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書籍・雑誌

2014年10月26日 (日)

「David Lynch: In Theory」をば読む

In_theory つなわけで(どんなわけだ)、続くときは続いてしまうリンチ関連本ネタであります。今回の『David Lynch: In Theory』は、リンチ作品についていろんな人が書いた論文を集めた論文集となっております。

リンチに関する論文集としては、例えば『Critical Approches to Twin Peaks』とか『Twin Peaks in the Reaview Mirror』なんかがあって、特にこの二冊では、人文学や文学や西洋史、あるいは女性監督と作家論の関係など、多岐にわたる視点から『TP』が論じられておりました。それに対し、本書は精神分析批評をベースにした論文が多いのが特徴。それがゆえにヴァリエーションに欠けている点は否めないわけですが、まあそのあたりは、編者であるFrancois-Xavier Gleyzon氏の方向性ちゅーか趣味ちゅーかの問題ですわね。で、その中から、ナニかしら面白かったところがあったものを選んでピックアップ。

・Red Velvet: Lynch's Cinemat(ograph)ic Ontology / Greg Hainge
トム・ガニングのいう「アトラクションの映画(Cinema of Atraction)」の概念が、リンチ作品に当てはまるのではないかという提起。
ガニングの理論自体がエイゼンシュタインの「アトラクション」の概念をベースにしてるわけだけど、そこで言われている「受容者に対する攻撃性」やら「モンタージュによる思想(リンチの場合は感情だが)の伝達」という点で、確かにリンチ作品はそれらに近い特性を備えているといえるかも。ただ、大元のガニングの論文が「ナラティヴ」と「アトラクション」が互いに排他的関係にはないとは言及しているものの、「非ナラティヴ」と「アトラクション」の関係性については、実は1917年以前の初期映画が備える非ナラティヴ性(というか、ナラティヴの軽視)について述べられているだけで、それこそリンチ作品が備えるような非ナラティヴ性との関係については、あんまり明確にされていない。なので、著者の「リンチ作品は統一されたナラティヴを備えてないから、アトラクション」という理論展開にはちょっと違和感があるんで、もちっと違った方向からリンチ作品の「アトラクション性」が論じられてもよいんではないかいという気がしたことでした。

・Eraserhead: Cpmprehension, Complexity, & Then Midnight Movie / Gary Bettinson
理解への手がかりをリンチがあちこちに散りばめていることについて。
リンチ作品がナラティヴに頼らないで「感情の喚起」を直接行っていることは、まったくもってそのとおりで、前述の「アトラクションの映画」としてのリンチ作品というのもこれに重なるわけで。
後半で述べられている、1970年代「ミッドナイトシネマ」における受容モード話がおもしろい。映画館で観客がわやわや騒ぎつつ「嫌悪感を共有する」というのは、現在における「いわゆるダメ映画」の受容モード(特にビデオ・DVDでのグループ受容)と重なるんではないか。でもってこれは、たとえばニコニコ動画などのSNSでの受容モードなんかにも引き継がれているわけですね。

・"Baby Wants Blue Velvet": Lynch & Maternal Negation / Jason T. Clemence
内容はともかく、出だしが面白い。

”スティーヴ・ジェイ・シュナイダーが『イレイザーヘッド』についてのエッセイで弁解気味に書いていたように「ここまで、私は使い古されたフロイト主義に頼らずに述べてきた。だが……」”

とまあ、著者自身が認めているとおり、この後は特筆すべきところのない精神分析批評が展開されるわけですが、こうなってくるとむしろ興味深いのは、それでもリンチ作品の神分析批評を試みてしまう「批評側の心理」の方であったりしますな。
にしても、『ブルーベルベット』がフェミニズム批評や精神分析批評に対する「巨大な釣り針」として機能し、ほとんど入れ食い状態であったことは映画批評史にとどめるべきだと思う今日この頃(笑)。

・Lynch, Bacon & The Formless / Francois-Xavier Gleyzon
ジョルジュ・バタイユ→フランシス・ベーコン→デイヴィッド・リンチという、「ゆがんだ顔」の系譜について。それはあくまで「ゆがんだ」ものであり、決して「形がない」ことではなく、時系的なものである、と。このあたりは「リンチ作品が絵画を時系列的に展開したものである」という個人的見解と重なるかも。
そのなかでも、「開かれた口」に注目。ゲロの出口としての口(『吐き気を催す六人の男』)。汚れの体外への棄却とか。汚れたものであると同時に、聖なるものでもある唾液とかとか。
これ、論文というよりエッセイに近い文章で論旨的なものは曖昧なのだけど、割と面白く読ませていただきました。

・David Lynch & The Cinema D`auteur: A Conversation with Michel Chion/ Garay Bettinson & Francois-Xavier Gleyzon
ミシェル・シオンへのインタビュー。
自著『David Lynch』でリンチの生い立ちに触れただけなのに、インタビュアーから「作者の死」がどーの「作家論」的アプローチがどーのと、ネチネチきかれ、シオンも最初は「いや、リンチの立ち位置を明示しておきたかっただけ」と答えていたのが、それでもネチネチネチネチいわれて次第にイラついてくる感じがスリリング(笑)。
「作者が作品を作るのではない。作品が作者を作るのだ」という見解をシオンは述べるも、それでもインタビュアーはネチネチネチネチネチネチききつづけ、ついに彼が「リンチの幼少期のトラウマなんか、オレには関係ねー!」と半ば切れたところで、インタビュー終了。あらま(笑)。
2009年に行われたインタビューらしいのだけど、未だにバルトの「作者の死」を盾に「作家論」的アプローチが批判されているところが、むしろ個人的は驚きだったりなんかしました。

……てなところでしょうか。個人的には「米国の映画学の実証的なアプローチ」と「英欧の映画学の思索的なアプローチ」の差異が、割とはっきり見て取れた印象があって、その意味でも面白かったかも。

あ、それと、日米アマゾンさん、この本のカスタマーレビューが、ミシェル・シオンの『David Lynch』のカスタマーレビューのものになっちゃってますよー。同じような書名なんで、間違っちゃったですかね。ではでは。

「Good DAY TODAY: DAVID LYNCH DESTABILISES THE SPECTATOR」を読む

Good_day_today 忘れた頃にやってくるリンチ関連本ネタでありますが(笑)、こちらは同じ関連本でも、「なぜ、リンチ作品はわからないのか」に焦点をあてたという、ちょっと変わったアプローチの本。

