なに拒否するのは、まさにそうした「制限」に対する恐怖からであるわけっスね。

そして、この作品もやはり「表現主義的」な手法に基づいていることが指摘されます。この作品でいえば、「外面」として現れているのはペギー・リンチによって演じられている「少女」の実写映像であり、「内面」として現れているのは「キュビズム的な手法によって描かれた頭部」などを描くアニメーション映像であると氏は述べます。つまり、アニメーション部分で提示されているのは、少女の「内面」で発生している「事象」であるということですね。「キュビズムの頭部」に「A」やら「B」やらのアルファベットがぶち込まれ、この「頭部」はうげーと喘ぐわけですが、それに続いて実写映像のほうでも「少女」がうげーと喘ぎます。「頭部」がでんでろりんと血を吐くと、「少女」もでんでろりんと血を吐きます。つまりこの両者は連動していて最終的には「内面」と「外面」の境界が消失してしまうわけですが、こーゆー「内面の外界化」という表現を、リンチは「インランド・エンパイア」の”「スミシーの家」の実体化”に至るまでずーっとやっているということですね。そもそも、「アルファベット」の冒頭で提示される「少女がベッドで寝ているショット」そのものに、Olson氏はその後のリンチ作品が提示する「夢と現実の混同(interpenetration of dream state and waking reality)」の初期形を見て取っております。となると、「マルホランド・ドライブ」の冒頭で提示される”枕に向かって進む「視点」”の映像は、この「ベッドに横たわる少女」のヴァリーエションといえなくもないかも……と大山崎は思ったことでした。

で、AFI(American Film Insititute)が有望な映像作家の卵に作品制作費を提供していることを知ったリンチは、この「アルファベット」を提出するとともに、「グランドマザー」の脚本で応募します。リンチは他にもっと有望な候補者がいることを知っており、自分が選ばれるとはあんまり考えてなかったみたいですが、みごとに製作資金を獲得します。その当時、審査にあたっていたGeorge Stevens Jr.氏は、「応募された作品をカテゴリーごとの山に集めていたのだが、その作業が終わったとき、ひとつだけどの山にも属さない作品が残っていた……それが『アルファベット』だった」と証言しています。いやまあ、確かに、どのよーに分類してよいか困る作品であるかもしれません。

ってなことで、次回は「グランドマザー」(1970)製作の前後のことなどについて、です。

2008年10月30日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (3)

うははー。Linux2号機が絶不調でございます。使用中にいきなりブチっと電源が落ちやがるの。打ち込み途中の文章がパアじゃねえかよう、ナニ書いてたんだか忘れちゃったよう(笑)。トロいくせに爆熱を出す機体なんで、そのうち電源がイカれるかもなあと思ってたんだけど、そりゃアンマリよ随分ね(笑)。まあ、古い機体だし、シリコン・グリスが硬化してCPUからヒート・シンクへの熱伝導がうまくいかずに熱暴走……ってな可能性もあるんで、一回バラしてグリス塗り直してみよーかな。

実はLinux3号機も先月あたりからなんか挙動がおかしくて、充電池がセットされていると電源が入らないってのは、いったいどーゆー仕儀でありましょーか(笑)。とりあえず、AC電源だけなら動くんで、電池引っこ抜いて運用中。まあ、9000円で買った機械だしあんまり贅沢はいわんが、アンタは確かノートPCのハズじゃなかったのか、その「自己同一性」はないのか(笑)。

ってな具合に、あっちゃこっちゃ脱線しながら、ボチボチと読書進行中(笑)。引き続き、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」のお話。

ちょっと話は戻って、「映像製作」に至るまで画家を志望していたころの「絵画作品」についても、いろいろと興味深い指摘がいくつかありました。

まあ、フツーそーだろーと思うのだけれど、まあ、最初はリンチも写実画から描き始めていて、最終的に抽象画に至るまでにはいろいろな画家の影響を受けたことが、ティーン・エイジのころに描かれた作品からはうかがえるそうな。たとえば、明らかにゴッホの色彩の影響を受けたであろう「自画像」が残っていて、まあ、その、髪に隠れてだかなんだか、左耳がよく見えないように描かれていると(笑)。うむむ、ゴッホの「耳」と「ブルー・ベルベット」の「耳」をつなぐリングってえわけでございますな。

しかし、ハイ・スクールのころになると、すでにキュビズムの手法をとりいれたりしてたりで、写実的な具象画からは逸脱していた様子であります。フランシス・ベーコン作品との出会いは、まあ、有名だからおいとくとして、Olson氏は1950年代の「抽象表現主義」の画家たち、とりわけフランツ・クラインからの影響を指摘していますが、えーと、クラインの絵っちゅうと、たとえばこんな感じ。

Kline03

いやもう、こりゃまたみごとに真っ暗けっつーか、モノトーンっつーか、白黒ってゆーか、リンチの一連のドローイングみてると、ああた、確かに影響受けまくりに受けてマスったら受けてマス(笑)。

で、「嘔吐を催す六人の男」なんですが、Olson氏はこのリンチの処女映像作品に、その後の様々な映画作品にみられる特徴やモチーフの萌芽をみます。「初期短篇集」のDVDを持ってるヒトは、参照しながら読んでくだせえ(笑)。

まずOlson氏が指摘するのは、分割した画面に映し出される「カウント・ダウン」の「数字」と、「LOOK」という「文字」であります。リンチの「絵画作品」には、こうした「文字」や「数字」が貼り込まれたものが多数あるわけですが、映像処女作品である「嘔吐を催す六人の男」にもそれが現れちょるわけです。「インランド・エンパイア」においても、スー=ニッキーの右手の甲に書かれた「LB/」ってなのがありました。いわゆるひとつの「文字のテクスチャー」ってヤツでございます。

続いて、画面右側に「二人の男」の「映像」が映し出されるわけですが、「一人」ではなく「二人」であるところにOlson氏はその後のリンチ作品に現れる「抽象概念」の基本的提示方法をみてとります。氏は「One and Same」という言い方をしていますが、画面左にあるリンチ自身の顔から型を採った彫像を含めた「六人の男」はすべて「等価」で、全員の「総体」でもって”「人間」の「概念」”という抽象的かつ普遍的なものを表わしているのだということです。要するに「インランド・エンパイア」に現れた、ニッキーやらスーやらロスト・ガールやらの「トラブル=機能しない家族」の「諸例」がすべて「等価」であって、それらの「集合体」が”「機能しない家族」の「抽象概念」”という普遍的なものを表わしている……ってのと、同じことなんでありますな。まあ、こういう「抽象概念」や「普遍/一般」の表し方って、リンチの専売特許ってわけじゃなくて、芸術全般でよく使われる「手口」であるとは思いますけども。

でもって、「嘔吐」というものそのものが”外部からはうかがいしれない「内面」”があからさまにされる行為なわけで、Olson氏の文章を引くなら「リンチの劇場用映画作品は人間精神の深部における働きを暴いているが、この彼の最初の映画では、六人の男たちの肉体的器官の内部を明らさまにすることによって、表層の下に潜むものを白昼のもとに晒したいという衝動を表明している」っつーことです。つまり、この「嘔吐」によって表されるものは”「外面」と「内面」の対比”ひいては”「内面」の「外界化」”であって、いうなれば「ゲロはきわめて表現主義的」なものであるってーことっスね(笑)。しかし、ま、サルトルといい、ジョン・ウォーターズといい(をい)、「ゲロ」が人間の思索や創造に与える影響というのは多大でありますなあ。バブルの頃は終電間際の駅のホームがゲロまみれだったりしましたが、アレは非常に実存主義的かつ表現主義的な時代であったわけですなあ(ホントかよ?)。それはそれとして、リンチが絵画や映像を含めた自分の作品の方向性を、この時点から”「人間の内面」の「視覚化」”に向けて確立していることは明白であって、こうした方向性のもとに「ブルー・ベルベット」の「芝生の下に潜む蟻」とか、「ロスト・ハイウェイ」や「インランド・エンパイア」の「人間の内面の象徴としての家」というようなモノが出てくるわけですね。

もひとつ、この「嘔吐を催す六人の男」はループさせたフィルムによって上映され、リンチがその気になれば延々と何度も映し出されること(DVDでは六回リピートですけど)もOlson氏は指摘しております。氏の表現を借りれば「繰り返し嘔吐に苦しむ人間存在というアイデアが、リンチの頭にあったことは明白だ」ということで、まあ要するに、こうした「嘔吐」(によって表される)行為を「人間」がその生ある限り延々と続けるっつーことをこの「リフレイン」は指し示しているわけです。ぶっちゃけのハナシ、「ロスト・ハイウェイ」の「円環構造」と基本的に同一の発想だといえるでしょう。

サウンド・トラックとして流れる「サイレンの音」は、明らかにその後のリンチ作品の音響の特徴である「インダストリアル・ノイズ」の先駆けであるし、「炎」もやっぱ現れるし、その他モロモロ、リンチ作品を通して現れる共通したモチーフが「嘔吐を催す六人の男」には「テンコ盛り」だとOlson氏は指摘しております。たーしーかーにおっさるとおりで、いやあ、リンチって全然そのころから「ブレがない」んですねー……とゆーお話でした。

2008年10月28日 (火)

高き「Lime Green Box Set」の悩み

Dllimegreen 本日のdugpa.comネタ。

11月18日に発売が迫ったディヴィッド・リンチの新DVDボックス「Lime Green Box Set」についての続報。謎だった「Mystery Disk」の内容が、徐々に明らかになってきました。

こちらのインタビュー記事によると、「Mystery Disk」に収められる映像特典は……

・「ワイルド・アット・ハート」の未公開シーン(32シーン)
・フィラデルフィア時代に作った16mmフィルムの実験フィルム各種
・「Rabbits」のオリジナル・エピソード

……という具合であると、リンチ本人がバラしております(笑)。

「実験フィルム各種」のほうは、60年代からリンチが所蔵していたフット・ロッカーを86年ごろ開けてみたら、あら、まあ、「お宝映像」が……という文字通りの「お蔵出し品」だそうな(笑)。内訳としては、当時の作品である「アルファベット」や「グランドマザー」用に撮影した各種素材、および「アナシン(Anacin)」という薬の「架空コマーシャル・フィルム」なんてのが混じっている様子。「アナシン」って、ナンの薬ですの? ……と思って調べてみたら、要するに主成分がアスピリンとカフェインの「頭痛薬」っつーか「鎮痛薬」なんスね。

にしても、そっかー、「Rabbits」収録されるっすかー。うむむー、$179.99かあ。円高だしなあ。悩むなあ。どーでもいいんですが、「エレファントマン」の特典映像とブックレットについて「いやあ、そんなにレアな内容じゃないよん(Well, it’s not so rare)」とか本人が言っちゃうのは、売り上げ的にみたバヤイ、どーなんですか?(笑)

その他、いままでリンチ作品の北米版DVDにはチャプターを付けるのを拒否していたのに、「インランド・エンパイア」のDVDで初めて付けたのは何故? という質問に対して「最初は作品そのままの形で収録するのがいいと思ってたんだけど、ちょっと考えを変えた。だって、オシッコ行きたくなったりしたら、困っちゃうだろ?」とか答えてるのも、どーなんですか?(笑) いや、別にチャプターがなくても、プレイヤーを一時停止すりゃいいだけの話なんでは……と思ったりもするんだけど、半分冗談なのかなあ(笑)。でも、リンチ、「オーデオ・コメンタリー」だけは死んでもやる気がないよーです。

「インランド・エンパイア」は、最初から、劇場での興行収益よりもDVDで売ることを考えて製作したのではないか? と、割とキツい質問があったりなんかして。おそらくは、低解像度の民生用DVでの撮影を念頭においての質問だと思うのでありますが。それに対してリンチは「決して劇場での公開を副次的に考えているわけではなくて、可能な限り公開規模を広げた。だけど、ブロック・バスター以外の映画作品が劇場公開で収益を上げるのは、どんどん難しくなっている状況である」と答えております。非常に悲しいけど、そーゆー状況であると。

あと、ブルーレイ・ディスクはどーっすか? という質問には、「いや、最終的には配信でしょ?」というご意見らしい。うーむ、公式サイトの更新が止まっているという話題が、向こうのリンチ・ファンの間では取り沙汰されたりしてたんだけど、うーむ、どーなるんですかね。

あ、残念ながら、今のところ次回作の具体的な予定とかはないみたい。現在、せっせと絵を描く日々のよーであります。

2008年10月21日 (火)

「Beautiful Dark」を読む (2)

のてのてと読み進めるワタシ(笑)。

あ、書き忘れたけれど、基本的にこの本、リンチの子供時代から始まって、「通年史」的にリンチの作品とその時の周辺情報を追うという構成になっております。どっちかっていうと、「研究本」というよりは「伝記」なのね……と思ったら、Dugpa.com管理人のDugpaさんは最初っから「biography」って言ってますわ。大山崎が勝手に思い込んでただけでした、ごめんなさい。

しかし、粗筋紹介して何やら感想めいた文章をくっつけたようなそこらへんの「研究書」に比べても、リンチ作品に関するテーマ分析とかは、むしろこの本のほうが的確だと思います……とりあえず、読んだ範囲では。というか、ここまで真正面からデイヴィッド・リンチを論じている本は、今まで存在しなかったといっていいのではないかと。その実証主義的な姿勢といい、これまでのリンチ本とはまったくレベルが違うと感じました。もし、この本を買おうかどうか迷っているなら、間違いなく「買い」です。

これだけの本をまとめあげるには、大変な時間と労力がかかったであろうことを考えると、著者のOlson氏には頭が下がる思いであります。もちろんクリス・ロドリー氏のインタビュー本という労作はすでにあるわけだけど、この「Beautiful Dark」とインタビュー本をあわせて読むと、「あ、リンチはそーゆーコトを言いたかったのくわー!」と目からウロコなこと、請け合いであります。これから先、デイヴィッド・リンチについて誰が何を言おうと、この本を読んでないヤツのいうコトはあんまり信用せん……と、個人的には決めました(笑)。

で、やっとフィラデルフィアに移り住んで、初の「映像作品」である「吐き気を催す六人の男(Six Men Getting Sick)」(1967)を製作するあたりまで読み進みました。やっと「映像作品」を製作するところまでたどりついたわけでありますが、そもそも「フィラデルフィアは自分にとって重要な地である」というリンチの発言の意味が、遅まきながら、あ、ナルホドと納得できました。フィラデルフィアでリンチが住んでいた周辺がどのようなところで、そこで住んでいたときに何があったかは、たとえばインタビュー集「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」の64ページあたりに書かれているし、発言集の「According to...David Lynch」にもわざわざ「Philadelpha」という一章が設けられているぐらいなわけですが、正直いってボンクラな大山崎は、それらの事件や事項がリンチ作品のテーマにどのような影を落としているか、Olson氏に指摘されるまで気がついてませんでした。

リンチが住んでいた周辺は「黒人少年が道端で頭を撃たれて死ぬ」というようなところで、つまり、前回触れた「無秩序で混沌とした外界」そのものなわけです。で、そこにリンチは妻のペギーや娘のジェニファーと住んでいて、車を盗まれるわ、二回も不法侵入を受けるわってなことが起きて、それって「外界」による「安全で統制された『避難所』」への「侵入」に他ならないということですね。結局、フィラデルフィア時代に起こったことは、最終的にリンチ作品のテーマのひとつである「人間の『内面』を表すものとしての『家』」や、頻繁に現れる「監視/侵入/追及」のモチーフにつながっていく……っていうことです。ある意味、前回の「広所恐怖症」の話といい、非常にわかりやすいハナシであるわけですが、こういう基礎的事項が押さえられているのといないのとでは、リンチ作品に対する理解度もそりゃ違うだろーよ、ってなもんであります。

「吐き気を催す六人の男」についても、いろいろ興味深いOlson氏の指摘があるんですが、それについては次回にでも。

2008年10月19日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (1)

Beautifuldark えー、というわけでGreg Olson著のリンチ研究本「Beautiful Dark」がやっと手元に到着したので、ご報告。やっぱ、電車の中で読むには、ちと分厚いし重いな、これ。試しに重さを計ってみたら、1.4Kgっつーことで、ちょっとしたB5サイズのノートPCぐらいの重さ。当然、手に持って読んでると疲れるので、床の上に置いて、絨毯に寝転がって読むのが吉とみた(笑)。というわけで、お家にいるとき限定で読み進めることにします(笑)。

まだ最初の方を何ページかパラパラ読んだだけなのだけど、すでにいろいろと驚く新事実が次々と(笑)。リンチは小さい頃「広所恐怖症」の傾向があり、それは成長してからも続いていたとか、森林調査官だった父親のオフィスの壁に掛けられていた「体系化して並べられた『害虫』の標本」の話とか、非常に興味深かったりする。とりわけ、リンチ家が信奉していた「長老教会派」の教えと(表現主義的な観点からの)リンチ作品の共通性の指摘とかは、ちょっと大半の日本人には不可能なものかもしれません。

子供の頃、「木にたかった赤蟻」をリンチが目撃して……などに代表される「日常に隠された非日常」の話なんかは、すでにあちこちで紹介されていて有名だからおいとくとして、”リンチにとって「外界」は「無秩序で混沌とした脅威」であり、それと「体系化された安全な『待避所』」との関係性が、リンチ作品を押し進めるものである”とするOlson氏の指摘は、かなり頷けるものがあるような気がする。もちろん、リンチにとって、そうした「待避所」の端的なものが「家」であり、あるいは自分の「内面」であるわけでありますな。逆にいうとリンチにとって最大の「脅威」は、「家」や「内面」に「無秩序な外界」が侵入することであって……などなど、先ほど述べた「広所恐怖症」的傾向の話をあわせ、あるいはリンチにとって作品を創ることは、「無秩序な外界」という「害虫」を、「整理し体系化された標本」にすることによって、その「脅威」を「中和」する作業であると思えなくもないわけですが、どんなもんでしょーか。

