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「インランド・エンパイア」を観た(1回目)

2007年8月 8日 (水)

「インランド・エンパイア」北米版DVD早売中?

IMDbの掲示板からの情報なんだけど、北米では一部店舗で「インランド・エンパイア」のDVDが早売りされている模様。

コレがゲットした方がアップした証拠写真。

inlandempire_dvd

くわー、8月14日発売だろーがー!

お盆休みは南極まで避暑旅行に行く予定なので、途中北米に立ち寄れないか航空会社に問い合わせてみたが、残念ながら飛行機の行き先変更はきかないそーだ(大ウソ)。

どうやら、とあるお店の発売日なんか気にしてないおポンチな店員が、入荷したDVDをそのまんま店頭に並べてしまったのがキッカケだったと推察される。その後、掲示板の書き込みを読んでお店に問い合わせるリンチ・ファンが全米各地で続出、まんまと店の倉庫からDVDをせしめる者がチラホラ。なかには女性店員を問いつめて、ロスト・ガールのように泣かせてしまう危ないお方も出たとか出なかったとか(笑)。

いずれにせよ、米アマゾンで予約してたヤツは(自分も含めて)怒る怒る。あんまりクヤシイから、配送方法をStandardからExpedited International Shippingに変更してしまったおバカなワタシなのであった(笑)。これでお盆明けにはゲットだ。

8/11追記: あろうことかあるまいことか、すでに都内某所で売られているという情報をいただき、自分も確保してまいりました。情報提供感謝。えーい、米アマゾンはキャンセルだ(笑)。

2007年8月 3日 (金)

「インランド・エンパイア」その後×4

東京では今週末から新宿でも上映が始まるということで、これで劇場に行きやすくなったと喜んでいる大山崎でございます。レイト・ショーとかオールナイトとかもやっていただけるともっと行きやすくなるんですが、そりゃゼータクとゆーもんですね。池袋文芸座に続いて早稲田松竹でもリンチ作品の上映があるよーで、喜ばしい限り。

んで、もちっと「インランド・エンパイア」が取り扱っている「感情移入」と「映画の魔法=映画の魔」のことなんか補足してみる。どーせなら、ちびちび書かずにまとめて書けよ、自分(笑)。でも、こーやってぐだぐだ牛が反芻するがごとく妄想をめぐらせることができるのも、リンチ作品の醍醐味ということで……はっ! あの「牛を連れたプロモ」はそーゆー意味だったのかっ?(笑)

まず、「観客の登場人物に対する感情移入」のことなのだけど、これは言い換えれば「観客が登場人物と自分を混同する=同一性を持つこと」であるといえるのではないかと。いわゆる「映画を観て、自分が登場人物になったような気分になる」ってヤツすね。

「インランド・エンパイア」におけるロスト・ガールと「47」の主演女優との混同は、こうした「混同=同一性」の「映像的示唆」であると大山崎は考えておったり。とりあえず、いまんとこ、「ロスト・ガールは不特定な観客全般の象徴である」方向で受け止めてますということで。

こうした「同一俳優による同一性の映像的示唆」あるいは「異なった俳優による不同一性の映像的示唆」は、リンチ作品における「表現主義的手法」のひとつとして、「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」ですでに表れてるですね。前者がべティとダイアンの関係、後者はフレッドとピートの関係という形で。これは、もはやリンチの常套的表現といえるんではないかと思ったり。

次に「俳優の登場人物に対する感情移入」についてですが、「俳優が登場人物と自分を混同する=同一性を持つ」というのは、すなわち「演技」のことに他ならないと思うわけですよ。すんげえ単純だし、ある意味、古典的なテーマだけど。

この関係を補足するシーンがあるとしたら、「ニッキー=スーが、映画館のスクリーンに自分のリアルタイムな姿が映し出されるのを観る」シーンについてかなーと。このシーンは、「ロスト・ガールが『47』に現れるを自分の姿をTVモニター上で観ている」シーンと対応していると考えると、単純な「演技者が感じる主体と客体の転倒」という問題にとどまらないんじゃないかとゆー気がするです。たとえば、人間の持つ「何かを他のものになぞらえる能力とはナニか」とか、「創造と受容の関係性」とかみたいなとこを含めて。

でもって、「観客の俳優個人に対する感情移入」に関しては、日本のマスコミによる裕木奈江の取り上げ方を考えるとわかりやすいんではないかと。「日本でバッシングを受けてた女優が姿を消したと思ったら、ハリウッド映画に抜擢されて……」とゆーストーリーを一所懸命作り上げようとする作業が、まさに今現在、進行中でございマスね。いや、そのこと自体の是非をいいたいわけではなく、マスコミを含めた「映画の周辺」が、「私人としての俳優」に関する「ストーリー」や「伝説」や「神話」を作るべく機能している、そして観客はそうした俳優個人の「ストーリー」や「伝説」や「神話」にも感情移入する……ということの例証なんではないかとゆーことで触れてみました。

ま、とりあえずはこんなとこかしらん。またなんか思いついたら。

2007年7月31日 (火)

「インランド・エンパイア」その後のその後のその後

うーむ、なんか公私ともになんかバタバタ気味で、なかなか「インランド・エンパイア」を観に行くタイミングがないんでやんの。やっぱ、3時間の映画ってのは、こーゆーときに効きますわね。早く座席予約ができる劇場での上映が始まってくんないかなと思ってたりするのだけども、そこまで待つんならもう少しで北米版DVDが出たりするしな。