まあ、なんといいますか、世の中には大概自分と同じことを考えている人がいるもので、著者のDaniel Neofetou氏もリンチ作品が採用している編集技法……彼の定義を借りれば「古典的写実主義映画(classic realist film)の技法」に着眼した議論を展開しています。「古典的写実主義映画の技法」っつーとナニがナニやらですが、当然ながらこれは「ハリウッド映画が採用している技法」とイコール。ということは、これまた当然ながら(拙ブログでも述べているとおり)、コンティニュティーを重視した「ナラティヴの記述に特化した映像技法」であるわけで、はたまた当然ながら著者もそれを前提としています。

著者曰く、「通常であれば、こうした古典的者術主義映画の技法は、観客が統一された映像時空間(ディジェーシス/diegesis)を構築するのを助け、物語に関する全知的視点を与える。だが、同じ技法を使いながら、リンチ作品は統一された映像時空間の構築を妨げ、全知的視点の獲得を阻害する」。うわ、何のこっちゃでありますが、もんのすごく極端に単純化していうなら「他のハリウッド映画と同じ映像技法を使っているのに、それらの作品に比べてリンチ作品はすんげえわかりにくい」という話でありますな。

ここで、著者は、デヴィッド・ボードウェル(David Bordwell)の『Narration in the Fiction Film』を引用するとともに、ロシア・フォルマリズムにおける映画理論用語である、「ファブラ(fabula)」と「シュジェート(syuzhet)」という概念に触れます。ものすごく単純にいえば、ファブラは「内容」、シュジェートはその内容を述べる「方法」を指します。つまり、通常のナラティヴな映画に当てはめていうと「ストーリー」と「実際の映像」の関係、あるいは「物語内容」と「物語言説」の関係と理解しとけば、とりあえずはOKかなと。そのうえで、著者は、リンチ作品を部分的なシュジェートは成立しているが、ファブラが理解できない例と説明します。言葉をかえれば、シークエンス単位での部分的な意味形成はされているが(あるいはそれを知覚できるが)、全体を通しての意味形成ができていない(あるいはそれを知覚できない)と言ってるワケでありますな。

んでもって、なんでそーなるのか……についてでありますが、大きなところで著者がまず挙げるのが「キャラクターの不一致」および「時空間の不一致」であります。『ロストハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』における「登場人物のアイデンティティーの変化」や「時系列の混乱」や「場所の混乱」でありますね。あわせて、編集技法そのものにおけるより詳細な例として「極端なクローズアップ」「ある対象物に対する長回し」などが挙げられています。また、より大きなところでは、「客観視点」と「主観視点」の境界があいまいなことにも触れられています。

……とまあ、ここまでは基本的にまったくもってそのとおりと思える部分が多いんですが……この本の残念なところは、こうした映像技法上の例示と「その結果ナニがわからなくなっているか」で話が終わってしまっていることであります。リンチ作品理解においてもっとも問題なのが、作者も指摘しているように「ファブラ=物語内容」の理解・把握が困難なことなのですが、結局のところリンチの各作品の「ファブラ=物語内容」が何であるのか、あるいはリンチ作品における「ファブラ=物語内容」と「シュジェート=物語言説」との関係性について、著者はまったく触れていません。なおかつ「語義的にはリンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としつつも、ではリンチ作品が「ファブラ=物語内容」レベルでどのようなナラティヴを構築しているのかについての言及もありません。

んー? と思って読み進めるうちに、わかってきました。どうやらリンチ作品における「ファブラ=物語内容」については、著者はこの本ではもともと触れるつもりがなかったんであります。最終的に著者が言いたいのは、リンチ作品の「わからなさ=理解不能性」はそれ自体に重要性があり、それは大多数派の基準(Norm)というか既成概念を破壊し、新しい角度からの視座を与えるものだ……ということなのであるらしく。

いやー、なーんだ、そうだったのかー。

……いや、いろいろとちょっと待ってよ、であります。それじゃリンチ作品の機能って単なる「異化作用」だけじゃん……というのはともかく、先に触れたとおり、著者は「リンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としながらも、ではどのようナラティヴを構築しているか、具体的な言及を一切していません。まずこの点を論証しておかないと、リンチ作品における「内容」と「言説」の関係性を論じるのは不可能なのでは。

その一方で、著者は、リンチ作品の「言説」が「内容」の理解を阻害していると繰り返し述べます。が、著者のいう「古典的写実主義映画の技法」がナラティヴの記述と伝達に特化して発達してきた「言説」であることを考えるとき、ではそれが非ナラティヴな「内容」を記述・伝達しようとしたならば、果たしてどのようなことになるのか……。個人的にはリンチ作品にみられる「言説」と「内容」の乖離は、まさにそのケースであると理解しています(例えばリンチ作品にみられる表現主義的手法の多用は、その具体例である、と)。でもって、著者が挙げている「内容理解を阻害している言説」の諸例は、とどのつまり「非ナラティヴな内容」を「ナラティヴの記述に特化した映像技法」で表現した結果に他ならないのではないか……というのが、個人的な見解であります。

というわけで、いろいろうなずけるとことがある一方で、いちばんオイシイところが抜けていて、ちょっと何かもやっと消化不良な感じでありました。と同時に、この本を読んだことが、同時にリンチ作品における映像表現や編集技法について再度考えるよいきっかけになったのも事実であります。著者にはこの本を土台にして、リンチ作品の「(物語)内容」まで踏み込んだ議論を期待したいと思いますデス。

2010年4月 3日 (土)

「デイヴィッド・リンチによる福音書」で神の愛を

えー、「福音書」っつーのは、平たくいうとイエス・キリストの言葉をその弟子たちが伝えるものであります。新約聖書に収められた「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」とか、その他「トマスによる福音書」なんかが超有名(っていうのか?)。

しかし、どうやら現代におけるキリスト教伝道の方法論は非常に多様化してきているよーで、米Amazonなんかをみてみるってーと、「~による福音書(The Gospel According to ~)」とゆータイトルの本がなんかやたら出ております。それも「シンプソンズによる福音書」だとか「スター・ウォーズによる福音書」だとか「ディズニー映画による福音書」だとか「ハリーポッターによる福音書」だとか「ビートルズによる福音書」だとか「ブルース・スプリングスティーンによる福音書」だとか、人目を引くようなネタはすべて伝道に活用されてる感じ。はては「スターバックスによる福音書」とか「Twitterによる福音書」とかまであって、もーここらへんになるとどーゆー内容やら俄かには想像不能で、いやもう奥が深い。

キリスト教関連の出版物を出している会社はいくつもあるよーですが、Westminster John Knox社というのがその代表格っぽい様子。でもって、そこの新刊タイトルが「Halos and Avatars -- Playing Video Games with God」っつーんですから、もー正直なんでもアリな印象も受けます。でも、きっとそんなの、不信人者の気の迷いに決まってます。

……とまあ、このよーな流れのなかで、シカゴ在住のGrant Elgersmaさんが「デイヴィッド・リンチによる福音書」という本を書くことを思いついたとしても、まったく不思議はありません。ありませんったら、ありません。

「何か好きなものがあれば、誰もがそれについて語りたいと思うものだ。キリストを愛する者が、同時に『シンプソンズ』や『ロスト』といった番組を楽しんでいるのは、まったく驚きではない。アメリカの平均的なキリスト教信者像は、平均的なアメリカ国民像と大きくかけ離れているわけではないのだ」

……と、キリスト教関連Web雑誌「Catapult Magazine」のコラムでElgersmaさんは語ります。ううむ、「リンチ好き」なのが「平均的なアメリカ国民像」とどれだけズレているかっちゅー議論もあるかとは思いますが、つまりElgersmaさんはリンチ作品の大ファンで、それとあわせて「キリストへの愛」について語りたいわけですね。しかし、どーやって?

