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2009年11月

2009年11月30日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (66)

もそもそと継続中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。今回はその第八回目として、(1:47:23)から(1:47:41)までをば採り上げてみる。

26号室 内部 (1:47:23)
(59)ピートのアップ。「26」の表示がついた扉を開けるピートの、部屋の内部からのショット。あたりは赤い光で照らされている。ピートが部屋の中を見た途端、ピートは顔をしかめる。
(60)ミドル・ショット。赤い光であふれる部屋の内部。歪み流れる映像。性交していると思しき男女を背後からおさめたショット。画面中央には鏡に映った女性の顔のアップ。その右には彼女の後頭部があり、画面の右端には彼女と性交しているらしき人物の裸の肩が。鏡越しにピートのほうを見ている彼女の髪は垂れ下がり、左の目は髪に覆われている。体を揺らしながら顔を上げる女性。髪で覆われていた左の目も見えるようになる。
女性: Did you want to talk to me? Huh?
(61)ピートのアップ。目を細めて、部屋の内部を見ている。左手を上げかけるピート。
(62)ミドル・ショット。赤い光であふれる部屋の内部。体を揺り動かしながら、話しかける女性。
女性: Did you want to ask me 'why?!'
(63)
ピートのアップ。開けた扉に左肘を押し当て、左手に自分の頭の左側頭部を押し付けて顔を歪める。
女性:(画面外で)[短い笑い声]
たまらず左手を引き、右手で扉を閉めるピート。

アンディの屋敷 二階の廊下 (1:47:39)
(64)ピートのアップ。バスト・ショット。画面の手前を向き、後ろ手で木の扉を閉めるピート。ドアを閉める手は画面外である。木の扉には何の表示もなく、ロスト・ハイウェイ・ホテルではなくアンディの屋敷の廊下に戻っている。
[ドアが閉まる音]
ドアが閉まり、顔を歪めるピート。肩で息をし、顔を歪める。

ピート=フレッドは「26号室」の内部に何をみたのか。前回述べたように、そこは「アンディの屋敷」のなかでも「もっとも奥まった場所」であり、それがゆえにフレッドが「もっとも隠匿しておきたいもの」が存在しているはずの場所である。それを踏まえて見回したとき、このシークエンスにはいくつかの特徴が認められる。

まず指摘しておきたいのは、カット(59)からカット(63)のシークエンスを通じて、「28号室」の内部に認められる「赤のモチーフ」である。これまで「ロスト・ハイウェイ」は幾度か「炎のモチーフ」を提示してきた。たとえば開巻直後の「煙草」(0:02:48)や「暖炉の炎」(0:16:52)(1:31:51)、あるいは「砂漠の小屋」(0:48:42)などに現れる「炎」の色をみれば了解されるように、「炎のモチーフ」は同時に「赤のモチーフ」とも重なっているといえる。逆にいえば、このシークエンスで提示される「赤のモチーフ」をそれらの「炎のモチーフ」の延長線上にあるものとして捉えることは、一定の妥当性をもつはずだ。すなわち「赤のモチーフ」は「フレッドの激しい感情」を表象しており、それは「レネエ殺害」に至る動機となったものでもあるわけだ。

もう一点、指摘しておきたいのはカット(60)およびカット(62)に現れる「歪み」である。もちろん、これは「揺れる視点」(1:21:13)や「歪む視点」(1:45:33)(1:46:53)と同系列のものであり、激しく揺れ動くフレッドの「内面」を反映として理解されるものであることは間違いない。だが、今回現れた「歪み」は、それまでに現れたものとは明らかに「形状」的に異なっている。この「形状の差異」を子細にみれば、これが”損傷した「ビデオ・テープ」を再生したときに現れる「歪み」”を意識したものであることがわかるはずだ。このことによって示唆されるのは、両カットの映像が、前半部に繰り返し登場した”「差出人不明のビデオ・テープ」によって表されるもの”の系譜上にあることである。つまり、両カットが提示する映像は、フレッドの「ありのままの記憶」に関連するものなのだ。

結論としてこれらの「モチーフ」によって示唆されるのは、やはりこのシークエンスにおいて提示される映像群が「フレッドの感情や記憶」に関連するものであり、彼にとってそれらは「隠匿しておきたいもの/忘却しておきたいもの」だということである。そして、こうした「赤のモチーフ」や「歪み流れる画面のモチーフ」を付随させつつ「26号室」の内部に現れるのは……つまりは、それがフレッドが抱いた「ありのままの激しい感情」に関連するものであることを示唆しつつ現れるのは、ある「女性」の姿である。

強調しておきたいのは、「彼女」に関する具体的映像が非常に限定的であることである。カット(60)(62)を通じて、明確な映像として提示されるのは「彼女の顔」のみといってよく、その全身が描かれることは決してない。その「彼女の顔」も「鏡像」としてしか……いわば「虚像」としてしか提示されず、「彼女の実体」として認識されるのは「後頭部」のみである。こうした「限定性」あるいは「具体性の欠如」は「彼女の動作」に関しても同様で、明らかに「性交」を思わせる動きを「彼女」はしているものの、あくまで「思わせる動き」の範疇に留まっている。具体的映像としての「性交場面」は提示されず、その「相手」と思しき男性の姿も”背後から撮られた「裸体」”(それも左肩から左後頭部にかけてという「パーツ」しか提示されない)という「曖昧な存在」としてのみ描かれる。

リンチ作品におけるこうした「具体性の欠如」や「曖昧さ」と対峙するとき、我々=受容者が念頭におかなければならないのは、往々にしてそれがリンチが描こうとしているものの「抽象性」に起因していることだ。その典型例が、たとえば「インランドエンパイア」冒頭のシークエンス(0:01:33)に登場する「顔のない男女」である。この「顔」という具体性を欠落させた男女がそれぞれ「男性と女性の抽象概念」を表し、ひいてはこの二人の関係が”男性と女性の間にときとして発生する「ある関係性」の「原型」(という抽象概念)”を表象していることに関しては、以前にも述べたとおりだ。こうした観点に立つならば、カット(60)(62)が備える「具体性の欠如」も、”両ショットに登場する「女性」がある「抽象概念」を表していること”の証左として理解されることになる。そして、「彼女」が後述するような「セクシャリティ」のイメージを付随させていることを考慮するなら、それが表象しているのは(フレッドが抱える)「女性に関する抽象概念」そのものだ。

