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2009年7月

2009年7月26日 (日)

「A Page of Madness」を読む (1)

Pageofmadness てなわけで、「狂った一頁」のDVDがらみで紹介しさせていただいたイェール大助教授アーロン・ジェロー氏の評論本「A Page of Madness  Cinema and Modernity in 1920s Japan」をば入手しまして、現在ボチボチ読んでいる最中であります。まだ途中ではありますが、備忘録的にメモおよび所感など。

まず、(サウンド版もサイレント版も含め)現存しているバージョンは1926年のオリジナル公開バージョンと比べて、かなり短くなっているという話です。フィルム自体の長さでいうなら、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵の復元版が1,617m(5,286フィート)であるのに対し、当時の劇場公開版は「2,142m(7,002フィート)~2,128m(6,956フィート)」であったという記録が残っています。どこでどのように欠落部分が発生したかは定かではないのですが、たとえば古い映画によくあるように「ある特定の巻のフィルム全部がすっこり欠落している」という状況ではないこと、あるいは1971年にフィルムが発見されたとき「すぐにタクシーを呼んで撮影所へ行き、ネガ編集室を借りて、ゆっくりと全巻をたしかめたのであった」と自伝「わが映画の青春」で衣笠監督自身が述べていることなどを理由に、その後「サウンド版」が再編集されたときに監督の手によってカットされたとみるのが妥当なのではないか……とジェロー氏は述べています。んが、先に挙げた「復元版」は(「サウンド版」ではなく)現存する「サイレント版」をもとにリストア作業が行われているはずなので、ちょっとそれでは話が符合しないようにも思われるのですが、なんか、大山崎、勘違いしてますかね?

では、どのようなシーンが欠落しているのか? それを検証する作業として、ジェロー氏は、衣笠監督が残していた撮影メモや、当時上演前に内務省へ提出が義務付けられていた「検閲台本」と現存するフィルムとの比較を試みます。具体的な例としては、「小使いの娘の婚約者が、友人から娘の母親が精神的に異常をきたしていることを教えられる」*というシーンが現存するフィルムからは欠落しているということなわけですが、どーやら集中的に欠落しているのは「新派悲劇」的な「ナラティヴな部分」であるよう読めます。

でもって、「検閲台本」は「弁士用台本」を兼ねていたとのことなんですが、このあたりは(自分を含めた)現代の受容者が、ついつい忘れがちになる点のように思います。その当時のサイレント映画は、上映に際して弁士による説明や楽団による生演奏の音楽が付随していて、決して「サイレント」ではなかったんですね。このあたりは、逆に当時の受容者だけが受けられた恩恵であるように思われます……ってか、たとえば「主人公の小使いと入院患者である女性が夫婦関係にあり、なおかつそれは病院内の関係者には知らされていない」という状況など、(少なくとも現存する版の)具体的映像からだけでは逆立ちしたって理解不能なわけで(笑)。この映画に対してどのような「説明」が弁士によってつけられたかという資料は残っていなんでナンともですが、もし前述した人間関係の部分なんかが補完されていたとすれば、当時の受容者は我々よりも(少なくともナラティヴな面では)この映画をずっと理解しやすい環境にあったんじゃないか……とジェロー氏は示唆します。

氏も指摘しているとおり、このあたりは現在の目で当時の映画作品を観ようとするときネックになる部分で、(前述した「弁士」のようなソフト面/環境面を含めて)完全な形で公開当時のまま残っていない作品をどう受容し、どう評価するか……ってのはムズカシイ問題ではありますね(と同時に、もちろん、「新しい観点」から過去の作品を観ることも重要な作業であるわけですが)。

その一方で、公開当時、岩崎昶をはじめとする批評家/文化人は、いわゆる「純映画劇運動」の流れのうえに、あるいは「純粋映画」(文学や演劇の影響を排した独立したメディアとして、言語やナラティヴに頼らず映像のみで受容者の感情を喚起する映画)という概念の延長線上に「狂った一頁」の前衛的な部分(たとえば冒頭の「踊り子の幻想(=内面で想起されているもの)」や、福引のシークエンスに代表される「小使いの幻想」のような非ナラティヴで前衛的な部分)を捉え、さまざまな留保をつけながらも評価しました。しかし、大山崎が思うに、これは見方によっては皮肉な事象であったかもしれません。衣笠監督はそもそも「女形の演技者」としてスタートし、「連鎖劇」(大正時代に存在した、ひとつの作品のあるパートは舞台劇で生身の俳優によって演じられ、またあるパートはあらかじめ撮影されたフィルムで上映されるといった具合の、演劇と映画がチャンポンになった作品形態)とも関わっていたわけですが、この二つは「純映画劇運動」の映画改革論者たちの批判の対象に含まれていたからです。このように、監督に転じた衣笠貞之助個人が急激に埋めた「映画に対する距離」を思うとき、ダダイズムやら未来派やらの「芸術概念」が海外から怒涛のように押し寄せ、否が応もなくその影響に晒された大正時代の激動具合を感じさせられます。

