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書籍・雑誌

2009年9月10日 (木)

リンチの新インタビュー集のおハナシ

新しいリンチ関連本ネタ。

Lynch_interviews 本家公式サイトではリンチによる「Interview Project」が進行中だけど、こちらは「David Lynch: Interviews」っつーデイヴィッド・リンチのインタビュー集が刊行されるという話題。刊行予定は9月21日、版元はミシシッピー大学出版局で「Conversations With Filmmakers Series」というシリーズの一冊である模様(他にはウェルズとかコッポラの本が出てますね)。すでに米アマゾンで予約が始まっておりまして、ペーパーバック版が通常価格$22.00のところ、現在なんと32%引きの$14.96也。日アマゾンでも予約受付中で、こちらは¥2,610也。

著者のRichard A. Barney氏はアルバニー大およびニュー・ヨーク州立大の助教授で英語専攻であらせられるらしく、そっち方面のお堅い著作も多いご様子なのだが、なぜにいきなりリンチ本? ひょっとしてもしかして、単なるファンだったりする?(笑)

リンチのインタビュー集といえば、クリス・ロドリーの「リンチ・オン・リンチ」という先行書があるのだけども、あれは単独のインタビュアーによるロング・インタビューでありました。今回出版されるのはそれとは違い、いろんなインタビュアーによって行われ、雑誌やらウェブ記事やらに掲載されたものを再録した「よりぬきインタビュー集」という体裁であるようです。

ネタとしては、「グランドマザー」といった初期作品から最新作「インランド・エンパイア」までの映画作品はもちろん、絵画作品や写真作品をも含めたアレやコレや。「質問に対しリンチが韜晦をもって答えるのでなく、率直に答えたレアなインタビューを集めた(editor Richard A. Barney has chosen the rare interviews in which Lynch opens up to questions rather than deflecting them)」とゆーのがウリになっております。ホンマかいな……とお思いの方も多いでしょうが、実はインタビューの仕方によっては案外マトモに答えていることも多いんですよ、このシト。日本語によるインタビューのほとんど全部が「韜晦の彼方」であるのは、「新作公開」のタイミングでしかそういう機会がないことが大きいように思うのと同時に……まあ、そーゆーわけですな(笑)。

とうゆーわけで、とりあえずポチっとな(笑)。現物が届いたらまたレビューなんかやらかしてみるつもりでありますので、乞うご期待っつーことで。

2009年8月 1日 (土)

「A Page of Madness」を読む (2)

つなことで、予想外に続いてしまいましたが、衣笠貞之助監督作品「狂った一頁」に関するイェール大助教授アーロン・ジェロー氏の評論本「A Page of Madness  Cinema and Modernity in 1920s Japan」をば読んでアレコレ感じたことのメモの第二回目。今回は、フランス印象主義映画と「狂った一頁」との関連について。

「狂った一頁」はドイツ表現主義映画の影響下にあるというのが一般的な見方ですが、アーロン氏は、「精神病院」という舞台が「カリガリ博士」と共通していることやムルナウ監督の「最後の人」(1924年製作/日本公開1926年1月)が大きな間テクストとなることを認めながらも、それよりもむしろ、いわゆるフランス印象主義映画*からの影響が大きいと述べます。その論拠は、ざっくりいうと以下の二点です。

(1)フランス印象主義映画の特徴的映像手法である「フラッシュ」が用いられていること
(2)「人間の精神状態」を表現するに際し、(セットを主体とした)メゼンセンではなく、撮影技法による手法を主として採用していること

(1)について説明するには、まず、その当時の日本映画に対して、フランス印象主義映画の諸作品が与えた影響に触れておかなければなりません。日本においてフランス印象主義映画が公開されたのは1925年1月封切のアレクサンドル・ヴォルコフ監督「キイン」(1924製作)が初めてになります。その後マルセル・レルビエ監督「嘆きのピエロ」(1924製作/1925年3月封切)が、次いでアベル・ガンス監督の「鉄路の白薔薇」(1923製作/1926年1月封切)が公開されることになるわけですが、これらの諸作品が備える大きな映像的特徴は、「フラッシュ」と呼ばれる、短いショットの連続によるシークエンス構成の採用にあります(当時は「フラッシュ・バック」と呼ばれていたこともあったようですが、ここではハリウッド映画における「回想場面」を指す「フラッシュ・バック」と区別をつけるために「フラッシュ」で統一します)。この極端に短いショットの連続は、通常リズミカルな一定のテンポで提示され、ときとして緊迫感を盛り上げる目的などでそのテンポが早められる(ショットがより短くなる)といった手法も用いられました。

このフランス印象主義映画が日本で大きな影響を与えた要因のひとつは、こうした手法の土台となったレオン・ムーシナック等の映画理論が、ほぼ同時に伝えられたことにあります。理論と実践というか、学研のグリップとアタックというか(笑)、やっぱ理屈だけじゃなくて現物があったほーがわかりやすいわな。そして、この「フラッシュ」の手法は、そのままその後ロシアからもたらされたモンタージュ理論につながっていった……というのが一般的な見方であるようです。

アーロン氏の指摘を待つまでもなく、実は「狂った一頁」が公開された直後も、フランス印象主義映画からの影響は評者によって既に指摘されておりました**。山本喜久男氏著の「日本映画における外国映画の影響 --比較映画史研究」(1983年刊)に、この作品に関する当時のそうした批評が引用されています。

衣笠は彼のかなり豊富な内容的な手腕をかなぐり捨てて、「キイン」「ラ・ルー(鉄路の白薔薇)」等を土台にテクニックを作り上げた。
(「映画往来」大正15年11月号 宮森南二郎)

で、「狂った一頁」の冒頭のシークエンス……「踊り子の幻想と現実」のシークエンスには、あきらかにこの「フラッシュ」の手法が用いられており、当時の状況からして、アーロン氏も述べるとおり、これはフランス印象主義映画からの影響とみて間違いないかと思います。

んが、ちょっと疑問というかよくわからないのは(2)についてで、アーロン氏は、この作品とジェルメーヌ・デュラック監督の「ほほえむブーデ夫人」(1923)との共通性を強調しています。確かに踊り子あるいは小使いの「幻想」あるいは「幻視」を表す(その前後を含めた)映像は、ブーデ夫人が本を読んだり夫のことを考えたりしたとき、彼女の眼前に表れる「幻想/幻視」を表す映像と類似しています。その点では「共通している」といっても差し支えないと思うのですが、「影響」という観点から考えたとき、確認しなければならないのは「衣笠監督が『狂った一頁』を製作する前に、『ほほえむブーデ夫人』を観ていたかどうか」だと思います。大山崎の探し方が不充分なのかもしれませんが、現在のところ、「ほほえむブーデ夫人」の日本での公開年月日に関する資料、あるいはこの作品に触れた当時の映画評は見つかっていません。また、衣笠監督自身のこの作品に関する言及もないようです。なので、大山崎としては、ここらへんの判断は保留しておきたいと思います。

加えて、このような「登場人物の内面の映像化」もフランス印象主義映画全般の特徴として指摘されるものであり、アーロン氏が両作品の共通点として挙げている「主観的非現実の提示方法」……要するに「登場人物の幻視/幻想を映像的に提示する手法」についていえば、「鉄路の白薔薇」も同種同様のシークエンスを内包しています。もし「狂った一頁」が「登場人物の幻視」の手法においてフランス印象主義映画からの影響を受けているとしたら、それはむしろ(当時の日本でも大きく取り上げられた)「鉄路の白薔薇」との比較において考察したほうが妥当なようにも思われるのですが、いかがなもんでしょう?***

と同時に、ドイツ表現主義映画からの影響のなかに(衣笠監督自身の言及も残っている)「最後の人」も含めるのであれば、「(セットを主体とした)メゾンセンによる人間内面の表現が存在していないこと」は問題にならないようにも思います。「カリガリ博士」「ゲニーネ」(1920年製作/1922年日本公開)「朝から夜中まで」(1920年製作/1922年日本公開)などの特徴的なセットを用いた表現主義映画とは異なり、「最後の人」は(そしてそれ以降のE・A・デュポン監督「ヴァリエテ」(1925)等の作品は)リアリズムを基調としつつ表現主義を採用した作品であり、表現主義的手法を一般化した作品であると考えられることは、これまでにも何度か触れたとおりです。

しかし、このあたりは、こうした国をまたいだ文化的影響の実態を見極めることの難しさを物語るものであるように大山崎には思えます。たとえば、同じ衣笠監督の「十字路」(1928)に関する当時の海外の批評がその嚆矢です。映画完成後、衣笠監督はそのフィルムを携えて渡欧するのですが、それを観たフランスとドイツの批評家はこの作品をソビエト映画のモンタージュ理論の影響下にあるものとみなしました。しかし、実際は、当時日本においてはこれらのソビエト映画は公開されておらず、衣笠監督自身も「ソ連の新しい映画動向についてはいろいろ耳にはしていたが、映画そのものを観る機会など、もちろんあるべくもなかった」と自伝で述べています。「十字路」もまた、ドイツ表現主義映画やフランス印象主義映画の影響下にある作品なのですが、当のフランスやドイツの批評家はそこにソビエト映画の影響を読み取ったわけで、いやこりゃ、ナニがナンだかな話ではありますね。

先に触れた”「幻視/幻想」の映像化”に関しても、古典的ハリウッドの編集において(あるいはドイツなどにおいても)、その基礎的部分はずーっと以前からできあがっていたといえます。モンタージュ理論を採用した映画そのものも、ソビエトから直接入ってくるのではなく、その影響を受けたハリウッド映画を通じて日本では受容されたなんてなハナシもありで、まあなんつーか、はっきりいって「米ソ独仏日」入り乱れてグチャグチャです(笑)。こと映画における海外からの影響に関する限り、あんまり単純化して直線的に捉えるのは危険っつーことでありますなあ。

てことで、「よくわからないとゆーことがわかった」とゆーところで、今回はおしまい(笑)。

*「いわゆる」と断ったのは、批評家によっては「ひとつの明確な運動としては、そのようなものはなかった」と考える人もいるためです。エルビエ自身が認めているように、印象主義映画の監督たちが共通して追い求めていたのは「美学的な同一性」ではなく、あくまで「映画というメディアの他の芸術からの独立」あるいは「映画独自の表現の追求」という「理念」であった様子で、その括りは他の映画運動等と比べてもかなり緩やかだったみたいです。そのこと自体の是非はともかく、結果として、フランス印象主義映画はその名付け親であるサドゥール自身が記述したように「海外では知られず、実際に何の影響も及ぼさなかった」わけですが、こと日本だけはその例外であったといえます。しかし、ま、なんか個人主義っつーか、曖昧模糊としたっつーか、後の「フィルム・ノワール」と同じようなハナシではあります。

**当然ながら、ドイツ表現主義映画からの影響も、岩崎昶などによって公開当時から指摘されています。

***「狂った一頁」に二重露光で何度か登場する「自動車の車輪」のイメージは、「鉄路の白薔薇」に同じく二重露光で現れる「蒸気機関車の車輪」のイメージに重なります。「狂った一頁」といい「十字路」といい、なんか「丸くて回転するもの」が繰り返し出てくるんですが、これってやっぱ衣笠監督の共通モチーフなんスかね?

2009年7月26日 (日)

「A Page of Madness」を読む (1)

Pageofmadness てなわけで、「狂った一頁」のDVDがらみで紹介しさせていただいたイェール大助教授アーロン・ジェロー氏の評論本「A Page of Madness  Cinema and Modernity in 1920s Japan」をば入手しまして、現在ボチボチ読んでいる最中であります。まだ途中ではありますが、備忘録的にメモおよび所感など。

まず、(サウンド版もサイレント版も含め)現存しているバージョンは1926年のオリジナル公開バージョンと比べて、かなり短くなっているという話です。フィルム自体の長さでいうなら、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵の復元版が1,617m(5,286フィート)であるのに対し、当時の劇場公開版は「2,142m(7,002フィート)~2,128m(6,956フィート)」であったという記録が残っています。どこでどのように欠落部分が発生したかは定かではないのですが、たとえば古い映画によくあるように「ある特定の巻のフィルム全部がすっこり欠落している」という状況ではないこと、あるいは1971年にフィルムが発見されたとき「すぐにタクシーを呼んで撮影所へ行き、ネガ編集室を借りて、ゆっくりと全巻をたしかめたのであった」と自伝「わが映画の青春」で衣笠監督自身が述べていることなどを理由に、その後「サウンド版」が再編集されたときに監督の手によってカットされたとみるのが妥当なのではないか……とジェロー氏は述べています。んが、先に挙げた「復元版」は(「サウンド版」ではなく)現存する「サイレント版」をもとにリストア作業が行われているはずなので、ちょっとそれでは話が符合しないようにも思われるのですが、なんか、大山崎、勘違いしてますかね?

では、どのようなシーンが欠落しているのか? それを検証する作業として、ジェロー氏は、衣笠監督が残していた撮影メモや、当時上演前に内務省へ提出が義務付けられていた「検閲台本」と現存するフィルムとの比較を試みます。具体的な例としては、「小使いの娘の婚約者が、友人から娘の母親が精神的に異常をきたしていることを教えられる」*というシーンが現存するフィルムからは欠落しているということなわけですが、どーやら集中的に欠落しているのは「新派悲劇」的な「ナラティヴな部分」であるよう読めます。

でもって、「検閲台本」は「弁士用台本」を兼ねていたとのことなんですが、このあたりは(自分を含めた)現代の受容者が、ついつい忘れがちになる点のように思います。その当時のサイレント映画は、上映に際して弁士による説明や楽団による生演奏の音楽が付随していて、決して「サイレント」ではなかったんですね。このあたりは、逆に当時の受容者だけが受けられた恩恵であるように思われます……ってか、たとえば「主人公の小使いと入院患者である女性が夫婦関係にあり、なおかつそれは病院内の関係者には知らされていない」という状況など、(少なくとも現存する版の)具体的映像からだけでは逆立ちしたって理解不能なわけで(笑)。この映画に対してどのような「説明」が弁士によってつけられたかという資料は残っていなんでナンともですが、もし前述した人間関係の部分なんかが補完されていたとすれば、当時の受容者は我々よりも(少なくともナラティヴな面では)この映画をずっと理解しやすい環境にあったんじゃないか……とジェロー氏は示唆します。

氏も指摘しているとおり、このあたりは現在の目で当時の映画作品を観ようとするときネックになる部分で、(前述した「弁士」のようなソフト面/環境面を含めて)完全な形で公開当時のまま残っていない作品をどう受容し、どう評価するか……ってのはムズカシイ問題ではありますね(と同時に、もちろん、「新しい観点」から過去の作品を観ることも重要な作業であるわけですが)。

その一方で、公開当時、岩崎昶をはじめとする批評家/文化人は、いわゆる「純映画劇運動」の流れのうえに、あるいは「純粋映画」(文学や演劇の影響を排した独立したメディアとして、言語やナラティヴに頼らず映像のみで受容者の感情を喚起する映画)という概念の延長線上に「狂った一頁」の前衛的な部分(たとえば冒頭の「踊り子の幻想(=内面で想起されているもの)」や、福引のシークエンスに代表される「小使いの幻想」のような非ナラティヴで前衛的な部分)を捉え、さまざまな留保をつけながらも評価しました。しかし、大山崎が思うに、これは見方によっては皮肉な事象であったかもしれません。衣笠監督はそもそも「女形の演技者」としてスタートし、「連鎖劇」(大正時代に存在した、ひとつの作品のあるパートは舞台劇で生身の俳優によって演じられ、またあるパートはあらかじめ撮影されたフィルムで上映されるといった具合の、演劇と映画がチャンポンになった作品形態)とも関わっていたわけですが、この二つは「純映画劇運動」の映画改革論者たちの批判の対象に含まれていたからです。このように、監督に転じた衣笠貞之助個人が急激に埋めた「映画に対する距離」を思うとき、ダダイズムやら未来派やらの「芸術概念」が海外から怒涛のように押し寄せ、否が応もなくその影響に晒された大正時代の激動具合を感じさせられます。

閑話休題、同時に、この文脈に基づく批評からは、前述した「弁士の使用」が批判の対象となった……とジェロー氏は述べます。弁士によってナラティヴな部分が補完されているということは、結局「言語」による補助を受けているわけで(あるいは「言語」からの影響を排除できていないわけで)、それじゃ「映像」だけで作品が完結してねーじゃんかよ……っつーわけですね。衣笠監督自身が認めているように、そもそも「狂った一頁」は初めから無字幕映画として製作がスタートしたわけでなく、完成試写の時点でも字幕は残っていて、先に述べた「夫と妻の人間関係」なんかもそれによって説明されてたようです。ところが、試写を観た横光利一が「無字幕でやったらどうか」ってなことを突然言い出し、「ほんじゃ」ってんで急遽字幕が省かれたという経緯があります。まあこの、無字幕を前提として作られていない映画から後付けで字幕を取り去るのは、やっぱちょいと無理があったと言うべきなんでしょーね。

それはさておき、こうした「弁士」に関する批判のバックグラウンドについて、同じくアーロン・ジェロー氏は「弁士の新しい顔――大正期の日本映画を定義する」という一文において、その当時、批評家/文化人たちが「弁士」という呼称を「説明者」に変えようとした経緯に触れる形で述べています。孫引きになりますが、藤岡篤弘氏の「日本映画興行研究史」から引用しておきます。

