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ロスト・ハイウェイ

2009年11月30日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (66)

もそもそと継続中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。今回はその第八回目として、(1:47:23)から(1:47:41)までをば採り上げてみる。

26号室 内部 (1:47:23)
(59)ピートのアップ。「26」の表示がついた扉を開けるピートの、部屋の内部からのショット。あたりは赤い光で照らされている。ピートが部屋の中を見た途端、ピートは顔をしかめる。
(60)ミドル・ショット。赤い光であふれる部屋の内部。歪み流れる映像。性交していると思しき男女を背後からおさめたショット。画面中央には鏡に映った女性の顔のアップ。その右には彼女の後頭部があり、画面の右端には彼女と性交しているらしき人物の裸の肩が。鏡越しにピートのほうを見ている彼女の髪は垂れ下がり、左の目は髪に覆われている。体を揺らしながら顔を上げる女性。髪で覆われていた左の目も見えるようになる。
女性: Did you want to talk to me? Huh?
(61)ピートのアップ。目を細めて、部屋の内部を見ている。左手を上げかけるピート。
(62)ミドル・ショット。赤い光であふれる部屋の内部。体を揺り動かしながら、話しかける女性。
女性: Did you want to ask me 'why?!'
(63)
ピートのアップ。開けた扉に左肘を押し当て、左手に自分の頭の左側頭部を押し付けて顔を歪める。
女性:(画面外で)[短い笑い声]
たまらず左手を引き、右手で扉を閉めるピート。

アンディの屋敷 二階の廊下 (1:47:39)
(64)ピートのアップ。バスト・ショット。画面の手前を向き、後ろ手で木の扉を閉めるピート。ドアを閉める手は画面外である。木の扉には何の表示もなく、ロスト・ハイウェイ・ホテルではなくアンディの屋敷の廊下に戻っている。
[ドアが閉まる音]
ドアが閉まり、顔を歪めるピート。肩で息をし、顔を歪める。

ピート=フレッドは「26号室」の内部に何をみたのか。前回述べたように、そこは「アンディの屋敷」のなかでも「もっとも奥まった場所」であり、それがゆえにフレッドが「もっとも隠匿しておきたいもの」が存在しているはずの場所である。それを踏まえて見回したとき、このシークエンスにはいくつかの特徴が認められる。

まず指摘しておきたいのは、カット(59)からカット(63)のシークエンスを通じて、「28号室」の内部に認められる「赤のモチーフ」である。これまで「ロスト・ハイウェイ」は幾度か「炎のモチーフ」を提示してきた。たとえば開巻直後の「煙草」(0:02:48)や「暖炉の炎」(0:16:52)(1:31:51)、あるいは「砂漠の小屋」(0:48:42)などに現れる「炎」の色をみれば了解されるように、「炎のモチーフ」は同時に「赤のモチーフ」とも重なっているといえる。逆にいえば、このシークエンスで提示される「赤のモチーフ」をそれらの「炎のモチーフ」の延長線上にあるものとして捉えることは、一定の妥当性をもつはずだ。すなわち「赤のモチーフ」は「フレッドの激しい感情」を表象しており、それは「レネエ殺害」に至る動機となったものでもあるわけだ。

もう一点、指摘しておきたいのはカット(60)およびカット(62)に現れる「歪み」である。もちろん、これは「揺れる視点」(1:21:13)や「歪む視点」(1:45:33)(1:46:53)と同系列のものであり、激しく揺れ動くフレッドの「内面」を反映として理解されるものであることは間違いない。だが、今回現れた「歪み」は、それまでに現れたものとは明らかに「形状」的に異なっている。この「形状の差異」を子細にみれば、これが”損傷した「ビデオ・テープ」を再生したときに現れる「歪み」”を意識したものであることがわかるはずだ。このことによって示唆されるのは、両カットの映像が、前半部に繰り返し登場した”「差出人不明のビデオ・テープ」によって表されるもの”の系譜上にあることである。つまり、両カットが提示する映像は、フレッドの「ありのままの記憶」に関連するものなのだ。

結論としてこれらの「モチーフ」によって示唆されるのは、やはりこのシークエンスにおいて提示される映像群が「フレッドの感情や記憶」に関連するものであり、彼にとってそれらは「隠匿しておきたいもの/忘却しておきたいもの」だということである。そして、こうした「赤のモチーフ」や「歪み流れる画面のモチーフ」を付随させつつ「26号室」の内部に現れるのは……つまりは、それがフレッドが抱いた「ありのままの激しい感情」に関連するものであることを示唆しつつ現れるのは、ある「女性」の姿である。

強調しておきたいのは、「彼女」に関する具体的映像が非常に限定的であることである。カット(60)(62)を通じて、明確な映像として提示されるのは「彼女の顔」のみといってよく、その全身が描かれることは決してない。その「彼女の顔」も「鏡像」としてしか……いわば「虚像」としてしか提示されず、「彼女の実体」として認識されるのは「後頭部」のみである。こうした「限定性」あるいは「具体性の欠如」は「彼女の動作」に関しても同様で、明らかに「性交」を思わせる動きを「彼女」はしているものの、あくまで「思わせる動き」の範疇に留まっている。具体的映像としての「性交場面」は提示されず、その「相手」と思しき男性の姿も”背後から撮られた「裸体」”(それも左肩から左後頭部にかけてという「パーツ」しか提示されない)という「曖昧な存在」としてのみ描かれる。

リンチ作品におけるこうした「具体性の欠如」や「曖昧さ」と対峙するとき、我々=受容者が念頭におかなければならないのは、往々にしてそれがリンチが描こうとしているものの「抽象性」に起因していることだ。その典型例が、たとえば「インランドエンパイア」冒頭のシークエンス(0:01:33)に登場する「顔のない男女」である。この「顔」という具体性を欠落させた男女がそれぞれ「男性と女性の抽象概念」を表し、ひいてはこの二人の関係が”男性と女性の間にときとして発生する「ある関係性」の「原型」(という抽象概念)”を表象していることに関しては、以前にも述べたとおりだ。こうした観点に立つならば、カット(60)(62)が備える「具体性の欠如」も、”両ショットに登場する「女性」がある「抽象概念」を表していること”の証左として理解されることになる。そして、「彼女」が後述するような「セクシャリティ」のイメージを付随させていることを考慮するなら、それが表象しているのは(フレッドが抱える)「女性に関する抽象概念」そのものだ。

Thedabara 両ショットで提示される「26号室の女性」の「髪型」や「化粧」等の外見的特徴は、よくいえば「セクシー」悪くいえば「あばずれ女」のそれであり、基本的にセクシャルなイメージと関連づけられているのは明瞭である。それは過去において映画が描いてきたある種の「女性像」……いわゆる「ヴァンプ」や「ファム・ファタール」に代表される「女性像」と重なるものであり、いわば「常套句的表現」に基づく「典型的悪女」であるといえるだろう。「彼女」の外見的特徴など、たとえば初代ヴァンプ女優*セダ・バラを連想させるに充分なものだ。

ただし、こうした「女性に関する抽象概念」が”フレッドが考える女性の「総体」”である限りにおいて、その「個別例」である「レネエ」もまたこの抽象概念に内包されるはずである。あるいは逆に、この「女性に関する抽象概念」は、フレッドが抱える「レネエに対する感情」を出発点として構築されているともいえるだろう。いずれにせよ、前者は後者の「特徴」を内包し、後者が前者と同一の「特徴」を共有していることは間違いなく、「フレッドにとってレネエはファム・ファタール的存在である」という認識は、このシークエンスに登場する「女性に関する抽象概念」と「レネエ」の関係性からもたらされるものである。かつ、”「抽象概念=26号室の女性」とそれに内包される「個別例=レネエ」”という関係性を踏まえるなら、前述した「具体性を欠いた性交」の問題も、”フレッドが抱える「レネエへの疑惑」”がどのような性格のものであるかの反映として了解されることになる。すなわち、彼の「レネエに対する疑惑」は何ら「具体的事実」に裏付けられておらず、もしかしたらまったく根拠のないものであることが、こうした「曖昧さ」……「示唆にとどまる動き」や「誰ともわからない性交相手」という点に現れているのだ。

さて、このように「彼女」を「女性の抽象概念」として位置づけ、それがレネエという「個別例」を包括していることを前提としたとき、”「彼女」がピートフレッドに対して投げかかる「質問」によって表されるもの”の意味合いがみえてくる。「私と話したかったのか?」(カット(60))あるいは「『なぜだ』と訊きたかったのか?」(カット(62))と「彼女」は問い掛けるが、他の登場人物と同じく「彼女」もフレッドの「代弁者/代行者」であることを考えるなら、この言及自体が指し示すものは明瞭である。フレッドは「彼女=レネエ」と話したく思っていたし、「なぜだ」と問いたかったのだ……たとえば、フレッドのライブに行かず、家で本を読みたいと言い出したレネエに対して(0:06:12)。

ここにフレッドとレネエの間に横たわっていた問題が……正確にいえば、フレッドが彼女に対して感じていた問題の一端が明らかになる。その原因は定かではないにせよ、フレッドはレネエとの間に「コミュニケーション不全」を感じており、ひいては彼女との関係性構築に失敗していると感じていたのだ。リンチが繰り返し「機能しない家族」のテーマをとりあげた作品を作ってきたことはいうまでもないが、その「機能しない家族」の多くの例が根底に「コミュニケーションの問題」を抱えていることは注目に値する。それを端的に裏付けるのが、「機能しない家族」のテーマと平行して(あるいは付随して)、同じくらい頻繁に「成立しない会話」というモチーフがリンチ作品に姿を現すという事実だ。そして、こうした「コミュニケーション不全」の結果として発生するのが「一方的な関係」性である。それはしばしば男性側の暴力を伴う「強制的な関係」であり、「ブルーベルベット」におけるフランクとドロシーの関係、「ツインピークス」におけるローラ・パーマ-とリーランドとの関係、「インランドエンパイア」におけるニッキー/スーザン/ロスト・ガールとピオトルケの関係に明確に認められるものだ。本作におけるレネエとフレッドの関係もこれらの「機能しない家族」の系譜上にあるのは明白であり、かつこの二人の間の「言語によるコミュニケーション」が機能していないことは、前述した(0:06:12)からのシークエンスにおいて、「何の本を読むのか?」というフレッドの質問に対してレネエが明確に返答しないことによっても現わされているといえる。こうしてみる限りにおいて、この「ライブに行く行かない」という遣り取りも、「成立しない会話」のモチーフのひとつとして理解されるはずだ。

それにしても、ここで提示される「女性の抽象概念」は、今日的観点からすればはなはだしく古典的なものであるのも確かだ。そして、それを成立させているのは「男性を惑わせ、狂わせる女性」という(男性側からみた、ある種身勝手な)「恐怖」である。かつ、カット(63)で「女性(の抽象概念)」がピート=フレッドに向かって「嘲笑」を投げかけることが物語っているように、この「恐怖」の根底には「自我」がダメージを受けることに対する忌避感情が横たわっていることも確かだ。あるいはそれは、「フレッドが自我を保護するために幻想を構築していること」と微妙に通底しているといえる。いずれにしても、こうした「女性に対する恐怖」がたとえばフィルム・ノワールの「ファム・ファタール像」が成立した根底にあったことは繰り返し指摘されているし、現実問題として現在においてもそれが消滅したわけではないのも事実である。

このような事項を踏まえれば、「26号室の女性」が主として「鏡に映った像=虚像」として提示されることは、あるいはフレッドの「女性に関する抽象概念」が「実体のない恐怖」に裏付けられたものであることの示唆であるようにも受け取れる。その一方で、これまでフレッドが(あるいはピートが)それぞれ「鏡に映った自分自身」と対峙してきたこと(0:37:54)(1:08:03)も同時に指摘しておくべきだろう。特に「フレッドが自分の鏡像と対峙するシークエンス」が”「幻想/捏造された記憶」の崩壊”の一過程であったことを考えるなら、「ロスト・ハイウェイ」における”「鏡」を使った諸表現”に関しては、改めて詳細に検証する必要がありそうだ。確実にいえるのは、「実体」と「鏡像」がそれぞれ裏返しの「対称関係」にあるのと同様に、「幻想/捏造された記憶・現実」と「ありのままの記憶・現実」もまた正反対のものとして「対称関係」をむすぶということだ。もし「実体」が「幻想/捏造された記憶・現実」であるならば、裏返しとなった「その鏡像」こそが他ならぬ「ありのままの記憶・現実(に関連するもの)」なのではないのだろうか? 少なくとも「鏡に映った26号室の女性」によってピート=フレッドが対峙するのは、彼が「実体のない恐怖」をレネエに対して抱いていたという「ありのままの現実」である。

