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2009年11月30日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (66)

もそもそと継続中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。引き続き”「アンディの屋敷」の内部”のシークエンスについて。今回はその第八回目として、(1:47:23)から(1:47:41)までをば採り上げてみる。

26号室 内部 (1:47:23)
(59)ピートのアップ。「26」の表示がついた扉を開けるピートの、部屋の内部からのショット。あたりは赤い光で照らされている。ピートが部屋の中を見た途端、ピートは顔をしかめる。
(60)ミドル・ショット。赤い光であふれる部屋の内部。歪み流れる映像。性交していると思しき男女を背後からおさめたショット。画面中央には鏡に映った女性の顔のアップ。その右には彼女の後頭部があり、画面の右端には彼女と性交しているらしき人物の裸の肩が。鏡越しにピートのほうを見ている彼女の髪は垂れ下がり、左の目は髪に覆われている。体を揺らしながら顔を上げる女性。髪で覆われていた左の目も見えるようになる。
女性: Did you want to talk to me? Huh?
(61)ピートのアップ。目を細めて、部屋の内部を見ている。左手を上げかけるピート。
(62)ミドル・ショット。赤い光であふれる部屋の内部。体を揺り動かしながら、話しかける女性。
女性: Did you want to ask me 'why?!'
(63)
ピートのアップ。開けた扉に左肘を押し当て、左手に自分の頭の左側頭部を押し付けて顔を歪める。
女性:(画面外で)[短い笑い声]
たまらず左手を引き、右手で扉を閉めるピート。

アンディの屋敷 二階の廊下 (1:47:39)
(64)ピートのアップ。バスト・ショット。画面の手前を向き、後ろ手で木の扉を閉めるピート。ドアを閉める手は画面外である。木の扉には何の表示もなく、ロスト・ハイウェイ・ホテルではなくアンディの屋敷の廊下に戻っている。
[ドアが閉まる音]
ドアが閉まり、顔を歪めるピート。肩で息をし、顔を歪める。

ピート=フレッドは「26号室」の内部に何をみたのか。前回述べたように、そこは「アンディの屋敷」のなかでも「もっとも奥まった場所」であり、それがゆえにフレッドが「もっとも隠匿しておきたいもの」が存在しているはずの場所である。それを踏まえて見回したとき、このシークエンスにはいくつかの特徴が認められる。

まず指摘しておきたいのは、カット(59)からカット(63)のシークエンスを通じて、「28号室」の内部に認められる「赤のモチーフ」である。これまで「ロスト・ハイウェイ」は幾度か「炎のモチーフ」を提示してきた。たとえば開巻直後の「煙草」(0:02:48)や「暖炉の炎」(0:16:52)(1:31:51)、あるいは「砂漠の小屋」(0:48:42)などに現れる「炎」の色をみれば了解されるように、「炎のモチーフ」は同時に「赤のモチーフ」とも重なっているといえる。逆にいえば、このシークエンスで提示される「赤のモチーフ」をそれらの「炎のモチーフ」の延長線上にあるものとして捉えることは、一定の妥当性をもつはずだ。すなわち「赤のモチーフ」は「フレッドの激しい感情」を表象しており、それは「レネエ殺害」に至る動機となったものでもあるわけだ。

もう一点、指摘しておきたいのはカット(60)およびカット(62)に現れる「歪み」である。もちろん、これは「揺れる視点」(1:21:13)や「歪む視点」(1:45:33)(1:46:53)と同系列のものであり、激しく揺れ動くフレッドの「内面」を反映として理解されるものであることは間違いない。だが、今回現れた「歪み」は、それまでに現れたものとは明らかに「形状」的に異なっている。この「形状の差異」を子細にみれば、これが”損傷した「ビデオ・テープ」を再生したときに現れる「歪み」”を意識したものであることがわかるはずだ。このことによって示唆されるのは、両カットの映像が、前半部に繰り返し登場した”「差出人不明のビデオ・テープ」によって表されるもの”の系譜上にあることである。つまり、両カットが提示する映像は、フレッドの「ありのままの記憶」に関連するものなのだ。

結論としてこれらの「モチーフ」によって示唆されるのは、やはりこのシークエンスにおいて提示される映像群が「フレッドの感情や記憶」に関連するものであり、彼にとってそれらは「隠匿しておきたいもの/忘却しておきたいもの」だということである。そして、こうした「赤のモチーフ」や「歪み流れる画面のモチーフ」を付随させつつ「26号室」の内部に現れるのは……つまりは、それがフレッドが抱いた「ありのままの激しい感情」に関連するものであることを示唆しつつ現れるのは、ある「女性」の姿である。

