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2009年8月

2009年8月24日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (55)

お盆が終わってもあいかわらず続く、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は、(1:36:09)から(1:37:49)をば。

さて、前回述べたように、フレッドは「非難の対象」を「アリス(およびその原型であるレネエ」から「ミスター・エディ=現実」へと移し、「新たな遁走」を試みることで「ピートを核にした幻想/捏造された現実」を維持しようとしている。だが、その間にも「ピートを核にした幻想/捏造された現実」に発生した「失調/変調」はとどまらない。この後、(1:36:09)からのシークエンスでは、そうした「変調」が深く進行している状況が描かれることになる。

では、まず、”「ピートの家」の外部”では何が発生したか、具体的な映像からみてみよう。

デイトン家 外部 夜 (1:36:09)
(1)ロング・ショット。デイトン家の前庭から、家の前の道路と向かい側の家々を見るショット。視点は左に振られており、道路の向かい側に止められた黒い自動車、平屋建ての五軒の家を視界に収めている。街灯がぽつんと灯っているだけで家々は眠りについており、その窓は真っ暗だ。ピートの自動車が画面左から現れる。道路を右に向かって走る彼の自動車を追って、右へパン。彼の自動車の向こう側、道を挟んだ向かいの家のガレージと、その前に置かれたモーター・ボートが見える。なおもピートの自動車を追って右へパン。道路の向こう側、ガレージの右側には向かいの家の平屋建ての建物が見える。道路のこちら側に置かれたピートの両親のライトバン。ピートの自動車はライトバンの向こうを通り、右折して自分の家のガレージの前にやってくる。パン終了。画面右端にはガレージの白い壁の一部が見えている。それに前半分が隠れる位置で停車するピートの自動車。
[ドアが閉められる音]
ガレージの壁の向こうから、画面に姿を表わすピート。それを追って少し左へパン。ピートは何かを認め、歩調を緩める。
(2)ミドル・ショット。デイトン家の玄関。画面右、玄関のドアの前に、腕組みをしたシーラが立っている。黒い上着に黒いTシャツ、黒いミニ・スカートに黒いショート・ブーツ姿である。画面左には、ガレージの白い壁と、それに掛かった籠型の外灯が黄色い光を投げかけているのが見える。その右、シーラの左には窓があり、白いレースのカーテン越しに電気が点いた室内が見える。
(3)ミドル・ショット。ピートの腰から上のショット。呆然とシーラを見詰めているピート。
(4)ミドル・ショット。腕を組んだまま、ピートに早足で近づくシーラ。それに連れて後退する視点。
シーラ:(震える声で)You're fucking somebody else, aren't you.
(5)ミドル・ショット。ピートの腰から上のショット。彼に近づいていくシーラを、背中越しに収めるショット。
ピート: Sheila!
なおも彼に近づいていくシーラ。それを追って前進する視点。
シーラ: You fuck me whenever you want!
ピート: Sheila, Sheila, stop it!
ピートにたどり着き、両手で彼を突き飛ばすシーラ。彼女の剣幕に押されて後退するピート。なおも彼を追いかけるシーラ。それを追いかけて前進する視点。
(6)ミドル・ショット。シーラのアップ。アウト・フォーカスになったピートの背中越しのショット。
シーラ: You don't call! Who is she?!
再びピートを突き飛ばすシーラ。やや画面右方向に後退するピート。
ピート: Stop it!
彼女の背後には、電気が点いたデイトン家の家が見える。その玄関のドアが開けられ、中からピートの父親が姿を表わすのがアウト・フォーカスで見える。なおも右斜め後ろに向かって後退する視点。
シーラ: What's the bitch's name?!
玄関のドアを出て、二人の方に向かってくるピートの父親。その後ろには、母親の姿も見える。
ピート: I'm sorry!
シーラ:(なおも詰め寄りながら)Oh, you're 'sorry'!
ピート:(左手を画面外に伸ばして)Go home!
(7)ピートのアップ。シーラの右肩越しに、やや見下ろすショット。
シーラ: You're 'sorry'?!
後ろに尻もちをつくように倒れるピート。
ピート: Sheila, stop it! Go...
シーラ:(ピートの言うことに耳を貸さず)You're sorry, you piece of shit? You're sorry?!
倒れたピートにのしかかり、彼の体を殴り始めるシーラ。ピートは体を守るように両腕を交錯させ、シーラのなすがままである。
ピート: Go home!
(8)シーラのアップ。彼女の右斜め前から、やや見下ろすショット。
シーラ:(画面外のピートを左手で殴って)Fuck you!
ピート:(画面外から)Stop it, Sheila!
シーラ:(画面外のピートを右手で殴って)Fuck you!
彼女の背後には、デイトン家の前庭の芝生が見える。画面左の芝生の上を近づいてくるピートの父親の足が、アウト・フォーカスで見える。
(9)地面に倒れたままのピートのアップ。なおも彼にのしかかり殴り掛かるシーラの背後からのショット。彼女の後ろ、画面左からピートの父親が現れ、手を差し伸べて彼女を止めようとする。
父親: Sheila, Sheila, Sheila...
シーラ:(なおもピートを殴りながら)Fuck you!
(10)シーラのアップ。背後から差し伸べた両手でシーラの肩を掴み、彼女を止めようとしているピートの父親。彼は肩から下しか視界に入っていない。身をよじって、父親の手から逃れようとするシーラ。
父親: Sheila, stop it!
シーラ: Fuck you!
少し上方にパンし、シーラと父親のツー・ショットになる。後ろからシーラを抱きかかえるようにして、彼女を止めようとする父親。
父親:(なだめるように)Let's both go in and talk about this quietly.
後退する視点。右手の手首を顔にあて、泣いているシーラ。右手を下ろしたあとも、彼女は泣きつづける。彼女の顔を覗き込むようにする父親。
父親: Sheila? Sheila...come on.
(11)地面に倒れたままのピートのクロース・アップ。呆然と泣いているシーラのほうを見上げている。
シーラ:(画面外で)You are different!
父親:
(画面外で)Sheila!
(12)シーラと父親のツー・ショット。ピートの主観ショット。地面から二人を見上げるショット。倒れたピートを見下ろして泣いているシーラ。彼女の右腕を掴んだまま、彼女に話しかけている父親。二人の背後には、木の枝とそれに生えた葉、その向こうの真っ暗な夜空が見える。
シーラ:(父親を見上げながら)Tell him. Tell him!
アウト・フォーカスになるとともに、揺れる画面。
父親: Sheila, don't!
(13)地面に倒れたままのピートのクロース・アップ。半ば口を開けたまま、二人のほうを見上げている。
父親:(画面外で)No.
シーラ:(画面外で)I don't care any more...
(14)シーラと父親のツー・ショット。ピートの主観ショット。地面から二人を見上げるショット。泣きながらピートを見下ろしているシーラ。彼女を見守っている父親。
シーラ: ...anyway.
父親のほうを見るシーラ。
シーラ: I'm sorry, Mr. Dayton.
(15)地面に倒れたままのピートのクロース・アップ。黙ったままシーラと父親の遣り取りを聞いている。
シーラ:(画面外で)I won't bother you...
(16)シーラと父親のツー・ショット。ピートの主観ショット。地面から二人を見上げるショット。泣きながらピートを見下ろしているシーラ。彼女を見守っている父親。
シーラ: or any member of your family ever again.
アウト・フォーカスになるとともに、揺れる画面。
(17)地面に倒れたままのピートのクロース・アップ。頭だけを起こそうとしている。少しアウト・フォーカス気味。若干、彼に向かってクロース・アップ。
(18)シーラと父親のツー・ショット。ピートの主観ショット。アウト・フォーカスのまま。地面から二人を見上げるショット。泣きながらピートを見下ろしているシーラ。彼女を見守っている父親。画面右に向かって走り去るシーラ。
(19)シーラのアップ。彼女の背後からのショット。デイトン家の前の道路に向かって走るシーラの背中。膝から上のショットになるまで。
(20)地面に倒れたピートのアップ。体を起こし、立ち上がろうとするピート。画面左から父親が現れ、右手を差し伸べる。その右手を左手で掴み、立ち上がるピート。それに連れて上方にパン。立ち上がり、ピートと父親のツー・ショットになる。画面の奥、道路のほうを見る二人。彼らの頭の間から、夜の道路と向かいの家のガレージが見える。道路を走り去るシーラの後ろ姿。やがて彼女は父親の後ろ姿の向こうに消える。
(21)ロング・ショット。夜の道路。道路の向こう側、画面の左端には駐車している黒い自動車と、その向こうの家々が見える。道路を走って渡り、自動車の向こう側に姿を消そうとするシーラの後ろ姿。
(22)父親とピートのアップ。ツー・ショット。走り去るシーラの姿を追って、画面左方向を見ている二人の後ろ姿。
母親:
(画面外から)Pete?
体を右回りに回し、自分の背後を振り返る父親。少し間を置いて、ピートも溜め息をつきつつ、左方向に自分の背後を振り返る。
(23)ミドル・ショット。開かれた玄関のドアの前に立っている母親の腰から上のショット。彼女の右には家の白い壁と、閉められたアルミ・サッシの小さな窓、その壁の前の植木が見える。開けられた玄関のドア越しに、リビング・ルームの内部が見えている。
母親:(右手で家の内部を示し)There's a man on the phone.

