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「インランド・エンパイア」を観た(2回目)

2007年8月25日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (8)

ヨタ話はもそっと続く(笑)。

すでにどこかで指摘があるかもしれないが、「Axxon N.」の文字がある周辺では、「観ることと観られることの転倒」すなわち「主体と客体の転倒」が発生している。つまり……

(1) スーがスタジオに入ると、台本あわせを行っている自分たちの姿を見るというシーン
(2) 娼婦であるスーが、通りの向こう側に娼婦仲間と談笑している自分を見るシーン
(3) 誰もいない映画館で、ニッキーがスクリーンに映し出される自分自身を見るシーン。

……の計三回。

「Axxon N.」ってナニ? についてだが、これは映画のシーン撮影開始時に監督がキューを伝える「Action!」のことではないかという説がある。まあ、これについては真偽のほどは定かでないが、いずれにせよ「Axxon N.」はまさしく「『演技者』が『登場人物』へと移行する瞬間」、つまり「主体と客体が転倒する瞬間」を表すマーキングとして理解できるような気がする。

そして、この「Axxon N.」が表れる前後のシーンおよび「シルクの穴を通して世界を観る」シーンは、ともに「インランド・エンパイア」におけるネスティング構造の括弧"()"が発生するポイントとして、編集面から作品構造をみるうえで足掛かりなる可能性があると思う。こうした「括弧の発生」に関して、実は過去作品に関する限り、リンチは律儀に映像文法を守ってきた(その括弧がなにを意味するかの違いはあっても)。自身の編集であることや作品内容を考慮しつつ、さて、今作ではそのあたりはどうなっているか。三回目の鑑賞ではそのあたりを中心にして確認するつもり。

ところで、(1)シーンや(2)のシーンにおいては、「観られる側の消滅」つまり「客体側の消滅」や、「観る側と観られる側の転倒(あるいは入れ替わり)」が描かれているのに対し、(3)のシーンでは若干、構造が違うように思う。だいたい、「Axxon N.」が出現ポイントも、映画館のスクリーンに自身が映っているのをニッキーが観た「後」だったりするのが、こちらの妄想をいろいろ喚起してくれるのだな(笑)。

また、「括弧の発生ポイント」として、当然ながらロスト・ガールがモニターを観ているシーンも含まれてくると思うのだが、もっとも後ろの受けの括弧")"となるはずの「ロスト・ガールとニッキーの抱擁シーン」において、モニター上にこの二人の姿が映しだされているのも「観る側観られる側の問題」という観点からすると意味深だ。そして、このとき、「モニターに映る二人の背後に映っているモニターの中に、また二人とモニター画面が映る」という具合に「合わせ鏡の無限」が発生しているはずなのだが、これも「受容者の数だけ世界=映画の解釈(誤読)が発生している」ことの表れとして、象徴的に読んでしまいたいところだ。

それにしても、最後、スーが「Rabbits」の部屋から照明の点いた映画館の天井を見上げるシーンは、このロスト・ガールの括弧の外にあるのだな。

あとは、腕時計に象徴される「時間」の要素だろうか。ロスト・ガールがスーに「時計を用意しろ」と伝え、その後スーが腕時計を腕に巻くシーンが作中にあるが(DVDの未公開シーンとあわせて考えると)、この「腕時計」が象徴するものがそれなりに重大な要素となっているような気がする。

それにしても、9時45分から「インランド・エンパイア」を観始めると、確かに観終わるのは「真夜中過ぎ」だな。実時刻にあわせて鑑賞してみて、午前12時過ぎに作品内では何事が発生しているか、ちょいと確認してみたい衝動にかられるのだが。

なんか駆け足になったけど、ということで三回目に突入です(笑)。

2007年8月21日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (7)

雑感めいたことなど。

まずは、海外の関連掲示板で拾った小ネタ。「インランド・エンパイア」に登場する「47」という数字について。実はこのようなサイトが存在する。

このサイトによれば、人間が何の法則性もないランダムな数字を決めなければならないとき、もっとも思いつく頻度が高いのが「47」という数字であるらしい。その真偽のほどは定かでないし(日本では「ウソのごさんぱち(5・3・8)」っていうし)、リンチがこれを踏まえたのかどうかも不明だ。だが、もしこの説に従うとすれば、「47」という数字はなんら特殊な意味をもたない「一般性」を表していることにならないだろうか。「スミシーの家」に続く、もうひとつの「匿名性」である。

