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「インランド・エンパイア」を観た(1回目)

2007年8月 8日 (水)

「インランド・エンパイア」北米版DVD早売中?

IMDbの掲示板からの情報なんだけど、北米では一部店舗で「インランド・エンパイア」のDVDが早売りされている模様。

コレがゲットした方がアップした証拠写真。

inlandempire_dvd

くわー、8月14日発売だろーがー!

お盆休みは南極まで避暑旅行に行く予定なので、途中北米に立ち寄れないか航空会社に問い合わせてみたが、残念ながら飛行機の行き先変更はきかないそーだ(大ウソ)。

どうやら、とあるお店の発売日なんか気にしてないおポンチな店員が、入荷したDVDをそのまんま店頭に並べてしまったのがキッカケだったと推察される。その後、掲示板の書き込みを読んでお店に問い合わせるリンチ・ファンが全米各地で続出、まんまと店の倉庫からDVDをせしめる者がチラホラ。なかには女性店員を問いつめて、ロスト・ガールのように泣かせてしまう危ないお方も出たとか出なかったとか(笑)。

いずれにせよ、米アマゾンで予約してたヤツは(自分も含めて)怒る怒る。あんまりクヤシイから、配送方法をStandardからExpedited International Shippingに変更してしまったおバカなワタシなのであった(笑)。これでお盆明けにはゲットだ。

8/11追記: あろうことかあるまいことか、すでに都内某所で売られているという情報をいただき、自分も確保してまいりました。情報提供感謝。えーい、米アマゾンはキャンセルだ(笑)。

2007年8月 3日 (金)

「インランド・エンパイア」その後×4

東京では今週末から新宿でも上映が始まるということで、これで劇場に行きやすくなったと喜んでいる大山崎でございます。レイト・ショーとかオールナイトとかもやっていただけるともっと行きやすくなるんですが、そりゃゼータクとゆーもんですね。池袋文芸座に続いて早稲田松竹でもリンチ作品の上映があるよーで、喜ばしい限り。

んで、もちっと「インランド・エンパイア」が取り扱っている「感情移入」と「映画の魔法=映画の魔」のことなんか補足してみる。どーせなら、ちびちび書かずにまとめて書けよ、自分(笑)。でも、こーやってぐだぐだ牛が反芻するがごとく妄想をめぐらせることができるのも、リンチ作品の醍醐味ということで……はっ! あの「牛を連れたプロモ」はそーゆー意味だったのかっ?(笑)

まず、「観客の登場人物に対する感情移入」のことなのだけど、これは言い換えれば「観客が登場人物と自分を混同する=同一性を持つこと」であるといえるのではないかと。いわゆる「映画を観て、自分が登場人物になったような気分になる」ってヤツすね。

「インランド・エンパイア」におけるロスト・ガールと「47」の主演女優との混同は、こうした「混同=同一性」の「映像的示唆」であると大山崎は考えておったり。とりあえず、いまんとこ、「ロスト・ガールは不特定な観客全般の象徴である」方向で受け止めてますということで。

こうした「同一俳優による同一性の映像的示唆」あるいは「異なった俳優による不同一性の映像的示唆」は、リンチ作品における「表現主義的手法」のひとつとして、「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」ですでに表れてるですね。前者がべティとダイアンの関係、後者はフレッドとピートの関係という形で。これは、もはやリンチの常套的表現といえるんではないかと思ったり。

次に「俳優の登場人物に対する感情移入」についてですが、「俳優が登場人物と自分を混同する=同一性を持つ」というのは、すなわち「演技」のことに他ならないと思うわけですよ。すんげえ単純だし、ある意味、古典的なテーマだけど。

この関係を補足するシーンがあるとしたら、「ニッキー=スーが、映画館のスクリーンに自分のリアルタイムな姿が映し出されるのを観る」シーンについてかなーと。このシーンは、「ロスト・ガールが『47』に現れるを自分の姿をTVモニター上で観ている」シーンと対応していると考えると、単純な「演技者が感じる主体と客体の転倒」という問題にとどまらないんじゃないかとゆー気がするです。たとえば、人間の持つ「何かを他のものになぞらえる能力とはナニか」とか、「創造と受容の関係性」とかみたいなとこを含めて。