まず、気がつくのは、このシークエンスにおける「ピートの家」周辺の位置関係および構図である。カット(1)(3)カット(2)(4)を対比させればわかるように、このシークエンスで発生している事象は、「ピートの家(およびその前庭)」と「道路」という位置関係を舞台にしている。

この「ピートの家」と「道路」の位置関係は、たとえば(1:00:14)や(1:26:42)などにみられる「アーニーの自動車工場」と「その前の自動車が行き交う道路」との位置関係と同一である。この「自動車工場」がピートの「職場」であり、「外界」との接触が日常的に発生する場所であるがために「外界/現実の侵入」に対して脆弱であることは、しばしば発生した「ミスター・エディによる侵入」によって端的に表されていたとおりだ。これまでも何度か触れてきたように、リンチ作品において、こうした複数のシークエンス間(あるいはショット間)における「構造的な一致」は、しばしばそこで発生している事象の「等価性」を指し示している。このような”固有のテーマ/モチーフの「リフレイン」(あるいは「ヴァリエーション」)の採用”は、リンチ作品に顕著にみられる特徴のひとつであるといえる。

こうした観点に立つならば、このシークエンスと「自動車工場」のシークエンスの間に認められる”位置関係の「リフレイン」”は、そこで発生している事象が「等価」であること……つまり、「自動車工場」において発生していたのが「外界/現実による侵入」であるならば、現在このシークエンスで発生している事象もまた「外界/現実による侵入」に関連していることを物語っていることになる。だが、現在「フレッドの幻想/捏造された現実」に侵入しているのは「ミスター・エディ」ではない。カット(2)およびカット(4)をみればわかるように、ピート=フレッドと「家」の間に立ちはだかり、彼がそこに帰還することを阻止しているのは「シーラ」だ。

一言でいうなら、これは「シーラの外界化」である。これまでも何度か述べてきたように、そもそもの彼女は”ピートを核にした「幻想」の一部”であり、フレッドに「とって都合のよい存在」であったはずだ。ピートが「現実のフレッド」と共通点をまったくもたない存在であるのと同様、シーラも「現実のレネエ」とは重ならない存在でありながら、同時に「レネエの代替イメージ」として機能していた。たとえば(1:08:29)や(1:23:38)にみられたように、ピート=フレッドが彼女をコントロール下において便利に「利用」してきたことは明らかであり、カット(5)における「好きなだけヤっておいて」というシーラの言及(あるいは代弁)にはまったく反論の余地がない。

だが、このシークエンスにおける彼女はもはやそうした「便利な存在」ではない。ピート=フレッドの彼女に対するコントロールは完全に失効しており、むしろ彼女は明確な「自我」を備え、「幻想/捏造された現実」に対する「侵入者」となって彼を「非難/処罰」する。その点において現在の彼女はミスター・エディと同等であり、「ミスター・エディによる侵入」に対してそうであったように、「シーラによる侵入」に対してもピート=フレッドは限りなく無力だ。たとえばカット(7)の「倒れたピート=低所」と「のしかかる(あるいは立ちはだかる)シーラ=高所」という位置関係が示唆するように、この場を支配しコントロールするのはシーラである。なによりも、地面に転がりシーラにのしかかられるピートの姿は、山道でミスター・エディによって「処罰」を受ける哀れなドライバーの姿(1:04:59)と重なっているといえる。フレッドが「(作品内)現実において受けている処罰」に対して無力なように、ピートもミスター・エディやシーラによる「処罰」に対しては完全に無力なのだ。

もちろん、これまたシーラが言及(あるいは代弁)するように(カット(11))「変わった」のはピート=フレッドであり、こうした「変化」は彼女に起因するものではない。繰り返し述べるように、フレッドの”ピートを核にした「幻想/捏造された現実」が「失調/変調」をきたす契機となったのは、彼の「レネエに対する希求」である。そして、シーラがフレッドにとって「都合のよいもの」でなくなったのは、彼が「アリス」という「より優秀なレネエの代替イメージ」を手に入れたからに他ならない。必要でなくなったシーラは「幻想/捏造された現実」からは除外され、相対的に「外界に属する存在」へとシフトする。結果として彼女が「家」との間に立ちふさがる「侵入者」となり、ピート=フレッドを「処罰」するに至った要因は、結局のところ彼自身の「変化」にあるのだ。