Thedabara 両ショットで提示される「26号室の女性」の「髪型」や「化粧」等の外見的特徴は、よくいえば「セクシー」悪くいえば「あばずれ女」のそれであり、基本的にセクシャルなイメージと関連づけられているのは明瞭である。それは過去において映画が描いてきたある種の「女性像」……いわゆる「ヴァンプ」や「ファム・ファタール」に代表される「女性像」と重なるものであり、いわば「常套句的表現」に基づく「典型的悪女」であるといえるだろう。「彼女」の外見的特徴など、たとえば初代ヴァンプ女優*セダ・バラを連想させるに充分なものだ。

ただし、こうした「女性に関する抽象概念」が”フレッドが考える女性の「総体」”である限りにおいて、その「個別例」である「レネエ」もまたこの抽象概念に内包されるはずである。あるいは逆に、この「女性に関する抽象概念」は、フレッドが抱える「レネエに対する感情」を出発点として構築されているともいえるだろう。いずれにせよ、前者は後者の「特徴」を内包し、後者が前者と同一の「特徴」を共有していることは間違いなく、「フレッドにとってレネエはファム・ファタール的存在である」という認識は、このシークエンスに登場する「女性に関する抽象概念」と「レネエ」の関係性からもたらされるものである。かつ、”「抽象概念=26号室の女性」とそれに内包される「個別例=レネエ」”という関係性を踏まえるなら、前述した「具体性を欠いた性交」の問題も、”フレッドが抱える「レネエへの疑惑」”がどのような性格のものであるかの反映として了解されることになる。すなわち、彼の「レネエに対する疑惑」は何ら「具体的事実」に裏付けられておらず、もしかしたらまったく根拠のないものであることが、こうした「曖昧さ」……「示唆にとどまる動き」や「誰ともわからない性交相手」という点に現れているのだ。

さて、このように「彼女」を「女性の抽象概念」として位置づけ、それがレネエという「個別例」を包括していることを前提としたとき、”「彼女」がピートフレッドに対して投げかかる「質問」によって表されるもの”の意味合いがみえてくる。「私と話したかったのか?」(カット(60))あるいは「『なぜだ』と訊きたかったのか?」(カット(62))と「彼女」は問い掛けるが、他の登場人物と同じく「彼女」もフレッドの「代弁者/代行者」であることを考えるなら、この言及自体が指し示すものは明瞭である。フレッドは「彼女=レネエ」と話したく思っていたし、「なぜだ」と問いたかったのだ……たとえば、フレッドのライブに行かず、家で本を読みたいと言い出したレネエに対して(0:06:12)。

ここにフレッドとレネエの間に横たわっていた問題が……正確にいえば、フレッドが彼女に対して感じていた問題の一端が明らかになる。その原因は定かではないにせよ、フレッドはレネエとの間に「コミュニケーション不全」を感じており、ひいては彼女との関係性構築に失敗していると感じていたのだ。リンチが繰り返し「機能しない家族」のテーマをとりあげた作品を作ってきたことはいうまでもないが、その「機能しない家族」の多くの例が根底に「コミュニケーションの問題」を抱えていることは注目に値する。それを端的に裏付けるのが、「機能しない家族」のテーマと平行して(あるいは付随して)、同じくらい頻繁に「成立しない会話」というモチーフがリンチ作品に姿を現すという事実だ。そして、こうした「コミュニケーション不全」の結果として発生するのが「一方的な関係」性である。それはしばしば男性側の暴力を伴う「強制的な関係」であり、「ブルーベルベット」におけるフランクとドロシーの関係、「ツインピークス」におけるローラ・パーマ-とリーランドとの関係、「インランドエンパイア」におけるニッキー/スーザン/ロスト・ガールとピオトルケの関係に明確に認められるものだ。本作におけるレネエとフレッドの関係もこれらの「機能しない家族」の系譜上にあるのは明白であり、かつこの二人の間の「言語によるコミュニケーション」が機能していないことは、前述した(0:06:12)からのシークエンスにおいて、「何の本を読むのか?」というフレッドの質問に対してレネエが明確に返答しないことによっても現わされているといえる。こうしてみる限りにおいて、この「ライブに行く行かない」という遣り取りも、「成立しない会話」のモチーフのひとつとして理解されるはずだ。

それにしても、ここで提示される「女性の抽象概念」は、今日的観点からすればはなはだしく古典的なものであるのも確かだ。そして、それを成立させているのは「男性を惑わせ、狂わせる女性」という(男性側からみた、ある種身勝手な)「恐怖」である。かつ、カット(63)で「女性(の抽象概念)」がピート=フレッドに向かって「嘲笑」を投げかけることが物語っているように、この「恐怖」の根底には「自我」がダメージを受けることに対する忌避感情が横たわっていることも確かだ。あるいはそれは、「フレッドが自我を保護するために幻想を構築していること」と微妙に通底しているといえる。いずれにしても、こうした「女性に対する恐怖」がたとえばフィルム・ノワールの「ファム・ファタール像」が成立した根底にあったことは繰り返し指摘されているし、現実問題として現在においてもそれが消滅したわけではないのも事実である。