とまあ、これからボチボチ読み進めるにつれて、他にもいろいろと新事実が明らかにされそうな勢いですが、Olson氏のエライところは(って、大山崎がエラそーですが)、冒頭の6ページぐらいの間に、リンチの手法が「表現主義的なもの」であり、その作品が目に見えない人間の「内面」や「感情」の「視覚化」であることを、きちんと述べていること。こーゆー基礎的なことにちゃんと触れるかどーかは、それはそれで著者の見識の問題だよなあと思ったりするんですが、いかがなもんでしょーか。

てなわけで、折に触れて、ときどきこの本の内容紹介も進めていきたいと思っておりますので……ということで。

2008年9月30日 (火)

独逸でリンチの写真展(もう終わってますが)のハナシ

本日のDugpa.comネタ。

「David Lynch: New Photographs」と題するリンチの写真展が、8月1日から9月17日まで、ドイツのデュッセルドルフで開催されていた模様。

Emily_scream_2_pv 展示された作品の一部をここで見ることができるのだけれど、「Distorted Nudes」系列の作品ぽい「Couchシリーズ」や「Woman Thinkingシリーズ」があったり、抽象的な物体をモノ・トーンで写したドローイングと見間違うような「Chain of Events」などの作品もあったりで、色とりどり。

これまたドローイングと同じように「文字」を貼り付けた「Light Cigaretteシリーズ」があるかと思えば、花の一部を超接写で撮った「Yellow Blue Red」ってなまんまなタイトルの作品もあって、リンチの「テクスチャー」に対するこだわりがうかがえる感じ。

これまで開催されたリンチの作品展の主要リストも掲載されているのだけど、1997年の大阪を最後に、日本ではリンチの作品展が開催されてないって、あれ、そーだっけか? 確か2~3年前にもフィラデルフィアでリンチ展が開かれていたハズで、たまたま当地を訪れていた知り合いの某「ハーモニカ&ウクレレ奏者」が観て来てたんだけど、リストには載ってないのは規模が小さかったから? うーん、ちょっと、よくわかりません。

2008年9月 7日 (日)

「Lime Green Set」予約受付開始その他のおハナシ

引き続き、今日のDugpa.comネタ。

Dllimegreen_2以前にも紹介した デイヴィッド・リンチ作品のDVDボックス・セット「David Lynch The Lime Green Set」の予約受付が米アマゾンで開始されている。今なら、30%OFFの$125.99也。現在のところ、いまだ「Mystery Disc」の内容はミステリーのまんま。

で、それにあわせてとゆーわけでもないだろうけど、あちこちの国でリンチ作品のDVDボックス・セットの発売が相次いでいる様子であったり。

 

Engbox_2 まず、こちらがイギリスですでに発売中のボックス・セット。収録されているのは「エレファント・マン」「マルホランド・ドライブ」「インランド・エンパイア」の三作品で、こちらの内容紹介をみるかぎりでは、以前から発売されていたものとトランスファーも「映像特典」も同一であるよーだ。うーむ、どっちかってーと「お徳用三作品パック」って感じ?(笑)


Audvd ほんでもって、こちらが9月29日にオーストラリアで発売予定のボックス・セット。こちらはイギリスよりは気合が入っていて(笑)、「イレイザー・ヘッド」「初期短篇作品集」「Dynamic 01」「リンチ1」「Dumbland」というセレクション。当然ながらお値段のほーも気合が入っていて(笑)、AU$149.83ってえと日本円で13,200円ぐらいかな? リージョン・コードが「1,2,3,4,5,6対応」なうえに、こちらの説明を読むとPALじゃなくてNTSCなので、日本の国内向機器でも問題なく視聴できるハズ。しかし、送料を考えると、米アマゾンでバラで買ったほーが安いかもしれん。あら、知らなかったけど「イレイザー・ヘッド」はオーストラリアではこれが初DVD化なのね。

そろそろ日本でも「初期短篇集」とかが入ったDVDボックスが出てくれんかのう……と思ったりせんでもないんだが、出たら出たでお財布にやさしくなかったりするんでしょーね、はい(笑)。

2008年9月 6日 (土)

「ツイン・ピークス」関連の捜しモノのおハナシ

本日のDugpa.comネタ。というか、「TWIN PEAKS ARCHIVE」ネタ。

お母さん、あの汽車の車両、どうしたでしょうね。ええ、ローラ・バーマーが殺された、あの車両ですよ……

……というような話題が、ずっと以前から向こうの「ツイン・ピークス」ファンの間では出ていたらしい。実は大山崎は知らなかったのだけど、あのローラ・パーマーの殺害現場になった車両が、いつのまにかロケ地となった「Snoqualmie Valley Railroad Yard」から姿を消していたらしいんである。

Car_273_original ←コイツね。その行方に関しては、当時からいろいろなウワサ・ヨタ話・都市伝説(笑)が飛び交っていた様子なんだけど、90年代前半から半ばにかけてマコトしやかに囁かれていたのは、「日本の『ツイン・ピークス』ファンが買って、コレクションにした」というものだったらしいから、ちょっとオドロキ(笑)。いやあ、あの頃はバブルで日本も景気良かったしなあ、思わず遠い目になっちゃうなあ(笑)。てな感慨はさておき、日本からわざわざツアーを組んで、遠路はるばるワシントン州スノコルミーまでロケ地見物に訪れる日本の「ツイン・ピークス」ファンの存在に、向こうのファンも一目置いていた様子がうかがえる。うむ、ちょいと、いい話ではある(そーなのか?)。

その後、「2000年5月に、解体されてオレゴン州のアストリア(Astoria)の鉄道博物館に送られ、そこで修復を受けた」という話が2002年の「ツイン・ピークス・フェスティヴァル」の席上で発表され、ファンの間ではこれが「定説」となっていた。この話はスノコルミーにある「Northwest Railway Museum」が出元だったので、まあ、信じますわな、フツー。

んが、なんと、この話がアヤシイことが最近になって判明。「Northwest Railway Museum」の記録によれば、撮影に使われた車両は「1915年製造、Barney&Smith社製造の客車#273である」ということだった。しかし、アストリアまで車両を見に訪れた物好き……いや、熱心なファンの証言によると、そこに存在した「Spokane Portland and Seattle car #273」の車両は、半分貨車半分客車のいわゆる「貨客車」であって、「ツイン・ピークス」に登場したものとはゼーンゼン違った形をしていたとゆーのである。

Car_2731 ←こちらがアストリアの鉄道博物館にある現物。確かに窓の形状とかが、まるで違いますわな。


あやや? 「Northwest Railway Museum」ってば、ナンか勘違いしてね? と向こうのファンがどよめいていたところに、この博物館の歴史を調査しているというボランティアの人から、衝撃的な手紙が舞い込んだ。問題の車両は、すでにスクラップ処分にされていたというんである。

調査の時に出会った博物館の技術者に問題の車両のことを尋ねてみたところ、かえってきた返事は「アレはTOYOTAの自動車になった(It's making Toyotas)」。なんのこっちゃいと思って詳しく話を聞いたところ、しばらく前に「Northwest Railway Museum」は収集していた車両の整理を行ったらしい。これが2000年のことだかどーだかよくわからないのだが、その際、傷んで修復不可能なものはすべてスクラップ処分にされてしまったのだけど、技術者の人の証言によれば「『Barney&Smith社製の客車#273』もそのとき処分された」とゆーんである。

しかしまた、なんで「TOYOTA車」御指名?(笑) 絶対に「FORD」じゃない確信があんのかよう、コラ……などという小学生レベルの難癖はともかく(笑)、とにかく「TWIN PEAKS ARCHIVE」に出入りしているファンたちは、現在、当該車両がスクラップされたことを裏付けるための書類を探している様子だ。が、それでも希望を失わず「泣くのはイヤだ笑っちゃおう」なのが向こうのファンのいいところである。「もし、どこかであの車両が置かれているのを見かけたら、証拠写真を送ってちょ」とゆーことなので、「あ、そーいえばウチの家のガレージに置いてあるわ」という方がいらっしゃたら、連絡とってあげてください、ぜひ。

6 まあ、なんつーか、つい先月、「ツイン・ピークス 劇場版」に登場したトレーラー・カー・パーク(「Fat Trout Trailer Park」とゆーところらしい)の電柱に掛けられていた「6」という表示の看板が、何者かに盗まれる事件があったばかりなのね。心ないファンの仕業という可能性が高くてナントモなんだけど、「あ、そーいえばウチの勉強部屋の壁に、富士山登頂記念のペナントと一緒に掛かってるわ」という方がいらっしゃたら、コッチの方もそっと返しておいてやってください、ぜひ。

Fwwm_car_273 Car_2732 追記:どーやら「ツイン・ピークス 劇場版」の撮影には二種類の車両が使われていたようで、それで「Northwest Railway Museum」が混乱したんじゃねーの? という説が出ているようだ。向こうのファンたちが探しているのは、写真の「パイロット・フィルム」および「劇場版」の撮影に使われた車両なんだけど、「劇場版」の撮影のみに使われた別の車両があるとのこと。確かに「劇場版」の車両にはスライド・ドアが付いてるのが認められ、アストリアの鉄道博物館が所有しているのは、思いっきり後者のほうっぽい感じでありマス。

2008年8月12日 (火)

リンチの新DVDボックス・セットのおハナシ

本日のDugpa.comネタ。

Dllimegreen 「David Lynch - the Lime Green Set」という銘打たれた、デイヴィッド・リンチ作品のDVDボックス・セットが北米で発売されるらしい。収録された作品はリンチ自らのチョイスだそうで、発売予定日は11月18日、予価$179.95也。

DVD9枚+CD1枚という構成で、現在のところわかっている収録作品その他は以下のとおり。

ERASERHEAD – REMASTERED VERSION
THE SHORT FILMS OF DAVID LYNCH
THE ELEPHANT MAN
WILD AT HEART
INDUSTRIAL SYMPHONY No. 1 – DVD DEBUT
BLUE VELVET – NEW LYNCH APPROVED 5.1 SOUND MIX
DUMBLAND
ERASERHEAD SOUND TRACK
THE ELEPHANT MAN EXTRAS – DVD DEBUT
MYSTERY DISC – DVD DEBUT

とりあえずの目玉は「インダストリアル・シンフォニー No.1」の初DVD化でありますかね。あと、「MYSTERY DISC」ってのも中身が非常に気になるところではあります。なんだ、その「福袋」みたいなのは(笑)。「ブルー・ベルベット」のサウンド・リミックス版って、今出てるヤツとも違うんでしょうかね、よくわかりません(笑)。

ううむ、なんやかんやで日本円で2万円弱かあ。さて、どーしたものでしょーか。「初期短篇集」とか「DUMBLAND」のDVDを既に持ってなければ、速攻で「買い」なんでありますけどなあ。「イレイザー・ヘッド」のサウンドトラック・アルバムも中古を探してやっと手に入れたのになあ、「ワイルド・アット・ハート」のDVDも日米あわせて四種類持ってるしなあ……まー、四種類が五種類になっても、あんまり変わらないかもなあ……と、ほぼヤケクソ気味な大山崎なのでした(笑)。

とりあえず、続報を待て! っつーことで(笑)。

8/13追記:その後の追加情報によると、やはり「ワイルド・アット・ハート」と「ブルー・ベルベット」の映像素材は既発売のものと同一で、「ブルー・ベルベット」の5.1chサウンド・トラックのみリンチがリマスターしているとのことらしい。また、「インダストリアル・シンフォニー No.1」はリマスターされている様子。発売はRykoからとのことだけれど、Rykoの公式ページでは現在のところ、まだなにもアナウンスはされていない模様だ。

2008年7月 3日 (木)

「LYNCH (one)」北米版DVD予約開始のおハナシ

さて、またしてもdugpa.comネタ。

日米で発売時期が逆転してしまった「リンチ1(LYNCH (one))」の北米版DVDだが、発売日が8月26日でフィックスし、予約が開始されておりますという話題。

Lynchonedvd まー、とりあえず日本版DVDを持ってるしなあ……と思いつつも、日本版DVDはそれ自体が「インランド・エンパイア」の「特典映像」だったわけで、気になるのが北米版DVDについている「特典映像」。これについては、現在のところ、以下のようなものが収録されるという情報がオープンになっている。

- Lodz photo montage
- floor sander story
- david does more work
- blue green vignette
- "What's Myspace?" vignette
- LYNCH trailer
- LYNCH2 trailer
- LYNCHthree trailer
- 11 minute trailer 2004

「Lodz photo montage」は、おそらくリンチがポーランドのウッチ(Lodz)で撮影した写真なんではないかと。であれば、向こうの工場&女性ヌードの写真作品が収められているはずで、これはちょっとみてみたいかも。

「floor sander story」は、「インランド・エンパイア」の撮影シーンで、床に白黒の波模様を貼りつけている映像があったけれど、もしかしてそれ関連かしらん? リンチ作品に繰り返し登場する「波模様」に関するこだわりについて、何か御本人の言及があるかどーかというのが話題の焦点でありましょう、きっと。

三番目の「david does more work」は、まあ、なんか撮影中の映像なんすかねえ? きっとリンチが何かお仕事してらっさる映像なんでしょーけど、よくわかりません(投げやり)。

もっとよくわかんないのが、「blue green vignette」で、直訳するなら「青で緑な挿話」ってな感じ? 「インランド・エンパイア」に登場する「青」と「緑」のモチーフに関連したものかもしれん……とか、思いっきり当てずっぽで言ってみたりなんかする(笑)。

「"What's Myspace?" vignette」は、おそらくリンチがマイ・スペース上で開設しているページに関連した映像なんでございましょう……と憶測。

あとの四つは「予告編集」と考えて間違いないだろうけど、「LYNCH2」はともかく、「LYNCHthree」って、ナニよ、それ? 何の相談も受けてませんよ、わたしゃ(笑)。と思って、dugpa.comのディスカッション・ボードをのぞいてみたりしたけれど、やっぱまだ誰も相談を受けてないみたい(笑)。

……とまあ、あんまし根拠なく内容を予測してみました。どっちかというと「そうだったら、いいな」ぐらいのものなので、あんまり当てにしないように(笑)。でも、問題は「買うのか?」ということだなあ。米アマゾンで現在の価格が$26.99、日アマゾンでは3,398円と、なんかすげえ高けえぞ。つか、アメリカじゃ確実に「インランド・エンパイア」のDVDより高けえぞ(笑)。石油価格の高騰のせいか?(違うって)

笑ったのが、この製品紹介ページに掲載されている「『リンチ1』のDVDを買う三つの理由」ってヤツ。「普段リンチは自分の映画について多くを語らないから、これはみもの」とか「特典映像がテンコ盛り」とかゆーのはともかく、「『インランド・エンパイア』よりわかりやすい」って、なんスか、そりゃ(笑)。

というわけで、現在、大山崎としてはポチるかどーか、考え中。ううむ、どーしたもんか。是非とも、追加情報がほしいところであります。

2008年7月 2日 (水)

ブリッグス少佐、死去

本日のDugpa.comネタ。でも、悲しいお知らせ。

Davis02 「ツイン・ピークス」のブリッグス少佐役を演じたドン・S・デイビス氏が、現地時間の6月29日に心臓の発作で亡くなったとのこと。享年65歳……って、えええぇ? ってことは、ブリッグス少佐役をやってたときって、40代だったわけ? すみません、貫禄がおありだもんで、てっきりもちっとお年を召してらっしゃるとばかり思い込んでました。

ざくっとドン・S・デイビス氏の略歴をIMDbから引用しておくと、本名はドン・シンクレア・デイビス(Don Sinclair Davis)。俳優としてのデビューは1982年。ミズーリ州出身。出生が1942年8月なので、40歳のときの遅咲きデビューだったということになる。主に活躍の舞台はTVドラマだったが、「フック」(1991)、「コン・エア」(1997)などの映画作品の出演もあり。2003年からは体調を崩して仕事をセーヴしていたとのことだが、最終的には2008年公開予定の「Far Cry」まで、通算135タイトルのテレビ・映画作品に出演した。面白ネタとしては、「人間をチェスの駒に使って、相手にとられたらその人間が殺される」というネタのテレビ・ドラマに一年の間に二回出演した……というのがある。ひとつはもちろん「ツイン・ピークス」、もう一本は「Monkey Planet」という番組の「All the King's Horses」の回。一度の離婚を経て、2003年に現在の奥さんであるRubyさんと再婚。以下がRubyさんからのファンに向けてのメッセージ。

Dear Fans and Friends of Don S. Davis,

So many of you have been touched by not only the work and art of Don S. Davis, but by the man himself, who always took the time to be with you at the appearances he loved, that it is with a tremendous sense of loss I must share with you that Don passed away from a massive heart attack on Sunday morning, June 29th.

On behalf of his family and wife, Ruby, we thank you for your prayers and condolences. A family memorial where Don's ashes will be scattered in the ocean will take place in a few weeks, and should you wish to, please make a donation to the American Heart Association in Don's memory.