当然ながら、この「シーラによる侵入」によっても、ピートを核にした「幻想/捏造された現実」は打撃を受ける。それを端的に表しているのが、カット(12)およびカット(16)に認められる「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」のモチーフである。このモチーフは(1:22:29)や(1:27:39)などにおいて現れたものと同一であり、文字どおり「ピートを核にした幻想/捏造された現実」が”揺さぶられる”様子を指し示していることは、当該シークエンスについて述べる際に触れたとおりだ。そして、(1:22:29)のシークエンスにおいてもそうだったように、このシークエンスにおいても、何度か「ピートの主観ショット」による「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」が提示されたあと、最終的には「視点」の「主体」となるピートの映像そのものが「揺れ動く」(カット(17))。「幻想」が受けるダメージは度重なり、最後にはその「核」となる「ピート」にまで及ぶのである。

ピートとシーラの間に介入するのは、「父親」である(カット(9))。多くのリンチ作品においては往々にして「機能しない家族」が描かれるが、この「父親による介入」をみる限りにおいて、「ピートの家族」はその機能性を欠落させていないことがわかる。「ピートの家族」もまたフレッドの「幻想/捏造された現実」の一部であり、「フレッドにとって都合のいいもの」であることを考えるならこれは当然であるわけだが、その一方で、シーラは対照的な反応をみせる。彼女は「家に入って話し合う」という父親の提案(カット(10))を拒絶する。彼女はそもそも当初から「家族」としては機能しておらず、このシークエンスにおいて発生した事象によって、将来的にも「家族」となり得ないことも明確にされてしまった。その限りにおいて彼女が「家の内部」に属することは不可能であり、「侵入者」として排他されるしかない。「父親による介入」を受けた彼女は、「ピートおよびその家族に迷惑をかけることなく」(カット(15)(16))、「幻想/捏造された現実」から退場するのである(カット(19)(21))。

いずれにせよ、もっとも注目しなければならないのは、こうした「外界/現実による侵入」が”「家」に近接した領域”において発生していることだろう。本来「家」は、「外界」に向かって大きく開かれた「職場=自動車工場」とは異なり、「現実からの侵入」に対してもっとも堅固な避難所であるべき領域である。リンチ作品における共通テーマとしての「家」にのっとるなら、「ピートの家」はピート=フレッドの「内面」そのものであり、彼の「意識」や「感情」が内包されている場所なのだ。現在ある「幻想/捏造された現実」がフレッドの「意識」や「感情」を反映して構築されていることを考えるなら、「ピートの家」の内部にあるものは、いわばその「核心部分」だといってよい。ならば、このシークエンスで発生している事象の重要性……つまり、「外界の侵入」が”「家」の領域”の近くにまで及んでいることの重大性が理解されるはずだ。ピート=フレッドが「新たな遁走」を準備していた間にも(あるいはそれがゆえに)、”ピートを核にした「幻想/捏造された現実」”に発生している「変調/失調」はよりその度合いを進め、「崩壊への危機」は一層切迫したものになりつつある。

それを明示するかのように、「現実による侵入」はこれにとどまらない。シーラが「幻想/捏造された現実」から「退場」したあとも、形を変えて「現実による侵入」は続き、もはや「ピートの家」の内部ですら「安全な場所」ではない。新たな「侵入」の始まりを告げるのは、カット(23)で母親が伝える「電話の着信」である。

(この項、続く)

2009年8月13日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (54)

お盆休みに入ってもいつもの調子でだらだらと続く、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は、(1:28:13)から(1:36:09)までについての第五回目。今回は、そのうちのパート3(1:34:14)-(1:36:09)をば。

「アリスによる回想」の(形態をとる)パート2が終了し、パート3では再び「(作品内)現実」へと舞台は回帰する。パート1とこのパート3がいわば「括弧」として機能し、”「パート2=(作品内)非現実」の始まりと終わり”を明確化していることは、このシークエンス全体を概観する際に述べたとおりだ。我々=受容者がこの「括弧記号」を認識できるのは、パート1およびパート3に現れる映像が「共通のもの」であるから……現在論じているシークエンス群を例にすれば、ともに「スターライト・ホテルの一室」を舞台とし、「ピートとアリスが会話を交わすショット(ツー・ショットおよびクロース・アップを含めて)」が提示され、この両パートにおける「(作品内)時制」が一致しているからだ。こうした「共通の(作品内)現実」を示すショットの間に「(作品内)非現実」を挟み込むことによる「(作品内)非現実の明確化」の手法は、すでに1910年代にはハリウッド映画を含めた多くの映像作品に採用されていたものである。

とういう点を再確認したうえで、とりあえずは具体的な映像からみてみよう。

パート3
スターライト・ホテル 客室 内部 夜 (1:34:14)
(48)[音楽は継続している]
青いマニキュアをしたアリスの右手のクロース・アップ。それが伸ばされるにつれて、左へパン。画面左からピートの顔が視界に入ってくる。彼の左頬に当てられるアリスの右手。
[終了する音楽]
伸ばした親指が彼の顔を撫ぜる。無表情なまま、アリスのほうを睨んでいるピート。一度離れかけたアリスの右手は再度伸ばされ、ピートの左頬を撫ぜる。
ピート:(ささやき声で)Why didn't you jest leave?
(49)アリスの左斜め前からのアップ。泣きそうな顔をしている。やがて目を伏せるアリス。
(50)ピートの右斜め前からのアップ。アリスのほうを睨んだままだ。彼の左頬を撫ぜているアリスの右手。
ピート: You like it, huh?
やがてアリスの右手はピートの頬から外される。
(51)アリスのアップ。目を伏せたままのアリス。やがて目を開いてピートのほうを見る。
アリス: If you want me to go away...
アリス:(間)I'll go away.
(52)ピートのアップ。小さく左右に首を振る。
ピート: I don't want you to go away.
アリスのほうに顔を寄せるピート。
(53)アリスのアップ。画面左から、右手をアリスの顔に伸ばすピート。目をつぶるアリス。そのまま画面左から顔を寄せていくピート。目を上げ、ピートを見るアリス。
ピート: I don't want you to go away.
再び目をつぶるアリス。彼女にキスをするピート。そのままアリスをベッドの上に押し倒していくピート。
(54)ピートとアリスのアップ。ベッドに横たわっているアリス。その上に覆いかぶさっているピート。ピートの右側面からのショット。白いシーツ。
ピート: I love you, Alice...
音を立てて口づけを交わす二人。アリスが左手をピートの首筋に伸ばし、彼を引き離す。微かに微笑みを浮かべるアリス。
アリス:(少し左に体を向けながら、ピートを見詰めつつ)Should I call Andy?
ピート: Andy?
ピートの左頬を伸ばした左手の親指で撫ぜるアリス。
アリス: That's his name, 'Andy'. Our ticket out of here.
ピート: Yeah. Call him.
笑みを浮かべ、右手を自分の枕元のほうに伸ばすアリス。ちらりと右肩越しにそちらを見ながら、折った右手の肘を枕代わりにする。
アリス:(左手の人差し指でピートの顎を撫ぜながら)I'll set it up for tomorrow night.
(55)アリスのアップ。ピートの主観ショット。ベッドに横たわったアリスを真上から見下ろすショット。涙でマスカラが流れている。
アリス:(淡々と)You meet me at his place at 11 o'click. Don't drive. Take the bus. Make sure no one follows you. His address is easy to remember. It's 2224 Deep Dell Place. It's a white stucco job on the south side of the street. I'll be upstairs with Andy. The back door'll be open. Go through the kitchen into the living-room; there's a bar there. At 11:15, I'll send Andy down to fix me a drink. And when he does, you crack him in the head, OK?
(56)ピートのアップ。アリスの主観ショット。下から彼を見上げるショット。彼の背後には白い天井が見える。一度目を伏せたあと、決意したように目を上げるピート。
ピート: OK.