つまり、作中に出てくる映画のタイトル「47」は、「どの映画でもなく、同時にどの映画でもあり得る」ということだ。転じて、「映画全般を指すタイトルである」という言い方もできるかもしれない。あえて限定するとすれば「製作が中断された映画全般」ということになるが、となると「クィーン・ケリー」がそこに含まれるのは当然だし、リンチ自身の「ロニー・ロケット」もそれに連なるのだろう。

また、扉に「47」という番号のついた部屋も、「匿名性」という点で「スミシーの家」と同義であるといえる。そう考えると、この二つの部屋がつながっていることには何の不思議もない。もともと、このような「なんらかの意味で同義の場所がつながる」という表現は、リンチ作品によくみられる。「ロストハイウェイ」における、「アンディの家の2階」が「ロストハイウェイ・ホテル」に変貌するシーンがその好例だ。

ところで、冒頭に挙げたサイトでは、日常における「47」という数値の目撃例を募集している。面白そうなので、自分も注意して捜してみようと思っているのだけど、日本でも見つかるかどうか。

(まだ続く……のか?)

2007年8月20日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (6)

リンチは「インランド・エンパイア」のことを「今まで自分が作ったなかで、もっともシンプルな作品」とコメントしているらしい。では、いったい、どこがどのようにシンプルなのか?

「ロストハイウェイ」においても「マルホランド・ドライブ」においても、リンチ特有の非ナラティヴな表現を理解した先に浮かび上がる、いわば「大胆な省略を受けたストーリー」とでもいうべきものが存在した。そうした観点に立ったとき、「インランド・エンパイア」が備える「(もっとも上位の視点からみた)省略を受けたストーリー」は、確かにいままでのリンチ作品のなかでもっともシンプルだ。前項まで論じてきたように、この作品は「映画を観ている観客が、それを観終わるまでの話」でしかないのだから。

もちろん、リンチ作品をこのようにナラティヴな観点から捉えることの「不毛さ」は、あらためて指摘するまでもない。それでは、掬いとれるものよりも取りこぼすもののほうが多すぎる。そういう意味では、「ロストガールが『47』の主演女優その人である」とする今野雄二氏の読み方も、ナラティヴな観点に傾きすぎている(かつ、「複雑」すぎる)ように思え、個人的にはあまり魅力を感じない。

そもそもリンチの非ナラティヴな作品に対して、「表面上のストーリー」を追いかける方法論が無意味であることはいうまでもない。しかし、同様に、最初から「省略されたストーリー」が存在することを当然であるかのように想定し、それを読み取ろうとする方法論も、やはりナラティブにリンチ作品を理解しようとしているという点では等価であり、本末転倒なのではないだろうか? それはいわゆる「謎解き」の範疇に収まり、「解釈」の域ではないような気がする。「省略されたストーリー」は、リンチの映像表現を「映像表現」として解釈した後にレファランスとして副産物的に姿を現すものであり、それ自体は作品の本質ではないはずなのだから。

(まだ続く……かな?)

2007年8月19日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (5)

「インランド・エンパイア」の構造をもっとも上位の視点からみるとき、そこに提示されているのはTVモニターに映し出される映像を観ているロストガールの「意識の流れ」や「心象風景」だ。そういう点では「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」と変わらない。

ただし、この二作品はフレッドやダイアンといった主人公の「意識の流れ」のみを描いており、主人公の「感情」に基づいて、作品内で発生するすべての事象を理解可能だった。「インランド・エンパイア」が大きく異なるのは、前述したように、主人公の自己投影の対象が同時に他者の自己投影の対象でもあり、かつその他者自身に主人公が自己投影を行っていることだ。こうした何層にもわたる自己投影のネスティング構造は、過去のリンチ作品にはなかった。

こうしたネスティング構造の結果、「登場人物=スーザン」に投影されている思いがニッキーのものなのか、それともロストガールのものなのか、あるいはロストガールが自己投影しているニッキーのものなのか、まったく判然としない。もちろん、それこそがリンチのいう「映画の魔法」の本質である。創作者と受容者が「世界=映画」を共有体験すること、そしてそれを可能にする映画というメディアのこと、「インランド・エンパイア」はそういったものについての映画なのだから。

