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「インランド・エンパイア」を観た(3回目)

2007年9月18日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (12)

ポモーナ(Pomona)についてのメモ。

デイヴィッド・リンチがこの地名を「インランド・エンパイア」の作中で使ったのは、まずはビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」(1950)からの引用としてであることは間違いない。自分の屋敷に入り込んできたジョー・ギリスが脚本家であることを知ったノーマ・デズモンドが、自ら脚本を執筆中であり女優としての復帰作となるはずの「サロメ」について滔々と説明するシーンがある。その内容の大時代ぶりにあきれたギリスが「ポモーナでだったら受けるかもしれない(They'll love it in Pomona)」と皮肉まじりに言うのに対し、デズモンドのほうは「どこでだって受けるわよ(They will love it every place)」とやり返すのだ。

そもそもポモーナという地名は、ローマ神話における「果実や果樹の女神」の名前に由来している。1870年代、町の境界線に一本のオレンジの木を植えるに際して、この名前がつけられたという話だ。いわゆるカリフォルニアの「インランド・エンパイア地区」が柑橘農業と酪農とワイン醸造の地であったように、ポモーナも農業を中心とした町であったことがわかる。その後、鉄道の開通や水路の開発などによって、インランド・エンパイア地区ではオレンジを中心とした柑橘農業が爆発的に盛んになった。また、戦前には、オンタリオ(Ontario)にGE社のアイロン(!)製造工場が出来たりしていた。

第二次大戦後、インランド・エンパイア地区はロスアンジェルス市のサバーブとして発達することになり、当然ながらポモナも同様の発展を遂げることになる。しかし、「サンセット大通り」のギリスの台詞から推し量るに、1950年当時のポモナはまだまだ「田舎」という扱いであったようだ。

インランド・エンパイア地区と呼ばれるのが基本的にリバーサイド・カウンティ(Riverside County)とサン・バーナーディノ・カウンティ(San Bernardino County)の各地であることを考えると、行政的にはロスアンジェルス・カウンティ(Los Angeles County)の東端に所属するポモーナが明確にインランド・エンパイア地区に含まれるかどうか、実はちょっと微妙なところがあったりするらしい。だが、ポモナがインランド・エンパイア地区から続くポモーナ・ヴァレー(Pomona Valley)の西端にあること、加えてポモナの西側にあるサン・ノゼ・ヒルズ(San Jose Hills)やプエンテ・ヒルズ(Puente Hills)の丘陵地帯がロスアンジェルス・カウンテイの他の地区との物理的・心理的バリアとなっているという地勢的な理由などもあって、ポモーナがインランド・エンパイア地区の西端とみなされる場合も多いみたいだ。

いってみれば、ロスアンジェルス(ひいてはハリウッド)とインランド・エンパイア地区の狭間にあるのがポモーナだということになる。この微妙な立ち位置まで意識してリンチがこの地名を使ったのかどうか、かなり興味深いところだ。「映画=ハリウッド」と「内面=インランド・エンパイア」の二つが接触する境界上に存在するポモーナが、もし「感情移入」や「同一化」の象徴として登場しているのだとしたら、そこに行くバスがある者には存在しある者には存在しないことは、まったく当然であるような気がしてくる。

そして、「膣壁に穴の開いた、猿を飼い金髪のカツラを被る、女性にも好かれるヤク中の友人(というハリウッド伝説のごった煮)」がそこに住んでいることも、また、当然なのかもしれない。

2007年9月17日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (11)

「インランド・エンパイア」における「視線の問題」の補足およびそれに付随するものとかをばちょいと。

こうして「視線の問題」を考えていると、この作品における「クローズ・アップ」の多用は、また別な観点で捉えられるような気もしてくる。とたえ、DVカメラによる撮影という技術的な部分があるのはわかっているにせよ、だ。

これまた今更な話で恐縮だが、そもそも「クローズ・アップ」という技法が導入されたことが、映画というメディアの特性をかなりの部分で決定づけたといっても過言でない。いわばそれは映画が「舞台演劇の記録」から脱却した瞬間であったわけだが、それによってそれまでの平面的な画面構成の枠が取り払われて、「映像空間」という概念が発生した。加えて、「クローズ・アップ」がもたらした(あるいは要求した)リアルな演技への転換は、演技者の仕草や表情とその「視線」の組み合わせによる「主体(観る者)」と「客体(観られるもの)」の関係性の描写につながり、映像による登場人物の心理・内面描写への可能性が拓かれる。