このシークエンスでまず注意をひかれるのは、カット(48)とパート2に属するカット(47)との間の「コンティニュティ」である。まず、サウンド・ブリッジとして機能している「I Put a Spell on You」による、音響的なコンティニュティがある。そして、もうひとつが「アリスの動作」によるコンティニュティだ。

この二つのコンティニュティによって強調されるのは、やはり「ミスター・エディとピートの等価性」である。そして、ピートが優秀なフレッドの「代行者/代弁者」である限りにおいて、これは最終的に「ミスター・エディとフレッドの等価性」を指し示していること……より正確にいうなら「フレッドが自らの記憶/感情を土台にして、ミスター・エディ(のイメージ)を構築していること」を指し示していると捉えられる点については、「暖炉で燃える炎」などを例に前回述べたとおりだ。「アリスの動作」によるコンティニュテイは……パート2に終わり(カット(47))でミスター・エディに差し伸べられたはずの「アリスの右手」が、カット(48)ではその対象をピートへと移行させるのは、三者をむすぶこうした「等価性」に基づくものである。

カット(48)からカット(52)にかけて、ピートは「なぜ立ち去らなかったのか?」「それが気に入ったのか」と「アリスの軽挙」を咎める姿勢をとる。だが、それも長くは続かない。いずれにせよ、責はすべてミスター・エディに転嫁され、彼が本当の「非難の対象」となった時点で、アリスは(そしてレネエは)「許容」されるべく決定づけられている。そのとおりに、カット(53)およびカット(54)において、ピートはアリスを許容し彼女への「希求」を明確にする。

しかし、カット(54)以降に示されるように、この「許容」が、結果的に”アリスが提案した(あるいは代弁した)「犯罪」の実行”に同意することにつながっている(あるいは「同義」である)点には注目したい。前述したとおり、一義的には、これはフレッドが「アリス=レネエを許容する」ために、「ミスター・エディ(およびその周辺の人物)」に責任を転嫁し、「処罰の対象」を彼らへと変えているからだ。だが、忘れてはならないのは、カット(54)でアリスが代弁するとおり、その「処罰」=「アンディから金銭を強奪すること」の目的が、そもそも「この状況から脱する」ためのものであることである。要するに、フレッドの意識が向かっているのは、”「ミスター・エディ=現実」による侵入の排除”というよりは、むしろ「新たなる遁走」あるいは「遁走内遁走」なのだ。その意味において、一見積極的行動にみえながら、その本質においてこれは「逃避行動」以外のなにものでもないことがわかる。

それを明示するのが、このシークエンスで「主体」となっているのがあくまでアリスであり、ピート=フレッドではないことだ。ピートから「許容」を引き出す契機となるのは彼女の「別れたほうがいいなら、別れるわ」という発言であるし(カット(51))、その後「アンディに電話をしてよいか?」と「処罰あるいは犯行」を実行に移す”許可”をピートから引き出すのもアリスだ(カット(54))。その”許可”を受けて手配をかけるのもアリスなら、事細かに「犯行の手順」をピートに教唆するのもアリスなのである(カット(55))。この「新たな遁走」に関してさえ、ピート=フレッドはアリスという「代弁者」を必要とし、可能な限り自らが主体となることを回避するのである。だが、こうしたピート=フレッドの「主体性の欠落」が、逆にアリス(ひいてはその原型であるレネエ)の「ファム・ファタール性」を……つまり、その「コントロールの不能性」を浮かび上がらせる結果になっていることには注目しておくべきだろう。

このようにしてフレッドは、「ミスター・エディ=現実」の「直截的な力」による侵入/介入を回避し、自らの「幻想/捏造された現実」と「自我」を守るために、”「新たなる遁走」の道筋”をつける作業を終了する。だが、その間にもピートを核にした「幻想/捏造された現実」が抱えた変調はますますエスカレートし、崩壊の危機に近づいていることが次のシークエンスにおいて明確にされることになる。

(この項、おしまい)

2009年8月 6日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (53)

えーと、リンチんち(某「名犬」の名前みたいだな)から「インタービュー・プロジェクト」に関するメールをいただいたんでありますが……あ、登録しておくとスタートしたときに教えてくれるってんで、登録しておいたヤツね。その内容っていうのが「もう二ヶ月前から始まってまっせ」とゆー、悠長というかなんとゆーかな感じ(笑)。ま、もともと一年間という長丁場のハナシなんで、こんくらいユルいほーがよろしいのかもしれません。こちらも気長におつきあいさせていただくことにしましょー、そーしましょー。

で、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は、(1:28:13)から(1:36:09)までについての第四回目。でもって、パート2についての第二回目。