そして、我々は「インランド・エンパイア」という「世界=映画」によって、「『世界=映画』を体験すること」を体験する……そこに、もうひとつの新たなネスティングを発生させながら。

さて、この映画のキャッチ・フレーズである「A WOMAN IN TROUBLE」についても自分の考えを述べておこう。まず「トラブルに巻き込まれた女性」とは、いったい誰なのか? 作品の基本構造においてロストガールの軸が「上位」であることからして、第一義的にはロストガールを指すと考えるのがもっとも妥当ではないかと思う。

しかし、では、ロストガールが巻き込まれた「トラブル」とはなんなのか? ここでは、モニター上で繰り広げられる「世界=映画」のなかで受容者であるロストガールが「体験」したものだ……というふうに反語的に捉えておきたい。つまり、ロストガールには現実的なトラブルは、一切、降りかかっていない。にもかかわらず、涙を流すほどの「感情移入」を彼女に促し、リアルにトラブルを「体験」させるのが「映画の魔法」だということだ。

映画が終わり「世界が終わった」とき、ロストガールは彼女の現実に帰還する。そこには、愛する男性や息子の抱擁が待っているのだ。

(続く)

2007年8月18日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (4)

もうひとつの「演技者=受容者」の等式についても述べておこう。つまり、私人としての「演技者」に対する「受容者」の同一化についてだ。

「インランド・エンパイア」においてそれを端的に表しているのは、ダイアン・ラッド演じるマリリン・レーヴェンスが、自分のTVショーにニッキーとデヴォンをゲストとして迎えるシークエンスだろう。

「火のないところに煙を立てる」のがレーヴェンスのような芸能記者の仕事であるならば、それを「スターが夢を作り、夢がスターを作る」といった美辞麗句で飾り立てるのが芸能業界だ。では、その「夢」とはいったい誰がみている夢なのか?

それが「不特定多数の受容者」の「夢」であることは論を待たないだろう。たとえ、それがもともとは「捏造」されたものであってもだ。ポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、観客は演技者の私的な部分さえも「ストーリー」として共有し消費する。

そして、不特定多数によって共有された「ストーリー」(「イメージ」と言い換えてもいい)は、ときとして「作品」に反響・反復される。あるいは、逆に「作品」から個人の「ストーリー」へと反響・反復が発生する。そう、ちょうどニッキーとデヴォンの関係のように、あるいはドロシー・ラムーアのサロンのように

もちろん、この「同一化」は一方通行のものだ。受容者が特定の演技者に思い入れることはあっても、演技者が不特定の受容者に同等の思い入れを持つことは、通常あり得ない。ここにおける「主体」はあくまで受容者であり、「客体」は必ず演技者だ。「ロストガール=受容者」を軸とした視点が「上位(メタ)」であるとする理由のひとつはここにある。

(続く)

2007年8月17日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (3)

続いて演技者であるニッキーの視点からの軸について論じるが、これには多くの言葉を必要としないだろう。さまざまな紹介記事において「演技者=ニッキー」と「登場人物=スー」の混乱については触れられている。これまた巷に流布する多くの感想でも言及されているように、こうした演技者と登場人物の混乱を描いた作品は、映画に限らず多く存在するからだ。

補完する事項があるとすれば、前々項で述べた「映像メディアにおける同一化の優位性」および「映像文法」に関連してだろう。いろいろな映像文法のテクニックは、映像が意味するものを明確に観客に伝えるためにある。逆にいうと、そうした「映像文法」が故意に無視されれば、我々は簡単に作品内の「時と場所」「現実と非現実」に関する「見当識」を失う。映像メディアを使って、「(作品内の)現実と非現実」の間に混乱を引き起こすのは非常に簡単なのだ……それも映像の備える「同一化機能」によった、ものすごくリアルな混乱を。

また、「スタニスラフスキー・システム」を基礎とする各種の「メソッド演技」については、いまさら詳述する必要もないだろう。登場人物の内面を解釈し、演技者の実体験をもとにした「情緒の記憶」を用いる演技法は、いまやハリウッドを含めてスタンダードなものといっていい。

「ニッキー=演技者」が「スーザン=登場人物」を演じるとき、そこにはニッキーによるスーザンという人物の解釈と、ニッキーの実生活における体験からくる「情緒の記憶」が介在する。言い換えれば、これは演技者による登場人物への「自己投影」であり「同一化」だ。スーザンは、ニッキーの「代弁者」であり「代行者」である。こうして「演技者=登場人物」という等号式が成立する。