どうやら、お葬式のあとは、海に散骨される予定らしい。最後に、「American Heart Association(AHA)」への寄付を呼びかけて、Rubyさんのメッセージは終わっている。

改めて、デイビス氏の御冥福をお祈りします。

2008年6月21日 (土)

またもやリンチ本新刊のおハナシ

本日のDugpa.comネタ。

Bedark 「Beautiful Dark」というタイトルのリンチ本が9月に出るらしい。確認したところ、すでに日米のアマゾンで予約受付が始まっている様子。ハード・カバーで720ページという人を殴り殺せそうな本で、とても電車の中で立って読む気にならんな、こりゃ(笑)。

著者のGreg Olson氏は、シアトル美術館で映画関係のキュレーターで、どうやらFilm Noir Foundationの評議員でもあらせられるらしい。リンチへの直接取材はもちろん、両親をはじめとする家族・関係者・知人への取材を踏まえ、リンチの実体験とその作品の関連を探る……ってな、いや、非常に真っ当で直球勝負の研究本な感じである。実際に中身を読んでみないとナントモではあるけれど、こーゆーリンチ研究に関する基礎資料的な本が出るのは喜ばしい限り。でも、日本で翻訳されたりはしないんだろうなあ、きっと。正直なところ、翻訳が出ている基礎資料がクリス・ロドリーのインタビュー本のみという日本の状況は、ちょっとサミシイ感じではある……と書いた本人が言っちゃなんだが、まあ、こういう地味な映画本って、そうそう売れないんですわね。

出版社はThe Scarecrow Press, Inc.で、公式サイトはこちら

2008年6月10日 (火)

「リンチの新作」といっても娘のほう(その2)

本日のじゃないものあるけど、Dugpa.comネタ。

以前にも紹介したジェニファー・リンチの新作映画「Surveillance」について、試写を観たDugpa.comの管理人さんによる評が掲載されている。管理人さんの結論からいうと、「観るべし!(GO F*CHING SEE IT!)」であるとのことだ。

他の評をみても、今回の作品に関してはおおむね好意的な批評が中心。派手な失敗作からかなり長いブランクを経て、文字どおりカム・バックを果たした監督にしては、最大限の賛辞が捧げられているといっていいんじゃないでしょーか。管理人さんも映像・音響・音楽の全面に関してベタ誉めに近い感じで、いやが応でも期待を掻き立てられる感じなんだが、さて、日本で公開されるんでしょーかね?

Lynch_jennifer

……とか言ってるうちに、ジェニファーの第三作目の話が進行しているという情報も入ってきた。今度はなんと「Split Image Pictures」というインド・ベースの製作会社との仕事で、「Variety」の記事によれば、すでに契約も終えたとのこと。いわゆるボリウッド(Bollywood)」での仕事ということになるわけっスね。タイトルは「Nagin」。どうやら人間の姿にもなれる蛇女の話で「インド神話」を元にしているらしい。なんかIMDbでみてみると、1976年に同タイトル同題材の「Nagin」という作品がインドで作られている様子。そのシノプシスから流用すると(笑)、「蛇が年齢を重ねると人間の姿をとれるようになる」という神話があるんだそうだ。うーむ、猫又の蛇版?(なんだ、そりゃ)

しかし、インドの映画資本がハリウッドとコラボし始めたというのは、興味深い。ハリウッドで映画を撮影した日本人監督は何人もいるけど、フィルムの使用量の差とか取扱いの違いとか、いろいろ驚くことがあったように聞いてたりする。おそらくハリウッドのスタッフを邦画の製作現場に連れてくると、逆にいろいろ驚くことがあるんだろうなと思うのだが、果たしてハリウッドとボリウッドにはどのよーな違いがあるのか、ないのか、どーなのか。

あ、それと、「Surveillance」のフランスでの公開が7月15日からに決まったそうであります。で、オトーサンのほーはどーなった?(笑)

2008年5月20日 (火)

リンチ+ホドロフスキー+ヘルツォーク

本日のDugpa.comネタ。

な、なんとデイヴィッド・リンチが、あのアレハンドロ・ホドロフスキーの新作「King Shot」(2009年完成予定)のエグゼグティヴ・プロデューサーに名前を連ねることになったそうな。うっわー、ホドロフスキーの新作! んでもって、リンチとカップリング! いやあ、まさかこのよーなことが起きるとは、夢にも思わなんだ。長生きはするもんですなあ。「The Rainbow Thief」から19年ぶりの新作ですか。驚いた。

とはいえ、まだ現在はプリ・プロダクションの段階で、公式サイトもただいま制作中なありさま。なにはともあれ、期待しちゃうぞ(笑)。IMDbをみると、出演者の名前には、マリリン・マンソンやらニック・ノルティやら、一癖も二癖もあるよーな連中の名前が並んでいる始末だもんなあ(笑)。あ、ホロドフスキーの息子のアダンの名前もあるや。まだ詳しい作品内容まではわからないのだけど、「Variety」の記事によれば「violent metaphysical spaghetti gangster pic」なんだそーだ。うむ、ホドロフスキーのことだから、きっとそうなんでしょう……って、やっぱなんだ、そりゃ(笑)。

もいっぱつ、これまたスゴいんだけど、「Hollywood Reporter」の記事では、リンチはヴェルナー・ヘルツォークの新作「My Son, My Son,」にもエグゼクティヴ・プロデューサーとして参加する様子。どわあ。

両作品とも、今年のカンヌでAbsurdaが配給権販売の窓口業務を行ったらしく、ってことはアメリカ国内の配給はAbsurdaになるのかな。うーん、「インランド・エンパイア」の配給元に困ってリンチがAbsurdaを作ったときは、リンチ、ダイジョーブかなあとか心配してたんだけど、まさかこういう具合に話が展開するとは思わなんだよ。確かに、Absurada立ち上げのときに、こうしたアート系の映画作品のアメリカでの配給状況について発言してたなあ、リンチ。そのころから、こういうこと考えてたのかなあ。もし、Absurdaが、今後もこうした系統の作品の配給業務を継続して行うようであれば、こりゃちょっと面白いことになりそうだ。

2008年5月 4日 (日)

「According to... David Lynch」を読む

チンタラ読み進めていたデイヴィッド・リンチ関連本「According to... David Lynch (a selection of his finest quotes)」をば、やっとこさで読了したので、とりあえずご紹介。

acordingDL
タイトルを読んでのごとく、この本は、リンチが1976年から2007年の間にあちこちで発言した言葉を集めた「発言集」である。リンチ自身の発言が約380、それにプラス周辺人物によるリンチに関する発言がおよそ70余り収録されており、テーマ別に12章に分けられているという具合。

当然ながら、TVや新聞やら雑誌やらの取材時に、リンチ自身が実際に発言したものをそのまま引っ張ってきているわけで、「なんかそんなコトを喋ってたなあ」というウロ覚えのリンチ発言を確実な形で確認できるのは、とってもありがたい。このあたりはいわく言い難い部分があるんだけど、「ンなこと、言ってたっけか?」というような、出所が怪しい孫引き曾孫引きの「リンチ発言の引用」がネット上に氾濫してしまっているのも確か。もし、リンチによる発言をナニガシか作品理解の参考資料として使うならば、まずは正確な発言を押さえておきたいわけで、そーゆー時にこの本は役に立つ感じ。

ただし、「資料本」としてこの本をみたとき、リファランス部分が弱いのがちょっと気になるところではある。まあ、こういう類の本は、本当に企画あるいは編者次第で、作りが読者のニーズに合致していれば「いい本」であるわけだけど、外れていれば評価が変わってくるもんだと思う。まったく同じ発言を材料に本を作るとしても、たとえば年代順に並べるのか、作品別に並べるのか、あるいはまったく全然違ったテーマに沿って並べるのか、索引部分をどう作るのか……といった作り方の方針によって、本の性格が変わってしまうからだ。この「According……」についていうなら、どちらかというと編者であるHelen Donlonさんは「読み物」として読まれることを想定していて、資料的に使われることはあまり意識していないという印象を受けた。

そのあたりは、各章の「テーマ」設定にも表れていて、割と編者の感覚的なものに拠っている感じ。たとえば一番最初の章が「Philadelpha」であるのは、そこがリンチの映画製作の出発点であるから理解できるとして、その後の章が「Surrealism and Visions of Lynchland」だったり「American Gothic」だったり、かと思えば「Angels, Demons and Dream Interpretation」なんてな章があったりで、正直なところ、あまり一貫性を感じない。もちろん、こうしたテーマそのものがリンチの発言内容をもとに設定されているのは理解できるし、それがダメってわけではない。だけど、何かに関するリンチの発言をこの本で調べたいと思ったとき、ちょいと捜すのに苦労するのは間違いないのだな。さすがに各章の中では、ある作品に関する発言は一箇所にまとめられてはいるものの、たとえば「インランド・エンパイア」に関する発言をまとめてピックアップしようとすると、ページをめくりまくって全部の章をチェックしなければならないわけで、時間がないときはちょっとイラつく。どっちにせよデータ・ベース的に使うのであれば、紙ベースよりも電子ベースのほうが利便性が高いのは当然なので、この本の電子版が出てくれれば解決する問題ではあるのだけども…… 出ないですかね?(笑)

というような本の構成上のことはともかく、収録されている「発言」自体は、非常に興味深いものが混じっている。たとえば「マルホランド・ドライブ」に登場するカウボーイに関連して、ハリウッドにおけるカウボーイ俳優たちの独特のスタンスというか立ち位置について、リンチは触れている(P96-97)。もちろん、カウボーイ俳優自体が現在のハリウッドではほぼ絶滅していて、あるいはリンチにとって彼らは、フェリーニにとっての道化師たちと同等の存在であるのかもしれないと思ったり。となれば、「マルホランド・ドライブ」に現れるカウボーイに関しても、また違った視点からの解釈ができるかもしれない。

ま、そんなこんなを差し引いても、リンチに関する基礎資料として、この本が有用であることは間違いない。とりあえず各ご家庭に一冊、確保しておくのもおヨロシイんじゃないかと。

P.S. あ、残念ながら、「チーズはミルクから作られる」という発言は収録されていませんでした(笑)。

2008年4月30日 (水)

「それぞれのシネマ」日本版DVD予約開始のことなど

昨年の7月25日付けのエントリーで触れた「Chacun son Cinema」のDVDだが、なんと日本版が発売されることになり、すでに日アマゾンでも予約受け付けが始まっているのを発見。うわ、マジっすか。そんなの、もう出ないと思ってたよ(笑)。

それぞれのシネマ

邦タイトルは「それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~」で、税込\4,935のところを現在26%オフの予約価格で\3,652也。発売は7月4日、ここんとこリンチづいてる角川エンタテインメントから。

概要および経緯をざくっと説明しておくと、昨年のカンヌ国際映画祭は60回目の開催だっつーことで、それを記念して33人(ありゃ、最初35人って言ってなかったっけか?)の映画監督に「映画館をテーマにして、好きなもん作ってチョ」と3分間の短編映画製作を依頼して、オープニングでそれを上映したんでありますな。で、製作を依頼された監督のなかにはリンチも入ってて、その作品もこのDVDには収められていと、ま、そーゆー次第でございます。あ、リンチの作品は、YouTubeにも上がってた「映画館で、でっかいハサミがあるやら、バレリーナが踊るやら」とゆーヤツね。にしても、「インランド・エンパイア」を作ったばかりのリンチには、「映画館」というテーマはドンピシャだったんではないかと思いました。実製作的にも、ひょっとしたらほとんど手持ちの素材だけで作れたんじゃないかなあ、ホントのとこは知らんけど(笑)。

なんかその後出た北米版DVDにはリンチ作品が収録されていないとかいうウワサを耳にしたんで、米アマゾンからのお取り寄せはパスしてました。が、日アマゾンの作品紹介を読む限りでは、日本版DVDにはちゃんとリンチの作品は収録されているみたいであります。これで収録されてなかったら、即刻返品ですとも、ええ返しますとも、断固として拒否ですとも(笑)。

ちなみに、参加した33人の映画監督のリストは以下のとおり。

テオ・アンゲロプロス/オリヴィエ・アサヤス/ビレ・アウグスト/ジェーン・カンピオン/ユーセフ・シャヒーン/チェン・カイコー/マイケル・チミノ/デヴィッド・クローネンバーグ/ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ/マノエル・デ・オリヴェイラ/レイモン・ドパルドン/アトム・エゴヤン/アモス・ギタイ/ホウ・シャオシェン/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ/アキ・カウリスマキ/アッバス・キアロスタミ/北野武/アンドレイ・コンチャロフスキー/クロード・ルルーシュ/ケン・ローチ/デヴィッド・リンチ/ナンニ・モレッティ/ロマン・ポランスキー/ラウル・ルイス/ウォルター・サレス/エリア・スレイマン/ツァイ・ミンリャン/ガス・ヴァン・サント/ラース・フォン・トリアー/ヴィム・ヴェンダース/ウォン・カーウァイ/チャン・イーモウ

……ぜいぜい(笑)。他の監督の作品で観たことがあるのは、これまたYouTubeにアップされていたクローネンバーグのだけ。カウリスマキやらキアロスタミやらアンゲロプロスやら(こりゃ、早口言葉だな)の作品も観てみたいんで、うーん、やっぱ、返品しないかも…… って、あら、気がついたら、いつの間にか日本版公式ホームページまでありやがりました(笑)。なんか5月17日から、「ユナイテッド・シネマ豊洲」で劇場上映までするみたいっス。

2008年4月24日 (木)

カンヌのポスターはダークでブロンド

本日じゃないけどDugpa.comネタ。

「第61回カンヌ国際映画祭」の公式ポスターが公開された。現物はこんな感じ。

cannnepos
デザインそのものはフランス人ポスター・アーチストのPierre Collier氏の手になるものなのだけど、「リンチの写真作品にインスパイアされた感じ」ってのがコンセプトであるらしい。リンチの功績を讃えてっつーことで、そーゆーことになった次第なんだそうだ。運営側は「リンチの映画作品と同じトーンを伝えている」と自画自賛気味のコメントをしたりしとりますが、うむ、確かに金髪で真っ暗けで「マルホランド」な感じですな。どうせなら「Distorted Nudesシリーズ」みたいに、女性の体がグニョーってなってたりウニューってなってたりしたら、もっとよかったんですけどね。あ、それじゃ、フランシス・ベーコン・トリビュートになっちゃいますか、そーですか(笑)。

いっそのこと、会場のデコレーションまで「リンチ風味」にしてくんないですかね? 海岸にビニール包装の死体を並べたりとか、スタッフが全員「白塗り」でビデオ・カメラ担いでたりとか。二度とカンヌで映画祭が開催できなくなるかもしんないけど(笑)。

2008年4月 6日 (日)

「David Lynch Decoded」を読む

というわけで以前にも紹介したリンチ関連本「David Lynch Decoded」を読了したわけでありますが。

decoded

以前も触れたけれど、著者のMark Allyn  Stewart氏には「Hand of God」 シリーズをはじめとするホラー小説の著作があり、小説家が本業の方である。しかし、この本の著者紹介をみると、 この方、ウェブスター大で映画学の学位をとっているらしい。そういう意味では、映画を観る作業に関しても、 一応の訓練を受けたことがある方だと考えていいのだろうと思う。

Stewart氏がいちばん最初に触れたリンチ作品は「ツイン・ピークス劇場版」で、高校生のときのことであったらしい。 Stewart氏はいたくこの作品を気に入り、以降、ビデオ屋でリンチ作品を漁ることになった。ということは、TV版の「ツイン・ピークス」は観てなかったのか? という疑問もわくのだが、そこらへんの事情は本書ではつまびらかではない。ピークス・ファンでもなかった氏が「劇場版」を観に行く契機になったのはいったいなんだったのか、ちょっと興味深いところだ。

本書の構成に関しては、これまた以前も紹介したとおりで、リンチの諸作品に現れる「共通したモチーフ」を作品ごとに追いかけて、最終章でそれを総括するという形をとっている。いわば、リンチ作品に現れる「モチーフ」を「辞書化」しようという試みであるわけだ。氏の弁に従えば、たとえばヒッチコック作品における「緑」が「病的なもの」を表すように、リンチ作品に頻出する「青」によって表されるものも何か共通項があるはずである。よって、その「青によって表されるもの」を具体的な現れ方から探っていこう……という趣向である。作家分析の手口としては、まあ、真っ当過ぎるほど真っ当であるといっていいだろう。

本書のなかで、実際にStewart氏がリンチ作品における「共通モチーフ」として指摘しているものを列挙すると、「青」「犬(鳴き声だけを含む)」「電気」「赤いカーテン」などがある。また、「ラジエーター・ガール」や「キラー・ボブ」や「小人」、「ミステリー・マン」や「カウボーイ」といった(著者の表現を借りれば)「異世界からのキャラクター」もまた、共通するモチーフの表れとして分類されているようだ。

分析対象として俎上に上がっているリンチ作品は、「イレイザーヘッド」から「インランド・エンパイア」までの劇場用作品10本と、 TV版「ツイン・ピークス」である。「イレイザーヘッド」以前の「アルファベット」や「グランドマザー」には触れられていないし、「ホテル・ルーム」や「オン・ジ・エアー」などのTV用作品もとりあげられていない。また、リンチによる絵画作品に関しても一切言及されていないし、リンチ自身の発言や著作からの引用もない。そこらへんを切り離して、主として「劇場用映画作品」として発表されたもののみから分析作業をしようというのは、ある意味、潔いといえば潔い……のだが、リンチに関するその他の情報を丸っぽ無視するのも、ちょいと乱暴すぎゃしないかという疑問もわく。

……というようなことを思いつつ読み進んだのだが、少なくとも「マルホランド・ドライブ」までの作品に関する限り、著者の作品把握はそれなりに的確であるように感じる。細かいとことで「そりゃ、どうよ?」と引っかかる点はあるものの、クリテイカルな読み違いはない……というか、的確過ぎて「新しい視点」に欠けるという点で詰まらんといえば詰まらんのだが(笑)、それは的外れな批判というものだろう。というのは、実際に読み終えて感じた限りでは、Stewart氏はこの本をあくまで「リンチ入門書」として書いているからだ。この本に冒険的な論証や多角的な検討を期待するのは、そもそも間違いなんである。

