フォト
2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2014年2月 | トップページ

2014年10月

2014年10月26日 (日)

「David Lynch: In Theory」をば読む

In_theory つなわけで(どんなわけだ)、続くときは続いてしまうリンチ関連本ネタであります。今回の『David Lynch: In Theory』は、リンチ作品についていろんな人が書いた論文を集めた論文集となっております。

リンチに関する論文集としては、例えば『Critical Approches to Twin Peaks』とか『Twin Peaks in the Reaview Mirror』なんかがあって、特にこの二冊では、人文学や文学や西洋史、あるいは女性監督と作家論の関係など、多岐にわたる視点から『TP』が論じられておりました。それに対し、本書は精神分析批評をベースにした論文が多いのが特徴。それがゆえにヴァリエーションに欠けている点は否めないわけですが、まあそのあたりは、編者であるFrancois-Xavier Gleyzon氏の方向性ちゅーか趣味ちゅーかの問題ですわね。で、その中から、ナニかしら面白かったところがあったものを選んでピックアップ。

・Red Velvet: Lynch's Cinemat(ograph)ic Ontology / Greg Hainge
トム・ガニングのいう「アトラクションの映画(Cinema of Atraction)」の概念が、リンチ作品に当てはまるのではないかという提起。
ガニングの理論自体がエイゼンシュタインの「アトラクション」の概念をベースにしてるわけだけど、そこで言われている「受容者に対する攻撃性」やら「モンタージュによる思想(リンチの場合は感情だが)の伝達」という点で、確かにリンチ作品はそれらに近い特性を備えているといえるかも。ただ、大元のガニングの論文が「ナラティヴ」と「アトラクション」が互いに排他的関係にはないとは言及しているものの、「非ナラティヴ」と「アトラクション」の関係性については、実は1917年以前の初期映画が備える非ナラティヴ性(というか、ナラティヴの軽視)について述べられているだけで、それこそリンチ作品が備えるような非ナラティヴ性との関係については、あんまり明確にされていない。なので、著者の「リンチ作品は統一されたナラティヴを備えてないから、アトラクション」という理論展開にはちょっと違和感があるんで、もちっと違った方向からリンチ作品の「アトラクション性」が論じられてもよいんではないかいという気がしたことでした。

・Eraserhead: Cpmprehension, Complexity, & Then Midnight Movie / Gary Bettinson
理解への手がかりをリンチがあちこちに散りばめていることについて。
リンチ作品がナラティヴに頼らないで「感情の喚起」を直接行っていることは、まったくもってそのとおりで、前述の「アトラクションの映画」としてのリンチ作品というのもこれに重なるわけで。
後半で述べられている、1970年代「ミッドナイトシネマ」における受容モード話がおもしろい。映画館で観客がわやわや騒ぎつつ「嫌悪感を共有する」というのは、現在における「いわゆるダメ映画」の受容モード(特にビデオ・DVDでのグループ受容)と重なるんではないか。でもってこれは、たとえばニコニコ動画などのSNSでの受容モードなんかにも引き継がれているわけですね。

・"Baby Wants Blue Velvet": Lynch & Maternal Negation / Jason T. Clemence
内容はともかく、出だしが面白い。

”スティーヴ・ジェイ・シュナイダーが『イレイザーヘッド』についてのエッセイで弁解気味に書いていたように「ここまで、私は使い古されたフロイト主義に頼らずに述べてきた。だが……」”

とまあ、著者自身が認めているとおり、この後は特筆すべきところのない精神分析批評が展開されるわけですが、こうなってくるとむしろ興味深いのは、それでもリンチ作品の神分析批評を試みてしまう「批評側の心理」の方であったりしますな。
にしても、『ブルーベルベット』がフェミニズム批評や精神分析批評に対する「巨大な釣り針」として機能し、ほとんど入れ食い状態であったことは映画批評史にとどめるべきだと思う今日この頃(笑)。