Elgersmaさんの主張によれば、「リンチによる福音書」の核となるのは、「Catching The Big Fish」に収録されている「イレイザーヘッド」関するリンチ自身の言及であります。

「(前略)『イレイザーヘッド』は自分のなかで確かに育ちつつあったのだが、それが何を意味するのかがわからなかった。シークエンス群が言わんとしていることを解き放つ鍵が見つからない。完全に五里霧中というわけではないものの、何かしら全体を結び合わせるものを思いつけず、暗礁に乗り上げてしまった。で、私は聖書を手に取り読み始めることにした。ある日、私はある一節に行き当たり、聖書を閉じた……これだ、これがそうなのだ。ようやく私はすべてのつながりを見つけ、全体を見渡すことができた。
それがどの一節であったのかを話すつもりはない」

おお! 「I saw the light!」な感じで確かにまんまでありますね。しかし、Elgersmaさんも認めているように、「どの一節であったのかを話すつもりはない」という時点で、ちょいと伝道目的として使うには弱い感じがします。本来ならその一節をとりあげて、具体的に「神の愛」について語りたいところなんでしょうけど、それを許さず肝心なところをぼやかしてしまうあたりが、ファンなら重々承知しているいつもながらの「そうはイカのデイヴィッド・リンチ」であります。

にしても、宗教関係の方だけあって、さすがにElgersmaさんは真面目だなーと思ったのが……

「明らかにリンチは、それがどの一節であるか明らかにしたくないと思っている。であるならば、『デイヴィッド・リンチによる福音書』などという本を書きリンチ作品について論じることは、創作者の意に反していると言わざるを得ない。また、創作者の意図はおくとしても、そもそもこのような本が映画鑑賞者の利に資するだろうか。映画作品に関してコメントすることで、私の『福音書』は、その作品の意味するところについて間違った考えを読者に伝えてしまう可能性もあるのだ」

……という言及でした。というわけで、残念ながら、当面「デイヴィッド・リンチによる福音書」が刊行されることはなさそうです。でも、んなもん、プロ・アマ含めて(もちろん大山崎も含めて)、みんなリンチについて好き勝手なことを言ったり書いたりしておるわけで、どんどんやっちゃっておヨロシイのではないのでしょーか……と、海の向こうから無責任にけしかけてみる春の日の午後なのでありました。

2010年3月20日 (土)

「Dark Night of the Soul」のCDがリリースへ

Darknightofsoul さて、デイヴィッド・リンチとのコラボレーション企画(になるはずだった)Danger MouseのCD「Dark Night of the Soul」っつーのがありまして、リンチ撮影の写真集にこのCDをつけて、限定数発売の予定だったのはご存知のとおり。

ところが、このCDには他レーベルのミュージシャンが参加しており、そことのトラブルを恐れた音楽会社EMIとの調整が頓挫。CD発売が無期延期になっちゃったもんで、「レーベルだけ印刷した生CD」がついた「リンチ撮影の写真集」が発売される結果に。んでもって、「中身の音楽はネットの海のどこかに転がっているから、勝手にダウンロードして生CDに焼いてちょ」という豪快なハナシになりました……というのも、既報のとおり。

ここにきてやっとモロモロの調整がついたらしく、件のCDがめでたく発売される運びとなったという情報が流れております。発売時期はまだ現在のところ確定していませんが、「6月くらいに出せたらいいなあ」というのが担当プロデューサーのコメント。

そりゃ、めでたい。よかった、よかった……なんですが、「生CD付き写真集」を購入した人の処遇は、いったいどーなるんでしょーか? って、大山崎のことなんですが(笑)。まさか購入者にタダでCD配ったりは……してくんないだろうなあ、やっぱ(笑)。

2010年3月15日 (月)

「David Lynch: Interviews」を読む (3)

そんなこんなで、Richard A. Barney編の「David Lynch: Interviews」を読んでのアレコレの第三回目。

今回は、「エレファントマン」(1980)関連の記事をば二発。

一本目は、作品が公開された年、すなわち1980年の「Box Office」10月号に掲載されたJimmy Summersによる記事です。この記事もリンチへのインタビューをもとに記者がまとめるという、「聞き書き」の形式をとっています。

記事中、本当は「イレイザーヘッド」の次回作として、これも完全オリジナルである「ロニー・ロケット」が作りたかったとリンチは述べています。しかし、「イレイザーヘッド」がミッドナイト・ムービーとして成功したとはいえ、スタジオから声がかかるほど収益をあげられたわけではなかったことも、同時に認めています。そして、映画の仕事を続けるためには、他の誰かの題材をもってするしかないと決意したと述べます。このあたりの経緯はGreg Olson氏が「Beautiful Dark」でも触れていましたが、おそらく元ネタはこの記事だと思われます。

このあと、リンチがメル・ブルックスに認められて「エレファントマン」を作ることになった経緯が述べられていますが、ここではサクっと省略っと(笑)。

クリストファー・デヴォアとエリック・バーグレンが書いた「エレファントマン」のシナリオは、まずメル・ブルックによって、次にリンチが参加して、都合二回の修正が施されています。当初のシナリオ自体がよくできていたことを断ったうえで、リンチは「シナリオは手直しされたが、我々のジョン・メリックに対する愛情はなにも変わらなかった。我々は彼に対して忠実であり続けたし、彼のキャラクターをもてあそぶことはしなかった」と述べています。この発言の「彼」という言葉を「アイデア」に置き換えれば、リンチがことあるごとに繰り返す「アイデアに忠実であれ」という発言と完全に重なるのは非常に興味深いところであります。

