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2009年7月26日 (日)

「A Page of Madness」を読む (1)

Pageofmadness てなわけで、「狂った一頁」のDVDがらみで紹介しさせていただいたイェール大助教授アーロン・ジェロー氏の評論本「A Page of Madness  Cinema and Modernity in 1920s Japan」をば入手しまして、現在ボチボチ読んでいる最中であります。まだ途中ではありますが、備忘録的にメモおよび所感など。

まず、(サウンド版もサイレント版も含め)現存しているバージョンは1926年のオリジナル公開バージョンと比べて、かなり短くなっているという話です。フィルム自体の長さでいうなら、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵の復元版が1,617m(5,286フィート)であるのに対し、当時の劇場公開版は「2,142m(7,002フィート)~2,128m(6,956フィート)」であったという記録が残っています。どこでどのように欠落部分が発生したかは定かではないのですが、たとえば古い映画によくあるように「ある特定の巻のフィルム全部がすっこり欠落している」という状況ではないこと、あるいは1971年にフィルムが発見されたとき「すぐにタクシーを呼んで撮影所へ行き、ネガ編集室を借りて、ゆっくりと全巻をたしかめたのであった」と自伝「わが映画の青春」で衣笠監督自身が述べていることなどを理由に、その後「サウンド版」が再編集されたときに監督の手によってカットされたとみるのが妥当なのではないか……とジェロー氏は述べています。んが、先に挙げた「復元版」は(「サウンド版」ではなく)現存する「サイレント版」をもとにリストア作業が行われているはずなので、ちょっとそれでは話が符合しないようにも思われるのですが、なんか、大山崎、勘違いしてますかね?

では、どのようなシーンが欠落しているのか? それを検証する作業として、ジェロー氏は、衣笠監督が残していた撮影メモや、当時上演前に内務省へ提出が義務付けられていた「検閲台本」と現存するフィルムとの比較を試みます。具体的な例としては、「小使いの娘の婚約者が、友人から娘の母親が精神的に異常をきたしていることを教えられる」*というシーンが現存するフィルムからは欠落しているということなわけですが、どーやら集中的に欠落しているのは「新派悲劇」的な「ナラティヴな部分」であるよう読めます。

でもって、「検閲台本」は「弁士用台本」を兼ねていたとのことなんですが、このあたりは(自分を含めた)現代の受容者が、ついつい忘れがちになる点のように思います。その当時のサイレント映画は、上映に際して弁士による説明や楽団による生演奏の音楽が付随していて、決して「サイレント」ではなかったんですね。このあたりは、逆に当時の受容者だけが受けられた恩恵であるように思われます……ってか、たとえば「主人公の小使いと入院患者である女性が夫婦関係にあり、なおかつそれは病院内の関係者には知らされていない」という状況など、(少なくとも現存する版の)具体的映像からだけでは逆立ちしたって理解不能なわけで(笑)。この映画に対してどのような「説明」が弁士によってつけられたかという資料は残っていなんでナンともですが、もし前述した人間関係の部分なんかが補完されていたとすれば、当時の受容者は我々よりも(少なくともナラティヴな面では)この映画をずっと理解しやすい環境にあったんじゃないか……とジェロー氏は示唆します。

氏も指摘しているとおり、このあたりは現在の目で当時の映画作品を観ようとするときネックになる部分で、(前述した「弁士」のようなソフト面/環境面を含めて)完全な形で公開当時のまま残っていない作品をどう受容し、どう評価するか……ってのはムズカシイ問題ではありますね(と同時に、もちろん、「新しい観点」から過去の作品を観ることも重要な作業であるわけですが)。

その一方で、公開当時、岩崎昶をはじめとする批評家/文化人は、いわゆる「純映画劇運動」の流れのうえに、あるいは「純粋映画」(文学や演劇の影響を排した独立したメディアとして、言語やナラティヴに頼らず映像のみで受容者の感情を喚起する映画)という概念の延長線上に「狂った一頁」の前衛的な部分(たとえば冒頭の「踊り子の幻想(=内面で想起されているもの)」や、福引のシークエンスに代表される「小使いの幻想」のような非ナラティヴで前衛的な部分)を捉え、さまざまな留保をつけながらも評価しました。しかし、大山崎が思うに、これは見方によっては皮肉な事象であったかもしれません。衣笠監督はそもそも「女形の演技者」としてスタートし、「連鎖劇」(大正時代に存在した、ひとつの作品のあるパートは舞台劇で生身の俳優によって演じられ、またあるパートはあらかじめ撮影されたフィルムで上映されるといった具合の、演劇と映画がチャンポンになった作品形態)とも関わっていたわけですが、この二つは「純映画劇運動」の映画改革論者たちの批判の対象に含まれていたからです。このように、監督に転じた衣笠貞之助個人が急激に埋めた「映画に対する距離」を思うとき、ダダイズムやら未来派やらの「芸術概念」が海外から怒涛のように押し寄せ、否が応もなくその影響に晒された大正時代の激動具合を感じさせられます。