だが、この「入門書」という位置付けを前提としても、やはりいろいろと食い足りない部分があるのも確かだ。そのひとつの表れがStewart氏が本書の中で選択している「用語」で、たとえば「ドッペルゲンガー」というような用語を、何の批判も注釈もなく「無造作」に使ってしまうのはいかがなものか。そうした「既成用語」を「ツイン・ピークス」のクーパー捜査官や「ロスト・ハイウェイ」のフレッドの説明に使ってしまうのは、どうも「理解しやすさ」と引き換えに「議論の発展性」を犠牲にしているような気がしてならない。そして案の定、Stewart氏の議論はそこで止まってしまう。リンチ作品の中で発生している「現象面」を延々と追いかけるばかりで、いい言い方をすれば非常にプラグマテイックなのだが、悪くいうとそれこそ「リーダーズ・ダイジェスト」的で表層的なんである。リンチの表現の「本質論」……たとえば、その根底にある「表現主義」への言及などに議論がつながっていかないのは、逆に「リンチ入門書」としてみた場合どんなものなのだろうか。

リンチ作品を言語化することの困難さのひとつに、その半具象的な表現をどう捉えるのか、すなわちどこまで具象的なもの(あるいは抽象的なもの)として捉えるのかという点があるのは、まあ、確かだ。このあたりの「揺らぎ」は本当に人それぞれで、リンチ作品を論じる際に各人がなかなか「共通認識」を持てないでいるのは、そこらへんに起因する部分がデカいんではあるまいかと思っている。そして、そうした「揺らぎ」は、とどのつまり、リンチ作品を言語化する際に選択される「用語」の「揺らぎ」に直結してしまう。そうした「用語の揺らぎ」は、どうにも「気持ちが悪い」。どのくらい「気持ち悪い」かというと、他人のパンツを借りてはいてみたぐらい「気持ち悪い」(笑)。

というような個人的な感想はどうでもいいとしても、このあたりの「用語選択」の具体的な問題として、 Stewart氏がリンチの諸作品から摘出した「共通モチーフが表すもの」を「言語との一対一の関係」でしか記述できていないことが挙げられる。たとえば「青のモチーフが表すもの」を単純に「秘密」という言語に置き換えることに、 Stewart氏はまったく抵抗感を抱いてない様子なのだ。わかりやすいといえば確かにわかりやすいし、「入門本」という本書の性格に合致しているといえば合致しているかもしれない。だが、当然ながら、リンチの映像が提示する「抽象的で複合的なイメージ」はこのような「言語との一対一の関係」では表せないので、どこかで概念的に「はみ出す部分」や「不足な部分」が発生してしまう。そうした「部分」を切り捨てて「総論化」することには、(ラカン派論者でなくとも)「過度の単純化(Oversimplified)」という批判を向けざるを得ないだろう。

なによりも、リンチ作品がそのような「言語との一対一の関係からはみ出した部分」を糊代にイメージを結節させていることを考えると、結果としてそれは全体的な作品構造に対する分析の不足につながっていかざるを得ない。それを証明するかのように、「インランド・エンパイア」に関する作品分析に入った途端、Stewart氏の筆は急に躊躇をみせ、明瞭さを欠いてしまう。他の作品には存在した全体構造に対する言及が欠落し、疑問形の文章が増える。作品解釈というよりは、Stewart氏のいう「共通モチーフ」の「辞書」を基に、作品解釈に至る道筋を模索している様子を読まされているかのような印象さえ受ける。そして、残念ながら、 Stewart氏の作業はうまく行っているとはいえない。「インランド・エンパイア」に対して、少なくともその全体構造の把握に対して、 Stewart氏の「リンチ辞書」は機能しないのだ。

Stewart氏のリンチ論の限界がどのあたりにあるか、このへんで明確に見えてきてしまう。「ドッペルゲンガー」や「秘密」や「異世界」といった「紋切型の用語」を安易に使ってしまうことに表れているように、氏には、「抽象的な映像」を「具象的な言葉」に変換することの困難性に対する認識が欠けているのだ。それは厳しい言い方をすれば、「抽象的なものを抽象的なものとして把握し論じる能力」の欠落を露呈していることと同義である。たとえば「デヴォンとニッキーのベッド・シーン」が青色の照明に包まれて行なわれるのは、それが不倫行為であり、「秘密」であるからだ……とStewart氏は論じる。だが、それが作品の全体構造とどう関係しているのか、 Stewart氏の「インランド・エンパイア」分析は明瞭にできないままに終わってしまう。要は氏の「インランド・エンパイア」分析は「あらすじ」の範疇を出ていないわけだが、非ナラティヴな作品の「あらすじ」など、何の役にも立たないのは自明のことである。

同じことは、著者が用いる「異世界からのキャラクターたち」という「用語」に対しても指摘できる。「ラジエーター・ガール」や「ミステリーマン」といったリンチ作品に登場するキャラクターたちが、ときとして「複合的かつ抽象的な概念」を表しているのは「青のモチーフ」などと同様である。これらのキャラクター自体を一括して「異世界から来た者」と言い表すことは、やはりこれまた「過度の単純化」と言わざるを得ない。なによりも、Stewart氏はこれらの「異世界」が結局何であるのか、まったく明瞭にできないままで終わる。巻頭言にStewart氏自身が「(リンチ作品は)奇妙なものを作りたいがために奇妙に作られている(weird for weirdness' sake)わけではなく、なんらかの意図がある」と述べているにもかかわらず、結局Stewart氏にとって(あるいはこの本の読者にとっても)「異世界」は「異世界」のままなのである。それはリンチ作品を「weird for weirdness' sake」と評することと、いったいどこがどう違うのだろう? もし、これらのキャラクターに共通項を求めるなら、むしろ重視しなければならないのは「抽象概念のキャラクター化」という手法そのものあり、ひいてはその根底にある「表現主義的な手法」によって表されているもののはずなのだが、Stewart氏はそこまでは議論を発展させない(もしくは、できない)。

いろいろ総合すると、「リンチ入門書」としても、あまりこの本をお勧めできないというのが正直なところだ。キツい言い方をするなら、この程度の議論はネット上でもすでに氾濫している。残念ながら、わざわざ金を払って読むほどの内容ではない、というのが偽らざる感想である。

2008年3月18日 (火)

リンチの新作映画(でも、娘のほう)のハナシ

またもやDugpa.comネタ。

かねてから、リンチの娘であるジェニファー・チェンバース・リンチが「ボクシング・ヘレナ」(1993) に続く長編映画第二作目を製作中であるという話は耳にしていて、うむ、オトーサン以上に寡作であるなあ(笑)と感心したりしなかったりしていたのであった。リンチがエグゼクティヴ・プロデューサーとして参加してるらしいことはIMDbなどでも掲載されており、昨年の夏にカナダのサスカチュワン州レジャイナでの撮影は終了したという情報が出たっきりで、その後どーなったのかなーと思ってたら、いつの間にか完成していた様子。

タイトルは「Surveillance」で、ストレートに受け取るなら「監視」あるいは「見張り」ぐらいの意味ですかしらん。ネット各所に上がっている関連記事を読む限りでは、近未来を舞台にしたSFで、連続殺人犯を追いかけるFBIの捜査官(Julia Ormond)が三人の目撃者の話を聞くが、彼らの話すことが全然食い違っていて……というよーな話であるらしい(もちっとネタバレ気味の記事もあったけど、それはパスね)。IMDbの掲示板では、すでに「こりゃ、つまり、『羅生門』なんかいね?」という声も出てたりするが、まあ、このへんはどのような結末がついているのか(あるいは、ついていないのか)、実際に作品を観てみないとナントモかなあ、と。

あと、目に付いた情報といえば「ロスト・ハイウェイ」でフレッド役だったビル・プルマンが出演していることで、ここらへんはやっぱりオトーサンつながりですか? 一部では「リンチ父がシナリオを書いた」かのように読める情報も流れているみたいだが、クレジットを見る限りではシナリオは「リンチ娘」とケント・ハーパーの共同執筆になっているので、要注意(って、ナニをだ)。

で、コチラが撮影中のジェニファーとビル・プルマン(なんか、すげえ丸くなってないか?)

Surveillance
今のところ、上映されたのは、去る2月のベルリン国際映画祭期間中に併催された「ヨーロピアン・フィルム・マーケット(European Film Market)」においてのみっぽい感じ。Dugpa.comの記事によれば「評判は悪くない」らしいが、その元記事等は、大山崎は未確認状態。同じく、IMDbではドイツでの公開が7月17日からで決定しており、米国でも今年中に公開されるみたいなのだが(Dugpa.comの記事では8月公開)、現状、どのくらいの規模でどこで、といったような具体的な話は見つけられず。で、もちろん日本での公開情報は一切不明なんだけど、さて、どーなりますかね。

……つなわけで、しみじみと「ボクシング・ヘレナ」を観返してみようかなと思ったりしている今日この頃なのでありました。

3/23追記: ドイツ版のトレイラーがYouTubeにアップされました。

2008年3月10日 (月)

リンチ本新刊(でもない)2冊詰め合わせのハナシ

またしてもDugpa.comネタ。

デイヴィッド・リンチ関係の書籍2冊の紹介。

一冊目は、その名もすげえ「デイヴィッド・リンチ解読(David Lynch Decoded)」 という昨年末に刊行された本。著者のMark Allyn Stewart氏は、著書としてホラー関係の小説が何冊かある人みたいなんだけど、いずれも読んだことがなく邦訳もされていない様子で、よくわからず。米アマゾンの紹介を読む限りでは、「赤いカーテンやら、ストロボ・ライトやら、踊る小人やらは、いったいどーゆー意味よ?」つなことで、リンチ作品に登場する「シンボル」が何を表しているかを解説している本らしい。

decoded

現在、日アマゾンでも入手可能で、「なか見!検索」で内容が少し読めるようになっている。目次をみる限りでは「イレイザーヘッド」から始まって「インランド・エンパイア」まで、作品ごとにリンチが提示する「シンボル」を追いかけた後、最終的にそれらを統括しつつ結びつける形で論じるという構成である様子。

そーゆー壮大な内容の本にしては、あの本文組で160ページっつのはちょっと短かすぎゃしないデスか? という疑問もわくのだが、案の定、ラカン派方面から「単純化しすぎてる(Oversimplified)」というツッコミを米アマゾンの読者評で頂いてたりなんかして(笑)。長くて複雑だったらいいってもんでないのも確かだが、リンチ作品の言語化っつーのが一筋縄ではいかないのもまた確かなんで、さて。

著者の公式サイトもコチラにあり。

もう一冊は、「デイヴィッド・リンチによれば(According to... David Lynch)」 というリンチの発言集。カバー写真がコレです、コレ(笑)。

accordingtolynch
昨年の10月末に刊行済の本みたいなのだけど、まだ米アマゾンにも内容紹介や読者評がなく、ちょいと内容がよくわからない。なんつか表現が難しいのだが、ご存知のとおりリンチ自身が決してボキャブラリーが豊富な人ではないだけに、あんまり断片的な発言ばかり集められてもよくわからんかもしれんと思ったりする(笑)。最低「いつ、どこで、何に関して」の発言であったのかぐらいは併記しといて欲しいんだけど、はたして現物はどーなっておるでしょーか?

著者(編者?)のHelen Donlonさんは、「リーダーズ・ダイジェスト」から出ている「小説のダイジェスト本」なんかのお仕事をされていた方みたいなんだけど、それ以上のことはこれまたよくわかりません(こればっかだな)。カバー写真からして、きっと「チーズはミルクから作られる」という発言も収められているほうに、5,000ブルー・ボックス(笑)。

とりあえず、二冊ともアマゾンでポチっておいたんで、詳しい内容紹介などは、またそのうちということで。

あ、「リンチ1」の北米版DVDは今年の8月に出るそうです。なんか特典がついていたら、それも買うのか?>自分(笑)

ほんでもって、オマケ。おそらくドイツのリンチ・ファンによる、手元に届いた「インランド・エンパイア」日本版DVD (インスタレーション版)を開封しつつ内容物を紹介する映像。まだ買ってない日本の皆様にもお役に立つかもなので紹介しとく。いきなり包装のビニールをハサミでじょきじょきやったうえに手でひっちゃぶいてらっさいますが、あれって上のほうが開かなかったっけか?(笑)

2008年3月 6日 (木)

「インランド・エンパイア」日本版DVD関連ネタ(米国編)

本日のdugpa.comネタ。

さて、「インランド・エンパイア」国内版DVD「インスタレーション」ヴァージョンの仕様は、やはりアチラのリンチ・ファンにとっても驚きであったようで、日アマゾンあるいはHMV Japan経由でさっそく手に入れた猛者たちの報告があいついでいる。まあ、この、あんまり他人様のことは言えないが、業が深いことよのう(笑)。アメリカからDVDを取り寄せる場合、どうやら日アマゾンよりもHMV Japanの方が送料が安いらしい。よし、覚えとこ(笑)。

なかには、どこで買ったのかしらないけど、「18,000 JPY」という価格表示を「18円」だと勘違いしたまま注文してしまったノルウェイの高校生なんかもいたりして、掲示板で「その千倍だ」と教えてもらって「んなの、わっかるワケねーだろーがああぁっっ!」と青くなりつつキレる騒ぎも勃発。本人、動揺して手が震えたらしく、ミスタイプ連発。ああ、こういう失敗を重ねて人は成長していくのだよなあ(ホントか?)、これぞ「カルチャー・ショック」というものだなあ(もっとホントか?)などと感嘆にふけることしきり。でも、てっきりキャンセルするのかと思っていたら、「やっぱ、届くのを待ちます」と言い切ったクリスチャン君(19)、キミはまだ若いのになかなか見どころがある(笑)。Way to go, Chrisitian1989! 請求が来てからパパに怒られて、「向こう一年間お小遣い支給ストップ」なんてなことになっても知らないけど(笑)。

「リンチ1」が本国に先駆けてソフト化されたのもさることながら、やはり「スクリプト」がついていることが向こうのリンチ・マニアにとって垂涎の的である様子。「『リンチ1』のDVDはそのうち自国でも出るかもしんないが、スクリプトはきぃっっっと出ねえっ!」っつーことで、思わずポチってしまった向きもいるよーなんだが、なーんか心理としてよく理解できてしまうところがナンだなあ(笑)。単独で書籍として出版してもそれなりに売れるんでないかなあ、たとえば「9,000 JPY」ぐらいで(笑)。

……というよーなリンチ・マニアならではの悲喜劇が拝める、アチラの掲示板はこちら

2008年3月 3日 (月)

リンチの新CD「Polish Night Music」発売のおオハナシ

本日じゃないけど、dugpa.comネタ。

「Polish Night Music」と題するデイヴィッド・リンチの新しいCDが3月25日に発売されるそーな。 dugpa.comにはかなり以前から紹介記事が掲載されていて、その後iTuneショップでのオンライン発売だの公式サイトでの発売だのという話があったのだけれど、やっとCDでの一般発売が決まった様子であります。あ、発売はやっぱりリンチの会社であるABSURDAからね。

polishnightmusic

収録されているのは2004年から2006年にかけてリンチの自宅スタジオで収録された4曲で、トータルの収録時間は77分。収録曲名は以下のとおりであります。

01 - Night - city back street 13:29
02 - Night - a landscape with factory 17:41
03 - Night - interiors 26:46
04 - Night - a woman on a dark street corner 18:51

Marek Zebrowskiとのセッションが含まれているらしいのだけど、どの曲だかはちょっとわからず。昨年開催されたパリでの作品展「The Air Is on Fire」でのオープニングでは、リンチがKORGのキーボード弾いて自作曲を披露していたんだが、その楽曲も収録されているのかしらん? ちょっとわかりません。わかったら、また報告することにします。

すでに米アマゾンはもちろん、日アマゾンでも予約可能になっております。日アマゾンでは税込¥1,926也ね。米アマゾンではなぜかジャンルが「サウンド・トラック」になっているのだけど、こりゃ、どーゆーこっちゃ。映画監督がCD出したら、全部「サウンド・トラック」なんスかね? とりあえず日アマゾンでポチっといたんで、届いたらまたレヴューなんか。

2008年2月22日 (金)

「リンチ1 LYNCH (one)」を観た

というわけで、「リンチ1 LYNCH (one))」をば観終わったです。

うーん、もちっと「インランド・エンパイア」の撮影風景の映像があるかと思ってたんですけどね。ちょっと違ったな。どちらかというと作品のメイキングというよりは、映像作家としてのデイヴィッド・リンチに迫る……というような内容でございました。

とはいえ、個人的にいちばん印象に残ったのは、「インランド・エンパイア」製作の合間にリンチがみせる、苦悩し悶絶する姿だったりするのな。自身は「楽しくなきゃダメ。苦しんだら作品にその苦しみが出てしまう」とか言ってるんですけどね。言うは易く、ってことなんでしょか(笑)。決められた時間に姿を見せなかったスタッフと電話でやりとりしたあと、ドキュメンタリーの撮影スタッフが心配になって声をかけるほど長い間、がっくりとうなだれたままでいるリンチの姿は、非常に生々しくて「衝撃的」といってもいいぐらいでありました。どれぐらい重要な作業が予定されていたのかはわからないけど、来なかったスタッフとの電話でのやりとりを聞いてると、本当にリンチが途方に暮れていることがヒシヒシとわかる。本当にうまくまとまるのかどうか不安にかられ、「どんな作品になるのやら」とか「お手上げだ」とか弱音をはくところなんか、五里霧中な感じがリアルに伝わってきてヴィヴィッドにアウフヘーベンな感じ(いや、よくわからんが)。こんな寄る辺ない子供のようなリンチの姿はちょっと今まで目にした記憶がなく、そういう意味では貴重な映像なのかも。「インランド・エンパイア」の特殊な製作過程が、リンチ自身にもかなりのプレッシャーになっていたことが随所に表れていると思いましたよ。何度も何度も、繰り返し「実験」と発言してますしな、リンチ。

また、「ポーランド・サイド」の「夜のストリート」の撮影シーンで、「ロスト・ガール」役のカロリーナ・グルシュカと「ファントム」役のクシシュトフ・マイフシャクに演技をつけている映像収録されているのだけど、二人に対するリンチの演技指導のアレコレは、ある意味で「インランド・エンパイア」に関する理解の手助けになるものじゃないでしょか。(あくまで)「ポーランド・サイド」において「ファントム」は「実在するもの(solid)」であり、その一方で「ロスト・ガール」にとっては「ポーランド・サイド」で起きる事象はすべて「夢の中の出来事のよう」であるっつーことですね。「セリフにはすべて意味があり、単なる会話ではない」と明言してらっさいますね。言い切っちゃいましたね、御大てば。もひとつ、おそらくローラ・ダーンが「ロコモーション・ガール」に誘われて「ポーランド・サイド」の「ストリート」に立つシーンでは、キー・ワードのひとつともいえる「ここはどこ?(Where am I?)」という言葉がリンチとダーンの間で交わされておりました。あのシーンでは実際には「台詞」としてこの言葉は表れてないのだけど、ローラ・ダーンの演技そのものがそれを「語っている」わけですね。なるほどね。

「インランド・エンパイア」の撮影現場で、リンチから「ジェイ」と呼ばれているスタッフは、おそらくアソシェイト・プロデューサーのJey Aasengさんでありましょーか。「アルフレッド」と呼ばれているのはコストラクション・コーディネーターのAlfredo Ponceさんでございますね。「ピーター」っていうのはPeter Demingさんですか? もう一人、「Tidbit」と呼ばれていた女性の方がよくわかりません。記録係かなんかの方なんでしょか。床に波模様のシールを貼る作業にリンチ御大自ら出張ってましたが、キャスト表をみてみるとキッチリ「大道具係」のところに御大の名前があるのには笑わせていただきました……笑いつつよくみると、御大だけじゃなくて先程のジェイさんとか、オースチン・リンチ(長男)とかライリー・リンチ(次男)の名前まで「大道具係」のリストにあるでないの。家内制手工業ですがな(笑)。そういや、お姉ちゃんのジェニファーはどーした(笑)。「Surveillance」の撮影で忙しかったのかや?