「エレファントマン」の製作が終わったあと、デヴォアやバーグレンたちと、もう一度組んで仕事をするかどうか話し合ったことをリンチは明らかにしています。そして、最終的に、自分で何かシナリオを書くほうを優先させることにした、と。「自分が本当にやりたいことをするには、自分自身でやるしかないと思った。自分がこの作品はいいと信じていても、そうでない人間が少数でも携わっていたとしたら、結局のところそれは妥協することになる。可能な限りコントロールする権利を手に入れることは、自分にとって本当に重要なことなのだ」というのがこのときの弁。ですが、ご存じのとおり次に作ったのがデ=ラウレンティスと組んだ「砂の惑星」で、なおかつここで恐れていたとおりの結果になっちゃったわけで、リンチ、言ってることとやってることが矛盾しています(笑)。わかってんなら、やんなきゃいーじゃんよーてなもんですが、まあ、「諸般の事情」というのはどこにでもあるということで(笑)。

二本目の「エレファントマン」関連の記事は、「Movie Maker」の1985年10月号に掲載されたStuart Dillinによるもの。掲載年をみればわかるように、この記事が掲載された時点で「砂の惑星」(1984)は公開済みで、すでにリンチは次の作品である「ブルー・ベルベット」の製作に入っています。そんなタイミングに掲載された記事だけあって、公開あわせの紹介記事とは少しく違った傾向のものになっています。

どこが異なっているかというと、記事が主眼としているのは「モノクロ映画の撮影」についてであって、その例示作品として「エレファントマン」がとりあげられているんですね。監督であるリンチがモノクロ映画としての「エレファントマン」についてその芸術的側面を語り、撮影監督だったフレディ・フランシスが技術的側面を述べる構成になっています。といった機序の記事なので、前半はフランシスの発言をもとにし、後半はリンチの発言をもとにしているというように、文字量的にも二人はほぼ均等に扱われています。

フランシスはモノクロ撮影ならではの技術的困難について説明しています。カラーだとそれぞれの色はそれぞれの色として撮影されるけれども、モノクロでは「色」を光と影に落とし込まなくてはならない……つまり、もとが異なった色であってもモノクロでは同じ明度になってしまうことがあり、それを見越した「色彩設計」が必要になるということです。なるほど、言葉をかえればさまざまな撮影対象の「色」がモノクロで表現されたとき、どのような明るさの「灰色」になるかを考えねばならないというわけですね。また、フィルムそのものの選択(「エレファントマン」ではKodak Plus Xを使用)や、カラー全盛時代になってモノクロ・フィルムの需要が減り、そもそも生産量が少なくて品薄なのに、撮影途中で駄目になっているフィルムが見つかって必要量を確保するのに苦労したといったエピソードも明らかにされています。

一方のリンチですが、「エレファントマン」をなぜモノクロで作ったのかという質問に対してこのように答えています。「自分にとっては、すべてがフィーリングと直感だ。カラーであるべきと感じた作品はカラーで撮るし、モノクロで撮るべきと感じた作品はモノクロにする」……って、おーい、あんまり参考にならんぞ(笑)。当然ながら記者も同様に感じたようで、ではカラーでは不可能だけどモノクロだと出来ることってナニ? という突っ込んだ質問をぶつけています。それに対しても「それもよく聞かれるんだが、言葉で説明することは難しい」と答えるリンチ。うーん、この時点で、記者は「ぐわ、とりあげる作品を失敗した」と思ったかも(笑)。

とはいえ、そのかたわらリンチは「モノクロ映像がもつ力」について、自分なりの観点から語ってもいます。「モノクロ映像は、観客を異なった世界に誘う力を備えている。『エレファントマン』では過去(の世界)だし、『イレイザー・ヘッド』ではパラレル・ワールドだ。ときとして、カラー映像はリアル過ぎて異なった世界に没入するのを妨げることがある。モノクロ映像は、物事をより純粋にするのだ」「(モノクロ映像は)より物事をパワフルにする--観客を現実から切り離すという点で。これがうまく寄与する作品もあれば、そうでない作品もある。そこが直感の働かせどころだ」……というように。なんだ、割とうまく説明できてるんじゃん(笑)。よかった、よかった、安心した(笑)。

この時点で「ブルー・ベルベット」の製作作業に入っていたことは前述したとおりですが、この作品をカラーで撮ることを決めるに先だって、リンチはモノクロでのテスト撮影を行ったそうです。それを上映してみたあと、最終的に「ごちゃごちゃし過ぎて、かえって平板になっている」という判断をリンチは「直感にしたがって」下し、カラーでの撮影を決めたとか。「フィーリング」や「直感」というと、我々はどうしても漠然としたイメージを連想してしまいますが、リンチの場合、そうした周到な実テストを踏まえたうえでの「フィーリング」や「直感」であることには留意しておくべきだと思います。あるいは「インランド・エンパイア」も、そのような「実テスト」の延長線上に成立した作品であるといえるかもしれません。

続いて、フレディ・フランシスと同様、リンチもモノクロ撮影特有の難しさを語ります。そこで言及されているのは、基本的にはやはり「撮影対象の描き分け」についてです。ただ、フランシスがこの問題を「撮影対象の色彩設計」の視点から語っていたのに対し、リンチは「撮影対象のテクスチャー」……滑らかなのか、柔らかいのか、稠密であるのか、あっさりしているのか……という観点から考える必要性を主張します。かつ、それにとどまらず、「テクスチャー」を基本として考えるほうが自分には好ましく、「撮影対象が備える色」をそのまま撮影することが可能なカラーはあまり面白くないとまでリンチは言及しています……当時製作中だった「ブルー・ベルベット」に関しても、「撮影対象をカメラの前に置いて、ただ撮っただけ」であると。同作品の冒頭に現れる鮮烈な色彩群を思い浮かべるとき、これらの発言はちょっと意外ですらあります。

この「テクスチャーの問題」は、記者による「『イレイザー・ヘッド』はフィラデルフィアから生まれた。では、『エレファントマン』はどこから生まれたのか?」という質問への回答においても言及されています。「まず出発点になったのは『テクスチャーへの嗜好』だった。そしてこの嗜好は、『表層の下にあるもの(beneath the surfac)』という、興味をそそられるアイデアにつながっていった。エレファントマンの外見(surface)の下には、素晴らしい魂が存在している。その魂の素晴らしさは明白だが、外見のせいでなかなかそれは理解されない。これは良いアイデアだと自分には思えた」とリンチは述べています。もちろんこのアイデアは”『内面』にあるものを覆い隠す『外面』  という具合に読み替えることが可能であり、”人間の内面を表すものとしての「家」”というリンチの共通テーマと通底しているのは間違いないかと。

さて、記事の最後で、リンチはこのように発言しています。すなわち、「自作映画のほとんどのシナリオを自分で書いているが、それは青写真であり、フィーリングであり、アイデアに過ぎない。映画にしたときの最終形は頭の中にある。問題なのはフィーリングであり、そのフィーリングには忠実であり続けなくてはならない。途中で気持ちを変えれば変えるほど、アイデアは弱くなり、映画も弱くなる。製作を進めているうちにあるシークエンスやテンポが要求される場合もあるだろうが、結局のところ必要となるのは、じっくり腰を落ち着けてそもそものフィーリングがどのようなものであったかを思い起こすことだ」……と。