このような事項を踏まえれば、「26号室の女性」が主として「鏡に映った像=虚像」として提示されることは、あるいはフレッドの「女性に関する抽象概念」が「実体のない恐怖」に裏付けられたものであることの示唆であるようにも受け取れる。その一方で、これまでフレッドが(あるいはピートが)それぞれ「鏡に映った自分自身」と対峙してきたこと(0:37:54)(1:08:03)も同時に指摘しておくべきだろう。特に「フレッドが自分の鏡像と対峙するシークエンス」が”「幻想/捏造された記憶」の崩壊”の一過程であったことを考えるなら、「ロスト・ハイウェイ」における”「鏡」を使った諸表現”に関しては、改めて詳細に検証する必要がありそうだ。確実にいえるのは、「実体」と「鏡像」がそれぞれ裏返しの「対称関係」にあるのと同様に、「幻想/捏造された記憶・現実」と「ありのままの記憶・現実」もまた正反対のものとして「対称関係」をむすぶということだ。もし「実体」が「幻想/捏造された記憶・現実」であるならば、裏返しとなった「その鏡像」こそが他ならぬ「ありのままの記憶・現実(に関連するもの)」なのではないのだろうか? 少なくとも「鏡に映った26号室の女性」によってピート=フレッドが対峙するのは、彼が「実体のない恐怖」をレネエに対して抱いていたという「ありのままの現実」である。

付け加えるならば、カット(60)(62)の「26号室の女性」のショットは、(0:36:13)の「洗面台の鏡越しに視線を交わすフレッドとレネエ」と類似しており、この二つのショットはいわばヴァリエーションの関係性にあるといえなくもない(なによりも、ピートは「洗面所」を求めて二階にたどりついたのだ)。そして、前述した「フレッドが自分の鏡像と対峙するシークエンス」が、「彼がレネエの鏡像と視線を交わしたこと」をキーにして(つまり、”レネエに関する「ありのままの記憶」をフレッドが「目撃」したこと”を契機として)、発生したと捉えることもあながち的外れではないはずだ。そして、フレッドがこうした「現実による侵入」に対してどのような反応を示すかについては、後半部の「ミスター・エディによる侵入」に際してピートがとった行動の数々をみれば明らかだろう。「ありのままの記憶/現実」と対峙することに耐えられなくなったピート=フレッドが、ついに「26号室」から逃げ出す様子がカット(63)で描かれるが、これもまた「現実による侵入」に際して彼がとる典型的行動のひとつであるといえる。

続くカット(64)が明示するように、閉められた「木の扉」には「26」の部屋番号はなく、再びそこは「アンディの屋敷」の二階へと分離/回帰している。だが、フレッドはすでに決定的な「イメージの連鎖」を発生させ、自らが抱く「女性に関する抽象概念」(とそれが付随させる「実体のない恐怖」)と生々しく対峙してしまった。それこそが「フレッドがもっとも隠匿しておきたかったもの」であることは自明であり、これを契機にして「後半部=幻想/捏造された現実」は、まさしく坂を転げ落ちるように完全な崩壊に向かうことになる。

(この項、続く)

*蛇足を承知で補足すれば、ヴァンプ女優の「ヴァンプ(vamp)」とはそのまま「ヴァンパイア(vampire)」の略である。文字どおり「男の生き血を吸う女」としての「悪女」のイメージだ。

2009年11月18日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (65)

もそもそと継続中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。今回はその第七回目として、(1:46:37)から(1:47:23)までをば採り上げてみる。

んでわ、まずは具体的映像から。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:46:37)
(52)ピートのアップ。二階に続く階段の上から彼を見下ろすショット。左手で手摺りにつかまりつつ、右側の階段を上るピート。彼が上るに連れて後退する視点。彼の背後には一階の様子とそこに立つアリスの姿がアウト・フォーカスで見えている。彼が上るにつれて、画面右から左側の階段が視界に入ってくる。金色の手摺りと、蔦の意匠の黒い金属の支柱。白い階段の基礎部分と、青い絨毯が敷かれた階段。なおも階段を上るピート。画面右から、階段の分岐するあたりの壁際に置かれた女性の大理石像が見えてくる。なおも階段を上るピート。
(53)階段のアップ。ピートの主観ショット。揺れながら、階段を上りきったところにある二階の壁と、左に折れてまた奥へと続く通路が見えてくる。通路の左側の壁には、上下に仕切られた窓がある。上りきったあたりのところは暗く、通路には照明があるようだ。ピートが進むに連れて、左右に揺れながら通路に向かう視点。なおも揺れながら、窓のあたりを過ぎて、なおも通路の奥へと侵入していく。向かい側の白い壁。そこに瞬くフラッシュ光。
(ホワイト・アウト)
(54)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。青白いフラッシュ・ライトが瞬くロスト・ハイウェイ・ホテルの廊下。プリズム・フィルターで歪む画面。狭い廊下の両側には白い壁があり、そこに並んでいる客室の白い扉。天井からは白い光を放っている照明器具が等間隔で下げられている。廊下の突き当たりから青白いフラッシュ・ライトが強烈にまたたき、そこにある赤い扉を照らしている。クロース・アップになりつつ、傾きながら天井に向かって見上げる視点。
(55)ピートのアップ。両側の鼻から鼻血を流し、口元から顎のあたりまで血で染めつつ、廊下を奥のほう、画面手前に向かってふらふらと歩くピート。またたくフラッシュ・ライト。
(56)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。廊下の左側に「25」の表示がついた白い扉が見えてくる。「2」がやや上方につけられその横棒と「5」の縦棒の下あたりがくっついている。それに向かって少し左へパン。またフラッシュ・ライトが瞬き、あたりは一瞬ホワイト・アウトするが、「25」の文字だけは見えている。画面左に「25」をアップでとらえて、パンは終了する。
(57)ピートのアップ。画面右、自分の左手にある「25」の扉あたりを向きつつ、なおも前進する。またたくフラッシュ・ライト。それと同時に、正面、画面手前のほうを見るピート。彼の右には「25」の表示がついた扉が見える。それを過ぎて、なおも奥へと向かうピート。それにあわせて後退する視点。彼の顔が影になる。彼の背後には、廊下の先がアウト・フォーカスで見える。またたくフラッシュ・ライト。血だらけのピートの顔。
(58)ミドル・ショット。ピートの背後からのショット。廊下を奥へと進むピートの後ろ姿。今度は自分の右手にある扉のほうを見る。なおも廊下の奥で激しく点滅する青白いフラッシュ・ライト。右手の扉には、「26」の表示が見える。画面の手前、自分が来た方向を振り返るピート。通路の行き当たりにある赤い扉。床に敷かれた赤い絨毯。またもやまたたくフラッシュ・ライト。
[音楽スタート Ramstein]
「26」の表示がついた扉を見るピート。左手を画面外のドア・ノブに伸ばす。通路の奥で輝くフラッシュ・ライト。扉を開けようとするピート。