閑話休題、同時に、この文脈に基づく批評からは、前述した「弁士の使用」が批判の対象となった……とジェロー氏は述べます。弁士によってナラティヴな部分が補完されているということは、結局「言語」による補助を受けているわけで(あるいは「言語」からの影響を排除できていないわけで)、それじゃ「映像」だけで作品が完結してねーじゃんかよ……っつーわけですね。衣笠監督自身が認めているように、そもそも「狂った一頁」は初めから無字幕映画として製作がスタートしたわけでなく、完成試写の時点でも字幕は残っていて、先に述べた「夫と妻の人間関係」なんかもそれによって説明されてたようです。ところが、試写を観た横光利一が「無字幕でやったらどうか」ってなことを突然言い出し、「ほんじゃ」ってんで急遽字幕が省かれたという経緯があります。まあこの、無字幕を前提として作られていない映画から後付けで字幕を取り去るのは、やっぱちょいと無理があったと言うべきなんでしょーね。

それはさておき、こうした「弁士」に関する批判のバックグラウンドについて、同じくアーロン・ジェロー氏は「弁士の新しい顔――大正期の日本映画を定義する」という一文において、その当時、批評家/文化人たちが「弁士」という呼称を「説明者」に変えようとした経緯に触れる形で述べています。孫引きになりますが、藤岡篤弘氏の「日本映画興行研究史」から引用しておきます。

映画の自立性を主張する改革論者たちが、「過剰な言語で観衆をはらはらさせる」「弁士」から、その権限を取り上げ、「映画がその固有の意味を伝達する際の手助けを義務とする」「説明者」へと降格させる過程をジェローは咀嚼するが、同時に、そこには弁士に依然根強い愛着を示していた「社会的に劣った群衆」に対する、改革論者たちの軽蔑的意図が存在したと主張する。

とまあ、映画に関心を抱いていた批評家/文化人が「狂った一頁」を賞揚し、同時に苦言を呈したのはこうした文脈によるものであったわけです。「映像言語」を確立する試みとして評価されると同時に、それを完遂できていないことが批判の対象になったっつーことですね。大山崎が激しく妄想するに、もし「サウンド版」を再編集する際に「ナラティヴな部分」が意図的にカットされたのだとしたら、それはあるいはこうした当時の批判に対する監督自身の回答であったのかもしれません。

また、オリジナルな形の「狂った一頁」がより多くの「ナラティヴな部分」を含んでいたとすれば、その「ナラティヴな部分」と「非ナラティヴな部分」の混在具合は、衣笠監督のもう一本の前衛映画である「十字路」(1928)を観れば、ある程度推察できるように大山崎は思います。この作品のメインは基本的には「ナラティヴなメロドラマ部分」であり**、登場人物の「感情」や「心象風景」を提示する表現主義的な映像は基本的にサブです(カール・ハインツ・マルティン監督「朝から夜中まで」(1920)のセットを思わせる「真っ暗な空間に、白い線で描かれた十字路」も、結末近くに2ショット登場するのみですし。あるいは、むしろこれは「舞台版からの美術の踏襲」という意味で「表現主義演劇」からの流れとして捉えるべきなのかもしれませんが)。見方によっては、時代が下るに連れて「表現主義的映像の手法」が一般化し、ナラティヴな作品内において普通に使われるようになる状況を先取りをした作品であるといえるのかも。

その後の多くの映画作品が採用する(そして、現在も多くの映画作品が継承している)こうした方向性について、ジェロー氏はこの「狂った一頁」という作品自体にすでに内在していると述べます。具体的にいうなら、踊り子の「内面」に始まり、小使いの「幻想」を経て辿り着いた作品の結末が、最終的に「外界/現実」に回帰して終わる点です。この後ひとつの興隆を極める1930年代の日本映画は、(いわゆる「純粋映画」的なものではなく)むしろ「自然主義的な記号」を採用し「ナラティヴに関する記述」をその主体としていくわけですが、「狂った一頁」の構成自体がこうした流れを「予見」している……とジェロー氏は考えます。

てな具合に、ジェロー氏は、「狂った一頁」が抱えるコンベンショナルな部分と非コンベンショナルな部分の「対立性/相反性」、あるいは「不統一性」の例として、この「ナラティヴな部分」と「非ナラティヴな部分」の並立を挙げます。すなわち、「夫の過ちで息子を死なせてしまった結果、精神に異常をきたした妻」「関係を隠して、妻が収容されている精神病院で働く夫」「自分たちの娘の婚約者に、妻のことが知られるのを怖れる夫」「それが昂じて、妻を精神病院の外に連れ出そうとする夫」……という「メロドラマ」的なナラティヴの部分がひとつ。そして、それに対するものとして、冒頭の「踊り子の幻想」や福引のシークエンスに代表される「小使いの幻想」のような非ナラティヴで前衛的な部分がひとつ。この大きな「対立構造」を核にして様々な対立要素が仮託されていることや、フランス印象派映画からの強い影響を氏は述べていきますが、それについてはまた別な機会にでも。

*サイレント復元版にはここらへんのシークエンスがあったよーな気もするのだけど、すでに大山崎の記憶は曖昧なんで、今からでも遅くないからやっぱ、DVD出してください(笑)。

**「十字路」では「登場人物の台詞」はもちろん、「姉と弟という人間関係」も字幕によって「説明」されています。このような点からも、この作品が(ごく普通に)「ナラティヴに関する受容者の理解」を優先して作られていることは明らかです。

2009年7月18日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (52)