といった具合に、使われている言葉の違いはありますが、先に紹介した1980年における発言と同様、これまたリンチが現在も繰り返し述べている「アイデアに忠実であれ」という発言のヴァリエーションあるいは原型であるといえます。このことからもわかりように、少なくともこの30年にわたってリンチの「製作に対する基本的な姿勢」はまったく変わっていません。あるいは、今回紹介した二つの発言の間にある言葉の差異は、リンチの「思い」が「確信」に変わる過程を表しているようにも思えます。

(続く)

2010年3月 5日 (金)

Wikipediaをめぐる出版ビジネスと電子書籍のあれこれ

さて、日ごろの話題とはころっと変わりますが、先日のAlphascript Publishing社の話題をきっかけに、Wikipediaに関連した書籍ビジネスの例を調べてみました。

ざっと見回した範囲ですが、まずWikipediaをもとにした書籍ビジネスに手をつけたのは、意外やドイツの大手出版社Bertelsmannでした。2008年に「Das WIKIPEDIA Lexikon in einem Band(The One-Volume Wikipedia Encyclopedia)」という992ページの小百科事典を19.95ユーロの価格で刊行しています。これは、ドイツ版Wikipediaから参照率が高い25,000項目を抜粋したもの(当時の独Wikiの全項目数は750,000項目)。

ドイツ版Wikipediaは記述の正確性が高いことで定評があるらしいですが(国民性ですかね?)、それでもやはりBertelsmann社のほうで校正・校閲を行ったようです。ま、ここらへんは出版社としての矜持でしょうか。好評であれば、年度版として以降毎年刊行することを狙っていたようですが、どうやら続刊が出た様子はありません。

刊行に際して、一冊売れるたびに1ユーロを独Wikipediaに寄付するという仕組みをBertelsmann社は採用しましたが、でもやっぱりこのときもWikipedia執筆者の間で「こういう商売はどうなんだ?」という議論が起きています。最終的には、「GFDL(GNU Free Documentation License)のライセンス下では、商業利用は問題なし」というのが結論になった気配。

次に目に付いたのが、Pediapress。こちらは、Wikipediaからユーザーが自分で選んだ記事項目を、まとめてオンデマンドで書籍化してくれるサービス。最低価格がUS$ 8.90 (100ページ)からということで、Alphascript Publishing社に比べてかなり良心的な価格設定になっています。なんだ、これでいいじゃん(笑)。

サイトにあるサンプルPDFをみてみましたが、「記事は専門家や学識経験者が書いたものとは限らず、誤りがある場合がある。内容の正確さを求めるなら、専門家や学識経験者が書いた書籍を読むことを勧める」由の断り書きがありました。このあたりも、この会社の良心性を物語るものであるといえます。各国語版のWikipediaに対応しているようですが、日本語に対応しているかどうかは不明。

もうひとつが、DailyLit。こちらはちょっと異質で、版権が消滅した書籍や版権がフリーの書籍を、メールあるいはRSSで配信してくれるサービス。一冊を丸ごと配信するのではなく、こちらが読み進むペースにあわせて何ページかずつ配信してくれるところがミソ。「スポーツ偉人伝」など、英語版Wikipediaに記載された記事をまとめたものが3点ほどあります。

現在のところ、登録・配信は無料。試しに「週三回配信」という条件で登録してみて何日かたちましたが、なぜか今のところ配信されてくる気配なし。あれえ?

……という具合にそれぞれに特色があって、ひとくちに「電子出版(およびその周辺)ビジネス」と一口にいっても、多様な方法論があるなと感じました。

そのなかでも、Bertelsmann社の方法論は現行の「書籍」の概念にもっとも近いものであるといえます。とりようによっては、事典を作るに際して、Wikipediaを項目選択のツールに使い、その記述を「第一稿」として流用したという見方ができるかも。

逆にPediapress社のモデルは、ユーザー側が自分の必要な項目を選択できるところが、ウェブとオンデマンドの特性を生かしているように思います。考えてみれば、これもWeb to Printの一形式なんですね。

DailyLit社のサービスも、「ペーパー・レス」であることはもちろんですが、「読書ペース」あるいは「途中で読むのをやめる権利」というユーザー側の自由度を認めている点が、Webベースならではという印象を受けました。

こういう具合に他例をみていくと、やはりAlphascript Publishing社の方法論には何かひっかかりを覚えざるを得ません。と同時に、同社のビジネス・モデルが引き起こしている波紋は、これから日本においても電子出版が本格化したとき、どのような問題が発生し得るかについて示唆を与えてくれるような気がします。そこでは、内容が充分吟味された書籍も、そうではない書籍も、一律に「情報=データ」として並べられることになります。たとえば米Amazonは、自分が書いた文章をKindle版データに変換して売るシステムを設けています。厳しい言い方をすれば、実績のない著者でも、自分の書いた本を大手出版社の本と同列に並べて売ることが可能なわけです。確かにそうした「紙ベースの出版からの解放」のなかでは、既存の出版社では出版不可能な、非常にユニークな本が登場する可能性もあります。しかし、同時に、「検索システム」や「リコメンド・システム」「アフェリエイト・システム」の特性を利用し、それらのシステムにうまく乗っかる手法をとった「書籍」の露出度が上がるという状況も、充分にあり得ることでしょう……そう、Alphascript Publinshing社の本のように。

もしその書籍に充分な「内容」が伴っていない場合、一定のスパンでみれば、ユーザー側の「評価」によってそうした「露出」が無効化されていくだろうことは間違いないと思います。が、ネットがもつフラットな特性は、ユーザー側の取捨選択に対して、逆方向の負荷を与える可能性があることは念頭においておくべきかもしれません……そして、そこでは「出版社」という「フィルター=吟味」が無力化される可能性があることも、また。

2010年3月 2日 (火)

「David Lynch: Interviews」を読む (2)

つなわけで、Richard A. Barney編の「David Lynch: Interviews」を読んでのアレコレの第二回目。

まずは、「イレイザーヘッド」が公開されてミッドナイト・シネマとして話題になった頃のインタビューが2本。

1本目は「Soho Weekly News」の1977年10月10日付に掲載されたものですが、主体となっているのは記者が書いた「イレイザーヘッド」評およびリンチの略歴紹介であり、リンチの発言はその大部分が記者の書いた文章のなかで引用されるという形式になっています。いわゆる一問一答形式になっているのは全体の6分の1くらいで、あろうことかその部分で論じられているのが例の「赤ん坊」の話題だもんで、ぶっちゃけリンチは言葉を濁しているだけという始末です(笑)。ダメじゃん、インタビューになってないじゃん(笑)。