あと、興味深かったのは「カーニバル」や「サーカス」についての言及でしょーか。日本語字幕ではかなり端折られてたけど、「カーニバル」や「サーカス」が備える「魔法と謎(magic and mystery)」についての発言があったりして、おそらくこの「魔法」は「映画の魔法」と重なるものなんではないかと愚考したり。大山崎としては、どうしてもフェリーニからの影響を思ってしまったりなんかするんですが、どんなもんでしょね。リンチが「ベスト」といっていた「ジンガロ(Zingaro)」は、正確にいうと「サーカス」というよりは馬を使った芸を見せる、文字通りの「騎馬劇団」っつーか「騎馬オペラ」っつーか「曲馬団」なのね。なるほど、そんで「ピオトルケと馬」なのだなあ。「ジンガロ」は過去に日本講演もあったみたいで、日本語の公式ページもまだ残っておりました。紹介映像もあるみたいなんで、興味がある人はぜひ、どーぞ。それと、「インランド・エンパイア」の「サーカス・シーン」の映像として使われているのは、CYRK ZALEWEKIさんとこの「サーカス団」であるようなのだけど、なんとこのサーカス団の映像がYouTubeにありやがりましたよ、ブレブレの揺れ揺れでちょっとみにくいけど。他にも何本かあるみたいで、白い馬が出てくる映像もそれっぽいんだけど、「インランド・エンパイア」に出てたのと「同一馬」なんですかねえ(笑)。

つな感じでございましょーか。なんか思いついたら、また。

2008年1月11日 (金)

リンチ、iPhoneを斬る!

本日じゃないけどdugpa.comネタ。

よくわからんのだが、「iPhone」を「Fu*kin' Telephone」とくさすデイヴィッド・リンチの映像がYouTubeに上げられている……というネタが突然dugpa.comに掲載されている。「よくわからん」というのは、この映像は「インランド・エンパイア」の北米版DVDに映像特典として収録されている、「TRUE EXPERIENCE」と題されたリンチのトークの一部だから。なので、DVD買った人間は(全員じゃないにせよ)とっくの昔に観てるはずで、なぜ今頃になって話題になってるのか、理由が不明なんであります。直近にiPhone関連でなんかあったっけかなあ?

ここでリンチが語ってることの内容自体は、自著の「Catching The Big Fish」に収められている「Future of Cinema」と題する文章で書いていたのと同じようなことだったり。要するに、iPodやiPhoneの小さな画面で映画を観たんじゃ、本当の「別世界の体験」は出来ませんぜ、旦那……というようなことですね。「『映画=世界』であり、それを観ることは『別な世界』を体験することである」ってなことを、映画作品に仕立てて宣言しているのが「インランド・エンパイア」であるわけで、まあ、リンチの姿勢としては一貫しているわけでありますが。

あ、DVDに収録されている映像には、YouTube版の最後に出る「iPhone」のロゴはもちろん収録されてませんので、念のため(笑)。YouTubeに上げたヒトが面白がって付け加えたみたいなんだけど、いいのかなあ、それ(笑)

1/17追記:どうやら、「iTunes Movie Rental」と「iTunes Digital Copy」がらみで話題になったみたいだ。

2007年12月19日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」北米版DVDの続報ね

「ロスト・ハイウェイ」北米版リマスターDVDの続報(アーンド、字幕のお話)。

米アマゾンですでに予約受付が開始されておりマス。定価$19.98で、今ンとこの予約価格は30%引きの$13.99。「どうなんだよ!」の発売日は3月25日が正しいみたい。

あと気になってるのはPALマスターの早回しじゃねーだろーなってことぐらいなのだが、これまた現在のところのランタイムは135分になっているので問題ないハズ。まあ、この時期の米アマゾンの情報は割といーかげんだったりするので(笑)、これに関しては追加情報を待ったほうがいいかもしれんス。

さて、このリマスター版「ロスト・ハイウェイ」の国内DVDが出るのかどうか。結局、リマスター版の「砂の惑星」が国内ではDVD未発売なままな現状からして、これまた予断を許さない感じではある。世の経済原理というものから推し量るに、ひょっとしたら「ツイン・ピークス」やら「インランド・エンパイア」やらのDVDの売れ行き次第なのかもしれんなあ。ところで、結局、「リンチ・イヤー」って盛り上がったンすかね? よくわかりません。

……てな状況のところにマコトに厚かましいお願いかとは思いますが、「ロスト・ハイウェイ」の国内版DVDが出るのなら、できれば字幕翻訳を一部見直してもらえないかなーとか思う次第なんでありますけども、いかがなもんでございますでしょーか。

もちろん、ナニガシか翻訳作業にも関わった経験がある人間として、異なった言語同士を一対一で置換できない以上、翻訳というものがすべからく翻訳者の「解釈」に基づいた「意訳」にならざるを得ないのは、重々承知。かつ、これまた当然ながら、原意に含まれているものを取りこぼさざるを得ない局面がままあるのも、残念ながら仕方がない。でも、同時に、リンチ作品のような抽象的な映画の翻訳字幕に関しては、もちっと気をつかってもいいんじゃないかと感じることがあるのも、また確か。

具体例でいうと、「ロスト・ハイウェイ」におけるミスター・エディの「You and me, mister... We can really outugly them sumbitces...Can't we?」という台詞。現行の国内DVDでの字幕は「お前と俺なら--もっとすごいポルノを撮れたな。そうだろ?」(2:05:34)となっているんだけど、ちょっとこの訳文は飛躍しすぎているような気がする。そもそも原文には影も形もない「ポルノ」などという語句をもってくることにまず疑義がある。と同時に、おそらく直前の映像に引っ張られたとおぼしき翻訳者のこの「解釈」の正当性自体が、どうにもアヤシイのではないかと。百歩譲ってこれをひとつの「解釈」に基づいた「意訳」として認めるとしても、ここまで「ロスト・ハイウェイ」という作品に対する解釈の幅を狭めてしまっていいのかどうか、正直いって疑問だったりするのだな。

思うに、もともと漠然とした「台詞」であるのだから、もっと漠然とした「訳文」が当てはめられるのが妥当なんじゃなかろーか。この部分、「ロスト・ハイウェイ」のシナリオ本の翻訳では「お前も俺も。なあ。俺たちはほんとにろくでもねえ野郎なんだよな?」(P.238)という具合になっていて、「漠然とした具合」からすれば、こちらのほうがずっと優れているんではないでしょーかしらん。

ちょいと真剣モードでいうなら、「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕の例を引くまでもなく、こうした誤訳・悪訳の最大の被害者は翻訳に頼らざるを得ない「一般的な受容者」であるのは間違いない。もちろん、字幕翻訳の場合、字数や作業時間を含めたさまざまな事情があるのは理解できるにしても、それはあくまで「翻訳者側」あるいは「売り手側」の論理でしかないことを「翻訳者側」あるいは「売り手側」の人間はキチンと認識しておかないとマズイと思う。ましてや、(ままあることとはいえ)翻訳者の不見識や調査不足がゆえの誤訳など、本来起きてはならないことであるハズ。最近は字幕翻訳に監修者をつけるケースも増えているようで、こうした問題点を「売り手側」も認識していることがうかがえる。この傾向は双方にとってオヨロしいことなんではないでしょうか……と思う反面、たとえばリンチ作品の字幕の問題点って、そーゆー方法論では解決できんであろうことが悩ましい(笑)。

いずれにせよ、理由はともあれ、「翻訳」によって受容者の解釈が歪められたり幅が狭められたりする事態が起きているのならば、それは作品にとってヒジョーに不幸なことなんではないだろーか……ってなことを自戒をこめて呟く、今日この頃なのであった。

こそっと言っちゃうと、試写で観た限りでは「インランド・エンパイア」の字幕にも「ん?」と思う箇所があったりしたのよ。DVDで直ってたらいーな……と願う大山崎の思いは、はたしてお星様に届くのでせうか(笑)。

2007年12月12日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」のリマスターDVD(北米版)が出るそーな

本日のdugpa.comネタ。

レタボなうえに片面1層で画質がおヨロシクないと評判悪かった「ロスト・ハイウェイ」のDVDだが、やっとリマスターされた北米版が出るらしい。現在のところの予価は$19.98で、発売元はユニバーサル・ホーム・ビデオ。発売予定が2008年の3月5日説3月25日説の二つあって、どっちやねン、はっきりせんか、コラ(笑)。

losthighwayrdvd

映像特典としてリンチのインタヴューが収録されるようで、モノとしては、おそらく以前発売された仏版と同じもののハズ。

そういえば、リマスター仏版が出たあと、なかなかその北米版DVDが発売されなかったのは、ミステリー・マン役のロバート・ブレイクが妻殺しの嫌疑での裁判中だからだ……という話があった。いやもう、作中のフレッドそのまんまの状況だったわけで、なんともはやな感じだったのだが、その裁判の模様を追っかけたこのようなページもあったりなんかして、 これもまたなんともはやであった。

結局、刑事裁判では2005年3月に無罪判決が下りた。が、一方で4人の子供たちから損害賠償を求められていた民事裁判では、同年11月に支払いを命じる判決が出た。これまたO・J・シンプソン事件と同じような結果になったわけで、ニュースを読みながらなんともフクザツな思いを抱いた記憶がある。3,000万ドルの支払いを命じられたブレイクは翌年に破産してしまい、小さなアパートに住みつつどこかの牧場で働いているらいしい……というのが、自分が耳にしたブレイクの最後の消息になる。本人は俳優としての復帰を望んでいるらしいけど、現実問題としてはたしてどうなのか……あ、もしかしたら、ジョン・ウォーターズが出演依頼するかもしれんなあ。

その後、映画「カポーティ」つながりでブレイクの出世作である「冷血」のDVDが再発されたりしたので、もうそろそろ「ロスト・ハイウェイ」の方も大丈夫なんじゃないの? ……とは思っていた。まあ、日本版が出るかどうかは現在のところまったく不明だし、とりあえずは行っとくでしょう、北米版に(笑)。

というわけで、続報を待て!

3/19追記:っつーわけで、本日、米アマゾンから発送通知が来ました。届きましたら、また。

2007年11月25日 (日)

「Snowmen」を読む

写真集なんで「読む」っつーのはちょっと違うかもしんないけど、まあ、いいや(笑)。

snowmen

この「雪だるま」ばっかを撮ったデイヴィッド・リンチの写真集、作品集である「The Air Is on Fire」と同じぐらいの時期に出版されていたハズで、すでに米アマゾンでは注文不可なんだけど、なぜか日アマゾンでは11月30日発売の予約可になっていた。20日に注文したら、22日に届いた。どーゆーことだ(笑)。奥付の刊行年月日が今年の2月になっているので、まだ在庫が残ってたってことなんですかね? でもって、クリスマス・シーズン狙って重版がかかるんでしょーか?  そこらへんの事情は、よくわかりません。

掲載されている「雪だるま」の写真は、クリス・ロドリーによるインタビュー集「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ(Lynch on Lynch)」でリンチ自身の言葉として触れられているように(P.286)、また「Snowmen」の扉にリンチの自筆文字で書き殴られているように(笑)、1990年代頭(インタビューでは1993年となっている)にアイダホ州のボイシ(Boise, Idaho)で撮影されたものだ。

さて、収められている8葉の「雪だるまズ」写真を眺めていると、あることに気づく。かならず背景として、その雪だるまを作った人々が住む「家」が映っていることだ。つまり、構図としては、リンチの一連のドローイング---- 「彼女は家の外で泣いていた(She Was Crying Just Outside The House)」(1990)や「家になった僕(Here I Am-- Me As a House)」(1990)そして「ママは家にいて、本当に気が狂っている(Mom's House and She's Realy Mad)」 (1990)----などとまったく同一なのだな。いや、ドローイングのほうはパース無視の抽象画という違いがあるけれど、背景に「家」があって手前に「人様」のものが居るという構成要素は同じ。

となると、この「雪だるまズ」の写真は、リンチが何度となく展開する「何かよくないことが起きる場所としての家」というモチーフ、あるいは毎度おなじみの「機能しない家族」というモチーフのリフレインであるとも受け取れるわけだ。したらば、間違ってもこの本をクリスマスの贈り物になんかしちゃイカンのではないか、少なくともリンチ・ファンにプレゼントしたら真意を疑われかねないんではないかと思ったりもするのだが、いかがなもんでしょーか。あ、この時期のドローイングには「ボイシ、アイダホ」(1989)なんてのもあるぞ。例によって「真っ黒け」だ(笑)。こりゃ、ガチなんでないかい?

もうひとつ。この「雪だるまズ」が、リンチがこれまた繰り返しチャレンジする「時間経過とともに変化する絵画」の一形態であると捉えることも可能なように思う。それほどまでに、いつしか溶け出してあるものは傾き、あるものは目鼻もわからなくなった「雪だるまズ」の様態はさまざまで、一度そういう目で見始めるとフランシス・ベーコン風の「歪んだ肉体」を備えているようにしか見えなくなるのが、あら不思議(笑)。あ、いま気がついたが、後ろのページにいくほど「溶解度」は増してるなあ。狙ってるでしょ、リンチ(笑)。

というわけで、一見のどかな田舎町の庭先で「雪だるまズ」によって展開される「漠たる不安と恐怖」、一家に一冊、ぜひ取り揃えられてはいかがでしょー(棒読み)。

2007年10月 5日 (金)

「LYNCH (one)」製作スタッフからのお願いなのだ

本日のdugpa.comネタ。

既報のデイヴィッド・リンチに関するドキュメンタリー映画「LYNCH (one)」製作スタッフからのメッセージ。なるべく多くの人に、ということなので全文転載させていただいておく。

"hi everyone........... we are getting ready to launch the film in the states and are asking for all of your help in getting the word out. we are a very grass roots operation and are proud of it, but we also understand the downside of this type of promotion------- basically we wont be able to inform everyone we want to unless we can find a way to reach them........... this is where you guys come in. we will send out bulletins but ask that you forward those bulletins to other myspacers or copy those bulletins and forward them in emails to anyone that you think might want to see this film. we apologize in advance if you receive repeat bulletins but as we all know, if you dont see a bulletin the minute it is posted it can get buried in the stack, never to be seen again.

i guess that is it........ well, there is 1 more thing....... as we go along in this process we are trying to get the film into as many theaters as possible but sometimes theater owners are hesitant. if you would like to see this film please HARRASS your local art house theater and tell them to contact ABSURDA---------- and we will do everything in our power to get the film to you.

THANK YOU ALL VERY MUCH!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

the LYNCH team"

lynchone

要約しておくと、「近所のアート系の映画館に、この作品を上映して欲しいという働きかけをしてちょうだいね。連絡はABSURDAにお願いね」という主旨であったりする。

うーん、日本でも上映できる機会ができたらいいのだけれど、上映スタッフを集めて場所借りてフィルム送ってもらって……となると、個人で仕掛けるのはかなりハードルが高そうではあるが、どんなもんでしょう。

2007年9月28日 (金)

「The Air is on Fire」@イタリア&リンチの新作CMでどうよ

引き続き本日のDugpa.comネタ。

リンチの作品展「The Air is on Fire」が、今度はイタリアのミラノで開催されるらしい。パリでやったのと規模とか内容とか違うのかどうか、案内サイトの内容ではよくわからず。やっぱりカルティエ財団がからんではいるらしい。

期間は10月9日から来年1月13日まで。月曜休館……って、行く気か、自分(笑)。その時期にイタリアにいらっさる方は、ぜひどーぞ。

ポスターはこちら。

Air_is_on_fire_Italy

このままテンテンと開催地を変えつつ、ぐるっと地球を回って、日本でも開催されんもんかのう……って、巡回サーカスかい(笑)。

それと、リンチによる>Gucciの新しいTV-CMも発表された。
んでもって、>CMのメイキング画像もありマス。

2007年9月25日 (火)

「ツイン・ピークス」まわりの微妙な話題

本日のDugpa.comネタ。

2008年発売予定の「レイニーウッズ(Rainy Woods)」というXbox 360とPS3用のゲームが、米国のツイン・ピークス・ファンの間で物議を醸している様子だったりする。

要するに「こりゃ、オマージュの域を越えてちゃってるんじゃないの?」というか、「やり過ぎ」というか、まあ有体に言ってしまえば「パクり(Ripoff)じゃね?」という声があがってるらしい。

うーん、現状では個人的な見解は保留しておきたいのだけど、「レイニーウッズ」のトレーラー映像を見た限りでは、「太平洋岸北西部の田舎町」という舞台設定とか、登場人物の設定とか、「赤い部屋にいる双子の小人」とか、確かに指摘どおり「ツイン・ピークス」を連想させる要素が満載ではあるなあ。「サイレント・ヒル」は、向こうのツイン・ピークス・ファンにも評判がいいみたいなんだけど、ねえ?