でもって、「観客の俳優個人に対する感情移入」に関しては、日本のマスコミによる裕木奈江の取り上げ方を考えるとわかりやすいんではないかと。「日本でバッシングを受けてた女優が姿を消したと思ったら、ハリウッド映画に抜擢されて……」とゆーストーリーを一所懸命作り上げようとする作業が、まさに今現在、進行中でございマスね。いや、そのこと自体の是非をいいたいわけではなく、マスコミを含めた「映画の周辺」が、「私人としての俳優」に関する「ストーリー」や「伝説」や「神話」を作るべく機能している、そして観客はそうした俳優個人の「ストーリー」や「伝説」や「神話」にも感情移入する……ということの例証なんではないかとゆーことで触れてみました。

ま、とりあえずはこんなとこかしらん。またなんか思いついたら。

2007年7月31日 (火)

「インランド・エンパイア」その後のその後のその後

うーむ、なんか公私ともになんかバタバタ気味で、なかなか「インランド・エンパイア」を観に行くタイミングがないんでやんの。やっぱ、3時間の映画ってのは、こーゆーときに効きますわね。早く座席予約ができる劇場での上映が始まってくんないかなと思ってたりするのだけども、そこまで待つんならもう少しで北米版DVDが出たりするしな。

とゆーわけで、再鑑賞に備えて「インランド・エンパイア」に関する現時点での自分の受け取り方というヤツの整理整頓追加補足をば。

「映画についての映画」であり、根底に「リンチの映画に対する極私的な思い」があるというのは何度も述べたとおり。

では、その「映画に対する極私的な思い」というのが具体的にどーゆーものかというと、メインになっているのはリンチ自身のお言葉にもある「魔法のようなメディアである」ということですね。他にもいろいろと「リンチの思い」は詰まっているけれど、メインになっているのは、やっぱ、ソレ。

じゃあ、そのリンチが言う「映画の魔法」って具体的にナニよ……っていうと、映画というメディアにまつわるモロモロの「感情移入」のことだっつーのが大山崎の「インランド・エンパイア」に関する基本的な受け取り方です、今んとこ。

このあたりはあれこれやチンタラ述べてきたリンチ自身の諸作品の特徴、つまり「表現主義的な手法で登場人物の感情を描くことを主眼としている」とゆーところから帰納法的に「リンチが感じていること」を推し量ったもんだ……という具合にご理解くだされ。あうあう、話が回りくどいのう(笑)。

んでもって、そういう視点で観ると、作中に登場する「顔に対する加工がされた登場人物」をどう受け取ればいいか、なんとなくみえてくるように思うんですね、コレが。たとえば冒頭に登場する「顔が黒くかき消された男女」は、まだ観客側の「感情移入」が完了していない段階の登場人物なんじゃないか、とか。あるいは、クライマックスでの「ファントムの崩壊」は、誰にでもなれる「演技(これも俳優による役柄への感情移入だ)」というものの「凄さ奥深さ」と「うさんくささ」の両面性を表していると読めるんではないか、とか。

ま、かように、モノゴトにはポジティヴな面とネガティヴな面の「両面」があって、リンチのいう「映画の魔法」は、そのまんま「映画の魔」に通じるんじゃないか……とか愚考してたりするわけでございマスね。

とまあ、とりあえずはンな方向に従って二回目の鑑賞をすることになると思うのでありますが、さーて、どーゆーことになりますやら。

2007年7月27日 (金)

「インランド・エンパイア」その後のその後

さて、なんだかんだでまだ劇場での再鑑賞を果たせてない「インランド・エンパイア」なんでありますが。とりあえず公開直後はそれなりに劇場も混んでるみたいなんで、様子をうかがってトライしてみるです。

ボチボチ観客の率直な感想もブログ等であがりはじめており、いろいろ興味深く拝見させていただいてたり。というわけで、自分も感じていること考えてることなど、もちっと書いてみる。

すでに何度か延べたが、「インランド・エンパイア」はリンチの非常にプライベートなところを反映した作品だと思っている。実はこういう方向性はリンチ作品すべてに共通するものだと思うが、今回は特にその色が濃い。

なぜ「共通するものがある」と考えるのかというと、「感情や主観」を描くリンチの表現主義的手法を考えるとき、そうした個々の表現の方向を決めているのは、やはりリンチ自身の実体験に基づく経験則的な部分だと思うからだ。いいかたを変えれば、それがデイヴィッド・リンチという監督の「作家性」だということになる。