みてのとおり「具体的映像」として描かれているのは、「アンディの屋敷」の一階から二階へと上ったはずのピートが、いつの間にか「ロスト・ハイウェイ・ホテル」の廊下を歩いているという状況である。このシークエンスの映像のみでは定かではないが、(1:00:00)で提示される映像と比較すれば、カット(54)以降の舞台が「ロスト・ハイウェイ・ホテルの廊下」であることは明らかだ。だが、いったいどのような機序によって「アンディの屋敷」と「ロストハイウェイ・ホテル」は接合され融合するに至るのか? 各ショットで提示される映像を追いかけつつ、確認してみよう。

カット(53)だが、このショットがピートの「主観ショット」として提示されていることを、まずは確認しておきたい。このショットは「ピートが自らの目を通して認識したもの」を提示しており、それは彼の主観による「フィルター」を通しているがゆえに「歪んで」いる可能性があるということだ。それを裏付けるように、ピートの歩調にあわせて左右へと傾く「視界」には、「フラッシュライト」のモチーフが登場する。これがたとえば(0:49:39)や(1:21:13)などのシークエンスやショットにみられたのと同一であるのは明白である。当然ながら「それによって表されるもの」もそれらの諸例と同一であり、それに従えば、このシークエンスの「フラッシュライト」も”フレッドの内面で発生している激しい「心理的な動き」”と連動したものとして了解されることになる。要するに、現在、フレッドの内面では強烈な感情や葛藤が発生しており、「フラッシュライト」はそれを表象するものとして現れているのだ。

上記のような点をおさえたうえで注目したいのが、カット(53)カット(54)をつなぐカッティングとして挿入される「ホワイト・アウト」である。この「ホワイト・アウト」は明らかに前述の「フラッシュライト」との連続性をもって現れており、「よりエスカレーションしたもの」として了解可能である。端的にいえば、この「ホワイト・アウト」はフレッドの「内的動揺」が一段と激しくなり、ある頂点を迎えたことを指し示しているのだ。そして、その結果として喚起されるのがカット(54)以降のイメージであることを考えるなら、先に述べた”「アンディの屋敷」と「ロストハイウェイ・ホテル」の接合/融合”という事象は、「フレッドの心理的エスカレーション」と連動し、彼の「感情/意識が反映したもの」として発生していることが裏付けられる。概論でも触れた「ロスト・ハイウェイ」という作品全体を貫く基本構造……すなわち、この作品が提示する映像はすべて「フレッドの意識/感情」を反映したものであるという構造は、このようにこのシークエンスにおいて顕著である。逆にいえば、作品構造に対するアプローチのとっかかりを掴むうえで、「アンディの屋敷」内部のシークエンスを追い掛ける作業は非常に有効なものとなるはずだ。

問題はどのような「フレッドの意識/感情」を反映して、この二つの場所は「接合/融合」されているかだ。結論からいうと、ここでもやはりキーになるのは「アリスとレネエの同一化」の問題である……というより、カット(1)から始まりカット(54)に至る一連の「イメージの連鎖」のなかで、最大の転回点となるのがカット(32)から明らかになり始める「アリスとレネエの同一化」であり、それ以降の連鎖はすべてそれを起点にして発生しているといったほうが適切かもしれない。

まず、もっとも重要な手掛かりとなるのは、「二階から降りてくるアンディ」(カット(13))と「同じく二階から降りてくるアリス」(カット(19))の二つのショットである。第一義的に考えるならば、この二つのショットが示唆しているのは、「アンディの屋敷」の「二階」が「アリスが他の男と寝ていた場所」だということだ。だが、これまで述べてきたように、アリスは単なる「レネエの代替イメージ」であることを越えて、急速にレネエそのものとの同一化を深めている。この二人が限りなくニア・イコールとなったとき、結果として「アンディの屋敷の二階」は「レネエが不倫を働いた(とフレッドが思っている)場所」と同義となるのだ。その一方で、後に(1:59:25)からのシークエンスによって明示されるように(あるいはリフレインされるように)、「ロストハイウェイ・ホテル」は「レネエがミスター・エディと不倫を働く場所」としてフレッドに喚起される「イメージ」である。こうした関係性から浮かび上がってくるのは、ともに「希求の対象である女性が他の男と寝た場所」であるという意味で、フレッドにとって「アンディの屋敷の二階」と「ロストハイウェイ・ホテル」が同義であり、等価であることだ。この二つの場所は、まさにこうした「同義性/等価性」のゆえに「接合」され「融合」するのである。

こうした映像表現こそリンチ特有の「表現主義的手法」の典型例であり、その本質を伝えるものであるといえる。基本的にそこで問題とされるのは、「アンディの屋敷」と「ロストハイウェイ・ホテル」の間に横たわる「時間的/空間的隔絶」などといった「具象的かつ外的なリアリティ」ではない。もっとも優先され重要視されるのは、「フレッドの意識/感情」にとってこの二つの場所が「同義/等価」であるという「抽象的な内的リアリティ」なのだ。そして、「同義/等価のものが接合される」といった非常に単純な方法論によってそれが実現されている点も注目に値する。リンチは自作の製作過程に関して「本能(instinct)」というキー・ワードを繰り返し使用し、受容者に対してもそれに基づく「理解」を求めるが、ある意味、それはこうした「シンプルな方法論」に裏付けられているといってよい。