おかげさまで腰の具合は大分よくなりました。いやあ、一時はこのまま寝たきりになるかと心配しておったりしたんですが、若干違和感は残っているものの、まずまずな回復具合……てなコトを言ってるあいだに、なんでか脈絡なくAVアンプがご臨終。なーんか電源スイッチを切ってもアツアツでファンが回りっぱなしで音が出なくなる……てーのは、やっぱ電源部分が壊れてるのかいね? なんかこのままだと火を吹きそうな具合なので、コンセントを抜いて放置状態。モニターにHDレコーダーを直結というとりあえずの緊急避難処理はとったもんの、これではCDプレイヤーやらDVDプレイヤーやらLDプレイヤーが単なるAVラックの肥やし状態でわないか。うーむ、どーしてくれよう(笑)。

てな感じで諸行無常とゆーか「形あるものはすべて滅びるのだよなあ(AV機器編)」という無常観を抱きつつぶっ書く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は、(1:28:13)から(1:36:09)までについての第三回目。こっからはパート2についてのナンだかカンだか。

さて、基本的なところを再度押さえておくと、このパート2のシークエンスは、アリスがピートに向かって語る「話の内容」の映像化という形態をとっている。現在、アリスとピートが存在しているのはパート1(およびパート3)において舞台となっている「スターライト・ホテル」の一室であり、そこでアリスが語る話はそれ以前のどこかの時点、つまり「過去」に発生したものとして、アリスによる「回想」という形式でもって描かれる……というのが具体的映像だ。

その一方で、前回にも述べたように、このシークエンス全体として伝えられているのは、フレッドが「ミスター・エディ」を「非難の対象」とする作業の肉付けであり、その過程である。具体的にいえば、アリスが「ポルノ」という「いかがわしい仕事」に関わったのは彼女の落ち度ではなく、ミスター・エディの強制によるものだ……という「経緯」をフレッドは「構築」するのである。

もちろん、この「経緯」も、ピート=フレッドがアリス=レネエの軽挙を「非難しつつも許容する」ための「幻想」であると同時に「欺瞞」であり、いわば「捏造されたもの」に過ぎない。実際にそのような「経緯」が(アリスの原型である)レネエの身に発生したか否かを明確に表す具体的映像は、作中にはまったく存在せず、その限りにおいて「真相」は藪の中であるといえる。だが、その真偽を推測するための材料として敢えて指摘しておきたいのは、このシークエンスが提示する「犯罪の状況」があまりに典型的あるいは類型的である点だ。たとえば死刑囚房のシークエンスにおける「看守たち」の描かれ方がそうであったように、ここで描かれる大時代がかった「犯罪シーン」も非常に誇張されたカリアチュアあるいはクリシェであり、リアリティを欠落させている。

リンチ作品が備える「抽象性」を考慮したとき、こうした「類型性」が示唆するのは、この「ミスター・エディの屋敷」を舞台にしたシークエンス全体が、「犯罪(あるいは「いかがわしい仕事」)の抽象概念」を指し示す「記号」として機能しているということだ。そして、リンチ作品において、こうした”記号化された類型的な「犯罪の状況」”が現れるのは「ロスト・ハイウェイ」が初めてではない。「ブルーベルベット」において登場する「犯罪の状況」も、「ロスト・ハイウェイ」におけるそれに劣らないくらいリアリティを欠落させており、「抽象概念化」されているといえる。このことから逆説的にわかるように、「ブルーベルベット」という作品自体、ナラティヴな作品のルックをまといつつ”(ジェフリーに代表される)「子供」と(フランク・ブースとドロシーに代表される)「父性/母性」の関係性”をいろいろな側面から複合的に描いた「抽象的な作品」であるのだ*

いずれにせよこうした「犯罪の状況」が備える「抽象性」が指し示すのは、それらが(ジェフリーあるいはフレッドが想起する)具象性をもたない「幻想」……より正確に言うならば、”彼らの「内面」で想起されているもの”だということだ。かつ、その一方で、リンチ作品が非常に「私的なもの」であるという観点に立つならば、こうした「類型的な犯罪の状況」の採用自体が、リンチ個人のフィルム・ノワール(あるいはそれ以前の犯罪映画)への「目配せ」であり、それらの作品が提示していた”「犯罪の状況」のごった煮”であるといえるかもしれない。