付け加えるならば、カット(60)(62)の「26号室の女性」のショットは、(0:36:13)の「洗面台の鏡越しに視線を交わすフレッドとレネエ」と類似しており、この二つのショットはいわばヴァリエーションの関係性にあるといえなくもない(なによりも、ピートは「洗面所」を求めて二階にたどりついたのだ)。そして、前述した「フレッドが自分の鏡像と対峙するシークエンス」が、「彼がレネエの鏡像と視線を交わしたこと」をキーにして(つまり、”レネエに関する「ありのままの記憶」をフレッドが「目撃」したこと”を契機として)、発生したと捉えることもあながち的外れではないはずだ。そして、フレッドがこうした「現実による侵入」に対してどのような反応を示すかについては、後半部の「ミスター・エディによる侵入」に際してピートがとった行動の数々をみれば明らかだろう。「ありのままの記憶/現実」と対峙することに耐えられなくなったピート=フレッドが、ついに「26号室」から逃げ出す様子がカット(63)で描かれるが、これもまた「現実による侵入」に際して彼がとる典型的行動のひとつであるといえる。

続くカット(64)が明示するように、閉められた「木の扉」には「26」の部屋番号はなく、再びそこは「アンディの屋敷」の二階へと分離/回帰している。だが、フレッドはすでに決定的な「イメージの連鎖」を発生させ、自らが抱く「女性に関する抽象概念」(とそれが付随させる「実体のない恐怖」)と生々しく対峙してしまった。それこそが「フレッドがもっとも隠匿しておきたかったもの」であることは自明であり、これを契機にして「後半部=幻想/捏造された現実」は、まさしく坂を転げ落ちるように完全な崩壊に向かうことになる。

(この項、続く)

*蛇足を承知で補足すれば、ヴァンプ女優の「ヴァンプ(vamp)」とはそのまま「ヴァンパイア(vampire)」の略である。文字どおり「男の生き血を吸う女」としての「悪女」のイメージだ。

2009年11月18日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (65)

もそもそと継続中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。今回はその第七回目として、(1:46:37)から(1:47:23)までをば採り上げてみる。

んでわ、まずは具体的映像から。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:46:37)
(52)ピートのアップ。二階に続く階段の上から彼を見下ろすショット。左手で手摺りにつかまりつつ、右側の階段を上るピート。彼が上るに連れて後退する視点。彼の背後には一階の様子とそこに立つアリスの姿がアウト・フォーカスで見えている。彼が上るにつれて、画面右から左側の階段が視界に入ってくる。金色の手摺りと、蔦の意匠の黒い金属の支柱。白い階段の基礎部分と、青い絨毯が敷かれた階段。なおも階段を上るピート。画面右から、階段の分岐するあたりの壁際に置かれた女性の大理石像が見えてくる。なおも階段を上るピート。
(53)階段のアップ。ピートの主観ショット。揺れながら、階段を上りきったところにある二階の壁と、左に折れてまた奥へと続く通路が見えてくる。通路の左側の壁には、上下に仕切られた窓がある。上りきったあたりのところは暗く、通路には照明があるようだ。ピートが進むに連れて、左右に揺れながら通路に向かう視点。なおも揺れながら、窓のあたりを過ぎて、なおも通路の奥へと侵入していく。向かい側の白い壁。そこに瞬くフラッシュ光。
(ホワイト・アウト)
(54)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。青白いフラッシュ・ライトが瞬くロスト・ハイウェイ・ホテルの廊下。プリズム・フィルターで歪む画面。狭い廊下の両側には白い壁があり、そこに並んでいる客室の白い扉。天井からは白い光を放っている照明器具が等間隔で下げられている。廊下の突き当たりから青白いフラッシュ・ライトが強烈にまたたき、そこにある赤い扉を照らしている。クロース・アップになりつつ、傾きながら天井に向かって見上げる視点。
(55)ピートのアップ。両側の鼻から鼻血を流し、口元から顎のあたりまで血で染めつつ、廊下を奥のほう、画面手前に向かってふらふらと歩くピート。またたくフラッシュ・ライト。
(56)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。廊下の左側に「25」の表示がついた白い扉が見えてくる。「2」がやや上方につけられその横棒と「5」の縦棒の下あたりがくっついている。それに向かって少し左へパン。またフラッシュ・ライトが瞬き、あたりは一瞬ホワイト・アウトするが、「25」の文字だけは見えている。画面左に「25」をアップでとらえて、パンは終了する。
(57)ピートのアップ。画面右、自分の左手にある「25」の扉あたりを向きつつ、なおも前進する。またたくフラッシュ・ライト。それと同時に、正面、画面手前のほうを見るピート。彼の右には「25」の表示がついた扉が見える。それを過ぎて、なおも奥へと向かうピート。それにあわせて後退する視点。彼の顔が影になる。彼の背後には、廊下の先がアウト・フォーカスで見える。またたくフラッシュ・ライト。血だらけのピートの顔。
(58)ミドル・ショット。ピートの背後からのショット。廊下を奥へと進むピートの後ろ姿。今度は自分の右手にある扉のほうを見る。なおも廊下の奥で激しく点滅する青白いフラッシュ・ライト。右手の扉には、「26」の表示が見える。画面の手前、自分が来た方向を振り返るピート。通路の行き当たりにある赤い扉。床に敷かれた赤い絨毯。またもやまたたくフラッシュ・ライト。
[音楽スタート Ramstein]
「26」の表示がついた扉を見るピート。左手を画面外のドア・ノブに伸ばす。通路の奥で輝くフラッシュ・ライト。扉を開けようとするピート。

みてのとおり「具体的映像」として描かれているのは、「アンディの屋敷」の一階から二階へと上ったはずのピートが、いつの間にか「ロスト・ハイウェイ・ホテル」の廊下を歩いているという状況である。このシークエンスの映像のみでは定かではないが、(1:00:00)で提示される映像と比較すれば、カット(54)以降の舞台が「ロスト・ハイウェイ・ホテルの廊下」であることは明らかだ。だが、いったいどのような機序によって「アンディの屋敷」と「ロストハイウェイ・ホテル」は接合され融合するに至るのか? 各ショットで提示される映像を追いかけつつ、確認してみよう。

カット(53)だが、このショットがピートの「主観ショット」として提示されていることを、まずは確認しておきたい。このショットは「ピートが自らの目を通して認識したもの」を提示しており、それは彼の主観による「フィルター」を通しているがゆえに「歪んで」いる可能性があるということだ。それを裏付けるように、ピートの歩調にあわせて左右へと傾く「視界」には、「フラッシュライト」のモチーフが登場する。これがたとえば(0:49:39)や(1:21:13)などのシークエンスやショットにみられたのと同一であるのは明白である。当然ながら「それによって表されるもの」もそれらの諸例と同一であり、それに従えば、このシークエンスの「フラッシュライト」も”フレッドの内面で発生している激しい「心理的な動き」”と連動したものとして了解されることになる。要するに、現在、フレッドの内面では強烈な感情や葛藤が発生しており、「フラッシュライト」はそれを表象するものとして現れているのだ。

上記のような点をおさえたうえで注目したいのが、カット(53)カット(54)をつなぐカッティングとして挿入される「ホワイト・アウト」である。この「ホワイト・アウト」は明らかに前述の「フラッシュライト」との連続性をもって現れており、「よりエスカレーションしたもの」として了解可能である。端的にいえば、この「ホワイト・アウト」はフレッドの「内的動揺」が一段と激しくなり、ある頂点を迎えたことを指し示しているのだ。そして、その結果として喚起されるのがカット(54)以降のイメージであることを考えるなら、先に述べた”「アンディの屋敷」と「ロストハイウェイ・ホテル」の接合/融合”という事象は、「フレッドの心理的エスカレーション」と連動し、彼の「感情/意識が反映したもの」として発生していることが裏付けられる。概論でも触れた「ロスト・ハイウェイ」という作品全体を貫く基本構造……すなわち、この作品が提示する映像はすべて「フレッドの意識/感情」を反映したものであるという構造は、このようにこのシークエンスにおいて顕著である。逆にいえば、作品構造に対するアプローチのとっかかりを掴むうえで、「アンディの屋敷」内部のシークエンスを追い掛ける作業は非常に有効なものとなるはずだ。

問題はどのような「フレッドの意識/感情」を反映して、この二つの場所は「接合/融合」されているかだ。結論からいうと、ここでもやはりキーになるのは「アリスとレネエの同一化」の問題である……というより、カット(1)から始まりカット(54)に至る一連の「イメージの連鎖」のなかで、最大の転回点となるのがカット(32)から明らかになり始める「アリスとレネエの同一化」であり、それ以降の連鎖はすべてそれを起点にして発生しているといったほうが適切かもしれない。

まず、もっとも重要な手掛かりとなるのは、「二階から降りてくるアンディ」(カット(13))と「同じく二階から降りてくるアリス」(カット(19))の二つのショットである。第一義的に考えるならば、この二つのショットが示唆しているのは、「アンディの屋敷」の「二階」が「アリスが他の男と寝ていた場所」だということだ。だが、これまで述べてきたように、アリスは単なる「レネエの代替イメージ」であることを越えて、急速にレネエそのものとの同一化を深めている。この二人が限りなくニア・イコールとなったとき、結果として「アンディの屋敷の二階」は「レネエが不倫を働いた(とフレッドが思っている)場所」と同義となるのだ。その一方で、後に(1:59:25)からのシークエンスによって明示されるように(あるいはリフレインされるように)、「ロストハイウェイ・ホテル」は「レネエがミスター・エディと不倫を働く場所」としてフレッドに喚起される「イメージ」である。こうした関係性から浮かび上がってくるのは、ともに「希求の対象である女性が他の男と寝た場所」であるという意味で、フレッドにとって「アンディの屋敷の二階」と「ロストハイウェイ・ホテル」が同義であり、等価であることだ。この二つの場所は、まさにこうした「同義性/等価性」のゆえに「接合」され「融合」するのである。

こうした映像表現こそリンチ特有の「表現主義的手法」の典型例であり、その本質を伝えるものであるといえる。基本的にそこで問題とされるのは、「アンディの屋敷」と「ロストハイウェイ・ホテル」の間に横たわる「時間的/空間的隔絶」などといった「具象的かつ外的なリアリティ」ではない。もっとも優先され重要視されるのは、「フレッドの意識/感情」にとってこの二つの場所が「同義/等価」であるという「抽象的な内的リアリティ」なのだ。そして、「同義/等価のものが接合される」といった非常に単純な方法論によってそれが実現されている点も注目に値する。リンチは自作の製作過程に関して「本能(instinct)」というキー・ワードを繰り返し使用し、受容者に対してもそれに基づく「理解」を求めるが、ある意味、それはこうした「シンプルな方法論」に裏付けられているといってよい。

カット(54)からカット(58)にかけては、「フラッシュライト」のモチーフに加えて「歪む視点」のモチーフも現れる。「歪む視界」のモチーフはカット(43)に現れたのとまったく同一のものであり、当然ながらその意味するところも同一である。すなわち、これもまた「フレッドの心理的動揺の反映」を指し示しているのだ。この二つのモチーフは繰り返し登場し、フレッドの内面における「心理的エスカレーション」がより進んでいることをうかがえる。ピートの「鼻血」も依然として続いており(カット(55))、押さえきれない「感情の表出」がいまだ継続していることを物語っている。同時に、カット(58)からはラムシュタインの「Ramstein」が流れる。たとえば(1:13:39)の「自動車工場でピートとアリスが出会うシークエンス」など、これまで何度もフレッドの「内的な動き」にあわせて音響/音楽が使われてきたが、これもその表れのひとつとして理解できるものべきものだ。いわば視覚的要素だけでなく聴覚的要素をも駆使し、このシークエンスにおけるフレッドの「心理的エスカレーションの強度」が記述されているわけである。

そして、この「心理的エスカレーション」の果てに、最終的に現れるのは「26号室」の扉だ(カット(58))。そもそも「アンディの屋敷」は、「フレッドが隠匿しておきたいもの」を内包している「家の内部にある家」とでもいうべき場所/存在である。その「場所」を訪れるに際し、ピート=フレッドが複雑な「手続き」を必要としたこと……「バス」によって人知れず移動しなくてはならなかっただけでなく(1:40:36)、それを外界から隔絶する「フェンス」を乗り越えることが要求され(1:40:57)、最終的には「アリスの補助」によって「開放された裏口の扉」を必要とした(1:41:39)ことによっても、その「隠匿性」の高さは裏書きされている。もちろん、それが「アンディの屋敷」が内包するものの「隠匿性の高さ」に起因していることはいうまでもなく、実際、内部に足を踏み入れたピート=フレッドが遭遇するのは「レネエに対する自らの不安/疑惑=ポルノ映画の映像」であったり、「代替イメージであることを越えて、レネエと同一化するアリス」といった「ありのままの現実に関連するもの」であったわけだ。

その「アンディの屋敷」のなかでも、現在ピート=フレッドが足を踏み入れている「二階」は、もっとも「奥まった場所」であり「隠匿された場所」であるといえるだろう。前述のように”屋敷自体の「隠匿性」”そのものがそれが内包するものの「隠匿性」に裏付けられていることを考えるなら、この「二階」には「もっともフレッドが隠匿しておきたいもの」が存在しているはずだ。それを裏付けるように、加速するフレッドの「内的エスカレーション」を描いてきたこのシークエンスの映像も、カット(58)で一気に「26号室」へと収斂していく。はたしてピート=フレッドは「26号室」の内部で何を目撃するのか?