カット(54)からカット(58)にかけては、「フラッシュライト」のモチーフに加えて「歪む視点」のモチーフも現れる。「歪む視界」のモチーフはカット(43)に現れたのとまったく同一のものであり、当然ながらその意味するところも同一である。すなわち、これもまた「フレッドの心理的動揺の反映」を指し示しているのだ。この二つのモチーフは繰り返し登場し、フレッドの内面における「心理的エスカレーション」がより進んでいることをうかがえる。ピートの「鼻血」も依然として続いており(カット(55))、押さえきれない「感情の表出」がいまだ継続していることを物語っている。同時に、カット(58)からはラムシュタインの「Ramstein」が流れる。たとえば(1:13:39)の「自動車工場でピートとアリスが出会うシークエンス」など、これまで何度もフレッドの「内的な動き」にあわせて音響/音楽が使われてきたが、これもその表れのひとつとして理解できるものべきものだ。いわば視覚的要素だけでなく聴覚的要素をも駆使し、このシークエンスにおけるフレッドの「心理的エスカレーションの強度」が記述されているわけである。

そして、この「心理的エスカレーション」の果てに、最終的に現れるのは「26号室」の扉だ(カット(58))。そもそも「アンディの屋敷」は、「フレッドが隠匿しておきたいもの」を内包している「家の内部にある家」とでもいうべき場所/存在である。その「場所」を訪れるに際し、ピート=フレッドが複雑な「手続き」を必要としたこと……「バス」によって人知れず移動しなくてはならなかっただけでなく(1:40:36)、それを外界から隔絶する「フェンス」を乗り越えることが要求され(1:40:57)、最終的には「アリスの補助」によって「開放された裏口の扉」を必要とした(1:41:39)ことによっても、その「隠匿性」の高さは裏書きされている。もちろん、それが「アンディの屋敷」が内包するものの「隠匿性の高さ」に起因していることはいうまでもなく、実際、内部に足を踏み入れたピート=フレッドが遭遇するのは「レネエに対する自らの不安/疑惑=ポルノ映画の映像」であったり、「代替イメージであることを越えて、レネエと同一化するアリス」といった「ありのままの現実に関連するもの」であったわけだ。

その「アンディの屋敷」のなかでも、現在ピート=フレッドが足を踏み入れている「二階」は、もっとも「奥まった場所」であり「隠匿された場所」であるといえるだろう。前述のように”屋敷自体の「隠匿性」”そのものがそれが内包するものの「隠匿性」に裏付けられていることを考えるなら、この「二階」には「もっともフレッドが隠匿しておきたいもの」が存在しているはずだ。それを裏付けるように、加速するフレッドの「内的エスカレーション」を描いてきたこのシークエンスの映像も、カット(58)で一気に「26号室」へと収斂していく。はたしてピート=フレッドは「26号室」の内部で何を目撃するのか?

(この項、続く)

2009年11月 8日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (64)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。その第六回目として、(1:45:40)から(1:46:37)まで。

まずは具体的映像から。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:45:40)
(44)ピートのアップ。スクリーンをみているピートを、正面からとらえたショット。彼の背後では、台の上に載せられた映写機が青白い光を投げかけている。そのまま体を自分の左の方に向けるピート。
(45)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。アウト・フォーカス。右から左へ急激なパン。壁際に置かれた小さなテーブルの上の四つの写真立てと金属のオブジェ状電気スタンドを視界に収めて、パンが終了するとともにイン・フォーカスになる。写真立てに入った写真はいずれも人物写真である。左端の写真は金色の枠の写真立てに入った一人の女性。その右には黒い枠の写真立てに入った複数の人物写真。黒い枠の写真立ての後ろには、銀色の金属製のカップと黒いカップが並べられている。その右には小さな金色の枠の写真立てがあり、そこには二人の人物が並んで立っている遠景写真が入っている。点灯している電気スタンドを挟んで、右端の写真立てには黒髪の女性のバスト・ショットの写真が入っている。
(46)黒い枠の写真立てのアップ。そのままクロース・アップ。写真に映っている四人の人物が明瞭に見えてくる。カーテンの前に立った四人は、左から順にミスター・エディ、レネエ、アリス、そしてアンディだ。
(47)ピートのアップ。上体を屈めるようにして写真立てを見詰めながら、そのほうに向かって近寄る。それにあわせて、少し下にパン。画面左奥では、アウト・フォーカスになったアリスがアンディの持ち物を漁っているのが見える。息が荒くなるピート。
ピート:(写真を見詰めたまま)Is that you?
アウト・フォーカスのまま、ピートのほうを振り返るアリス。
(48)写真のアップ。左からミスター・エディ、レネエ、アリス、そしてアンディの顔のアップ。
ピート:(画面外から)Are both of them you?
(49)ピートのアップ。上体を屈めるようにして写真立てを見詰め、喘いでいる。画面左端で立ち上がるアリス。写真を見詰めているピートのほうに、つかつかと歩み寄ってくる。それに連れて上方にパン。アリスのアップになる。画面外で写真に向かって右手を伸ばすアリス。
(50)写真のアップ。伸ばした右手の人差し指で、写真に映った自分を指さすアリス。青いマニキュアの爪。
アリス: That's me.
引っかくような動きをしつつ、写真から離れる人差し指。
ピート:(画面外で)Oh, God!
写真の中では、ダーク・スーツを着たミスター・エディが右手でグラスを持ち、右隣のレネエの腰に左手を回している。レネエはノースリーブのトップに柄物の長めのスカートをはき、煙草を持った右手を体の脇にたらしている。その右に黒い長袖のトップに黒いミニ・スカートをはいたアリスが、半ば開いた左手を腰の前、脚の付け根あたりに置いていいる。そのまた右には、つやつやした素材のジャンバーを着たアンディが、黒いパンツの左前ポケットに左手を突っ込んで立っている。
(51)アリスのアップ。画面左端に立ち、下方画面外にいるピートを心配そうに見下ろしている。ピートの頭が下方から現れる。喘いでいるピート。彼の頭の右側面を支えているアリスの右手も一緒に視界に入ってくる。
アリス: Honey...are you all right?
彼の頭から離れるアリスの右手。左手は彼の左肩あたりに載せられている。口を開け、喘いでいるピート。鼻からは血が流れ出している。両方の手をピートの体からひき、心配そうにピートを見守るアリス。苦痛に顔を歪め、右手でこめかみのあたりを押さえるピート。やがて、手を頭からはずし、体の前で何かを受けとるように広げるピート。彼の手に自分の右手を添えるアリス。
ピート: Where's the bathroom?
ピートの頭の左側に左手を伸ばすアリス。
アリス: It's upstairs. Down the hall.
喘ぎつつ、アリスのほうを向いたまま後退するピート。途中で画面右を向くと同時に右手で頭を押さえる。心配そうに彼を見送るアリス。画面右下に姿を消すピート。