というようなことを念頭に置きつつ、まずは具体的な映像から。

パート2
ミスター・エディの屋敷 内部 昼 (1:31:18)
(17)ミドル・ショット。玄関ホール。二階から、大理石の床に立つアリスを斜め右上方から見下ろすショット。金髪をアップにし、黒いミニのスーツ姿のアリス。画面左手にはアーチ状の白い枠の開口部が、一階分の高さの壁に開いている。壁には落ち着いた緑色の装飾がされ、上辺には白い梁が通っている。開口部の向こうには、右手方向に向かって二階に上がる階段が見えている。開口部の左右には中近東風の装飾がされた柱が見える。右の柱の横に、黒く塗られた長細い背の低いテーブルが置かれ、その上には白い傘の電気スタンドが置かれている。テーブルの左端のあたりに、手を体の前で握ったスーツ姿の用心棒が立っている。彼の左、画面の上方には、黒い枠のガラスがはまった、外部に続く両開きの扉が見える。その右手には、別の部屋に続くらしい、白い枠のガラスの両開き扉が見えている。両方の扉からさしこむ陽光が、大理石の床の上に光を投げかけている。画面右端には、黒い梁が見えている。
アリス:(画面外から)I went to this place.
落ち着かなげに体を揺すっているアリス。
アリス:(画面外から)They made me wait there forever.
(18)用心棒のアップ。無表情のまま、画面の斜め左、アリスを見ている。彼にクロース・アップ。
アリス:(画面外から)There was a guy guarding the door.
用心棒のアップになる。
(19)アリスのアップ。落ち着かない様子で画面左から手前に向かって歩き、目を伏せて、画面外の灰皿で煙草を消すアリス。彼女の左斜め前からのショット。彼女の背後には、アウト・フォーカスで部屋の内部が写されている。奥の壁にはは白いアーチ状の装飾が二つあり、左側は装飾が掛かった白い壁がその中にある。右側は二階に上がる階段がある開口部になっている。開口部越しに見える階段の下は白い壁になっており、そこには上辺がアーチ状になった小さめの開口部が暗い口を開けている。左右のアーチ状の装飾の間には、中近東風の装飾がされた柱が立っている。柱の右には白い傘の電気スタンドが見える。右側のアーチの右端には、体の前で両手を組んだ用心棒が立っている。
アリス:(画面外で)In another room there was this other guy lifting weights.
目を上げて、自分の前方を見るアリス。
(20)ミドル・ショット。アリスの主観ショット。ベンチ・プレスでバーベルを上げている黒人の男。ベンチ・プレス・シートに横たわっている彼の頭のほうから、右斜めにおさめるショット。屈強な筋肉を浮かび上がらせながら、一度、二度とバーベルを差し上げる。[バーベルの重りが触れ合う金属音]
(21)アリスのアップ。彼女の左斜め前からのショット。不安気な表情でベンチ・プレスの黒人を見ているアリス。
アリス:(画面外から)I started getting nervous.

このパート2のシークエンスが「回想形式」を採用していることは、たとえばカット(17)カット(18)などにおいて「画面外からのアリスの声=ヴォイス・オーヴァー」が使われていることからも明瞭である。

カット(17)は上方から見下ろす構図になっており、まずは場所等の説明を行うエスタブリッシング的に機能している。同時に、このショットのアリスは敵対的状況に取り囲まれ、画面の中央下方に小さく押し込められ、孤立している。一見開放的に見える出入り口は「用心棒の男」によって固められ、容易にこの状況からは逃れられない。もちろん、この用心棒もミスター・エディの「直截な力」を指し示す記号として機能している。

また、彼女が屋敷の奥で見つけるものもまた、「ベンチ・プレスをしている屈強な黒人」というこれまた「直截な力」だ(カット(20))。全体として、このシークエンスで提示されている状況は、一見「陽光に満ちた開放的なもの」のようにみえて、実は完全に閉塞された敵対的なものなのである。

(1:31:49)
(22)アリス: When it got dark...
画面いっぱいに広がるアリスの黒いスーツの背中。彼女が階段を下りるに連れて、部屋の内部の様子が視界に入ってくる。
アリス: they brought me into this other room.
左半分に赤い絨毯が敷かれた床。右手には、板張りの床の上に五人の男たちが立っている。画面右方向から差し込んでいる陽光。アリスの左奥には、赤い絨毯の上に置かれた椅子の上に、足を組んだ男が一人座っている。その背後には、白い傘の電気スタンド。その左手には薪が燃えている巨大な暖炉がある。正面奥、赤いカーテンが掛かった窓を背中に男が三人立っている。階段を下りるアリスの左背後から、用心棒の男がついて下りてくる。階段を下り切ったところで左に折れ、手すりの前で待機する用心棒。そのまま板の床の上を進むアリス。

アリスを取り巻く状況が敵対的なものであることはカット(22)以降のシークエンスにおいてより明確になるわけだが、そのエスカレーションの契機となるのがやはり「闇の訪れ」であること(カット(22)のアリスによる「あたりが暗くなったとき」というモノローグが宣言するようにだ)には注目したい。(1:14:56)や(1:20:32)における「闇の訪れ」がフレッドの「内面」に隠匿されていた「レネエへの希求」をあらわにさせたたように、このシークエンスにおける「闇の訪れ」は「ミスター・エディの屋敷(によって表されるもの)」を顕在化させるのである。

そして、「ミスター・エディの屋敷(によって表されるもの)」を把握する手掛かりとなるのが、アリスが導かれる部屋に満ちている「記号群」である。たとえばカット(22)にみられるように、そこに至るには「下りの階段」があり、床には「赤い絨毯」が敷かれている。同時にそこではアリスを見詰める男たちの「視線」が交錯し、ミスター・エディが座る椅子の左には「炎が燃える暖炉」が配置されている……といった具合だ。

こうした「記号群」のうち、ここであらかじめ特記しておきたいのは「赤い絨毯」によって表される「赤のモチーフ」、そして「暖炉で燃える炎」という「火のモチーフ」についてである。作中、この二つのモチーフが繰り返し登場していることは改めて指摘するまでもないだろうが、注目すべきなのは(0:12:25)に登場する「赤いカーテン」、および(0:16:52)に現れた「暖炉で燃える炎」との関連性である。この「関連性」に注目しなければならない理由はいくつかあるが、概括していうなら、当該シークエンスの前後を含む一連のシークエンス群と、この項で論じているシークエンスを含む一連のシークエンス群の間に認められる「共通性」ということになるだろう。ここでは便宜上、前者をシークエンス(A)、後者をシークエンス(B)と仮称して話を進めることにしよう。タイム・スタンプに沿って定義するなら、シークエンス(A)は(0:12:25)-(0:18:44)間の一連のシークエンスを、シークエンス(B)はもちろん(1:28:13)-(1:36:09)間の一連のシークエンスを指すことになる。