(この項、続く)

2009年11月 8日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (64)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。その第六回目として、(1:45:40)から(1:46:37)まで。

まずは具体的映像から。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:45:40)
(44)ピートのアップ。スクリーンをみているピートを、正面からとらえたショット。彼の背後では、台の上に載せられた映写機が青白い光を投げかけている。そのまま体を自分の左の方に向けるピート。
(45)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。アウト・フォーカス。右から左へ急激なパン。壁際に置かれた小さなテーブルの上の四つの写真立てと金属のオブジェ状電気スタンドを視界に収めて、パンが終了するとともにイン・フォーカスになる。写真立てに入った写真はいずれも人物写真である。左端の写真は金色の枠の写真立てに入った一人の女性。その右には黒い枠の写真立てに入った複数の人物写真。黒い枠の写真立ての後ろには、銀色の金属製のカップと黒いカップが並べられている。その右には小さな金色の枠の写真立てがあり、そこには二人の人物が並んで立っている遠景写真が入っている。点灯している電気スタンドを挟んで、右端の写真立てには黒髪の女性のバスト・ショットの写真が入っている。
(46)黒い枠の写真立てのアップ。そのままクロース・アップ。写真に映っている四人の人物が明瞭に見えてくる。カーテンの前に立った四人は、左から順にミスター・エディ、レネエ、アリス、そしてアンディだ。
(47)ピートのアップ。上体を屈めるようにして写真立てを見詰めながら、そのほうに向かって近寄る。それにあわせて、少し下にパン。画面左奥では、アウト・フォーカスになったアリスがアンディの持ち物を漁っているのが見える。息が荒くなるピート。
ピート:(写真を見詰めたまま)Is that you?
アウト・フォーカスのまま、ピートのほうを振り返るアリス。
(48)写真のアップ。左からミスター・エディ、レネエ、アリス、そしてアンディの顔のアップ。
ピート:(画面外から)Are both of them you?
(49)ピートのアップ。上体を屈めるようにして写真立てを見詰め、喘いでいる。画面左端で立ち上がるアリス。写真を見詰めているピートのほうに、つかつかと歩み寄ってくる。それに連れて上方にパン。アリスのアップになる。画面外で写真に向かって右手を伸ばすアリス。
(50)写真のアップ。伸ばした右手の人差し指で、写真に映った自分を指さすアリス。青いマニキュアの爪。
アリス: That's me.
引っかくような動きをしつつ、写真から離れる人差し指。
ピート:(画面外で)Oh, God!
写真の中では、ダーク・スーツを着たミスター・エディが右手でグラスを持ち、右隣のレネエの腰に左手を回している。レネエはノースリーブのトップに柄物の長めのスカートをはき、煙草を持った右手を体の脇にたらしている。その右に黒い長袖のトップに黒いミニ・スカートをはいたアリスが、半ば開いた左手を腰の前、脚の付け根あたりに置いていいる。そのまた右には、つやつやした素材のジャンバーを着たアンディが、黒いパンツの左前ポケットに左手を突っ込んで立っている。
(51)アリスのアップ。画面左端に立ち、下方画面外にいるピートを心配そうに見下ろしている。ピートの頭が下方から現れる。喘いでいるピート。彼の頭の右側面を支えているアリスの右手も一緒に視界に入ってくる。
アリス: Honey...are you all right?
彼の頭から離れるアリスの右手。左手は彼の左肩あたりに載せられている。口を開け、喘いでいるピート。鼻からは血が流れ出している。両方の手をピートの体からひき、心配そうにピートを見守るアリス。苦痛に顔を歪め、右手でこめかみのあたりを押さえるピート。やがて、手を頭からはずし、体の前で何かを受けとるように広げるピート。彼の手に自分の右手を添えるアリス。
ピート: Where's the bathroom?
ピートの頭の左側に左手を伸ばすアリス。
アリス: It's upstairs. Down the hall.
喘ぎつつ、アリスのほうを向いたまま後退するピート。途中で画面右を向くと同時に右手で頭を押さえる。心配そうに彼を見送るアリス。画面右下に姿を消すピート。

前回述べた”「ポルノ映画の映像」と「アリス」が「等価」になった経緯=「レネエ」と「アリス」の同一化の進行”を踏まえれば、このシークエンスで発生している事象が指し示すものは明快であるはずだ。

その端的な例が、カット(45)(46)(48)(50)に現れる「写真」によって表されるものである。この「写真」が備えている(あるいは欠落させている)「写実性/指標性」の問題は後の機会に譲るとして、ここで触れておきたいのはその「具体的画像」……レネエとアリス、そしてミスター・エディとアンディが並んで写っているという「光景」そのものである。「レネエとアリス」が並んで写っている状況は、文字どおり両者が「並列関係」にあることを示唆している。言い換えれば、この状況は、「アンディの死体から金品を強奪するアリス」(カット(39))と「ポルノ映画の映像」(カット(41))の二つのショットが構成していた「並列関係」のリフレイン/ヴァリエーションであるわけだ。かつ、そこには「ミスター・エディとアンディ」がして存在していることも見逃せない。「写真」のなかでこの二人の男性は”「レネエ」と「アリス」をつなぐ「共通項」”として機能し、彼女たちの「等価性」を強調している。彼らが「現実(あるいはそれに関連するもの)の表象」であることを考えるなら、「レネエとアリス」がいまや「現実に関連したもの」として「等価」であることも、この「写真」は明示し保証していることになる。

「写真」を目にしたピートは、思わず「これは君なのか?」(カット(47))あるいは「どちらも君なのか?」(カット(48))とアリスに問い掛ける。これはそれまで発生した「イメージの連鎖」の結果であり、「レネエとアリスの同一性」にフレッドが気づき始めたことの証明に他ならない。それに対してアリスは「こちらが私」とその「同一性」を否定する言及(カット(50))を行うが、これも「フレッドの感情/意識」を代弁するものである。フレッドにとって都合がいいのはアリスが「レネエの優秀な代替イメージ」にとどまることであり、彼女が一定の限度を越えて”「現実のレネエ」との同一性”を高めるのは好ましい状況ではない……なぜなら、それは”「ありのままの記憶」の蘇生”につながるものなのだから。要するに、この「アリスの言及」を含めた一連の事象は、「アリスはレネエをモデルに自分が創りあげた幻想(=代替イメージ)であり、その内的本質において両者は同一であるが、それを認めたくない」という「フレッドの感情/意識」を代弁/表象しているのだ。

しかし、フレッドがいかにそれを否定したく思ったとしても、この”「写真(の画像)」という事象”が発生していること自体が、「レネエとアリスの同一性」という認識を抱えてしまった反映として発生しているのは、動かしようのない事実である。人がその「内面」で発生した「思念/想念」を完全に消し去ってしまうことは不可能であり、ピート=フレッドも自身の「認識」をなかったことにはできない。このような意味で、もしこの世に究極の「監獄」があるとしたら、もしかしたらそれは「自身の頭の中」である。存在する限り人間は思考し続け、「自らの思考」に囚われ続ける……この作品が採用する「円環構造」や、あるいは「死刑囚房に収監されているフレッド」という状況そのものが、永遠に「自分の内面の虜」である我々全員の状況の「言い換え」なのだ。このように「ロスト・ハイウェイ」の多重性/多義性は、我々=受容者をも呑み込んでしまう。そして、リンチ個人の(あるいは、リンチに限らず優秀な創作者の)「ごく私的な発想」から生まれたはずの作品が、同時にきわめて「普遍的」であり得るのはまさにこうした側面に基づくといえる。

逃れられない「認識/想念」に捕らわれたピート=フレッドは、当然ながら、アリスが呈し始めた「コントロール不能性」に触れたとき以上に、”「写真」が表すもの”によって大きな打撃を受ける。このシークエンスをとおしてピートがみせる表情からもそれは明らかだが、なによりもその「打撃の大きさ具合」を物語っているのがカット(51)で彼が流す「鼻血」である。リンチ作品において(特に初期作品において)、登場人物たちがさまざまな「体液」を流出させることについては、グレッグ・オルソン氏が「Beautiful Dark」のなかで指摘するとおりである。たとえば「嘔吐を催す六人の男たち」での文字どおり嘔吐する男たち、「アルファベット」の結末で嘔吐する少女、あるいは「イレイザーヘッド」での鼻血を流すヘンリー……彼/彼女たちは「内面」で発生した「感情」をもはやそこに押し込めきれず、思わず「外界」に表出させる。それを表象するのが、彼/彼女たちが流す「体液」なのである。そして、その「感情」は、主として切迫した状況……たとえば「言語に対する恐怖/忌避」や、あるいは「元交際相手の母親に、娘との関係を問い質されること」といったような状況に直面した彼/彼女たちが抱いたものだ。

これもリンチが好んで採用する「共通モチーフ」のひとつであり、このシークエンスでピートが流す「鼻血」もこのモチーフの現れと捉えるのが妥当だろう。少女やヘンリーと同じく、ピート=フレッドも「切迫した状況」に……「アリスとレネエの同一化」、あるいは”「幻想」に対する「コントロールの喪失」”といった事態に直面している。前回も述べたとおり、これはフレッドにとって「現実からの侵入」を受けたのに等しく、結果的に”「幻想」そのものの崩壊”につながる可能性のあるものだ。かつ、その「侵入」がピート=フレッドにとって「非常に大切なもの」……すなわち「アリス=レネエの代替イメージ」によって行われたことは、決定的とさえいってよい。そもそもピート=フレッドが「新たな遁走」を試みたのは、「アリス=レネエの代替イメージ」が付随せている「ミスター・エディ=現実のイメージ」を排除し、”自分に都合のいい「幻想」”の領域内に彼女を確保するためであったはずだ。なのに、その「幻想=イメージ」自体が彼を傷つけるのである。

ピートはアリスにバス・ルームの在処を尋ね、苦痛にあえぎながら「二階」にあるというその場所に向かう。彼がこれまで何度か「現実による侵入」に際して抱えた「頭痛」(1:11:45)、あるいはフレッドが死刑囚房で訴えた「頭痛」(0:47:04)と同じものに苛まれているのは明らかだ。そして、ピート=フレッドは「二階」でもうひとつの決定的な「体験=イメージの連鎖」に遭遇することになる。

(この項、続く)

2009年11月 3日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (63)

なにがなんでも、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。その第五回目として、(1:44:47)から(1:45:40)までをばウダウダと書いてみる。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:44:47)
(34)アリスのアップ。ピートの左からのショット。アウト・フォーカス気味に見えるピートの頭の右側面から首。ピートから目を離して、アンディのほうに視線を落とすアリス。そのままアンディのほうを見下ろしている。少しアリスに近づくピート。
ピート: What do we do?
目を左に寄せて、ピートのほうを見るアリス。二人にクロース・アップ。その途中で、頭を左に向け、ピートを真正面から見るアリス。
ピート:(かすれ声で)What do we do?
(35)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。アリスの左後頭部が、アウト・フォーカスで画面右端に見切れている。真剣な表情で、アリスを見詰めている。
アリス: We have to get the stuff.
(36)アリスのアップ。ピートの右肩越しのショット。ピートを見詰めているアリス。
アリス: We have to get out of here.
ピートから体を離し、画面右に消えるアリス。それを見送るピート。画面右下のほうを向く。
(37)ミドル・ショット。横たわるアンディを、左上方からおさめるショット。左手を床につき、彼の体にかぶさるようにして右手をアンディの体に伸ばすアリス。彼女の背中を収めるショット。右手をアンディがしているネックレスの留金に伸ばし、そのまま彼の身体の左に膝をついて、両手でその留金を外すアリス。外れたネックレスを左手で持つ。
(38)ピートのアップ。バスト・ショット。アリスのしていることを見守っているピート。彼の左には、まだ映写を続けている映写機が見える。その右には、二階に続く階段の一部が見える。
(39)アリスの背中のアップ。床に膝を突き、右手で投げ出されたアンディの左手を支え、左手で彼の指輪を外そうとしている。画面左には、白い絨毯の上に置かれたアンディのネックレスが光っている。少し後退する視点。なかなか指輪は外れない。
アリス: Aw, fuck!
左手を床の上に突き、今度は右手で指輪を外そうとする。
(40)ピートのアップ。バスト・ショット。アリスのしていることを見守っているピート。彼にクロース・アップ。それと同時に、スクリーンのほうを見上げるピート。
(41)スクリーンに映された映像のアップ。体を揺らしつつ、口を開けて喘いでいる女性の顔のアップ。彼女の背後で動いている男性。
(42)ピートのアップ。スクリーンを見上げつつ、半ば口を開けてゆっくりと後退するピート。アリスのほうに再び目を下ろす。
(43)ミドル・ショット。床に膝を突き、アンディの左腕を持ち上げて両手で指輪を外そうとしているアリス。彼女を左後方からとらえたショット。プリズム・フィルターで歪むショット。やっと指輪が外れ、ちらりと左後方を見た後、ネックレスが置かれたあたりの床にそれを投げ出すアリス。頭を振って、顔に掛かった髪の毛を払いのける。歪んだまま、上方にパンする視点。上方に掛けられたスクリーンが視界に入ってくる。スクリーンに映された映像のなかで、後ろから男性にのしかかられて喘いでいる女性のアップ。