とゆーわけで、再鑑賞に備えて「インランド・エンパイア」に関する現時点での自分の受け取り方というヤツの整理整頓追加補足をば。

「映画についての映画」であり、根底に「リンチの映画に対する極私的な思い」があるというのは何度も述べたとおり。

では、その「映画に対する極私的な思い」というのが具体的にどーゆーものかというと、メインになっているのはリンチ自身のお言葉にもある「魔法のようなメディアである」ということですね。他にもいろいろと「リンチの思い」は詰まっているけれど、メインになっているのは、やっぱ、ソレ。

じゃあ、そのリンチが言う「映画の魔法」って具体的にナニよ……っていうと、映画というメディアにまつわるモロモロの「感情移入」のことだっつーのが大山崎の「インランド・エンパイア」に関する基本的な受け取り方です、今んとこ。

このあたりはあれこれやチンタラ述べてきたリンチ自身の諸作品の特徴、つまり「表現主義的な手法で登場人物の感情を描くことを主眼としている」とゆーところから帰納法的に「リンチが感じていること」を推し量ったもんだ……という具合にご理解くだされ。あうあう、話が回りくどいのう(笑)。

んでもって、そういう視点で観ると、作中に登場する「顔に対する加工がされた登場人物」をどう受け取ればいいか、なんとなくみえてくるように思うんですね、コレが。たとえば冒頭に登場する「顔が黒くかき消された男女」は、まだ観客側の「感情移入」が完了していない段階の登場人物なんじゃないか、とか。あるいは、クライマックスでの「ファントムの崩壊」は、誰にでもなれる「演技(これも俳優による役柄への感情移入だ)」というものの「凄さ奥深さ」と「うさんくささ」の両面性を表していると読めるんではないか、とか。

ま、かように、モノゴトにはポジティヴな面とネガティヴな面の「両面」があって、リンチのいう「映画の魔法」は、そのまんま「映画の魔」に通じるんじゃないか……とか愚考してたりするわけでございマスね。

とまあ、とりあえずはンな方向に従って二回目の鑑賞をすることになると思うのでありますが、さーて、どーゆーことになりますやら。

2007年7月27日 (金)

「インランド・エンパイア」その後のその後

さて、なんだかんだでまだ劇場での再鑑賞を果たせてない「インランド・エンパイア」なんでありますが。とりあえず公開直後はそれなりに劇場も混んでるみたいなんで、様子をうかがってトライしてみるです。

ボチボチ観客の率直な感想もブログ等であがりはじめており、いろいろ興味深く拝見させていただいてたり。というわけで、自分も感じていること考えてることなど、もちっと書いてみる。

すでに何度か延べたが、「インランド・エンパイア」はリンチの非常にプライベートなところを反映した作品だと思っている。実はこういう方向性はリンチ作品すべてに共通するものだと思うが、今回は特にその色が濃い。

なぜ「共通するものがある」と考えるのかというと、「感情や主観」を描くリンチの表現主義的手法を考えるとき、そうした個々の表現の方向を決めているのは、やはりリンチ自身の実体験に基づく経験則的な部分だと思うからだ。いいかたを変えれば、それがデイヴィッド・リンチという監督の「作家性」だということになる。

こうした私的なところの反映は「イレイザーヘッド」を含めた初期の作品、たとえば「アルファベット」や「グランドマザー」に顕著で、ある意味「インランド・エンパイア」はリンチが自分の原点に立ち戻った作品だともいえるんじゃないだろうか。

そうした目でみたとき、「インランド・エンパイア」には、そうした初期作品に通じる点が他にもいくつか見つけられるように思う。そのひとつが、どこか作りにルーズなところがあるような気がすることだ。具体的な指摘はまだできないし、繰り返し観ていくうちに感想が変わる可能性はあるけれど、とりあえず初見の段階ではそういう印象を受けたのは確か。

そして、こうした初期諸作品と「インランド・エンパイア」には、製作上の共通要素がひとつある。それは、リンチが自分自身で編集作業を行っていることだ。

映像作品の製作において、編集作業が重要な要素を占めることはいうまでもない。そしてリンチ作品の編集に関するキー・パーソンといえば、長年にわたって公私共にリンチを支えてきたメアリー・スウィーニーである。

スウィーニーはもともと女優として映画界にデビューし、「Invasion of the Bee Girls 」(1973)、「Teenage Cheerleader」(1974)の2本の出演作がある。1983年以降は編集畑に転身、「ブルーベルベット」で編集の助手をつとめたのを機にリンチに出会った。「ワイルド・アット・ハート」での編集第一助手を経たあと、「ツイン・ピークス劇場版」からは独り立ちし「マルホランド・ドライブ」に至るまで、ずっとリンチ作品の編集作業に携わってきた。

……ってなことをツラツラ考えるに、この時期のリンチ作品を評価するうえで、彼女の編集も考慮に入れるべき要素のひとつなんではないかという気がすごくする。リンチのアイデアやモチーフを映像作品に「翻訳」するうえで、スウィーニーによる編集が非常に重要だったのではなかろーか……っつーことですね。

今後、再びスウィーニーがリンチ作品を編集することがあるのかどうかよくわからないけれど、これを機会に「編集」をポイントにリンチ作品を観返してみたい……と思ってたりする今日この頃なのでありました。