こうした私的なところの反映は「イレイザーヘッド」を含めた初期の作品、たとえば「アルファベット」や「グランドマザー」に顕著で、ある意味「インランド・エンパイア」はリンチが自分の原点に立ち戻った作品だともいえるんじゃないだろうか。

そうした目でみたとき、「インランド・エンパイア」には、そうした初期作品に通じる点が他にもいくつか見つけられるように思う。そのひとつが、どこか作りにルーズなところがあるような気がすることだ。具体的な指摘はまだできないし、繰り返し観ていくうちに感想が変わる可能性はあるけれど、とりあえず初見の段階ではそういう印象を受けたのは確か。

そして、こうした初期諸作品と「インランド・エンパイア」には、製作上の共通要素がひとつある。それは、リンチが自分自身で編集作業を行っていることだ。

映像作品の製作において、編集作業が重要な要素を占めることはいうまでもない。そしてリンチ作品の編集に関するキー・パーソンといえば、長年にわたって公私共にリンチを支えてきたメアリー・スウィーニーである。

スウィーニーはもともと女優として映画界にデビューし、「Invasion of the Bee Girls 」(1973)、「Teenage Cheerleader」(1974)の2本の出演作がある。1983年以降は編集畑に転身、「ブルーベルベット」で編集の助手をつとめたのを機にリンチに出会った。「ワイルド・アット・ハート」での編集第一助手を経たあと、「ツイン・ピークス劇場版」からは独り立ちし「マルホランド・ドライブ」に至るまで、ずっとリンチ作品の編集作業に携わってきた。

……ってなことをツラツラ考えるに、この時期のリンチ作品を評価するうえで、彼女の編集も考慮に入れるべき要素のひとつなんではないかという気がすごくする。リンチのアイデアやモチーフを映像作品に「翻訳」するうえで、スウィーニーによる編集が非常に重要だったのではなかろーか……っつーことですね。

今後、再びスウィーニーがリンチ作品を編集することがあるのかどうかよくわからないけれど、これを機会に「編集」をポイントにリンチ作品を観返してみたい……と思ってたりする今日この頃なのでありました。

2007年7月22日 (日)

「インランド・エンパイア」再鑑賞のためのメモ (2)

※完全なスポイラーなんで、「インランド・エンパイア」未見の人はパスをお勧めします

ドロシー・ラムーア(Dorothy Lamour 1914/12/10~1996/9/22)

1931年度のミス・ニューオーリンズ。歌手としてデビューし、ハービー・ケイ・バンド(Herbie Kay band)のボーカリストとしてシカゴのラジオ番組などに出演する。

1933年にハリウッド進出。ノンクレジットを含めた端役をこなしたあと、女ターザンもの「ジャングルの女王 The Jungle Princess」(1936)のウラー(Ulah)役で人気を博し、セクシーなサロン(腰巻)姿が評判になる。その後「ハリケーン The Hurricane」 (1937)、「タイフーン Typhoon」(1940)、「青い水平線の彼方  Beyond the Blue Horizon 」(1942)などの南方系作品で同様の役をこなし、サロン姿は彼女のトレードマークになった。

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ビング・クロスビーと ボブ・ホープの「珍道中」シリーズにも相手役としてレギュラー出演しており、日本ではむしろこちらのほうが有名かも。戦時中はリタ・ヘイワーズやラナ・ターナーなどと並んでピンナップ・ガールとして人気に。

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いつまでもサロン姿がもてはやされることに嫌気がさし、1946年にはパラマウント宣伝部の仕切りのもと、ステージ上でサロンを焼くパフォーマンスをしたりした。また、NBCラジオの「Sealtest Variety Theater (The Dorothy Lamour Show)」 (1948-1949)のホストもつとめた。

Hollywood Walk of Fameには、彼女の名前が入った「星」が2箇所ある。ひとつはラジオでの仕事に対して(6240 Hollywood Blvd.)、もうひとつは映画での活躍に対して(6332 Hollywood Blvd.)。ニッキー=スーがドライバーを腹部に刺されるシーンが「撮影された」のは、後者のほう。

ラムーアの語録として「まともな女性としては、私は業界でいちばん幸せで、もっとも稼いでいた(I was the happiest and highest-paid straight woman in the business)」というのが残っている。サロンを焼くパフォーマンスといい、彼女の潔癖な一面がうかがえる発言といえるかもしれない。殺害現場としてラムーアの「星」が選ばれたのは、彼女がそうした面を持ちつつハリウッドで成功したことを踏まえたうえでの、娼婦(役)であるニッキー=スーとの対比を意図してなのか?