まず目につくのは、(A)および(B)のシークエンス群の間の構造的共通性である。これらの二つのシークエンス群はともに三つのパートに分割され、かつそのうちのパート2にあたる部分は、パート1およびパート3に現れる登場人物による「回想(あるいは幻想)」の映像化なのだ。具体的にいうなら、シークエンス(A)におけるパート2が提示しているのは「フレッドの夢(の回想)」であり、シークエンス(B)のパート2が提示しているのは「アリスによる回想」なのである。つまり、この二つのシークエンスはともに「同一の構造」を保有しているわけだが、リンチ作品が頻繁に同一モチーフあるいは同一テーマの「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」を用いることを鑑みるならば、こうした「構造的同一性」は両シークエンスが「対置関係」にあり、「対応するもの」として捉えられるべきものであることを示唆しているといえる。そうした「構造的同一性」を強調するかのように、先に述べた「赤のモチーフ」と「炎のモチーフ」が姿を現すのが両シークエンスともにパート2においてであることもあわせて指摘しておきたい。

「炎のモチーフ」がリンチ作品にしばしば登場する「共通モチーフ」であり、往々にしてそれが登場人物が抱く「激しい感情」を指し示すことについては以前にも述べた。「ロスト・ハイウェイ」においても、開巻直後にフレッドが咥える「煙草」や「砂漠の小屋に吸い込まれる炎」という形で(しばしば「煙のモチーフ」と連動して)「火のモチーフ」は現れ、それがフレッドが抱いているレネエに対する「感情」を表象していることに関しても、繰り返し述べているとおりである。また、「赤のモチーフ」もリンチ作品に頻繁に現れる「共通モチーフ」であり、多くの場合「心的/内面的なもの」に関連して登場していると考えられることについても、ここではもはや詳述を避ける。

いずれにせよ重要なのは、リンチ作品において、こうした「構造的同一性」がその「表象における同一性」を意味することである。すなわち、シーケンス(A)における「赤のモチーフ」と「火のモチーフ」が「フレッドの感情」を指し示しているのであれば、それに「対置/対応」するものであるシーケンス(B)における両モチーフもまた同じ「フレッドの感情」を指し示すものとして受け取ることができるということだ。あるいは、リンチ作品に登場するもうひとつの「共通テーマ」である”人間の内面を表象するものとしての「家」”という概念に基づいて述べるなら、シークエンス(B)に登場する「ミスター・エディの屋敷」は「フレッドの家」の「ヴァリエーション」として、「対置/対比」されるべきものなのだ。

いうまでもなくこうした見方は、一義的にはこのシークエンス全体が(ひいては「ロスト・ハイウェイ」が提示する映像すべてが)「フレッドの幻想=(作品内)非現実」であることの根拠の一つとなるものである。しかし、同時に、この後のシークエンスで発生している事象に関して、より広い視野を与えるものでもある。

さて、ではこの「視点」に従って「ミスター・エディの屋敷」の内部で現在発生している事象をみたとき、はたしてどのようなことが読み取れるのか。

(この項、続く)

*このように「子供と父親/母親の関係性」を題材としているという点で、「ブルーベルベット」もまたリンチが執拗に繰り返す「機能しない家族」という「共通テーマ」に沿った作品であることがわかる。

2009年7月14日 (火)

リンチの子供向アニメーション、再始動?

IMDbのディヴィッド・リンチの項を久しぶりに見てみるってえと、「In Development」のところに、あらま、いつの間にか「Snootworld」とゆー作品が2010年リリース予定として追加されておりました。

実は、この作品、2003年頃、アチラのリンチ・ファンの間でちょいと話題になったブツでありまして、そこらへんの経緯に触れているのがコチラに掲載されているTheNextBigThing氏からの情報

かいつまんで説明すると、その年のストックホルム国際映画祭にゲストとして招聘されていたリンチが、席上、「アニメーション作品を作ってみたいと思ったことはありますか?」とゆー質問に答えて、「イエス。実際に『Snootworld』というアニメーション作品のスクリプトを書いたことがある」と発言した、と。んでもって「この作品は子供を対象としたCGアニメにしたいと思っている」と語った……とゆーよーなことがあったんでござーます。

リンチの子供向けアニメかよ! それって一種の語義矛盾じゃね? とか一時は盛り上がったんでありマスが、まるで実現する気配もないまま「インランド・エンパイア」等をはさんで早や幾星霜……とゆーのは大袈裟にしても(笑)、ほとんど忘れかけていたところにIMDbの情報なわけで(どーやら有料のIMDb Proのほうでは、かなり前から掲載されてたみたい。うーむ、有料会員になるべきなのかしらん?)、リンチってば、やっぱ気が長いとゆーか執念深いとゆーか(笑)。この後、どーゆー形で進展してどーゆー形で発表されるやらさっぱりわかりませんが、こーなったらコチラも気長かつ執念深く完成を待たせていただくことにいたしますデス……とゆーお話しでした(笑)。

2009年7月 8日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (51)