映画の自立性を主張する改革論者たちが、「過剰な言語で観衆をはらはらさせる」「弁士」から、その権限を取り上げ、「映画がその固有の意味を伝達する際の手助けを義務とする」「説明者」へと降格させる過程をジェローは粗略するが、同時に、そこには弁士に依然根強い愛着を示していた「社会的に劣った群衆」に対する、改革論者たちの軽蔑的意図が存在したと主張する。

とまあ、映画に関心を抱いていた批評家/文化人が「狂った一頁」を賞揚し、同時に苦言を呈したのはこうした文脈によるものであったわけです。「映像言語」を確立する試みとして評価されると同時に、それを完遂できていないことが批判の対象になったっつーことですね。大山崎が激しく妄想するに、もし「サウンド版」を再編集する際に「ナラティヴな部分」が意図的にカットされたのだとしたら、それはあるいはこうした当時の批判に対する監督自身の回答であったのかもしれません。

また、オリジナルな形の「狂った一頁」がより多くの「ナラティヴな部分」を含んでいたとすれば、その「ナラティヴな部分」と「非ナラティヴな部分」の混在具合は、衣笠監督のもう一本の前衛映画である「十字路」(1928)を観れば、ある程度推察できるように大山崎は思います。この作品のメインは基本的には「ナラティヴなメロドラマ部分」であり**、登場人物の「感情」や「心象風景」を提示する表現主義的な映像は基本的にサブです(カール・ハインツ・マルティン監督「朝から夜中まで」(1920)のセットを思わせる「真っ暗な空間に、白い線で描かれた十字路」も、結末近くに2ショット登場するのみですし。あるいは、むしろこれは「舞台版からの美術の踏襲」という意味で「表現主義演劇」からの流れとして捉えるべきなのかもしれませんが)。見方によっては、時代が下るに連れて「表現的映像の手法」が一般化し、ナラティヴな作品内において普通に使われるようになる状況を先取りをした作品であるといえるのかも。

その後の多くの映画作品が採用する(そして、現在も多くの映画作品が継承している)こうした方向性について、ジェロー氏はこの「狂った一頁」という作品自体にすでに内在していると述べます。具体的にいうなら、踊り子の「内面」に始まり、小使いの「幻想」を経て辿り着いた作品の結末が、最終的に「外界/現実」に回帰して終わる点です。この後ひとつの興隆を極める1930年代の日本映画は、(いわゆる「純粋映画」的なものではなく)むしろ「自然主義的な記号」を採用し「ナラティヴに関する記述」をその主体としていくわけですが、「狂った一頁」の構成自体がこうした流れを「予見」している……とジェロー氏は考えます。

てな具合に、ジェロー氏は、「狂った一頁」が抱えるコンベンショナルな部分と非コンベンショナルな部分の「対立性/相反性」、あるいは「不統一性」の例として、この「ナラティヴな部分」と「非ナラティヴな部分」の並立を挙げます。すなわち、「夫の過ちで息子を死なせてしまった結果、精神に異常をきたした妻」「関係を隠して、妻が収容されている精神病院で働く夫」「自分たちの娘の婚約者に、妻のことが知られるのを怖れる夫」「それが昂じて、妻を精神病院の外に連れ出そうとする夫」……という「メロドラマ」的なナラティヴの部分がひとつ。そして、それに対するものとして、冒頭の「踊り子の幻想」や福引のシークエンスに代表される「小使いの幻想」のような非ナラティヴで前衛的な部分がひとつ。この大きな「対立構造」を核にして様々な対立要素が仮託されていることや、フランス印象派映画からの強い影響を氏は述べていきますが、それについてはまた別な機会にでも。

*サイレント復元版にはここらへんのシークエンスがあったよーな気もするのだけど、すでに大山崎の記憶は曖昧なんで、今からでも遅くないからやっぱ、DVD出してください(笑)。

**「十字路」では「登場人物の台詞」はもちろん、「姉と弟という人間関係」も字幕によって「説明」されています。このような点からも、この作品が(ごく普通に)「ナラティヴに関する受容者の理解」を優先して作られていることは明らかです。

2009年2月12日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (12)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の記述の続きをば。

さて、ここから先は落穂拾い的にOlson氏の記述で興味深かったところをばピック・アップしてみることにします。

Olson氏は、リンチの諸作品の根底にある「家族」の概念が、やはり「エレファント・マン」にも見出せることを指摘します。その端的な表れがメリックがトレーヴスの家を訪問するシークエンスで、「リンチはトレーヴス家の者と訪問者を、まるで家族写真のような配置に置く。すなわち、妻のアンとトレーヴスがジョン・メリックを守るようにだ」とOlson氏は述べ、トレーヴス家がジョン・メリックの「拡大家族(extended family)」として機能していることを示唆します。また、バイツによって檻に入れられたジョンを解放する、小人をはじめとするサーカスの畸形たちもジョンの「拡大家族」として捉えます。この文脈において、トレーヴスは「善き父(good father)」として機能し、逆にバイツは「悪しき父(bad father)」として機能するとOlson氏は述べますが、このあたりは「ブルーベルベット」に登場するさまざまな「父親」と比較してみるのも面白いかもしれません。

もうひとつ、面白いと感じたのは、トリーヴスがバイツに金を払い、メリックを検査のために病院に連れて行こうとする際の映像に関するOlson氏の記述です。バイツはトレーヴスの襟をつかみ、息がかかるほど顔を寄せるのですが、Olson氏はこうした登場人物の動作あるいは配置が、その後のリンチ作品にも頻繁にみられるモチーフであると指摘します。そして、このモチーフの底流にあるのは、「身体のもっとも重要な機能は、精神をいろいろなところに運ぶことにあるように思える」というリンチの発言であると氏は捉えます。つまり、人間の「頭」は「精神の容れ物(mind's vessel)」であり、そしてそこには「想像、夢、意識」だけではなく「天国と地獄」=「善いものと悪いもの」も収められているとリンチは捉えている、と。

Lynch_distorted_nude そして「容器」である「頭」と「頭」が接近したとき、その「内容物」である「善いもの」と「悪いもの」は……この作品に従っていうならトレーヴスの意識とバイツの意識は、「物理的には交わらないものの、融合する危機に瀕することになる」とOlson氏は述べます。この氏の記述を読んで思い出されるのが、リンチの写真作品「Distorted Nude」シリーズの一作品です。この写真作品では、二人の女性の接近した頭部の間で、明らかに「融合」が発生していることがみてとれます。まさしく「リンチの世界では、空気を介して、電線を伝う信号を介して、あるいは目を見るだけで、もっとも忌避し恐れるものにその者の心を変貌させてしまう。静かに、そして怖いぐらい易々と、闇はあなたの内面に滑り込む」ことを、この写真作品は表しておりますですね。でもって、「エレファント・マン」において、トリーヴスとバイツの「頭」が接近し、その「容器の内容物」が融合した結果生まれたものが、トリーヴスがバイツに対して感じる「精神的な類似性(psychic kinship)」であることになります。それは、つまり「メリックを搾取している点で、自分とバイツがどう異なっているのか」という思いであるわけですね。

さて、そんなこんなで「エレファント・マン」は好評をもって迎えられ、1981年のアカデミー賞において最優秀監督賞を含めた8部門にノミネートされます。このアカデミー賞授賞式はレーガン大統領が拳銃で撃たれるという事件のために、史上初めて開催が延期されるわけですが、実はロナルド・レーガンは普段はあまり政治的な発言をしないリンチが、唯一、支持を表明した政治家でもあります。ただし、Olson氏はリンチがレーガンの政治施策にどれだけ賛同していたかは疑問に感じているようです。むしろ、リンチがレーガン本人を評した言葉……「彼は昔ながらのハリウッドの雰囲気、カウボーイのたたずまい、力強さを備えている」に表されるように、非常に雑駁にいうなら、リンチが惹かれたのはレーガンに付随する「イメージ」であって、その政治能力ではないのではないかっつーことですね。ま、ここらへんはリンチ本人による詳細な発言があるわけでもないのでアレですが、娘ジェニファーを含めたさまざまな人の証言などからも、どーもOlson氏の言うとおりっぽい印象ではあります。

結果としてこのオスカーでは無冠に終わるものの、いずれにせよリンチは商業映画監督として非常に幸先のいいスタートを切ったといえます。それは「砂漠の惑星」の監督として抜擢されることにつながるわけですが、それについてはまた次回でということで。

2009年2月11日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (11)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の解題の続き。

さて、「第二の抽象表現」のパートで具体的に「メリックの夢」としてまず提示されるのは、蒸気の音に伴われた「工場の鉄パイプ」です。「カメラの視点」は鉄パイプの群れを伝って下降し、「産道を思わせる暗い隘路」を通って「トレーヴスと我々が最初にジョン・メリックに会った、つまり彼の生きたイメージが初めて生まれたバイツの掘っ立て小屋に続く地下道」へと侵入していきます。これらの通路に付随する「子宮に似た」イメージは、「インダストリアルな音響」に伴われており、Olson氏はリンチが採用した「異形のジョン・メリックが、工業化時代に生まれ、それによってねじ曲げられた子供であることの暗喩」の強調をみます。ざっくりいえば、「抽象表現」のパートに登場する(あるいは全編を通して語られる)「象」のイメージは、「産業革命」あるいは「工業化/近代化」のイメージに重ねられているっつーことですね。それは、たとえば「プロローグ」に現れる「象の足音とも機械音ともとれる音響」によっても、すでに示されていたといえるわけですが。

「メリックの悪夢」は、次いで「レバーを動かす男たち」のイメージを提示します。ここでOlson氏はある疑問を呈します……すなわち、これは「男たちが機械を動かしているのか? それとも、機械が男たちを奴隷の如く使役しているのか?」。「男たち」と同じくジョン・メリックもバイツによる「使役/搾取の日々」を過ごしており、トレーヴスの助力でそれから逃れたわけですが、それでもやはり「逃れられようのない自らの異形性が生み出す恐怖の影が、メリックの夢を脅かしている」ことをOlson氏は指摘します。その「恐怖の影」を反映して、「メリックの悪夢」は「突き出された鏡に映る自分の顔」や「顔めがけて蹴りつけられる長靴」の映像を提示します。「(トレーヴスによって提供された住まいや紳士服などの)表面上の通常性は取り去られ、逃れようのない『エレファント・マン』としての自己が残される」わけですね。それらの「悪夢」は「メリックの主観ショット」によって我々に提示され(そして我々=受容者に共有され)、それを見て脅えるジョン・メリックの「目」のクロースアップが彼の悲痛な「叫び声」とともに重ねられます。これらの映像から、Olson氏が指摘するように「第二の抽象表現」が表象しているものはジョン・メリックの「内面」において発生している「意識」であることは明らかであり、ならば「同質の抽象表現」である「プロローグ」の映像も「メリックの内面におけるもの」であるということになります。

「第三の抽象表現」のパートは作品の結尾、「エンディング」において現れます。前述したような理由で、Olson氏はこのパートにおいて提示されている映像もまた「作品の粗筋を説明するものではなく、ジョン・メリックの内なる声を表すもの」であり、「彼の意識がかりそめの現世を離れて、精神的な世界で再生する」ことを表しているという具合に捉えます。そして、これはキリスト教的なコンテキストに収まりきらない概念だとOlson氏は指摘します。つまり、そこにはリンチが「瞑想」を通じて触れたヒンズー思想の反映がみられること……具体的にいうなら「バガヴァッド・ギーター(聖なる神の詩)」の一節である「人がその体を離れるとき、最後に思い浮かべるものはすべて、その人によってその後の現実となる。なぜなら、そのとき心にあるものこそ、その人が生涯を通じてずっと思い続けていたものだからだ」からの影響があると氏はみます。

この氏の見方に沿ってみたとき、「第三の抽象表現」のパートに至る直前の映像とその後の映像において、この「キリスト教的コンテキスト」と「ヒンズー思想」の対比は明らかです。「ベッドに横たわったメリックの頭部から彼の母親の写真へと、そして十字架が浮き彫りされた聖書を写したあと、メリックが作った聖堂の模型の尖塔まで、リンチはカメラをパンさせる」という具合に、そこにまず現れるのはキリスト教的なコンテキストを表す記号群です。しかし、「カメラの視点」が窓を越え、星がちりばめられた夜空に向かった瞬間から「第三の抽象概念」が始まり、そこで提示される概念は、その範疇に収まらなくなります。

「第三の抽象表現」の具体的映像においても、やはりジョンの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージが登場します。彼女は、「決して、そう、決して。何も死に絶えることはない。川は流れ続け、風は吹き続け、雲は漂い続け、心臓は鼓動し続ける」とジョンに呼びかけます。彼女のイメージは星々が輝く夜空を背景に、「全き世界を表す白い光の環」に囲まれています。そして「永遠に続く誕生-生-死-再生のサイクルの新しい発生を描いて、彼女のイメージは消滅し、次いで我々は『プロローグ』に現れた白い煙が逆方向に内側に向かって流れ、生命の流れに回帰するのをみる」ことになります。「しかし、ジョンがトレーヴスの助けで家を手に入れ、バイツによる誘拐によってそれをなくし、また再び手に入れるという物語をなぞるように、メアリー・ジェーン・メリックの顔が再び現れる。彼女は息子を慰撫する……”何も死に絶えることはない”。『プロローグ』に現れたのと同じメアリー・ジェーン・メリックのイメージを写すカメラは、『プロローグ』のときとはちょうど逆に、彼女の眉毛と目に向かってクロースアップし、フェイド・アウトして作品は終わる」……という具合に、この最後の「抽象表現」のパートで描かれているのは明確な「死と再生」のイメージであり、かつOlson氏によれば、「メリックの思い」である点において先に述べたヒンズー思想の踏襲であることになります。

この「抽象表現」の三つのパートをみると、「多くの人間と共同作業を行い、スタジオの工業生産的なシステムによる制作でありながら、それでもなおリンチは『エレファント・マン』の世界を自らのものに変えてしまった」というOlson氏の見解は、まったくもって正しいし、「(この作品なら)妥協を要求されない」というリンチの判断も正しかったといえるでしょう。その中心にあるのは、それまでリンチ作品でも繰り広げられた(そしてその後も繰り返される)”「誕生」および「疎外された生」”です。同時にリンチはこの作品の主人公であるジョン・メリックに”「現実/現世」と「その後の世界」との連結/統合”を用意しますが、その連結/統合においてジョン・メリックを「慰め、救済する」のは、「グランドマザー」の祖母や「イレイザーヘッド」のラジエーター・レディと同じく、やはりメアリー・ジェーン・メリックという「女性」であることをOlson氏は指摘しています。

さて、このようにOlson氏による解題をみる限りにおいて、この三つの「抽象表現」のパートは、「エレファント・マン」という題材にリンチが見出した「基本テーマ」が凝縮されているといえるように思えます。表向きの明確なストーリーはジョン・メリックに関する歴史的事実を基にしたものであるわけですが、それは彼個人の物語に収まりません。”「メリック」と「象」”の関係性は”「ヴィクトリア朝時代の人々」と「工業化/近代化された社会」”の関係性を経て、”「敵対的な外界」と「それに脅かされる人々」”というより大きな関係性に経て、最終的に彼/彼女たちに「精神的/内面的な救済」が用意されるという普遍的なテーマに至るわけですが、この最終的なテーマはむしろ三つの「抽象表現」のパートにおいて明瞭に提示されているように大山崎は思います。そして、このテーマがリンチ作品において繰り返し提示される共通のものであることは、この作品の主人公であるジョン・メリックの「救済」が、たとえば「グランドマザー」の少年や「イレイザーヘッド」のヘンリー、「ツイン・ピークス 劇場版」のローラ・パーマーといったリンチ作品の登場人物たちの「救済」と完全に重なっていることからも明らかだといえるでしょう。

(「エレファント・マン」に関して、も一回くらい続く)

2009年2月 9日 (月)

「Beautiful Dark」を読む (10)

ああ、そーゆーのもあったわね……と思い出しつつ続く、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。「エレファント・マン(The Elephant Man)」(1980)製作前後のころに関する章を読み終わったので、今回はそこらへんについて。

「イレイザーヘッド」が完成したあと、リンチは映画製作の実作業から離れて、早朝一回の新聞配達(まだやってたんかい)と近所の「ビッグ・ボーイ」で「チョコレート・シェイク+砂糖をガバっと入れたコーヒー」で「シュガー・ハッピーな日々」三昧でありました。リンチが何年間も毎日毎日「ビッグ・ボーイ」で昼食をとっていたことはつとに有名な話で、Olson氏はここらへんにもリンチの嗜好……「コントロールが効くミニマルなもの」への嗜好をみとてりますが、まあ、それはそれとして。