まあ、基本的にこれは純粋な意味でのインタビューというよりは、記者がインタビュー取材をしたうえでまとめた記事である……と理解したほうがよいと思います。取材で得たインタビュー対象者の発言を記事内に引用するというのは、もちろん特別な手法ではありません……オレが言いたかったことと違う! ってな騒ぎが起きる可能性のあるパターンでもありますけど(笑)。むしろ気になるのは、わざわざ一問一答形式の部分を残した意図であります。非常に穿った見方をするなら、「コイツったら、ずっとこんな感じで困っちゃいましたよー」ということを言いたいがために、特に困っちゃった箇所をば一問一答形式のままにしたのかもしれません(笑)。

とはいえ、その抜粋され引用されたリンチ発言のなかにも、なかなかに興味深いものもありました。記者は「イレイザーヘッド」のモノクロ画面について「初期のポーランド映画や、日本映画あるいはロシア映画のいくつかを連想させる」と述べます。しかし、リンチは「『イレイザーヘッド』はドイツ映画の匂いがするという人がいる」ことは認めつつも、海外映画からの影響を完全に否定しています。記者が挙げたような海外映画作品は観たことがないし、「本当に『イレイザーヘッド』に影響を与えたのはフィラデルフィアなんだ」、と。

個人的には、記者のいっている「海外映画作品」が、いったいどのあたりを指しているのかが気になります。具体的な作品名を挙げていてくれれば、ああ、その頃はそーゆーふーにみられてたのねというのがわかって参考になったんですが。さて、通常、「初期ポーランド映画」というとどこらへんを指すんでしょーか。初期というからには、いわゆる「ポーランド派」……イェジー・カワレロウィッチとかアンジェ・ワイダとかの作品を言ってるわけではなさそうに思うんですが、すんません、それ以前のポーランド映画って観てないんでよくわかりません。日本映画はモノクロ映像の美しさという点で、小津とか溝口とかあたりかながありそうな線。ただし、衣笠貞之助の「狂った一頁」が1975年1月に米国で上映されていたりするので、もしかしたらもしかしたりなんかして(笑)。同様に、ロシア映画はどのあたりを言ってるのかも不明瞭なんですが、ぱっと思いつくのはジガ・ヴェルトフとか……いや、有名どころ過ぎるかなあ? あわせて、当然ながら「イレイザーヘッド」に「カリガリ博士」などのドイツ表現主義映画の影響を認める向きが当時からいたらしきことも、リンチの発言からはうかがえます。

2本目は、「East Village Eye」の1980年2月号に掲載されたもの。こちらは、オーソドックスな一問一答形式のインタビューになっており、ここでは創作作業における「アイデア」に関して発言しています。

「アイデアは断片(fragments)の形でやってくる。次にするのは、それらの断片をつなぐ織り糸(thread)を手に入れることだ。そこまで来ればもう少しだ。一度この織り糸を手に入れれば、他の断片も収まるべきところに収まり、頭の中で何かが出来上がる」

とまあ、このリンチ発言だけピックアップしてしまうと、通常の映画製作の方法論とどこがどう違うのか、あまり明確でないように感じます……程度の差こそあれ、プロットやシナリオを作製する段階で同じようなことを誰でもやってるわけで。しかし、後にのインタビューで出てくる「アイデアとテーマの関係性」に関するリンチの発言をあわせて読むと、両者の「差異」というか「温度差」というかが明確になってきます。

「通常の方法論」による作品であれば、大部分において、その「織り糸」となるのは「テーマ」です。そのような作品において、リンチが述べているような作業はプロット作成やシナリオ製作の際に行われるのが普通です。その過程においてさまざまな修正が加えられるわけですが、その修正基準は「テーマの明確化」です。「テーマの明確化」に寄与しないアイデアやプロットは修正あるいは削除され、より寄与するアイデアやプロットへと置き換えられると同時に、可能な限り「単純化」されます。それがハリウッドの手法であり、いまやグローバル・スタンダードとなっている手法です。極論すると、そこでは「織り糸=テーマ」のために「アイデア=断片」の修正や取捨選択が行われるわけです。

しかし、後に「マルホランド・ドライブ」に関するインタビューで、リンチは……

「一連のアイデアのなかからテーマが見つかるなら、それは素晴らしいことだ。しかし、何かテーマを手に入れたから『このテーマで映画を作ろう』と考えるのは、自分にとっては本末転倒だ」

……と述べています。これらの発言をみるかぎり、リンチはあくまで「アイデア=断片」のほうを優先的に考えており、「織り糸」はよくてそれと同等あるいは従に過ぎません。かつ、リンチ作品における「織り糸」は、いわゆる(「ナラティヴな作品」における)「テーマ」と呼ばれるものだとは限らないし、その明確化はリンチの意図するところではないといえます。リンチのいうアイデアとは、有機的に結合し、その総体として緩やかに作品を形成するものといえるでしょう。

これらのリンチの発言を了解するうえで、結果として「イレイザーヘッド」は完成までに5年の年月を費やしており、その撮影作業と平行して”「アイデア=断片」をつかまえ「織り糸」でつなぐ作業”が同時進行的に行われていたことは念頭においておくべきだと思います。そして、ほぼ同じことを直近の「インランド・エンパイア」でもやっちゃってるわけで、リンチの創作技法そのものは最初期から現在に至るまで、まったく変わってないことがわかります。

(続く)

2010年2月22日 (月)

またもやリンチの関連本のハナシ……なんだけど、なんだ、こりゃ?

えー、リンチの新しい関連本の案内メールが米Amazonから届きまして、要するに「アンタ、以前に『Airs on Fire』とか買ったっしょ? こんな本もあるんだけど、買う?(てか、買え)」(大幅に意訳)とゆーヤツですね。

Alphascript 今回オススメいただいたのは(笑)、「David Lynch: Film director, Visual arts, Academy Award, Academy Award for Best Director, The Elephant Man (film), Blue Velvet (film), Mulholland Drive ... Festival, Venice Film Festival, Surrealism」というクソ長たらしいっつーか、早口言葉みたいっつーか、寿限無っつーかなタイトルの本なのだけど、これがまた192ページで$78とエラク値段が高い。

いや、まあ、学術書だとこの値段もあるかなあ……と思いつつ、念のために幾ばくかでも内容を知りたくて出版元であるAlphascript Publishingの公式サイトをみてみたら……あらあらあら(笑)。