・Lynch, Bacon & The Formless / Francois-Xavier Gleyzon
ジョルジュ・バタイユ→フランシス・ベーコン→デイヴィッド・リンチという、「ゆがんだ顔」の系譜について。それはあくまで「ゆがんだ」ものであり、決して「形がない」ことではなく、時系的なものである、と。このあたりは「リンチ作品が絵画を時系列的に展開したものである」という個人的見解と重なるかも。
そのなかでも、「開かれた口」に注目。ゲロの出口としての口(『吐き気を催す六人の男』)。汚れの体外への棄却とか。汚れたものであると同時に、聖なるものでもある唾液とかとか。
これ、論文というよりエッセイに近い文章で論旨的なものは曖昧なのだけど、割と面白く読ませていただきました。

・David Lynch & The Cinema D`auteur: A Conversation with Michel Chion/ Garay Bettinson & Francois-Xavier Gleyzon
ミシェル・シオンへのインタビュー。
自著『David Lynch』でリンチの生い立ちに触れただけなのに、インタビュアーから「作者の死」がどーの「作家論」的アプローチがどーのと、ネチネチきかれ、シオンも最初は「いや、リンチの立ち位置を明示しておきたかっただけ」と答えていたのが、それでもネチネチネチネチいわれて次第にイラついてくる感じがスリリング(笑)。
「作者が作品を作るのではない。作品が作者を作るのだ」という見解をシオンは述べるも、それでもインタビュアーはネチネチネチネチネチネチききつづけ、ついに彼が「リンチの幼少期のトラウマなんか、オレには関係ねー!」と半ば切れたところで、インタビュー終了。あらま(笑)。
2009年に行われたインタビューらしいのだけど、未だにバルトの「作者の死」を盾に「作家論」的アプローチが批判されているところが、むしろ個人的は驚きだったりなんかしました。

……てなところでしょうか。個人的には「米国の映画学の実証的なアプローチ」と「英欧の映画学の思索的なアプローチ」の差異が、割とはっきり見て取れた印象があって、その意味でも面白かったかも。

あ、それと、日米アマゾンさん、この本のカスタマーレビューが、ミシェル・シオンの『David Lynch』のカスタマーレビューのものになっちゃってますよー。同じような書名なんで、間違っちゃったですかね。ではでは。

「Good DAY TODAY: DAVID LYNCH DESTABILISES THE SPECTATOR」を読む

Good_day_today 忘れた頃にやってくるリンチ関連本ネタでありますが(笑)、こちらは同じ関連本でも、「なぜ、リンチ作品はわからないのか」に焦点をあてたという、ちょっと変わったアプローチの本。

まあ、なんといいますか、世の中には大概自分と同じことを考えている人がいるもので、著者のDaniel Neofetou氏もリンチ作品が採用している編集技法……彼の定義を借りれば「古典的写実主義映画(classic realist film)の技法」に着眼した議論を展開しています。「古典的写実主義映画の技法」っつーとナニがナニやらですが、当然ながらこれは「ハリウッド映画が採用している技法」とイコール。ということは、これまた当然ながら(拙ブログでも述べているとおり)、コンティニュティーを重視した「ナラティヴの記述に特化した映像技法」であるわけで、はたまた当然ながら著者もそれを前提としています。

著者曰く、「通常であれば、こうした古典的者術主義映画の技法は、観客が統一された映像時空間(ディジェーシス/diegesis)を構築するのを助け、物語に関する全知的視点を与える。だが、同じ技法を使いながら、リンチ作品は統一された映像時空間の構築を妨げ、全知的視点の獲得を阻害する」。うわ、何のこっちゃでありますが、もんのすごく極端に単純化していうなら「他のハリウッド映画と同じ映像技法を使っているのに、それらの作品に比べてリンチ作品はすんげえわかりにくい」という話でありますな。