2007年7月22日 (日)

「インランド・エンパイア」再鑑賞のためのメモ (2)

※完全なスポイラーなんで、「インランド・エンパイア」未見の人はパスをお勧めします

ドロシー・ラムーア(Dorothy Lamour 1914/12/10~1996/9/22)

1931年度のミス・ニューオーリンズ。歌手としてデビューし、ハービー・ケイ・バンド(Herbie Kay band)のボーカリストとしてシカゴのラジオ番組などに出演する。

1933年にハリウッド進出。ノンクレジットを含めた端役をこなしたあと、女ターザンもの「ジャングルの女王 The Jungle Princess」(1936)のウラー(Ulah)役で人気を博し、セクシーなサロン(腰巻)姿が評判になる。その後「ハリケーン The Hurricane」 (1937)、「タイフーン Typhoon」(1940)、「青い水平線の彼方  Beyond the Blue Horizon 」(1942)などの南方系作品で同様の役をこなし、サロン姿は彼女のトレードマークになった。

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ビング・クロスビーと ボブ・ホープの「珍道中」シリーズにも相手役としてレギュラー出演しており、日本ではむしろこちらのほうが有名かも。戦時中はリタ・ヘイワーズやラナ・ターナーなどと並んでピンナップ・ガールとして人気に。

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いつまでもサロン姿がもてはやされることに嫌気がさし、1946年にはパラマウント宣伝部の仕切りのもと、ステージ上でサロンを焼くパフォーマンスをしたりした。また、NBCラジオの「Sealtest Variety Theater (The Dorothy Lamour Show)」 (1948-1949)のホストもつとめた。

Hollywood Walk of Fameには、彼女の名前が入った「星」が2箇所ある。ひとつはラジオでの仕事に対して(6240 Hollywood Blvd.)、もうひとつは映画での活躍に対して(6332 Hollywood Blvd.)。ニッキー=スーがドライバーを腹部に刺されるシーンが「撮影された」のは、後者のほう。

ラムーアの語録として「まともな女性としては、私は業界でいちばん幸せで、もっとも稼いでいた(I was the happiest and highest-paid straight woman in the business)」というのが残っている。サロンを焼くパフォーマンスといい、彼女の潔癖な一面がうかがえる発言といえるかもしれない。殺害現場としてラムーアの「星」が選ばれたのは、彼女がそうした面を持ちつつハリウッドで成功したことを踏まえたうえでの、娼婦(役)であるニッキー=スーとの対比を意図してなのか?

2007年7月21日 (土)

「インランド・エンパイア」再鑑賞のためのメモ (1)

※完全なスポイラーなんで、「インランド・エンパイア」未見の人はパスをお勧めします

またもやというか、やっぱりというか、「インランド・エンパイア」の作中、「サンセット大通り」からの引用がある。正確にいうと、「サンセット大通り」の作中で上映されているサイレント映画の字幕からの引用で……

「心に潜む邪悪な夢を追い出してください(Cast out this wicked dream whitch has seized my heart)」

……というのがその台詞。「インランド・エンパイア」では、ロスト・ガールによってポーランド語で語られている。

で、映画内映画であるこのサイレント映画、実はノーマ・デズモンドを演じているグロリア・スワンソンが過去に自分でプロデュースし、実際に出演した「クィーン・ケリー Queen Kelly」(1929)である。監督は、これまた実は「サンセット大通り」で執事役を演じていたエリック・フォン・シュトロハイム。

このシュトロハイムという監督は完全主義な人で、9時間を越える作品を作っては映画会社にズタボロにカットされたりしていた。最終編集権(ファイナル・カット)の問題という点で、「砂の惑星」を髣髴させる話である。また、サイレント映画であるにも関わらず、実際に音が鳴るドアベルを作らせたりして製作予算を大幅に超過し、映画会社ともめたあげく完全に監督としては干されてしまったという経歴もある。ハリウッドでの制作費集めに苦労しているリンチにとっては、他人事とはいえない話なのではないだろうか。

そんなシュトロハイムを「クィーン・ケリー」の監督にすえることに危惧を抱いた人も多かったようだが、案の定、製作途中で彼とスワンソンが衝突し、頓挫した。その後スワンソンが別の監督を立てて追加撮影を試みるも、結局未完のままで終わっている。「インランド・エンパイア」における「中断されたポーランド映画」の意味を考えるとき、「47」と「クィーン・ケリー」を思わず重ね合わせてしまいたくなるのだけど、はたして?