教訓:エレピを運びながら、ベーアンの位置を動かそうとしないこと

えー、ナニがナニやらとお思いでしょーが、上記のようなコトをやらかすってーと、あまりおヨロシクない結果になりますよ……とゆーお話でありマス。ええ、はい、大山崎は某音楽系の集まりの際にやらかしまして、まあこの、一言でいうと「腰が痛えよ!」(笑) てなわけで、PCの前にまとまった時間座れないどころか、寝っ転がってネットブックをお腹に載っけても腰に響く始末で、実はデジタル・デバイドって腰から来るんですねえ。ははは(力のない笑い)。

かような艱難辛苦(いや、自業自得だろ?)を乗り越え、腰をさすりさすり続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は、(1:28:13)から(1:36:09)までについての第二回目。んでもって、パート1の続きをば。

この後、引き続き「ロスト・ハイウェイ」は「ピートとアリスの会話」という形で、フレッドの「内面」で発生している「意識の流れ」を追い掛ける。フレッドの意識は、これまた引き続き直前の「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」(1:26:29)によってダメージを受けた「自我」および「幻想/捏造された現実」の修復を続けるが、その過程でみられるのは、やはり”新たな「欺瞞」の構築”だ。

パート1(続き)
(1:29:00)
(6)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。彼の右頬を撫でるアリスの黒いマニキュアを施した親指。右手を伸ばし、アリスの頭に添えて、目をつぶり顔を寄せていくピート。接吻を革す二人。アリスの左手も、ピートの左頬から耳の後ろあたりまでに添えられる。顔の角度を変え、何度もキスをするアリスとピート。やがて二人は唇を離す。
アリス:
If we could just get some money,(両手でピートの頬を撫でさすりながら) we could go away together.
アリスを見つめるピート。彼の頬を滑り落ちるアリスの両手。
(7)
アリスのアップ。ピートの右肩越しのショット。また彼の頬に手をあて、唇を合わせながら目を見開く。手は彼の頬に残したまま、顔を離すアリス。真剣な表情を浮かべている。
アリス: I know a guy.
ピートの首筋の後ろに左手を回すアリス。ふと表情が曇り、目を伏せ気味にする。
アリス:(目を上げ、ピートの目を見つめながら)He pays girls to party with him. He's always got a lot of cash. (かすかに笑みを浮かべながら)He'd be easy to rob.
ピートの首筋に左手を掛け直すアリス。
アリス: The we'd have the money. We could go away,
(8)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。上半身をかがめ気味にアリスの目を見つめているピート。アリスの両手はピートの首筋の後ろに掛かっている。ピートは無言のままだ。
アリス: and we could be together.
無言のまま、上半身をやや起こすピート。彼の首筋から滑り落ちるアリスの両手。離れる二人。ため息をつきつつ、上げた左手の指を顔の横でこすり合わせながら、アリスを見つめるピート。
ピート:(かすれ声で)Have you partied with him?
(9)アリスのアップ。彼女の左斜め前からのショット。目を伏せ、ややうつむき加減になる。また目を開き、居心地悪そうに画面左のピートのほうを見るアリス。無言のまま、また目をつぶる。
(10)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。そのまま、アリスの返答を待っている。やがて、自分の右下方向を、続いて左上方をちらりと見てから、アリスに視線を戻す。
ピート: Do you like him?
自分の右下方向に目を逸らすピート。
身を乗り出し、右手を彼の頬に伸ばして撫でるアリスの後頭部。
アリス: No. it's part of deal.
ピートの顎に右手を伸ばし、彼を自分の方に向かせるアリス。手を離し、体を離す。顎を突き出すようにするピート。
ピート: What deal?
(11)アリスのアップ。彼女の左斜め前からのショット。躊躇ったあと、意を決したように話し始めるアリス。
アリス: He works for Mr Eddy.
ピート:(画面外で)Yeah? And what's he do?
アリス: He makes films for Mr Eddy.
(12)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。顔のあたりまで上げた左手の指をこすり合わせつつ、眉を上げるピート。
ピート: Pornos?
アリス: Yeah.
動揺したように自分の左のほうを見てから、再び正面を向くピート。
ピート: How did you get in with these fucking people, Alice?!
左手の人差し指の先を、自分の左の額に当てるピート。
アリス: Pete...no...
ピート:(遮るように)No 'Pete'!
ピートの剣幕に、黙るアリス。
ピート: I want to know how it happened.
(13)アリスのアップ。彼女の左斜め前からのショット。うつむき加減に目を伏せているアリス。やがて目を上げてピートを見る。時々目を伏せながら、話し始めるアリス。
アリス: Long time ago...I met this guy at a place called Moke's. We became friends. He told about a job.
(14)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。うつむき、左手で額のあたりを押さえるピート。やがて眉のあたりを人差し指で支えて、目をつぶる。
ピート: In pornos?
まばたきをしながらアリスを見るピート。
(15)アリスのアップ。彼女の左斜め前からのショット。しばらく黙っていたが、笑みを浮かべて小さく首を振る。
アリス: No. Just a job, I didn't know what.
笑顔を消し、目を伏せてうつむくアリス。
(16)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。左に首を傾け、アリスの言うことを聞いている。
アリス: He made an appointment for me to see a man.

