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2009年9月16日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (57)

先日買った「アヤしいDVDプレイヤー」でありますが、とりあえず問題なく作動しております。いや、作動はしておるのですが……なんで再生時間表示がいきなり「1:00:00」から始まるのかなあ?(笑) とりあえずDVDを再生して観るぶんには問題ないので、うっちゃらかしておりますが。

……などと「科学の驚異、女体の神秘」(なんだ、そりゃ)に首を捻りつつ続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は(1:40:36)から(1:40:57)をば。

バス 外部 夜 (1:40:36)
(ディゾルヴ)
(1)ピートのアップ。走行中のバスの窓越しに、右斜め前からとらえたショット。バスの左側窓際の席に座り、窓の外を見ているピート。彼の背後、ひとつ後ろの右の列の席にはワイシャツ姿の白人男性の姿が見える。画面右には、斜めに画面を分断している車窓の白い枠。窓ガラスには、外部の街灯やネオン・サインなどの光が反射しており、走行にあわせて後ろに流れていく。
(ディゾルヴ)
(2)ピートのアップ。走行中のバスの内部。右の列、窓際の席に座り、真っ暗な外を見ているピート。彼のひとつ前の席から、右斜め前から彼をおさめるショット。彼の前には、前の席の背が一部見えている。窓ガラスには、後部に座っている白いワイシャツ姿の男の姿が写っている。速度を緩めるバス。窓枠の下部に右手を当て、通路方向に体をずらすピート。それを追って右へパン。通路に立ち上がり、画面に背を向けて昇降口に向かうピートのバスト・ショット。左の列には、ワイシャツ姿で黄色い表紙の本を読んでいる男の姿が見える。その他の乗客は見えない。そのまま昇降口のステップを降り、右手を伸ばして折りたたみ式のドアを開けるピート。それを追って少し左へパン。バスを降りるピート。彼の背後で閉まるドア。
[ドアが閉まる音]

具体的映像として提示されるとおり、ピートは「アリスの指示(Don't drive. Take the bus)」(1:35:28)にしたがい、自分の自動車あるいはバイクを使わず、バスに乗って「アンディの屋敷」へと向かう。

もちろん、このように「アリスの教唆」どおりに動くこと自体、ピート=フレッドが自らの「主体性」を放棄していることの表れであることはいうまでもない。と同時に、たとえば「ミスター・エディの自動車に乗ること」が「ミスター・エディのコントロール下におかれ、自らに関するコントロールを失うこと」を表象していたように(1:01:30)、ピートが自らの移動手段を使わずバスに乗って移動する行為そのものもまた「他人のコントロールに身を委ねる行為」として捉えられる。

それを強調するかのように、カット(1)において、「バスのガラス窓に反射する街灯やネオン・サイン」が現れる。(1:23:21)の「ピートが夜の街をバイクで疾走するショット」においても「街灯やネオン・サイン」は現れており、現在論じているシークエンスは(1:23:21)のショットの「ヴァリエーション」であると考えることが可能だ。

両ショット間で大きく異なっているのは、ピートの「スタンス」である。(1:23:21)のピートが(その契機が「アリス」に会えない焦燥感であったにせよ)「シーラに会いに行く」途上であり、主体性をもって能動的な行為をとっていたのに対し(つまり、「自身に関するコントロール」を保全していたのに対し)、カット(1)のピートはバスに「運ばれながら」(つまりは「自身に関するコントロール」を放棄し)ガラス窓越しに「外界」を見詰めるという受動的な行為しかとれないでいる。また、バイクに乗ったピートが「外界」に対し直接身を晒していたのに対し、カット(1)では「バスのガラス窓」によって「外界」から遮断され庇護されている。「ロスト・ハイウェイ」で描かれる事象をすべてフレッドの心象が反映されたものと捉えるとき、この二つのショットの対比から浮かび上がってくるピート=フレッドの「心理的変遷」は明らかだろう。

我々=受容者が検討しなくてはならないのは、なぜそのような「心理的変遷」が発生したか……言葉をかえるなら、何故ピート=フレッドはこのシークエンスにおいて「受動的態度」をとらなければならないのか、である。確かに具体的映像を観る限りでは「アンディからの金銭の強奪」は”「新たな遁走」への手段”としてアリスによって「教唆」されていたわけだが、そもそもこれ自体がフレッドの「意識」を「代弁」するものであったことは指摘するまでもない。問題はその「アリスによる代弁」そのものが、フレッドにとって「都合のよいもの」であることだ。ピート=フレッドは「アリスが発案した犯罪行為=現実への反逆」を、あくまで「アリスの教唆に従って行う」のである。

そこに伺えるのは、やはりフレッドがこれまで何度も繰り返してきた”屈折した「自我の保護」”であるといえる。フレッドは巧妙に「レネエ殺害」の要因を「彼女のコントロールの不能性」に帰し、次いでその責自体を「現実=ミスター・エディ」に転嫁した(1:31:49)。同様に、彼はこれから行おうとしている「アンディからの強奪」という名の「現実=ミスター・エディへの反逆」を、いつでも「アリスの責任」に転嫁可能であるように「抜け道」を準備するのである。このシークエンスにおいてピート=フレッドが「受動的態度」をとり、「外界」から庇護されているのは、まさしくそうしたコンテキストにおいてだ。

しかし、いずれにせよ、現在の「幻想/捏造された現実」が崩壊に向かっている以上、ピート=フレッドは「新たな遁走」を余儀なくされているといってよい。直前のシークエンスで提示されてように、「現実=ミスター・エディによる侵入」は「家の領域」にまで及び、シーラと両親も「退場」してしまった。いつの間にか「砂漠の小屋」から逃れた「ミステリー・マン」の再登場は、封印したはずの「真の心の声」の蘇生を告げている。もはや引き返すことが不可能になったピート=フレッドは、彼を庇護する「バス」から降り、「新たな遁走」を目指して「外界」へと身を晒すことになる(カット(2))。

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