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2014年10月26日 (日)

「David Lynch: In Theory」をば読む

In_theory つなわけで(どんなわけだ)、続くときは続いてしまうリンチ関連本ネタであります。今回の『David Lynch: In Theory』は、リンチ作品についていろんな人が書いた論文を集めた論文集となっております。

リンチに関する論文集としては、例えば『Critical Approches to Twin Peaks』とか『Twin Peaks in the Reaview Mirror』なんかがあって、特にこの二冊では、人文学や文学や西洋史、あるいは女性監督と作家論の関係など、多岐にわたる視点から『TP』が論じられておりました。それに対し、本書は精神分析批評をベースにした論文が多いのが特徴。それがゆえにヴァリエーションに欠けている点は否めないわけですが、まあそのあたりは、編者であるFrancois-Xavier Gleyzon氏の方向性ちゅーか趣味ちゅーかの問題ですわね。で、その中から、ナニかしら面白かったところがあったものを選んでピックアップ。

・Red Velvet: Lynch's Cinemat(ograph)ic Ontology / Greg Hainge
トム・ガニングのいう「アトラクションの映画(Cinema of Atraction)」の概念が、リンチ作品に当てはまるのではないかという提起。
ガニングの理論自体がエイゼンシュタインの「アトラクション」の概念をベースにしてるわけだけど、そこで言われている「受容者に対する攻撃性」やら「モンタージュによる思想(リンチの場合は感情だが)の伝達」という点で、確かにリンチ作品はそれらに近い特性を備えているといえるかも。ただ、大元のガニングの論文が「ナラティヴ」と「アトラクション」が互いに排他的関係にはないとは言及しているものの、「非ナラティヴ」と「アトラクション」の関係性については、実は1917年以前の初期映画が備える非ナラティヴ性(というか、ナラティヴの軽視)について述べられているだけで、それこそリンチ作品が備えるような非ナラティヴ性との関係については、あんまり明確にされていない。なので、著者の「リンチ作品は統一されたナラティヴを備えてないから、アトラクション」という理論展開にはちょっと違和感があるんで、もちっと違った方向からリンチ作品の「アトラクション性」が論じられてもよいんではないかいという気がしたことでした。

・Eraserhead: Cpmprehension, Complexity, & Then Midnight Movie / Gary Bettinson
理解への手がかりをリンチがあちこちに散りばめていることについて。
リンチ作品がナラティヴに頼らないで「感情の喚起」を直接行っていることは、まったくもってそのとおりで、前述の「アトラクションの映画」としてのリンチ作品というのもこれに重なるわけで。
後半で述べられている、1970年代「ミッドナイトシネマ」における受容モード話がおもしろい。映画館で観客がわやわや騒ぎつつ「嫌悪感を共有する」というのは、現在における「いわゆるダメ映画」の受容モード(特にビデオ・DVDでのグループ受容)と重なるんではないか。でもってこれは、たとえばニコニコ動画などのSNSでの受容モードなんかにも引き継がれているわけですね。

・"Baby Wants Blue Velvet": Lynch & Maternal Negation / Jason T. Clemence
内容はともかく、出だしが面白い。

”スティーヴ・ジェイ・シュナイダーが『イレイザーヘッド』についてのエッセイで弁解気味に書いていたように「ここまで、私は使い古されたフロイト主義に頼らずに述べてきた。だが……」”

とまあ、著者自身が認めているとおり、この後は特筆すべきところのない精神分析批評が展開されるわけですが、こうなってくるとむしろ興味深いのは、それでもリンチ作品の神分析批評を試みてしまう「批評側の心理」の方であったりしますな。
にしても、『ブルーベルベット』がフェミニズム批評や精神分析批評に対する「巨大な釣り針」として機能し、ほとんど入れ食い状態であったことは映画批評史にとどめるべきだと思う今日この頃(笑)。

・Lynch, Bacon & The Formless / Francois-Xavier Gleyzon
ジョルジュ・バタイユ→フランシス・ベーコン→デイヴィッド・リンチという、「ゆがんだ顔」の系譜について。それはあくまで「ゆがんだ」ものであり、決して「形がない」ことではなく、時系的なものである、と。このあたりは「リンチ作品が絵画を時系列的に展開したものである」という個人的見解と重なるかも。
そのなかでも、「開かれた口」に注目。ゲロの出口としての口(『吐き気を催す六人の男』)。汚れの体外への棄却とか。汚れたものであると同時に、聖なるものでもある唾液とかとか。
これ、論文というよりエッセイに近い文章で論旨的なものは曖昧なのだけど、割と面白く読ませていただきました。

・David Lynch & The Cinema D`auteur: A Conversation with Michel Chion/ Garay Bettinson & Francois-Xavier Gleyzon
ミシェル・シオンへのインタビュー。
自著『David Lynch』でリンチの生い立ちに触れただけなのに、インタビュアーから「作者の死」がどーの「作家論」的アプローチがどーのと、ネチネチきかれ、シオンも最初は「いや、リンチの立ち位置を明示しておきたかっただけ」と答えていたのが、それでもネチネチネチネチいわれて次第にイラついてくる感じがスリリング(笑)。
「作者が作品を作るのではない。作品が作者を作るのだ」という見解をシオンは述べるも、それでもインタビュアーはネチネチネチネチネチネチききつづけ、ついに彼が「リンチの幼少期のトラウマなんか、オレには関係ねー!」と半ば切れたところで、インタビュー終了。あらま(笑)。
2009年に行われたインタビューらしいのだけど、未だにバルトの「作者の死」を盾に「作家論」的アプローチが批判されているところが、むしろ個人的は驚きだったりなんかしました。

……てなところでしょうか。個人的には「米国の映画学の実証的なアプローチ」と「英欧の映画学の思索的なアプローチ」の差異が、割とはっきり見て取れた印象があって、その意味でも面白かったかも。

あ、それと、日米アマゾンさん、この本のカスタマーレビューが、ミシェル・シオンの『David Lynch』のカスタマーレビューのものになっちゃってますよー。同じような書名なんで、間違っちゃったですかね。ではでは。

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