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2009年10月12日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (60)

ちょいとLinux機をいじくってたら、なんかシステムがおかしくなってしまいました。ありゃーと思ってアレコレしてたら、事態は一層悪化してブート・ファイルまで行方不明になる始末。おーい(笑)。もーメンドーだとゆーことで、ヴァージョン・アップしたシステムを再インストール……しても、引き続きブート・ファイルが行方不明(笑)。どーやら、面白がって二種類のLinuxをインストールしてデュアル・ブートにしてあったのが悪さしていたようで、システムを入れていたパーティションからブート可能フラグが外れていたり、いろいろ不具合があった模様。なんとか復旧させ、最低限の追加設定が終わったのが午前二時。静かな金曜の夜を返せ(笑)。

とゆーよーな艱難辛苦(いや自業自得)を経て、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は「アンディの屋敷」の内部のシークエンスの第二回目、(1:42:17)から(1:42:46)をば。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:42:17)
(3)[ramsteinスタート]
天井の高い、薄暗いリビング・ルーム。吹き抜けになった六角形の建物の内部。白い壁の瀟洒な室内。あちらこちらに並べられた椅子と、ところどころに柔らかく光を投げかける間接照明。左側の壁の高いところには、プールの照明の青い光が窓枠のシルエットとともに映し出されている。中空には大きな映写スクリーンが下げられ、そこにはモノクロのポルノ映画が投射されている。顔をこちらに向けた金髪の女性が、男に後ろからのしかかられて体をうごめかしている。映像は、スクリーンからはみ出す形で投影されている。
(4)スクリーンに映された映像のアップ。あえぎながら体を揺らす女性のアップ。
(5)ピートのアップ。呆然と口を開け、スクリーンに映される映像を見上げている。部屋の中を見回しながら、画面外の段差を一歩、二歩と降りるピート。それにつれて後退する視点。画面右手を見るピート。
(6)ピートの主観ショット。黒いソファの上に置かれた豹柄の上着と、黒の本体に金の鎖がついた女性もののバッグのアップ。そのまま左下方にパン。白い絨毯の上に脱ぎ捨てられた黒いストッキングの左右。
(7)ピートのアップ。なかば口を開け、なおも部屋の中を画面手前に向かって歩き続ける。それに連れて後退する視点。画面左には、木のテーブルの上に置かれた、三角形の傘の電気スタンドが見える。その奥にはガラスがはまった木の枠の扉がある戸棚が見える。ピートの背後には、二階に続く二つの階段が、その右手には向かい側の白い替えと、そこにかかった間接照明の光が見える。
(8)スクリーンに映された映像のアップ。後ろから男にのしかかられ、口を大きくあえぎながら体を揺らす女性のアップ。
(9)ピートのアップ。立ち止まり、口を開けたままスクリーンに映された映像を見ているピート。
(10)スクリーンに映された映像のアップ。後ろから男にのしかかられ、口を大きくあえぎながら体を揺らす女性のアップ。

ついに”「アンディの屋敷」によって隠匿されていたもの”が、その姿を現す。カット(3)(4)(8)(10)にあるように、まずそれは”スクリーンに投射される「ポルノ映画」の映像”として表される。

まず指摘できるのは、この「ポルノ映画」が(映画内)映画である以上、「フィルム」という「映像記録媒体」の形状をとっていることだ。つまり、ともに「映像記録媒体」であるという点において、これは「前半部」に登場した「差出人不明のビデオ・テープ」の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」なのである。