2007年7月21日 (土)

「インランド・エンパイア」再鑑賞のためのメモ (1)

※完全なスポイラーなんで、「インランド・エンパイア」未見の人はパスをお勧めします

またもやというか、やっぱりというか、「インランド・エンパイア」の作中、「サンセット大通り」からの引用がある。正確にいうと、「サンセット大通り」の作中で上映されているサイレント映画の字幕からの引用で……

「心に潜む邪悪な夢を追い出してください(Cast out this wicked dream whitch has seized my heart)」

……というのがその台詞。「インランド・エンパイア」では、ロスト・ガールによってポーランド語で語られている。

で、映画内映画であるこのサイレント映画、実はノーマ・デズモンドを演じているグロリア・スワンソンが過去に自分でプロデュースし、実際に出演した「クィーン・ケリー Queen Kelly」(1929)である。監督は、これまた実は「サンセット大通り」で執事役を演じていたエリック・フォン・シュトロハイム。

このシュトロハイムという監督は完全主義な人で、9時間を越える作品を作っては映画会社にズタボロにカットされたりしていた。最終編集権(ファイナル・カット)の問題という点で、「砂の惑星」を髣髴させる話である。また、サイレント映画であるにも関わらず、実際に音が鳴るドアベルを作らせたりして製作予算を大幅に超過し、映画会社ともめたあげく完全に監督としては干されてしまったという経歴もある。ハリウッドでの制作費集めに苦労しているリンチにとっては、他人事とはいえない話なのではないだろうか。

そんなシュトロハイムを「クィーン・ケリー」の監督にすえることに危惧を抱いた人も多かったようだが、案の定、製作途中で彼とスワンソンが衝突し、頓挫した。その後スワンソンが別の監督を立てて追加撮影を試みるも、結局未完のままで終わっている。「インランド・エンパイア」における「中断されたポーランド映画」の意味を考えるとき、「47」と「クィーン・ケリー」を思わず重ね合わせてしまいたくなるのだけど、はたして?

もうひとつ「サンセット大通り」からの引用の可能性があるのは、「金髪のウィッグをつけたサルを飼っている友人」だ。主人公がノーマ・デズモンドの邸宅を初めて訪れたとき、葬儀屋と間違えられるシーンがある。葬儀は彼女が飼っていたサルのためのもので、その後、本物の葬儀屋が現われ死んだサルを埋葬するシーンが出てくるのだが、さて、このあたりもリンチの意識(あるいは無意識)にあったのかどうか。

2007年7月20日 (金)

「インランド・エンパイア」の宣伝戦略をみる

さて、いよいよ明日公開となった「インランド・エンパイア」なんだが、どうやら配給側の宣伝戦略は「わけがわからない映画」であることを強調するという方向であるようだ。これだけ配給側が「わかりませんよ」と連呼している作品もちょっと記憶になくって(笑)、この戦略が初期動員にどう結びつくのか非常に興味深いものがあったりする……いや、決して嫌味とかではなく、マジで。

前々からのリンチ・ファンはほっといても観るからどーでもいいとして(笑)、さんざん「わけわからん」と聞かされたうえに上映時間が3時間もあると知った「ファンではない観客」が、どれくらいこの作品を観てみようと思うか。単純に考えるといろいろな点で興行的に不利なのは間違いなくって、実際IMDbによるとアメリカ国内における累計興行収益は75万ドル程度、海外の累計が140万ドル弱で、正直いって金額的にはたいしたことがないというのが現実だ。なかなか他の映画との比較は難しいが、上映館の絶対数が少ないという条件を考えると、まあ、予想された範疇だといえるだろう。

などという前提を踏まえつつ、いまこの現在の日本において、リンチ作品のような系統の「わからなさ」がどのくらいのマスで商品価値を持つのか。その商品価値は、どんな層にどれくらいの広がりを持つのか。作品を観た観客のうち、どれだけのパーセンテージが「わからない」ことに満足しつつ家に帰るのか。消費者動向の観点からみたとき、その結果から何か読み取れるものがあるのかどうか。いろいろな点で面白そうな材料を提供してくれそうな気がする。

