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2014年2月23日 (日)

「ハリウッドランド 」を観た

劇場で見逃してたのを、今更ながら録画で鑑賞。

スーパーマン役の俳優だったジョージ・リーブスの死の真相……というのが表向きの主題だが、それは単なるフックに過ぎない。物語の軸は二本あり、ひとつはもちろん死に至るまでのリーブスに関する描写だが、それにもうひとつの縦軸である私立探偵ルイス・シモのエピソードが並行してからんでいく。そしてこの二本の軸は、物語の終盤、シモと死の直前のリーブスが(想像上の)視線をあわせ、シモがリーブスに自己を重ね合わせる場面で、最終的に一本の軸として合体する。

では、シモとリーブスが互いに共有したものとは何か。当然ながら、二人とも最終的に挫折する存在であることは間違いない。リーブスは『スーパーマン』打ち切りのあと新たな役を獲得することができなかったし、自らのプロダクションが立てた企画も実現しなかった。一方のシモは私立探偵の仕事がうまくいかず尾花をうち枯らしているし、なによりもリーブス事件の明確な真相にたどりつけずに終わる。だが、この二人の最大の共通項を考えたとき、この作品が実は「親と子の関係性」の物語、より限定的にいえば「父と子」の物語であることに気づく。

シモは過去の父親の行為を父権の放棄と受け取り、「情けなかった」と侮蔑する。一方リーブスは、母親から「拳銃自殺した」と聞かされた父親が、実は家庭を捨てて出ていったのであり今も生存していることを知って以来、母親との関係を絶っていた。こうした親との関係性の問題から、シモは息子エヴァンの父親であることに自信をもてないでいるし、リーブスは「拳銃自殺」に対するオブセッションを抱えていた。

こうした親子関係の「負の連鎖」は、シモの息子であるエヴァンにも及びかけている。当初「スーパーマンの自死」にショックを受けて荒れるエヴァンの姿が描かれるが、物語が進むに連れ、そのショックが「父親の喪失」によって受けた傷と同根であることが次第にわかってくる。これを最終的に示唆するのが、エヴァンがシモに支えられ、スーパーマンのように空を飛ぶ8ミリ映像だ。エヴァンにとって父親とスーパーマンは同一的存在であり、失った父親像をスーパーマンに重ねていたことがうかがえる。

映画は「シモにとっての父親としての復権=エヴァンにとっての父親の再獲得」を示唆して終わる。この移行のキーとなるのは、「事態の単純化」だ。シンクレアの妻に浮気相手などいなかったし、リーブスの死は殺人ではなく自殺であったし、親子の絆はシモの探偵廃業の決意によって回復される……。

最終的に破棄される「複雑さ」は、映像的にも表される。開巻直後の「夜空に広がる雲」や「シモの住むアパートの複雑な構造」は、「見通しのきかない入り組んだ事態」を示唆する。ところが、この当初は「複雑」とみえたアパートの構造が、調査が進むに連れて様相をを変える。たとえばパターソン刑事から密かに渡されたエドガー・マニックス関連の資料を、アパートの中庭でシモが読むシーンである。俯瞰で撮られた長回しのショットに映し出されるアパートの構造は、よくみればそんなに複雑であるわけでもない……そう、ちょうど、手掛かりを得たシモの目に映ったリーブス事件のように。

なによりもこのような「複雑→単純化の構図」を凝縮した形で提示しているのが、妻の浮気を疑っている依頼人シンクレアが、彼女を殺害した直後のシーンだ。シンクレアからの電話を受けたシモが駆けつけた殺害現場は、衣裳店のカッティング・ルームである。その内部の、ずらりと衣装が下げられたハンガーの列が並ぶ様子は、さながら迷路のように見通しがきかない。それをくぐり抜けた先に妻の死体が横たわっているのを見て、シモはショックを受ける。シンクレアの妻が浮気などしていなかったことは、調査を行ったシモには明白だったからだ。呼び出しの電話でシンクレアは「もっと裏がある」と訴えていたが、そんなものは何もない。すべてはシンクレアの思い込みであり、事態を「複雑化」させているのは彼の妄想そのものに他ならないのである。このシンクレアによる「複雑化」の所為が、リーブス事件に関するシモ自身の一連の所為にも重なることはいうまでもないだろう。

妻殺害に至るシンクレアまわりの一連の描写は、一見「クズ仕事」を引き受けるしかないシモの状況を表すだけの、あるいはシモに探偵廃業を決意させるためのサブプロットであるかのようにみえる。だが、作品を見渡したとき、シンクレアによる妻殺害が示唆する「複雑→単純化の構図」は、(リーブス事件を含めた)全体に演繹されるべきものであることがわかる。現場を去る刑事がシモに向かって、「あの(リーブス)殺害事件よりは簡単な事件だ」と言い放つが、それは実質的な「複雑さ」において、この両事件にどれほど差異があるのかという問いかけでもあるのだ。

しかし、この作品が描いている年代……リーブスの自殺が1959年6月16日であることから考えるなら、50年代から60年代へ移行しようとしている年を舞台にしていることになる。つまり、まさに価値観の変化が始まり、アメリカ社会が大きく揺れようとしていた直前の時期であるわけだ。この作品の「複雑→単純化の図式」とは裏腹に、むしろことあと世の中はより「複雑さ」を増していくことになる。50年代は表面化しなかった「トラブルを抱えた家族」の問題もあらわになって、それは離婚率の上昇という形で明確化していく。はたしてシモはこのあと、本当に父権を回復し、家族を再生することができたのだろうか?

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