さっそく、具体的映像の続きから。

(1:32:03)
(23)アリスのアップ。画面右から、画面左方向を見ながら進んでくる。背後右手には、中近東風の青い装飾が施された柱。左の奥、画面正面にはぼんやりと闇に沈む鉄の装飾窓らしきものが見える。画面中央で、左回りに向き直り始めるアリス。
(24)ミドル・ショット。アリスの主観ショット。右から左へパン。赤い絨毯の上に立ち、アリスのほうを見ている三人の男たち。彼らの背後にある赤いカーテンが閉まった窓からの光で逆光になっており、彼らの表情は見えない。続いて、白い壁の前に置かれた置物棚。低いテーブルの上に置かれた白い傘の電気スタンド。壁に掛けられた金の額縁に入った大きな絵。少し下方にパンしつつ左へのパンは続き、椅子の上に足を組んで座っているワイシャツ姿のミスター・エディが視界に入ってくる。彼の前に置かれた小さな長方形のテーブル。その上の緑色のテーブル掛けと置物。その後ろ手は巨大な暖炉で燃えている火が見える。陽光がスポット・ライトのようにミスター・エディを照らしている。
(25)アリスのアップ。彼女の右斜め前からのショット。画面右端にいるアリス。ミスター・エディのほうに完全に向き直るアリス。
(26)ミスター・エディのアップ。彼の正面からのショット。彼の顔の左半分は、闇に沈んでいる。彼の背後に見える壁に掛かった巨大な絵。その右には白い傘の電気スタンドが点灯されているのが見える。じっとアリスのほうを見ているミスター・エディ。
(27)アリスのアップ。ほぼ正面からのショット。ミスター・エディのほうを見つめている。
(28)画面右端から、階段のところに控えていた用心棒が早足で歩いてくる。それを追って左へパン。彼の背後には、中近東風の装飾が施された柱や、立っているダーク・スーツ姿の男や灰色のスーツの男、上辺がアーチ状になった、上部が緑、下のほうが白い装飾の布が掛けられた窓などがアウト・フォーカスで見える。歩きながら左手で懐からリボルバーを取り出し、真っすぐ前方に向かって突きだし、アリスの頭にそれを突きつける用心棒。[ハンマーが起こされる音]
(29)アリスのアップ。画面右から彼女の頭に突きつけられているリボルバー。脅えた表情を浮かべてリボルバーを見る。
--I put spell on you
唇を震わせながら、ゆっくりとミスター・エディのほうを見るアリス。
--Becouse you're mine
(30)ミスター・エディのアップ。足を組み、椅子に座っている彼を正面からとらえるショット。
(31)ミドル・ショット。アリスの腰から上のショット。画面右から彼女の頭に突きつけられているリボルバー。
--I can't stand the things that you do
恐怖にあえぎ、絶望的な表情で突きつけられたリボルバーを見て、また正面のミスター・エディのほうを見る。
(32)ミスター・エディのアップ。足を組み椅子に座ったまま、両手を肩の高さに差し上げて、広げた両手で「来い」というような仕種をする。
--no, no,
--no, I ain't lyin', no
(33)アリスのアップ。絶望的な表情。頭に突きつけられているリボルバー。
--I don't care if you don't want me
ミスター・エディをみつめたまま、画面外でスーツの上着を脱ぎ始めるアリス。
--Because I'm yours, yours, yours, anyhow
(34)ミスター・エディのアップ。右腕を組んだ膝の上に載せ、頬杖をつくように左手の親指をを口のあたりまで持ってきて、アリスがどうするかを見守っている。
--Yeah, I'm yours, yours, yours
(35)
ミドル・ショット。アリスと用心棒のツー・ショット。バスト・ショット。左腕を伸ばし、アリスの頭に銀色に輝くリボルバーを突きつけている用心棒。上着を脱ぎ、恐怖に喘ぎながら、黒のボレロの前ボタンを開けるアリス。黒のブラジャーに包まれた胸が見えてくる。ボレロを脱ぐアリス。
(36)ミスター・エディのアップ。クロース・アップ。伸ばした左手の親指を右の口の端にあて、微かに首を右に傾け、愉快そうにアリスを見守るミスター・エディ。
-- I love you, I love you
左手の親指を口から離し、なおもレネエを見守っているミスター・エディ。椅子の上で身じろぎし、目の端からレネエのほうを見ている。
-- I love you, I love you
(37)レネエのアップ。腰から上のショット。画面右に見切れた用心棒にリボルバーを突きつけられたまま、画面外のスカートのファスナーに両手を伸ばすアリス。彼女の背後では、黒人の男が彼女の様子をうかがっている。ミスター・エディのほうを見たまま、画面外でスカートのホックを外すアリス。
-- I got you!
-- Yeah!
体をくねらせ、スカートを下ろすアリス。右へパン。アリスと用心棒のツー・ショットになって、パン終了。用心棒の伸ばした左腕に重なるように、画面奥には灰色のスーツを着た白人の男が見える。
(38)ミスター・エディのアップ。クロース・アップ。頭を微かに上下させ半眼になったあと、満足げにアリスのほうを見る。
-- Well, I put a spell on you
(39)ミドル・ショット。スカートを脱いでいるアリスの全身像。その右では、左腕を伸ばしリボルバーを突きつけている用心棒。二人の背後には、低い机に腰を下ろしたダーク・スーツの黒人の男と、両手を体の前で組んだ灰色のスーツの白人の男が見守っている。画面左には、ダーク・スーツを着た白人の男が立っている。彼の背後の壁には、額に入った大きな絵が掛かっている。その右、画面中央の壁には装飾品があり、その前には背の低い机が置かれ、その上には背の低い電気スタンドや様々な装飾品があるのが見える。
-- Lord, lord, lord!
スカートの両側に手をかけ、それを下ろしていくアリス。
-- 'Cause you're mine, yeah
スカートを床に落とし、右足を抜くアリス。
(40)ミスター・エディのアップ。クロース・アップ。頭を微かに傾げたまま、アリスを満足げに見守っている。
-- I can't stand the things that you do when you're foolin' around
(41)ミドル・ショット。アリスの腰から上のショット。ミスター・エディのほうを見たまま、両手を背中に回し、黒のブラジャーのホックを外す。両手を体のまえで交差させ、まず左手で右肩の肩紐を外すアリス。右手でブラジャーの下のほうを押さえたまま、次に左手で左肩の肩紐をはずし、左肩を揺すって肩紐を落とす。
-- I don't care if you don't want me
両手でブラジャーの紐を持ち、それを外すアリス。乳房が露わになる。そのまま右手にブラジャーをまとめ、自分の右側、画面外の床の上にそれを落とす。画面右には、リボリバーを握った用心棒の左手だけが見えている。
-- 'Cause I'm yours, yours, yours
(42)ミスター・エディのアップ。クロース・アップ。頭を微かに傾げたまま、アリスを満足げに見守っている。
-- Anyhow, yeah
(43)アリスのアップ。ミスター・エディのほうを見つめるアリス。画面右外からリボルバーを突きつけている用心棒の左手。親指を起きていたコックにかけ、それを戻す用心棒。[コックが戻される音]
そのまま用心棒の左手は画面右、上方に消える。
(44)ミスター・エディのアップ。クロース・アップ。かすかに目を伏せ、またアリスのほうを見る。
-- Yeah, yeah, yeah...
(45)ミドル・ショット。黒のスキャンティ一枚になったアリスの腿から上のショット。彼女の左背後には机に座った黒人の男が、真後ろには灰色のスーツの男が、右側にはリボリバーを仕舞った用心棒が、左手を自分の腿の上に当てて立っている。ゆっくりと画面手前、ミスター・エディの方に歩み寄るアリス。クロース・アップになったあと、立ち止まって身を屈めるアリス。それを追って下方にパン。画面左にアウト・フォーカス気味になったミスター・エディの右側頭部が見えてくる。ミスター・エディの顔をじっと見詰めるようにするアリス。
(46)ミスター・エディーのクロース・アップ。アリスを見詰めるミスター・エディ。アリスの左肩越しのショット。ミスター・エディの右背後には、点灯している電気スタンドの円筒形の傘が見える。彼の背後には、柄物のカーテンが見える。
(47)アリスのクロース・アップ。ミスター・エディを見詰めるアリス。赤いマニキュアをした右手を上げ、ミスター・エディの顔に伸ばす。