カット(32)においてアリスに「あなたがアンディを殺した」と指摘され、ピート=フレッドは動揺する。「ロスト・ハイウェイ」が提示する映像群がすべて「フレッドの内面で発生している事象」である以上この指摘はまったく正しいわけだが、それは彼が”「都合のいい幻想」の一部であるアリス”に期待していた回答ではないことも確かだ。自らの「幻想=アリス」に裏切られることによって「コントロールの喪失」を認識したものの、カット(34)が明示するように、どう事態を収拾したらよいか彼には判断がつかない。「我々はどうしたらいいのか?」とピート=フレッドは繰り返し問い掛けるが、もちろんこれは「自分はどうしたらいいのか?」という自問自答と同義だ。たとえば「自動車工場における音楽談議」(1:11:45)における「フィルによる代弁」などと同様に、それに対する回答は「代弁者」による「代弁」によって……「アリスによる代弁」(カット(35)(36))という形でもたらされる。「金品を奪って逃げる」という彼女の「回答」そのものは基本的に「アリスの教唆」(1:35:20)の内容と同一であり、いわば「当初目的」の再確認に過ぎない。だが、アリスが具体的行動によって実際にその「当初目的」を「代行」し始めた途端(カット(37))、フレッドの「内面」である「イメージの連鎖」が発生する。

この「イメージの連鎖の発生」を端的に表しているのが、カット(39)(40)(41)の三つのショットからなるシークエンスによって形成され、提示されるものである。具体的映像に沿って述べるなら、「アンディの指から指輪を外そうとするアリス」(カット(39))と「スクリーンに投影されるポルノ映画の映像」(カット(41))が、「アリスからスクリーンへと視線を移すピート」(カット(40))を挟んで提示されるというシークエンスである。このうち、(39)(41)の両カットは、カット(40)の映像との関係性によって、ともに「ピートの主観ショット」であることは明らかだ。結果として(39)(41)の両カットは”「ピート=フレッドの視線」の先にあるもの”として併置され、「並列関係」にあることが提示されていることになる。

問題は、”この「並列関係」によって表されるもの”が、たとえば以前に述べた「ピートの背後のポルノ映画の映像」(カット(18))と「二階から降りてくるアリス」(カット(19))とが形成していた「並列関係」とは質的に異なっている点だ。カット(18)カット(19)がそれぞれ「忌避すべき現実」と「好ましい幻想」に関連する概念を表し、両者は「対立関係」あるいは「対置関係」にあった(それを表すように、カット(18)のピートは「ポルノ映画の映像」に背を向けている)。それに対し、現在論じているシークエンスにおける「アリス」(カット(39))は同じ「アリス」でありながら「都合のいい幻想」から「忌避すべき現実に関連するもの」へと変質し、結果としてカット(41)の「ポルノ映画の映像」と「等価関係」を結ぶものへと転換/変化してしまっているのだ。

この「転換/変化」が発生した機序をどのように理解すべきだろうか? それを論じる方法論として、まず映画史的な観点からの検討を行ってみたい。具体的にいえば、「ロスト・ハイウェイ」が随所で採用している”フィルム・ノワール作品にみられる「図式」の踏襲”が表すものについてである。この観点からすれば、そもそも”「アリスの教唆」によって「アンディに対する犯罪」を実行するピート”という「図式」自体が、たとえば「深夜の告白」(1944)や「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1946)等にみられる「女性の教唆によって犯罪を犯す男性」の踏襲であることは間違いない。だが、より強調しておきたいのは、カット(39)の「アンディの死体から金品を強奪するアリスの姿」が、多くのフィルム・ノワールが描いてきた”「犯罪に手を染める冷酷な女性」という「ファム・ファタールの典型像」と重なっていることだ。

これらのフィルム・ノワールにおける「ファム・ファタールたち」は、(あくまでその相手となる男性の観点からみた場合だが)基本的に「コントロール不能性」を備えた存在として描かれている。その嚆矢となるのが、前掲の「深夜の告白」に登場するフィリスだ。彼女がフィルム・ノワールにおける「ファム・ファタール像」のあるパターンを決定づけたことは間違いない。だが、この作品が描く不倫相手であるウォルター・ネフにとって彼女が最終的に「コントロール不能」な存在と化してしまうという「図式」自体も、後続のフィルム・ノワール作品(やその他のジャンル作品)によって幾度となく踏襲/模倣の対象となっているのである。

こうした「フィルム・ノワールの図式」を考慮する一方で、同時に俎上にあげたいのが、「ロスト・ハイウェイ」が採用している”「あるものが付随させているイメージ」の援用/転用”という手法だ。その代表的な例が「ビデオ」や「映画フィルム」であり、この二つの「視覚メディア」に付随する(とリンチが感じている)「写実性」や「指標性」といったイメージが援用/転用され、”「ありのままの記憶=現実に関連するもの」の表象”としてこれらを登場させていることについては以前にも述べたとおりである。そして、これらの諸事項を考え合わせたとき浮上してくるのは、”「あるものが付随させているイメージ」の援用/転用”という手法が、「ビデオ」や「映画フィルム」といった「具体的なもの」にとどまらず、”フィルム・ノワールにみられる「図式」”という「抽象的なもの」を題材にしても行われているという可能性だ。

少し論点を整理してみよう。

(A)「ロスト・ハイウェイ」における”フィルム・ノワールにみられる「図式」の踏襲”という方法論は、そうした「図式」からリンチが感じ取った「イメージ」を(意識的であるか否かは別として)援用/転用するために採用されている。
(B)このシークエンスにおいて援用/転用されている「イメージ」とは、フィルム・ノワールのファム・ファタールが付随させている「コントロール不能性」である。

この二つの前提に立ち、(いつものように)「フレッドの感情」をキーにして「このシークエンスが表すもの」を考えたとき、最終的にたどり着くのはやはり「レネエのコントロール不能性」の問題に他ならない。(0:05:45)や(0:27:36)のショット/シークエンスのように、これまでフレッドが彼女に対して「コントロール不能性」を感じていることは何度も示唆されてきた。この「感情/意識」は、フレッドの「内面」において「典型的なファム・ファタール」が備える「コントロール不能性」のイメージと連鎖し、カット(32)でアリスが見せ始めた「コントロール不能性」とむすびつく。そしてその結果として、”「アンディの死体から金品を奪うアリス」という事象”がフレッドによって想起されているのである。

こうした検討を経て、カット(39)の「アンディの死体から金品を強奪するアリス」とカット(41)の「ポルノ映画の映像」の「等価性」がどのように成立しているかが、次第に明確になってくる。「ポルノ映画の映像」によって表されるものは「フレッドがレネエに対して抱く不安/疑惑」であり、その不安や疑惑は彼女に対する「コントロールの不能性」に裏付けられている。その一方で、「アンディの死体から金品を強奪するアリス」もまた、典型的なファム・ファタール像を踏襲しているがために「コントロール不能性」のイメージと連結している。この「コントロール不能性」という「共通項」によって、両ショットは「忌避すべき現実(に関連するもの)」として「等価」なものになり得るのだ。

ピート=フレッドはこの「等価性」に気づいて更なる衝撃を受け、カット(40)が示すとおり思わず視線を「アリス」から「ポルノ映画の映像」へと移す。フレッドの観点からすれば、この「アリスのファム・ファタール化」(あるいは「アリスとレネエの同一化」、もしくは”「都合のいい幻想」の「忌避すべき現実」への変質”)は、形を変えた「現実による侵入」に他ならない。そのことの傍証として、カット(43)に「歪む視点」が登場することは見逃せないだろう。この「歪む視点」が、たとえば(1:22:29)の「ピートの部屋の内部」や(1:36:09)の「デイトン家の前庭」のシークエンスなどに現れた「揺れる視点」と同様/同質のものであり、ともに”フレッドの「幻想」が「現実による侵入」によってダメージを受けたこと”を指し示していることは明らかだ。かつ、このカット(43)に現れる”「アリス」から「ポルノ映画の映像」へとパンする視点”が、両者の「等価性」を確認/強調/保証すべく機能していることも、あわせて指摘しておきたい。

(この項、続く)

2009年10月24日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (62)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は”「アンディの屋敷」の内部”の長ーいシークエンスに関する第四回目、(1:43:09)から(1:44:47)までを採り上げてみよう。

では、まず具体的映像から。都合上、カット(18)が前回と重複して記載されていることをお断りしておく。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:43:09)
(18)ピートのアップ。首をやや右にかしげ、アンディのほうを見下ろしている。彼の背後では、スクリーンに投影されている女性のアップがアウト・フォーカスで見えている。大きな溜め息をつくピート。気配を感じて、視線を上げるピート。
(19)ミドル・ショット。二階に続く階段。黒いブラジャーに黒いスキャンティ姿のアリスが、右手に紫色のローブを持ち、右側の階段から階下に降りてくる。
(20)
ピートのアップ。アリスのほうを見ているピート。
(21)ミドル・ショット。画面手前に向かって歩くアリスを正面からとらえたショット。画面左手、アンディが倒れているあたりを見下ろしながらピートに近づくアリス。それに連れて後退する視点。彼女の右には背の高い黒い台の上に置かれた映写機が、強烈な光をスクリーンに向かって投げかけている。画面左から、ピートの後ろ姿が視界に入ってくる。
アリス:(アンディのほうからピートに視線を移しながら、明るい調子で)You got him!
なおも近づきつつ、画面右のほうに向かうアリス。アリスに近づくピート。それを追って少し右へパン。ピートとアリスのツー・ショットになる。
ピート:(かすれ声で)Alice...
ピートの右肩に左手をかけ、目を閉じてピートに口づけをするアリス。口づけを終えたあとも、消耗した感じで喘いでいるピート。うなだれ、アリスの右肩に頭を載せるようにする。一度離した左手をピートの肩甲骨あたりから首の後ろにまわし、慰めるようにするアリス。
(22)アンディのアップ。ピートとアリスがいる方向から、カウンターのほうを見るショット。いつの間にか意識を取り戻したアンディが、大きく口を開け、叫び声を上げながら画面手前、二人に向かって襲いかかろうとする。
(23)ミドル・ショット。ピートとアリスのツー・ショット。彼らの背中越しに、カウンターのほうを見るショット。ピートに掴みかかるアンディ。アリスは画面右のほうに逃れて姿を消す。そのままピートを肩で押し倒すアンディ。
(24)ミドル・ショット。黒い絨毯が敷かれた床に倒れるピートのアップ。上半身は左の画面外に飛び出し、足だけが視界に残る。倒れたピートの上を勢いあまって越え、画面左端から同じく姿を消すアンディ。
(25)床から上方を見上げるショット。天井に揺れながら映る、プールの照明の青い光。勢い余って画面右下から左上に飛ぶアンディの体のアップ。黒いシャツ、赤いビキニ・ショーツ。画面右上に消えるアンディ。
[何かがつぶれるような鈍い衝撃音]
(26)ミドル・ショット。スクリーンが掛けられている方向から、階段のある方向を映すショット。画面中央に立ちつくしている黒いブラジャーに黒いショーツ姿のアリス。画面左手前にある、背の低い大きなテーブルのほうを見ている。テーブルの天板はガラスでできており、そのその上には銀色の灰皿らしきものが置かれている。アリスの左には、人間の背丈の黒い台に載せられて映写を続けている映写機。アリスの左、映写機の前あたりで立ち上がろうしているピート。膝をついた位置で、アリスと同じく画面手前のテーブルのほうに目をやり、そこにあるものを認めて、ゆっくりと立ち上がる。
(27)ミドル・ショット。足を画面右手前方向に、うつ伏せになって床に倒れているアンディ。だが、彼の額は、テーブルの天板の右角にめり込んでいる。体の脇に沿って、投げ出された左腕。ガラスの天板と、彼の身体の下あたりの白い絨毯に広がる血。彼の右には黒い長ソファがあり、その端にはアリスの黒いバッグと豹柄の上着が置かれている。かすかに揺れる視点。
(28)
ミドル・ショット。ピートとアリスのツー・ショット。腰の下あたりからのショット。画面右にいるアリスのほうを振り向くピート。アリスもピートのほうを見る。アリスと目を合わせた後、再度アンディのほうを見下ろすピート。左手をあげ、拳の甲を口のあたりに押し付ける。やがて手をおろすピート。どちらからともなく、アンディのほうを見下ろしたまま、画面右手前のほうに向かって歩き始める二人。
(29)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。倒れているアンディの上半身とテーブルを視界に収めたまま、アップになりつつ左方向に回り込むショット。天板のガラス板がアンディの額に食い込んでいる様子が視界に入ってくる。
(30)ミドル・ショット。ピートとアリスのツー・ショット。バスト・ショット。画面左端にピート、画面右端にアリス。二人の間には不自然な空間があり、背後の白い壁がぼんやりと映されている。ややピートはアリスに近づくが、二人の間は離れたままだ。二人とも、画面左下のほう、アンディが倒れているあたりを見下ろしている。
(31)アンディのアップ。二人がいるあたりからのショット。画面右上方を向いたテーブルのガラス板の角は、5センチ以上アンディの額に食い込んでいる。テーブルの上に広がりつつある血。アンディの顔は、曇りガラスの天板に隠れていて見えない。ダラリと体に沿って投げ出されたアンディの左腕。手の平は上を向いている。
(32)ミドル・ショット。ピートとアリスのツー・ショット。バスト・ショット。画面左奥の方に少し後退する二人。まだアンディのほうを見下ろしたままだ。
アリス:(感心したように軽い口調で)Wow!
ピートの表情は固いままだ。
ピート: We killed him...
画面左手、ピートのほうを目だけで見るアリス。
アリス:(しばらく沈黙した後)You killed him.
画面右のアリスのほうを振り返るピート。
(33)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。アリスの左後頭部が、アウト・フォーカスで画面右端に見切れている。アリスの言葉に、呆然としたように彼女を見詰めているピート。
ピート:(かすれ声で)Alice...