要するに、この出版社、Wikipediaの記事をそのまんま使って本を出すという商売をしているところなんでありますね。とりあえずこれがわかった時点で、大山崎は購入しないことに決定。「全部web経由でタダで読めるんじゃん」というのはともかく、内容に関する正確性の問題から「校閲等の典拠として、Wikipediaの記述は使わない(使えない)」というのは、出版に関わる者なら常識なんであります。

で、この時点で、大山崎の関心は、本ではなくてAlphascript Publishingという出版社そのものに完全移行(笑)。いろんなショーバイを思いつくなあ、でもこれって違法性はないのかなあ? と思ってネットの海を漂ってみたら、まずAlphascript Publishingのサイトに、英新聞Guardianに掲載された記者会見の記事があるのをみっけ。

「Alphascript Publishingが出す本は、すべてWikipediaの記事をもとにしているのか?」という質問には「イエス」。「だとしたら、なんか断り書きがあってもいいんじゃないスか?」という質問には、「じゃあ、他社の本も『この本には馬鹿げたことが書かれています(Attention! Book contains nonsense!)』とか『この本には性的な話しか書かれていません(Attention! Book has only sex-scenario!)』とか断らなきゃならないのか?」と完全に開き直ってます……が、米Amazonに掲載されているリンチ本の表紙写真をみた限りでは「High Quality Content by WIKIPEDIA articles!」と書かれておりますね。やっぱ、読者からクレームが相次いで、初志貫徹は難しかったんでしょうか。

いうまでもなく、記者会見でも「読者から文句がきたらどーすんの?」と突っ込まれてるわけですが、それには「もちろんネット経由で全部タダで読めるわけだが、特定の題材に関しては書籍の形で買っておきたいこともある。状況にもよるが、記述追加もできない去年出た本を買うのではなく、Alphascript Publishingの本を買えば最新の情報が手に入るのだから。我々が生きている時代は、時間の流れが早いのだ」とか答えてます……いや、にしても、どういう「状況による」んだかどうにも考えつかないんですけんども、ネットはおろか電気もない絶海の孤島に行く方とか、「PC使っちゃいけない教の信者」とかの、完全デジタル・デバイドな方むけなんですかね?

「これは、書籍の形態をとったインターネットなのだ」ともおっしゃってますが、うーん、正直なところ、大山崎には「情報の不正確性」というネット・ベースのデメリットと、「出版スピードの遅延」「流通コストの発生」という紙ベースのデメリットの両方を兼ね備えたビジネス・モデルにしかみえませんが、さて、どーしたもんでしょう(笑)。

次いで、Alphascript Publishingの親会社であるVDM groupのサイトには、CEOであるPhilipp Muller氏に対するインタビューがみつかりました(現在は削除されているようで、Googleの「クィックビュー」からしか読めません)。「Alphascript Publishingが、Wikipediaの記述を無断で書籍化することについての合法性」を問われたMuller氏は、以下のように答えています。「同じ質問をGoogleにもしたのか? 彼らは何年にもわたって、著作権に守られた著作物をスキャンしてきた。そして、Googleは著者や出版社の許可なしにそれらの書籍を売っている。これは違法であるばかりではなく、剽窃だ。で、まさに彼らはトラブルに巻き込まれようとしているわけだ。AlphascriptとFastBookはそれとまったく異なり、最初から出版することが可能な著作物を本にしている。インターネット上にはいわゆる『コピーレフト(copyleft)』の著作物があって、誰もが自由に利用できる。ということは、明らかにそれを商用利用する許可も与えられているわけだ。我々が行っているのは、まさにそれなのだ。これまでになかったことではあるかもしれないが、合法だ」

この主張が、Wikipediaが採用している「GFDL(GNU Free Documentation License)」の条件に適合しているのかどうか、ちょっとにわかには判断がつきません。確かにGFDLでは基本的に商用利用も認められています。が、それは「当該領域の学術的発展」や「知的情報の共有」を前提にした話であるはずです。さて、Alphascript Publishingのケースが本当にそれに該当するのかどうか。

それはそうと、Alphascript Publishingの会社所在地はモーリシャス共和国なんすね。おそらく人件費の安いアフリカで製作の実作業を行っているんだと思いますが、それにしちゃ、このお値段はどーゆーことだ?(笑) ネット上ではもちろん「いいのか、これ?」という質問や議論も発生している様子です。あの長ったらしい書名は、「インターネット検索で引っ掛かりやすいようにしているのだ」という説もありますが、むしろ今回のメールのように、「Amazon等の『リコメンド・システム』に引っ掛かりやすいように」という手法であるのかもしれません。で、その企業努力の成果として(笑)、米Amazonや日Amazonだけではなく、日本の某書店のサイトで検索しても大量にAlphascript Publishing社刊行の本が引っ掛かってきますね(まったく引っ掛からない書店サイトもありますが、意識的にAlphascript Publishing社の本を排除しているのかどうかはわかりません)。うーん……昨今巷でかびすましい「電子書籍」への流れを考えたとき、なんかヤバいものを感じるのは大山崎だけでしょーか?

笑えたのは、元祖Wikipediaにある「Alphascript Publishing」の項目で、「グルジア(Georgia)共和国」に関する本のカバーに「アメリカ合衆国ジョージア(Georgia)州」の写真が使われている本とか、アメリカン・フットボールのチームに関する本のカバーに「サッカー選手」の写真が使われている本とかの例が記載されています。まあ、この、Wikipediaの記事を書いている著作者側がAlphascript Publishingに対してどのよーな感情をもっているかは想像が付くし、現物を見ていないんでナントモなんですが、なーんか「校正やら校閲やら、一切されていないのかも」という危惧を抱くのは大山崎だけでしょうか。いや、あるいは「爆笑本」としてはすっごく優秀なのかもしれませんが(笑)、騙されたと思って試しに買うにはこの値段はちょっと。10ドルぐらいなら話のタネに買っちゃうのになあ、惜しいなあ(笑)。

今回のリンチ関連本に関しても、リンチ本人や映画会社を含めた関係各所になーんもアプルーバルをとっていないことは、容易に想像がつきます。ってえことは、当然ながら本人の写真や映画のスチルを含めた図版類は一切ないんでしょうね。ならば、いっそカバーにヴァージニア州リンチバーグ(Lynchburg)の風景写真なんか使っていただけてたら一層おシャレだったんですが、実際はご覧のようなの感じで、これまた非常に惜しいところであります(笑)。

Crimzontide PS. カバー、みっけ(笑)。 アラバマ大学のアメフト・チーム「クリムゾンタイド」の本なのに、躊躇なくサッカー・ボールをば蹴飛ばしとりますなあ(笑)。写真使用の許可がとれなかったんだろうけど、いくらなんでもこれはないんではないだろーか。大学関係者や同校出身者は怒ってるかも。

2010年2月21日 (日)