このシークエンスの「具体的映像」として提示されているのは、観てのとおり”ミスター・エディに脅され、彼のために性的サーヴィスを提供することになるアリス”である。典型的な「犯罪の状況」であり、同様の状況は何度となく映画をはじめとする様々なメディアにおいて何度となく描かれてきたし、これからも描かれるであろうことは間違いない。その意味において、このシークエンスははなはだ「クリシェ=常套句的」であり、全体が一種の「記号」として成立しているとすらいえなくもないだろう。

と同時に、フレッドの「意識」や「感情」をキーにしてみたとき、このシークエンスによって提示されているのは”新たに構築されつつある彼の「幻想」ないしは「欺瞞」”であり、それに対するディテール・アップが行われる様子だということになる。その「幻想/欺瞞」によれば、アリス(およびその「原型」であるレネエは)自らの意志で「いかがわしい仕事」に関わったわけではなく、「頭に突きつけられる拳銃」や「部下たち」といった「記号」……つまり”「ミスター・エディ=現実」が備える「直截な力」の脅威”によって、強制的に従事させられたということになる。

こうした「幻想/欺瞞」の構築によってピート=フレッドがまず獲得するのは、前回も述べたとおり、自分が抱えている「アリス(およびその原型であるレネエ)に対する希求」の正当化である。アリスがミスター・エディの支配を受けているのは、彼女の責任ではない(その軽率な行動に幾分かの非はあったとしても)。あくまで責任の所在は”「犯罪」あるいは「いかがわしい仕事」”に従事するミスター・エディ(もしくはその友人であるアンディ)にあり、本来非難されるべきは彼らなのだ。このような「幻想/欺瞞」を通じて、ピート=フレッドはアリス=レネエの「過ち」を許容し、「ミスター・エディ」(あるいはその取り巻きである「アンディ」)にその罪を転嫁して「非難/処罰の対象」にする。

もちろん、このような「情状酌量」あるいは「責任転嫁」は、「アリスの原型」であるレネエに向かってスライドし、そのまま適用されることになる。レネエがフレッドにとって「コントロール不能」であるのは、彼女のせいではない(とフレッドは願望する)。アリスがそうであるように、アンディの「仕事の紹介」を経て、ミスター・エディによる「直截な力」によってそうならざるを得なかったのだ(とフレッドは認識する)。だが、レネエに関するフレッドのこうした「認識」は、このシークエンスにおいて初めて獲得されたわけではないのも確かだ。(0:33:04)におけるフレッドとレネエとの会話をみればわかるように、この段階から彼はすでにこうした「幻想/欺瞞」をその裡に抱えていたのであり、ある意味、このシークエンスで行われているのはその「顕在化」に過ぎず、「詳細を埋める」作業でしかない。

それと平行して、この「幻想/欺瞞」は、「現実=ミスター・エディ」から蒙った「幻想」あるいは「自我」のダメージを修復させるためにも機能する。アリス(レネエ)が「救済」される一方、相対的に「現実=ミスター・エディ」は「貶め」られる。アリスの「代弁」によってアンディが「強奪の対象」にされるのは(1:29:00)、まさしくこうした機序の具体的事象としての現れだ。このようにして、フレッドは「現実」の立つ位置を相対的に低くすることによって、それが与える脅威を回避しようとするのだ。フレッドは常に、都合の悪い「記憶」や「認識」を隠匿ないしは歪曲し、その時点その時点でもっとも自分に「都合のよい」ような「認識/記憶/認識」を捏造しようとする。この一連のシークエンスにおいてもそれは変わらず、フレッドの思考の方向性は作品全体を通じて一貫しているといってよい。

だが、ここである根源的な疑問が発生する。確かに、フレッドは自らの「幻想/捏造された現実」のなかで、「ミスター・エディ」に唾棄すべき「現実」を演じさせ、彼を「直截な力」を備えた暴力的な存在として創り上げ、相対的にその脅威を軽減することに成功した。しかしその一方で、実際の(作品内)現実に即するなら、レネエに対し「直截な力」を行使し、その生命を奪ったのはフレッド自身ではなかったか? では、ミスター・エディがアリスに対して行った「行為」と、フレッドがレネエに対して行った「行為」の間に、はたしてどれだけの本質的な差異があるのだろうか? もっというなら、彼らをしてその「行為」に向かわせた彼らの「内的なもの」……「レネエ(あるいはアリス)に対するコントロールの欲求」において、どれだけの違いがあるのだろう?

このように考えるとき、前回に述べたような事項……たとえば「ミスター・エディの屋敷」と「フレッドの家」の両者に現れる”「炎のモチーフ」や「赤のモチーフ」が表象するもの”の意味がぼんやりと見えてくる。「フレッドの家」の内部の「暖炉で燃えていた炎」(0:16:52)は、リンチの共通モチーフである「炎のモチーフ」の表れとして理解され、それに基づけば、この「炎」は彼のレネエに対する「激しい感情」を指し示すものであった。では、このシークエンスにおいて登場する「ミスター・エディの屋敷」の「暖炉の炎」によって表されるのは、はたして誰の「感情」なのか? 