これまた有名な話ですが、「イレイザーヘッド」製作の途中から、リンチは「ロニー・ロケット(Ronnie Rocket)」という作品のシナリオを書き始めておりました。しかし、リンチ本人はこの作品を「イレイザーヘッド」と同じように自主制作的に作る心積もりはなかったようです……まあ、ありゃシンドかったもんな(笑)。「イレイザーヘッド」が自主制作作品としてはそこそこ興行的にも成功したこともあって、リンチとしては「ロニー・ロケット」をメイン・ストリームでの製作を……つまりどこかのスタジオに企画をもちこんで誰かの資本を使うという、ハリウッドの製作スキームのもとで製作する道を探っていたようです。しかし、メジャー・スタジオはこの作品の興行的価値を認めず、リンチは内心鬱々とした日々を送ってた様子です。まあ、巷に流布しているシナリオを読んでも、そりゃ無理からぬところがある……というか、結局「ロニー・ロケット」は、今日現在に至るまで日の目を見ていないわけですけども。

そんな鬱々リンチのところに、スチュワート・コーンフィールド(Stuart Cornfield)というプロデューサーが訪れます。彼は「イレイザーヘッド」を観て「今まで観たなかで、もっともユニークな傑作」と感じ、リンチのところにやってきたのでした。それをきっかけに二人は友人になりますが、ある日、鬱々のリンチは「(自分は)他の人間が書いたシナリオで映画を作ることも考えている」由の発言をします。これを聞いたコーンフィールドがリンチに話したのが、自分が最近読んだクリストファー・デヴォア(Christopher De Vore)とエリック・バーグレン(Eric Bergren)の二人の脚本家による「エレファント・マン」のシナリオのことでした。後に、リンチは「『エレファント』と『マン』という言葉をコーンフィールドから聞いた瞬間、頭の中で小さなノイズが起こり、自分がこの作品を製作することになるだろうと悟った」と発言しています。ピピッときたわけっすね(笑)。

また、これも後になっての言及になりますが、リンチは「エレファント・マン」という作品が「(自分を)メイン・ストリームへと連れて行ってくれると同時に、妥協を要求することもない格好の乗り物だった」と述べています。「自分にとっての関心事がそれだった。芸術を一般的なものにしたいと思っていたんだ。自分が本当に入れ込み、それを作ることが気に入ると同時に、他の人々も作品を気に入っていれることを望んでいた。それが可能なのかどうか、考えていたんだ」と。

この企画は、リンチとコーンフィールド、そして同じくプロデューサーのジョナサン・サンガーの三人による「ビッグ・ボーイ」(笑)での会議を経て、コメディ映画監督のメル・ブルックスのところに持ち込まれます。当時、ブルックスは「ブルックスフィルムズ」という会社を立ち上げ、作品のプロデュースを開始しようとしていたところでした。リンチのことをよく知らなかったブルックスにコーンフィールドが「イレイザーヘッド」を観せ、それをブルックスがいたく気に入って話がまとまったこと等はすでにいろいろなところで言及されているので、割愛。いずれにしても、リンチ、大ラッキー(笑)。

ロンドンで撮影を開始したリンチが、ジョン・メリックの特殊メイクを作ろうとして時間を無駄に費やし、「そーゆーことは専門職に任せろ」と諭された件や、当初トリーヴス博士役のアンソニー・ホプキンスと衝突した件なども、有名な話なのでこれまた割愛。追記しておくべきかと思われるのは、1979年の秋にロンドンに到着したリンチがまずこだわったのは、テーマ的なところではなく美学的なところ……端的にいうと「モノクロ」での撮影であったようです。「この作品はモノクロでなければならなかった。モノクロの画面は魔法のようなものだ。それは観る者を現実から即座に一歩切り離し、茫洋とした気分にさせる」というのがこの件に関するリンチの弁。幸い、ジョナサン・サンガーもメル・ブルックスもこれに同意し、「エレファントマン」はイギリス人撮影監督フレディー・フランシスによって撮影されることになります。

さて、作品そのものに関してもOlson氏の詳細な分析があるんですけど、そのなかから興味深かったポイントをいくつかピック・アップしてみますってーと。

Olson氏は、「エレファント・マン」において、リンチ特有の「抽象的表現」が三つのパートにおいてみられることを指摘しています。つまり、「プロローグ」「作中におけるジョン・メリックの夢」「エンディング」の三箇所です。逆にいうと、それまでの作品……たとえば「グランドマザー」や「イレイザーヘッド」では全編にわたって爆発していた「抽象的表現」が「エレファントマン」では限られたパートにおいてのみ現れているということです。かつ、それらは全体を通して語られる明確なストーリー・ラインのなかに組み込まれる形で提示されており、こういう形式が採用されたのは、リンチが「商業作品」を意識したことの現われではないか……という具合にOlson氏はみています。

まず、「プロローグ」で提示される「第一の抽象表現」ですが、そこに現れるさまざな映像と音響……「インダストリアルな音響をバックに現れるジョン・メリックの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージ、そこに重ねられる象のイメージ、象に打ち倒されて地面で叫び声をあげるメアリーのイメージ、そして白い煙のイメージに重ねられる赤ん坊の泣き声」ですが、Olson氏はまずここにヴィクトリア朝時代に人口に膾炙したいわゆる「胎教(maternal impression)」の概念をみてとります。といっても、その当時のことだもんで、「妊婦のお腹に苺をのっけたら、苺型の痣がある子供が生まれる」ってな民間信仰的っつーか非科学的っつーかなものなわけですが、要するに、この「プロローグ」は「サーカスで象をみて脅えたメアリー・ジェーン」から象に似た身体的障碍を備えたジョンが生まれた……ということを伝え、これから登場する主人公の生い立ちに関する「説明」として機能しているということですね。

しかし、「プロローグ」に対するこの見方は、「第二の抽象表現」……作品のなかほどで提示される「メリックの悪夢」が表すものによって、修正を迫られることになります。まず、この「第二の抽象表現」のパートで提示されるイメージ群は、明らかにジョン・メリックの内面において展開されている「悪夢」であることが示されています。それを何よりも明確にしているのは、ここで採用される「カメラの視点」です。Olson氏いわく、「リンチのカメラはメリックが人前に出るときに被っている布製のフードを見つけ出す。そのフードには、彼が外を見るための長方形の穴がひとつ開けられている。リンチはこの暗黒の開口部を通り、そこに流れているメリックの暗い夢の中へと潜っていく」……とまあ、ここでもリンチ作品に頻繁に現れる「侵入する視点」のモチーフが認められ、その直後に提示される映像群は「メリックの悪夢」そのものを表象しているというわけですね。かつ、この「悪夢」において、「プロローグ」にも現れた「叫び声をあげるメアリー・ジェーン・メリック」のイメージが再提示されるとともに、「プロローグ」と同じくこの「悪夢」もまた「白い煙」のイメージで締めくくられることになります。これらの共通点からOlson氏は、「第二の抽象表現」が「メリックの夢」であるならば、「プロローグ」もそうであるはずだと結論付けます。つまり、「プロローグ」で描かれているのは、ジョン・メリックが想起している「自分の母親や自分が属する時代に関する事柄」である……という具合にOlson氏は捉えるわけです。

(ちょいと中途半端だけど、続く)

2009年1月 4日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (9)

これがまた続くときは続く、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。

さて、今回は寄り道とゆーかオマケとゆーか。「イレイザーヘッド」の製作途中にリンチが製作した短編作品「切断手術を受けた人(The Amputee)」(1974)について。

リンチがこの作品を作った経緯をおさらいすると、まだカセット方式のヴィデオ・システムが爆発的に売れるようになる以前、ソニーが自社のビデオ・テープを評価用としてAFIに持ち込んだことに始まります。このビデオ・テープをお偉方が精査するためのテスト用カラー・パターンの撮影を任されたのが、「イレイザーヘッド」の撮影を担当していたフレッド・エルムスでした。エルムスからこのことを聞きつけたリンチは、キャサリン・コールソンに声をかけ、そのビデオ・テープを使って5分間の作品を撮影してしまいます……って、いや、無茶すんなあ(笑)。

あえてリンチを弁護するなら、そのころ「イレイザーヘッド」撮影用のフィルムを買うための資金捻出にリンチおよびスタッフ一同は非常に苦労していて、スタッフによるカンパなんかは当たり前、コールソンなんかはウェイトレスまでして製作資金を提供するとゆーよーな状況でありました。そういう撮影できるんだったら何でも見境なく撮っちまえ的な精神状態であったであろう連中のところに、のこのこビデオ・テープなんか持ち込むほうが悪いといえなくもなく……うむ、あんまり弁護になってないな、これ(笑)。

さて、てっきりテスト・パターンが写されているとばかり思っていたAFIの教授たちは、映像を観てびっくり。しかし、一人の教授が映像スタイルからリンチがそれを撮ったことを見分け、「リンチがコレにからんでるのか?」と尋ねたという話もあって、わはは、完全にバレてら(笑)。逆にいえば、その頃からリンチの映像は特徴的であったということの証明でもあるわけですが、それを見て取った教授もさすがとゆーことでありましょーか。そして、「初期短編集」のDVDにこの作品が収録されているということは、AFIの教授たちは作品が収められたビデオ・テープを取り上げたりしなかったっつーことですね。うーん、寛大だなあ。リンチ・ファンとしては感謝すべきなんでしょーね。

しかし、そっかー、確かクリス・ロドリーのインタビュー集では「ビデオ・テープ」のメーカー名は明らかにされてなかったと思いますが、ソニー製であったのかー。「インランド・エンパイア」よかずっと以前に、リンチはソニーのビデオ機材を使って作品を撮ったことがあったわけでありますね。

……というような経緯で作られたこの作品、観ればわかりますが出演者はコールソンとリンチの二人。ただし、リンチは終始カメラに背を向けていて、顔は映っていません。特にストーリーというべきものもなく、コールソンは足の切断手術を受けた患者を演じ、リンチは白衣を着て医師の役を演じています。椅子に座ったコールソンの前にリンチが跪き、包帯を解いて傷口をあれこれ調べている間、コールソンはまったくの無表情のまま煙草をくわえ、手紙を書きつつその内容を声を出して読み上げています。最後にリンチが画面から走り去り、暗転して作品は終了。

このコールソンが読み上げる断片的な「手紙」の文言に、Olson氏はリンチ特有のモチーフやテーマを認めます。

「そこには本能に対する重圧がある(『彼は何も言わなかったけれど、私にはそれが本当のことだとわかっていたわ』)。破壊的な炎の力がある(『ハリーは小屋の中にある全部のレンジに火をつけたわ--彼は近所の家を全部焼こうとしたの』)。そして、作品が終わったあとも終わらない謎がある(『ポウルが夜中の三時に家に帰ってきたとき、あなたはどこにいたの?』)。」

大山崎としては、そこに散りばめられた「小屋(cabin)」「家(house/home)」というキーワードも気になるところでありますが、それはそれとして。

「興味深いのはリンチ自身が、自然の謎を”調査”することを通して混沌と破壊に挑戦する”科学の側に立つ者”を演じていることだ……ちょうど彼の父親がそうであったような。そして、この後のリンチ作品には、彼の代行者である探偵役の人物たちが何度となく登場することになる」

うーむ、ってーことは、キャサリン・コールソンも「自然の謎(enigmas of nature)」であるわけですかー。なるほど「丸太おばさん」だもんなあ(そーゆーことなのか?)。そーいえば、リンチがコールソンが眼鏡をかけるのを見て「丸太を抱えた彼女」のイメージを想起したのも、「イレイザーヘッド」製作中のことであったのでした。

2009年1月 3日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (8)

お屠蘇片手に、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」をチマチマと読み続ける、新春の日々(早い話が、酔っ払っている(笑))。今回は「イレーザーヘッド」の作品そのものに関するOlson氏の記述なんかを、とりまとめて。

この作品の主人公であるヘンリーがその当時のリンチと等身大のキャラクターであり、作品自体がリンチの個人的な部分の反映であることは、これまでにもいろいろな論者から何度となく指摘され続けてきました。Olson氏も「この作品のいくつかのシーンは、スクリーン上にというよりも自分の頭の中に存在すると感じる」というリンチの発言を引用しながら、「『イレイザーヘッド』ほど、その創作者の実生活上の経験と緊密にリンクしたリンチ作品はない」と述べており、こうした見方を根底におきつつ作品をみていきます。

なかでも「イレイザーヘッド」に直接反映された実体験として氏が挙げているのは、娘ジェニファーの誕生とその結果としてのペギーとの早い結婚、そしてジェニファーが内反足の障碍をもって誕生し、生後まもなく大手術を受けなくてはならなかったこと、そして結果的に妻ペギーとの結婚生活がうまくいかず、離婚することになったことなどです。これらの諸事項はすでに他の論者によっても指摘されており、「イレイザーヘッド」を解釈するうえで基本的な見方であることは間違いないと思います。

と同時に、リンチが「ヘンリーを平凡などこにでもいる人間存在」として描いていることをOlson氏は指摘します。「(ヘンリーは)人生が投げ掛けるさまざまな無理難題となんとか折り合いをつけつつ」「自分や他者を傷つけないように日々を生きている」というのがOlson氏のヘンリーに関する人物評です。ヘンリーが抱える無理難題とは「メアリーXは彼を夕食に招待し、X夫人は彼に性的攻撃をかける。彼は夫と父親の役目を押し付けられる。彼の子供は異形の奇形児で、彼の自由を制限する。メアリーは彼を捨てる」などといったような事柄です。それらの難題を、ヘンリーは「生来の寛容性でもって辛抱強く受け止め」ます。映像からも明らかなように、「彼はメアリーなどよりよっぽど熱心に可哀そうな赤ん坊の面倒をみる。その点で、ヘンリーは世間一般が彼に対して要求する義務を問題なく果たしているといえる」わけです。

と同時に、「彼は精神的な避難所を希求するが、荒れ果てた工業的な環境やX家の食卓や、メアリーや赤ん坊とともにいる自分の部屋にすら、それを見つけられないでいる。ヘンリーは『家』に帰りたいだけなのだが、それはどこにも存在しないのだ」という具合にヘンリーの「希求」を位置づけます。結局、作品の途中でメアリーXは家を出て行ってしまうわけですが、Olson氏は彼女をはじめとして「向かいの部屋の美女」と「ラジエーター・レディ」が構成する「対立構造」に注目し、これらをヘンリーの「選択肢」であると捉えます。同時にこれらの「対立構造」を述べるうえで、グノーシス主義の世界観との類似性を指摘します。グノーシス主義者たちは、「世界」を「下位の劣った神が自らの優位性を主張するために作ったとんでもない間違い」であるとし、「人々が本当の心の拠り所に至る道に気がつくことを待ち望んでいる真の神は、下位の神によって人々の目から隠されている」とします。それに対し、Olson氏は「惑星の男」や「ラジエーター・レディ」を「生殖を強いる下位の神」……「メアリーX」や、彼女が家を出て行ったあと入れ替わりにヘンリーと生殖行為を行う「向かいの部屋の美女」……と対立するものとして捉えます。ヘンリーは、これらの選択肢のあいだで揺れ動きますが、最終的に「ラジエーター・レディ」を選択し、彼女によって救済されることになるわけです。

それに加え、Olson氏は「イレイザーヘッド」が内包する「再生」のイメージについて指摘します。たとえば、ヘンリーの頭が抜け落ち、工場で消しゴムにされたあと、工員がテストで鉛筆で引いた線を消し、その消し屑が宙を舞って再び頭が揃ったヘンリーに「再生」されるというシークエンスがその嚆矢です。すなわち「何よりも、ヘンリー自身が『消しゴム』である。彼は今までの自分を消し去り、新しく生まれ変わるのだ。鉛筆をヘンリーの身体のメタファーとしてみるならば、赤ん坊を作ることで、彼のペニスのペン先は世界に『印』をつけたといえる……何とかして消し去りたいような『黒い印』を」とOlson氏は記述します。

んでもって、氏は、この「再生」のイメージを、作品製作中にリンチが始めた「瞑想」……「Transcendental Meditation」との関連性において指摘します。この見方を裏付けるのが、当初リンチがAFIに提出した22ページのシナリオと、実際に出来上がった映像との差異です。Olson氏によれば当初の「イレイザーヘッド」のシナリオは、いろいろな点において前々回に触れた「Gardenback」との類似性が強いものでした。何よりもシナリオ版の結末は「巨大化した赤ん坊」にヘンリーが(文字通り)食われて終わるというもので、これは「Gardenback」の「家の中で育った怪物に侵食される主人公(同名のヘンリー)」とまったく同じだといえます。それが、最終的な映像では「ラジエーター・レディ」とヘンリーが「白い光」に包まれる「ハッピーエンド」になっており、完全に「転倒」しているわけですね。ペギーの証言によれば、「ラジエーター・レディ」は当初のシナリオには存在しておらず、この登場人物が「イレイザーヘッド」に現れたのは、リンチが瞑想を始めた後だったとのことです。Olson氏は、この「結末の変更」は、明らかにリンチが「TM」に触れた以降に行われ、その根底にある「ヒンズー思想」の影響下にあると指摘しています。

しかし、ヘンリーとリンチが「等身大」であるとするなら、このヘンリーの「選択」……「メアリーX」でも「向かいの部屋の美女」でもなく、「ラジエーター・レディ」を選んだという選択は、その当時のリンチの「選択」でもあったということです。ここで思い出されるのが、前回に触れた「美術館で、仏陀の頭の彫刻から白い光がピカ!」のエピソードなわけで、要するにリンチが家族生活よりも芸術生活を「選択」したことが、「イレイザーヘッド」でヘンリーが行った「選択」の構造と重なっているっつーことですね。

