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2013年12月15日 (日)

『Like Someone in Love』を観た

録画しておいたアッバス・キアロスタミ監督の『Like Someone in Love』をば観る。キアロスタミ作品において「自動車」が果たす特徴的な機能(『桜桃の味』をその典型とする)は、この作品でも明確にトレースされる。自動車に同乗し、運転者と会話を交わし、そして降りていく人々。あるいは車窓越しに交わされる運転者同士の会話……。キアロスタミ作品における「自動車の内部」は「運転者の内面」であり、それは「自動車の外郭」によって外界と区分けされ、運転者はウィンド・シールド越しに「外界」をかいま見る。すなわち、キアロスタミ作品に登場する「自動車」は運転者の「自我」であり、あるいは運転者自身なのだ。

それを踏まえつつ『Like Someone in Love』を観るとき、(映像としては提供されず音声だけで表される)末尾近くの「自動車破壊シーン」が意味するところの重大性は明らかだろう。過去の作品においては「運転者と同乗者」のディスコミュニケーションが描かれることはあっても、「自動車」への破壊行為という「極限」が描かれることはなかった。

そして作品の末尾において、その破壊行為は運転者の「家」の窓ガラスにまで及ぶ。この強烈な人間同士の断絶性の描写に、あるいは外界からの明確な侵入のイメージに、受容者は大きなショックを受けざるを得ない。

確かに、キアロスタミ作品における「自動車」には、デイヴィッド・リンチ作品における「家」に通低する部分があるといえる。しかし、それでもキアロスタミの「自動車」には他者が友好的に乗り込み、運転者とときとして心を通わしてきた。「外界からの内面への侵入」をたとえようのない不安をもって描くリンチ作品とは異なり、キアロスタミ作品における「他者」は決して「運転者の内面」を脅かす「侵入者」ではなかったのだ……少なくとも、これまでは。

キアロスタミがここまでの「他者との断絶性」を、そして「外界=他者からの内面への攻撃」を表だって取り上げたのは、大きな転換であるといえる。キアロスタミのこの転換は、果たして何に起因しているのか。あるいは日本が舞台であることと関連があるのか、ないのか。もしないのであれば、この後のキアロスタミ作品において、「他者との断絶性」普遍的なテーマとして描かれるのか……このあたりは非常に興味深く、個人的には今後のキアロスタミからは目が離せないように思う。

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