まず注目したいのは、カット(18)からカット(20)のシークエンスによって表されるものである。このシークエンスが具体的映像として提示しているのは、「ポルノ映画の映像」のイメージと「アリス」のイメージの間に立つピートの姿だ。この二つのイメージが、それぞれ「フレッドのレネエに対する疑惑/不安」と「レネエの優秀な代替イメージ」を指し示していることについてはこれまでも述べてきたとおりであり、結果として両ショットの関係性によって表象されるのは、この「二つのイメージ」の間を揺れ動く「フレッドの意識」である。

「ポルノ映画の映像=レネエに対する疑惑/不安」が「ありのままの記憶=レネエ殺害」につながるものである以上、それはフレッドにとって「忌避の対象」であるはずだ(それがゆえに、「ポルノ映画の映像」は”「アンディの屋敷」の内部=意識内意識”に隠匿されている)。逆に「アリス」が「優秀なレネエの代替イメージ」である限りにおいて(この場合「優秀な」というのは「都合がいい」のと同義である)、それはフレッドにとって「好ましい」ものである。このようにこれらのイメージが表す「概念」(とそれに対するフレッドの「感情」)を踏まえたとき、「ポルノ映画の映像」から目を背け、「アリス」に慰撫され安堵の表情を浮かべるピートの姿は(カット(21))、「ロスト・ハイウェイ」が描く”「フレッドの遁走」の本質”を端的に「図式化」したものということになる……その過程において、”「現実に関連するもの=アンディ」の排除”という行為が付随することをも含めて。

だが、カット(22)以降、事態は大きく変化する。これまで「アリスの教唆」(1:35:20)どおりに(それはつまり、「フレッドの意志」どおりにという意味だ)発生していた事象が、突然そこから逸脱して思わぬ展開を始めるのだ……具体的映像に沿っていうなら、ピートが頭部を殴ったことによって「人事不省」であったはずのアンディが意識を取り戻し、ピートに反撃を試みた挙句、とんでもない状況で命を落とす(カット(19)-(27))といった具合に。「アリスの教唆」の内容をみる限りにおいて、フレッドが想定していたのは「アンディの頭部を殴り(you crack him in the head)」、彼を人事不省にして金品を強奪することにとどまっており、少なくともアンディが命を落とすような事態は「フレッドの思惑」には織り込まれていない。

フレッドにとって、この”「計画あるいは教唆」からの逸脱”が意味するところは重大である。そもそも「アンディからの金品の強奪」は、繰り返しフレッドの「幻想」に対して侵入を行う「現実=ミスター・エディ」から逃れるための……つまりは「新たな遁走」を実現するための「手段」であったはずだ。かつ、その「新たな遁走」が必要とされたのは、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」が度重なる「現実の侵入」に耐えきれず変調をきたし、「崩壊」への途を辿り始めたからだった。しかし、その「新たな遁走」すらも、いまや変調を呈し始めているのだから。

フレッドが「アリス」という「代弁者」を立てて「直接的な関与」から逃れようとしていたこと……要するに「責任からの回避」を試み、安全な「立場」を確保したままでいたいと願望していたことは、前回にも触れたとおりである。加えて、彼は「アンディからの金品の強奪」という形で表される「現実への反抗」を、可能な限り密やかに(そう、ちょうど、自分の自動車を使わないでバスに乗り、人知れず犯行現場を訪れるように)執り行うとしていたはずなのだ。基本的にピート=フレッドは、「重大な事項に関与し、自分が厳しく糾弾されるような状況」を可能な限り回避したいと考えている……なぜなら、それこそが”死刑囚房に収監されている「現実のフレッド」の状況”そのものだからだ。にもかかわらず、このシークエンスで発生した事象は「フレッドの願望」に沿おうとせず、彼の「計画」からも逸脱している。このことが指し示す事実はひとつだ。結局のところ、彼は”「幻想/捏造された現実」に対するコントロール”を失っただけでなく、同様に”「新たな遁走」に対するコントロール”をも失いつつあるのである。

このような意味合いにおいて、”宙を飛ぶアンディの背後に、もしくは彼が画面から姿を消した後の天井に、プールから放たれる「揺らめく青い光」が反射している”というカット(25)の映像は、「フレッドの不安や疑惑」の本質を描くものとして非常に興味深いものがある。「現実に関連するもの=アンディ」が排除され消え去ったあとも、「フレッドの不安や疑惑」は変わらず残るのだ。「不安や疑惑の対象」が現実に存在するか否かは「フレッドの感情」にはまったく関係なく、たとえ「対象」が消失しても彼は「自らの不安や疑惑」にずっと苛まれ続けるのである。そうした観点からすれば、むしろカット(25)の映像は”「新たな遁走」に対するコントロールの喪失”に起因する”「新たな不安」の発生”を示唆するものですらある。

では、状況が完全にフレッドの手を離れているかというと、実はそうでもない。少なくとも彼は「アンディという障害の排除」には成功しているし、なによりも「アンディが命を落とす具体的経緯」にはピート=フレッドが「責任を回避する」余地が微妙に残されている……そもそもの経緯はどうであれ、ピートは突然襲いかかってきたアンディを避けようとしただけなのだから(カット(22)-(24))。非常に「都合良く」解釈するなら、これはピート=フレッドの直接的関与の域を越えた「回避不能な事故」の範疇なのである。それを補完するかのように、本編から編集時にはカットされているが、シナリオではカット(33)の直後に以下のようなアリスの台詞が存在する……すなわち、「これは事故よ。いつだって事故は起きるわ(It was an accident... Accidents happen every day)」。これが「アンディを排除した」直後の”フレッドの「意識」あるいは「願望」”を「代弁」していることは明白だが、それだけでなく、”「毎日のように起きる事故」のなかに「レネエ殺害」をも含めてしまいたい”という「フレッドの意志」が垣間見える点は見逃してはならないだろう。「アンディ殺害」という事象があたかも「回避不能な事故」であるかのような状況で発生する裏側には、「レネエ殺害も回避不能な事故であった」と考えたい「フレッドの願望」が横たわっているのだ。このことからもわかるように、この二つの「殺人事件」はフレッドの「内面」において互いに関連づけられ、「イメージ」として連鎖しているのである。

たとえば「アンディの屋敷のプール」が「隣家の子供用プール」へと置換されたのと同様に(0:55:08)、自分が引き起こした「犯罪」を「回避不能な事故」にすり替えようとすることも、フレッドが(意識的/無意識的に)行っている「現実の矮小化作業」のひとつであるのは確かだ。が、こうした「矮小化」が「詭弁」であることを、誰よりも認識しているのはフレッド自身なのである。それを端的に表しているのが、カット(32)におけるピートとアリスの「会話」だ。「我々が(アンディを)殺した」とピートは呟くが、それに対しアリスは「あなたが殺したんでしょ」と指摘する。もちろん、第一義的には、この「指摘」が「アンディ殺害」に関するものなのはいうまでもない。が、よく考えれば、この指摘は「レネエ殺害」に関しても(それこそ文字どおりの意味で)当てはまってしまうではないか。「アリス」が「レネエの代替イメージ」であり「彼女がレネエとニア・イコール」であることを考えるなら、これはまさしく「死者による糾弾」である。いかにフレッドが”「レネエ殺害」についての「ありのままの記憶」”を矮小化(あるいは忘却)しようとしても、彼自身が「レネエに対する希求」を捨て去れない以上、そうした試みは必然的に無為に終わるしかない。

いずれにせよ、フレッドの「欺瞞」は……「代弁者/代行者」であるアリスを「主犯」に仕立て、自分を安全な位置にとどめながら「新たな遁走」を達成しようという「フレッドの思惑」は、当のアリスによって手厳しく暴かれ、「主犯」が他ならぬ彼自身でしかあり得ないことが指弾されてしまう。この「アリスの指弾」が、たとえば「シーラによる非難」(1:36:09)と基本的に同種/同等のものであることは明白だ。”「都合のいい幻想(の一部)」であったはずの「もの」が、当の「幻想の主」の思惑から外れた行動をとる”という構造において、シーラとアリスの「反逆」はまったく同一なのである。こうした「構造上の合致」を踏まえつつ、「シーラの非難」が”「幻想/捏造された現実」に対するフレッドの「コントロールの喪失」”を指し示していたことを考えるならば、「アリスによる指弾」は”「新たな遁走」に対するフレッドの「コントロールの喪失」”を示唆するものとして了解するのが妥当となる。

また、前述したように、”ピートによる「アンディ殺害」”という事象が(フレッドの「内面」において)”フレッドによる「レネエ殺害」”という事件と関連づけられ連鎖しているのならば、この「アリスに対するコントロールの喪失」もまた「レネエに対するコントロールの喪失」と関連性を持ち、イメージとして連鎖しているという見方も成立するはずだ。言葉をかえるなら、「アリス」という「フレッドにとって優秀な(=都合のいい)レネエの代替イメージ」だったはずの「もの」は、もともとニア・イコールであった「フレッドのコントロールが効かない(=都合の悪い)現実のレネエのイメージ」との重なりを一層深め、(内面的/本質的な意味で)同一化し始めているのだ。逆説的にいえば、このシークエンス以降で本格的に発揮される「アリスのファム・ファタール性」は、フレッドが(現実の)レネエをどのようにみていたか」を端的に物語るものである。レネエはフレッドにとって永遠の「宿命の女」なのだ。

それにしても、具体的映像として描かれる「アンディ殺害」の状況は、それを見詰めるピートとアリスの呆然とした様子を含めて、リンチ独特のユーモアが漂う奇妙なものである。「ガラス天板のテーブル」と一体化したような「アンディの死体」(カット(27))は、「直線的な構成のテーブル」と「曲線から構成される人体」との対比を浮かび上がらせることによって、「死が引き起こす有機物から無機物への転換」を強調する。実はこの「転換」こそが、死刑囚房で処刑を待つフレッドが現在抱える最大の「根源的な恐怖」であるはずであることを考えるなら、「アンディ殺害」が、(それがどのようなものであれ)ユーモラスな状況下で発生することは大きな皮肉であるといえなくもない。

だが、それよりも興味をひかれるのは、アンディの直接的な死因が「頭部への異物の侵入」であることだ。リンチ作品において「内面が外界(現実)によって強制的に侵入されること」、その結果として「内面が変質してしまうことの恐怖」は、さまざまな形で繰り返し提示される共通テーマのひとつである。「ロスト・ハイウェイ」においてもこのテーマは「人間の内面としての家」という共通テーマとあわさり、たとえば「ミスター・エディによる自動車工場への侵入」という形で「フレッドの幻想に対する現実の侵入」が提示されていることはもはや説明を要さないだろう。もうひとつ見落としてはならないのは、シナリオ段階で頓挫した「Gardenback」にみられる「人間の頭部」と「家」のアナロジーや、あるいは「ブルーベルベット」にみられる「耳の穴へと侵入する視点」といった表現をリンチが過去作において採用していることである。これらの表現は、「侵入の対象先」として「人間の頭部」を明確に選択しており、そこが「人間の内面」が内包されている場所であるとリンチが認識していることを表している。

これらの事項を踏まえたとき、”「アンディの死因」が表すもの”が了解されることになる。要は、これもまた形を変えた「外界による内面への強制的な侵入」に他ならないのだ。ただし、これまで「ロスト・ハイウェイ」が描いてきた「外界/現実による侵入」に比べ……たとえば「山道でミスター・エディによって処罰される哀れなドライバー」(1:02:57)などに比べ、今回のそれはより直截的に「死のイメージ」と結びつけられているのは注目に値する。ドライバーに対する処罰は「脅迫」の範疇でおさまったが、今回はそうではないのだ。「フレッドの感情」をキーとして捉えたとき、こうした差異から浮かび上がるのは「フレッドがより追い詰められた立場に陥りつつあること」であり、それにともなって、彼が抱いている「不安/恐怖」の度合いがエスカレーションしていることであるはずだ。

(この項、続く)

2009年10月18日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (61)