てな具合に、最終的にヘンリーは「ラジエーター・レディ」(と「白い光」)を選択するわけですが、Olson氏はそこに至る「過程」を問題とします。つまり、「ラジエーター・ガール」を選択し彼女との「抱擁」に至る前に、ヘンリーは「赤ん坊殺し」という行為を経るわけですが、それがヘンリー(とリンチ)にとってナニを意味するのか? ということですね。

Olson氏は、この問題を考察するに際して、「頭が抜け落ちたヘンリーの体から、赤ん坊の頭が顔を出す」映像に注目します。要するに、ヘンリーと赤ん坊の「等価性」ですね。これについてOlson氏は「ヘンリーは『叶えられない希求』という自分の傷口を、自分の子供に投影する。そして、それを自分自身とは別の生き物として、つまり『他者』としてみなす。『他者』は消却することが可能であり、それとともに彼の『苦痛』も消滅させることができるのだ」と述べます。「赤ん坊」はヘンリーの内面にあるもののを「他者化」したものであり、そーゆー意味で「同一」のものだということですね。この捉え方の根底には、人間の内面には「善や悪」などを含めたいろいろなものがごちゃまぜに内包されているという、リンチ作品が共通して採用する基本的概念があると(これはグノーシス主義の「世界観」とは相違している点であるという指摘とともに)Olson氏は述べるわけですが、このような機序で「赤ん坊殺し」は「ヘンリー自身の『何か』を殺す作業」として位置づけられることになります。

つまり、「ラジエーター・レディ」との抱擁に至るには、ヘンリー自身も何かを「犠牲」にしなくてはならず、それはたとえば「ヘンリーが自分の頭を失くすこと」あるいは、「ヘンリーの頭が落ちる」シーンに登場する巨大サイズの「鉢植え」が「血を流し」、その血に「ヘンリーの頭が浸かる」映像に表れているというのがOlson氏の見方です。逆にいえば、自分の内面に存在する(「他者化」された)「おヨロシくない部分」を消滅させることが、「再生=精神的成長」につながるということでありますね。Olson氏は、この「ヘンリーが自分の生命を失うこと(=頭を失うこと)は、瞑想者が自我意識を失うことのメタファーである」と述べ、リンチの「TM」への傾倒がこの作品に与えた影響を強く示唆します。

大山崎にとって、この「再生」のイメージとその「TM」との関連性の指摘は、なかなか興味深いものでありました。Olson氏も文中で述べていますが、このあたりは「キリストの受難」と「復活」というキリスト教圏のメンタリティに裏付けられた発想なのかもしれません。

さて、その後さまざまな紆余曲折を経て、「イレイザーヘッド」は「ミッドナイト・ムーヴィー」の代表作としてカルト的人気を獲得するわけですが、そこらへんはJ.Hoberman & Jonathan Rosenbaum著の「Midnight Movirs」などで既に紹介されているので割愛します。

というわけで、「Beautiful Dark」の「イレイザーヘッド」製作時期に関する章はおしまい。次は(ちょいと寄り道をはさみつつ)「エレファント・マン」の製作時期に関する記述が始まります。

2008年12月31日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (7)

Beautifuldark えーと、忘れたころにやってくることになっている、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」についての話題。今回は、「イレーザーヘッド」を製作する前後のことなんか。

前回も述べたように、結局、 「Gardenback」に関してAFIの教官から不本意な指導を受けた挙句、作品が形にならなかったことで、リンチは一挙にヤル気を失くします。まあ、この頃から自分の作りたいものしか作る気ナッシングだったわけでありますね。あわせて、リンチはAFIの二年生のクラスに編入されるはずだったのですが、何故か手違いで一年次のクラスに入れられてしまっておりました。それもあって、リンチ、ぶんむくれてAFIをやめることまで考えます。

そうした荒れ模様のリンチに気づき、「何か問題があるのか?」と問い掛けた教授がおりました。名前はFrank Daniel教授。教授は「もし君が動揺しているのだとしたら、我々は何か間違ったことをしているのだと思う。自分が本当は何をやりたいのか、話してみてくれないか?」とリンチに声をかけます。そんなこんなでクラスの件が手違いであることがわかり、リンチは教授の誠意に感銘を受けつつ、「自分がやりたいこと」として「イレイザーヘッド」の核となるアイデア……「体から離れた頭が少年に拾われ、工場の機械にかけられて、鉛筆の頭につけられる消しゴムにされてしまう」というアイデアを話します。

というわけで、「イレイザーヘッド」はその「助走」を始めるわけですが、これに関してもやはりいろいろと紆余曲折があったようです。当然ながら、「Gardenback」と同じくリンチは「イレイザーヘッド」をAFIでの課題製作とするつもりだったのですが、一部の教授から「これはAFIが作るべき作品ではない」という反対を受けたみたいです。これに対して反論してくれたのもFrank Daniel教授で、教授は「(「イレイザーヘッド」の製作が)認められないなら、私はAFIを辞める」とまで言い、本当に辞表を提出します。教授自身はパフォーマンスのつもりで、まさか誰も本気に受け取らないだろうと思っていたようですが、これがなんとなんと受理されてしまいます。あれま(笑)。いわば教授は体を張ってリンチを守ろうとしてくれたわけで、リンチはDaniel教授のことを「史上最高の映画教育者だった」と賛辞を贈っていますが、いやまあ、これくらいは当然で、一生足を向けては寝られないんじゃないスかね、リンチ(笑)。

そのような騒ぎのすえに、最終的に「イレイザーヘッド」の22ページのシナリオは承認され、21分間の作品として製作することが認められます。1971年から製作がスタートしたこの作品は、結局89分間の作品として1977年に完成することになるわけですが、作品そのものに関するOlson氏の記述については次回以降に譲ることにして、今回は「イレイザーヘッド」製作期間におけるリンチ自身のことに絞って「Beautiful Dark」の記述をまとめてみます。

Olson氏は、「イレイザーヘッド」の製作をつうじて、リンチは二つの面で成長を遂げたと指摘します。まず、一つ目はは「芸術家」としての成長で、子供の頃の絵から少年時代の絵画に始まり、「アルファベット」などのアニメによる短編を経て、アニメと実写の混合作品である「グランドマザー」、そしてついには完全な実写長編作品を作るに至るという成長です。と同時に、Olson氏はリンチの人間としての成長をも見てとります。すなわち、自室に閉じこもりフィルムに延々と絵を描きこみアニメを創る、社会から切り離された寡黙な芸術家であったリンチが、多くの協力者たちや出資者たちとコミユニケーションをとって作品のヴィジョンを共有できるようになったという点でです。「イレイザーヘッド」を製作していた約5年間は、リンチにとって経済的な点を含めて苦しい期間であったわけですが、その一方で自身が言うように「長く素晴らしい旅(wonderful long juorney)」でもあったわけです。

しかし、この時期、リンチにとって「転換」となったのはそれだけではありません。私生活においても、大きな転換点を迎えることになります。

リンチが一日二回の「瞑想」を欠かさないことは有名な話ですが、その「瞑想」……正確にいうなら「Transcendental Meditation」との出会いも「イレイザーヘッド」製作期間中、27歳のときのことでした。事の始まりはリンチの妹のマーサがスキーに行ったときのこと。そのときについたインストラクターの男性が「いつも落ち着いていて、幸せそう」なことに気づいた彼女が「なぜ、そんなふうにいられるのか?」と尋ねたところ、彼の解答が「Transcendental Meditationを行っているから」というものでした。これがきっかけとなってマーサ自身も「Transcendental Meditation」を始め、彼女はリンチにもこの瞑想方法を紹介して……という次第だった様子。ただし、最初はリンチも懐疑的な部分を残していた様子が伺えます。「丸太おばさん」キャサリン・コールソンの証言によれば、同じように「Transcendental Meditation」に興味を持った彼女に対し、リンチは「キャス、もし制服を着せられて行進させられそうになったりしたら、走って逃げよう」と発言していたようで、やはり「洗脳」やら「統制」やらを受けるのを恐れていた様子です。いずれにせよ、その後「TMは自分にぴったりだと思った(knew TM was for me)」と発言していることからもわかるように、リンチにとって「瞑想」は切っても切れないものになっていくわけですが。

しかし、では、なぜリンチが妹の勧めに従って「Transcendental Meditation」のレクチャーを受けようと思い立ったのか。それについては、Olson氏はこのような事実を紹介しています。

その頃、リンチは当時の妻ペギーとうまくいかなくなっており、自宅には帰らず「イレイザーヘッド」のセットで……あのヘンリーが使っていたベッドで寝泊りするというようなことをしていたらしいです。リンチいわく「精神的にも最低の時期だった」とのことですが、なぜペギーとうまくいかなくなったのかについて、具体的な理由等は本書では明らかにされていません。ペギー側の談話として、「彼(リンチ)も結婚生活を続けたいと思っていなかったし、自分もそうだった」と、リンチだけでなく「早過ぎた結婚」が彼女にとっても負担であったことを匂わせています。あるいは「イレイザーヘッド」のテーマは、リンチだけでなくその当時の彼女にとっても「リアルなもの」であったのかもしれません。

加えて、「Gardenback」を製作していた時期の話として、ペギーは以下のような発言を残しています。すなわち、それまで……つまり、「グランドマザー」までは、リンチは自分(ペギー)と討論を重ねながら作品を製作していた。ところがロサンジェルスに移りAFIに入学してからは、他にもリンチと作品に関して意見を戦わせる相手が(若い女性も含めて)たくさんできてしまった、と。

これは大山崎の意見ですが、フィラデルフィアの美術学校で同級生だったペギーの幻術的感覚をリンチは評価していたということなのでしょう。共同製作とまではいかなくても、製作に迷ったときなど、リンチがペギーの意見を参考にしていたであろうことは容易に想像がつきます。そのあたりの実際は、前回触れた「『Gardenback』がなぜうまくいかなかったか」に関するペギーの分析にも表れているといえるでしょう。リンチがAFIに入学しそうした環境が変わったとき、ペギーはリンチの創作面で自分の価値が相対的に低下したように感じてしまったと告白しています。あるいはこうしたこともリンチとペギーの間の「パートナーシップ」がうまくいかなくなった要因としてあったのかもしれません……結局、二人は1974年に離婚してしまうことになるわけですが。

また、ペギーとうまくいかなくなった頃の話として、このような話が記載されています。

まだ「イレイザーヘッド」の製作が始まる前のこと、ロサンジェルス・カウンティ美術館で西インドの古代彫刻展が開かれ、リンチはペギーとまだ幼かったジェニファーを連れてこの展覧会を訪れたそうです。閉館時間も近くなった頃、リンチは家族から離れて一人で通廊をふらついていました。で、以下はリンチの証言--「他に人はおらず、彫刻が並んでいるだけで、非常に静かだった。ある角を曲がり、通路に目をやると、いちばん奥にひとつの台座があるのが見えた。台座に沿って上を見上げたら、そこには仏陀の頭部の彫刻が展示されていた。それを見たとたん、白い光が仏陀の頭部から自分の目に向かって放たれ……ブン!……私は至福感に包まれていた」。

えーと、「オーラの泉」っスか?(笑) とかいうのはともかく、実はリンチはペギーにもこの体験を話していなかったようで、このリンチの「体験」を彼女が知ったのは2000年のこと、それもOlson氏に教えられて初めてそのようなことがあったと知ったらしいです。そして、Olson氏はこの「美術館での体験」を、「リンチの芸術生活が家族生活から切り離されたことのメタファーである」と述べます。要するに、リンチが家庭を捨てて芸術生活に専念することを決意したことを、ゴータマ・シッタルダが仏門に入るとき「家族や王宮生活を捨てたこと」に例えている……というのがOlson氏の見方であるわけですね。

しかし、いや、そっかー、仏様のお導きじゃ離婚してもしょーがないわなー……などと思ってしまう大山崎は、近頃めっきり不信心者なのでした(笑)。

2008年12月 4日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (6)

んなわけで、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」をば、チマチマ読んだり読まなかったりする日々。

AFIに入学して妻ベギー&娘ジェニファーとロサンジェルスに移り住んだ直後、リンチは「サンセット大通り」のノーマ・デズモンドの屋敷として使われた建物を捜して、あちこちうろついたらしいです*。リンチの「サンセット大通り」に対する思い入れはいろいろな形で有名だけど、ということは1970年までにすでにリンチはこの作品を観ていたわけですね。根拠ナシなんだけど、なんとなくもっと後で観たのかと思っていたので、ちょっと意外。

「影響を受けたもの」という件でいえば、カフカの「変身」やゴーゴリの「鼻」をリンチが読んだのはAFIに入学してからだった……という事実がこの伝記中で明らかにされております。特に「鼻」に関しては、リンチは深い感銘を受けたようで、そのシュルレアリスム的な描写や、数回に及ぶナラティヴのシフト、オープン・エンドな結末等々に影響を受けた様子であります。当時の妻だったペギーの証言によると、「彼は『鼻』を翻訳で読んだので、より簡略化され(リンチ自身の考えや感覚や想像を反映させることができる)『余白』を残した形で体験することができた」ということでありますが、Olson氏はこれは、「(作品を作るに際して、観客が)夢をみる余地(give you room to dream)を残すように努めている」というリンチの発言と重なる……と述べています。

さて、映像作家を養成する学校であるからには当然至極ではありますが、AFIは学生に作品を作ることを求めておりました。リンチはそれに応えて「Gardenback」という作品のシナリオを書きます。これまたペギーの証言によれば、この作品はリンチが描いた「背中から緑色のものを生やし、前かがみになった人物」の絵に基づいたものであるようですが、ざくっとした粗筋はこんな具合。

「ヘンリーとメアリーは彼らの家で幸せに暮らしておりました。ある日、ヘンリーは別の女性を見掛け、『何か』がその女性からヘンリーへと移ります。その『何か』とは『虫』で、それはヘンリーの心に似た屋根裏で大きく育ちます。彼の家は、彼の頭のようなのです。『虫』は育ちつづけ変化して怪物になり、ヘンリーを乗っ取ってしまいます。ヘンリー自身が怪物になってしまったわけではありませんが、彼はそれと折り合いをつけつつやっていかなくてはなりません。しかし、そのせいで彼の家庭は完全に滅茶苦茶になってしまいます」

とまあ、Olson氏の指摘を待つまでもなく、みてのとおりこの作品のテーマは、完全に毎度お馴染みの「何かよくないことが起きる場所としての『家』」あるいは「人間の内面を表すものとしての『家』」であるということですね。Olson氏の指摘によると、このように「頭」を「家」になぞらえるという考えは、過去、多くの創作者や哲学者によって採用されていたようです。ただし、リンチはそのような過去の著作物に触れる前にこの「家」に関するテーマの作品を作っており、かつ、現在でもそのような著作物をほとんど読んでません。

もうひとつ、この作品のテーマとして採用され、後のリンチ作品にもみられる共通テーマとみなされるものとして、Olson氏は「不倫(adultery)」を挙げています。たとえば「イレイザーヘッド」の「向かいの部屋の女性」、「ロスト・ハイウェイ」の「レネエ」、「インランド・エンパイア」の「スーザン」にみられるような、っつーこってすねい。これまたペギーの証言によれば、リンチはロマンチストで、「互いに相手を連れた見知らぬ同士が、エレベーターの中で出会って一目惚れ」なんてなことが本当に起きる可能性があるなどとのたまっていたようです。そんなこと嫁さんと話してていいのか、リンチ(笑)。

興味深いのは、この作品に登場する”「虫」によって表されるもの”についてのOlson氏の考察です。当然ながら、これは「ヘンリーのメアリーに対する裏切りの象徴」であるわけですが、Olson氏は過去の文学作品において「虫」が「不安や欲望や恐怖によって不安定になった精神状態」を表すものとして使われていた例を挙げるとともに、ルイス・ブニュエルの諸作品に現れる「虫」についても触れています。ただし、リンチはそうした文学作品を読んでいないし、ブニュエルの映画作品を観たのも、この「Gardenback」のシナリオを書いた後であることも明らかにされています。この「虫」は、明らかにカフカの「変身」からの影響であるわけですが、同時にOlson氏は、むしろリンチが12歳のときにアイダホで観たカート・ニューマン監督の「蝿男の恐怖(The Fly)」(1958)、あるいはエルビス・プレスリーの「恋にしびれて(All Shook Up)」の歌詞「My friend's say I'm acting wild bug; I'm in love, I'm all shock up」からの影響だったんじゃねーの? と述べています。

このように改めて指摘されると、リンチ作品における「虫」のモチーフの共通性に気づかされます。Olson氏は例として、主人公のジェフリーが「害虫駆除員」になりすましてドロシーの部屋に入る「ブルーベルベット」を挙げていますが、思うに「ロスト・ハイウェイ」においてもピートの部屋の壁を這う「蜘蛛」や、照明器具の傘の中でもがく「蛾」が登場していますね。これらの「虫たち」が(駆除されるものをも含めて)何を指し示しているかといえば、やはり「よからぬ感情や意識や考え」であるように大山崎は思います。また、Olson氏はリンチのドローイングに「ant in house」というまんまな作品があることも指摘していますが、これもまたやはりモチーフとしては完全に同根であるのでしょう。