こうした観点、特に「登場人物の心理・内面描写」の観点からからリンチ作品をみるとき、作品内で「誰が」「何を(誰を)」「どのように」観ているかが非常に重要になってくることは言うまでもないだろう。いや、リンチ作品でなくとも重要なのだが、リンチ作品が「非ナラティヴ」な手法によって登場人物の「内面」や「感情」を描いている以上、ナラティヴな方向からのアプローチに頼らず「リンチの表現」をダイレクトに理解するためには、「主体(観る者)」の仕草や表情およびその「視線」の行方を押さえることが、より貴重な手掛かりになるのは間違いない。

このあたりを如実に表しているのが、たとえば「インランド・エンパイア」における、ロコモーション・ガールズたちが「ロコモーション」にあわせて踊る直前のシーンだろう(1:25:53)。スーはロコモーション・ガールが会話をするの聞き、彼女たちを観ている。スーがここでロコモーション・ガールたちを「どのように」観ているか、これを理解するにはスーの表情の変化を細かくみていくしかない。スーがみせる「共感」「悲嘆」の表情の移り変わりこそが、彼女とロコモーション・ガールたちの関係性を、ひいてはこの女性たちの作品内における意味を説明するものに他ならないと思う。

当然ながら、リンチがこうした意図を持ってクローズ・アップを多用したかどうかは図りようがないし、ましてやそのためにDVカメラを使用したなどということは有り得ない。だが、もし仮にローラ・ダーンという女優の「特性」が、こうしたクローズ・アップの手法を多用した表現、もしくはそれによって表されるものへの展開へとリンチをして向かわせたのだとしたら、それはそれで面白い気がする。

(とりあえず「視線の問題」はおしまい、かな?)

2007年9月16日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (10)

「インランド・エンパイア」における「視線の問題」の続き。

実は、この「観る対象」が欠落した「見下ろすニッキー(もしくはスー)」と対応するかのように、「観る対象」が欠落している「上方を見上げるスー(もしくはニッキー)」が現われるカットも存在する。

「ハリウッドのストリート」のシークエンスの直前、ガウンを着たスーが「スミシーの家」のリビング・ルームの椅子に座り、上方を見上げているカットだ(周りにはロコモーション・ガールズたちがいる)。ここでは、彼女が見上げている「何か(誰か)」を示唆する映像は存在しない。もし、仮にこの「観る対象」を欠落させた二つのカットが互いに対応し補完しているとしたなら、この実体として示されていない「視線の交錯」は、いったい何を意味しているのだろうか?

断絶したカットにおいて、あるいは連続したカットにおいて、「上下」に結ばれる視線……思わず、「上位自我」「下位自我」あるいは「意識」「無意識」などという言葉を当てはめたい誘惑にかられる。ただでさえ繰り返し登場する「階段」だの、その階段を「死ぬほど昇ったところにあるMr.Kのオフィス」だの、世にいわれる「人間精神の構造モデル」を援用したくなるようなモチーフに満ちているのがリンチ作品の常なのだ。しかし、ここではそうした(ある種の)「紋切り型」ともいえるアプローチはいったん保留しておきたい。

そして、このガウンを着たスーのカットの直前には、雷雨の夜、窓を開け放した暗い部屋の中に座るスーのカットがある。彼女も身じろぎもせずに、じっと前方を見詰めている。その服装からして、おそらくこのスーは前項で述べた「上下」の視線が交わされるカットの連続において、一番初めに登場するスーだ。

「水平」にあるいは「垂直」に交錯する、ときとして幻の視線。とりあえずは、彼女たちの「感情」をキーとしてその意味を読んでいくしかないように思う。

(Strangeな感じで続くのかな?)

2007年9月15日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (9)

「インランド・エンパイア」における「視線の問題」を整理しておきたい。

もちろん、どんな映画であろうと「誰が」「何を(誰を)」「どのように」見るか……が非常に重要な問題であるのは変わらない。そうした「視線の問題」(そしてそれが引き起こす受容者による登場人物への「同一化」)こそが、古典ハリウッド以降の映画というメディアの成立案件であるともいえるのだから。

しかし、「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」であり、「演技者と登場人物と受容者の関係性」を描いた作品である以上、そこに表れる「観る者」と「観られる者」の関係性つまり「視線の問題」は、一層の重要性をはらんでいるはずだ。この作品は「映画内」における「(登場人物の)誰が何を(誰を)観るか」だけではなく、受容者という「映画外」からそれを観る者が「何を(誰を)観るか」をも同時に(そして同じ地平で)描いているわけだから、なおさらこの「視点の問題」を看過して語ることはできないと思う。

では、「インランド・エンパイア」の各シーンにおいて、いったい「誰が」「誰を」「どのように」観ているのか?