もうひとつ「サンセット大通り」からの引用の可能性があるのは、「金髪のウィッグをつけたサルを飼っている友人」だ。主人公がノーマ・デズモンドの邸宅を初めて訪れたとき、葬儀屋と間違えられるシーンがある。葬儀は彼女が飼っていたサルのためのもので、その後、本物の葬儀屋が現われ死んだサルを埋葬するシーンが出てくるのだが、さて、このあたりもリンチの意識(あるいは無意識)にあったのかどうか。

2007年7月20日 (金)

「インランド・エンパイア」の宣伝戦略をみる

さて、いよいよ明日公開となった「インランド・エンパイア」なんだが、どうやら配給側の宣伝戦略は「わけがわからない映画」であることを強調するという方向であるようだ。これだけ配給側が「わかりませんよ」と連呼している作品もちょっと記憶になくって(笑)、この戦略が初期動員にどう結びつくのか非常に興味深いものがあったりする……いや、決して嫌味とかではなく、マジで。

前々からのリンチ・ファンはほっといても観るからどーでもいいとして(笑)、さんざん「わけわからん」と聞かされたうえに上映時間が3時間もあると知った「ファンではない観客」が、どれくらいこの作品を観てみようと思うか。単純に考えるといろいろな点で興行的に不利なのは間違いなくって、実際IMDbによるとアメリカ国内における累計興行収益は75万ドル程度、海外の累計が140万ドル弱で、正直いって金額的にはたいしたことがないというのが現実だ。なかなか他の映画との比較は難しいが、上映館の絶対数が少ないという条件を考えると、まあ、予想された範疇だといえるだろう。

などという前提を踏まえつつ、いまこの現在の日本において、リンチ作品のような系統の「わからなさ」がどのくらいのマスで商品価値を持つのか。その商品価値は、どんな層にどれくらいの広がりを持つのか。作品を観た観客のうち、どれだけのパーセンテージが「わからない」ことに満足しつつ家に帰るのか。消費者動向の観点からみたとき、その結果から何か読み取れるものがあるのかどうか。いろいろな点で面白そうな材料を提供してくれそうな気がする。

過去、士郎正宗の諸作品に端を発する対マニア向け戦略としての「わかりにくさ」というのはあった。そもそもリンチ自身の「ツイン・ピークス」自体、「ローラ殺しの犯人探し」というミステリーのフォーマットをフックとして使いつつ、その内容物には「得体の知れないもの」が詰め込まれていた。果たしてこういう戦略が、現在でも劇場用映画作品に対して通用するのだろうか。

ただし、本気で興収を考えたとき、現状の戦略として弱いかなと感じるのはリピーター客へのケアだ。とりあえず現状で確認できているのは、恵比寿ガーデンシネマでのリーピーター客先着100名に対するポスターのプレゼントだけで、もちっとコア層に向けたプレミア感がある仕掛けをしてもいいような気もする。さすがにアメリカのようにリンチ自身が来場して上映後の質疑応答にこたえるっつーのは望めないだろうが、たとえば半券10枚一口で応募すると抽選で1名様にリンチのドローイングが当たったりなんかしたら、自分としては親戚一同引き連れてリピーターになったりするかもしれない(笑)。というわけで、できたら今からでも考えてみてください(笑)。

2007年7月10日 (火)

「インランド・エンパイア」伊版DVD!

IMDbの掲示板で拾ったネタ。

経緯がはっきりしないのだが、どうやら 「インランド・エンパイア」のイタリア版DVDが7月4日に発売されたらしい。こちらがそのパッケージおよび仕様。

inland_italy

  FORMATO VIDEO: 1.85:1  4/3 letter box, Colore
  LINGUA e AUDIO:  Dolby Digital 2.0 italiano e originale, Dolby Digital 5.1 italiano
  SOTTOTITOLI: italiano
  CONTENUTI SPECIALI: Gianni Canova racconta “Inland Empire”; trailer
  CODICE AREA: 2
  DATA  USCITA DVD: 04/07/2007

うーん、音声および字幕が「イタリア語」しかないってのがネックか? というか、買う気か?(笑) なんか北米版とは特典の内容も違うけど、どーゆーことだかワタシにはわかりませーん。

なんで北米より先にイタリアで出ちゃうのかもよくわからんが、これもパッケに鎮座まします「ベネツィア国際映画祭名誉金獅子賞受賞」(早口言葉か?)の御威光なんスかね?(笑)

ちなみに北米版の8月14日を皮切りに、イギリス版は8月20日、ドイツ版は11月7日というのが現在わかっている各国のDVD発売予定日。Studio Canalのお膝元であるフランス版の発売予定がまだ出てないのが、これまた謎といえば謎。

7/11追記: dugpa.comの掲示板をみてたら、既に伊版DVDを入手されている方がおりました。ス、スバヤイ……。

7/12追記: 伊版DVDには英語音声が入ってるという情報アリ。でもって、米アマゾンから、北米版DVDの発送が遅れるという連絡がきやがりました。こりゃ、伊版DVDにGO!か?

2007年7月 9日 (月)

「インランド・エンパイア」と「Axxon N.」と

デイヴィッド・リンチが公式サイトを立ち上げて、「Dumb Land」や「Rabbits」などの作品を有料で公開し始めたころ、2002年3月1日付のこんな記事が流れた。リンチに対するインタビューをもとに構成された記事で、その当時自分も目にしたことがあったが細部は忘れていた。が、「インランド・エンパイア」を観た後もう一度読み返してみると、いろいろと示唆に富んだ受け答えをリンチはしている。

もっとも興味深いのは記事の最終部分にあるリンチのコメントで、「公式サイトで配信している作品をTV局に売り込むつもりはあるのか」という記者の質問に対して答えたものだ。

----「これがTVだ。(インターネットは)新しいTVだ。(中略)これらの作品は、TVで観るのもインターネットで観るのも、同じようなものだ。だったら、なぜTVにこだわる必要がある? TVは死んだ」