しかし、結局、リンチは「Gardenback」の作品自体を全ボツにします。その理由のひとつは、当初リンチはこの作品を45分くらいの中編として考えていたのですが、AFIの教官から「リニアなストーリーやダイアログを加えて、長編作品にせい」という教育的指導が出たことです。それは自分がやりたいことではなかったので、やる気を削がれたリンチは気分シオシオ。ううむ、この頃から「テメーの作りたいものを作りたいように作る」という基本姿勢を確立していたわけですね、エライなあ(笑)。そしてそれ追い討ちをかけるように、ワロン・グリーン(Walon Green)監督の「大自然の闘争 驚異の昆虫世界(Hellstrom Chronicle)」**(1971)が劇場公開されます。この作品は「虫」による世界支配を科学者が警告するっつー体裁のセミ・ドキュメンタリーでありました。これをみたリンチは、他人様が先にやっちゃったものの二番煎じはヤダ! とゆーことで「虫」関連について一気にやる気をなくし、このシナリオはなかったことになってしまいました。

実はリンチはこのシナリオを書いている最中、ペギーと繰り返し討論を交わしており、彼女はこの作品の問題点を以下のように指摘しています。すなわち、「デイヴィッドは不倫という巨大で邪悪な怪物を、悪として捉えられないでいた。なので、彼はこの怪物をドラマ的に適切に倒す方法を見付けられなかった」と。えーと、そりゃまあ、「エレベーターで見知らぬ同士が一目惚れ」なんて言ってるようでは、この「虫」は退治できなかったかもしれません(笑)。

とゆーよーな経緯でこの「Gardenback」は幻の作品となってしまったわけですが、「心のような屋根裏(attic, whitch is like his mind)」や「頭のような家(The house is like his head)」がというイメージを、リンチは映像的にどのように表現するつもりだったのか、ちょっと観てみたかったよーな気もします。しかし、この作品の「ヘンリーとメアリー」という登場人物名はそのまんま、「不倫」というテーマは形を変えて「イレイザーヘッド」に引き継がれることになるわけです。

*結局、当時のリンチは見つけられずじまいだったみたいですが、IMDbによるとノーマ・デズモンドの屋敷として使われたのは「641 N. Irving Boulevard, Midtown, Los Angeles」の「Getty Mansion」という建物で、現在はすでに取り壊されてしまっているそーです。

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余談ですけど、この「大自然の闘争 驚異の昆虫世界」、フランク・ハーバートの小説作品「Hellstrom's Hive」(1973/未訳)に触発されて作られたらしいです。「砂の惑星」の監督を引き受けたとき、リンチがそれを知っていたかどーかは不明。いや、たとえ知っていたとしても、さすがのリンチも「二番煎じは……」とか言い出して「砂の惑星」を蹴飛ばしたとは思えませんが(笑)。

2008年11月30日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (5)

うええ。なんだかなんだでなかなか読み進まないGreg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」でありますが。今回は、お約束どおり「グランドマザー(The Grandmother)」(1970)製作の前後あたりをば、Olson氏の作品分析を中心に。

AFI(American Film Insititute)から製作資金を得たリンチは、さっそく「グランドマザー」の製作に取りかかります。途中、AFIから追加資金を受けるなど「なんやかんや」しながら完成したこの作品にも、やはりリンチ作品の共通テーマ……「家族間のトラブル」あるいは「何かよくないことが起きる可能性のある場所」としての「家族の住む家」が現れていることをOlson氏は指摘します。

この作品に表れる「家庭内のトラブル」は、「厳格かつ野卑で暴力的な父親」と「父親から迫害を受ける息子」という形で現れます。少年はそれから逃れるために「祖母」を種から育てます。彼は祖母に甘え、祖母は彼に愛情を注ぐと同時に過酷な環境から逃れる「種」を彼に受け付けます。「祖母」は死んでしまうわけですが、少年のなかに受け付けられた「種」は育ち続け、彼を忌避すべき環境から解放することになる……というような「厳格な両親/慈しむ祖母」というテーマを、著者のGreg Olson氏は「グランドマザー」から読み取ります。

同時に、この作品に登場する「厳格かつ野卑で暴力的な父親」は、後のリンチ作品に表れる「野獣のようなキャラクターの原型」として捉えられるとOlson氏は述べます。たとえば「ブルーベルベット」のフランク・ブースや「ツインピークス」のキラー・ボブのような「存在」の「原型」でありますね。Olson氏によれば、こうした「野獣的なキャラクター」も、リンチ作品に頻繁に現れる共通モチーフのひとつとして理解されることになります。つまり、キラー・ボブの例に顕著なように、これも”何か他の存在が、自分の「内面」に侵入することへの恐怖”であり、”「無秩序で混沌とした外界」が「内面」を脅かすことへの不安”に基づいているということであります。「グランドマザー」に話を戻すと、「少年」の抱く「恐怖」というのは、自分も父親のような「野獣」になってしまうことである……というのがOlson氏の分析であります。

Olson氏はこのような「恐怖」を抱く「少年」に、リンチの「自己投影」をみます。当然ながら「外界からの侵入」をもっとも怖れているのはリンチ自身であるわけで、であるからこそ共通モチーフとして様々な作品に現れることになるとゆー機序でございます。と同時に、少年が地面から生まれたことに驚く「両親」のキャラクターのほうにも、長女ジェニファーの誕生に驚き慄いたリンチの「自己投影」がなされているとOlson氏は喝破します。で、この作品の「両親」に対するリンチの「自己投影」は、続く「イレイザーヘッド」でも継承され、テーマとして発展していくわけですね。このあたりは、たとえば「ロスト・ハイウェイ」でピートがフレッドの「代弁者/代行者」であるのと同じような意味で、リンチ作品の諸登場人物はリンチ自身の「代弁者/代行者」として機能しているとみなされること……つまりは、リンチ作品が非常に「リンチの私的なもの」の投影であることの指摘として捉えてヨロシいんじゃないか……と大山崎は考えましたことでした。

ちらっと前段で書きましたけど、この作品の「少年」も「両親」も「地面の中から生まれてくる」んであります。「祖母」のほうも「種」から生まれてくることに表されているように、「土」の中から生まれてきます。Olson氏は、そこに毎度お馴染み「表層の下にあるもの(beneath the surface)」 のモチーフを見いだしています。これは、後に述べる「区分けの消滅」というこの作品の特徴とも関連しているわけですが。

次いで、「学ぶ」ということをキーにして、Olson氏は「アルファベット」と「グランドマザー」を「対比」させ、その「差異」を述べます。「アルファベット」では「強制的に学ばされることのへの嫌悪」が描かれているのに対し、「グランドマザー」では「知識を獲得することの喜びと価値」が描かれているということですね。つまり、「アルファベット」におけるアルファベットの文字によって表されている「知識」は、少女=子供にとって”敵対的な大人の世界から見下ろされつつ、無理矢理「注入」されるもの”であったわけですが、逆に「グランドマザー」の少年は、”両親が属する野卑で暴力的な階下から、自分で階段を上って「直感と愛情」そして「世界とのつながり」という「人生教育」を受けに行く”というのがOlson氏による両作品の比較です。大山崎の私見ですが、”「すでに体系化された規則」に従った「知識」”と”「体系化されていない」感覚的な「経験則」”の違いが、リンチ作品において「ネガティヴに扱われるか/ポジティヴに扱われるか」の差異になっているんですかね? あるいはその「獲得」が、結果として「受動的であるか/能動的であるか」の違いにあるのかもしれません。「受動的」である場合は、これはいいかえれば”「外界」からの「侵入」への恐怖”としても理解可能なような。

Olson氏の指摘のなかで大山崎がもっとも面白いと感じたのは、この「グランドマザー」においては、「アルファベット」でみられたような「実写部分」と「アニメーション部分」の区分けというのが消滅しているという点でした。前回にも述べたように、「アルファベット」では「実写=現実の少女」というフレームと「アニメ=少女の内面」という「区分け」が(最終的には消滅するとしても)まず存在しているわけですが、「グランドマザー」ではそもそもそうした「外面/内面」の区分け自体が存在しないとOlson氏は述べます。「アニメ部分」が減少して「実写部分」が増えているという映像的比率の違いはさておき、それとも関係なく本質的なところで、少年や両親や祖母の「実写部分」と、たとえば両親や少年が地面の中から生まれるといった「アニメ部分」が完全に等価なものとして地続きに扱われている、ということですね。Olsoin氏が言うように、「イレイザーヘッド」や「ロスト・ハイウェイ」などをみても、こうした「区分けの消滅」はその後のリンチ作品の明確な特徴になるわけですが、実際問題としてこれ以降、「Dumb Land」などの例外を除いて、リンチは基本的に映像作品を「実写」でのみ製作するようになったのも事実です。このような理由で、この作品をOlson氏は”「時間経過とともに変化する絵」を作っていた「画家」としてのリンチ”と”「映画」というメディアを意識した「映像作家」としてのリンチ”の「明確な分岐点」として位置づけています。

ところで、こうした「区分けの消滅」は、「グランドマザー」に関してリンチ自身が述べた短いキャッチ・フレーズに端的に表れています。1970年にBellevue Film Festivalでこの作品がコンペ出品されたときに述べた、「a journey into the mind of lonley boy」っつーのがそれなわけですが、こりゃもう、確かにまんまっちゃあ、まんまです。大山崎としては、「lonley boy」の部分を「despairate husband」に置き換えれば「イレイザーヘッド」や「ロストハイウェイ」になるし、「brokenhearted actress」に置き換えれば「マルホランド・ドライブ」になってしまうよーな気もしますですが、それはそれとして(笑)。この「journey into the mind」というフレーズに関連して、Olson氏はリンチの家にある数少ない書籍のなかに、ウィリアム・ブレイクの詩集が含まれているという事実を指摘しています。「For in the Brain of Man we live」とか「To Me This World is all One continued Vision of Fancy or Imagination」とかいうブレイクのフレーズは、まんまリンチの諸作品にも当てはまるわけですね。

余談として、Olson氏は、リンチは自作についてそれぞれ短いキャッチ・フレーズをつけると指摘します。確かに我々もよく目にする光景ですが、新作の記者会見やインタビューで自作についての「説明」を求められたとき、リンチはそうしたキャッチ・フレーズを繰り返すだけですませてしまいます。たとえば「インランド・エンパイア」の「A woman in trouble」なんつーのも、その典型例であるわけですね。で、それ以上の説明は一切せず、受容者の解釈(ないしは誤読)に任せてしまう……てなことを、リンチは「グランドマザー」の頃からやっていたことになります。こうしたリンチの自作への態度を、Olson氏は皮肉っぽく「戦争中に捕虜になった兵士が、敵軍兵士のどのような尋問に対しても、自分の名前と所属と認識番号しか答えないがごとく」とか評しておりますが、まあ、そのようなことを評論家に言わせたくなるほどリンチの口が堅いとゆーことでありましょーか(笑)。

てなわけで、これで第一章「FEARFULLY AND WONDERFULLY MADE」は読了。リンチは「グランドマザー」を完成させるわけですが、AFIから追加資金を受ける際に、実はリンチはもうひとつのオファーを受けておりました……ロスアンジェルスに来て、AFIに入学しないか、と。このあと、リンチは友人のジャック・フィスクやらアラン・スプレッドたちと一緒にフィラディフィアからロサンゼルスに移り住み、そこで初の長編映画「イレイザーヘッド」を五年かけて製作することになります。そのあたりの話は、次回からとりあげる第二章「FACTORY CHILD」にて……ってことで。

2008年11月 8日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (4)

忘れたころにやってくる(笑)、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」の話題であります。

うむむ、電車のなかで読めないと、なかなか読み進みませんなあ。いまだにフィラディルフィア時代をさまよっているワタシ(笑)。なんとか「アルファベット」が作られる前後のところまで読みましたんで、そこらへんまでご紹介。

「アルファベット」に関する記述の紹介と前後して、リンチ作品全体に関するOlson氏の見方とゆーか記述があるので、ちょいとこれを先に紹介しておきます。

リンチ作品の製作過程の根底にあるのは、リンチが言うところの「act and react」であるとOlson氏は述べます。リンチが画家を目指していたころに「絵画」におけるパラダイム・シフト……つまり、伝統的な「現実の説話的な描写(narrative representation of reality)」が棄却されて、「自由な抽象表現(freedom abstraction)」や「アクション・ペインティング(action painting)」なんやかへのシフトがあって、リンチはその洗礼を受けているとOlson氏は指摘します。でもって、そういうまず「絵画」において採用された「何が正解でバランスがとれているかを判断するにあたって、その瞬間その瞬間の感覚にしたがう」といった手法をリンチは映画作品にも持ち込んでいて、「絵筆をふるうように映像や音響を使ってムードや感情の高まりを描き、それを時間経過とともに変化するよう構成する」ってなことをやっている、と。んで、その結果として、「(リンチの作品は)我々が大多数の映画を観る際に慣れ親しんでいるような、安定し理路整然とした可読性を欠いている(lack the stable, orderly readablility of most of what we are accustomed to seeing on the screen)」ちゅうこってす。でも、一見「予測不能で、安定を欠き、混沌としている(unpredictable, unstable, and chaotic)」ようにみえるリンチ作品てーのは、「時として言葉では表せないような感覚的-感情的な意味を伝える動的な過程のなかで、相互的に作用する諸要素によって出来上がったものである(they are composed of elements interacting in a dynamic process that conveys often sublingual sensory-emotional meanings)」とOlson氏は述べます。

まあ、ぶっちゃけたハナシ、大山崎がしつこく言及しているリンチ作品における「イメージの連鎖」ちゅうのは、Olson氏の見解をちょっと別な角度から、非常に雑駁に述べたものと捉えていただいてかまわねーかなと思います。リンチ作品が登場人物の「感情」をキーにして理解できること、リンチ独自の感覚に基づいた「抽象的概念の結節=イメージの連鎖」によって成立していること、そしてリンチの映像作品と絵画作品は手法として共通していること等について、氏は指摘しているわけです。「予測不能で、安定を欠き、混沌としている」ってーと、まるで「統合失調症患者の妄想」みたいですが、決してそーではないとゆーことですね(笑)。

んでもって、「アルファベット(Alphabet)」(1968)に関して。

ちょっと「Beautiful Dark」内での記述とは前後関係が入れ違うんですが、Olson氏はこの作品がリンチが「映像のみ」で表現することに軸足を移した最初の作品であることを指摘しています。つまり、ご存知のように、「嘔吐を催す六人の男」が、リンチの頭部を原型とした「彫像」がスクリーンに貼り付けられているといういわゆる「インスタレーション」のジャンルに属する作品であったのに対し、「アルファベット」はそうした(いわば)ギミックを排した「映像一本」での表現を目指しているということです。リンチの画家から映像作家への軸足のシフトは、この作品において決定的に行われた……ということですね。とはいえ「アルファベット」を作ったときには、リンチは映像製作に関する教育などまったく受けてなかったので、ま、見よう見真似とゆーか、この作品にみられる映像文法は、自分が観たことのある数少ない映画作品から本能的にリンチが学び取ったものであると、Olson氏は述べています。

この作品が、当時のリンチの妻だったペギーの姪の「悪夢」をもとにして作られたことはよく知られた事実でありますが、Olson氏はそこに「強制的な教育に対する恐怖」というテーマを読み取ります。特に、この作品に明瞭に現れているように、「言語」を強制的に「習得」させられることに対する「恐怖」ですね。そして、リンチが「言語習得」に対して抱く「恐怖」の根底に、氏は「言語習得前の子供が抱く自由な発想や概念が、言語によって整理/体系化されることによって制限を受け、無味乾燥なものになってしまうことへの精神的苦痛」を読み取ります。リンチにとって、そのような「制限」はそのまま創作の障害につながるものであり、その姿勢は現在に至るまで変わっていない、と氏は指摘します。リンチが自作について語ることを頑なに拒否するのは、まさにそうした「制限」に対する恐怖からであるわけっスね。

そして、この作品もやはり「表現主義的」な手法に基づいていることが指摘されます。この作品でいえば、「外面」として現れているのはペギー・リンチによって演じられている「少女」の実写映像であり、「内面」として現れているのは「キュビズム的な手法によって描かれた頭部」などを描くアニメーション映像であると氏は述べます。つまり、アニメーション部分で提示されているのは、少女の「内面」で発生している「事象」であるということですね。「キュビズムの頭部」に「A」やら「B」やらのアルファベットがぶち込まれ、この「頭部」はうげーと喘ぐわけですが、それに続いて実写映像のほうでも「少女」がうげーと喘ぎます。「頭部」がでんでろりんと血を吐くと、「少女」もでんでろりんと血を吐きます。つまりこの両者は連動していて最終的には「内面」と「外面」の境界が消失してしまうわけですが、こーゆー「内面の外界化」という表現を、リンチは「インランド・エンパイア」の”「スミシーの家」の実体化”に至るまでずーっとやっているということですね。そもそも、「アルファベット」の冒頭で提示される「少女がベッドで寝ているショット」そのものに、Olson氏はその後のリンチ作品が提示する「夢と現実の混同(interpenetration of dream state and waking reality)」の初期形を見て取っております。となると、「マルホランド・ドライブ」の冒頭で提示される”枕に向かって進む「視点」”の映像は、この「ベッドに横たわる少女」のヴァリーエションといえなくもないかも……と大山崎は思ったことでした。