「Axxon N.」の出現ポイントだけをみれば、ことは非常に単純なように思える。感情移入に基づく「演技者ニッキーによる登場人物スーへの同一化(とその深化)」と、最終的な「ニッキーの自己回復」までの過程だ。一回目の出現シーンにおいて、スーに「観られる」対象となったニッキーの姿が消えるのは、「演技者の消失」そして「登場人物への同化や移行」を表すものに他ならない。また、三回目の出現シーンでは、「自分が『観られる者』であること」をニッキーが認識し、「映画の魔=ファントム」を消滅させると同時に自らの裡にある「映画の魔」を開放するという手続きによって「自己回復」を達成する、と読むのがとりあえずは素直な捉え方だろう。

問題なのは、「Axxon N.」の出現ポイント以外にも、こうした「視点の混乱・転倒・同化」が描かれているシーンが何箇所か存在することだ。

そのなかでも、まず気になっているのが、「どこかで立っているスー(あるいはニッキー)が下方を見下ろしているカット」のあと、「スミシーの家の小部屋に座ってシルクの布に穴を開けているスーが、上方を見上げているカット」と「スミシーの家の内部に立っているスーが下方を見下ろしているカット」とが交互に2回ずつ現れるシーンだ(1:14:00)。モンタージュの法則にしたがって理解するならば、この初めのスー(あるいはニッキー)と座っているスーが視線を交わしたあと、二人のスーが互いに互いを見つめあっていることになるが、他のシーンではこうした直接的な「視線の交換」は存在しない(完全に存在しないわけではないが、あくまで間接的である)。くわえてこのシーンでの「視線」は、縦方向に「垂直」に結ばれている。

他のシーンでは、基本的に「観る側」が一方的に「観られる側」を観るだけであり、その「視線」が横方向に「水平」に結ばれていることを考えると、このシーンの作品内における特殊性が理解できるだろう。なぜ、ここでは縦方向に「上下」に視線をむすぶのか? 

しかし、このシーンが特殊であるのはそれだけではない。その後の別のシーンにおいても、同様の「上から見下ろしているニッキー(あるいはスー)のアップ」というカットが存在しているのだ(2:16:55)。スーが「自分は子供を作れない(I can't father children.)」と夫に告げられるシーンに続く、「Mr.K」のオフィスでスーが身の上話をしているシーンにインサートされるカットである。ただし、問題なのは、「見下ろすニッキー=スー」のカットから次の「Mr.Kのオフィスにいるスー」へのカットへのつなぎが、オーヴァーラップであることだ。

これは、単純なモンタージュではない。「見下ろすニッキー(あるいはスー)」が観ているモノが、次のカットでそのまま提示されているとはいえない、ということだ。ならば、彼女はいったい誰を(何を)観ているのか? もしくは、このシーンにおける「観られる者」の欠落は、何を意味するのか?

(Power to the Lordな感じで続く)

2007年9月11日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (8)

前にも述べたとおり、「スミシーの家」のキー・ワードは「匿名性」であり「一般性」だ。どこでもありえる場所であること……つまりそれは、「スミシーの家」が誰の「内面」でもありえるということだ。作品に則していうなら、「スミシーの家」はロスト・ガールという「匿名の一般的受容者の総体」の「内面」であるともいえる。要するに、「一般的受容者の抽象的概念」を表すロスト・ガールが、モニターを通じて映像に触れるとき、「感情移入」や「同一化」によって彼女の「内面」に形成されるモノが存在する場所が「スミシーの家」であるわけだ。

そして、その「スミシーの家」で、あるいはポーランドで繰り広げられるさまざまな「家庭内のトラブル」のヴァリエーションも、全部をひっくるめて「家庭内で発生するトラブルの抽象的概念」として捉えるべきものだと思う。個々の「トラブル」……「妻の不貞」「夫の不貞」「子供を生めない妻」「子供を作れない夫」「子供の死」などを、それぞれの登場人物の具体的な人間関係に帰属させて解釈することは、意味をもたない。リンチが一人の俳優に複数の役を演じさせた意図は、まさにここにあるはずだ。極論すれば、彼らが抱える「トラブル」をそれぞれ入れ替えたとしても、作品的にはあまり問題がないのではないか。

今更ながらだが、リンチ作品は本質的に抽象的なものだ。いくら表面上は具象的な作品と共通のルックを持ち、古典的ハリウッドの編集が施されていたとしてもだ。そこに繰り広げられる表現を、具象的な作品を理解する方法論をもって理解しようとしても、「混乱」しか見出せないのは当たり前である。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」を時系列の整理によって理解することが不可能なのと同じように、「インランド・エンパイア」を人間関係の整理によって理解することは、おそらく不可能だ。