フレッドの「意識」や「感情」をキーにしてみたとき、カット(6)からカット(8)にかけてのアリスの言及が「新たな遁走」の示唆であることは明白だろう。結局のところ、当面のフレッドの目的である”「アリス=レネエの代替イメージ」を確保しつつ「捏造された現実」を保持する”ためには、「ミスター・エディ=現実」の影響から逃れるしかないという、単純といえば非常に単純な発想である。

問題は、そのための方法論として、「ある男」から金銭を強奪するという「提案」がアリスからなされることだ。そこにはフレッドが抱いている複雑な「意識の流れ」が交錯しているのがみてとれる。かつ、注目に値するのは、それをトリガーにして発生する新たな「イメージの連鎖」が表象するものだ。

まず指摘できるのは、アリスが言及する「ある男」が、具体的には「アンディ」を指していることだ。これは後に(1:42:54)から提示される映像などによっても明示されるわけだが、注目すべきなのは、”なぜ彼がここで「強奪」の対象として言及されるのか”という点だろう。

この疑問への回答は、実は「前半部」において提示された「アンディ関連の映像群」に隠されている。それらの具体的映像を観返してみれば、アンディが非常に「胡乱な存在」として描かれていることに気がつくはずだ。「遊び人」のような風体という表層的な造形はもちろん、どのような職業に就いているかも不明であるのにプール付きの豪邸に住み、盛大なパーティを開いているという描写など、彼は徹底的に「不審な人物」として提示されている。いうまでもなく、こうした「描写」自体が、アンディに対してフレッドが抱いている「感情」の反映であり、基本的にリンチ特有の「表現主義的な発想」に基づくものだ。最終的にパーティから帰宅する途上の車中で、フレッド自身がレネエに向かって「あの糞野郎とどこで知り合ったんだ?(So how'd you meet that asshole Andy anyway?)」と言及するように(0:33:04)、彼はアンディに対して抜きがたい「不信感」を抱いているのである*

アンディに対するこうした「不信」をフレッドが抱くに至ったそもそもの理由もまた、「前半部」における映像によって示唆されている。(0:12:25)における「レネエをいずこかへと連れ去っていくアンディ」の映像がそれだ。つまり、フレッドがレネエを殺害するに至った「彼女に対する不信」の要素のひとつが他ならぬ「アンディ」であり、もっというなら「彼女と彼の関係」だということだ(もちろん、この「具体的映像」もあくまで「フレッドの主観映像」に過ぎず、この二人の関係が作品内現実において成立していたか否かを明確に表す映像は存在しない)。

というような機序を踏まえれば、「後半部」においてアンディが「強奪の対象(のイメージ)」として想起されるのは、ある意味、当然であることがわかる。フレッドにとって、彼は「レネエを奪った相手」(繰り返すが、この疑惑がリアルであるかどうかはまったく定かではない)であり、それがゆえに「罰せられるべき存在」たり得るからだ。彼からの「金銭の強奪」は、形を変えたフレッドによる「処罰」であり「復讐」なのである。

ここまではよいとして、特筆すべきなのはこの後、「処罰の対象=アンディのイメージ」をトリガーとして発生している「イメージの連鎖」である。ひとつ明確なのは、この連鎖において、フレッドが「現実のレネエ」に対して抱いていた「不信」の本質、あるいは彼がレネエに対して抱いている「二律背反的」な感情が明瞭に浮き彫りにされていることだ。

カット(13)でアリスがピートに向かって語る「アンディと知り合った経緯」が、(0:33:04)においてレネエがフレッドに語った「アンディと知り合った経緯」のリフレインであることはすぐに気がつくだろう。いわく、「モークの店で出会い、友人になり、仕事を紹介してもらった」……この発言はアンディの屋敷から自宅に帰る途中、レネエがフレッドに説明した内容と完全に同一である。当該シークエンスにおけるレネエとフレッドの会話はそれ以上進展することなく終わったが、その際にフレッドが口には出さなかったものの「内心」抱いていた疑惑は、現在論じているアリスとピートのシークエンスに至って完全に顕在化する。そして、その「疑惑の性格」を端的に表しているのが、カット(12)およびカット(14)で発生している「アンディが紹介した仕事」と「ポルノ」の連結だ。

もちろん、これまた何の具体性も裏付けもない「疑惑」でしかない。というより、ここで重要なのは「何が作品内現実において発生したか」というような具象的な問題ではない。重要なのは”「紹介された仕事」と「ポルノ」の「イメージ上の連結」”という抽象的な問題であり、その結果として構築される「フレッドにとって都合のよい幻想」……「新たな欺瞞」そのものだ。その「欺瞞」はこう告げる……アンディが罰されるのが当然であるように、彼が紹介した「いかがわしい仕事」に関係した「レネエ」もまた罰されるべきである……フレッドは「レネエ殺害」という自分の罪を、このように都合よく正当化するのだ。それも、カット(12)のピートの様子が示すように、「保護者然」とした態度でアリスの身の上を気遣うそぶりをみせつつ、彼女がとった軽率な行動に「非難」を浴びせながら。

その「非難」に対し、アリスは「仕事の内容は知らなかった」と弁明する(カット(15))。当然ながら、これもまた「フレッドの意識」の「代弁」として捉えられるべきものだ。すなわち「保護者」たるピート=フレッドには、アリス=レネエの「懺悔」を聞き、彼女を「許す準備」があるという宣言である。そして、その根底に存在するのは、フレッドがレネエに対して抱いている愛憎が入り交じった「感情」だ。結局のところ、フレッドはレネエを「処罰」すると同時に「希求」せざるを得えないのである。こうした「感情」を反映して、このシークエンスにおいては、「非難」という(作品内現実において発生した「レネエ殺害」という事態に比べて)より「穏やかな処罰」がアリスに対して下されるのみで終わる。