前回述べた”「ポルノ映画の映像」と「アリス」が「等価」になった経緯=「レネエ」と「アリス」の同一化の進行”を踏まえれば、このシークエンスで発生している事象が指し示すものは明快であるはずだ。

その端的な例が、カット(45)(46)(48)(50)に現れる「写真」によって表されるものである。この「写真」が備えている(あるいは欠落させている)「写実性/指標性」の問題は後の機会に譲るとして、ここで触れておきたいのはその「具体的画像」……レネエとアリス、そしてミスター・エディとアンディが並んで写っているという「光景」そのものである。「レネエとアリス」が並んで写っている状況は、文字どおり両者が「並列関係」にあることを示唆している。言い換えれば、この状況は、「アンディの死体から金品を強奪するアリス」(カット(39))と「ポルノ映画の映像」(カット(41))の二つのショットが構成していた「並列関係」のリフレイン/ヴァリエーションであるわけだ。かつ、そこには「ミスター・エディとアンディ」がして存在していることも見逃せない。「写真」のなかでこの二人の男性は”「レネエ」と「アリス」をつなぐ「共通項」”として機能し、彼女たちの「等価性」を強調している。彼らが「現実(あるいはそれに関連するもの)の表象」であることを考えるなら、「レネエとアリス」がいまや「現実に関連したもの」として「等価」であることも、この「写真」は明示し保証していることになる。

「写真」を目にしたピートは、思わず「これは君なのか?」(カット(47))あるいは「どちらも君なのか?」(カット(48))とアリスに問い掛ける。これはそれまで発生した「イメージの連鎖」の結果であり、「レネエとアリスの同一性」にフレッドが気づき始めたことの証明に他ならない。それに対してアリスは「こちらが私」とその「同一性」を否定する言及(カット(50))を行うが、これも「フレッドの感情/意識」を代弁するものである。フレッドにとって都合がいいのはアリスが「レネエの優秀な代替イメージ」にとどまることであり、彼女が一定の限度を越えて”「現実のレネエ」との同一性”を高めるのは好ましい状況ではない……なぜなら、それは”「ありのままの記憶」の蘇生”につながるものなのだから。要するに、この「アリスの言及」を含めた一連の事象は、「アリスはレネエをモデルに自分が創りあげた幻想(=代替イメージ)であり、その内的本質において両者は同一であるが、それを認めたくない」という「フレッドの感情/意識」を代弁/表象しているのだ。

しかし、フレッドがいかにそれを否定したく思ったとしても、この”「写真(の画像)」という事象”が発生していること自体が、「レネエとアリスの同一性」という認識を抱えてしまった反映として発生しているのは、動かしようのない事実である。人がその「内面」で発生した「思念/想念」を完全に消し去ってしまうことは不可能であり、ピート=フレッドも自身の「認識」をなかったことにはできない。このような意味で、もしこの世に究極の「監獄」があるとしたら、もしかしたらそれは「自身の頭の中」である。存在する限り人間は思考し続け、「自らの思考」に囚われ続ける……この作品が採用する「円環構造」や、あるいは「死刑囚房に収監されているフレッド」という状況そのものが、永遠に「自分の内面の虜」である我々全員の状況の「言い換え」なのだ。このように「ロスト・ハイウェイ」の多重性/多義性は、我々=受容者をも呑み込んでしまう。そして、リンチ個人の(あるいは、リンチに限らず優秀な創作者の)「ごく私的な発想」から生まれたはずの作品が、同時にきわめて「普遍的」であり得るのはまさにこうした側面に基づくといえる。

逃れられない「認識/想念」に捕らわれたピート=フレッドは、当然ながら、アリスが呈し始めた「コントロール不能性」に触れたとき以上に、”「写真」が表すもの”によって大きな打撃を受ける。このシークエンスをとおしてピートがみせる表情からもそれは明らかだが、なによりもその「打撃の大きさ具合」を物語っているのがカット(51)で彼が流す「鼻血」である。リンチ作品において(特に初期作品において)、登場人物たちがさまざまな「体液」を流出させることについては、グレッグ・オルソン氏が「Beautiful Dark」のなかで指摘するとおりである。たとえば「嘔吐を催す六人の男たち」での文字どおり嘔吐する男たち、「アルファベット」の結末で嘔吐する少女、あるいは「イレイザーヘッド」での鼻血を流すヘンリー……彼/彼女たちは「内面」で発生した「感情」をもはやそこに押し込めきれず、思わず「外界」に表出させる。それを表象するのが、彼/彼女たちが流す「体液」なのである。そして、その「感情」は、主として切迫した状況……たとえば「言語に対する恐怖/忌避」や、あるいは「元交際相手の母親に、娘との関係を問い質されること」といったような状況に直面した彼/彼女たちが抱いたものだ。

これもリンチが好んで採用する「共通モチーフ」のひとつであり、このシークエンスでピートが流す「鼻血」もこのモチーフの現れと捉えるのが妥当だろう。少女やヘンリーと同じく、ピート=フレッドも「切迫した状況」に……「アリスとレネエの同一化」、あるいは”「幻想」に対する「コントロールの喪失」”といった事態に直面している。前回も述べたとおり、これはフレッドにとって「現実からの侵入」を受けたのに等しく、結果的に”「幻想」そのものの崩壊”につながる可能性のあるものだ。かつ、その「侵入」がピート=フレッドにとって「非常に大切なもの」……すなわち「アリス=レネエの代替イメージ」によって行われたことは、決定的とさえいってよい。そもそもピート=フレッドが「新たな遁走」を試みたのは、「アリス=レネエの代替イメージ」が付随せている「ミスター・エディ=現実のイメージ」を排除し、”自分に都合のいい「幻想」”の領域内に彼女を確保するためであったはずだ。なのに、その「幻想=イメージ」自体が彼を傷つけるのである。