そういう観点からみるとき、登場人物の女性がすべて「娼婦」としてストリートに立つという表現も、抽象的かつ表現主義的なものとして捉えられるべきだと思う。つまり、家庭内でのトラブルに遭遇した女性が、傷つき、自らを「娼婦」であるかのように感じる……というのがリンチの表現から読み取れることだ。それは高級住宅に住むスターであろうが粗末な家に住むホワイト・トラッシュであろうが、アメリカであろうがポーランドであろうが、過去であろうが現在であろうが、もしかしたら未来だろうが変わらない。「インランド・エンパイア」におけるリンチの視点がきわめて女性的であり、基本的に「女性の心理・内面」を描くことを通じて「機能しない家族」を描いていることは、特筆すべきものとしてぜひ指摘しておきたい。

(なんかまとまんないなと思いつつ、続く)

2007年9月 8日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (7)

では、「ロコモーション・ガールズ」たちがたむろする「スミシーの家」とは、いったいなんなのか?

何はさておき、デイヴィッド・リンチが繰り返し提出する「家」に関するモチーフの延長上にあるもの……として捉えるのがまずは妥当だろう。クリス・ロドリーによるインタビュー集においてリンチ自身の言葉として語られているとおり、リンチにとって「家」とは「不幸が起こりえる場所」である。そしてその言葉に違わず、リンチ作品において、「家」は常に「不幸=トラブルが起きる場所」であり続けてきた。たとえば「ブルー・ベルベット」においても、重要なのは外見上の麻薬がらみのストーリーではなく、むしろドロシーの「家」の内部で発生するさまざまな「Something's wrongな状況」であるはずだ。

リンチがなぜこうしたオブセッションに執りつかれているのか。スティーヴン・スピルバーグやジョー・ダンテといったリンチと同世代の映画監督と同じように、アメリカ特有のサバービアという文化・生活的状況とそこから発生した固有の病理が、リンチの無意識にも反映されている……という大場正明氏の指摘は、非常に納得のいくものといえる。

だが、リンチ作品においてより重要なのは、「人間の内面」の象徴として「家」を捉えることが可能なことだ。人間の「内面」を外見から量り知ることの不可能性を、一見平和そうな「家」のなかで「何かおかしなこと」が発生している状況と重ね合わせることは、決して無謀なことではないだろう。「ロスト・ハイウェイ」における砂漠の小屋を、フレッドの内面の奥深いところにある「隠されるべきもの」が存在する場所として捉えることが可能なのと同じように、「スミシーの家」も「人間の内面」の象徴として捉えることが可能だと思う。

興味深いのは、「スミシーの家」が、その実体は「映画のセット」であることだ。その「セット」が撮影され、他のシーンと組み合わせて編集され、我々の前のスクリーンに映像として映しだされるとき、ひとつの「映画=世界」となって実在のものであるかのように認識される。それは人間が「何かを何かと看做す行為」の結果だ。そして、人間の裡に備わるそうした「看做す行為」を可能とする能力こそが、実は「感情移入」や「同一化」を成立させるものであること……すなわち「映画の魔法」を形成するものの一部であることは言うまでもない。そう考えるとき、そうした「能力」が潜む「人間の内面」を表す場所として、「スミシーの家」が選ばれるのはごく妥当なことにも思えてくる。

(きっと続くんじゃないかな?)

2007年9月 6日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (6)

……いや、だが、ちょっと待て。

「インランド・エンパイア」にはもう一人、「催眠術」を使い「他者を魅了する」登場人物が現れなかったかだろうか?

タイム・スタンプでいうと (2:11:34)あたり、雪の積もる夜のポーランドのストリートで、ロスト・ガール(ポーランド風味)に対して人差し指を突きつけ、グランドさせた「女性」がいたはずだ。

「彼女」は、もう一人の女性と伴ってポーランドのストリートにスーを誘い、あるいはロスト・ガールを魅了し、あるいはスーとともにハリウッドのストリートに立つ者だ。「スミシーの家」の居間にたむろし、乱舞し、やくたいもない男たちへの思いを語る「ロコモーション・ガールズ」の一員だ。

ここでは、「彼女たち二人」こそがニッキーの裡に潜む「他者を魅了するもの」であり、「同一化」を誘うもの、つまり「映画の魔(力)」であると捉えておきたい。二人は、「ファントム」が倒されたあと、何かを察知して上方を見上げる。そして、ロスト・ガールのモニターのなかで(2:47:11)、あるいは映画のフレームのなかで(2:47:29)、歓喜に満ちて通路を駆け抜けてくるのも同じ「彼女たち二人」だ。