だが、ピート=フレッドがみせるこの「寛容」には、もう一段「からくり」がある。彼は、「アリス=レネエ」の代わりとなる”別の「非難の対象」”を設定するのである……カット(11)でアリスが言及するように、「ミスター・エディ」という対象を。「ミスター・エディ」が「現実に関連するイメージ」として登場していることを考えるなら、これは非常に巧妙な「責任転嫁」であるといえるだろう。「レネエ殺害」という事態が発生したのは、フレッドのせいでもなければレネエのせいでもない、すべて「彼ら以外の他者=現実」にその責があるというわけだ。ある意味で、これこそフレッドがその「内面」において抱いている「本音」である。

振り返ってみれば、実は早い段階から「ミスター・エディ」のイメージは「いかがわしい仕事=ポルノ」と連結されていることに気づく。(1:06:49)における"「ポルノのビデオ・テープ」のオファー"という事象がそれであり、これはフレッドが「現実」に対して抱いているイメージ(あるいは「感情」)を物語るものであることは以前にも触れたとおりだ。現在論じているシークエンスの映像群は、そうしたフレッドの「現実」に対する「感情」をより詳細に、かつ明瞭に表象しているといえるだろう。アンディが「レネエを奪い取り去る者」であり「いかがわしい存在」であるならば、その背後で黒幕として存在する「ミスター・エディ」も同類なのである。いや、これは順序が逆だ。「現実」こそが「レネエを奪ういかがわしいもの」であり、アンディはその一部であると同時に「現実」によって「使役されている存在」に過ぎないのだ。度々現れてきた”「アリス=レネエの代替イメージ」が「ミスター・エディ=現実」の支配下にある”ことを示す映像は、こうした文脈においても、フレッドの「意識」の反映としてまったくもって妥当なのである。

このようにして、フレッドは「レネエ喪失」の責任を「現実」へと転嫁する。前述したフレッドの目的……”「アリス=レネエの代替イメージ」を確保しつつ「捏造された現実」を保持する”うえで、あるいはダメージを受けた「幻想」と「自我」の修復を図るうえで、これは「非常に都合の良いもの=欺瞞」だ。以降、パート2において、フレッドの「意識」はこの「欺瞞」の強化(あるいは具象化)の方向へとイメージを連鎖させていくことになるわけだが、その詳細は以降の回に譲ろう。

さて、このようにフレッドが新たな「欺瞞」(あるいは「遁走」)を構築するかたわらで、アリスがいわゆる典型的な「ファム・ファタール」としての性格をあらわにし始めていることも見逃してはならないだろう。それこそエミール・ゾラの「ナナ」から「嘆きの天使」(1930)のローラを経て、「深夜の告白」(1944)をはじめとするフィルム・ノワールの諸作品など、過去、さまざまなジャンルの数多くの作品において「男を破滅に導く運命の女」の存在が描かれてきた。「金銭強奪」という犯罪教唆をまつまでもなく、アリスが明確にその一員であることは、この後の「ロスト・ハイウェイ」の展開が示すとおりだ。

しかし、忘れてはならないのは、アリスが「ファム・ファタール」であり得るのは、その「原型」であり、彼女と「内的に等価」であるレネエこそが、そもそもフレッドにとって「ファム・ファタール的存在」であったからだという「事実」である。「前半部」における「現実のレネエ像」が、たとえば「ルナ・ラウンジに行かない」と彼女が宣言するシークエンス(0:05:45)にみられるように、フレッドの「希求」(あるいは「願望」、あるいは「欲望」)にときとして応えない「コントロール不能」の存在として描かれていることは、以前にも述べたとおりだ(もちろん、これらも「フレッドの主観映像」に過ぎない)。いずれにせよ、レネエが「一個の人間存在」として自我を備えている限り、彼女がフレッドの「希求/願望/欲望」に100パーセント応えることは現時的に不可能であり、彼女をコントロールできると考えること自体がフレッドの「幻想」であることも間違いない。だが、こうした「幻想」と「現実」の乖離こそが、結果としてフレッドをして「レネエ殺害」に向かわせた要因であることもまた確かだ。いうならば、フレッドを凶行に走らせたのは彼自身の「過剰な願望/欲望」であり、それが「十全に応えられなかった」ことによって芽生えた「猜疑心」なのである。

ファム・ファタールと呼ばれる存在が備える「本質」の「ある一面」がここにある。さまざまな作品に登場するファム・ファタールが共通して備えるのは、まさしく「コントロール不能」という「特性」であり、それは彼女たちによって破滅させられる男たちが抱える「応えられない希求」……「過剰な願望/欲望」によって成立しているのだ。言葉をかえれば、そうした男たちはすべて自らの「欲望」によって「自滅」しているのである……ちょうどフレッドがそうであったように、あるいはこの後のピートがそうであるように。もしこれをリンチによるフィルム・ノワール作品への「目配せ」だとするならば、これまた単純な「引用」の域を超えた、”「本質性/普遍性」への言及”であるといえるのではないだろうか。

(この項、またもや続く)

*この「フレッドの不信感」は、カット(7)におけるアリスの言及……アンディが「金で女の子を手配した」という言及によっても「代弁」されている。これが”アンディ宅での「パーティ」に対する揶揄”でなくてなんだろう。

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