で、AFI(American Film Insititute)が有望な映像作家の卵に作品制作費を提供していることを知ったリンチは、この「アルファベット」を提出するとともに、「グランドマザー」の脚本で応募します。リンチは他にもっと有望な候補者がいることを知っており、自分が選ばれるとはあんまり考えてなかったみたいですが、みごとに製作資金を獲得します。その当時、審査にあたっていたGeorge Stevens Jr.氏は、「応募された作品をカテゴリーごとの山に集めていたのだが、その作業が終わったとき、ひとつだけどの山にも属さない作品が残っていた……それが『アルファベット』だった」と証言しています。いやまあ、確かに、どのよーに分類してよいか困る作品であるかもしれません。

ってなことで、次回は「グランドマザー」(1970)製作の前後のことなどについて、です。

2008年10月30日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (3)

うははー。Linux2号機が絶不調でございます。使用中にいきなりブチっと電源が落ちやがるの。打ち込み途中の文章がパアじゃねえかよう、ナニ書いてたんだか忘れちゃったよう(笑)。トロいくせに爆熱を出す機体なんで、そのうち電源がイカれるかもなあと思ってたんだけど、そりゃアンマリよ随分ね(笑)。まあ、古い機体だし、シリコン・グリスが硬化してCPUからヒート・シンクへの熱伝導がうまくいかずに熱暴走……ってな可能性もあるんで、一回バラしてグリス塗り直してみよーかな。

実はLinux3号機も先月あたりからなんか挙動がおかしくて、充電池がセットされていると電源が入らないってのは、いったいどーゆー仕儀でありましょーか(笑)。とりあえず、AC電源だけなら動くんで、電池引っこ抜いて運用中。まあ、9000円で買った機械だしあんまり贅沢はいわんが、アンタは確かノートPCのハズじゃなかったのか、その「自己同一性」はないのか(笑)。

ってな具合に、あっちゃこっちゃ脱線しながら、ボチボチと読書進行中(笑)。引き続き、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」のお話。

ちょっと話は戻って、「映像製作」に至るまで画家を志望していたころの「絵画作品」についても、いろいろと興味深い指摘がいくつかありました。

まあ、フツーそーだろーと思うのだけれど、まあ、最初はリンチも写実画から描き始めていて、最終的に抽象画に至るまでにはいろいろな画家の影響を受けたことが、ティーン・エイジのころに描かれた作品からはうかがえるそうな。たとえば、明らかにゴッホの色彩の影響を受けたであろう「自画像」が残っていて、まあ、その、髪に隠れてだかなんだか、左耳がよく見えないように描かれていると(笑)。うむむ、ゴッホの「耳」と「ブルー・ベルベット」の「耳」をつなぐリングってえわけでございますな。

しかし、ハイ・スクールのころになると、すでにキュビズムの手法をとりいれたりしてたりで、写実的な具象画からは逸脱していた様子であります。フランシス・ベーコン作品との出会いは、まあ、有名だからおいとくとして、Olson氏は1950年代の「抽象表現主義」の画家たち、とりわけフランツ・クラインからの影響を指摘していますが、えーと、クラインの絵っちゅうと、たとえばこんな感じ。

Kline03

いやもう、こりゃまたみごとに真っ暗けっつーか、モノトーンっつーか、白黒ってゆーか、リンチの一連のドローイングみてると、ああた、確かに影響受けまくりに受けてマスったら受けてマス(笑)。

で、「嘔吐を催す六人の男」なんですが、Olson氏はこのリンチの処女映像作品に、その後の様々な映画作品にみられる特徴やモチーフの萌芽をみます。「初期短篇集」のDVDを持ってるヒトは、参照しながら読んでくだせえ(笑)。

まずOlson氏が指摘するのは、分割した画面に映し出される「カウント・ダウン」の「数字」と、「LOOK」という「文字」であります。リンチの「絵画作品」には、こうした「文字」や「数字」が貼り込まれたものが多数あるわけですが、映像処女作品である「嘔吐を催す六人の男」にもそれが現れちょるわけです。「インランド・エンパイア」においても、スー=ニッキーの右手の甲に書かれた「LB/」ってなのがありました。いわゆるひとつの「文字のテクスチャー」ってヤツでございます。

続いて、画面右側に「二人の男」の「映像」が映し出されるわけですが、「一人」ではなく「二人」であるところにOlson氏はその後のリンチ作品に現れる「抽象概念」の基本的提示方法をみてとります。氏は「One and Same」という言い方をしていますが、画面左にあるリンチ自身の顔から型を採った彫像を含めた「六人の男」はすべて「等価」で、全員の「総体」でもって”「人間」の「概念」”という抽象的かつ普遍的なものを表わしているのだということです。要するに「インランド・エンパイア」に現れた、ニッキーやらスーやらロスト・ガールやらの「トラブル=機能しない家族」の「諸例」がすべて「等価」であって、それらの「集合体」が”「機能しない家族」の「抽象概念」”という普遍的なものを表わしている……ってのと、同じことなんでありますな。まあ、こういう「抽象概念」や「普遍/一般」の表し方って、リンチの専売特許ってわけじゃなくて、芸術全般でよく使われる「手口」であるとは思いますけども。

でもって、「嘔吐」というものそのものが”外部からはうかがいしれない「内面」”があからさまにされる行為なわけで、Olson氏の文章を引くなら「リンチの劇場用映画作品は人間精神の深部における働きを暴いているが、この彼の最初の映画では、六人の男たちの肉体的器官の内部を明らさまにすることによって、表層の下に潜むものを白昼のもとに晒したいという衝動を表明している」っつーことです。つまり、この「嘔吐」によって表されるものは”「外面」と「内面」の対比”ひいては”「内面」の「外界化」”であって、いうなれば「ゲロはきわめて表現主義的」なものであるってーことっスね(笑)。しかし、ま、サルトルといい、ジョン・ウォーターズといい(をい)、「ゲロ」が人間の思索や創造に与える影響というのは多大でありますなあ。バブルの頃は終電間際の駅のホームがゲロまみれだったりしましたが、アレは非常に実存主義的かつ表現主義的な時代であったわけですなあ(ホントかよ?)。それはそれとして、リンチが絵画や映像を含めた自分の作品の方向性を、この時点から”「人間の内面」の「視覚化」”に向けて確立していることは明白であって、こうした方向性のもとに「ブルー・ベルベット」の「芝生の下に潜む蟻」とか、「ロスト・ハイウェイ」や「インランド・エンパイア」の「人間の内面の象徴としての家」というようなモノが出てくるわけですね。

もひとつ、この「嘔吐を催す六人の男」はループさせたフィルムによって上映され、リンチがその気になれば延々と何度も映し出されること(DVDでは六回リピートですけど)もOlson氏は指摘しております。氏の表現を借りれば「繰り返し嘔吐に苦しむ人間存在というアイデアが、リンチの頭にあったことは明白だ」ということで、まあ要するに、こうした「嘔吐」(によって表される)行為を「人間」がその生ある限り延々と続けるっつーことをこの「リフレイン」は指し示しているわけです。ぶっちゃけのハナシ、「ロスト・ハイウェイ」の「円環構造」と基本的に同一の発想だといえるでしょう。

サウンド・トラックとして流れる「サイレンの音」は、明らかにその後のリンチ作品の音響の特徴である「インダストリアル・ノイズ」の先駆けであるし、「炎」もやっぱ現れるし、その他モロモロ、リンチ作品を通して現れる共通したモチーフが「嘔吐を催す六人の男」には「テンコ盛り」だとOlson氏は指摘しております。たーしーかーにおっさるとおりで、いやあ、リンチって全然そのころから「ブレがない」んですねー……とゆーお話でした。

2008年10月21日 (火)

「Beautiful Dark」を読む (2)

のてのてと読み進めるワタシ(笑)。

あ、書き忘れたけれど、基本的にこの本、リンチの子供時代から始まって、「通年史」的にリンチの作品とその時の周辺情報を追うという構成になっております。どっちかっていうと、「研究本」というよりは「伝記」なのね……と思ったら、Dugpa.com管理人のDugpaさんは最初っから「biography」って言ってますわ。大山崎が勝手に思い込んでただけでした、ごめんなさい。

しかし、粗筋紹介して何やら感想めいた文章をくっつけたようなそこらへんの「研究書」に比べても、リンチ作品に関するテーマ分析とかは、むしろこの本のほうが的確だと思います……とりあえず、読んだ範囲では。というか、ここまで真正面からデイヴィッド・リンチを論じている本は、今まで存在しなかったといっていいのではないかと。その実証主義的な姿勢といい、これまでのリンチ本とはまったくレベルが違うと感じました。もし、この本を買おうかどうか迷っているなら、間違いなく「買い」です。

これだけの本をまとめあげるには、大変な時間と労力がかかったであろうことを考えると、著者のOlson氏には頭が下がる思いであります。もちろんクリス・ロドリー氏のインタビュー本という労作はすでにあるわけだけど、この「Beautiful Dark」とインタビュー本をあわせて読むと、「あ、リンチはそーゆーコトを言いたかったのくわー!」と目からウロコなこと、請け合いであります。これから先、デイヴィッド・リンチについて誰が何を言おうと、この本を読んでないヤツのいうコトはあんまり信用せん……と、個人的には決めました(笑)。

で、やっとフィラデルフィアに移り住んで、初の「映像作品」である「吐き気を催す六人の男(Six Men Getting Sick)」(1967)を製作するあたりまで読み進みました。やっと「映像作品」を製作するところまでたどりついたわけでありますが、そもそも「フィラデルフィアは自分にとって重要な地である」というリンチの発言の意味が、遅まきながら、あ、ナルホドと納得できました。フィラデルフィアでリンチが住んでいた周辺がどのようなところで、そこで住んでいたときに何があったかは、たとえばインタビュー集「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」の64ページあたりに書かれているし、発言集の「According to...David Lynch」にもわざわざ「Philadelpha」という一章が設けられているぐらいなわけですが、正直いってボンクラな大山崎は、それらの事件や事項がリンチ作品のテーマにどのような影を落としているか、Olson氏に指摘されるまで気がついてませんでした。

リンチが住んでいた周辺は「黒人少年が道端で頭を撃たれて死ぬ」というようなところで、つまり、前回触れた「無秩序で混沌とした外界」そのものなわけです。で、そこにリンチは妻のペギーや娘のジェニファーと住んでいて、車を盗まれるわ、二回も不法侵入を受けるわってなことが起きて、それって「外界」による「安全で統制された『避難所』」への「侵入」に他ならないということですね。結局、フィラデルフィア時代に起こったことは、最終的にリンチ作品のテーマのひとつである「人間の『内面』を表すものとしての『家』」や、頻繁に現れる「監視/侵入/追及」のモチーフにつながっていく……っていうことです。ある意味、前回の「広所恐怖症」の話といい、非常にわかりやすいハナシであるわけですが、こういう基礎的事項が押さえられているのといないのとでは、リンチ作品に対する理解度もそりゃ違うだろーよ、ってなもんであります。

「吐き気を催す六人の男」についても、いろいろ興味深いOlson氏の指摘があるんですが、それについては次回にでも。

2008年10月19日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (1)

Beautifuldark えー、というわけでGreg Olson著のリンチ研究本「Beautiful Dark」がやっと手元に到着したので、ご報告。やっぱ、電車の中で読むには、ちと分厚いし重いな、これ。試しに重さを計ってみたら、1.4Kgっつーことで、ちょっとしたB5サイズのノートPCぐらいの重さ。当然、手に持って読んでると疲れるので、床の上に置いて、絨毯に寝転がって読むのが吉とみた(笑)。というわけで、お家にいるとき限定で読み進めることにします(笑)。

まだ最初の方を何ページかパラパラ読んだだけなのだけど、すでにいろいろと驚く新事実が次々と(笑)。リンチは小さい頃「広所恐怖症」の傾向があり、それは成長してからも続いていたとか、森林調査官だった父親のオフィスの壁に掛けられていた「体系化して並べられた『害虫』の標本」の話とか、非常に興味深かったりする。とりわけ、リンチ家が信奉していた「長老教会派」の教えと(表現主義的な観点からの)リンチ作品の共通性の指摘とかは、ちょっと大半の日本人には不可能なものかもしれません。

子供の頃、「木にたかった赤蟻」をリンチが目撃して……などに代表される「日常に隠された非日常」の話なんかは、すでにあちこちで紹介されていて有名だからおいとくとして、”リンチにとって「外界」は「無秩序で混沌とした脅威」であり、それと「体系化された安全な『待避所』」との関係性が、リンチ作品を押し進めるものである”とするOlson氏の指摘は、かなり頷けるものがあるような気がする。もちろん、リンチにとって、そうした「待避所」の端的なものが「家」であり、あるいは自分の「内面」であるわけでありますな。逆にいうとリンチにとって最大の「脅威」は、「家」や「内面」に「無秩序な外界」が侵入することであって……などなど、先ほど述べた「広所恐怖症」的傾向の話をあわせ、あるいはリンチにとって作品を創ることは、「無秩序な外界」という「害虫」を、「整理し体系化された標本」にすることによって、その「脅威」を「中和」する作業であると思えなくもないわけですが、どんなもんでしょーか。

とまあ、これからボチボチ読み進めるにつれて、他にもいろいろと新事実が明らかにされそうな勢いですが、Olson氏のエライところは(って、大山崎がエラそーですが)、冒頭の6ページぐらいの間に、リンチの手法が「表現主義的なもの」であり、その作品が目に見えない人間の「内面」や「感情」の「視覚化」であることを、きちんと述べていること。こーゆー基礎的なことにちゃんと触れるかどーかは、それはそれで著者の見識の問題だよなあと思ったりするんですが、いかがなもんでしょーか。

てなわけで、折に触れて、ときどきこの本の内容紹介も進めていきたいと思っておりますので……ということで。

2008年6月21日 (土)

またもやリンチ本新刊のおハナシ

本日のDugpa.comネタ。

Bedark 「Beautiful Dark」というタイトルのリンチ本が9月に出るらしい。確認したところ、すでに日米のアマゾンで予約受付が始まっている様子。ハード・カバーで720ページという人を殴り殺せそうな本で、とても電車の中で立って読む気にならんな、こりゃ(笑)。

著者のGreg Olson氏は、シアトル美術館で映画関係のキュレーターで、どうやらFilm Noir Foundationの評議員でもあらせられるらしい。リンチへの直接取材はもちろん、両親をはじめとする家族・関係者・知人への取材を踏まえ、リンチの実体験とその作品の関連を探る……ってな、いや、非常に真っ当で直球勝負の研究本な感じである。実際に中身を読んでみないとナントモではあるけれど、こーゆーリンチ研究に関する基礎資料的な本が出るのは喜ばしい限り。でも、日本で翻訳されたりはしないんだろうなあ、きっと。正直なところ、翻訳が出ている基礎資料がクリス・ロドリーのインタビュー本のみという日本の状況は、ちょっとサミシイ感じではある……と書いた本人が言っちゃなんだが、まあ、こういう地味な映画本って、そうそう売れないんですわね。

出版社はThe Scarecrow Press, Inc.で、公式サイトはこちら

2008年5月 4日 (日)

「According to... David Lynch」を読む

チンタラ読み進めていたデイヴィッド・リンチ関連本「According to... David Lynch (a selection of his finest quotes)」をば、やっとこさで読了したので、とりあえずご紹介。

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タイトルを読んでのごとく、この本は、リンチが1976年から2007年の間にあちこちで発言した言葉を集めた「発言集」である。リンチ自身の発言が約380、それにプラス周辺人物によるリンチに関する発言がおよそ70余り収録されており、テーマ別に12章に分けられているという具合。

当然ながら、TVや新聞やら雑誌やらの取材時に、リンチ自身が実際に発言したものをそのまま引っ張ってきているわけで、「なんかそんなコトを喋ってたなあ」というウロ覚えのリンチ発言を確実な形で確認できるのは、とってもありがたい。このあたりはいわく言い難い部分があるんだけど、「ンなこと、言ってたっけか?」というような、出所が怪しい孫引き曾孫引きの「リンチ発言の引用」がネット上に氾濫してしまっているのも確か。もし、リンチによる発言をナニガシか作品理解の参考資料として使うならば、まずは正確な発言を押さえておきたいわけで、そーゆー時にこの本は役に立つ感じ。

ただし、「資料本」としてこの本をみたとき、リファランス部分が弱いのがちょっと気になるところではある。まあ、こういう類の本は、本当に企画あるいは編者次第で、作りが読者のニーズに合致していれば「いい本」であるわけだけど、外れていれば評価が変わってくるもんだと思う。まったく同じ発言を材料に本を作るとしても、たとえば年代順に並べるのか、作品別に並べるのか、あるいはまったく全然違ったテーマに沿って並べるのか、索引部分をどう作るのか……といった作り方の方針によって、本の性格が変わってしまうからだ。この「According……」についていうなら、どちらかというと編者であるHelen Donlonさんは「読み物」として読まれることを想定していて、資料的に使われることはあまり意識していないという印象を受けた。