そして、もし「彼女たち二人」がニッキーの「裡なるもの」であるならば、必然的にその他の「ロコモーション・ガールズ」も、同じくニッキーの「裡なるもの」だということになる。そして、同時に、「ロコモーション・ガールズ」はスーやロスト・ガールの「裡なるもの」でもあり、「ニッキー=スー=ロスト・ガール」という「演技者=登場人物=受容者」のネスティングを形成する「核」なのではないか、あるいはネスティング構造そのものなのではないか……という可能性に思い至る。

演技者の裡に潜む「他者を魅了するもの」になんらかのセクシャルな要素が介在するのは、ある意味、漠然と直感的に理解できる。そして、作品内で描かれるニッキーやスーやロスト・ガールが抱える「トラブル」にもまた、セクシャルなものが介在する。もし「機能しない家族」というキー・ワードで捉えるなら、その欠落も含めて、やはりセクシャルな部分が問題になるはずだ。

なぜ「ロコモーション・ガールズ」は「娼婦」で有り得るのか? なぜスーは「私は娼婦よ(I'm whore.)」と呟くのか? なぜロスト・ガールはポーランドの街角に立つのか? なぜドロシー・ラムーアはサロンを焼き捨てたのか?

(てなことをつぶやきつつ、続くかも)

2007年9月 4日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (5)

では、いったい「ファントム」とは何なのか?

ここでは、演技者でも演奏者でも何でもいいが、その裡に潜み「肉声・肉体」を使って他者を魅了するモノの総体であると解釈したい。リンチ作品によくみられる、「概念」の人格化の例である。

「それ」はあたかも「催眠術」をかける(hypnotize)ように、観る人々を魅了(hypnotize)する。なぜそうなるのか、なぜそうなのかは明瞭ではない。おそらくは非常に古くからプリミティヴなものとして現われ、「肉声・肉体による芸」を成立させる要素のひとつとして、現在に至るまで連綿と続くものだ。さまざまな「メディア」はそれを増幅し、あるいは利用・搾取し、世にばらまく。

「カリスマ性」「スターが放つオーラ」……いろんな言い方で言い表わすことも可能だろうが、限られた言語に「それ(it)」を置換することで何かが抜け落ちてしまうのは、リンチによる映像表現の常である。そう、まるでクララ・ボウの「あれ(it)」のように。

そしてもちろん、「魅了するモノ」は「映画」の裡にも潜む。ハリウッドのいわゆる「スター・システム」は、それによって成立したといえるだろう。「それ」は、映画というメディアがもたらす「同一化」と並んで、観客の「同一化」を誘う要素でもある。ということは、つまり、リンチのいう「映画の魔法」の一要素でもあるということだ。

しかし、「インランド・エンパイア」では、「ファントム」は「うさんくさいもの」「怪しいもの」「得体の知れないもの」といった、どちらかといえばネガティヴなものとして描かれている。たとえば、Mr.Kのオフィスでスーが「サーカス」の団員たちのことを「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」と呼ぶことからもわかるように。

要するに、リンチが抱える映画についての「思い」を、ポジティヴに描けば「映画の魔法」になり、ネガティヴに描けば「映画の魔=ファントム」になるわけだ。同じものの違った側面という理解もできるだろうが、むしろ「魔法」だから「うさんくさくて怪しく」、「得体が知れない」から「魅了される」のだ……と考えたほうが自分としては納得がいくような気がする。

そう考えるとき、ニッキーの「登場人物から演技者個人へ回帰する」手段として、「ファントムの殺害」が必要になるのは当然であるように思える。そして銃弾を打ち込まれた「ファントム」が、崩壊する過程でさまざまに変貌していき、一瞬「道化師(crown)」を思わせる容貌となるのも。

……いや、だが、ちょっと待て。

(なんかワザとらしく引っ張りながら、続く)

2007年9月 3日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (4)

もうひとつ言及しておきたいのは、「インランド・エンパイア」に表出している「各種のメディア」という視点だ。

この作品では、主として「映画」というメディアが描かれているのは今まで述べてきたとおりなのだが、それと同時に、映画に「先行」「並存」「後続」する各種メディアの描写が散りばめられていることを見逃すわけにはいかないだろう。

まず開巻後ただちに登場するのが、闇を切り裂く映写機の光と「レコード」であり、「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ(the longest running radio play in history)」*だ。そして、ロスト・ガールが受容形態として選択している「モニター」および「ビデオ」である。