ピートはアリスにバス・ルームの在処を尋ね、苦痛にあえぎながら「二階」にあるというその場所に向かう。彼がこれまで何度か「現実による侵入」に際して抱えた「頭痛」(1:11:45)、あるいはフレッドが死刑囚房で訴えた「頭痛」(0:47:04)と同じものに苛まれているのは明らかだ。そして、ピート=フレッドは「二階」でもうひとつの決定的な「体験=イメージの連鎖」に遭遇することになる。

(この項、続く)

2009年11月 3日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (63)

なにがなんでも、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。その第五回目として、(1:44:47)から(1:45:40)までをばウダウダと書いてみる。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:44:47)
(34)アリスのアップ。ピートの左からのショット。アウト・フォーカス気味に見えるピートの頭の右側面から首。ピートから目を離して、アンディのほうに視線を落とすアリス。そのままアンディのほうを見下ろしている。少しアリスに近づくピート。
ピート: What do we do?
目を左に寄せて、ピートのほうを見るアリス。二人にクロース・アップ。その途中で、頭を左に向け、ピートを真正面から見るアリス。
ピート:(かすれ声で)What do we do?
(35)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。アリスの左後頭部が、アウト・フォーカスで画面右端に見切れている。真剣な表情で、アリスを見詰めている。
アリス: We have to get the stuff.
(36)アリスのアップ。ピートの右肩越しのショット。ピートを見詰めているアリス。
アリス: We have to get out of here.
ピートから体を離し、画面右に消えるアリス。それを見送るピート。画面右下のほうを向く。
(37)ミドル・ショット。横たわるアンディを、左上方からおさめるショット。左手を床につき、彼の体にかぶさるようにして右手をアンディの体に伸ばすアリス。彼女の背中を収めるショット。右手をアンディがしているネックレスの留金に伸ばし、そのまま彼の身体の左に膝をついて、両手でその留金を外すアリス。外れたネックレスを左手で持つ。
(38)ピートのアップ。バスト・ショット。アリスのしていることを見守っているピート。彼の左には、まだ映写を続けている映写機が見える。その右には、二階に続く階段の一部が見える。
(39)アリスの背中のアップ。床に膝を突き、右手で投げ出されたアンディの左手を支え、左手で彼の指輪を外そうとしている。画面左には、白い絨毯の上に置かれたアンディのネックレスが光っている。少し後退する視点。なかなか指輪は外れない。
アリス: Aw, fuck!
左手を床の上に突き、今度は右手で指輪を外そうとする。
(40)ピートのアップ。バスト・ショット。アリスのしていることを見守っているピート。彼にクロース・アップ。それと同時に、スクリーンのほうを見上げるピート。
(41)スクリーンに映された映像のアップ。体を揺らしつつ、口を開けて喘いでいる女性の顔のアップ。彼女の背後で動いている男性。
(42)ピートのアップ。スクリーンを見上げつつ、半ば口を開けてゆっくりと後退するピート。アリスのほうに再び目を下ろす。
(43)ミドル・ショット。床に膝を突き、アンディの左腕を持ち上げて両手で指輪を外そうとしているアリス。彼女を左後方からとらえたショット。プリズム・フィルターで歪むショット。やっと指輪が外れ、ちらりと左後方を見た後、ネックレスが置かれたあたりの床にそれを投げ出すアリス。頭を振って、顔に掛かった髪の毛を払いのける。歪んだまま、上方にパンする視点。上方に掛けられたスクリーンが視界に入ってくる。スクリーンに映された映像のなかで、後ろから男性にのしかかられて喘いでいる女性のアップ。

カット(32)においてアリスに「あなたがアンディを殺した」と指摘され、ピート=フレッドは動揺する。「ロスト・ハイウェイ」が提示する映像群がすべて「フレッドの内面で発生している事象」である以上この指摘はまったく正しいわけだが、それは彼が”「都合のいい幻想」の一部であるアリス”に期待していた回答ではないことも確かだ。自らの「幻想=アリス」に裏切られることによって「コントロールの喪失」を認識したものの、カット(34)が明示するように、どう事態を収拾したらよいか彼には判断がつかない。「我々はどうしたらいいのか?」とピート=フレッドは繰り返し問い掛けるが、もちろんこれは「自分はどうしたらいいのか?」という自問自答と同義だ。たとえば「自動車工場における音楽談議」(1:11:45)における「フィルによる代弁」などと同様に、それに対する回答は「代弁者」による「代弁」によって……「アリスによる代弁」(カット(35)(36))という形でもたらされる。「金品を奪って逃げる」という彼女の「回答」そのものは基本的に「アリスの教唆」(1:35:20)の内容と同一であり、いわば「当初目的」の再確認に過ぎない。だが、アリスが具体的行動によって実際にその「当初目的」を「代行」し始めた途端(カット(37))、フレッドの「内面」である「イメージの連鎖」が発生する。

この「イメージの連鎖の発生」を端的に表しているのが、カット(39)(40)(41)の三つのショットからなるシークエンスによって形成され、提示されるものである。具体的映像に沿って述べるなら、「アンディの指から指輪を外そうとするアリス」(カット(39))と「スクリーンに投影されるポルノ映画の映像」(カット(41))が、「アリスからスクリーンへと視線を移すピート」(カット(40))を挟んで提示されるというシークエンスである。このうち、(39)(41)の両カットは、カット(40)の映像との関係性によって、ともに「ピートの主観ショット」であることは明らかだ。結果として(39)(41)の両カットは”「ピート=フレッドの視線」の先にあるもの”として併置され、「並列関係」にあることが提示されていることになる。