色んな負け方があるとは思っていたものの、また器用な負け方をしやがりましたな>わしんとん でもNFL第5週の「ザ・ベスト・オブ・泥仕合」には、ぜひクリーブランド@バッファローを挙げておきたいと思います。だって1st&10からの「QBスニーク」なんて、滅多に見られるもんじゃありませんぜ、ダンナ。いやあ、長生きはするもんだ(笑)。

アメフト話はさておき、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は「アンディの屋敷」の内部のシークエンスの第三回目、タイム・チャートでいうところの(1:42:46)から(1:43:15)まで。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:42:46)
(11)ピートのアップ。立ち止まり、口を開けたままスクリーンに映された映像を見ているピート。
[ドアが閉まる音]
音に驚き、背後を振り返るピート。キッチンのカウンターの上に置かれた置物を認め、慌ててカウンター・キッチンの裏に走る。それを追って左へ、次に右へパン。カウンター・キッチンの向こうには、ガラスがはまった木の扉の戸棚が並んでいるのが見える。
(12)ピートのアップ。カウンターの上に置かれていた黒い置物を左手で取り、身を屈めてカウンターの陰に隠れるピート。それを追って下方にパン。カウンター裏側は棚になっている。置物を両手で握りしめ、気配をうかがうピート。
(13)ミドル・ショット。二階に続く階段。パンツだけの裸に黒いシャツをひっかけただけのアンディが、右側の階段から階下に降りてくる。両手には、空になったグラスを持っている。彼を追って、下方にパン。そのまま彼は画面手前に向かって歩き続け、カウンターに向かう。それを追いかけて、左へパン。カウンターの前に立つ彼の左側面からのアップになって終わる。両手のグラスをカウンターに置くアンディ。
[グラスがカウンターに置かれる音]
(14)ピートのアップ。カウンターの裏側。急な動作で立ち上がるピート。
(15)ミドル・ショット。アンディの左斜め後ろからのショット。立ち上がったピートが、カウンター越しに右手に持った置物でアンディの頭部を殴りつける。
[衝撃音]
画面外、下方に崩れ落ちるアンディ。置物を持ったまま、急いで画面左に走るピート。それを追って左へパン。置物を右手に握ったまま、カウンターから出てアンディを見るピート。
(16)ピートのアップ。彼の左斜め前からのショット。息を切らして画面左方向に移動しながら、画面外の床の上に倒れているアンディの様子をうかがうピート。それを追って左へパン。彼の背後には、スクリーンに映され続けている映像がアウト・フォーカスで見える。
(17)アンディのアップ。ピートの主観ショット。黒い床の絨毯の上に、頭を画面下方に向け、目をつぶって横たわっているアンディのバスト・ショット。左のこめかみからは、血が流れている。
(18)ピートのアップ。首をやや右にかしげ、アンディのほうを見下ろしている。彼の背後では、スクリーンに投影されている女性のアップがアウト・フォーカスで見えている。大きな溜め息をつくピート。気配を感じて、視線を上げるピート。

このシークエンスではピートがアンディに対して凶行を働く様子が具体的映像(カット(11)ー(15))として描かれるが、「バスによる移動」(1:40:36)や「裏口からの侵入」(1:41:39)と同様、これもまた「アリスの教唆」(1:35:20)を完全に踏襲していることは明白である。あるいは「アリスの教唆」自体が”「フレッドの意識」の「代弁」”である以上、それに沿った形で事象が発生するのは当然のことといえるだろう。だが、そうした「代弁者」を設けるという行為自体が、あるいは「代弁者」が代弁する内容が、(それが意識的にせよ無意識的にせよ)「フレッドの意識」や「感情」を反映していることは何度も指摘してきたとおりだ……そして、ときとしてそれが”隠されていたフレッドの「生の感情」の露呈”であることもあるが、それよりも実にしばしば”彼にとって「都合のいい欺瞞」”であることも。この「アリスの教唆」は後者であり、ピート=フレッドがその「教唆」を遵守することによって手に入れるのは、”犯行を計画した「主犯」は彼女であり、彼はそれに従う「実行犯」(もっといえば「操り人形」)に過ぎない”という「限定された立場」だ。「現実=ミスター・エディ」のイメージに関連する「アンディ」に対してネガティヴな行為を密かに行うとき、こうした「立場」がピート=フレッドにとって「都合のいいもの」であることは間違いない。

興味深いのは、カット(16)およびカット(18)にみられる「映像」……具体的にいえば、両カットをつうじて現れる”前景のピートと、後景としてその背後に映し出されている「ポルノ映画」の映像”という構図だ。たとえば(1:00:23)などの「アーニーの自動車工場」のシークエンスにおいて、「ミスター・エディ」の背後には「外の道路を行き交う自動車」が配置され、彼と「外界」との関連性を強調していた。同様に、カット(16)およびカット(18)の構図が示唆するのも、”ピートと「ポルノ映画」の映像の関連性”であるはずである。

まず、フレッドが(意識的/無意識的に)抱える「代弁者を利用した責任回避への意志」を踏まえたとき、この「関連性」が示唆するのは、前述した”ピートが「アリスの教唆」を遵守して犯行を行っていること”の図式化であるといえる。両カットの「構図」が明示するとおり、たった今ピートが行った「アンディに対する犯罪」の背後には、文字どおり「女の影=アリス」が存在しており、彼の行動を規定している(という「欺瞞」をフレッドは作り上げている)というわけだ。

しかし、より興味深いのは、「女の影=ポルノ映画の映像」がフレッドの「レネエに対する感情/疑惑」を指し示していることを前提として、この「構図」を捉えた場合である。フレッドが「レネエの殺害=レネエに対する犯罪」を引き起こした背後には、彼が抱えていた「レネエに対する感情/疑惑」が存在していることについては以前にも触れた。それに基づくなら、カット(16)および(18)が提示する「構図」(あるいは”ピートと「ポルノ映画」の関連性”)は、そのまま「レネエに対するフレッドの犯罪」の図式とも重なることになる。

いずれにしても、「フレッドのレネエに対する疑惑」があるいは「実体」がないフレッドの思い込みであること、そして「アリス」という存在もまた「優秀なレネエの代替イメージ」である限りにおいて「実体」を持ち得ないことを考えるなら、この二つの抽象概念がともに”スクリーンに投影される「ポルノ映画」の女優”という「実体を持たない映像/虚像」へと仮託されることは、まったく不思議ではない。同時に、その発生の「表層的な機序」こそ異なるものの、その裏に「フレッドの(特定の)女性に対する感情」が存在しているという「図式」において、「フレッドのレネエに対する犯罪」と「ピートのアンディに対する犯罪」はともに共通しているともいえる。

そして、この「共通項」を糊代にして二つの「犯罪」の概念(イメージ)は連鎖し、続くシークエンスにおいて「事態の急変」を引き起こすのである。

(この項、続く)

2009年10月12日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (60)

ちょいとLinux機をいじくってたら、なんかシステムがおかしくなってしまいました。ありゃーと思ってアレコレしてたら、事態は一層悪化してブート・ファイルまで行方不明になる始末。おーい(笑)。もーメンドーだとゆーことで、ヴァージョン・アップしたシステムを再インストール……しても、引き続きブート・ファイルが行方不明(笑)。どーやら、面白がって二種類のLinuxをインストールしてデュアル・ブートにしてあったのが悪さしていたようで、システムを入れていたパーティションからブート可能フラグが外れていたり、いろいろ不具合があった模様。なんとか復旧させ、最低限の追加設定が終わったのが午前二時。静かな金曜の夜を返せ(笑)。

とゆーよーな艱難辛苦(いや自業自得)を経て、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は「アンディの屋敷」の内部のシークエンスの第二回目、(1:42:17)から(1:42:46)をば。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:42:17)
(3)[ramsteinスタート]
天井の高い、薄暗いリビング・ルーム。吹き抜けになった六角形の建物の内部。白い壁の瀟洒な室内。あちらこちらに並べられた椅子と、ところどころに柔らかく光を投げかける間接照明。左側の壁の高いところには、プールの照明の青い光が窓枠のシルエットとともに映し出されている。中空には大きな映写スクリーンが下げられ、そこにはモノクロのポルノ映画が投射されている。顔をこちらに向けた金髪の女性が、男に後ろからのしかかられて体をうごめかしている。映像は、スクリーンからはみ出す形で投影されている。
(4)スクリーンに映された映像のアップ。あえぎながら体を揺らす女性のアップ。
(5)ピートのアップ。呆然と口を開け、スクリーンに映される映像を見上げている。部屋の中を見回しながら、画面外の段差を一歩、二歩と降りるピート。それにつれて後退する視点。画面右手を見るピート。
(6)ピートの主観ショット。黒いソファの上に置かれた豹柄の上着と、黒の本体に金の鎖がついた女性もののバッグのアップ。そのまま左下方にパン。白い絨毯の上に脱ぎ捨てられた黒いストッキングの左右。
(7)ピートのアップ。なかば口を開け、なおも部屋の中を画面手前に向かって歩き続ける。それに連れて後退する視点。画面左には、木のテーブルの上に置かれた、三角形の傘の電気スタンドが見える。その奥にはガラスがはまった木の枠の扉がある戸棚が見える。ピートの背後には、二階に続く二つの階段が、その右手には向かい側の白い替えと、そこにかかった間接照明の光が見える。
(8)スクリーンに映された映像のアップ。後ろから男にのしかかられ、口を大きくあえぎながら体を揺らす女性のアップ。
(9)ピートのアップ。立ち止まり、口を開けたままスクリーンに映された映像を見ているピート。
(10)スクリーンに映された映像のアップ。後ろから男にのしかかられ、口を大きくあえぎながら体を揺らす女性のアップ。

ついに”「アンディの屋敷」によって隠匿されていたもの”が、その姿を現す。カット(3)(4)(8)(10)にあるように、まずそれは”スクリーンに投射される「ポルノ映画」の映像”として表される。

まず指摘できるのは、この「ポルノ映画」が(映画内)映画である以上、「フィルム」という「映像記録媒体」の形状をとっていることだ。つまり、ともに「映像記録媒体」であるという点において、これは「前半部」に登場した「差出人不明のビデオ・テープ」の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」なのである。

一般的に「フィルム」(ないしは「ビデオ・テープ」)に記録された「映像」は、たとえば「文章」や「絵画」に比べて高い「写実性/指標性を備えていること=ありのままの記録であること」とされる。これはさまざまな映画理論によって繰り返し指摘され、「映画」というメディアム=媒体の基本的特性を論じるうえでの、ある出発点にもなっている。「写真」と同じく、そうした媒体によって残された「映像」は過去のどこかの時点で確実に「そのような形」で実際に存在しており、そこに”創作者の主観による「歪み」”が混入する余地がないゆえに他の媒体と峻別されるという考え方である。ただし、「表現主義的発想」を基本とするリンチ作品においては、この問題もまた「外面的写実性」ではなく「心理的写実性」をキーにして捉えなければならない。つまり、ここで優先して議論されるべきなのは、フレッド(あるいはリンチ自身)が感じている”フィルム(あるいはビデオ・テープ)という「メディアム=媒体」が付随させる「真実性/写実性/指標性」”の「イメージ」そのものだということだ。「前半部」の「幻想/捏造された記憶」において、「レネエ殺害」につながる「ありのままの記憶」が「差出人不明のビデオ・テープ」として登場するのは、まさしくこの「媒体」が備えているそうした「イメージ」に裏打ちされている。なによりも「ビデオ・カメラ」に対するフレッド自身の言及(0:24:28)が、彼が「ビデオ・テープ」という「媒体」に対してどのようなイメージを抱いているか、雄弁に物語っているといえるだろう。それと同様に、このシークエンスに登場する「ポルノ映画」も、「フィルム」という「ビデオ・テープ」と同等/同種の「媒体」の形状をとっているがために、フレッドの「ありのままの記憶」につながるものとして、ひいては”彼による「レネエ殺害」という現実”と関連していることが保証されることになる。

その一方で、記録媒体=フィルムが映し出しているのが”「ポルノ」=「交接する女性」の具体的映像”であることを、我々=受容者はどのように捉えればよいのだろうか? この疑問に一定の回答を与えるのが、(0:33:04)の「フレッドとレネエとの対話」や(1:29:00)の「ピートとアリスとの対話」が断片的に示唆してきたものだ。彼女(たち)はアンディから「仕事」を紹介されたと語り、その「仕事」が「ポルノ映画の撮影」であることが(1:29:00)からの会話でピートによって言及されたのち、(1:31:18)からの「アリスの回想」によって具象化される(もちろん、この「言及」や「回想」も”フレッドの「感情/意識」が代弁されたもの”に過ぎず、作品全体を見回してもレネエが「不貞を働いたこと」あるいは「ポルノの被写体となったこと」を明示する映像は存在しない)。これらのショット/シークエンスから了解されるのは、フレッドが自分の感じている「レネエに対するコントロールの不能性」を「彼女の不貞」という「疑惑」に重ねあわせていることである。そして、最終的にその「疑惑」はフレッドの内面において「現実=ミスター・エディ」と関連付けられ、「ポルノ映画」のイメージへと連鎖していくわけだ。