こうして並べると、「ラジオ」「レコード」「映画」「テレビ」「ビデオ・ソフト」という、なんらかの形で(娯楽といって語弊があれば)作品を伝達するメディアが登場していることになるわけだ。が、ここであることに気づく。「活字」というメディアが欠落しているのだ。

つまり、ここでリンチによって提示されているメディアは、「肉体」や「肉声」を使った表現を伝達するものに限られているということだ(そういう意味では、当然、伝達されるものとして「音楽」や「舞踏」も含まれてくるのだろう)。さて、そう考えると、もうひとつ見逃せないメディアが「インランド・エンパイア」には登場している……「サーカス」だ。

リンチの表現を観る限り、リンチは「ラジオ」「レコード」「映画」を含めたすべてのメディアに先行するメディアとして、言葉を変えればそれらのものの「原型」として、「サーカス」を捉えているように思える。そしてそれは、ラジオ番組の歴史や映画史、TVの発達史などをみれば非常に納得のいくものだ。

各メディアに先行してさまざまな「肉体・肉声による芸」が存在し、そうした各種の「芸」をいわば集大成的にみせるメディアとして「サーカス」がある。他の各メディアが、その初期段階において、そうした各種の「芸」を(しばしばそのまま)伝達する形でスタートした部分があることは言うまでもない。

このように、「サーカス」を、「映画」をはじめとする各メディアの「原型」と捉えたとき、そこに出没する「ファントムなる男」が何を表わしているのか、おぼろげながらみえてはこないだろうか?

それは何かというと……。

(時間切れで続く)

*日本語版DVDの字幕では、なぜか「Axxon N.」が音楽の「曲名」であるかのように訳されているが、「radio play」といえば普通「ラジオ・ドラマ」のことである。

2007年9月 2日 (日)

「インランド・エンパイア」のサウンドトラック・アルバムが予約受付開始だそーな

本日のdugpa.comネタ。

「インランド・エンパイア」のサウンドトラックCDの予約受付が、米アマゾンで始まった。発売は9月11日予定で、お値段は$17.98。

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収録曲リストは、こんな感じであるらしい。

01 David Lynch "Ghost of Love" 5:30
02 David Lynch "Rabbits Theme" 0:59
03 Mantovani "Colours of My Life" 3:50
04 David Lynch "Woods Variation" 12:19
05 Dave Brubeck "Three To Get Ready" 5:22
06 Boguslaw Schaeffer "Klavier Konzert" 5:26
07 Kroke "The Secrets of Life Tree" 3:27
08 Little Eva "The Locomotion" 2:24
09 David Lynch "BBQ Theme" 2:58
10 Krzysztof Penderecki "Als Jakob Erwachte" 7:27
11 Witold Lutoslawski "Novelette Conclusion" (excerpt) /Joey Altruda "Lisa" (edit) 3:42
12 Beck "Black Tambourine" (film version) 2:47
13 David Lynch "Mansion Theme" 2:18
14 David Lynch "Walkin' on the Sky" 4:04
15 David Lynch / Marek Zebrowski "Polish Night Music No. 1" 4:18
16 David Lynch / Chrysta Bell "Polish Poem" 5:55
17 Nina Simone "Sinnerman" (edit) 6:40

うーむ、しかし、米アマゾンでは「インランド・エンパイア」のDVDが$19.99で売ってんだよねえ。昨今よくあることではあるが、 CDとDVDで値段が$2しか違わんというのは、どーしたもんか(笑)。

9/5追記: 日アマゾンでも予約受付が始まりました。税込\2,052也。

9/14追記:税込¥2,375也にいつの間にかなっとりました。にしても、まだ日アマゾンから出荷のお知らせが届きません。がんばれ、日アマゾン(笑)。

9/18追記: やっとこさで日アマゾンから発送通知が来ました。ふう。

2007年8月30日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (3)

「インランド・エンパイア」が内包する、もうひとつのテーマについてなんか。

David Durnell氏によるこのようなDumb Land」の紹介記事「がある。Durnell氏は、リンチが繰り返し提示する「機能しない家族(dysfunctional family)」というテーマが、「Dumb Land」にも表れていると指摘している。これは、「人間存在のなかに潜む愚かさや暴力性や原始性が、家庭という構造のなかで表出したものである」とするのがDurnell氏の観点だ。そして、この「機能しない家族」というテーマは、最初期の「グランドマザー」から始まって「イレイザーヘッド」「ブルーベルベット」「ツイン・ピークス」と連綿と受け継がれている、とDurnell氏は指摘する*

