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2009年10月 5日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (59)

デトロイト方面で発生した出来事に、大山崎は先週いっぱい死亡状態でありました。うーん、それなりにオフェンス力がついて来てるみたいだったんで、危惧はしていたんだよなあ。なんにせよ、19試合ぶりの勝利、おめでとうございます>らいおんず 

とか言っている間にNFLは第四週が進行中で、贔屓チームもなんとか星を五分に戻し、大山崎もめでたく復活(笑)。いや、スケジュールがソフトな今のうちだけってーハナシもありますが、それはそれとして「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は(1:41:39)から(1:42:17)をば。

この後、「アンディの屋敷」の内部を舞台にして、非常に長いシークエンスが展開される。そこで発生しているさまざまな事象は、リンチが採用する「表現主義的手法」の典型例といえるだろう。これまで「ロスト・ハイウェイ」が提示してきた映像群と同様、このシークエンスが提示する具体的映像を、いわゆる「写実的な描写」としてナラティヴな観点から捉えることは不可能である。要請されるのは、それらの映像が伝える「外見的な歪み」がフレッドの「内面」に存在する「感情/意識」を反映しており、「外的写実性」よりもフレッドの「内的写実性」を優先した結果であるとみるアプローチだ。そうしたアプローチに従うなら、「アンディの屋敷」の内部で発生する事象(とその「歪み」)から浮かび上がってくるのは「フレッドのレネエに対する感情」の本質であり、彼が彼女を殺害するに至った心理的動機を理解するための「手掛かり」である。

では、何度かにわけて「アンディの屋敷」の内部のシークエンスをみていこう。

アンディの屋敷 内部 夜 (1:41:39)
(1)ミドル・ショット。照明が点灯された一部をのぞいて、薄暗い闇に沈んでいる部屋の内部のショット。カウンター・キッチンの蛇口越しに、画面左に見える通用口をのぞむショット。背よりも高いガラスがはまった通用口のドア越しに、屋敷の外の様子が見えている。木の幹、ビーチ・パラソルとその下のデッキ・チェア。パラソルとチェアには、青い照明の光が揺れて反射している。通用口のガラス越しに姿を表わすピート。通用口に歩みより、まず右手を伸ばした後、左手でドアを開ける。

[ドアが開く音]
そのまま左手でドアを開け、屋敷の内部に足を踏み入れるピート。ドア・ノブのあたりを見下ろしながら、なるべく音がしないように右手でゆっくりとそれを閉める。入り口あたりの闇の中を、画面右手に向かって歩き始めるピート。それを追って右へパン。キッチンのカウンターと天井からの戸棚の間から、明るい照明に照らされた両開きの木の扉と、その両側の白い壁が見える。自分の右手、画面手前のキッチンの内部を見ながら、画面右方向に向かって歩き続けるピート。途中で正面を向き、なおも歩き続ける。彼の向こうには冷蔵庫が視界に入ってくる。冷蔵庫の横にある通路の闇に姿を消すピート。
(2)ミドル・ショット。通路の暗闇から姿を表わすピート。画面手前右方向に向かって歩きながら、自分の左手にある階段の上を見上げる。ついで、画面左のほうを見るピート。豪奢な室内を彼が歩くのに連動して、右にパンしつつ後退する視点。ピートのアップになる。彼の背後には曲線を描いて左右に分かれ二階に続く、青い絨毯が敷かれた二つの階段が見える。画面外の段差を一歩降りるピート。そこにあるものを認めて呆然とした表情を浮かべる。

具体的映像として提示されるのは、「アンディの屋敷」の内部へと侵入するピートと、その直後に彼がそこで目にするものである。これまで「バスからの下車」(1:40:46)、「フェンスの乗り越え」(1:41:18)という具合にピートはその行動をエスカレーションさせてきたが、いよいよ彼は最終的な「引き返し不能地点」への関門をくぐり抜けるのである。カット(1)にあるように、侵入口となった「裏口」は、「アリスの教唆」(1:35:20)にあるように開け放たれている(The back door'll be open)。言外の機序にしたがうなら、もちろん裏口の「鍵」を開放しておいたのは「アリス」だ。こうした「図式」によって補強されるのは、やはり”ピート=フレッドをして「最終関門」をくぐらせたのは、「彼自身のレネエ(およびその代替イメージであるアリス)に対する希求そのもの」である”ことである。

その「最終関門」をくぐり抜けるに際して……具体的にいえばカット(1)の最後からカット(2)の始めにかけて、ピートが「闇」を通過する描写があるのは非常に興味深い。この”「闇」をくぐり抜ける”という表現は、これまでも作中に何度かすでに現れている。たとえば(0:37:54)の”もう一人の自分と相対するフレッド”のショットにおいて、あるいは(1:08:03)の”自分の鏡像と対峙するピート”というショットにおいて、彼(ら)はともに”「闇」をくぐり抜けて”いる。リンチ作品において頻繁に採用される”同一モチーフ/テーマの「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」”を念頭に置くなら、現在論じているシークエンスに現れる”「闇」をくぐり抜ける”モチーフと、上に挙げた二つのショットに認められるそれは、まさに「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」の関係にあるといえるだろう。そして、その関係性の根底にあるものこそ、もうひとつの共通モチーフ/テーマである「闇」だ。

たとえば(1:14:56)に現れる「夕暮れの風景」のショットについて述べた際に触れたように、リンチ作品に登場する「闇」は、「内面」と「外界」を区切る「表層」を不可視化し、その存在を消し去るべく機能する。存在しなくなった「表層」は「内面に存在するもの」をもはや留め置くことができず、本来は隠匿されるべきだったもの……たとえば「レネエに対する希求」を「外界」に向かって解き放ってしまう。上に挙げた(0:37:54)および(1:08:03)のショットが提示する映像に則して述べるならば、「闇」をくぐり抜けたフレッド/ピートが向かい合うのは「ありのままの自己」を喚起させるもの……つまり「もう一人の自分」であり、いわば彼(ら)は自分の「内面」に隠されている「自らの本質」と対峙しているのだ。「レネエ殺害」という「ありのままの記憶」を忘却しておきたいフレッドにとって、当然ながら「ありのままの自分」もまた「心のどこかに隠匿されるべきもの」である。だが、「リンチの闇=リンチ・ブラック」によって消え去った「境界」は、もはやそれを「内面」に押しとどめる力を持たない。

ドキュメンタリー「ナイト・ピープル」のなかで、前妻のペギーが「当時住んでいた部屋をリンチが黒く塗った」ことについて言及したのを受けて、「そうすれば壁があっても見えなくなるからね」とリンチは語っている。リンチにとって「境界の消失」は、他のどの色でもなく、「黒=闇」によって引き起こされることを端的に裏書きする証言であるといえる。

これらの事項もまた、カット(2)で”ピート=フレッドが「目撃したもの」の「性格」”がどんなものであるかを補強的に示唆するものだ。そして、以降、彼が「アンディの屋敷」の内部において体験する事象群もそれと同様の「性格」を帯びている。一言でいえば、それはフレッドにとって「忘却したいもの」であり、つまりは「ありのままの記憶」につながるものだ。では、ピートはいった何を「見た」のか? 「アンディの屋敷」という「家」に隠匿され、いまや「闇」によって開放されたのは、いったいどのようなものなのか? 

(この項、続く)

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