……いきなりの死亡宣告であるが(笑)、「マルホランド・ドライブ」を米ABCに蹴飛ばされた怒りが未だに消えていないことがうかがえ、その点でも興味深い。だが、もっと興味深いのは、この発言を読む限り、「Dumb Land」や「Rabbits」などの配信用の作品を、リンチは「TV番組」という意識で作っているともとれることだ。この2作品が何話にかわたる連続作品として作られていることも、それを補強する状況証拠といえる。

となると、結局単独作品としては完成せず公式サイトでの公開には至らなかったものの、これまた全9話となる予定だった「Axxon N.」も、おそらくはTV番組として意識された作品になっていた可能性が高い……と考えるのがとりあえずはストレートだ。「Dumb Land」がTVアニメ、「Rabbits」がシットコムとなると、殺人がからむ話といわれていた「Axxon N.」は犯罪物TVドラマという位置付けだったのだろうか(そういえば、リンチの公式サイトには「天気予報番組」まであるのだった。リンチは本気で、自分のサイトを「自前のTV局」と考えているみたいだ)。

もしそうだったとすると、「インランド・エンパイア」のなかで、あるときはレンガの壁に書かれ、またあるときは鉄の扉に書かれている「Axxon N.」という文字は、「TVによる映画に対する侵食」の象徴であるように思えてくる。「Rabbits」の「インランド・エンパイア」内における位置付けについては、「インランド・エンパイア」を観た (1)で述べた。繰り返し登場する「Axxon N.」の文字も、やはり「Rabbits」と同じく、変容してしまった我々の「映画受容の形」に対するリンチの思いの表れであるのかもしれない。

「インランド・エンパイア」内における位置づけとしてもうひとつの可能性を示唆するのは、「Axxon N.」に続けてアナウンスされる「the longest running radio play in history」というサブタイトルだ。つまり「Axxon N.」が、むしろ逆に、いまや映像ドラマに駆逐されてフェイドアウトしてしまっているラジオ・ドラマの痕跡に対するオマージュなのではないかという見方である。そう考えると、冒頭の顔をかき消された男女の映像は、映像に比べて感情移入装置として制約があるラジオ・ドラマに対する映像的オマージュとも読み取れる。この視点に立つならば、「インランド・エンパイア」は、映画・ラジオ・TVという三つのメディアに関して言及した作品になるといえるだろう。

それにしても、いずれにせよ近い将来、我々はこの「インランド・エンパイア」という作品をおそらく、いや確実に、DVD再生という手段を用いモニターを通して観るはずだ。そう思うと、なんだか一種複雑な心境になってしまう自分がいたりするのがナントモだ。

2007年6月29日 (金)

「インランド・エンパイア」その後(米国編)

さて「インランド・エンパイア」の公開まで1カ月を切り、劇場で再鑑賞するのを心待ちにしている今日この頃。もう一回観れば、ころっと意見が変わったりするかもしれんのだが、そこはそれ(笑)。

当然ながら米国ではすでに公開済みなわけで、IMDbを含めた各種関連掲示板では活発な意見交換がされている。やっぱ、いちばん目立つのは「ワタシは一体全体ナニを観たのか」という茫然自失系の書き込みなのだが、そこもそれ(笑)。

面白かったのは、今敏の「パーフェクト・ブルー」との類似点を挙げた意見があったことだ。いや、別に意見そのものが面白いわけではなく、そこまで手を出している向こうのリンチ・ファンがいるというのが面白かった。「映像における(作品内)非現実の描かれ方」の事例収集に自分自身も凝ったことがあって、「パーフェクト・ブルー」も同じような嗜好のあちらのファンの網に引っかかったんではないかと想像する。

物はついでといろいろ検索してみたら、どうやら向こうの高校生とおぼしき人物が「パーフェクト・ブルー」の評を書いているのを見つけてしまったりするのだな。本人がいたくお気に入りの様子なのはいいのだけど(いいのか?)、近所のレンタル・ヴィデオ屋で借りたみたいで、ご丁寧にその店名まで書いてあるのはいかがなものか。店主が捕まりゃせんか(笑)。

なかには三池崇史の「極道恐怖大劇場 牛頭」との比較をしている意見もあったりで、あのね、アンタら、ナニを観とるのかね(笑)。つか、どこで観たんだ、ンなもん……と思って調べたら、フツーに米アマゾンでDVDを売ってたりするのな(なおかつ国内版より安く)。さすがにこの比較には「そりゃ順番が逆じゃないか?」と言わざるを得ないが、文化の伝播・混合というのはそうしたもんなのかもしれない、きっと、多分、おそらく。アッチにもそーゆーのが好きなヤツがいるのだなと思うと、なんとなく心が温まったような気がしませんか? ……しないか(笑)。

いずれにせよ、リンチ作品を「(作品内の)現実と非現実」の二元論で論じるのは自分のスタンスではないので、こういう作品対比には与しないのだけど。

2007年6月22日 (金)

「インランド・エンパイア」その後

外部記憶装置として頼みの綱だった某氏は、体調不良で「インランド・エンパイア」の試写会に行けなかった様子だ。うむ、残念無念。つか、他人の記憶に頼るなってば(笑)。

ちょいちょいと「インランド・エンパイア」の試写関連の記事を検索したりしてるんだけど、まだ日本では一般公開されてない映画のこととて、ネタバレをおそれて抑えた書き方をしてる向きも多いようだ。内容に踏み込んだ記事が出てくるのはまだ先のことでしょ、海外でもそうだったし……とわかってはいるものの、やっぱ一部を除いて「紋切り型」の反応が目立つのは、ちょっとサミシイ。

そうした「紋切り型」の記事のなかで個人的に引っ掛かりを覚えるのは、「あーだこーだと悩む観客をリンチは嗤っている」という言い回しをしている文章だ。もちろん本気でそう考えてるわけではなく、リンチ作品の難解さを表すための単なる「修辞的表現」なのは理解できる(だよね?)。にしても不必要な誤解を招くおそれのある表現であって、とり方によっちゃリンチに対して非常に失礼な言い様であるように思うのだが、間違っているだろうか?