個人的には、このリストに「ロストハイウェイ」や「ストレイト・ストーリー」、ひょっとしたら「ワイルド・アット・ハート」まで含めてしまいところだ。なぜリンチが(映画だけでなく絵画も含めて)このモチーフに執拗にこだわるのか……ノア・バームバック監督による「ブルーベルベット」の再解題ともいえる「イカとクジラ」(2005)などもからめて、一度どこかで自分でもまとめてみたいような気がする。

それはともかく、では「インランド・エンパイア」においてはどうなのか……と振り返ってみると、これまたみごとに「機能しない家族」というモチーフが登場している。

もっとも明確に描かれているのが、「ロスト・ガール=スー=ニッキー」という「受容者=登場人物=演技者」のラインにおいてであるのはいうまでもない。どれが誰のことであるかは明確でなく、またアメリカでのことであるのかポーランドでのことであるのか、虚構であるのか現実であるのかについても判然としない。が、もちろんそれはまったく問題にはならない。「インランド・エンパイア」が提示しようとしているのはそうした”「個別例」の問題そのもの”ではなく、それら総体としての”「機能しない家族」の「抽象概念」”という「普遍的なもの」であるからだ。登場するさまざまな「個別例」は、その抽象概念を構成する部品=要素に過ぎないのだ。

この”「機能しない家族」の「抽象概念」”には、デヴォンの家庭も含まれるのは言うまでもなく、「インランド・エンパイア」では「機能しない家族」というモチーフがさまざまに変奏され、繰り返し提示されていることになる。そういう視点で「インランド・エンパイア」を観たとき、クライマックスの「ロスト・ガールと家族の邂逅」を、また別な文脈をもって捉えることができるのではないだろうか。

個人的に、不自然さを感じていたことがあった。「スミシーの家」の住人たちが家に入るに際して、他の家族に対して「ただいま(I'm home)」や「お帰り(You came back)」などではなく、「こんにちは(Hello)」と言っていることだ。スーもそうだし、ロスト・ガールも、ロスト・ガールの夫もそうだ。これも「機能しない家族」という視点でみたとき、一応の説明はつくように思うのだが、どうだろうか。

興味深いのは、キングズリー監督と照明係バッキー・ジェイが噛み合わないやりとりをするシーンだ(0:44:27)。てっきりリンチお得意の「成立しない会話」のモチーフであるのかと思っていたら、最後に助監督が監督に「彼は嫁さんともめてまして(He's got issues with his wife.)」**と耳うちする。監督が苦笑いをしてその場は終わるのだが、それに続くシーケンスでは、それが発端になった「うまく行かない撮影」のモチーフが出現する。「機能しない家族」は「機能しない撮影」を引き起こすのだ。

(どうだかわからんが、続く)

*同様の指摘は、他の映画評論家や映画学者によってもされている。たとえば加藤幹郎は「悪夢の詩学」と題するデイヴィッド・リンチ論のなかで、以下のように述べている。

----リンチ初期の映像作品『グランドマザー』(七○年)や『イレイザーヘッド』(七七年)から、『ブルー・ベルベット』(八六年)を経て『ワイルド・アット・ハート』(九○年)、『ツイン・ピークス』にいたるまで、伝統的なファミリー・メロドラマの約束事を利用しながら、リンチがつねにグロテスクな家族の崩壊劇を描いてきたことを指摘することはたやすい。
            (「夢の分け前」所載 ジャストシステム刊)

**あろうことか、日本語版DVDでは、この助監督の台詞に字幕がありません。あらま、である。

2007年8月29日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (2)

そんなわけで、「インランド・エンパイア」における「時間」、そしてそれを象徴する「腕時計」のことが気になる今日この頃。ロスト・ガールによる「腕時計が必要」という示唆の台詞原文はこんな具合だ。

ロスト・ガール: Do you want to see?
ロスト・ガール: You have to be wearing the watch.
ロスト・ガール: You light a cigarette. You push and turn right through the silk.
ロスト・ガール: You fold the silk over and then you look through the hole.

この台詞を受けて、ニッキー=スーが腕時計を用意し、シルクに煙草で穴を開けそこから覗く。そして、ポーランドにおけるロスト・ガールとクリンプ=ファントムとの喧嘩シーン、男が妻を振り切って外出するというシーン等々がそれに続くというシーケンスになる(1:17:18)。

「映画」において、時間のコントロールが大きな要素のひとつとなるのはいうまでもない。それは「時間の制御自体が、映像表現の一部である」という考え方に基づいているといえる。どのカットをどのくらいの長さで残すのか、長回しで撮るのか短いカットをつなぐのか、そもそもまずどのシーンを残しどのシーンを不要とするのか、フラッシュバックなどを使うのかどうか……映像表現には必ず「空間の制御」とともに「時間の制御」がつきまとう