このシークエンスに登場する”「ポルノ映画」の具体的映像”も、まさしくそうした「イメージの連鎖」のなかに位置づけられるべきものである。すなわち、それを記録する「フィルム=媒体」が備える「真実性/写実性/指標性」のイメージとは裏腹に、この”「ポルノ映画」の具体的絵像”そのものは、「フレッドの感情/意識」に歪められた「幻想/捏造された現実」のひとつに過ぎないのだ。こうした検討から浮かび上がってくるのは、この「ポルノ映画」こそがフレッドの「感情」を……彼がレネエに対して抱いていた”「不安」や「疑惑」そのもの”を具現化し、表象しているということである。それを裏付けるように、暗い邸内に掛けられたスクリーンに投射される”「ポルノ映画」の映像”は「青白く」輝き、「プールから放たれる青い光」と並んで「青のモチーフ」のひとつとして……すなわち、フレッドの「不安」や「疑惑」に関連付けられるものとして登場している。

この「不安」や「疑惑」は、カット(6)の「脱ぎ捨てられたアリスの衣服」によって、「過去」だけでなく「いま現在も存在するもの」として提示される。アリス自身が「教唆」したように、あるいはこの後の展開が明らかにするように、彼女は「この現在」アンディと階上にいる。そのこと自体が”フレッドの「レネエに対する疑惑」”の「リフレイン」であることは論をまたない。かつ、「ポルノ映画の映像」と「脱ぎ捨てられたアリスの衣服」はともに「ピート=フレッドの主観ショット」として提示され、このシークエンスから始まるラムシュタインの音楽とともに、文字どおり「フレッドの主観を介在させたもの=彼の内面に関連するもの」であることが強調されている点も見逃せないだろう。

(この項、続く)

2009年10月 5日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (59)

デトロイト方面で発生した出来事に、大山崎は先週いっぱい死亡状態でありました。うーん、それなりにオフェンス力がついて来てるみたいだったんで、危惧はしていたんだよなあ。なんにせよ、19試合ぶりの勝利、おめでとうございます>らいおんず 

とか言っている間にNFLは第四週が進行中で、贔屓チームもなんとか星を五分に戻し、大山崎もめでたく復活(笑)。いや、スケジュールがソフトな今のうちだけってーハナシもありますが、それはそれとして「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は(1:41:39)から(1:42:17)をば。

この後、「アンディの屋敷」の内部を舞台にして、非常に長いシークエンスが展開される。そこで発生しているさまざまな事象は、リンチが採用する「表現主義的手法」の典型例といえるだろう。これまで「ロスト・ハイウェイ」が提示してきた映像群と同様、このシークエンスが提示する具体的映像を、いわゆる「写実的な描写」としてナラティヴな観点から捉えることは不可能である。要請されるのは、それらの映像が伝える「外見的な歪み」がフレッドの「内面」に存在する「感情/意識」を反映しており、「外的写実性」よりもフレッドの「内的写実性」を優先した結果であるとみるアプローチだ。そうしたアプローチに従うなら、「アンディの屋敷」の内部で発生する事象(とその「歪み」)から浮かび上がってくるのは「フレッドのレネエに対する感情」の本質であり、彼が彼女を殺害するに至った心理的動機を理解するための「手掛かり」である。

では、何度かにわけて「アンディの屋敷」の内部のシークエンスをみていこう。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:41:39)
(1)ミドル・ショット。照明が点灯された一部をのぞいて、薄暗い闇に沈んでいる部屋の内部のショット。カウンター・キッチンの蛇口越しに、画面左に見える通用口をのぞむショット。背よりも高いガラスがはまった通用口のドア越しに、屋敷の外の様子が見えている。木の幹、ビーチ・パラソルとその下のデッキ・チェア。パラソルとチェアには、青い照明の光が揺れて反射している。通用口のガラス越しに姿を表わすピート。通用口に歩みより、まず右手を伸ばした後、左手でドアを開ける。

[ドアが開く音]
そのまま左手でドアを開け、屋敷の内部に足を踏み入れるピート。ドア・ノブのあたりを見下ろしながら、なるべく音がしないように右手でゆっくりとそれを閉める。入り口あたりの闇の中を、画面右手に向かって歩き始めるピート。それを追って右へパン。キッチンのカウンターと天井からの戸棚の間から、明るい照明に照らされた両開きの木の扉と、その両側の白い壁が見える。自分の右手、画面手前のキッチンの内部を見ながら、画面右方向に向かって歩き続けるピート。途中で正面を向き、なおも歩き続ける。彼の向こうには冷蔵庫が視界に入ってくる。冷蔵庫の横にある通路の闇に姿を消すピート。
(2)ミドル・ショット。通路の暗闇から姿を表わすピート。画面手前右方向に向かって歩きながら、自分の左手にある階段の上を見上げる。ついで、画面左のほうを見るピート。豪奢な室内を彼が歩くのに連動して、右にパンしつつ後退する視点。ピートのアップになる。彼の背後には曲線を描いて左右に分かれ二階に続く、青い絨毯が敷かれた二つの階段が見える。画面外の段差を一歩降りるピート。そこにあるものを認めて呆然とした表情を浮かべる。

具体的映像として提示されるのは、「アンディの屋敷」の内部へと侵入するピートと、その直後に彼がそこで目にするものである。これまで「バスからの下車」(1:40:46)、「フェンスの乗り越え」(1:41:18)という具合にピートはその行動をエスカレーションさせてきたが、いよいよ彼は最終的な「引き返し不能地点」への関門をくぐり抜けるのである。カット(1)にあるように、侵入口となった「裏口」は、「アリスの教唆」(1:35:20)にあるように開け放たれている(The back door'll be open)。言外の機序にしたがうなら、もちろん裏口の「鍵」を開放しておいたのは「アリス」だ。こうした「図式」によって補強されるのは、やはり”ピート=フレッドをして「最終関門」をくぐらせたのは、「彼自身のレネエ(およびその代替イメージであるアリス)に対する希求そのもの」である”ことである。

その「最終関門」をくぐり抜けるに際して……具体的にいえばカット(1)の最後からカット(2)の始めにかけて、ピートが「闇」を通過する描写があるのは非常に興味深い。この”「闇」をくぐり抜ける”という表現は、これまでも作中に何度かすでに現れている。たとえば(0:37:54)の”もう一人の自分と相対するフレッド”のショットにおいて、あるいは(1:08:03)の”自分の鏡像と対峙するピート”というショットにおいて、彼(ら)はともに”「闇」をくぐり抜けて”いる。リンチ作品において頻繁に採用される”同一モチーフ/テーマの「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」”を念頭に置くなら、現在論じているシークエンスに現れる”「闇」をくぐり抜ける”モチーフと、上に挙げた二つのショットに認められるそれは、まさに「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」の関係にあるといえるだろう。そして、その関係性の根底にあるものこそ、もうひとつの共通モチーフ/テーマである「闇」だ。

たとえば(1:14:56)に現れる「夕暮れの風景」のショットについて述べた際に触れたように、リンチ作品に登場する「闇」は、「内面」と「外界」を区切る「表層」を不可視化し、その存在を消し去るべく機能する。存在しなくなった「表層」は「内面に存在するもの」をもはや留め置くことができず、本来は隠匿されるべきだったもの……たとえば「レネエに対する希求」を「外界」に向かって解き放ってしまう。上に挙げた(0:37:54)および(1:08:03)のショットが提示する映像に則して述べるならば、「闇」をくぐり抜けたフレッド/ピートが向かい合うのは「ありのままの自己」を喚起させるもの……つまり「もう一人の自分」であり、いわば彼(ら)は自分の「内面」に隠されている「自らの本質」と対峙しているのだ。「レネエ殺害」という「ありのままの記憶」を忘却しておきたいフレッドにとって、当然ながら「ありのままの自分」もまた「心のどこかに隠匿されるべきもの」である。だが、「リンチの闇=リンチ・ブラック」によって消え去った「境界」は、もはやそれを「内面」に押しとどめる力を持たない。

ドキュメンタリー「ナイト・ピープル」のなかで、前妻のペギーが「当時住んでいた部屋をリンチが黒く塗った」ことについて言及したのを受けて、「そうすれば壁があっても見えなくなるからね」とリンチは語っている。リンチにとって「境界の消失」は、他のどの色でもなく、「黒=闇」によって引き起こされることを端的に裏書きする証言であるといえる。

これらの事項もまた、カット(2)で”ピート=フレッドが「目撃したもの」の「性格」”がどんなものであるかを補強的に示唆するものだ。そして、以降、彼が「アンディの屋敷」の内部において体験する事象群もそれと同様の「性格」を帯びている。一言でいえば、それはフレッドにとって「忘却したいもの」であり、つまりは「ありのままの記憶」につながるものだ。では、ピートはいった何を「見た」のか? 「アンディの屋敷」という「家」に隠匿され、いまや「闇」によって開放されたのは、いったいどのようなものなのか? 

(この項、続く)

2009年9月24日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (58)

海の向こうではNFLのレギュラー・シーズンが始まっておりまして、それはつまり、月曜の朝に脱力したり雀躍したりしている大山崎が拝める季節が始まっておるとゆーことであるわけです(笑)。ただし贔屓チームは戦前からすでにダメっぽい気配が漂っていて、プレシーズン最終戦では解説のジョー・サイズマンのおっちゃんから「ugly」と言われてしまう始末。ご期待どおり先週今週と「みっともない泥仕合」を繰りひろげておるわけですが、しかし、ま、それでも勝ったり負けたりするから不思議なもんだ(笑)。なんにせよ、今季初勝利おめでとーございます>わしんとん。

……と贔屓チームの勝利を寿ぎつつ続く、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は(1:40:57)から(1:41:39)をば。

アンディの屋敷 外部 夜 (1:40:57)
(1)ロング・ショット。アンディの屋敷の前。芝生が生えた斜面。木々が立ち並んでいる。アンディの家の壁が、芝生に黒々とした影を落としている。画面右の木の陰から姿を表わすピート。そのまま画面左手前の方向へと芝生の上を進む。それに連れて左にパン。アンティの屋敷の白い壁と、それにはまった金属製の格子が視界に入ってくる。格子越しに、アンディの屋敷の庭の芝生が生えた斜面と、他と並ぶ椰子の木々が見える。その向こうに、屋敷の建物が見える。青色に揺れる光は、プールの水に反射した照明の光だろうか。鉄の格子の前でピートは立ち止まり、最終的に腰から上のミドル・ショットになってパンは終了する。画面に背中を向けたまま、パンツの左前ポケットに左手を突っ込み、腕時計を取り出すピート。そのまま、腕時計に目を落とす。
(2)腕時計と、それに添えられたピートの指のクロース・アップ。斜めに写されるアナログ式の腕時計の針は、11時5分を指している。少し左にパン。
(3)ミドル・ショット。屋敷の壁の前に、画面に背を向けて立っているピート。再び左手に持った腕時計をパンツの左前ポケットに突っ込み、ちらりと左右を見てから壁の鉄格子に近寄る。鉄格子に両手を伸ばし、壁の上部に左足を掛けて、鉄格子に登るピート。それを追って上方にパン。鉄格子の上部に両手をかけ、左足からそれを乗り越えるピート。そのまま、壁の向こうに飛び降りる。それにあわせて、下方にパン。身を屈め、芝生が生えた斜面を駆け上がるピート。
(4)ミドル・ショット。画面左には椰子の木の幹。幹に沿ってゴム・パイプらしいものがくくりつけられている。画面右には長い葉の生えた枝。幹と枝の間から姿を表わすピート。幹に右手を伸ばし、立ち止まる。揺れる青い照明の光が、幹とピートを照らしている。様子を伺っているピート。彼に向かってズーム。
(5)ロング・ショット。アンディの屋敷の外観。右側は背の高い窓が三つ並んだ、六角形の建物。内部には照明が点いたままで、二階分の吹き抜けになっているのが見える。その左には二階建ての建物があり、六角形の建物とつながっている様子だ。一階の窓からは明るい光が漏れている。二階建ての建物の左半分は、木立で半ば隠されている。建物の正面には、青い光の照明に照らされたプールがあり、プール・サイドに並べられたデッキ・チェアのシルエットが見て取れる。デッキ・チェアと同様、プールの手前に植えられた植物の陰が見える。
(6)ピートのアップ。画面左には椰子の木の幹。上目遣いに屋敷のほうを伺っているピート。木の幹と彼の顔に揺れながら反射する、プールの青い照明の光。やがてピートは右下方を向き、画面右に姿を消す。

観てのとおり、具体的映像として伝えられるのは、「アリスの教唆」に従って「アンディの屋敷」に忍び込むピートの状況である。当然ながらこのシークエンスが提示する事象もまた「フレッドの意識や感情を表象するもの」であるわけだが、その観点から真っ先に指摘できるのは、”「アンディの屋敷」のフェンスを乗り越える”という「ピートの行為」そのものによって表されるものだろう。いうまでもなく、これは直前のシークエンスでの「バスを降りる行為」が一層エスカレートしたものであり、「新たな遁走」に足を踏み入れたフレッドがより深く「引き返せない地点」を越えたことの表象でもある。