ミスター・エディ? いや、そうではない。ミスター・エディがアリスに向ける「行為」とそれを喚起する「内的なもの」が、フレッドがレネエに対して行った「行為」とそれをもたらした「内的なもの」と等価である限りにおいて、この二つの「暖炉で燃える炎」は互いが互いの「ヴァリエーション」であり、ともに「フレッドの感情」を指し示している。「フレッドの家」の内部に現れる各種のモチーフが、「ミスター・エディの屋敷」の内部に存在するさまざまなモチーフと重なるのは、まさしくこうした理由によるのだ。そして、それらのモチーフを内包する「ミスター・エディの屋敷」自体が「フレッドの家」のヴァリエーションであり、ともに「人間の内面を指し示すものとしての家」というリンチの共通テーマの表れであることも。

こうした見方の演出面からの証左となるのが、このシークエンスを通じて流れる「I Put a Spell on You」*である。こうした「過剰な演出」が、たとえば(1:13:39)からの「アーニーの自動車工場」での「ピートとアリスの邂逅」のシークエンスにおけるものと同一であることは、指摘するまでもないだろう。そして、「ロスト・ハイウェイ」において(あるいはリンチ作品全般において)、こうした「演出上の合致」あるいは「構造上の合致」が、しばしばそれが表象する「意味上の合致」を表していることは何度か指摘したとおりだ。加えて、前述の「自動車工場」のシークエンスが”フレッドの内面における「レネエ(の代替イメージであるアリス)への希求」の発生”を表しており、その「希求」はその後の「闇の訪れ」にしたがって顕在化していくことも、当該シークエンス群に関連した「イメージの連鎖」として述べたとおりである。それと「対応」する演出構造をもったこのシークエンスにおいても、同様である。そこで発生しているのは「ミスター・エディ」に仮託された「フレッドの意識や感情」……「アリス(およびその原型であるレネエ)に対する希求」であり、「彼女(たち)へのコントロールの欲求」の存在を指し示す事象なのである。かつ、アリスの言及(1:31:49)にあるように「すでに闇は訪れてしまって(When it got dark...)」いるのだ。であるからには、このシークエンスに認められる「希求/欲求」は、フレッドの心の奥底にある「本来は隠されるべき」はずのものなのである。

あるいは、カット(47)から(次回で論じる)カット(48)にかけての「コンティニュティ」もこうした見方の傍証になるのだが、これに関しては後に触れよう。

視点をかえれば、このシークエンスで発生している事象は、実はフレッドの「記憶」を基に構築されているといえる。上述したように、ミスター・エディのアリスへの「コントロールの欲求」は、フレッドのレネエに対する「コントロールの欲求」を下敷きにして構築されたものであるし、現在発生している「典型的/常套句的な犯罪の状況」自体もそうだ。これらの事項が示すように、前半部の「捏造された記憶」だけでなく後半部の「捏造された現実」を構築するに際しても、結局のところフレッドは自らの「記憶」……”過去の「認知/認識」”の枠からは逃れられていない。いくらフレッドが、ピートという自分からもっとも離れた「人格」を核とした「幻想」を構築したとしても、自らという「主体」が存在する限りにおいて、「自分自身(が抱える「ありのままに近い記憶」)」という「現実による侵入」を排除することは不可能なのだ。

”「ミスター・エディの屋敷」の内部で発生している事象”もまたフレッドの「意識」や「感情」を反映させたものであると捉えたとき、「暖炉の炎」や「赤い絨毯」以外のさまざまな「記号」が指し示すものもまた見えてくる。たとえばカット(24)カット(28)に認められる「(用心棒以外の)男たちの存在」だ。ミスター・エディの前で服を脱ぐアリスを見守る彼らは、そのまま(ミスター・エディを含めて)「いかがわしい仕事=ポルノ」の観客となる「不特定多数の男性(の視線)」を表象する。「ミスター・エディの屋敷」の「階段」は、「フレッドの家」の「寝室」と同じく「赤のモチーフ」に満ちたフレッドの新たな「幻想/欺瞞」の「核心となる場所」……「ミスター・エディの部屋」へとアリスを導く(カット(22))。ただし、「寝室」に続く階段が上りであるのに対し、「ミスター・エディの部屋」に続く階段は下りであるといったようにその上下の位置関係は入れ替わっており、この「逆転した高低の差」は、あるいはそのまま「論理の逆転」……すなわち、現在フレッドが行おうとしている”「何が原因で何が結果か」の入れ替え”を示唆するものだ。

このように、”自分の「罪(の意識)」を「ミスター・エディ=現実」へと「責任転嫁」する”フレッドの作業が完了するとともに、パート2は終了する。彼は「レネエ=アリスに対する自分の希求」を正当化し、それによってピートを核にした「幻想/捏造された現実」を保全し、傷ついた自我を修復する。だが、それは、これまでもそうであったように、(無意識的にせよ)フレッドの意識の奥深いところにある「隠しておきたいもの=ありのままの記憶/感情」までをも同時に露見させてしまっていることは、、指摘したとおりだ。そして、その「隠しておきたいもの」は、(これまでもそうであったように)この後の「幻想/捏造された現実」に対してさまざまな形で影響を与えることになる。

(まだ続いたりして)

*この曲の歌詞自体が、恋人に対する「コントロールの欲求」(あるいは恋人からの「被コントロールの欲求」)を表すものとして読めることは明らかだ。(1:13:39)からのシークエンスで使われていた「This Magic Moment」と同じく、リンチの選曲は的確……というより、いっそベタだ。

2009年8月 1日 (土)

「A Page of Madness」を読む (2)

つなことで、予想外に続いてしまいましたが、衣笠貞之助監督作品「狂った一頁」に関するイェール大助教授アーロン・ジェロー氏の評論本「A Page of Madness  Cinema and Modernity in 1920s Japan」をば読んでアレコレ感じたことのメモの第二回目。今回は、フランス印象主義映画と「狂った一頁」との関連について。

「狂った一頁」はドイツ表現主義映画の影響下にあるというのが一般的な見方ですが、アーロン氏は、「精神病院」という舞台が「カリガリ博士」と共通していることやムルナウ監督の「最後の人」(1924年製作/日本公開1926年1月)が大きな間テクストとなることを認めながらも、それよりもむしろ、いわゆるフランス印象主義映画*からの影響が大きいと述べます。その論拠は、ざっくりいうと以下の二点です。

(1)フランス印象主義映画の特徴的映像手法である「フラッシュ」が用いられていること
(2)「人間の精神状態」を表現するに際し、(セットを主体とした)メゼンセンではなく、撮影技法による手法を主として採用していること

(1)について説明するには、まず、その当時の日本映画に対して、フランス印象主義映画の諸作品が与えた影響に触れておかなければなりません。日本においてフランス印象主義映画が公開されたのは1925年1月封切のアレクサンドル・ヴォルコフ監督「キイン」(1924製作)が初めてになります。その後マルセル・レルビエ監督「嘆きのピエロ」(1924製作/1925年3月封切)が、次いでアベル・ガンス監督の「鉄路の白薔薇」(1923製作/1926年1月封切)が公開されることになるわけですが、これらの諸作品が備える大きな映像的特徴は、「フラッシュ」と呼ばれる、短いショットの連続によるシークエンス構成の採用にあります(当時は「フラッシュ・バック」と呼ばれていたこともあったようですが、ここではハリウッド映画における「回想場面」を指す「フラッシュ・バック」と区別をつけるために「フラッシュ」で統一します)。この極端に短いショットの連続は、通常リズミカルな一定のテンポで提示され、ときとして緊迫感を盛り上げる目的などでそのテンポが早められる(ショットがより短くなる)といった手法も用いられました。