そう考えると、「映画についての映画」である「インランド・エンパイア」において、「シルクの穴から覗く行為=カメラを覗く行為」と「腕時計が必要=時間制御が必要」という二つの示唆がセットになって提示されるのは、ごく当然のことのように思えてくる。「空間芸術」と「時間芸術」などという概念を持ち出すまでもなく、この二つが(監督側からみた)映画製作の基本要素であるからだ。

当然ながら、この「時間」が「制約」となる場合もあり得る。端的なのは「上映時間」の問題で、よっぽどの例外を除いて映画の最終編集権がプロデューサーにあるのは、(内容面での決裁権だけでなく)興行収益にダイレクトに連動する「上映時間の決裁権」ともからんでのことだ。

北米版DVDに特典映像として収められている「More Things That Happened」には、ポーランドにおいてロスト・ガールがクリンプ=ファントムから腕時計を買うシーンが存在する。クリンプ=ファントムは、両腕に腕時計をいくつも巻きつけている。彼は「闇の時計屋」なのだ。クリンプ=ファントムが話すポーランド語をロスト・ガールは解さない(!)ので、二人の会話は英語で行われる(このシーンの英文トランスクリプト全文はこちら)。

ファントム: You want to buy a watch?
ロスト・ガール: I heard about them.
ファントム: What did you hear?
ロスト・ガール: That they are magic.
ファントム: Magic?
ロスト・ガール: Yeah, that they bring you good luck. Do they?
ファントム: They tell time.

またしても「魔法」だ! そして「映画の魔」であるファントムが、それを売っている……。

PS: そういえば、スーを訪ねてスミシーの家に「訪問者その2」がやって来るシーンにおいても、不自然なくらい彼女の腕時計がアップで映されていたのでありました。

(行き当たりばったりに、続く)

※各シーンのタイム・スタンプは北米版DVDのものです

2007年8月28日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (1)

さて、小ネタ。

前項で触れた作品内の「時間経過」なのだが、とりあえず北米版DVDをば早送り逆回しスロー再生とネチネチぶん回し(笑)、もろもろ確認してみた。以下の文中のタイム・スタンプは北米版DVDのものであります。冒頭にAbsurdaとStudio Canalのロゴ表示が25秒入っていて、その秒数はそのまま加算して表示してありますんで、ヨロシク。

まず、単純に作品開始後「2時間15分25秒」経過したあたり、つまり午後9時45分から「インランド・エンパイア」を観始めて、ちょうど夜中の12時になるあたりのシーンは、クラブに入り込んだスー(娼婦バージョン)がカタリーナに「Mr.K」のことを教えられ、死ぬほど階段を登ったところにある彼のオフィスで身の上話をしている真っ最中。「ナニがどーなったかわかってもらおうと思って話すんだけどね。これがまた、ナニがどのよーな順番で起きたのやら、自分にはサッパリなのよ(I'm going to tell you so's you'll undersand how it went. The thing is, I don't know what was before or after)」ってなことを話をしている最中であります。

うーん、これはこれで意味深だけど、なんかイマイチ詰まらんな(笑)。

ということで、今度は作品内作品が始まったと思われるあたり、「訪問者その1(Vistor#1)」ことザブリスキーおばちゃんがニッキーの家を訪れるシーンの頭(0:08:49)を起点として、「2時間15分25秒」経過したシーン(2:23:49)をば観てみる。

……すると、おお、なんということでしょう(笑)。ちょうどスーがスクリュー・ドライバーでお腹を刺された直後、ドロシー・ラムーアの星の上で暑苦しく悶絶している最中が「午前12時」なのだな。とすれば、その後のシーンで「路上生活者 その2(Street Person #2)」のNAE姉ちゃんが言ってた「(今は)真夜中過ぎぐらい」という時刻は、ヒジョーに正しかったのだ。すごい体内時計だ(笑)。

その他、何度か画面内に「時計」が映るシーンがあるんだが、割と表示時刻はバラバラ。完全にリアル・タイムで作品が進行しているわけでもなさそうだ。

・スミシーの家の壁時計(1:04:02)「11:59:40」?
・「訪問者その2」の腕時計(1:58:34)「10:47」?
・無人の映画館の階上にある柱時計(2:39:49)「12:13」
・3回目の「Axxon N.」の後の柱時計(2:41:13)「12:13」
・廊下の柱時計(2:41:58)「12:22」

うーむ、ホームレスの体内時計のほうが正確かもしれん。そーゆー問題ではないかもしれんが(笑)。

(なんだかんだで続く)

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