念のため、あくまで念のため言っておくと、自分が目にした範囲のインタビューとかトークとか本人が書いた文章から推測するかぎりでは、デイヴィッド・リンチは「観客を嗤う」というようなスタンスの人ではない。少なくとも、よく知られる形で、表立ってそれを裏付けるものは何もない。これがテリー・ギリアムあたりだと、別な意味でそうかなと思ってしまうけど(笑)。

何がなんでもリスペクトしなきゃならんと言い張るつもりはないし、あんまり堅苦しく考えても仕方のないことなのかもしれない。が、ことリンチに関するかぎり、「リンチという個人」についてのこうした不確かな「言説」が一人歩きしているケースが多いと感じるのは、勝手な思い込みだろうか? あるいは「誤った作家主義」の典型例に過ぎないのかもしれないけど、そんなのでお茶を濁されるよりは、たとえ否定的な意見であろうと作品に対する各人の考えを明確にしてもらったほうがナンボかマシだ。

単なる観客ならいざしらず、映画に関する文筆を生業にしている者であるならば、そうした「常套句的な修辞表現」や「根拠のない言説」に頼らないと文章を書けない自分を省みるべきなんではないか……と、無責任に書きたいことを書き殴る「単なる観客」である自分を棚に上げて、キツいことをツブやいてみたりなんかする今日この頃なのであった(笑)。

追記: 「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ 改訂増補版」からのリンチ自身の発言を引いて結論にしておく。「あなたは観客を悩ませたり、煙に巻いて楽しんでいるのではないかなと思うことがあるのですが」というインタビュアーの問いに答えたものだ。

「いやいや、観客に対してそんなことはしない。ただ、アイデアが出てきたときには、それが一番生きる形で表現しようとしているだけだ」

2007年6月14日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (6)

さて、「インランド・エンパイア」を初めて観てから一週間足らず、どんどん細部を忘れつつある今日この頃(笑)。やっぱ、非ナラティヴな作品は、作品内の事象を時系列的な因果律をもって理解できない分、記憶から逃れるスピードが早い。それも見越して備忘録がわりにこーゆーブログを立ち上げてみたっつー部分もあるんだが(笑)、最近「物忘れがヒドイ」とお嘆きのアナタ、記憶力のテストとして「インランド・エンパイア」鑑賞っつのはいかがですかダメですかそうですか。

いまさらながら思うのは、人間はまとまった思考を試みるときにいかに言語に頼っているか……ということで、非ナラティヴな作品について言語を使って語ることは非常に難しい。当然ながら非ナラティヴなものを理解すること自体がそもそも困難をともなううえに、たとえ理解してもそれを言語に置き換える作業がまた困難。もちろん完全に言語に置換可能なわけもなく、あっちの方向こっちの方角と、言葉に言葉を重ねてみてもなかなか本質論にならない。

ただ、一口に非ナラティヴな作品といってもその方法論はいくつもあって、たとえば「アンダルシアの犬」のようなシュルレアリスムの手法による作品とリンチ作品とでは、明確に違う。基本的にシュルレアリスムのエクリチュ-ル・オートマティック(自動記述)とかデペイズマンとかいった方法論の眼目は「製作者の主観排除」とその結果もたらされるイメージの衝突にあるのであって、リンチのように最終的に描きたいことが「主観そのもの」でありそれを意図して作品を作っている表現主義な人とは、いわば対極にあるはずだ。

ま、そんなこんなでそのうち詳しく述べていくつもりでいるのだけれど、正直言って、リンチ作品に対して、たとえば「謎解き」とか「解読」とかいう言葉が使われているのを目にすると非常に違和感を感じる。かつ、悲しいことにそういうお題目のもとで展開されているのは、ほとんど例外なく本質論からかけ離れた「表層的な言及」や「根拠の乏しい印象批評」でしかないのが現状である。リンチ作品が備える「抽象性」や独自の「表現主義的な映像」は確かに簡単な理解を許さないが、そこには「謎」など存在しないし、読み解かれるような「暗号」もない。存在するのはあくまで創作者による「表現」とそれを受容する者の 「解釈」 なんであって、それはリンチ作品だけでなく、たとえばブロック・バスターの超娯楽大作に関しても同じように成立するものだ。それも多岐にわたる方向から、多様な視点でもって。

早い話が「フィルム・ノワール」なんてのもその典型で、勝手にフランス人観客が後付で言い出したことであって、アメリカ側のそうした映画の作り手側はそんなジャンルなど意識しておらず、実は存在しなかったのだ……という言い方だってできるわけで(というか、マジでそういう意見もあるらしい)、結局は誤解も理解のうちってことで、 誤読したもん勝ちなのだ(笑)。てな理念のもとに、大山崎としては、(リンチ作品に限らず)あくまで作品に対する個人的な「解釈」あるいは「誤読」しかするつもりはありませンので、そこんとこ、ひとつ、よろしくということで(笑)。