一般的に「フィルム」(ないしは「ビデオ・テープ」)に記録された「映像」は、たとえば「文章」や「絵画」に比べて高い「写実性/指標性を備えていること=ありのままの記録であること」とされる。これはさまざまな映画理論によって繰り返し指摘され、「映画」というメディアム=媒体の基本的特性を論じるうえでの、ある出発点にもなっている。「写真」と同じく、そうした媒体によって残された「映像」は過去のどこかの時点で確実に「そのような形」で実際に存在しており、そこに”創作者の主観による「歪み」”が混入する余地がないゆえに他の媒体と峻別されるという考え方である。ただし、「表現主義的発想」を基本とするリンチ作品においては、この問題もまた「外面的写実性」ではなく「心理的写実性」をキーにして捉えなければならない。つまり、ここで優先して議論されるべきなのは、フレッド(あるいはリンチ自身)が感じている”フィルム(あるいはビデオ・テープ)という「メディアム=媒体」が付随させる「真実性/写実性/指標性」”の「イメージ」そのものだということだ。「前半部」の「幻想/捏造された記憶」において、「レネエ殺害」につながる「ありのままの記憶」が「差出人不明のビデオ・テープ」として登場するのは、まさしくこの「媒体」が備えているそうした「イメージ」に裏打ちされている。なによりも「ビデオ・カメラ」に対するフレッド自身の言及(0:24:28)が、彼が「ビデオ・テープ」という「媒体」に対してどのようなイメージを抱いているか、雄弁に物語っているといえるだろう。それと同様に、このシークエンスに登場する「ポルノ映画」も、「フィルム」という「ビデオ・テープ」と同等/同種の「媒体」の形状をとっているがために、フレッドの「ありのままの記憶」につながるものとして、ひいては”彼による「レネエ殺害」という現実”と関連していることが保証されることになる。

その一方で、記録媒体=フィルムが映し出しているのが”「ポルノ」=「交接する女性」の具体的映像”であることを、我々=受容者はどのように捉えればよいのだろうか? この疑問に一定の回答を与えるのが、(0:33:04)の「フレッドとレネエとの対話」や(1:29:00)の「ピートとアリスとの対話」が断片的に示唆してきたものだ。彼女(たち)はアンディから「仕事」を紹介されたと語り、その「仕事」が「ポルノ映画の撮影」であることが(1:29:00)からの会話でピートによって言及されたのち、(1:31:18)からの「アリスの回想」によって具象化される(もちろん、この「言及」や「回想」も”フレッドの「感情/意識」が代弁されたもの”に過ぎず、作品全体を見回してもレネエが「不貞を働いたこと」あるいは「ポルノの被写体となったこと」を明示する映像は存在しない)。これらのショット/シークエンスから了解されるのは、フレッドが自分の感じている「レネエに対するコントロールの不能性」を「彼女の不貞」という「疑惑」に重ねあわせていることである。そして、最終的にその「疑惑」はフレッドの内面において「現実=ミスター・エディ」と関連付けられ、「ポルノ映画」のイメージへと連鎖していくわけだ。

このシークエンスに登場する”「ポルノ映画」の具体的映像”も、まさしくそうした「イメージの連鎖」のなかに位置づけられるべきものである。すなわち、それを記録する「フィルム=媒体」が備える「真実性/写実性/指標性」のイメージとは裏腹に、この”「ポルノ映画」の具体的絵像”そのものは、「フレッドの感情/意識」に歪められた「幻想/捏造された現実」のひとつに過ぎないのだ。こうした検討から浮かび上がってくるのは、この「ポルノ映画」こそがフレッドの「感情」を……彼がレネエに対して抱いていた”「不安」や「疑惑」そのもの”を具現化し、表象しているということである。それを裏付けるように、暗い邸内に掛けられたスクリーンに投射される”「ポルノ映画」の映像”は「青白く」輝き、「プールから放たれる青い光」と並んで「青のモチーフ」のひとつとして……すなわち、フレッドの「不安」や「疑惑」に関連付けられるものとして登場している。

この「不安」や「疑惑」は、カット(6)の「脱ぎ捨てられたアリスの衣服」によって、「過去」だけでなく「いま現在も存在するもの」として提示される。アリス自身が「教唆」したように、あるいはこの後の展開が明らかにするように、彼女は「この現在」アンディと階上にいる。そのこと自体が”フレッドの「レネエに対する疑惑」”の「リフレイン」であることは論をまたない。かつ、「ポルノ映画の映像」と「脱ぎ捨てられたアリスの衣服」はともに「ピート=フレッドの主観ショット」として提示され、このシークエンスから始まるラムシュタインの音楽とともに、文字どおり「フレッドの主観を介在させたもの=彼の内面に関連するもの」であることが強調されている点も見逃せないだろう。

(この項、続く)

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