「David Lynch: Interviews」を読む (1)

Lynch_interviews_3 というわけで、やっとこさでRichard A. Barney編「David Lynch: Interviews」を読了。

内容としては、「イレイザーヘッド」から「インランド・エンパイア」まで、デイヴィッド・リンチの映画作品に関連するインタビューを作品順に24本、まるごと再録するという構成になっております。

以前刊行されたHelen Donlon編のリンチ発言集「According to... David Lynch」はあまりに断片的であり、編者の恣意的なテーマ分けがされていることもあって、ちょっと資料として使いにくい面がありました。また、クリス・ロドリーのロング・インタビュー本「リンチ・オン・リンチ」は、狭い範囲の時点におけるリンチの考えが反映されたものであったといえます。それらに対し本書は、前後の文脈からリンチの意図を確認しつつ発言を読める点、そして1977年から2008年にかけたリンチの考えの変遷(あるいは不変化)を確認できる点において、先行する類書にはない特長を備えているといえます。。当然ながらインタビュアーはそれぞれ異なっており、多様な立場や考えからのアプローチがみられる点でも興味深い点です……逆にいうと、形式や視点における統一性には欠けているわけですが。

いずれにせよ、リンチに関する基礎資料として、本書が現在もっとも重要なもののひとつであることは間違いありません。事実、「Beautiful Dark」でGreg Olson氏が引用していたリンチ発言の多くが本書には収録されており、氏が述べている作品分析等を理解/検討するうえで非常に有用です。いうまでもなく、自分なりのリンチ理解を構築するうえでも、本書は必須資料といえます。

全体的な印象をざらっと述べると、まず感じたのは「リンチに対するインタビュー」そのものの質的変化です。これには二方向からの意味合いがあって、まずひとつはリンチの「インタビューを受けるという行為」そのものに対する考えの変遷があること。「イレイザーヘッド」のころは「何かについてしゃべる行為」の意味そのものが理解できなかった……という趣旨のことを自身で告白しています。そりゃ、インタビューとして成立しませんわな(笑)。その一方で、年代が下って作品数が増えるにつれて、(もちろん全員ではないですが)インタビュアー側のリンチ作品に対する理解が深化している面もあるようです。結果として、後半になればなるほど(具体的にいうと「マルホランド・ドライブ」のころから)、リンチとインタビュアーの話が次第に噛みあってきており、「作品論」的な遣り取りが増える傾向がみられます。

逆にいうと、「イレイザーヘッド」「エレファント・マン」「デューン」あたりのインタビューは、デイヴィッド・リンチという「新人映画監督」の紹介にウエイトが置かれている感じです。もちろん、その時点では適切な方法論であったと思うのですが、現時点で読み返すとすでに知っていることばかりであるのも確かです。そんななかで、「Movie Maker」誌が行った「エレファント・マン」に関するインタビューは、撮影監督であるフレディ・フランシスによる具体的な撮影技法の話も収録されており、技術論として興味深い点で異色でした。

個人的にもっとも詰まらなかったのが「ツイン・ピークス 劇場版」のころのインタビューです。あるいは、この作品に関するインタビューの低質さは、そのまま当時の「ツイン・ピークス 劇場版」に対する評価の低さの反映であるかもしれません……他に収録されたものより優れたインタビューが存在しないという意味で。ただし、この頃の体験が「他者の評価を気にしない/見ない」というリンチの姿勢を形作ったのならば、その後の「インタビューに対する姿勢の変化」につながっているとも受け取れます。先に述べた”「リンチに対するインタビュー」そのものの質的変化”という観点に立つなら、この「低質なインタビュー」自体が「その変遷を測る指標」といえなくもないのではないでしょうか。

てなことで概論的なことは終わりにして、次回からはリンチの発言で興味深かったものをピック・アップする形で紹介を続けたいと思います。

(続く)

2010年2月 3日 (水)

またもやリンチ関連本のおハナシ

えー、チンタラとデイヴィッド・リンチのインタビュー集を読み進めているわけですが、まだそれが読み終わらないってーのに、またもや新しいリンチ関連本が刊行されるという情報が。

Film_painting_3 The Film Paintings of David Lynch: Challenging Film Theory」という文字どおり挑戦的なタイトルの本でありまして(笑)、すでに米Amazonnでは予約開始中。現在のところの刊行予定日は5月15日。出版社が、なぜか米アマゾンではIntellect Ltd というイギリスの会社になっている一方、英AmazonではChicago University Pressになっているという、いわば英米クロス・カウンター状態なんですが(笑)、さて、どーゆー機序でそうなっているのかはまったく理解の彼方であります。

で、この本の趣向でありますが、説明文を読む限りでは、どーやらリンチの映画作品を他のファイン・アート群との関連性において論じようという試みであるよーです。そもそもリンチが画家を目指していて、映像作品を作り始めたのは「時間経過とともに動く絵」を作りたかったからだ……というのは有名な話でありますが、著者のAllister Mactaggart氏が主張するに「これまでのリンチに関する研究は、他の芸術形態との関連性を等閑視してきた」そうであります。うーん、そっかなあ? いわく「リンチ作品を映画理論や美術史、精神分析や映画と刺激的かつ斬新に関連づけつつ、映画監督としてのリンチに関する新しい視点を提示する」云々……おお、すげえアタマ痛そうだ(笑)。

Allister Mactaggart氏は、チェスターフィールド大その他で映画学と美術史の講師をやってらっさって、どーやら主にリンチを研究対象にしておられる方らしい。2006年には「Surface Attraction: Hyphological Encounters with the Films of David Lynch」とゆー論文を上梓、専門に映像文化と並んで精神分析も入ってるという……うう、やっぱり、アタマ痛そうだなあ(笑)。

なんか「挑戦」されているのはコチラのよーな気もしますが(笑)、ま、読後の感想はあまり期待しないで期待しといてくだちい(笑)。

余談でありますが、Steven Dillon氏による「Sollaris Effect」とゆー本を読んでおりましたら、フランスにおけるリンチ作品の評価状況(というか、90年代頭からの「カイエ・デュ・シネマ」方面におけるリンチ評価の変遷)が述べられていて、たいへん興味深うございました。にしても、「確かにこれは狂気と紙一重の映画狂ぶりだ。だが、カイエの連中はいつだってアタマがおかしかったのだ(This is cinephilia, surely, at the edge of insanity, but Cahiers has always been out of its head)」というくだりには思わず笑っちゃいましたが(あ、これはリンチではなくて、ブライアン・デ・パルマの「ミッション:インポッシブル」を「90年代アメリカ映画の最高峰」とするEmmanuel Burdeau氏の文章に対しての記述ね、念のため。ほんでもって、基本的にDillon氏は褒めてますので、これまた念のため)。

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