さて、これで「受容者=登場人物」「演技者=登場人物」という二つの等号式ができた。当然ながら、この二つの式を統合すれば「演技者=登場人物=受容者」という式が導かれる。つまり、「登場人物=スーザン」を仲介して、「演技者=ニッキー」と「受容者=ロストガール」はつながり、同一化している。「ニッキーとロストガールの抱擁」は、この「同一化」の映像で表現したものだ。このスーザンを核にした二方向の「主体・客体のネスティング」こそが、「インランド・エンパイア」の基本構造ではないだろうか。

(続く)

2007年8月15日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (2)

前項で前述したように、「映画=世界」には現実が抱えるさまざまなトラブル(を含める出来事}が投影される。なぜなら、そうした「映画=世界」を創る者もまた一個の人間存在に他ならない以上、創られた「映画=世界」には創作者の直接的間接的な体験がなんらかの形で投影されざるを得ないからだ。創作者はそうした自らの体験を咀嚼し、解釈し、作品を創造する。そういう意味では、創作物は通常、創作者の意識(あるいは無意識)の範疇を出ない。創作物にそれ以上のもの付け加え普遍性を与えるのは、受容者による「解釈」(あるいは「誤読」)だ。

そして、これも前述したように、受容者の作品に対する「解釈=誤読」も、自己の直接的間接的体験に基づいて行われる。言い換えればそれは、登場人物ひいては作品に対する受容者の自己投影だ。「インランド・エンパイア」におけるニッキー=スーの言動には、受容者であるロストガールによる体験に基づいた自己投影、すなわち「解釈=誤読」が行われている。つまり、リンチが「インランド・エンパイア」で映像として提供しているのは、TVモニターに映しだされる「映像」に対するロストガールの「解釈=誤読」の結果だ。

言葉を変えれば、「受容者=ロストガール」を軸にした視点からみた場合、「インランド・エンパイア」はロストガールの「意識の流れ」や「心象風景」を描いているともいえる。同一化の対象である「登場人物=スー」は、ときとしてロストガールの代弁者になり、代行者となる。たとえば、階段を上った部屋で「登場人物=スー」が「眼鏡の男」に話す身の上話は、果たしてすべて「登場人物=スー」あるいは「演技者=ニッキー」自身のことだろうか? そこには、「受容者=ロストガール」の意識が反映されてはいないだろうか?

この「主体・客体のネスティング」こそが、「インランド・エンパイア」の持つ構造の本質であるような気がする。「主体と客体の転倒・混同・混乱・同一化」は、「登場人物=スー」と「演技者=ニッキー」の間にとどまらず、「受容者=ロストガール」と「登場人物=スー」の間でも同時に発生しているのだ。

(続く)

2007年8月14日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (1)

では、再鑑賞後に考えたあれこれをば。

まず作品の基本的な構造だが、「インランド・エンパイア」は大きく分けて二つの軸を持っている。すなわち

・ロストガール(受容者)からの視点の軸
・ニッキー(演技者)からの視点の軸

の二つだ。

「インランド・エンパイア」は、この二つの軸のどちらからもアプローチ可能な複合的構造をもっている。つまり、どちらの視点からも観ることができるわけだが、この二つの視点は「スーザン(登場人物)」を中心にしてあちこちで絡みあう構造になっており、いずれにせよ両方の視点からのアプローチが必要になる。ただし、ロストガールを軸とした視点からアプローチしたほうが構造的にわかりやすく、かつより上位(メタ)に捉えられる部分があると思われるので、ここではそういう順序で論じる。

そもそもロストガールとはだれか? ここでは「不特定多数の一般的な受容者の総体」として捉えたい。つまり、実生活では日常的な家庭内のトラブルを抱えるごく一般的な観客の典型例であり、「”スミシーの家”に住む(文字どおり)匿名の存在」である。彼女が直接的間接的に抱えるトラブルとは、「インランド・エンパイア」で繰り返し登場する「家庭内暴力」「不倫」「性生活の不具合」「殺人」など、要するに今ここにいる我々の現実に偏在するものだ。