「ツイン・ピークス」関連の版権許諾がかなり面倒らしいこと(いや、権利保全の意味合いからすると、それが当然なんですけどさ)、リンチが「ツイン・ピークス」関連のスピン・オフ作品を一切認めない姿勢であることを考え合わせると、こりゃちと微妙、いや、かなり微妙。この先ヤヤこしい話にならないことを極東のリンチ・ファンの一人としては願うばかりなんだが、さて、どーなりますやら。

追記: こちらがこの件に関する米国の掲示板。途中からゲームの話じゃなくて、「ツイン・ピークス」そのものの話題になっちゃってるのが、ご愛嬌(笑)。

2007年8月22日 (水)

リンチ系ヒマネタ (4)

ほら、忘れた頃に続いた(笑)。

リンチ作品における「大胆な省略を受けたストーリー」のことについて、蛇足の補足なんかしてみる。

「映像における表現主義」のこととかで触れたように、リアリズムを基調とした作品の中で、広い意味での「表現主義的な映像」がワン・ポイント的に使われたりするのは、もうごく自然なこととして受け止められてる。要するに「登場人物の心理描写」が必要になったときなどに、それを台詞などで説明するのではなく映像として提示するために「表現主義的な映像」が使われていて、創り手も観る側もそれになんら違和感を感じてない、とゆーことですね。

さて、では、こうした観点からリンチ作品をみたらどーなるか。ちょうどそのまったく逆な感じで、ワン・ポイントじゃなくて全編が「登場人物の心理描写」で出来ている……と捉えることもできなくはないんじゃないかと。つまり、外的リアリズムに沿った作品であれば延々描かれているはずの「ナニが起こり、ナニゆえに登場人物がそーゆー心理状態を持つに至ったか」という部分がバッサリと省略されて、作品の外にポイと放り出されちゃってる……と、まあ、そんな具合に理解できるかもしれないと考える次第。

もちろん、なんらかの形でストーリーの一部が省略されている映画ってのは、枚挙に暇がないほど存在する。だけど、その省略された部分においてナニゴトが起きたか、観客は想像でほぼ補えるのがフツー。というか、そういうふうに作られている。単に余計な描写がカットされてるだけだったり、観客の想像にまかせたほうが効果的だったり、省略されている理由はさまざまであるにしても。

ところがリンチ作品においては、省略されたストーリー部分が大き過ぎて(笑)、実際に何事かが起きたかの細部については判然としない事柄が多い。多いったら多い。でも、それがまったく問題にならないのは、リンチが描こうとしているのはそうした「登場人物の心理状態」そのもののほうであるからでありますね。

……なんかあれば続く

2007年8月 1日 (水)

コミック版「ツイン・ピークス」ですかあ?

本日のdugpa.comネタ。

日本版の予約もすでに始まっている「ツイン・ピークス決定版黄金箱」だが、当初、特典としてサード・シーズンのグラフィック・ノベルが付録としてつくという企画もあったみたいだ。

結局、リンチのOKがとれなくてポシャっちゃったみたいなんだけど、詳細に関してはこちらの7月30日付けの記事をばドゾ。

企画の仕掛け人だったMatt Haley氏は、DCやらマーヴェルなんかのアメコミとかで活躍している画家みたいなんだけど、そっち方面はあんまり詳しくないんで、ちょっとよくわからず。そのうち詳しいヤツに確認とってみますわい。なんでもこの方、初放映時からバリバリの「ツイン・ピークス」ファンなようで、今回のコミック企画を思いついてから各方面の関係者と精力的にコンタクトを取りまくったみたい。

たまたま初めにコンタクトをとったパラマウントの女性担当者が、以前一緒に「スーパーマン」関連の仕事をした人だったらしく、そのおかげで門前払いもくらわず幸先のいいスタートを切れたっぽい。ただし、その時に「TP関係の版権クリアはなかなかキビしいわよ」という警告を受けていたそーだが、まあ、結果的にその言葉通りになったわけだ。

Laurasketch

その後、アンジェロ・バダラメンティやらシェリル・リーやらのOKをとったり、 DVD版のプロデューサーと連絡をとって付録の話の了承をとったりする一方、TVシリーズの副プロデューサー兼ストーリー・エディターだったBob Engelsとともにサード・シーズンのアイデア出しをしたりして、着々と企画は進行していた様子。

サード・シーズンはセカンド・シーズンから10年後の設定で、FBIを退職したクーパーは薬局を開き、トルーマン保安官はレスキュー隊員になり、今度は赤毛の「シェリル・リー」が登場してまたもやキラー・ボブに殺され…… 等々のアイデアが出ていたらしいのはいいけれど、「クリーム・コーンの惑星から来たボブとマイク」ってのはいったい何ですか、それ(笑)。その他、トルーマン元保安官がマイクにカチ込みかけて、ブラック・ロッジまで追い払うってなシーンも考えてたらしいんだが、詳細はよくわからず。

bobsketch

マーク・フロストのOKもとってトントン拍子に話は進み、さあ、最後の本丸であるリンチ……というところで、丁重なお断りをいただいてしまったのだそーだ。どーやらTV番組の権利はABCに、ソフト化の権利はパラマウントにあるものの、関連企画のチェック&承認の権利自体はマーク・フロストとリンチが保持しているということみたい。で、前々からの発言どおり、残念ながらリンチは現在の形で「ツイン・ピークス」を終わらせる意向のよーであります。

てなわけで、幻と終わった「ツイン・ピークス サード・シーズン」グラフィック・ノベルのお話でありました。

2007年7月29日 (日)

リンチ系ヒマネタ (3)

古典ハリウッドの映画文法は、ストーリーを語ることに特化しているといえる。エスタブリッシュメント・ショットやカット・イン・アクション、180度ルール等のテクニックは、観客に対し物語を効果的に伝えることを主眼としたものだ。少なくとも現在のところ、映像でなにかを伝達するうえでスタンダードな手法であり、ひいてはナラティヴな作品においてストーリー上の展開を心理上の展開を重ね合わせるうえでも、これらのテクニックが非常に効果的なのはいうまでもない。

裏をかえすと、大抵の観客は映像作品を観るとき、それが古典ハリウッド映画文法によって「記述」されていることを予測し期待しているはずだ。そして、それに基づいて理解しようとする。

もちろん、ハリウッドが作る映画に対するアンチテーゼとして古典ハリウッド映画文法から逸脱したり、それを無視している映画作品はいくつも存在する。それはそのまま「映画」というメディアが時間をかけて発達し、過去に取り上げられなかった題材を取り上げ、新しい表現を手に入れつつ、その幅を広げてきたということに他ならない。リンチの作品も、そうして「広がった幅」のなかで語られるべきなのは確かだ。

問題をややこしくしているのは、にもかかわらず非ナラティヴなリンチ作品も、基本的に古典ハリウッド映画文法を遵守していることだ。こうした映像テクニックが得意としているストーリーを語ってもいないのに、だ。リンチ作品に初めて触れた観客がまず混乱するのはこの点といえる。最初から「映画文法の逸脱あるいは無視」があれば、むしろ「そういうもの」として観客は理解できるはずなのだが、リンチ作品はそれを許さない。古典ハリウッド映画文法によって記述されたナラティヴなものとして受け止めかけていた作品が、突然その容貌を変えたように感じてしまう。

しかし、詳細にみると、リンチ作品においてこうした編集文法が遵守されているのは、ひとつのシークエンスのなかにおいてであることがわかる。つまり、局地的な「因果律」が成立しているスパンにおいて、こうした編集が機能しているわけだ。

たとえば、「ロストハイウェイ」における「山道の交通道徳講座」のシーンは、この部分だけを切り出してみた場合、「因果律」が成立しているといえる。交通道徳を守らず、先行車をあおったドライバーが(私的に)処罰される。ただし、これは「追跡・追求・処罰」という、「ロストハイウェイ」において繰り返し登場するモチーフのひとつのヴァリエーションであることがわかるだろう。つまり、このシーンは、このモチーフを局地的な時間軸に沿って「展開」してみせたものなのだ。

画家を目指していたリンチが映像製作に手を染めたきっかけが、「絵を動かしてみたい」という衝動にかられてであったことは、リンチ自身の言葉によって何度も説明されている。リンチの映像作品における各シーンは、文字どおり「動く絵」であり、「時間経過とともに変化する絵画」であるといえる。そして、その「動かし方」が、ハリウッド古典映画文法に則っているわけだ。リンチ作品は、数多くのそうした「時間軸に沿って展開されたモチーフやアイデア」が集まって成立しているんである。

……もそっと続く、かもしんない。

2007年7月25日 (水)

「インランド・エンパイア」米版DVD続報だったり

本日のdugpa.comネタ。

配送が遅れるとヌかしやがりながら、米アマゾンでの発売日表記が8月14日のまんまであるのが大山崎個人としてヒジョーにナットクいかない「インランド・エンパイア」北米版DVDの話題。

過去のリンチ作品のDVDと比べて映像特典がテンコ盛りなのはいろんなところで紹介済みなんだが、加えて「Ballerina」っつーのも特典として収録されることになったみたいだ。タイトルから推察するに、おそらくこれは今年のカンヌで上映された短編っぽい。「映画」をテーマにいろんな監督が競作したヤツで、リンチが作ったのはすでにYouTubeでも映像が出回ってるけど、きちんとした形で入手できるのはありがたや。

実はフランスでは、そのとき上映された短編を集めた「Chacun son cinema」なるDVDがとっくに出ておりまして、ユーロ高の昨今、ちょいと高くつくのでどーしたもんかと思い悩んでたのでした。

Chacun son cinema

しかし、となると、「Chacun son cinema」の北米版DVDは出ないんだなあ、きっと。他の監督の作品も観てみたい気もして、もし米版が出て安かったらそっちを買っちゃれと思っとったんですが。やっぱ、おフランスから買ったもんでしょーかね……と、いつまでたっても悩みはつきないでありマス(笑)。

8/11追記: 現物を観てみたところ、「Ballerina」はカンヌ用短編ではありませんでした。「インランド・エンパイア」用かつカンヌ短編用の元素材を使用した、新しい短編でした。

2007年7月24日 (火)

リンチ系ヒマネタ (2)

今回はナラティヴと非ナラティヴのことなんか、ぶっ書いてみる。

すんごく単純化してしまうと、ナラティヴな作品というのは、ストーリーの展開に沿ってキャラクターたちの変化を描くものであるといえる。つまり、物語の展開が登場人物たちの心理的展開と合致した形で進むとゆーのが、まずは基本の形(もちろん例外もあるけど、それは今回はおいとく)。

たとえば「人間的に未熟な人物が、重大な苦難に直面し、それを乗り越えた末に成長する」というのは非常によくあるプロットだけれど、ナラティヴな作品の構造を説明するうえでとてもわかりやすい。ストーリーがエスカレートするにつれて主人公の心理状態がエスカレートし、それに連動して主人公に対する観客の感情移入も深まっていって、物語が「苦難に対する回避・解決」に至った際に、なにがしかの心理的カタルシスを観客が得る……つーのが、まあ、ナラティヴな作品がもつ構造の典型例なんであります。

んでもって、ナラティヴな作品における物語&心理上のエスカレーションは、「因果律」によって支配されてたりする。ある出来事が原因となってその後の出来事が起き、次から次へと連鎖反応的に出来事が発生して、最終的になんらかの結末へと収束していくというのがフツー。つまり、出来事の発生は時系列的であるといえるわけですね。もちろん、ストーリー記述上のテクニックとして省略や順序の入れ替えを伴ったり、同時発生した出来事が並列的に述べられるケースはある。いっぱいある。んが、大抵の場合、観客側が自分で時系列を整理することによって「直線的(リニア)な時間軸」が認識可能なことに変わりはない。

さて、では、こういった点に関して、たとえば「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」なんかではどーなっているかというと。これらの作品では、作品内の出来事がそれに続く出来事の直接発生原因として認識できるケースは極小だ。部分的に出来事同士をつなぐ「因果律」が確認できたとしても、それは局地的なものであって作品全体を通しては成立しない。時系列整理を試みても結果は同じで、作品内の出来事を因果律をもった直線的な時間軸に沿って並べることは不可能だし、無意味。結果として、こうしたリンチ作品はめでたく「非ナラティヴなもの」として分類されることになる。

「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といった作品において「映像」として提示されているのは、登場人物の主観や感情によって歪められた表現主義的なイメージだけ。観る側はそうした断片的なイメージ自体から、それがどういう感情や主観によって歪められているかを理解することを要求される。そもそも「非ナラティヴ=物語がない」作品において、「物語展開と心理展開の合致」など存在するわけがない。物語上のエスカレーションと連動してではなく、それ抜きで心理上のエスカレーションを描くのがリンチ作品だ。

ってなわけで、逆にいうと、どういう手順によってであれ、描かれている「感情や主観」といった人間の内面をなんらかの形で読み取れたならば、それはリンチ作品を理解したことになるといえるわけスね。たとえ細部は完全に理解できていなかったとしても。

……多分、きっと、続く。

2007年7月18日 (水)

リンチ系ヒマネタ (1)

えー、ヒマネタである(笑)。

デイヴィッド・リンチというのは、抽象表現&表現主義な人なんである。ここでいう表現主義というのは、要するに「人間の内面を表現するためには、外面的な写実性なんか放棄しちゃっても全然OK」という考え方のことで、リンチに関していえば最初期の「アルファベット」や「グランドマザー」のころから、いや、映像作品を作り始める前の画家を目指していたころから、ずーっとずーっと(以下繰り返し10回)ずーっと、そーなんである。

今更っちゃあ今更なことなんだけど、日本におけるリンチ紹介がそういう基本的なところの記述をスルーした形で進んでいるよーな気がするので、あえてヒマネタとして書いちゃえ(笑)。誰かもっと忙しい人がすでに書いてたりしたら、そのときゃゴメンなさいとゆーことで(笑)。

映像における表現主義のわかりやすい例ってのが、たとえば超古典で超有名な本家本元のコレ。

karigari_3
「カリガリ博士」においては、狂人の内面を反映して背景の「外面的写実性」が放棄されて歪んじゃってるんだけど、リンチ作品では背景じゃなくて「作品内で起きる出来事そのもの」が歪んでいる。歪ませる対象は違っても、本質的なところは同じ。

たとえば「イレイザーヘッド」における赤ん坊やラジエーター・ガール、そして「ロストハイウェイ」におけるミステリーマンなど、リンチ作品には多くの「異形のもの」たちが登場するけど、これらは内面的感情の反映を優先した結果の「外面的写実性の放棄」の例として、まずは捉えられるべきものだということスね。

「ロストハイウェイ」のフレッドとピートの二役も、逃避行動を起こした人間の内面を描いた映像表現として、ミもフタもないくらい端的で直裁的といえる。内的リアリズムが外的リアリズムにそのまま直結している点において、これ以上シンプルな表現方法はないんじゃないかというくらい。

てな具合に、リンチ作品において最優先されているのは「人間の感情を映像としてどう表現するか」ということなわけで。となると、各作品において「その映像が誰の感情の反映であるか」を捉えるのが、リンチ作品に対する基本的なアプローチの出発点になるといえるのではないでしょーか。

さて、それはそれとして。

過去のフィルム撮影による作品において、リンチは基本的にローテクなアプローチでこうした「歪み」を描いてきた。先に挙げた例でいうと、ラジエーター・ガールのようなメイクだったり、赤ん坊のような特撮であったり。その他「ロストハイウェイ」等における逆回しだったり、「マルホランド・ドライブ」におけるマイクロ・ジジババの合成であったり、基本的にいまや「古臭い」ともいえる映像効果の範疇に収まり、CGすら使わない。古典的ハリウッドの編集文法を頑なに守っている点などとあわせ、このあたりの「映像的保守性」が実はリンチ作品の特徴のひとつといえるのではないかと思っていた。

ところが、ここ最近、デジタル撮影に切り替えた結果として、ダイレクトに映像をいじくった表現が登場しはじめた。その典型例が「インランド・エンパイア」のトレイラーにも登場している「ファントムの崩壊」シーンで、少なくともフィルム撮影によるリンチ作品にはなかったような表現なんではないかと思う。

「ロストハイウェイ」において、フレッドからピートへの変貌シーンを撮ろうとしたものの、納得できるものにならず結局断念したという話を聞いたことがある。となると、この「ファントム崩壊」は、新しいツールを手に入れたリンチによる、そのリベンジであるようにも思えるのだが、はてさて。

2007年7月14日 (土)

「リンチ・ショップ」へ行く

台風4号が近づく雨の東京。でも用事があったので外出。ついでに恵比須の東京写真美術館ミュージアム・ショップ内にあるリンチ・ミニ・ショップまで。

とりあえず、リンチ印のコーヒーをば税込1890円也で購入して帰宅。

……うん、まあ、ミニとはいえあれをショップと呼ぶのは、近所の中華料理屋の中華飯を満漢全席と呼ぶぐらいの……いえ、なんでもないデス(笑)。コーヒーが手に入っただけでも幸せデス(笑)。