問題は、”この「並列関係」によって表されるもの”が、たとえば以前に述べた「ピートの背後のポルノ映画の映像」(カット(18))と「二階から降りてくるアリス」(カット(19))とが形成していた「並列関係」とは質的に異なっている点だ。カット(18)カット(19)がそれぞれ「忌避すべき現実」と「好ましい幻想」に関連する概念を表し、両者は「対立関係」あるいは「対置関係」にあった(それを表すように、カット(18)のピートは「ポルノ映画の映像」に背を向けている)。それに対し、現在論じているシークエンスにおける「アリス」(カット(39))は同じ「アリス」でありながら「都合のいい幻想」から「忌避すべき現実に関連するもの」へと変質し、結果としてカット(41)の「ポルノ映画の映像」と「等価関係」を結ぶものへと転換/変化してしまっているのだ。

この「転換/変化」が発生した機序をどのように理解すべきだろうか? それを論じる方法論として、まず映画史的な観点からの検討を行ってみたい。具体的にいえば、「ロスト・ハイウェイ」が随所で採用している”フィルム・ノワール作品にみられる「図式」の踏襲”が表すものについてである。この観点からすれば、そもそも”「アリスの教唆」によって「アンディに対する犯罪」を実行するピート”という「図式」自体が、たとえば「深夜の告白」(1944)や「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1946)等にみられる「女性の教唆によって犯罪を犯す男性」の踏襲であることは間違いない。だが、より強調しておきたいのは、カット(39)の「アンディの死体から金品を強奪するアリスの姿」が、多くのフィルム・ノワールが描いてきた”「犯罪に手を染める冷酷な女性」という「ファム・ファタールの典型像」と重なっていることだ。

これらのフィルム・ノワールにおける「ファム・ファタールたち」は、(あくまでその相手となる男性の観点からみた場合だが)基本的に「コントロール不能性」を備えた存在として描かれている。その嚆矢となるのが、前掲の「深夜の告白」に登場するフィリスだ。彼女がフィルム・ノワールにおける「ファム・ファタール像」のあるパターンを決定づけたことは間違いない。だが、この作品が描く不倫相手であるウォルター・ネフにとって彼女が最終的に「コントロール不能」な存在と化してしまうという「図式」自体も、後続のフィルム・ノワール作品(やその他のジャンル作品)によって幾度となく踏襲/模倣の対象となっているのである。

こうした「フィルム・ノワールの図式」を考慮する一方で、同時に俎上にあげたいのが、「ロスト・ハイウェイ」が採用している”「あるものが付随させているイメージ」の援用/転用”という手法だ。その代表的な例が「ビデオ」や「映画フィルム」であり、この二つの「視覚メディア」に付随する(とリンチが感じている)「写実性」や「指標性」といったイメージが援用/転用され、”「ありのままの記憶=現実に関連するもの」の表象”としてこれらを登場させていることについては以前にも述べたとおりである。そして、これらの諸事項を考え合わせたとき浮上してくるのは、”「あるものが付随させているイメージ」の援用/転用”という手法が、「ビデオ」や「映画フィルム」といった「具体的なもの」にとどまらず、”フィルム・ノワールにみられる「図式」”という「抽象的なもの」を題材にしても行われているという可能性だ。

少し論点を整理してみよう。

(A)「ロスト・ハイウェイ」における”フィルム・ノワールにみられる「図式」の踏襲”という方法論は、そうした「図式」からリンチが感じ取った「イメージ」を(意識的であるか否かは別として)援用/転用するために採用されている。
(B)このシークエンスにおいて援用/転用されている「イメージ」とは、フィルム・ノワールのファム・ファタールが付随させている「コントロール不能性」である。

この二つの前提に立ち、(いつものように)「フレッドの感情」をキーにして「このシークエンスが表すもの」を考えたとき、最終的にたどり着くのはやはり「レネエのコントロール不能性」の問題に他ならない。(0:05:45)や(0:27:36)のショット/シークエンスのように、これまでフレッドが彼女に対して「コントロール不能性」を感じていることは何度も示唆されてきた。この「感情/意識」は、フレッドの「内面」において「典型的なファム・ファタール」が備える「コントロール不能性」のイメージと連鎖し、カット(32)でアリスが見せ始めた「コントロール不能性」とむすびつく。そしてその結果として、”「アンディの死体から金品を奪うアリス」という事象”がフレッドによって想起されているのである。

こうした検討を経て、カット(39)の「アンディの死体から金品を強奪するアリス」とカット(41)の「ポルノ映画の映像」の「等価性」がどのように成立しているかが、次第に明確になってくる。「ポルノ映画の映像」によって表されるものは「フレッドがレネエに対して抱く不安/疑惑」であり、その不安や疑惑は彼女に対する「コントロールの不能性」に裏付けられている。その一方で、「アンディの死体から金品を強奪するアリス」もまた、典型的なファム・ファタール像を踏襲しているがために「コントロール不能性」のイメージと連結している。この「コントロール不能性」という「共通項」によって、両ショットは「忌避すべき現実(に関連するもの)」として「等価」なものになり得るのだ。

ピート=フレッドはこの「等価性」に気づいて更なる衝撃を受け、カット(40)が示すとおり思わず視線を「アリス」から「ポルノ映画の映像」へと移す。フレッドの観点からすれば、この「アリスのファム・ファタール化」(あるいは「アリスとレネエの同一化」、もしくは”「都合のいい幻想」の「忌避すべき現実」への変質”)は、形を変えた「現実による侵入」に他ならない。そのことの傍証として、カット(43)に「歪む視点」が登場することは見逃せないだろう。この「歪む視点」が、たとえば(1:22:29)の「ピートの部屋の内部」や(1:36:09)の「デイトン家の前庭」のシークエンスなどに現れた「揺れる視点」と同様/同質のものであり、ともに”フレッドの「幻想」が「現実による侵入」によってダメージを受けたこと”を指し示していることは明らかだ。かつ、このカット(43)に現れる”「アリス」から「ポルノ映画の映像」へとパンする視点”が、両者の「等価性」を確認/強調/保証すべく機能していることも、あわせて指摘しておきたい。

(この項、続く)

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