そして、「一般的な受容者」である彼女の観ている「番組」には、彼女が直接的間接的に体験しているのと同様のトラブルを抱える人物たちが登場している。もし、ある作品がなんらかの人間存在を描いているのであれば、受容者が現実に体験するトラブルに類似した問題を抱える登場人物が現われるのは必然だ。「東欧訛りの新しい隣人」がニッキー=スーに伝えるように、「結婚」と「殺人」の物語が、ロストガールの観るモニターに映されるいろいろな映像において、さまざまな形で繰りひろげられる。ロストガールは、モニターのなかの登場人物たちに共感し、感情移入し、同一化し、登場人物たちが住む「世界」に没頭する。

デイヴィッド・リンチは「映画」を「ひとつの世界」と捉え、映画を観るという行為をその世界を「体験」することに例えている。この例えは、自らの発言や著作で繰り返し言及されており、リンチが抱く映画というメディアに対する基本的な考えであることがうかがえる。それこそがリンチの言う「映画の魔法」なのだろう。そして、その例えのとおり、ロストガールはモニターの映像を観ることによって、「世界」を「体験」しているのだ。その「体験」とは、「受容者」による「登場人物」に対する「感情移入=同一化」によってもたらされるものに他ならない。そこでは、「登場人物=受容者」という等式が成立している。

ところで、「同一化」というのは、たとえばベラ・バラージュが「映画の理論」(1949)で述べている映画というメディアが持つ特性のことだ。つまり、映画は文字等の他メディアに比べて、「感情移入装置」として優位にあるという指摘である。バラージュはその優位性の理由を、映画が備える「カメラの視点」に求めた。映画のカメラは、あるときはロングの視点によって全体的な姿を描き、あるときはクローズアップによって一部を拡大強調して切り取り、製作者の意図にしたがって観客の感情を喚起させつつ「世界」を観せる。また、ときとして登場人物の視点となり、彼・彼女が見るものを受容者に「体験」させるとともに、彼・彼女が抱く感情を受容者に伝える(もちろん、ここには映像文法が介在する)。リンチが「映画を観ること」を指していう「世界を体験する」とは、こうした映画というメディアが持つ特性への言及以外のなにものでもない。

この「カメラの視点」を念頭におくと、「インランド・エンパイア」に登場する「煙草の火によって開けられたシルクの穴から覗き見る行為」が何を指すのかは明快だろう。これはまさしく「カメラから覗く行為」ではないのか? そうして覗かれた「モノ」は現実から切り取られ、まったく別の独立した「世界=映画」となるのではないのか?

(続く)

追記:キャスト表等をみる限り、「インランド・エンパイア」に登場する「スミシー」のスペルは「Smithy」であり、映画スタッフが何らかの理由でスタッフ・ロールに名前を出さないことを希望するときに使われる「アラン・スミシー(Alan Smithee)」(あるいはAllen Smithee,、Alan Smythee、Adam Smithee)とは異なっている。だが、そもそもアラン・スミシーという架空名は、「The Alias Men」のアナグラムにであると同時に、「実在するとは考えられない名前である」という理由で全米監督協会(Directors Guild of America)によって選ばれている。つまり、Smitheeというのは人名としてはあり得ないスペルなのだ。自作内で「スミシー」という名前を使用するに際して、リンチは人名として実在の可能性がある(少なくとも「屋号」としては存在する)「Smithy」に置き換えたのかどうか? とりあえず、ここではその方向で話を進める。

2007年8月12日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (7)

えー、北米版DVDを入手できたので、自宅で再見。ああ、途中でちょっと止めて飲み食いできるトイレに行けるタバコも吸えるで、楽チンです、ごめんなさい、リンチ。

IEdvd_01 IEdvd_02

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しかし、アレだなあ。観返してみて気がついたんだけど、「ニッキー=スーとロストガールの抱擁」のシーンで流れる曲「Polish Poem」の歌詞って、すんげえ意味深というか、見方によってはほとんど映画の内容説明に近いんではないかしらん? これって日本語字幕では訳されてたっけか? もし訳されてなかったとしたら、日本の観客には相当なハンデかもしれんなあ。

その他、当然ながら、細かいシーンの確認やつながりが確認できました。そうか、あのカットって「映画館の天井」だったんだとか、あの腕はあの人の腕だったのかとか、初見ではわかんなかったよ。やっぱ、観てるようで観てないもんだ。

その他、いろいろ細かく軌道修正中だけど、「映画作品と演技者と受容者の関係性、そしてその関係を成立させるもの」を描いているという基本的な理解は変わらずで、も少し考えがまとまったら追記してみるです。

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