IMG_0763

金属製でラベルは、んな感じ。

IMG_0772

蓋には稲妻マークでエレクト リック。
なおかつ分厚いんで、保存用のジャーとしてはいい感じではないかと。

IMG_0766

「このコーヒーの売上による収益は、AFI(American Film Institute)のデイヴィッド・リンチ・フィルム奨学金の為に使われる」由の説明が。

IMG_0768

蓋を開けると、こんな感じで内袋が詰まっております。

IMG_0770

「リンチ・コーヒー・キット」(笑 )

IMG_0774

内袋に貼られているラベルによると、「8月1日までにお飲みいただけると美味しくいただけます」だそーだ。あら、さすがオーガニック。さっさと飲まんとイカンな。

7/18追記: 買い置きのコーヒーが切れたんで、本日からいただいておりマス。うーむ、好みからすると、ちょいと焙煎が深いかもー。

2007年7月 9日 (月)

「インランド・エンパイア」と「Axxon N.」と

デイヴィッド・リンチが公式サイトを立ち上げて、「Dumb Land」や「Rabbits」などの作品を有料で公開し始めたころ、2002年3月1日付のこんな記事が流れた。リンチに対するインタビューをもとに構成された記事で、その当時自分も目にしたことがあったが細部は忘れていた。が、「インランド・エンパイア」を観た後もう一度読み返してみると、いろいろと示唆に富んだ受け答えをリンチはしている。

もっとも興味深いのは記事の最終部分にあるリンチのコメントで、「公式サイトで配信している作品をTV局に売り込むつもりはあるのか」という記者の質問に対して答えたものだ。

----「これがTVだ。(インターネットは)新しいTVだ。(中略)これらの作品は、TVで観るのもインターネットで観るのも、同じようなものだ。だったら、なぜTVにこだわる必要がある? TVは死んだ」

……いきなりの死亡宣告であるが(笑)、「マルホランド・ドライブ」を米ABCに蹴飛ばされた怒りが未だに消えていないことがうかがえ、その点でも興味深い。だが、もっと興味深いのは、この発言を読む限り、「Dumb Land」や「Rabbits」などの配信用の作品を、リンチは「TV番組」という意識で作っているともとれることだ。この2作品が何話にかわたる連続作品として作られていることも、それを補強する状況証拠といえる。

となると、結局単独作品としては完成せず公式サイトでの公開には至らなかったものの、これまた全9話となる予定だった「Axxon N.」も、おそらくはTV番組として意識された作品になっていた可能性が高い……と考えるのがとりあえずはストレートだ。「Dumb Land」がTVアニメ、「Rabbits」がシットコムとなると、殺人がからむ話といわれていた「Axxon N.」は犯罪物TVドラマという位置付けだったのだろうか(そういえば、リンチの公式サイトには「天気予報番組」まであるのだった。リンチは本気で、自分のサイトを「自前のTV局」と考えているみたいだ)。

もしそうだったとすると、「インランド・エンパイア」のなかで、あるときはレンガの壁に書かれ、またあるときは鉄の扉に書かれている「Axxon N.」という文字は、「TVによる映画に対する侵食」の象徴であるように思えてくる。「Rabbits」の「インランド・エンパイア」内における位置付けについては、「インランド・エンパイア」を観た (1)で述べた。繰り返し登場する「Axxon N.」の文字も、やはり「Rabbits」と同じく、変容してしまった我々の「映画受容の形」に対するリンチの思いの表れであるのかもしれない。

「インランド・エンパイア」内における位置づけとしてもうひとつの可能性を示唆するのは、「Axxon N.」に続けてアナウンスされる「the longest running radio play in history」というサブタイトルだ。つまり「Axxon N.」が、むしろ逆に、いまや映像ドラマに駆逐されてフェイドアウトしてしまっているラジオ・ドラマの痕跡に対するオマージュなのではないかという見方である。そう考えると、冒頭の顔をかき消された男女の映像は、映像に比べて感情移入装置として制約があるラジオ・ドラマに対する映像的オマージュとも読み取れる。この視点に立つならば、「インランド・エンパイア」は、映画・ラジオ・TVという三つのメディアに関して言及した作品になるといえるだろう。

それにしても、いずれにせよ近い将来、我々はこの「インランド・エンパイア」という作品をおそらく、いや確実に、DVD再生という手段を用いモニターを通して観るはずだ。そう思うと、なんだか一種複雑な心境になってしまう自分がいたりするのがナントモだ。

2007年7月 8日 (日)

「ツイン・ピークス」関連あれこれとか

本日のdugpa.comネタ。

10月に「Twin Peaks Definitive Gold Box Set」通称「ツイン・ピークス決定版黄金箱」なるものが北米で発売されるらしい、というのは既報どおり。

しかし、現在公表されているボックス・アートはアチラの「ツイン・ピークス」ファンにはすこぶる評判が悪いようだ。映像特典の内容同様、あのボックス・アートも最終決定ではなくてまだまだ変更の余地があるようなので、ま、今のうちにクレームつけちゃれということではないかと推察する(笑)。

ただし、そこはそれ、FNFの例にもあるように「欲しいものは自分で勝ち取れ」という非常にポジティヴなお国柄の人々のことである。気に入らないなら、気に入るようなボックス・アートを自分で勝手にデザインしてやるというファンが現われるのは当然の帰結だ。ということで、自家製デザインのあれこれはこちら

こんなにいっぱい作る必要があったのかとも思うが、これぞ「ツイン・ピークス」にかける情熱の証しというものでありましょう(笑)。

それと、新しく立ち上がった「ツイン・ピークス」ファン・サイトの紹介もあった。2回にわたるローラ・ママ(Grace Zabriskie)へのインタビューやハンク・ジェニングス(Chris Mulkey)へのインタビューがあったりして、気合が入ってマス。

Grace Zabriskieによると、最初リンチから「インランド・エンパイア」のオファーがあってから実際のシナリオ到着まで、なんやかんやでエラク時間がかかったらしい。なので、もう誰か他の人で撮っちゃったのかなーとか思ってたそーだ。なおかつ撮影三日前にいきなり「東欧なまりで喋ってくれ」といわれて、慌てて方言トレーナーを捕まえたりして大騒ぎだったとのことである。まあ、このあたりもクルーの人数を絞れるDV撮影の身軽さの表れなのかもしれない……って、そうなのか? それでいいのか?(笑)

2007年7月 5日 (木)

「Rabbits」を観る

「Rabbits」は、2002年からデイヴィッド・リンチの公式サイト上で公開された、全9エピソードからなる連作短編である。現在では公式サイトでの公開は終了しているが、これは「インランド・エンパイア」でその一部が使われ、単独作品としての意味を失ったとリンチが判断したからではないか…… というのが個人的な推測。

inland_3

先日、パリでの作品展にあわせてリンチの作品集「The Air Is on Fire」が刊行されたが、これに収録されている絵画や写真には製作年の表記がほとんどない。映像作品等に同一のモチーフが使われているケースがあり、そこから逆に絵画等の「意味」を類推されるのをリンチが嫌ってのことだという。

おそらくだが、「Rabbits」についても同じような理由で公式サイトから削除された可能性がある。同様にこれまた「インランド・エンパイア」の随所に登場している「Axxon N.」も、結局単独作品としては発表されないまま公式サイトからタイトルが削除されている。ひょっとしたら、この二作品を当初の形で観ることは、(正式には)もうできないのかもしれない。

それはさておき、公開されて以来、「Rabbits」に関しても「こりゃ、ナニよ?」という議論が向こうのリンチ・ファンのあいだで沸き起こった。三匹のウサギたちの関係についてなかなかに想像たくましい意見が交換されたが、なかには「問題を抱えた夫婦たち」などといういかにもリンチ・ファンらしいダークな見方があったりもした(笑)。

そんななかで、「一見つながりがなく無意味に思われるウサギたちの会話だが、ひょっとして順番を入れかえれば意味が通るのではないか」というチャレンジがあった。その労作の結果がここにあるのだが、なるほど、確かにこうしてみると会話として成立しているように思える。

これをみて思いだしたのが、「爆発した切符」や「ノヴァ急報」といったウィリアム・S・バロウズの小説作品だ。記憶違いでなければ、バロウズはこれらの作品を書くにあたって何台かのテープレコーダーを使い、あらかじめ録音したストーリーをランダムに再生してはそれを書き取ることにより、コンテキストが崩壊した文章を書いた……あれ? これはJ・ G・バラードのコンデンスド・ノベルのほうだっけ? まあ、同じようなもんだからいいや(笑)。リンチがそうした小説作品の手法を意識したのかどうかは知らないが、とりあえず手法として共通項がある可能性だけ指摘しておく。

昨年、Avid社が自社の映像編集ソフトのパブリシティとして「ROOM TO DREAM」というDVDを無償配布したことがあった。そこに収められたリンチ製作の短編でも、この「成立しない会話」という手法は使われている。また、さかのぼれば、初期の短編である「切断手術を受けた人」(1974)や「カウボーイとフランス男」(1989)も、この系統に属するといえるのかもしれない。

はたしてこうした手法は、「アルファベット」(1968)にみられるような「言語」に対するリンチのコンプレックスの表れなのか。はたまた「言語による意味の限定」を嫌うリンチの「言語」に対する復讐なのか。まだまだ興味は尽きないが、残念、時間切れである(笑)。

2007年7月 3日 (火)

オペラ版「ロストハイウェイ」が観たい

何年か前、オーストリアの作曲家であるオルガ・ノイヴィルト(Olga Neuwirth)がデイヴィッド・リンチの「ロストハイウェイ」をオペラ化するというので評判になったことがあった。リンチとバリー・ギフォードが許可をおろす際、版権使用料等を要求しなかったというのも、そのとき一緒に流れたいい話。

このオペラ、正確にいうと、2003年の10月31日、オーストリアのグラーツ(Graz)で開催されたSteirischer Herbst Festival of New Musicという音楽祭での上演が初演。そのときの報道ではニューヨークでの公演もあるようなことが伝えられていたのだが、その後、音沙汰がない。ありゃ、どーなったんだろうと思っていたら、今年の2月になってようやく実現したらしい。

さて、あの作品がどんなふうにオペラになっているのか興味津々だが、実物を観たわけではないので、そこらへんはなんともはや。とりあえず、ニューヨークでの公演に関する記事は、あっちとかそっちとかこっちとかどっちとか。

LostHighwayop_5

えーと、表現派演劇というか「カリガリ博士」というか、思いっきりセットが傾いてますけど(笑)。

リンチがこのニューヨークでの公演を観たのかどうか定かではないのだが、バリー・ギフォードのほうはオープニング・パーティにも出席し、オペラ化を喜んでいる旨の発言をするとともに「ノイヴィルトの音楽は映画の精神と完全に合致している」というコメントを残している。

ま、音楽に関しても実際に自分で聞いたわけではないんで、ナントモかんとも。記事によると、オーケストラによる生演奏は当然ながら、録音された多ジャンルの音楽が流れるわ、果てはラジオをチューニングするときのノイズが混じるわ……といった具合に、映画同様にこちら側の混乱を誘うようなものではあるみたいなのだが。

「私は曲の構成をいきなり変えるのが好きだ。(自分の曲には)簡単に聞きとれるような主題は決して存在しない。(中略)リンチの作品では、登場人物が現れ、また姿を消すことがある。それがなぜか、すぐにはわからない。私はそれを音楽でやろうとしているのだ」というのがノイヴィルト本人のコメント。

「ミステリーマンがテノールでカウンター・パートを唄う」ってのは、なんかよくわからんが、とりあえず血沸き肉踊るぞ(笑)。しかし、 dugpa.comの掲示板ではボロクソに酷評されてんだよねえ。うーん、やっぱ、自分の目で観てみないことにはよくワカランわ、こりゃ(笑)。

来年の4月にはロンドンでも上演するみたいだけど、さすがに日本じゃやらんだろうし……とか考えてたら、 なんとこのオペラのCDが出てしまった。レーベルはKairos、仕様がHybrid SACDということで値段が張るのがちょいアレだけど、日アマゾンでも注文可。

losthighwayop_cd

うはは、さーて買ったもんかどーか、現在お悩み中(笑)。

2007年7月 1日 (日)

「インダストリアル・シンフォニー#1」を観る

「インダストリアル・シンフォニー#1」は、デイヴィッド・リンチが手がけたライヴ・パフォーマンスである。 1989年の10月にブルックリン・アカデミー・オブ・オペラ・ハウスで上演された。リンチ作詞アンジェロ・バダラメンティ作曲の楽曲の数々がジュリー・クルーズの歌によって披露されるが、そこはやはりリンチらしい演出が入り、単なるステージ・ショーではない文字どおりのパフォーマンスとなっている。

indussympho_1

Martha P. Nochimson著の評論集「The Passion of David Lynch」によれば、ソフト化されている映像はリンチによる編集がなされているということだ。たとえば、冒頭にある「ローラ・ダーンとニコラス・ケイジの電話による会話」はソフト化の段階で付け加えられたもので、舞台での公演時には存在しなかったらしい。また、出演者だったマイケル・アンダーソンの証言に基づけば、ステージ場面の映像自体も、その日行われた4回の公演の録画素材をつぎはぎして編集されているのだそうだ。

indussympho_3 indussympho_4

この追加されたオープニングは、サブタイトルである「The Dream of the Boroken Hearted」とあわせて、リンチによる舞台演出の全体構造を理解するうえで重要なキーになっている。つまり、ステージの上で繰り広げられているのは、ケイジ演じる男性に別れを告げられたローラ・ダーン演じる女性のみる「夢」、つまりは彼女の「心象風景」であり「意識の流れ」であって……

……となると、なんのことはない。要するに、「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といった映画作品と同じ事を、「歌つき舞台公演」としてやっているわけだ。そうなるとステージ上で繰り広げられるジュリー・クルーズの「浮遊」や「墜落」は、そうしたコンテキストのうえで理解できるような気がする。

indussympo_2

もうひとつ指摘しておきたいのは、人形を投下する「爆撃機」が登場するが、これと同じモチーフのリンチの絵が存在することだ。つまり、アイデアのフラグメントを集め、なんらかの横糸でまとめて作品として仕上げるという方法論は、「インランド・エンパイア」から大きくさかのぼる「インダストリアル・シンフォニー#1」においてもみられる、ということになる。

話を戻すと、公演のなかほどで、今度はマイケル・アンダーソンの朗読によって、ダーンとケイジが交わした「会話」が繰り返される。ライヴでステージを観た観客に対する「全体構造の提示」はその朗読だけだったということになるが、それではわかりにくいと判断したリンチが件のオープニングを付け加えたのだろうか? とりあえず今のところ、それを裏付ける証言などはないようだ。

しょーもないことなんだけど、手術台から起きあがって舞台をうろつく「鹿男」は、DeerとDearの駄ジャレだったり…… しないよね?(笑)

2007年6月30日 (土)

「ホテル・ルーム」のシナリオをば読む

hotelroomvhs

「ホテル・ルーム」(1993)は米HBOテレビのために作られたオリジナル・ドラマで、全3話のうち「トリック」と「停電」 の2話をデイヴィッド・リンチが監督している。シナリオは「ワイルド・アット・ハート」で原作者として初めてリンチと組んだバリー・ ギフォードで、二人はこのTVドラマの仕事をした後、「ロスト・ハイウェイ」のシナリオを共同執筆することになる。

hotelroombook

で、このTVドラマのシナリオ集である「Hotel Room Trilogy」という本が、ミシシッピー大学出版局から出ている。 もちろん、著者はバリー・ギフォード。ただし、リンチが監督しなかった「ロバートにさよなら」(監督はジェームズ・シグノレッリィ) は入っておらず、かわりにギフォード自身の短編小説をもとにした「カシフィ夫人(Mrs. Kashifi)」というオリジナル・ シナリオが収録されている。

ホテルの一室を住居にしているカシフィ夫人のところへ、30歳くらいの母親が8歳になる息子を連れてやってくる。 カシフィ夫人は占い師で、母親は先日亡くなった自分の母親、つまり息子の祖母があの世で幸せに暮らしているかどうか確かめにきたのだ。 母親と夫人が別室で紅茶占いをしているあいだ、息子のチャーリーは鳥かごに入った一匹のインコと取り残されることになる。すると、 そこに祖母の亡霊が現われ、彼に話しかけて……。

……という、いかにもギフォードらしい毛色の変わった幻想譚である。年代は1952年に設定されているようで、となると、 ちょうど1936年に設定された「停電」と1969年の「トリック」の間に起きた話ということになるはずだ。ただし、 もともとTVドラマ用のシナリオとして書かれたわけではないので、若干、他の話とフォーマットが違っている。 廊下と部屋だけでなくホテルのロビーも舞台として出てくるし、カシフィ夫人が住む部屋が603号室と明示されていない。部屋の構造も違う。 他のシナリオでは舞台となる都市がはっきりニュー・ヨークに設定されているのに対し、このシナリオでは「大都市」としか書かれていない等々、 番外編的なニュアンスが強い。

リンチが映像化していたらどんな感じになっただろうと思うのが、デ・ウィット氏という登場人物。 この男はカシフィ夫人と母親と息子の話には、直接にはからんでこない(間接的にはからんできて、 いろいろとこちらの想像力をかきたててくれる)。どうやら健忘症の気があるらしく、 フロントのホテルマンに自分が来たらその度に部屋番号を教えてくれと頼んだりしたあげく、 最後はなんともいえない登場の仕方をして話を締めくくってくれる。まあ、リンチの手にかかったら「カウボーイとフランス男」や「オン・ジ・ エアー」の登場人物たちのような、ベタな描かれ方になったとみるのが妥当なのかしらん。

ギフォードの前書きによると、この「カシフィ夫人」は彼が子供のころ、 奔放な母親と一緒に暮らしていたときに体験した話に基づいているらしい。「南部の夜三部作」など、この人の小説作品には南米文学を思わせる 「魔術的」な話が多いが、それらの作品群にも彼の実体験に基づいたものがあるのかどうか。

同じ前書きには、「ホテル・ルーム」の打ち合わせ時に、プロデューサーだったモンティ・ モンゴメリーとリンチがギフォードと交わしたという会話も披露されている。それによると、モンゴメリーとリンチには 「自分たちの祖母が観られるようなドラマを作りたい」という意向があったようだ。それに答えてギフォードいわく、「なにも問題はないな。 私がシナリオを書くから、あんたたちはお婆さんを縛りあげて猿轡をかませばいい」

……実行したかどうかは知りません(笑)。

2007年6月25日 (月)

リンチのドキュメンタリー映画「LYNCH (one)」公式サイト出来!