2007年6月11日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (5)

「インランド・エンパイア」に関して各所で評判になっているのが、リンチがフィルム撮影を離れてデジタル・ヴィデオを使ったことと、あらかじめ完成したシナリオを用意せずに断片的に撮影を行ったことだ。個人的には、実はリンチにとって、これがもっとも理想的な映画製作の方法なのではないかという気がする。

思うのだが、リンチにとって、まず大事なのは各シーンの断片的なアイデアやモチーフなのではないだろうか。そして、その個々のアイデアをなんらかの共通する横糸で縫い合わせてつなげていくことで、ひとつの作品としてまとめあげていると思われる節がある。

たとえば「イレイザーヘッド」や「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といった非ナラティヴな作品においては、その横糸となるものは主人公の感情だった。「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」といったナラティヴな作品においては、横糸は(とりあえずは)ストーリー・ラインだ。

ひょっとしたら、リンチがもっとも時間をかけているのは、こうした横糸を見つける作業なんではないだろうか。特に、ナラティヴな方向の横糸を見つけるのが大いに苦手であろうことは、なんとなく予想がつく。ナラティヴであるということは大抵の場合「あらすじ」に変換可能だということだし、それは乱暴にいえば言語的であるということだ。作品を観るかぎり、リンチはどう考えても言語的な作家ではない。「マルホランド・ドライブ」でみせたような、「キャンセルされたTVドラマのパイロット・フィルム」という巨大なフラグメントを利用した荒業は、ナラティヴな方向の横糸では不可能だっただろう。

おそらくこれから、リンチは浮かんだアイデアを無形のまま残さず、可能なかぎりDV撮影による映像素材に変換するという方向に進むはずだ。そして、自分の公式サイトで発表できる素材は発表しつつ、なんらかの横糸を思いついた時点で一本の作品にまとめる……という方法論をとると思う。

同時に、ナラティヴな方向に作品をまとめることも、多分、なくなる。もともと表現主義的な抽象絵画からスタートし、「時間経過とともに変化する絵」を目指して映画作製に手を染めたリンチにとって、それがもっとも自然な形だと思うからだ。

2007年6月10日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (4)

----「映画は魔法のようなメディアだし、自分はロサンジェルスが好きだし、その理念が好きだ。自分は映画の黄金期やハリウッドの全盛期を生きられなかったからだ。『マルホランド・ドライブ』も『インランド・エンパイア』も、そうしたものに関する映画だ」

上記のリンチのコメントにあるとおり、「インランド・エンパイア」は、映画全体に対する(とりわけ変容してしまったハリウッド映画に対する)リンチ本人の「苦悩」「希望」 とに満ちている。「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (1)で述べたように、この作品のキーとなるのはリンチ自身が抱く映画に対する感情であり、その点では「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」よりもむしろ、主人公ヘンリーとリンチ自身が等身大だった「イレイザーヘッド」に近い作品といえる。いや、ひょっとしたら、より初期の作品である「アルファベット」や「グランドマザー」のほうがもっと近いのかもしれない。

実は、「インランド・エンパイア」を観たあと、個人的に真っ先に連想したのがフェリーニの「インテルビスタ」だった。 「インランド・エンパイア」と同じく映画についての映画であり、 イタリア映画の変容を描いたといえるこの作品も、虚構と現実が入り乱れ、作品内作品が登場する。そこに描かれているのは、やはり「苦渋」と「希望」がないまぜになったフェリーニの 「映画に対する思い」であり、「映画とスター」がもたらす「魔法」だ。

実際にリンチが「インテルビスタ」を意識したかどうかは知らないし、そんなことはどうでもいい。個々の作品の共通項はともかく、この二人の監督を作家主義的に比較することが、個人的にはあまり意味のあることとも思えない。変容し続ける映画とそれを取り巻く諸々が、映画作品として残されていくことこそが貴重なのだろう。

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (3)

ここからは戯言に近いのだけど、もうひとつポイントとして挙げておきたいのが、自由化以降のポーランドの映画産業の状況だ。体制崩壊以後、旧共産圏の映画産業は「政府」というスポンサーを失い、大打撃を受けた。詳しい状況は以下の記事のとおり。

【新ポーランド考】(7)民主化が映画界を低迷させた

映画復興に向けて動き出したポーランドの国際映画祭にリンチが招聘されたことがあるのは周知のとおりで、リンチが上記の記事に書かれているようなポーランドの映画産業が置かれている状況を知っているのは、まず間違いない。

作中に登場する製作が中断されたポーランド映画は、つまりは 「ポーランド映画産業の状況」の象徴ではないだろうか? そして、その中断されたポーランド映画のリメイクを作ろうとするハリウッドは……あ、そのまんまだ(笑)。

だが、リンチ自身は長らくハリウッドの資本で映画を撮っていない。近作はすべてフランス資本をメインにしたものだ。ハリウッドの住人でありながらハリウッド資本で作品を作らせてもらえないリンチにとって、ポーランド映画産業の状況は他人事ではなかったハズだ。