このフランス印象主義映画が日本で大きな影響を与えた要因のひとつは、こうした手法の土台となったレオン・ムーシナック等の映画理論が、ほぼ同時に伝えられたことにあります。理論と実践というか、学研のグリップとアタックというか(笑)、やっぱ理屈だけじゃなくて現物があったほーがわかりやすいわな。そして、この「フラッシュ」の手法は、そのままその後ロシアからもたらされたモンタージュ理論につながっていった……というのが一般的な見方であるようです。

アーロン氏の指摘を待つまでもなく、実は「狂った一頁」が公開された直後も、フランス印象主義映画からの影響は評者によって既に指摘されておりました**。山本喜久男氏著の「日本映画における外国映画の影響 --比較映画史研究」(1983年刊)に、この作品に関する当時のそうした批評が引用されています。

衣笠は彼のかなり豊富な内容的な手腕をかなぐり捨てて、「キイン」「ラ・ルー(鉄路の白薔薇)」等を土台にテクニックを作り上げた。
(「映画往来」大正15年11月号 宮森南二郎)

で、「狂った一頁」の冒頭のシークエンス……「踊り子の幻想と現実」のシークエンスには、あきらかにこの「フラッシュ」の手法が用いられており、当時の状況からして、アーロン氏も述べるとおり、これはフランス印象主義映画からの影響とみて間違いないかと思います。

んが、ちょっと疑問というかよくわからないのは(2)についてで、アーロン氏は、この作品とジェルメーヌ・デュラック監督の「ほほえむブーデ夫人」(1923)との共通性を強調しています。確かに踊り子あるいは小使いの「幻想」あるいは「幻視」を表す(その前後を含めた)映像は、ブーデ夫人が本を読んだり夫のことを考えたりしたとき、彼女の眼前に表れる「幻想/幻視」を表す映像と類似しています。その点では「共通している」といっても差し支えないと思うのですが、「影響」という観点から考えたとき、確認しなければならないのは「衣笠監督が『狂った一頁』を製作する前に、『ほほえむブーデ夫人』を観ていたかどうか」だと思います。大山崎の探し方が不充分なのかもしれませんが、現在のところ、「ほほえむブーデ夫人」の日本での公開年月日に関する資料、あるいはこの作品に触れた当時の映画評は見つかっていません。また、衣笠監督自身のこの作品に関する言及もないようです。なので、大山崎としては、ここらへんの判断は保留しておきたいと思います。

加えて、このような「登場人物の内面の映像化」もフランス印象主義映画全般の特徴として指摘されるものであり、アーロン氏が両作品の共通点として挙げている「主観的非現実の提示方法」……要するに「登場人物の幻視/幻想を映像的に提示する手法」についていえば、「鉄路の白薔薇」も同種同様のシークエンスを内包しています。もし「狂った一頁」が「登場人物の幻視」の手法においてフランス印象主義映画からの影響を受けているとしたら、それはむしろ(当時の日本でも大きく取り上げられた)「鉄路の白薔薇」との比較において考察したほうが妥当なようにも思われるのですが、いかがなもんでしょう?***

と同時に、ドイツ表現主義映画からの影響のなかに(衣笠監督自身の言及も残っている)「最後の人」も含めるのであれば、「(セットを主体とした)メゾンセンによる人間内面の表現が存在していないこと」は問題にならないようにも思います。「カリガリ博士」「ゲニーネ」(1920年製作/1922年日本公開)「朝から夜中まで」(1920年製作/1922年日本公開)などの特徴的なセットを用いた表現主義映画とは異なり、「最後の人」は(そしてそれ以降のE・A・デュポン監督「ヴァリエテ」(1925)等の作品は)リアリズムを基調としつつ表現主義を採用した作品であり、表現主義的手法を一般化した作品であると考えられることは、これまでにも何度か触れたとおりです。

しかし、このあたりは、こうした国をまたいだ文化的影響の実態を見極めることの難しさを物語るものであるように大山崎には思えます。たとえば、同じ衣笠監督の「十字路」(1928)に関する当時の海外の批評がその嚆矢です。映画完成後、衣笠監督はそのフィルムを携えて渡欧するのですが、それを観たフランスとドイツの批評家はこの作品をソビエト映画のモンタージュ理論の影響下にあるものとみなしました。しかし、実際は、当時日本においてはこれらのソビエト映画は公開されておらず、衣笠監督自身も「ソ連の新しい映画動向についてはいろいろ耳にはしていたが、映画そのものを観る機会など、もちろんあるべくもなかった」と自伝で述べています。「十字路」もまた、ドイツ表現主義映画やフランス印象主義映画の影響下にある作品なのですが、当のフランスやドイツの批評家はそこにソビエト映画の影響を読み取ったわけで、いやこりゃ、ナニがナンだかな話ではありますね。

先に触れた”「幻視/幻想」の映像化”に関しても、古典的ハリウッドの編集において(あるいはドイツなどにおいても)、その基礎的部分はずーっと以前からできあがっていたといえます。モンタージュ理論を採用した映画そのものも、ソビエトから直接入ってくるのではなく、その影響を受けたハリウッド映画を通じて日本では受容されたなんてなハナシもありで、まあなんつーか、はっきりいって「米ソ独仏日」入り乱れてグチャグチャです(笑)。こと映画における海外からの影響に関する限り、あんまり単純化して直線的に捉えるのは危険っつーことでありますなあ。

てことで、「よくわからないとゆーことがわかった」とゆーところで、今回はおしまい(笑)。

*「いわゆる」と断ったのは、批評家によっては「ひとつの明確な運動としては、そのようなものはなかった」と考える人もいるためです。エルビエ自身が認めているように、印象主義映画の監督たちが共通して追い求めていたのは「美学的な同一性」ではなく、あくまで「映画というメディアの他の芸術からの独立」あるいは「映画独自の表現の追求」という「理念」であった様子で、その括りは他の映画運動等と比べてもかなり緩やかだったみたいです。そのこと自体の是非はともかく、結果として、フランス印象主義映画はその名付け親であるサドゥール自身が記述したように「海外では知られず、実際に何の影響も及ぼさなかった」わけですが、こと日本だけはその例外であったといえます。しかし、ま、なんか個人主義っつーか、曖昧模糊としたっつーか、後の「フィルム・ノワール」と同じようなハナシではあります。

**当然ながら、ドイツ表現主義映画からの影響も、岩崎昶などによって公開当時から指摘されています。

***「狂った一頁」に二重露光で何度か登場する「自動車の車輪」のイメージは、「鉄路の白薔薇」に同じく二重露光で現れる「蒸気機関車の車輪」のイメージに重なります。「狂った一頁」といい「十字路」といい、なんか「丸くて回転するもの」が繰り返し出てくるんですが、これってやっぱ衣笠監督の共通モチーフなんスかね?

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