本日のdupga.comネタ。

デイヴィッド・リンチに関するドキュメンタリー・フィルム「LYNCH (one)」の公式ページがオープンされた。

lynchdocument

「予告編」や「フォトギャラリー」と並んでメニューには「Video Blog」なんつのもあるのだが、今日現在、まだ何もアップされていない状態。何が出るか、お楽しみ。「Download」っつーメニューもあるけど、パスワードを要求されてそこから進めない。これはどーすればいーんでしょー?

気になる公開スケジュールだが、今のところ、6月22日から30日までドイツで開催されているMunich Film Festivalでの上映が報じられているだけで、日本での公開予定はないみたいだ。

うーん、「ツイン・ピークス・フェスティバル」での上映を観に行くのが、日本からはいちばん安上がりかなー、今んとこ(笑)。

でもって、こちらがドキュメンタリー製作スタッフのブログ。 2004年12月のポーランドから撮影が始まり、2005年の2月からはリンチの自宅に7か月泊り込んで、毎日毎日リンチを追っかけては撮影したらしい。そこから何度かの追加撮影(ポーランドとニューヨークでの撮影を含む)を挟んで、1年間にわたる編集作業をコロラドの山ん中で行なったそうな。

仕上げの編集はロスでやったみたいだが、ブログには投稿時刻が午前4時とか5時とかの書き込みもあって、マコトにお疲れ様。特に今年の3月末から4月の中頃あたりの書き込みには完全に「壊れてる」感じのも混ざっていて、他人事ながら同情を禁じえなかったりするので、ぜひ一読をお勧めする(笑)。

ちなみに、いま現在のいちばん最後の書き込みは、6月24日の午前10時36分、Munich Film Festivalでの上映開始25分前! 現場から山本がお伝えします! という臨場感あふれるモノだったりするのであった(笑)。

「Catching The Big Fish」をば読む (6)

某氏の「インランド・エンパイア」鑑賞は、どうやら試写最終日になりそうな気配である。健闘を祈る(ナニのだ)。

それはそうと、いよいよネタが尽きてきたディヴィッド・リンチ著「Catching The Big Fish」紹介である。最後は新作である「インランド・エンパイア」関連の文章をば。

近所に引っ越してきたローラ・ダーンとバッタリ出合ったのが製作開始のきっかけだったという話や、「インランド・エンパイア」というタイトルが決まった経緯とかは、すでにいろんなところで紹介されまくっているから割愛する(笑)。

個人的にいちばん興味深かったのは、「Future of Cinema」と題された一文だ。

----「我々の映画の観方は変化している。ヴィデオiPodやヴィデオ配信が、すべてを変えつつある。大きな画面ではなく、小さな画面で観るというのが、昨今の映画鑑賞のやり方だ」

----「小さな観づらい画面で、どうやったら我々は(映画が描く世界を)体験をできるというのだ?」

----「しかし、デジタルはすでにそこにある。ヴィデオiPodも存在する。我々は現実に則し、その流れに身を任せるしかない」

「インランド・エンパイアを観てきた (1)」で述べた「映画受容の変容」と似たようなことをリンチ自身が言っておるわけで、あー、マジで観る前に読んどきゃよかった。

にしても、まさかiPodまで話がいくとは予想してなかったけど、確かに「映像のデジタル化」は、製作からはじまって劇場での上映へ、そして家庭内のモニターでの鑑賞までという従来の枠におさまらず、マルチ・メディア・プレイヤー等の小型端末による時と場所を選ばない受容までを一直線につないでしまう。それはハード・メーカーやソフト・メーカーそしてコンテンツ・メーカーにとどまらず、配信・通信・放送業界や行政までが一丸となった結果、現在確立されようとしているビジネス・モデルだ。

そうした動向に対し、リンチはこう予測する。

----「いい面もある。少なくとも、(iPodとともに)人々がヘッドフォンを所持するようになったことだ。これからは『音』が、もっと重要になっていくと思う」

いかにも当初から「音響」にこだわり続けてきたリンチらしいコメントだが、そうした「こだわり」を含めたいろいろな「思い」が形となって「インランド・エンパイア」に盛り込まれているといえるだろう。そういう意味では、「イレイザーヘッド」と並んで、リンチ作品のなかでも特に「私的な映画」の色が濃い作品であるのは間違いない。そして、「イレイザーヘッド」がもっている普遍性とはまた別な意味の普遍性、つまり「映画がおかれている現状」というアップデイトな普遍性を「インランド・エンパイア」は備えているともいえる。

先に述べた「ビジネス・モデル」のなかで、もっとも立ち遅れ取り残されそうになっているのは、実は映画館等の興行業界であるような気がする。リンチがAbsurdaという会社を立ち上げ、自前で「インランド・エンパイア」の配給に乗りだしたとき、劇場関係者たちと直接会っていろいろ話をしたということを聞いた。その当時のコメントがこれ。

「劇場主の人たちと直接話をする機会がもてたのは、『イレイザーヘッド』以来だ。私の作品を何年にもわたり上映し助けてくれた、鎖の端にいる人たちだ」

ひょっとしたらリップ・サービスの部分もあるのかもしれないが、リンチにとって、やはり「映画は映画館で完結するもの」であるようだ。

2007年6月24日 (日)

「Catching The Big Fish」をば読む (5)

あいもかわらず「Catching The Big Fish」ネタである。今回のお題は「Fellini」。そう、あのフェデリコ・フェリーニである。

catchingbigfish

リンチがCM撮影のためにローマを訪れていたときのこと。撮影スタッフのなかに、以前フェリーニと仕事をしたことがある人物が二人いた。当時、フェリーニは北イタリアにある病院で静養中だったが、ローマに転院してくることになったらしい。なんとか会って挨拶できないかとそのスタッフに頼み込むリンチ。んじゃ、なんとかセッティングしてみようということになる。

まず木曜の夜にトライしてみたがアウト。明けて金曜日、念願のフェリーニとの邂逅が叶う。時刻は夕方6時、美しく暖かいイタリアの夏の夕べのことだった。

車椅子に乗ったフェリーニは、リンチに椅子を勧めた。そしてリンチの手をとり、話し始める。昔はこんなだった。フェリーニに寄り添うように座り、耳を傾けるリンチ。半時間ほど話を聞いたあと、リンチは辞する。

それが金曜日のこと、日曜にフェリーニは昏睡状態に陥り、そのまま意識を取り戻すことはなかった……。フェデリコ・フェリーニ、1993年10月31日、歿。

さて、リンチが1993年に撮ったとされるCMは都合7本。そのうち、マイケル・ジャクソンの「Dangerous short films collection」用に撮った作品、アディダスのCM、American Cancer Societyのために作った乳癌検診促進のためのCM、Alka-Seltzer PlusのCM、そしてJill SanderのCMでは、ローマで撮影なんてことはしていないハズ。となると、残るLancome ParisのためのCMとBarilla PastaのCMの2本のどっちかじゃないかと思う。両方を観比べてみた限りではどうやら後者っぽいんだが、誰か確定情報があれば教えてくださいませ。

2007年6月23日 (土)

「Catching The Big Fish」をば読む (4)

またもや「Catching The Big Fish」ネタである。今回のお題は「Mulholland Drive」。

「マルホランド・ドライブ」が当初、米ABCのためのTV連続ドラマとして企画が立てられたが不採用になり、そのパイロット・フィルムを流用し追加撮影して劇場用映画が作られた……というのは有名な話。

で、どうやらリンチのこの文章を読むと、ABCの企画検討責任者は、「マルホランド・ドライブ」のパイロット・フィルムを朝の6時に、コーヒーを飲みつつ電話をしながら観たらしい。でもって、面白くないという判断が下され、不採用になった……という話をリンチは耳にしたのだそうだ。

リンチとしては「もっとマジメに観てくれ」と言いたいのだろう。そりゃそうだ、製作者の立場としては当然の感情だと思う。

だが、向こうのTV局にはパイロット・フィルムが大量に持ち込まれるという話を聞いたことがある。なおかつ、パイロット・フィルム作製に至らずシナリオ段階でボツになる企画になると、その何倍もの数になるらしい。

となると、朝の6時から、他の仕事をやっつけつつ観ないことには消化しきれないのかもね……と、いささか同情気味に想像したりもするのだが、さて、真相やいかに(笑)。そうやって検討に検討を重ね鳴り物入りで放映を開始したTV番組が、視聴率不振のためにシーズン途中であっさり打ち切りになるのもザラだったりするので、向こうのTV業界もそれなりにキビシイんである。

しかし、個人的な最大の関心事は、この担当者が「マルホランド・ドライブ」のパイロット・フィルムを観たのが「徹夜明け」だったのか、それとも「起床直後」であったのか、という点だ(笑)。いやまあ、寝不足でヘロヘロになった状態でアレ観るのもつらかろうし、かといって爽やかな目覚めの後に観るのもなんだか違うような気がして、いずれにせよ「不幸な出会い」だったのは間違いないんだけどね。もし「体調充分かつあんまり充分過ぎない」担当者が夜に観ていたなら、ひょっとしてひょっとしてたのかもしれん。まったく根拠はないけど。

「マルホランド・ドライブ」がABCで不採用になった理由として、ちょうどコロンバイン高校の事件が起こった直後だったため、暴力的なシーンがあるのが敬遠されて……というような話も聞いたことがあるのだが、今回のリンチの文章では残念ながらそこらへんには触れられていない。

2007年6月21日 (木)

「Catching The Big Fish」をば読む (3)

定期的にネタとして引っ張り出される「Catching The Big Fish」である(笑)。今回のお題は「The Red Room」。

「ツイン・ピークス」のパイロット・フィルムをロスのスタジオで編集中だったときのこと。編集作業が終わって夕方6時半ごろ、リンチたちがスタジオを出ると、駐車場に何台かの自動車がとまっていた。ふと一台の車の天井に手をおいてみると、とても暖かい。

----「私は車に寄りかかってみた。そしたら……『赤い部屋』が現われた。それから、逆回しに起きる物事と、台詞のいくつかも」

こうしてつかんだ「赤い部屋」のアイデアを、その後リンチは試行錯誤しつつ、シェイプしていく。

----「壁は赤だ。しかし、固い壁ではない。カーテンだ。分厚いやつじゃない、光を通すやつだ。床にも何か要る」

という具合にして出来上がったのが……

redroom_2
……はいっ、 コレでございます。

この文章でリンチが説きたかったのは、「納得できる結論にたどり着くために、試行錯誤することの大切さ」 であるようだ。確かにそりゃ大事なことだと思う。学校の先生が同じようなことを言い出しても、まったく不思議はない。だが、その例として「小人が踊って逆回しでしゃべる『赤い部屋』」を出されても、生徒としてはあまり参考にならんかもしれんと思うんだが、いかがなもんでしょうか?

。なたきてしも気なうよいいでれそはれそ、んだんだ、かんな……

2007年6月20日 (水)

「ツイン・ピークス決定版黄金箱」はどこが決定版で黄金か

またもやDugpa.comネタ。

やっぱりというか案の定というか、北米で「Definitive Twin Peaks Gold Box Set」なる代物が、 CBS/Paramountから10月にリリースされるという情報が流れている様子だ。

TwinPeaks_DefinitiveGoldBox

全話収録であるのは当然として、北米では未リリースだった「TV放映版パイロット・フィルム」がついに収録されるみたいで、それを受けて向こうのリンチ・ファンの間では、やれパイロット・フィルムのバラ売りはあるのかとか、やれ未公開シーンが映像特典になるんではないかとか、やれセカンド・シーズンのサウンドトラック・アルバムCDが同梱されるんではないかとか、いろいろ「ウワサ&問い合わせ&お願い」が飛び交っていたらしい。

それを受けてDugpa.comの管理人さんがCBS/Paramountに問い合わせた結果、今のところの確実なセンとしてわかったのは、「セカンドシーズン・ボックス・セットに収録されなかったインタビュー+その後行われた追加インタビュー」が収録される……ということ。

未公開シーンの収録についても、リンチのOKはとれてるらしい。のだが、TV版映像素材の使用料としてかかるコストの問題もアリで、記事を読んだ限りでは実現しないっぽい印象を受けた。

いや、値段がいくらになるかわからんけど、これも買うのか?>自分
つか、日本版は出るのか、これ? どーするどーなる?>自分

追記:日本版を買ってしまいました。

2007年6月19日 (火)

「Catching The Big Fish」をば読む (2)

ボチボチ読み進めている「Catching The Big Fish」なんだが、「Final Cut」と題された文章を読むと、リンチは「砂の惑星」の失敗がすんげえトラウマになってる感じである。だいたい、この本の巻末作品リストに「砂の惑星」が載ってない。いやもう、完全に黒歴史(笑)。

dune

リンチ作品としては最高額の興収をあげたものの、制作費も最高額だったもんで、赤字も最高額。最終編集権が自分になく、2時間あまりの尺に収めるためにズタボロの出来になってしまった挙句の興行的失敗が、リンチにはよっぽど痛手だった様子だ。

----「自分が納得できるようにした結果失敗したのなら、それはそれだけのことだ。(中略)それもかなわずうまく行かなかったのなら、二度死んだようなものだ」

というわけで、この後、リンチは最終編集権が確保できない仕事をやらなくなっちゃうわけだが、「砂の惑星」の大ゴケにもかかわらず、続けて「ブルーベルベット」を好きに撮らせたディノ・デ・ラウレンティスも偉い。「好きにしていいけど、予算とギャラは半額ね」ってなこと言ってあんまり期待してなかった節もあるけど、とにかく偉い(笑)。

とりあえず、「インランド・エンパイア」を含め現在も続いているフランスのStudio Cannalとの関係には満足しているようで、「フランス人は世界でいちばんの映画ファンであり、擁護者だ」なんて最大限の持ち上げようだったりする。きっとリンチはフランスに足を向けて眠れないに違いない。となると、リンチ・ファンである自分もおフランス方面に足を向けて眠れないわけで、こうしてどんどん足を向けて眠れない方角は増えていく一方なのであった。

2007年6月18日 (月)

今年もやります「ツイン・ピークス・フェスティバル」

本日のdugpa.comネタ。

今年は「ツイン・ピークス 劇場版」が公開されて15周年ということで、ニュー・プリントでの上映会がある模様。リンチに関するドキュメンタリー・フィルム「LYNCH」の上映もあるそうな。

今年のゲストは「片腕の男(Al Strobel)」「ブリックス夫人(Charlotte Stewart)」「劇場版のおばさんウェイトレス(Sandy Kinder)」の皆さんの予定。

7月27日から29日の開催、参加費は200ドルね。

「Twin Peaks Festival 2007」の公式ページはこちら

sandy
いや、まあ、なんだ。Sandy Kinderさんって、ローラ・ママ(Grace Zabriskie)とかルーラ・ママ(Diane Ladd)と並んで、いかにもリンチが好きそうな面構えの女優さんのような気がするんだが(笑)、その後のリンチ作品への出演がないのが不思議といえば不思議。

2007年6月17日 (日)

「Catching The Big Fish」をば読む (1)

いろいろ忘却の彼方に向かいつつある「インランド・エンパイア」なのだが、知り合いの某氏がそろそろ試写会に行くころだと思うので、それぞれの記憶を持ち寄ればなんかしら補完できるかもしれん(笑)。ということは、某氏は外部記憶装置か(笑)。いずれにせよ、本格的なアレコレは、劇場で再見してからのお楽しみかな(あるいは8月に北米版DVDが届いてから、かな?)。

catchingbigfish

それはそうと、リンチの著作である「Catching The Big Fish : Meditation, Consciousness, and Creativity 」を今頃になってやっと読み出した。年頭に米アマゾンから届いた後ほったらかしにしてあったのは、個人的には「瞑想」とかになーんも関心がないからだ。リンチの「瞑想」への傾倒は以前から知ってはいたが、「アイデア出し」に使ってくださってる分には別にこちらが文句を言う筋合いもなく、まあ、好きなようにやってくださいという感じで一歩引いていた。昨年あたりから実生活でもそっち方面の活動をしている様子だが、そこはそれ、いい大人のやることだし、リンチにはリンチの人生があるし……って、思いっきりエラそうですね(笑)。

ところがいざ読み出してみると、案外「瞑想がどーのこーの」というくだりは少なく、むしろ映画に関する具体的な記述のほうが多い。すでに知っていたことも多いのだけど、しまった、敬遠せずにもっと早く読んでおけばよかった。

あまり「言語」が得意でないリンチのことなので(この本の中で自分でも認めてたりする)、「具体的」といっても、特に難解なことを言ってるわけではない。ただ、このブログでリンチに関して書き散らしたのとよく似たようなことを、リンチが自分自身で書いてたりするのな。いや、それこそ文句をつける筋合いでもなんでもないんだが(笑)、あー、やっぱりとっとと読んどけばよかった。

とりあえず半分ぐらい読んじゃったのだが、まあ、ボチボチ読み進めることにする。

最近のトラックバック