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2014年10月26日 (日)

「Good DAY TODAY: DAVID LYNCH DESTABILISES THE SPECTATOR」を読む

Good_day_today 忘れた頃にやってくるリンチ関連本ネタでありますが(笑)、こちらは同じ関連本でも、「なぜ、リンチ作品はわからないのか」に焦点をあてたという、ちょっと変わったアプローチの本。

まあ、なんといいますか、世の中には大概自分と同じことを考えている人がいるもので、著者のDaniel Neofetou氏もリンチ作品が採用している編集技法……彼の定義を借りれば「古典的写実主義映画(classic realist film)の技法」に着眼した議論を展開しています。「古典的写実主義映画の技法」っつーとナニがナニやらですが、当然ながらこれは「ハリウッド映画が採用している技法」とイコール。ということは、これまた当然ながら(拙ブログでも述べているとおり)、コンティニュティーを重視した「ナラティヴの記述に特化した映像技法」であるわけで、はたまた当然ながら著者もそれを前提としています。

著者曰く、「通常であれば、こうした古典的者術主義映画の技法は、観客が統一された映像時空間(ディジェーシス/diegesis)を構築するのを助け、物語に関する全知的視点を与える。だが、同じ技法を使いながら、リンチ作品は統一された映像時空間の構築を妨げ、全知的視点の獲得を阻害する」。うわ、何のこっちゃでありますが、もんのすごく極端に単純化していうなら「他のハリウッド映画と同じ映像技法を使っているのに、それらの作品に比べてリンチ作品はすんげえわかりにくい」という話でありますな。

ここで、著者は、デヴィッド・ボードウェル(David Bordwell)の『Narration in the Fiction Film』を引用するとともに、ロシア・フォルマリズムにおける映画理論用語である、「ファブラ(fabula)」と「シュジェート(syuzhet)」という概念に触れます。ものすごく単純にいえば、ファブラは「内容」、シュジェートはその内容を述べる「方法」を指します。つまり、通常のナラティヴな映画に当てはめていうと「ストーリー」と「実際の映像」の関係、あるいは「物語内容」と「物語言説」の関係と理解しとけば、とりあえずはOKかなと。そのうえで、著者は、リンチ作品を部分的なシュジェートは成立しているが、ファブラが理解できない例と説明します。言葉をかえれば、シークエンス単位での部分的な意味形成はされているが(あるいはそれを知覚できるが)、全体を通しての意味形成ができていない(あるいはそれを知覚できない)と言ってるワケでありますな。

んでもって、なんでそーなるのか……についてでありますが、大きなところで著者がまず挙げるのが「キャラクターの不一致」および「時空間の不一致」であります。『ロストハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』における「登場人物のアイデンティティーの変化」や「時系列の混乱」や「場所の混乱」でありますね。あわせて、編集技法そのものにおけるより詳細な例として「極端なクローズアップ」「ある対象物に対する長回し」などが挙げられています。また、より大きなところでは、「客観視点」と「主観視点」の境界があいまいなことにも触れられています。

……とまあ、ここまでは基本的にまったくもってそのとおりと思える部分が多いんですが……この本の残念なところは、こうした映像技法上の例示と「その結果ナニがわからなくなっているか」で話が終わってしまっていることであります。リンチ作品理解においてもっとも問題なのが、作者も指摘しているように「ファブラ=物語内容」の理解・把握が困難なことなのですが、結局のところリンチの各作品の「ファブラ=物語内容」が何であるのか、あるいはリンチ作品における「ファブラ=物語内容」と「シュジェート=物語言説」との関係性について、著者はまったく触れていません。なおかつ「語義的にはリンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としつつも、ではリンチ作品が「ファブラ=物語内容」レベルでどのようなナラティヴを構築しているのかについての言及もありません。

んー? と思って読み進めるうちに、わかってきました。どうやらリンチ作品における「ファブラ=物語内容」については、著者はこの本ではもともと触れるつもりがなかったんであります。最終的に著者が言いたいのは、リンチ作品の「わからなさ=理解不能性」はそれ自体に重要性があり、それは大多数派の基準(Norm)というか既成概念を破壊し、新しい角度からの視座を与えるものだ……ということなのであるらしく。

いやー、なーんだ、そうだったのかー。

……いや、いろいろとちょっと待ってよ、であります。それじゃリンチ作品の機能って単なる「異化作用」だけじゃん……というのはともかく、先に触れたとおり、著者は「リンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としながらも、ではどのようナラティヴを構築しているか、具体的な言及を一切していません。まずこの点を論証しておかないと、リンチ作品における「内容」と「言説」の関係性を論じるのは不可能なのでは。

その一方で、著者は、リンチ作品の「言説」が「内容」の理解を阻害していると繰り返し述べます。が、著者のいう「古典的写実主義映画の技法」がナラティヴの記述と伝達に特化して発達してきた「言説」であることを考えるとき、ではそれが非ナラティヴな「内容」を記述・伝達しようとしたならば、果たしてどのようなことになるのか……。個人的にはリンチ作品にみられる「言説」と「内容」の乖離は、まさにそのケースであると理解しています(例えばリンチ作品にみられる表現主義的手法の多用は、その具体例である、と)。でもって、著者が挙げている「内容理解を阻害している言説」の諸例は、とどのつまり「非ナラティヴな内容」を「ナラティヴの記述に特化した映像技法」で表現した結果に他ならないのではないか……というのが、個人的な見解であります。

というわけで、いろいろうなずけるとことがある一方で、いちばんオイシイところが抜けていて、ちょっと何かもやっと消化不良な感じでありました。と同時に、この本を読んだことが、同時にリンチ作品における映像表現や編集技法について再度考えるよいきっかけになったのも事実であります。著者にはこの本を土台にして、リンチ作品の「(物語)内容」まで踏み込んだ議論を期待したいと思いますデス。

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