だが、このシークエンスにおいてより注目しなくてはならないのは、”「アンディの屋敷」の描かれ方”あるいはそれが伝えるメゾンセンだ。建物の一部はカット(1)からすでに認められ、カット(3)においてピートがフェンスを越える際にはその上部が垣間見えるが、決定的に全貌を現すのはカット(5)においてである。

この三つのショットを通じてまず目をひくのが、その外壁に揺らめく「青い光」である。これが「赤のモチーフ」と並んでリンチ作品に繰り返し登場する「青のモチーフ」の発現であることは、改めて指摘するまでもないだろう。「ブルー・ベルベット」や「マルホランド・ドライブ」あるいは「インランド・エンパイア」などにおいて「青のモチーフ」はさまざまな形で登場し、非常に抽象的なさまざまなものを表象していた。この作品においても、「赤のモチーフ」や「青のモチーフ」は「フレッドの心理状態」と連動して登場し、それを表象するものとして姿を現す。さて、では、このシークエンスに登場する「青のモチーフ」は、フレッドのどのような心理状態を指し示しているのだろうか。

それを推察する手掛かりの一端となるのが、「青い光=青のモチーフ」の発生源である”「プール」の存在”が示唆するものだ(カット(5))。このプールは「前半部=捏造された記憶」における”「アンディの屋敷」のパーティ”のシークエンスで初めて姿を現し(0:27:19)、その後「後半部=捏造された現実」の冒頭での”「ピートの家」の裏庭”のシークエンスにおいて「子供用プール」へと無力化された(0:55:08)。この変化のプロセスが「フレッドが自らの自我を守ろうとする行為」として捉えられることに関しては、当該シークエンスについて触れた項で述べたとおりである。(0:12:25)にみられるように、フレッドの「レネエに対する疑惑/不安」は基本的に「アンディ」と関連づけられており、よって彼に付随するさまざまなイメージ(「屋敷」および「プール」もそれに含まれる)もまたそうした「感情」に紐づけられている。そうした「感情」はフレッドにとって「ありのままの記憶=脅威」であり、その意味で「真の心の声=ミステリー・マン」が姿を現すのが”「アンディの屋敷」のパーティ”であることは決して偶然ではなく、そこに「青い光を放つプール」が登場するのも必然であるといえる。そして、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」を構築した当初、フレッドがそこから「ありのままの記憶=脅威」を排除することを目的として、「アンディの屋敷のプール」を「子供用プール」という無害なイメージに矮小化する作業を必要としたことも、また当然であるといえるだろう。

しかし、カット(5)が提示するように、その無害化されたはずの「プール」がこのシークエンスでは復活してしまっている……それも「前半部=捏造された記憶」のときとまったく同じ姿で。この事象が指し示すのは、矮小化のプロセスが逆転し、いったんは無害化された「プール」が再びフレッドに「脅威」を与える存在となったことである。いや、これは話が逆だ。彼の内面で”「ありのままの記憶=現実の脅威」に対する「不安」”が蘇りつつあることを反映して、「プール」は「青い光」を伴った本来の姿を取り戻すのだ。この後、(1:49:45)までの「アンディの屋敷」の内部におけるシークエンス全体を通じて、「青い光」は基調音として繰り返し登場し、フレッドの内面において再び発生している「不安な感情」を表象することになる。

ひるがえって、「アンディの屋敷」の外観のショット(カット(5))が伝えるメゾンセンである。揺れる「青い光」に照らされた屋敷は、それ自体が揺らめく「幻影」であるかのようだ。それが表すものは、(0:33:45)に現れる”「内部」で「白い光」がはためく「フレッドの家」”のショットとの対比において、より明瞭になる。当該シークエンスの項で述べたとおりそのショットが提示していたのは、「家の内部=フレッドの内面」において外部からは伺い知れない「感情」や「意識」がうごめいていることの示唆であった。それに対し、このシークエンスにおける「青い光」は、「アンディの屋敷の外部」において発生している点で鋭い対照をみせる。本来「家の内部=内面」で存在しているはずの「光=感情」が、このシークエンスでは(「庭」という「家の領域内」とはいえ)「家」の「外部」に存在しているのだ。こうした対照から了解されるのは、そもそも「アンディの屋敷」そのものが「フレッドの内面」に内包された「幻想」であり、(それに付随する「プール」同様)彼が抱える”「不安」を指し示す「感情=抽象概念」”であることだ。本来「フレッドの内面」にのみ内在しているはずのものが、このシークエンスにおいては外在化/外界化しているのである。

と同時に、「アンディの屋敷」が、リンチ作品の共通テーマである「家」の延長線上にあることも間違いない。カット(3)では二階の窓は闇に沈んでおり、カット(5)で見てとれるように(「アンディの屋敷」は比較的大きな「窓」をもっていはいるが)その「内部」は薄暗く、その内部で何が発生しているかは明瞭ではない。その点において「アンディの屋敷」は、「フレッドの家」や「ピートの家」とならんで、やはり「人間の内面」を表象する「家」そのものなのである。

これらの諸事項が浮き彫りにするのは、「アンディの屋敷」が備えている「二重構造」である。「内部」で発生している「事象=感情や意識」を隠匿しつつ、それ自体が「感情や意識」を表象する、いわば”「家」の内部に存在する「家」”というべき存在なのだ。

そして、そうした「二重構造」が必要とされる理由は、この後「アンディの屋敷」の内部で発生するさまざまな「事象」によって、逆説的に示唆されることになる。詳細は当該シークエンスについて述べる機会に譲るが、一言でいえば、それらの事象から浮かび上がってくるのは「レネエに対してフレッドが抱いている疑惑/不安」の「本質」であり「真相」だ。たとえば(0:05:12)や(0:12:25)など、これまでも彼の「疑惑/不安」は断片的に提示されてきた。その全貌が明示にされるのが、これから始まる「アンディの屋敷」の内部を舞台にした一連のシークエンスにおいてなのである。そして、その「フレッドのレネエに対する疑惑/不安」こそが彼をして彼女を殺害させた根本要因であることを考えるなら、それを指し示す事象群が「アンディの屋敷」の壁によって隠匿されなければならない理由もまた明らかだろう。それは、遠く離れた「砂漠の小屋」に押し込められた(はずの)「真の心の声=ミステリー・マン」と同様、フレッドにとって「隠しておきたい(忘却したい)事項」なのだから。

上記のような事項を踏まえたとき、現在発生している”ピート=フレッドによる「アンディの屋敷」への侵入”という事象自体もまた、実は彼にとって非常に危険かつ皮肉な事態であることが了解されることになる。それは、あるいは「隠匿しておきたい事項」を……自らの「レネエに対する感情」を暴くことになりかねない行為である。そうした選択をせざるを得ないこと自体、フレッドがどれだけ追い詰められいるかの証左でもあるといえるわけだが、現在の第一目標が”「アリス」を確保しつつ「新たな遁走先」を手に入れることであり、そのためには「アンディから金品を奪うこと」が必須である限り、彼はこの「二律背反」的な状況からは絶対に逃れられない。この「レネエ(あるいはその代替イメージであるアリス)を希求すること」が、そのまま「ありのままの記憶=現実」に近づくことになるという「二律背反」的状況こそが、これ以降の一連のシークエンスをとおして、あるいは「ロスト・ハイウェイ」全体をとおして「フレッドの心理状態」の根底に存在するものだといえるだろう。

2009年9月16日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (57)

先日買った「アヤしいDVDプレイヤー」でありますが、とりあえず問題なく作動しております。いや、作動はしておるのですが……なんで再生時間表示がいきなり「1:00:00」から始まるのかなあ?(笑) とりあえずDVDを再生して観るぶんには問題ないので、うっちゃらかしておりますが。

……などと「科学の驚異、女体の神秘」(なんだ、そりゃ)に首を捻りつつ続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は(1:40:36)から(1:40:57)をば。

バス 外部 夜 (1:40:36)
(ディゾルヴ)
(1)ピートのアップ。走行中のバスの窓越しに、右斜め前からとらえたショット。バスの左側窓際の席に座り、窓の外を見ているピート。彼の背後、ひとつ後ろの右の列の席にはワイシャツ姿の白人男性の姿が見える。画面右には、斜めに画面を分断している車窓の白い枠。窓ガラスには、外部の街灯やネオン・サインなどの光が反射しており、走行にあわせて後ろに流れていく。
(ディゾルヴ)
(2)ピートのアップ。走行中のバスの内部。右の列、窓際の席に座り、真っ暗な外を見ているピート。彼のひとつ前の席から、右斜め前から彼をおさめるショット。彼の前には、前の席の背が一部見えている。窓ガラスには、後部に座っている白いワイシャツ姿の男の姿が写っている。速度を緩めるバス。窓枠の下部に右手を当て、通路方向に体をずらすピート。それを追って右へパン。通路に立ち上がり、画面に背を向けて昇降口に向かうピートのバスト・ショット。左の列には、ワイシャツ姿で黄色い表紙の本を読んでいる男の姿が見える。その他の乗客は見えない。そのまま昇降口のステップを降り、右手を伸ばして折りたたみ式のドアを開けるピート。それを追って少し左へパン。バスを降りるピート。彼の背後で閉まるドア。
[ドアが閉まる音]

具体的映像として提示されるとおり、ピートは「アリスの指示(Don't drive. Take the bus)」(1:35:28)にしたがい、自分の自動車あるいはバイクを使わず、バスに乗って「アンディの屋敷」へと向かう。

もちろん、このように「アリスの教唆」どおりに動くこと自体、ピート=フレッドが自らの「主体性」を放棄していることの表れであることはいうまでもない。と同時に、たとえば「ミスター・エディの自動車に乗ること」が「ミスター・エディのコントロール下におかれ、自らに関するコントロールを失うこと」を表象していたように(1:01:30)、ピートが自らの移動手段を使わずバスに乗って移動する行為そのものもまた「他人のコントロールに身を委ねる行為」として捉えられる。

それを強調するかのように、カット(1)において、「バスのガラス窓に反射する街灯やネオン・サイン」が現れる。(1:23:21)の「ピートが夜の街をバイクで疾走するショット」においても「街灯やネオン・サイン」は現れており、現在論じているシークエンスは(1:23:21)のショットの「ヴァリエーション」であると考えることが可能だ。

両ショット間で大きく異なっているのは、ピートの「スタンス」である。(1:23:21)のピートが(その契機が「アリス」に会えない焦燥感であったにせよ)「シーラに会いに行く」途上であり、主体性をもって能動的な行為をとっていたのに対し(つまり、「自身に関するコントロール」を保全していたのに対し)、カット(1)のピートはバスに「運ばれながら」(つまりは「自身に関するコントロール」を放棄し)ガラス窓越しに「外界」を見詰めるという受動的な行為しかとれないでいる。また、バイクに乗ったピートが「外界」に対し直接身を晒していたのに対し、カット(1)では「バスのガラス窓」によって「外界」から遮断され庇護されている。「ロスト・ハイウェイ」で描かれる事象をすべてフレッドの心象が反映されたものと捉えるとき、この二つのショットの対比から浮かび上がってくるピート=フレッドの「心理的変遷」は明らかだろう。

我々=受容者が検討しなくてはならないのは、なぜそのような「心理的変遷」が発生したか……言葉をかえるなら、何故ピート=フレッドはこのシークエンスにおいて「受動的態度」をとらなければならないのか、である。確かに具体的映像を観る限りでは「アンディからの金銭の強奪」は”「新たな遁走」への手段”としてアリスによって「教唆」されていたわけだが、そもそもこれ自体がフレッドの「意識」を「代弁」するものであったことは指摘するまでもない。問題はその「アリスによる代弁」そのものが、フレッドにとって「都合のよいもの」であることだ。ピート=フレッドは「アリスが発案した犯罪行為=現実への反逆」を、あくまで「アリスの教唆に従って行う」のである。

そこに伺えるのは、やはりフレッドがこれまで何度も繰り返してきた”屈折した「自我の保護」”であるといえる。フレッドは巧妙に「レネエ殺害」の要因を「彼女のコントロールの不能性」に帰し、次いでその責自体を「現実=ミスター・エディ」に転嫁した(1:31:49)。同様に、彼はこれから行おうとしている「アンディからの強奪」という名の「現実=ミスター・エディへの反逆」を、いつでも「アリスの責任」に転嫁可能であるように「抜け道」を準備するのである。このシークエンスにおいてピート=フレッドが「受動的態度」をとり、「外界」から庇護されているのは、まさしくそうしたコンテキストにおいてだ。

しかし、いずれにせよ、現在の「幻想/捏造された現実」が崩壊に向かっている以上、ピート=フレッドは「新たな遁走」を余儀なくされているといってよい。直前のシークエンスで提示されてように、「現実=ミスター・エディによる侵入」は「家の領域」にまで及び、シーラと両親も「退場」してしまった。いつの間にか「砂漠の小屋」から逃れた「ミステリー・マン」の再登場は、封印したはずの「真の心の声」の蘇生を告げている。もはや引き返すことが不可能になったピート=フレッドは、彼を庇護する「バス」から降り、「新たな遁走」を目指して「外界」へと身を晒すことになる(カット(2))。

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