過去、士郎正宗の諸作品に端を発する対マニア向け戦略としての「わかりにくさ」というのはあった。そもそもリンチ自身の「ツイン・ピークス」自体、「ローラ殺しの犯人探し」というミステリーのフォーマットをフックとして使いつつ、その内容物には「得体の知れないもの」が詰め込まれていた。果たしてこういう戦略が、現在でも劇場用映画作品に対して通用するのだろうか。

ただし、本気で興収を考えたとき、現状の戦略として弱いかなと感じるのはリピーター客へのケアだ。とりあえず現状で確認できているのは、恵比寿ガーデンシネマでのリーピーター客先着100名に対するポスターのプレゼントだけで、もちっとコア層に向けたプレミア感がある仕掛けをしてもいいような気もする。さすがにアメリカのようにリンチ自身が来場して上映後の質疑応答にこたえるっつーのは望めないだろうが、たとえば半券10枚一口で応募すると抽選で1名様にリンチのドローイングが当たったりなんかしたら、自分としては親戚一同引き連れてリピーターになったりするかもしれない(笑)。というわけで、できたら今からでも考えてみてください(笑)。

2007年7月10日 (火)

「インランド・エンパイア」伊版DVD!

IMDbの掲示板で拾ったネタ。

経緯がはっきりしないのだが、どうやら 「インランド・エンパイア」のイタリア版DVDが7月4日に発売されたらしい。こちらがそのパッケージおよび仕様。

inland_italy

  FORMATO VIDEO: 1.85:1  4/3 letter box, Colore
  LINGUA e AUDIO:  Dolby Digital 2.0 italiano e originale, Dolby Digital 5.1 italiano
  SOTTOTITOLI: italiano
  CONTENUTI SPECIALI: Gianni Canova racconta “Inland Empire”; trailer
  CODICE AREA: 2
  DATA  USCITA DVD: 04/07/2007

うーん、音声および字幕が「イタリア語」しかないってのがネックか? というか、買う気か?(笑) なんか北米版とは特典の内容も違うけど、どーゆーことだかワタシにはわかりませーん。

なんで北米より先にイタリアで出ちゃうのかもよくわからんが、これもパッケに鎮座まします「ベネツィア国際映画祭名誉金獅子賞受賞」(早口言葉か?)の御威光なんスかね?(笑)

ちなみに北米版の8月14日を皮切りに、イギリス版は8月20日、ドイツ版は11月7日というのが現在わかっている各国のDVD発売予定日。Studio Canalのお膝元であるフランス版の発売予定がまだ出てないのが、これまた謎といえば謎。

7/11追記: dugpa.comの掲示板をみてたら、既に伊版DVDを入手されている方がおりました。ス、スバヤイ……。

7/12追記: 伊版DVDには英語音声が入ってるという情報アリ。でもって、米アマゾンから、北米版DVDの発送が遅れるという連絡がきやがりました。こりゃ、伊版DVDにGO!か?

2007年7月 9日 (月)

「インランド・エンパイア」と「Axxon N.」と

デイヴィッド・リンチが公式サイトを立ち上げて、「Dumb Land」や「Rabbits」などの作品を有料で公開し始めたころ、2002年3月1日付のこんな記事が流れた。リンチに対するインタビューをもとに構成された記事で、その当時自分も目にしたことがあったが細部は忘れていた。が、「インランド・エンパイア」を観た後もう一度読み返してみると、いろいろと示唆に富んだ受け答えをリンチはしている。

もっとも興味深いのは記事の最終部分にあるリンチのコメントで、「公式サイトで配信している作品をTV局に売り込むつもりはあるのか」という記者の質問に対して答えたものだ。

----「これがTVだ。(インターネットは)新しいTVだ。(中略)これらの作品は、TVで観るのもインターネットで観るのも、同じようなものだ。だったら、なぜTVにこだわる必要がある? TVは死んだ」

……いきなりの死亡宣告であるが(笑)、「マルホランド・ドライブ」を米ABCに蹴飛ばされた怒りが未だに消えていないことがうかがえ、その点でも興味深い。だが、もっと興味深いのは、この発言を読む限り、「Dumb Land」や「Rabbits」などの配信用の作品を、リンチは「TV番組」という意識で作っているともとれることだ。この2作品が何話にかわたる連続作品として作られていることも、それを補強する状況証拠といえる。