そのあたりは、各章の「テーマ」設定にも表れていて、割と編者の感覚的なものに拠っている感じ。たとえば一番最初の章が「Philadelpha」であるのは、そこがリンチの映画製作の出発点であるから理解できるとして、その後の章が「Surrealism and Visions of Lynchland」だったり「American Gothic」だったり、かと思えば「Angels, Demons and Dream Interpretation」なんてな章があったりで、正直なところ、あまり一貫性を感じない。もちろん、こうしたテーマそのものがリンチの発言内容をもとに設定されているのは理解できるし、それがダメってわけではない。だけど、何かに関するリンチの発言をこの本で調べたいと思ったとき、ちょいと捜すのに苦労するのは間違いないのだな。さすがに各章の中では、ある作品に関する発言は一箇所にまとめられてはいるものの、たとえば「インランド・エンパイア」に関する発言をまとめてピックアップしようとすると、ページをめくりまくって全部の章をチェックしなければならないわけで、時間がないときはちょっとイラつく。どっちにせよデータ・ベース的に使うのであれば、紙ベースよりも電子ベースのほうが利便性が高いのは当然なので、この本の電子版が出てくれれば解決する問題ではあるのだけども…… 出ないですかね?(笑)

というような本の構成上のことはともかく、収録されている「発言」自体は、非常に興味深いものが混じっている。たとえば「マルホランド・ドライブ」に登場するカウボーイに関連して、ハリウッドにおけるカウボーイ俳優たちの独特のスタンスというか立ち位置について、リンチは触れている(P96-97)。もちろん、カウボーイ俳優自体が現在のハリウッドではほぼ絶滅していて、あるいはリンチにとって彼らは、フェリーニにとっての道化師たちと同等の存在であるのかもしれないと思ったり。となれば、「マルホランド・ドライブ」に現れるカウボーイに関しても、また違った視点からの解釈ができるかもしれない。

ま、そんなこんなを差し引いても、リンチに関する基礎資料として、この本が有用であることは間違いない。とりあえず各ご家庭に一冊、確保しておくのもおヨロシイんじゃないかと。

P.S. あ、残念ながら、「チーズはミルクから作られる」という発言は収録されていませんでした(笑)。

2008年4月 6日 (日)

「David Lynch Decoded」を読む

というわけで以前にも紹介したリンチ関連本「David Lynch Decoded」を読了したわけでありますが。

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以前も触れたけれど、著者のMark Allyn  Stewart氏には「Hand of God」 シリーズをはじめとするホラー小説の著作があり、小説家が本業の方である。しかし、この本の著者紹介をみると、 この方、ウェブスター大で映画学の学位をとっているらしい。そういう意味では、映画を観る作業に関しても、 一応の訓練を受けたことがある方だと考えていいのだろうと思う。

Stewart氏がいちばん最初に触れたリンチ作品は「ツイン・ピークス劇場版」で、高校生のときのことであったらしい。 Stewart氏はいたくこの作品を気に入り、以降、ビデオ屋でリンチ作品を漁ることになった。ということは、TV版の「ツイン・ピークス」は観てなかったのか? という疑問もわくのだが、そこらへんの事情は本書ではつまびらかではない。ピークス・ファンでもなかった氏が「劇場版」を観に行く契機になったのはいったいなんだったのか、ちょっと興味深いところだ。

本書の構成に関しては、これまた以前も紹介したとおりで、リンチの諸作品に現れる「共通したモチーフ」を作品ごとに追いかけて、最終章でそれを総括するという形をとっている。いわば、リンチ作品に現れる「モチーフ」を「辞書化」しようという試みであるわけだ。氏の弁に従えば、たとえばヒッチコック作品における「緑」が「病的なもの」を表すように、リンチ作品に頻出する「青」によって表されるものも何か共通項があるはずである。よって、その「青によって表されるもの」を具体的な現れ方から探っていこう……という趣向である。作家分析の手口としては、まあ、真っ当過ぎるほど真っ当であるといっていいだろう。

本書のなかで、実際にStewart氏がリンチ作品における「共通モチーフ」として指摘しているものを列挙すると、「青」「犬(鳴き声だけを含む)」「電気」「赤いカーテン」などがある。また、「ラジエーター・ガール」や「キラー・ボブ」や「小人」、「ミステリー・マン」や「カウボーイ」といった(著者の表現を借りれば)「異世界からのキャラクター」もまた、共通するモチーフの表れとして分類されているようだ。

分析対象として俎上に上がっているリンチ作品は、「イレイザーヘッド」から「インランド・エンパイア」までの劇場用作品10本と、 TV版「ツイン・ピークス」である。「イレイザーヘッド」以前の「アルファベット」や「グランドマザー」には触れられていないし、「ホテル・ルーム」や「オン・ジ・エアー」などのTV用作品もとりあげられていない。また、リンチによる絵画作品に関しても一切言及されていないし、リンチ自身の発言や著作からの引用もない。そこらへんを切り離して、主として「劇場用映画作品」として発表されたもののみから分析作業をしようというのは、ある意味、潔いといえば潔い……のだが、リンチに関するその他の情報を丸っぽ無視するのも、ちょいと乱暴すぎゃしないかという疑問もわく。

……というようなことを思いつつ読み進んだのだが、少なくとも「マルホランド・ドライブ」までの作品に関する限り、著者の作品把握はそれなりに的確であるように感じる。細かいとことで「そりゃ、どうよ?」と引っかかる点はあるものの、クリテイカルな読み違いはない……というか、的確過ぎて「新しい視点」に欠けるという点で詰まらんといえば詰まらんのだが(笑)、それは的外れな批判というものだろう。というのは、実際に読み終えて感じた限りでは、Stewart氏はこの本をあくまで「リンチ入門書」として書いているからだ。この本に冒険的な論証や多角的な検討を期待するのは、そもそも間違いなんである。

だが、この「入門書」という位置付けを前提としても、やはりいろいろと食い足りない部分があるのも確かだ。そのひとつの表れがStewart氏が本書の中で選択している「用語」で、たとえば「ドッペルゲンガー」というような用語を、何の批判も注釈もなく「無造作」に使ってしまうのはいかがなものか。そうした「既成用語」を「ツイン・ピークス」のクーパー捜査官や「ロスト・ハイウェイ」のフレッドの説明に使ってしまうのは、どうも「理解しやすさ」と引き換えに「議論の発展性」を犠牲にしているような気がしてならない。そして案の定、Stewart氏の議論はそこで止まってしまう。リンチ作品の中で発生している「現象面」を延々と追いかけるばかりで、いい言い方をすれば非常にプラグマテイックなのだが、悪くいうとそれこそ「リーダーズ・ダイジェスト」的で表層的なんである。リンチの表現の「本質論」……たとえば、その根底にある「表現主義」への言及などに議論がつながっていかないのは、逆に「リンチ入門書」としてみた場合どんなものなのだろうか。

リンチ作品を言語化することの困難さのひとつに、その半具象的な表現をどう捉えるのか、すなわちどこまで具象的なもの(あるいは抽象的なもの)として捉えるのかという点があるのは、まあ、確かだ。このあたりの「揺らぎ」は本当に人それぞれで、リンチ作品を論じる際に各人がなかなか「共通認識」を持てないでいるのは、そこらへんに起因する部分がデカいんではあるまいかと思っている。そして、そうした「揺らぎ」は、とどのつまり、リンチ作品を言語化する際に選択される「用語」の「揺らぎ」に直結してしまう。そうした「用語の揺らぎ」は、どうにも「気持ちが悪い」。どのくらい「気持ち悪い」かというと、他人のパンツを借りてはいてみたぐらい「気持ち悪い」(笑)。

というような個人的な感想はどうでもいいとしても、このあたりの「用語選択」の具体的な問題として、 Stewart氏がリンチの諸作品から摘出した「共通モチーフが表すもの」を「言語との一対一の関係」でしか記述できていないことが挙げられる。たとえば「青のモチーフが表すもの」を単純に「秘密」という言語に置き換えることに、 Stewart氏はまったく抵抗感を抱いてない様子なのだ。わかりやすいといえば確かにわかりやすいし、「入門本」という本書の性格に合致しているといえば合致しているかもしれない。だが、当然ながら、リンチの映像が提示する「抽象的で複合的なイメージ」はこのような「言語との一対一の関係」では表せないので、どこかで概念的に「はみ出す部分」や「不足な部分」が発生してしまう。そうした「部分」を切り捨てて「総論化」することには、(ラカン派論者でなくとも)「過度の単純化(Oversimplified)」という批判を向けざるを得ないだろう。

なによりも、リンチ作品がそのような「言語との一対一の関係からはみ出した部分」を糊代にイメージを結節させていることを考えると、結果としてそれは全体的な作品構造に対する分析の不足につながっていかざるを得ない。それを証明するかのように、「インランド・エンパイア」に関する作品分析に入った途端、Stewart氏の筆は急に躊躇をみせ、明瞭さを欠いてしまう。他の作品には存在した全体構造に対する言及が欠落し、疑問形の文章が増える。作品解釈というよりは、Stewart氏のいう「共通モチーフ」の「辞書」を基に、作品解釈に至る道筋を模索している様子を読まされているかのような印象さえ受ける。そして、残念ながら、 Stewart氏の作業はうまく行っているとはいえない。「インランド・エンパイア」に対して、少なくともその全体構造の把握に対して、 Stewart氏の「リンチ辞書」は機能しないのだ。

Stewart氏のリンチ論の限界がどのあたりにあるか、このへんで明確に見えてきてしまう。「ドッペルゲンガー」や「秘密」や「異世界」といった「紋切型の用語」を安易に使ってしまうことに表れているように、氏には、「抽象的な映像」を「具象的な言葉」に変換することの困難性に対する認識が欠けているのだ。それは厳しい言い方をすれば、「抽象的なものを抽象的なものとして把握し論じる能力」の欠落を露呈していることと同義である。たとえば「デヴォンとニッキーのベッド・シーン」が青色の照明に包まれて行なわれるのは、それが不倫行為であり、「秘密」であるからだ……とStewart氏は論じる。だが、それが作品の全体構造とどう関係しているのか、 Stewart氏の「インランド・エンパイア」分析は明瞭にできないままに終わってしまう。要は氏の「インランド・エンパイア」分析は「あらすじ」の範疇を出ていないわけだが、非ナラティヴな作品の「あらすじ」など、何の役にも立たないのは自明のことである。

同じことは、著者が用いる「異世界からのキャラクターたち」という「用語」に対しても指摘できる。「ラジエーター・ガール」や「ミステリーマン」といったリンチ作品に登場するキャラクターたちが、ときとして「複合的かつ抽象的な概念」を表しているのは「青のモチーフ」などと同様である。これらのキャラクター自体を一括して「異世界から来た者」と言い表すことは、やはりこれまた「過度の単純化」と言わざるを得ない。なによりも、Stewart氏はこれらの「異世界」が結局何であるのか、まったく明瞭にできないままで終わる。巻頭言にStewart氏自身が「(リンチ作品は)奇妙なものを作りたいがために奇妙に作られている(weird for weirdness' sake)わけではなく、なんらかの意図がある」と述べているにもかかわらず、結局Stewart氏にとって(あるいはこの本の読者にとっても)「異世界」は「異世界」のままなのである。それはリンチ作品を「weird for weirdness' sake」と評することと、いったいどこがどう違うのだろう? もし、これらのキャラクターに共通項を求めるなら、むしろ重視しなければならないのは「抽象概念のキャラクター化」という手法そのものあり、ひいてはその根底にある「表現主義的な手法」によって表されているもののはずなのだが、Stewart氏はそこまでは議論を発展させない(もしくは、できない)。

いろいろ総合すると、「リンチ入門書」としても、あまりこの本をお勧めできないというのが正直なところだ。キツい言い方をするなら、この程度の議論はネット上でもすでに氾濫している。残念ながら、わざわざ金を払って読むほどの内容ではない、というのが偽らざる感想である。

2008年3月10日 (月)

リンチ本新刊(でもない)2冊詰め合わせのハナシ

またしてもDugpa.comネタ。

デイヴィッド・リンチ関係の書籍2冊の紹介。

一冊目は、その名もすげえ「デイヴィッド・リンチ解読(David Lynch Decoded)」 という昨年末に刊行された本。著者のMark Allyn Stewart氏は、著書としてホラー関係の小説が何冊かある人みたいなんだけど、いずれも読んだことがなく邦訳もされていない様子で、よくわからず。米アマゾンの紹介を読む限りでは、「赤いカーテンやら、ストロボ・ライトやら、踊る小人やらは、いったいどーゆー意味よ?」つなことで、リンチ作品に登場する「シンボル」が何を表しているかを解説している本らしい。

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現在、日アマゾンでも入手可能で、「なか見!検索」で内容が少し読めるようになっている。目次をみる限りでは「イレイザーヘッド」から始まって「インランド・エンパイア」まで、作品ごとにリンチが提示する「シンボル」を追いかけた後、最終的にそれらを統括しつつ結びつける形で論じるという構成である様子。

そーゆー壮大な内容の本にしては、あの本文組で160ページっつのはちょっと短かすぎゃしないデスか? という疑問もわくのだが、案の定、ラカン派方面から「単純化しすぎてる(Oversimplified)」というツッコミを米アマゾンの読者評で頂いてたりなんかして(笑)。長くて複雑だったらいいってもんでないのも確かだが、リンチ作品の言語化っつーのが一筋縄ではいかないのもまた確かなんで、さて。

著者の公式サイトもコチラにあり。

もう一冊は、「デイヴィッド・リンチによれば(According to... David Lynch)」 というリンチの発言集。カバー写真がコレです、コレ(笑)。

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昨年の10月末に刊行済の本みたいなのだけど、まだ米アマゾンにも内容紹介や読者評がなく、ちょいと内容がよくわからない。なんつか表現が難しいのだが、ご存知のとおりリンチ自身が決してボキャブラリーが豊富な人ではないだけに、あんまり断片的な発言ばかり集められてもよくわからんかもしれんと思ったりする(笑)。最低「いつ、どこで、何に関して」の発言であったのかぐらいは併記しといて欲しいんだけど、はたして現物はどーなっておるでしょーか?

著者(編者?)のHelen Donlonさんは、「リーダーズ・ダイジェスト」から出ている「小説のダイジェスト本」なんかのお仕事をされていた方みたいなんだけど、それ以上のことはこれまたよくわかりません(こればっかだな)。カバー写真からして、きっと「チーズはミルクから作られる」という発言も収められているほうに、5,000ブルー・ボックス(笑)。

とりあえず、二冊ともアマゾンでポチっておいたんで、詳しい内容紹介などは、またそのうちということで。

あ、「リンチ1」の北米版DVDは今年の8月に出るそうです。なんか特典がついていたら、それも買うのか?>自分(笑)

ほんでもって、オマケ。おそらくドイツのリンチ・ファンによる、手元に届いた「インランド・エンパイア」日本版DVD (インスタレーション版)を開封しつつ内容物を紹介する映像。まだ買ってない日本の皆様にもお役に立つかもなので紹介しとく。いきなり包装のビニールをハサミでじょきじょきやったうえに手でひっちゃぶいてらっさいますが、あれって上のほうが開かなかったっけか?(笑)

2007年11月25日 (日)

「Snowmen」を読む

写真集なんで「読む」っつーのはちょっと違うかもしんないけど、まあ、いいや(笑)。

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この「雪だるま」ばっかを撮ったデイヴィッド・リンチの写真集、作品集である「The Air Is on Fire」と同じぐらいの時期に出版されていたハズで、すでに米アマゾンでは注文不可なんだけど、なぜか日アマゾンでは11月30日発売の予約可になっていた。20日に注文したら、22日に届いた。どーゆーことだ(笑)。奥付の刊行年月日が今年の2月になっているので、まだ在庫が残ってたってことなんですかね? でもって、クリスマス・シーズン狙って重版がかかるんでしょーか?  そこらへんの事情は、よくわかりません。

掲載されている「雪だるま」の写真は、クリス・ロドリーによるインタビュー集「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ(Lynch on Lynch)」でリンチ自身の言葉として触れられているように(P.286)、また「Snowmen」の扉にリンチの自筆文字で書き殴られているように(笑)、1990年代頭(インタビューでは1993年となっている)にアイダホ州のボイシ(Boise, Idaho)で撮影されたものだ。

さて、収められている8葉の「雪だるまズ」写真を眺めていると、あることに気づく。かならず背景として、その雪だるまを作った人々が住む「家」が映っていることだ。つまり、構図としては、リンチの一連のドローイング---- 「彼女は家の外で泣いていた(She Was Crying Just Outside The House)」(1990)や「家になった僕(Here I Am-- Me As a House)」(1990)そして「ママは家にいて、本当に気が狂っている(Mom's House and She's Realy Mad)」 (1990)----などとまったく同一なのだな。いや、ドローイングのほうはパース無視の抽象画という違いがあるけれど、背景に「家」があって手前に「人様」のものが居るという構成要素は同じ。

となると、この「雪だるまズ」の写真は、リンチが何度となく展開する「何かよくないことが起きる場所としての家」というモチーフ、あるいは毎度おなじみの「機能しない家族」というモチーフのリフレインであるとも受け取れるわけだ。したらば、間違ってもこの本をクリスマスの贈り物になんかしちゃイカンのではないか、少なくともリンチ・ファンにプレゼントしたら真意を疑われかねないんではないかと思ったりもするのだが、いかがなもんでしょーか。あ、この時期のドローイングには「ボイシ、アイダホ」(1989)なんてのもあるぞ。例によって「真っ黒け」だ(笑)。こりゃ、ガチなんでないかい?