ここで、著者は、デヴィッド・ボードウェル(David Bordwell)の『Narration in the Fiction Film』を引用するとともに、ロシア・フォルマリズムにおける映画理論用語である、「ファブラ(fabula)」と「シュジェート(syuzhet)」という概念に触れます。ものすごく単純にいえば、ファブラは「内容」、シュジェートはその内容を述べる「方法」を指します。つまり、通常のナラティヴな映画に当てはめていうと「ストーリー」と「実際の映像」の関係、あるいは「物語内容」と「物語言説」の関係と理解しとけば、とりあえずはOKかなと。そのうえで、著者は、リンチ作品を部分的なシュジェートは成立しているが、ファブラが理解できない例と説明します。言葉をかえれば、シークエンス単位での部分的な意味形成はされているが(あるいはそれを知覚できるが)、全体を通しての意味形成ができていない(あるいはそれを知覚できない)と言ってるワケでありますな。

んでもって、なんでそーなるのか……についてでありますが、大きなところで著者がまず挙げるのが「キャラクターの不一致」および「時空間の不一致」であります。『ロストハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』における「登場人物のアイデンティティーの変化」や「時系列の混乱」や「場所の混乱」でありますね。あわせて、編集技法そのものにおけるより詳細な例として「極端なクローズアップ」「ある対象物に対する長回し」などが挙げられています。また、より大きなところでは、「客観視点」と「主観視点」の境界があいまいなことにも触れられています。

……とまあ、ここまでは基本的にまったくもってそのとおりと思える部分が多いんですが……この本の残念なところは、こうした映像技法上の例示と「その結果ナニがわからなくなっているか」で話が終わってしまっていることであります。リンチ作品理解においてもっとも問題なのが、作者も指摘しているように「ファブラ=物語内容」の理解・把握が困難なことなのですが、結局のところリンチの各作品の「ファブラ=物語内容」が何であるのか、あるいはリンチ作品における「ファブラ=物語内容」と「シュジェート=物語言説」との関係性について、著者はまったく触れていません。なおかつ「語義的にはリンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としつつも、ではリンチ作品が「ファブラ=物語内容」レベルでどのようなナラティヴを構築しているのかについての言及もありません。

んー? と思って読み進めるうちに、わかってきました。どうやらリンチ作品における「ファブラ=物語内容」については、著者はこの本ではもともと触れるつもりがなかったんであります。最終的に著者が言いたいのは、リンチ作品の「わからなさ=理解不能性」はそれ自体に重要性があり、それは大多数派の基準(Norm)というか既成概念を破壊し、新しい角度からの視座を与えるものだ……ということなのであるらしく。

いやー、なーんだ、そうだったのかー。

……いや、いろいろとちょっと待ってよ、であります。それじゃリンチ作品の機能って単なる「異化作用」だけじゃん……というのはともかく、先に触れたとおり、著者は「リンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としながらも、ではどのようナラティヴを構築しているか、具体的な言及を一切していません。まずこの点を論証しておかないと、リンチ作品における「内容」と「言説」の関係性を論じるのは不可能なのでは。

その一方で、著者は、リンチ作品の「言説」が「内容」の理解を阻害していると繰り返し述べます。が、著者のいう「古典的写実主義映画の技法」がナラティヴの記述と伝達に特化して発達してきた「言説」であることを考えるとき、ではそれが非ナラティヴな「内容」を記述・伝達しようとしたならば、果たしてどのようなことになるのか……。個人的にはリンチ作品にみられる「言説」と「内容」の乖離は、まさにそのケースであると理解しています(例えばリンチ作品にみられる表現主義的手法の多用は、その具体例である、と)。でもって、著者が挙げている「内容理解を阻害している言説」の諸例は、とどのつまり「非ナラティヴな内容」を「ナラティヴの記述に特化した映像技法」で表現した結果に他ならないのではないか……というのが、個人的な見解であります。

というわけで、いろいろうなずけるとことがある一方で、いちばんオイシイところが抜けていて、ちょっと何かもやっと消化不良な感じでありました。と同時に、この本を読んだことが、同時にリンチ作品における映像表現や編集技法について再度考えるよいきっかけになったのも事実であります。著者にはこの本を土台にして、リンチ作品の「(物語)内容」まで踏み込んだ議論を期待したいと思いますデス。

« 2014年2月 | トップページ

最近のトラックバック