となると、結局単独作品としては完成せず公式サイトでの公開には至らなかったものの、これまた全9話となる予定だった「Axxon N.」も、おそらくはTV番組として意識された作品になっていた可能性が高い……と考えるのがとりあえずはストレートだ。「Dumb Land」がTVアニメ、「Rabbits」がシットコムとなると、殺人がからむ話といわれていた「Axxon N.」は犯罪物TVドラマという位置付けだったのだろうか(そういえば、リンチの公式サイトには「天気予報番組」まであるのだった。リンチは本気で、自分のサイトを「自前のTV局」と考えているみたいだ)。

もしそうだったとすると、「インランド・エンパイア」のなかで、あるときはレンガの壁に書かれ、またあるときは鉄の扉に書かれている「Axxon N.」という文字は、「TVによる映画に対する侵食」の象徴であるように思えてくる。「Rabbits」の「インランド・エンパイア」内における位置付けについては、「インランド・エンパイア」を観た (1)で述べた。繰り返し登場する「Axxon N.」の文字も、やはり「Rabbits」と同じく、変容してしまった我々の「映画受容の形」に対するリンチの思いの表れであるのかもしれない。

「インランド・エンパイア」内における位置づけとしてもうひとつの可能性を示唆するのは、「Axxon N.」に続けてアナウンスされる「the longest running radio play in history」というサブタイトルだ。つまり「Axxon N.」が、むしろ逆に、いまや映像ドラマに駆逐されてフェイドアウトしてしまっているラジオ・ドラマの痕跡に対するオマージュなのではないかという見方である。そう考えると、冒頭の顔をかき消された男女の映像は、映像に比べて感情移入装置として制約があるラジオ・ドラマに対する映像的オマージュとも読み取れる。この視点に立つならば、「インランド・エンパイア」は、映画・ラジオ・TVという三つのメディアに関して言及した作品になるといえるだろう。

それにしても、いずれにせよ近い将来、我々はこの「インランド・エンパイア」という作品をおそらく、いや確実に、DVD再生という手段を用いモニターを通して観るはずだ。そう思うと、なんだか一種複雑な心境になってしまう自分がいたりするのがナントモだ。

2007年6月29日 (金)

「インランド・エンパイア」その後(米国編)

さて「インランド・エンパイア」の公開まで1カ月を切り、劇場で再鑑賞するのを心待ちにしている今日この頃。もう一回観れば、ころっと意見が変わったりするかもしれんのだが、そこはそれ(笑)。

当然ながら米国ではすでに公開済みなわけで、IMDbを含めた各種関連掲示板では活発な意見交換がされている。やっぱ、いちばん目立つのは「ワタシは一体全体ナニを観たのか」という茫然自失系の書き込みなのだが、そこもそれ(笑)。

面白かったのは、今敏の「パーフェクト・ブルー」との類似点を挙げた意見があったことだ。いや、別に意見そのものが面白いわけではなく、そこまで手を出している向こうのリンチ・ファンがいるというのが面白かった。「映像における(作品内)非現実の描かれ方」の事例収集に自分自身も凝ったことがあって、「パーフェクト・ブルー」も同じような嗜好のあちらのファンの網に引っかかったんではないかと想像する。

物はついでといろいろ検索してみたら、どうやら向こうの高校生とおぼしき人物が「パーフェクト・ブルー」の評を書いているのを見つけてしまったりするのだな。本人がいたくお気に入りの様子なのはいいのだけど(いいのか?)、近所のレンタル・ヴィデオ屋で借りたみたいで、ご丁寧にその店名まで書いてあるのはいかがなものか。店主が捕まりゃせんか(笑)。

なかには三池崇史の「極道恐怖大劇場 牛頭」との比較をしている意見もあったりで、あのね、アンタら、ナニを観とるのかね(笑)。つか、どこで観たんだ、ンなもん……と思って調べたら、フツーに米アマゾンでDVDを売ってたりするのな(なおかつ国内版より安く)。さすがにこの比較には「そりゃ順番が逆じゃないか?」と言わざるを得ないが、文化の伝播・混合というのはそうしたもんなのかもしれない、きっと、多分、おそらく。アッチにもそーゆーのが好きなヤツがいるのだなと思うと、なんとなく心が温まったような気がしませんか? ……しないか(笑)。

いずれにせよ、リンチ作品を「(作品内の)現実と非現実」の二元論で論じるのは自分のスタンスではないので、こういう作品対比には与しないのだけど。

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