もうひとつ。この「雪だるまズ」が、リンチがこれまた繰り返しチャレンジする「時間経過とともに変化する絵画」の一形態であると捉えることも可能なように思う。それほどまでに、いつしか溶け出してあるものは傾き、あるものは目鼻もわからなくなった「雪だるまズ」の様態はさまざまで、一度そういう目で見始めるとフランシス・ベーコン風の「歪んだ肉体」を備えているようにしか見えなくなるのが、あら不思議(笑)。あ、いま気がついたが、後ろのページにいくほど「溶解度」は増してるなあ。狙ってるでしょ、リンチ(笑)。

というわけで、一見のどかな田舎町の庭先で「雪だるまズ」によって展開される「漠たる不安と恐怖」、一家に一冊、ぜひ取り揃えられてはいかがでしょー(棒読み)。

2007年6月30日 (土)

「ホテル・ルーム」のシナリオをば読む

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「ホテル・ルーム」(1993)は米HBOテレビのために作られたオリジナル・ドラマで、全3話のうち「トリック」と「停電」 の2話をデイヴィッド・リンチが監督している。シナリオは「ワイルド・アット・ハート」で原作者として初めてリンチと組んだバリー・ ギフォードで、二人はこのTVドラマの仕事をした後、「ロスト・ハイウェイ」のシナリオを共同執筆することになる。

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で、このTVドラマのシナリオ集である「Hotel Room Trilogy」という本が、ミシシッピー大学出版局から出ている。 もちろん、著者はバリー・ギフォード。ただし、リンチが監督しなかった「ロバートにさよなら」(監督はジェームズ・シグノレッリィ) は入っておらず、かわりにギフォード自身の短編小説をもとにした「カシフィ夫人(Mrs. Kashifi)」というオリジナル・ シナリオが収録されている。

ホテルの一室を住居にしているカシフィ夫人のところへ、30歳くらいの母親が8歳になる息子を連れてやってくる。 カシフィ夫人は占い師で、母親は先日亡くなった自分の母親、つまり息子の祖母があの世で幸せに暮らしているかどうか確かめにきたのだ。 母親と夫人が別室で紅茶占いをしているあいだ、息子のチャーリーは鳥かごに入った一匹のインコと取り残されることになる。すると、 そこに祖母の亡霊が現われ、彼に話しかけて……。

……という、いかにもギフォードらしい毛色の変わった幻想譚である。年代は1952年に設定されているようで、となると、 ちょうど1936年に設定された「停電」と1969年の「トリック」の間に起きた話ということになるはずだ。ただし、 もともとTVドラマ用のシナリオとして書かれたわけではないので、若干、他の話とフォーマットが違っている。 廊下と部屋だけでなくホテルのロビーも舞台として出てくるし、カシフィ夫人が住む部屋が603号室と明示されていない。部屋の構造も違う。 他のシナリオでは舞台となる都市がはっきりニュー・ヨークに設定されているのに対し、このシナリオでは「大都市」としか書かれていない等々、 番外編的なニュアンスが強い。

リンチが映像化していたらどんな感じになっただろうと思うのが、デ・ウィット氏という登場人物。 この男はカシフィ夫人と母親と息子の話には、直接にはからんでこない(間接的にはからんできて、 いろいろとこちらの想像力をかきたててくれる)。どうやら健忘症の気があるらしく、 フロントのホテルマンに自分が来たらその度に部屋番号を教えてくれと頼んだりしたあげく、 最後はなんともいえない登場の仕方をして話を締めくくってくれる。まあ、リンチの手にかかったら「カウボーイとフランス男」や「オン・ジ・ エアー」の登場人物たちのような、ベタな描かれ方になったとみるのが妥当なのかしらん。

ギフォードの前書きによると、この「カシフィ夫人」は彼が子供のころ、 奔放な母親と一緒に暮らしていたときに体験した話に基づいているらしい。「南部の夜三部作」など、この人の小説作品には南米文学を思わせる 「魔術的」な話が多いが、それらの作品群にも彼の実体験に基づいたものがあるのかどうか。

同じ前書きには、「ホテル・ルーム」の打ち合わせ時に、プロデューサーだったモンティ・ モンゴメリーとリンチがギフォードと交わしたという会話も披露されている。それによると、モンゴメリーとリンチには 「自分たちの祖母が観られるようなドラマを作りたい」という意向があったようだ。それに答えてギフォードいわく、「なにも問題はないな。 私がシナリオを書くから、あんたたちはお婆さんを縛りあげて猿轡をかませばいい」

……実行したかどうかは知りません(笑)。

2007年6月25日 (月)

「Catching The Big Fish」をば読む (6)

某氏の「インランド・エンパイア」鑑賞は、どうやら試写最終日になりそうな気配である。健闘を祈る(ナニのだ)。

それはそうと、いよいよネタが尽きてきたディヴィッド・リンチ著「Catching The Big Fish」紹介である。最後は新作である「インランド・エンパイア」関連の文章をば。

近所に引っ越してきたローラ・ダーンとバッタリ出合ったのが製作開始のきっかけだったという話や、「インランド・エンパイア」というタイトルが決まった経緯とかは、すでにいろんなところで紹介されまくっているから割愛する(笑)。

個人的にいちばん興味深かったのは、「Future of Cinema」と題された一文だ。

----「我々の映画の観方は変化している。ヴィデオiPodやヴィデオ配信が、すべてを変えつつある。大きな画面ではなく、小さな画面で観るというのが、昨今の映画鑑賞のやり方だ」

----「小さな観づらい画面で、どうやったら我々は(映画が描く世界を)体験をできるというのだ?」

----「しかし、デジタルはすでにそこにある。ヴィデオiPodも存在する。我々は現実に則し、その流れに身を任せるしかない」

「インランド・エンパイアを観てきた (1)」で述べた「映画受容の変容」と似たようなことをリンチ自身が言っておるわけで、あー、マジで観る前に読んどきゃよかった。

にしても、まさかiPodまで話がいくとは予想してなかったけど、確かに「映像のデジタル化」は、製作からはじまって劇場での上映へ、そして家庭内のモニターでの鑑賞までという従来の枠におさまらず、マルチ・メディア・プレイヤー等の小型端末による時と場所を選ばない受容までを一直線につないでしまう。それはハード・メーカーやソフト・メーカーそしてコンテンツ・メーカーにとどまらず、配信・通信・放送業界や行政までが一丸となった結果、現在確立されようとしているビジネス・モデルだ。

そうした動向に対し、リンチはこう予測する。

----「いい面もある。少なくとも、(iPodとともに)人々がヘッドフォンを所持するようになったことだ。これからは『音』が、もっと重要になっていくと思う」

いかにも当初から「音響」にこだわり続けてきたリンチらしいコメントだが、そうした「こだわり」を含めたいろいろな「思い」が形となって「インランド・エンパイア」に盛り込まれているといえるだろう。そういう意味では、「イレイザーヘッド」と並んで、リンチ作品のなかでも特に「私的な映画」の色が濃い作品であるのは間違いない。そして、「イレイザーヘッド」がもっている普遍性とはまた別な意味の普遍性、つまり「映画がおかれている現状」というアップデイトな普遍性を「インランド・エンパイア」は備えているともいえる。

先に述べた「ビジネス・モデル」のなかで、もっとも立ち遅れ取り残されそうになっているのは、実は映画館等の興行業界であるような気がする。リンチがAbsurdaという会社を立ち上げ、自前で「インランド・エンパイア」の配給に乗りだしたとき、劇場関係者たちと直接会っていろいろ話をしたということを聞いた。その当時のコメントがこれ。

「劇場主の人たちと直接話をする機会がもてたのは、『イレイザーヘッド』以来だ。私の作品を何年にもわたり上映し助けてくれた、鎖の端にいる人たちだ」

ひょっとしたらリップ・サービスの部分もあるのかもしれないが、リンチにとって、やはり「映画は映画館で完結するもの」であるようだ。

2007年6月24日 (日)

「Catching The Big Fish」をば読む (5)

あいもかわらず「Catching The Big Fish」ネタである。今回のお題は「Fellini」。そう、あのフェデリコ・フェリーニである。

catchingbigfish

リンチがCM撮影のためにローマを訪れていたときのこと。撮影スタッフのなかに、以前フェリーニと仕事をしたことがある人物が二人いた。当時、フェリーニは北イタリアにある病院で静養中だったが、ローマに転院してくることになったらしい。なんとか会って挨拶できないかとそのスタッフに頼み込むリンチ。んじゃ、なんとかセッティングしてみようということになる。

まず木曜の夜にトライしてみたがアウト。明けて金曜日、念願のフェリーニとの邂逅が叶う。時刻は夕方6時、美しく暖かいイタリアの夏の夕べのことだった。

車椅子に乗ったフェリーニは、リンチに椅子を勧めた。そしてリンチの手をとり、話し始める。昔はこんなだった。フェリーニに寄り添うように座り、耳を傾けるリンチ。半時間ほど話を聞いたあと、リンチは辞する。

それが金曜日のこと、日曜にフェリーニは昏睡状態に陥り、そのまま意識を取り戻すことはなかった……。フェデリコ・フェリーニ、1993年10月31日、歿。

さて、リンチが1993年に撮ったとされるCMは都合7本。そのうち、マイケル・ジャクソンの「Dangerous short films collection」用に撮った作品、アディダスのCM、American Cancer Societyのために作った乳癌検診促進のためのCM、Alka-Seltzer PlusのCM、そしてJill SanderのCMでは、ローマで撮影なんてことはしていないハズ。となると、残るLancome ParisのためのCMとBarilla PastaのCMの2本のどっちかじゃないかと思う。両方を観比べてみた限りではどうやら後者っぽいんだが、誰か確定情報があれば教えてくださいませ。

2007年6月23日 (土)

「Catching The Big Fish」をば読む (4)

またもや「Catching The Big Fish」ネタである。今回のお題は「Mulholland Drive」。

「マルホランド・ドライブ」が当初、米ABCのためのTV連続ドラマとして企画が立てられたが不採用になり、そのパイロット・フィルムを流用し追加撮影して劇場用映画が作られた……というのは有名な話。

で、どうやらリンチのこの文章を読むと、ABCの企画検討責任者は、「マルホランド・ドライブ」のパイロット・フィルムを朝の6時に、コーヒーを飲みつつ電話をしながら観たらしい。でもって、面白くないという判断が下され、不採用になった……という話をリンチは耳にしたのだそうだ。

リンチとしては「もっとマジメに観てくれ」と言いたいのだろう。そりゃそうだ、製作者の立場としては当然の感情だと思う。

だが、向こうのTV局にはパイロット・フィルムが大量に持ち込まれるという話を聞いたことがある。なおかつ、パイロット・フィルム作製に至らずシナリオ段階でボツになる企画になると、その何倍もの数になるらしい。

となると、朝の6時から、他の仕事をやっつけつつ観ないことには消化しきれないのかもね……と、いささか同情気味に想像したりもするのだが、さて、真相やいかに(笑)。そうやって検討に検討を重ね鳴り物入りで放映を開始したTV番組が、視聴率不振のためにシーズン途中であっさり打ち切りになるのもザラだったりするので、向こうのTV業界もそれなりにキビシイんである。

しかし、個人的な最大の関心事は、この担当者が「マルホランド・ドライブ」のパイロット・フィルムを観たのが「徹夜明け」だったのか、それとも「起床直後」であったのか、という点だ(笑)。いやまあ、寝不足でヘロヘロになった状態でアレ観るのもつらかろうし、かといって爽やかな目覚めの後に観るのもなんだか違うような気がして、いずれにせよ「不幸な出会い」だったのは間違いないんだけどね。もし「体調充分かつあんまり充分過ぎない」担当者が夜に観ていたなら、ひょっとしてひょっとしてたのかもしれん。まったく根拠はないけど。

「マルホランド・ドライブ」がABCで不採用になった理由として、ちょうどコロンバイン高校の事件が起こった直後だったため、暴力的なシーンがあるのが敬遠されて……というような話も聞いたことがあるのだが、今回のリンチの文章では残念ながらそこらへんには触れられていない。

2007年6月21日 (木)

「Catching The Big Fish」をば読む (3)

定期的にネタとして引っ張り出される「Catching The Big Fish」である(笑)。今回のお題は「The Red Room」。

「ツイン・ピークス」のパイロット・フィルムをロスのスタジオで編集中だったときのこと。編集作業が終わって夕方6時半ごろ、リンチたちがスタジオを出ると、駐車場に何台かの自動車がとまっていた。ふと一台の車の天井に手をおいてみると、とても暖かい。

----「私は車に寄りかかってみた。そしたら……『赤い部屋』が現われた。それから、逆回しに起きる物事と、台詞のいくつかも」

こうしてつかんだ「赤い部屋」のアイデアを、その後リンチは試行錯誤しつつ、シェイプしていく。

----「壁は赤だ。しかし、固い壁ではない。カーテンだ。分厚いやつじゃない、光を通すやつだ。床にも何か要る」

という具合にして出来上がったのが……

redroom_2
……はいっ、 コレでございます。

この文章でリンチが説きたかったのは、「納得できる結論にたどり着くために、試行錯誤することの大切さ」 であるようだ。確かにそりゃ大事なことだと思う。学校の先生が同じようなことを言い出しても、まったく不思議はない。だが、その例として「小人が踊って逆回しでしゃべる『赤い部屋』」を出されても、生徒としてはあまり参考にならんかもしれんと思うんだが、いかがなもんでしょうか?

。なたきてしも気なうよいいでれそはれそ、んだんだ、かんな……

2007年6月19日 (火)

「Catching The Big Fish」をば読む (2)

ボチボチ読み進めている「Catching The Big Fish」なんだが、「Final Cut」と題された文章を読むと、リンチは「砂の惑星」の失敗がすんげえトラウマになってる感じである。だいたい、この本の巻末作品リストに「砂の惑星」が載ってない。いやもう、完全に黒歴史(笑)。

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リンチ作品としては最高額の興収をあげたものの、制作費も最高額だったもんで、赤字も最高額。最終編集権が自分になく、2時間あまりの尺に収めるためにズタボロの出来になってしまった挙句の興行的失敗が、リンチにはよっぽど痛手だった様子だ。

----「自分が納得できるようにした結果失敗したのなら、それはそれだけのことだ。(中略)それもかなわずうまく行かなかったのなら、二度死んだようなものだ」

というわけで、この後、リンチは最終編集権が確保できない仕事をやらなくなっちゃうわけだが、「砂の惑星」の大ゴケにもかかわらず、続けて「ブルーベルベット」を好きに撮らせたディノ・デ・ラウレンティスも偉い。「好きにしていいけど、予算とギャラは半額ね」ってなこと言ってあんまり期待してなかった節もあるけど、とにかく偉い(笑)。

とりあえず、「インランド・エンパイア」を含め現在も続いているフランスのStudio Cannalとの関係には満足しているようで、「フランス人は世界でいちばんの映画ファンであり、擁護者だ」なんて最大限の持ち上げようだったりする。きっとリンチはフランスに足を向けて眠れないに違いない。となると、リンチ・ファンである自分もおフランス方面に足を向けて眠れないわけで、こうしてどんどん足を向けて眠れない方角は増えていく一方なのであった。

2007年6月17日 (日)

「Catching The Big Fish」をば読む (1)

いろいろ忘却の彼方に向かいつつある「インランド・エンパイア」なのだが、知り合いの某氏がそろそろ試写会に行くころだと思うので、それぞれの記憶を持ち寄ればなんかしら補完できるかもしれん(笑)。ということは、某氏は外部記憶装置か(笑)。いずれにせよ、本格的なアレコレは、劇場で再見してからのお楽しみかな(あるいは8月に北米版DVDが届いてから、かな?)。

catchingbigfish

それはそうと、リンチの著作である「Catching The Big Fish : Meditation, Consciousness, and Creativity 」を今頃になってやっと読み出した。年頭に米アマゾンから届いた後ほったらかしにしてあったのは、個人的には「瞑想」とかになーんも関心がないからだ。リンチの「瞑想」への傾倒は以前から知ってはいたが、「アイデア出し」に使ってくださってる分には別にこちらが文句を言う筋合いもなく、まあ、好きなようにやってくださいという感じで一歩引いていた。昨年あたりから実生活でもそっち方面の活動をしている様子だが、そこはそれ、いい大人のやることだし、リンチにはリンチの人生があるし……って、思いっきりエラそうですね(笑)。

ところがいざ読み出してみると、案外「瞑想がどーのこーの」というくだりは少なく、むしろ映画に関する具体的な記述のほうが多い。すでに知っていたことも多いのだけど、しまった、敬遠せずにもっと早く読んでおけばよかった。

あまり「言語」が得意でないリンチのことなので(この本の中で自分でも認めてたりする)、「具体的」といっても、特に難解なことを言ってるわけではない。ただ、このブログでリンチに関して書き散らしたのとよく似たようなことを、リンチが自分自身で書いてたりするのな。いや、それこそ文句をつける筋合いでもなんでもないんだが(笑)、あー、やっぱりとっとと読んどけばよかった。

とりあえず半分ぐらい読んじゃったのだが、まあ、ボチボチ読み進めることにする。

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