強調しておきたいのは、「彼女」に関する具体的映像が非常に限定的であることである。カット(60)(62)を通じて、明確な映像として提示されるのは「彼女の顔」のみといってよく、その全身が描かれることは決してない。その「彼女の顔」も「鏡像」としてしか……いわば「虚像」としてしか提示されず、「彼女の実体」として認識されるのは「後頭部」のみである。こうした「限定性」あるいは「具体性の欠如」は「彼女の動作」に関しても同様で、明らかに「性交」を思わせる動きを「彼女」はしているものの、あくまで「思わせる動き」の範疇に留まっている。具体的映像としての「性交場面」は提示されず、その「相手」と思しき男性の姿も”背後から撮られた「裸体」”(それも左肩から左後頭部にかけてという「パーツ」しか提示されない)という「曖昧な存在」としてのみ描かれる。

リンチ作品におけるこうした「具体性の欠如」や「曖昧さ」と対峙するとき、我々=受容者が念頭におかなければならないのは、往々にしてそれがリンチが描こうとしているものの「抽象性」に起因していることだ。その典型例が、たとえば「インランドエンパイア」冒頭のシークエンス(0:01:33)に登場する「顔のない男女」である。この「顔」という具体性を欠落させた男女がそれぞれ「男性と女性の抽象概念」を表し、ひいてはこの二人の関係が”男性と女性の間にときとして発生する「ある関係性」の「原型」(という抽象概念)”を表象していることに関しては、以前にも述べたとおりだ。こうした観点に立つならば、カット(60)(62)が備える「具体性の欠如」も、”両ショットに登場する「女性」がある「抽象概念」を表していること”の証左として理解されることになる。そして、「彼女」が後述するような「セクシャリティ」のイメージを付随させていることを考慮するなら、それが表象しているのは(フレッドが抱える)「女性に関する抽象概念」そのものだ。

Thedabara 両ショットで提示される「26号室の女性」の「髪型」や「化粧」等の外見的特徴は、よくいえば「セクシー」悪くいえば「あばずれ女」のそれであり、基本的にセクシャルなイメージと関連づけられているのは明瞭である。それは過去において映画が描いてきたある種の「女性像」……いわゆる「ヴァンプ」や「ファム・ファタール」に代表される「女性像」と重なるものであり、いわば「常套句的表現」に基づく「典型的悪女」であるといえるだろう。「彼女」の外見的特徴など、たとえば初代ヴァンプ女優*セダ・バラを連想させるに充分なものだ。

ただし、こうした「女性に関する抽象概念」が”フレッドが考える女性の「総体」”である限りにおいて、その「個別例」である「レネエ」もまたこの抽象概念に内包されるはずである。あるいは逆に、この「女性に関する抽象概念」は、フレッドが抱える「レネエに対する感情」を出発点として構築されているともいえるだろう。いずれにせよ、前者は後者の「特徴」を内包し、後者が前者と同一の「特徴」を共有していることは間違いなく、「フレッドにとってレネエはファム・ファタール的存在である」という認識は、このシークエンスに登場する「女性に関する抽象概念」と「レネエ」の関係性からもたらされるものである。かつ、”「抽象概念=26号室の女性」とそれに内包される「個別例=レネエ」”という関係性を踏まえるなら、前述した「具体性を欠いた性交」の問題も、”フレッドが抱える「レネエへの疑惑」”がどのような性格のものであるかの反映として了解されることになる。すなわち、彼の「レネエに対する疑惑」は何ら「具体的事実」に裏付けられておらず、もしかしたらまったく根拠のないものであることが、こうした「曖昧さ」……「示唆にとどまる動き」や「誰ともわからない性交相手」という点に現れているのだ。

さて、このように「彼女」を「女性の抽象概念」として位置づけ、それがレネエという「個別例」を包括していることを前提としたとき、”「彼女」がピートフレッドに対して投げかかる「質問」によって表されるもの”の意味合いがみえてくる。「私と話したかったのか?」(カット(60))あるいは「『なぜだ』と訊きたかったのか?」(カット(62))と「彼女」は問い掛けるが、他の登場人物と同じく「彼女」もフレッドの「代弁者/代行者」であることを考えるなら、この言及自体が指し示すものは明瞭である。フレッドは「彼女=レネエ」と話したく思っていたし、「なぜだ」と問いたかったのだ……たとえば、フレッドのライブに行かず、家で本を読みたいと言い出したレネエに対して(0:06:12)。

ここにフレッドとレネエの間に横たわっていた問題が……正確にいえば、フレッドが彼女に対して感じていた問題の一端が明らかになる。その原因は定かではないにせよ、フレッドはレネエとの間に「コミュニケーション不全」を感じており、ひいては彼女との関係性構築に失敗していると感じていたのだ。リンチが繰り返し「機能しない家族」のテーマをとりあげた作品を作ってきたことはいうまでもないが、その「機能しない家族」の多くの例が根底に「コミュニケーションの問題」を抱えていることは注目に値する。それを端的に裏付けるのが、「機能しない家族」のテーマと平行して(あるいは付随して)、同じくらい頻繁に「成立しない会話」というモチーフがリンチ作品に姿を現すという事実だ。そして、こうした「コミュニケーション不全」の結果として発生するのが「一方的な関係」性である。それはしばしば男性側の暴力を伴う「強制的な関係」であり、「ブルーベルベット」におけるフランクとドロシーの関係、「ツインピークス」におけるローラ・パーマ-とリーランドとの関係、「インランドエンパイア」におけるニッキー/スーザン/ロスト・ガールとピオトルケの関係に明確に認められるものだ。本作におけるレネエとフレッドの関係もこれらの「機能しない家族」の系譜上にあるのは明白であり、かつこの二人の間の「言語によるコミュニケーション」が機能していないことは、前述した(0:06:12)からのシークエンスにおいて、「何の本を読むのか?」というフレッドの質問に対してレネエが明確に返答しないことによっても現わされているといえる。こうしてみる限りにおいて、この「ライブに行く行かない」という遣り取りも、「成立しない会話」のモチーフのひとつとして理解されるはずだ。