となると、「インランド・エンパイア」に登場する「呪われたポーランド映画」は、実は 「映画というメディアにかけられた呪い」のリンチ流の言い換えであるような気がしてくる。その「呪い」とは、ベラ・バラージュが「視覚的人間」で指摘しているように、映画がその誕生のときからずっといつも「産業化されたもの」 であったということだ。

小説や絵画にくらべて多額の製作資金を必要とし、多くの人間の共同作業によって作られる映画は、よっぽどの例外を除いて常に「投資と回収」の対象であり続けてきた。そのための制約や限界を、リンチは(いや、おそらくは映画監督のほどんど全員が)身をもって、イヤというほど知っている。「インランド・エンパイア」にはハリー・ディーン・スタントン演じる金の無心をを繰り返す助監督が登場するが、映画産業のある一面の象徴として、非常にリアルというしかない(笑)。

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (2)

だが、作品全体としてリンチが主に描いているのは、「映画」が人間の「感情移入」を喚起する点で、他のどのメディアよりも優秀な「装置」であるということだ。つまり、「インランド・エンパイア」は「感情移入装置としての映画」を描いた映画なのである。

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前述のロスト・ガールとニッキーの抱擁は、「観客の作品(あるいは登場人物)に対する感情移入」を表すモチーフに他ならない。サクッといってしまうが、キャッチ・コピーにある「a woman in trouble」のwomanとは、まず第一義的には涙を流しつつTVモニターを見つめるロスト・ガールのことなんではないだろうか。ひょっとしたら、われわれ「観客」にとって最もわかりやすいアプローチ方法は、(われわれと同じ立場である)ロスト・ガールの目を通して「インランド・エンパイア」を観ることなのかもしれない。

また、執拗に繰り返されるニッキーの「アイデンティティ・クライシス」を表すモチーフを通じて描かれているのは、 「俳優(ニッキー)の登場人物(スーザン)に対する感情移入」「俳優の作品に対する感情移入」 だ。「入魂の演技」ってな言葉があるけど、「暗い明日の空の上で」での役柄と自分自身の混同に留まらず、元ネタである「47」の世界にまで踏み込んでしまうニッキーの姿は、それを端的に表しているような気がする。

「インランド・エンパイア」はそれに留まらず、「観客の俳優個人に対する感情移入」をも描いている。つまり、個々の「映画作品」そのものというレベルを越え、スキャンダルを含めた俳優の私生活に関するゴシップ報道や情報・伝説・神話その他の有象無象を全部ひっくるめつつ、映画業界全体が(とりわけハリウッドが)ひとつの大きな「感情移入装置」として機能しているということだ。「永遠の躁状態」と「その陰にひそむ闇」を原動力として機能し続けるハリウッド……「サルを飼う金髪のウィッグを着けた友人(という伝説)」も登場するエンディングのドンチャン騒ぎは、リンチの目に映ったハリウッドの姿なのだろうか?

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (1)

デイヴィッド・リンチの新作「インランド・エンパイア」を試写で観てきた。一言でいうと「マルホランド・ドライブ」以上に「映画についての映画」だった。

リンチ独特の表現主義的手法は「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」と変わらず、 非ナラティヴな作品であることも変わらない。だが、若干、方向性が違う。最大の違いとして挙げられるのは、前二作は主人公の感情をキーにした理解が可能だったが、「インランド・エンパイア」は(一応の主人公と目される)ニッキーの感情をキーにしただけでは理解できないことだ。

何故かというと、この映画は、ニッキーをはじめとする映画の作り手側だけでなく、たとえばロスト・ガールという観客の映画受容の形までも含めた、映画に関する多彩な局面について描いているからだ。だから、もし、あえてこの作品全体のキーになるものを挙げるとすれば、それは映画に対してリンチが抱いている感情なんじゃないかと思う。

そのひとつの表れが前述のロスト・ガールの映画受容の形で、彼女は映画館で映画を観ていない。彼女が観ているのはザッピングされるTVモニターに映し出された映像だ。そして、そこに映される映画は、同じくモニターに映し出される「Rabbits」の映像と等価なものとして、まったくの地続き(部屋続き)に扱われている。

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「Rabbits」が、アメリカ のいわゆるシットコムと呼ばれる形式のTVコメディに対するオマージュもしくはそのパロディであることは明白だ。 もともとリンチの公式サイトでは全9話のシリーズとして公開されており、 その点でも完全にシットコムのフォーマットを踏襲しているといえる。そもそも、リンチのシットコム(あるいはそのパロディ) に対するこだわりは、「オン・ジ・エアー」をみてもすでに明らかだろう。

映画が映画館の興行収入だけでなく、DVD等のソフトの売り上げやTV等の放映権料も見込んで作られるようになって久しい。結果として映画は、映画館のスクリーンでなく家庭でモニターの画面を通して、 TVドラマなどと同列に視聴されることが当たり前になってしまった。この作品でリンチが「Rabbits」の映像をこういう形で使ったのは、そうした現状の示唆を意図してるんじゃないだろうか。

そう考えると、ロスト・ガールは、変容してしまった映画受容の形に対するリンチの「苦渋」 の象徴のように思えてくる。そして、ニッキーとロスト・ガールが抱擁をかわすシーンは、たとえ受容の形は変わっても、やはり観客の心を揺さぶり得る映画というものに対するリンチの「希望」 、そして「観客への信頼」の表れであるように読める。

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