それにしても、ここで提示される「女性の抽象概念」は、今日的観点からすればはなはだしく古典的なものであるのも確かだ。そして、それを成立させているのは「男性を惑わせ、狂わせる女性」という(男性側からみた、ある種身勝手な)「恐怖」である。かつ、カット(63)で「女性(の抽象概念)」がピート=フレッドに向かって「嘲笑」を投げかけることが物語っているように、この「恐怖」の根底には「自我」がダメージを受けることに対する忌避感情が横たわっていることも確かだ。あるいはそれは、「フレッドが自我を保護するために幻想を構築していること」と微妙に通底しているといえる。いずれにしても、こうした「女性に対する恐怖」がたとえばフィルム・ノワールの「ファム・ファタール像」が成立した根底にあったことは繰り返し指摘されているし、現実問題として現在においてもそれが消滅したわけではないのも事実である。

このような事項を踏まえれば、「26号室の女性」が主として「鏡に映った像=虚像」として提示されることは、あるいはフレッドの「女性に関する抽象概念」が「実体のない恐怖」に裏付けられたものであることの示唆であるようにも受け取れる。その一方で、これまでフレッドが(あるいはピートが)それぞれ「鏡に映った自分自身」と対峙してきたこと(0:37:54)(1:08:03)も同時に指摘しておくべきだろう。特に「フレッドが自分の鏡像と対峙するシークエンス」が”「幻想/捏造された記憶」の崩壊”の一過程であったことを考えるなら、「ロスト・ハイウェイ」における”「鏡」を使った諸表現”に関しては、改めて詳細に検証する必要がありそうだ。確実にいえるのは、「実体」と「鏡像」がそれぞれ裏返しの「対称関係」にあるのと同様に、「幻想/捏造された記憶・現実」と「ありのままの記憶・現実」もまた正反対のものとして「対称関係」をむすぶということだ。もし「実体」が「幻想/捏造された記憶・現実」であるならば、裏返しとなった「その鏡像」こそが他ならぬ「ありのままの記憶・現実(に関連するもの)」なのではないのだろうか? 少なくとも「鏡に映った26号室の女性」によってピート=フレッドが対峙するのは、彼が「実体のない恐怖」をレネエに対して抱いていたという「ありのままの現実」である。

付け加えるならば、カット(60)(62)の「26号室の女性」のショットは、(0:36:13)の「洗面台の鏡越しに視線を交わすフレッドとレネエ」と類似しており、この二つのショットはいわばヴァリエーションの関係性にあるといえなくもない(なによりも、ピートは「洗面所」を求めて二階にたどりついたのだ)。そして、前述した「フレッドが自分の鏡像と対峙するシークエンス」が、「彼がレネエの鏡像と視線を交わしたこと」をキーにして(つまり、”レネエに関する「ありのままの記憶」をフレッドが「目撃」したこと”を契機として)、発生したと捉えることもあながち的外れではないはずだ。そして、フレッドがこうした「現実による侵入」に対してどのような反応を示すかについては、後半部の「ミスター・エディによる侵入」に際してピートがとった行動の数々をみれば明らかだろう。「ありのままの記憶/現実」と対峙することに耐えられなくなったピート=フレッドが、ついに「26号室」から逃げ出す様子がカット(63)で描かれるが、これもまた「現実による侵入」に際して彼がとる典型的行動のひとつであるといえる。

続くカット(64)が明示するように、閉められた「木の扉」には「26」の部屋番号はなく、再びそこは「アンディの屋敷」の二階へと分離/回帰している。だが、フレッドはすでに決定的な「イメージの連鎖」を発生させ、自らが抱く「女性に関する抽象概念」(とそれが付随させる「実体のない恐怖」)と生々しく対峙してしまった。それこそが「フレッドがもっとも隠匿しておきたかったもの」であることは自明であり、これを契機にして「後半部=幻想/捏造された現実」は、まさしく坂を転げ落ちるように完全な崩壊に向かうことになる。

(この項、続く)

*蛇足を承知で補足すれば、ヴァンプ女優の「ヴァンプ(vamp)」とはそのまま「ヴァンパイア(vampire)」の略である。文字どおり「男の生き血を吸う女」としての「悪女」のイメージだ。

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