閑話休題、同時に、この文脈に基づく批評からは、前述した「弁士の使用」が批判の対象となった……とジェロー氏は述べます。弁士によってナラティヴな部分が補完されているということは、結局「言語」による補助を受けているわけで(あるいは「言語」からの影響を排除できていないわけで)、それじゃ「映像」だけで作品が完結してねーじゃんかよ……っつーわけですね。衣笠監督自身が認めているように、そもそも「狂った一頁」は初めから無字幕映画として製作がスタートしたわけでなく、完成試写の時点でも字幕は残っていて、先に述べた「夫と妻の人間関係」なんかもそれによって説明されてたようです。ところが、試写を観た横光利一が「無字幕でやったらどうか」ってなことを突然言い出し、「ほんじゃ」ってんで急遽字幕が省かれたという経緯があります。まあこの、無字幕を前提として作られていない映画から後付けで字幕を取り去るのは、やっぱちょいと無理があったと言うべきなんでしょーね。

それはさておき、こうした「弁士」に関する批判のバックグラウンドについて、同じくアーロン・ジェロー氏は「弁士の新しい顔――大正期の日本映画を定義する」という一文において、その当時、批評家/文化人たちが「弁士」という呼称を「説明者」に変えようとした経緯に触れる形で述べています。孫引きになりますが、藤岡篤弘氏の「日本映画興行研究史」から引用しておきます。

映画の自立性を主張する改革論者たちが、「過剰な言語で観衆をはらはらさせる」「弁士」から、その権限を取り上げ、「映画がその固有の意味を伝達する際の手助けを義務とする」「説明者」へと降格させる過程をジェローは咀嚼するが、同時に、そこには弁士に依然根強い愛着を示していた「社会的に劣った群衆」に対する、改革論者たちの軽蔑的意図が存在したと主張する。

とまあ、映画に関心を抱いていた批評家/文化人が「狂った一頁」を賞揚し、同時に苦言を呈したのはこうした文脈によるものであったわけです。「映像言語」を確立する試みとして評価されると同時に、それを完遂できていないことが批判の対象になったっつーことですね。大山崎が激しく妄想するに、もし「サウンド版」を再編集する際に「ナラティヴな部分」が意図的にカットされたのだとしたら、それはあるいはこうした当時の批判に対する監督自身の回答であったのかもしれません。

また、オリジナルな形の「狂った一頁」がより多くの「ナラティヴな部分」を含んでいたとすれば、その「ナラティヴな部分」と「非ナラティヴな部分」の混在具合は、衣笠監督のもう一本の前衛映画である「十字路」(1928)を観れば、ある程度推察できるように大山崎は思います。この作品のメインは基本的には「ナラティヴなメロドラマ部分」であり**、登場人物の「感情」や「心象風景」を提示する表現主義的な映像は基本的にサブです(カール・ハインツ・マルティン監督「朝から夜中まで」(1920)のセットを思わせる「真っ暗な空間に、白い線で描かれた十字路」も、結末近くに2ショット登場するのみですし。あるいは、むしろこれは「舞台版からの美術の踏襲」という意味で「表現主義演劇」からの流れとして捉えるべきなのかもしれませんが)。見方によっては、時代が下るに連れて「表現主義的映像の手法」が一般化し、ナラティヴな作品内において普通に使われるようになる状況を先取りをした作品であるといえるのかも。

その後の多くの映画作品が採用する(そして、現在も多くの映画作品が継承している)こうした方向性について、ジェロー氏はこの「狂った一頁」という作品自体にすでに内在していると述べます。具体的にいうなら、踊り子の「内面」に始まり、小使いの「幻想」を経て辿り着いた作品の結末が、最終的に「外界/現実」に回帰して終わる点です。この後ひとつの興隆を極める1930年代の日本映画は、(いわゆる「純粋映画」的なものではなく)むしろ「自然主義的な記号」を採用し「ナラティヴに関する記述」をその主体としていくわけですが、「狂った一頁」の構成自体がこうした流れを「予見」している……とジェロー氏は考えます。

てな具合に、ジェロー氏は、「狂った一頁」が抱えるコンベンショナルな部分と非コンベンショナルな部分の「対立性/相反性」、あるいは「不統一性」の例として、この「ナラティヴな部分」と「非ナラティヴな部分」の並立を挙げます。すなわち、「夫の過ちで息子を死なせてしまった結果、精神に異常をきたした妻」「関係を隠して、妻が収容されている精神病院で働く夫」「自分たちの娘の婚約者に、妻のことが知られるのを怖れる夫」「それが昂じて、妻を精神病院の外に連れ出そうとする夫」……という「メロドラマ」的なナラティヴの部分がひとつ。そして、それに対するものとして、冒頭の「踊り子の幻想」や福引のシークエンスに代表される「小使いの幻想」のような非ナラティヴで前衛的な部分がひとつ。この大きな「対立構造」を核にして様々な対立要素が仮託されていることや、フランス印象派映画からの強い影響を氏は述べていきますが、それについてはまた別な機会にでも。

*サイレント復元版にはここらへんのシークエンスがあったよーな気もするのだけど、すでに大山崎の記憶は曖昧なんで、今からでも遅くないからやっぱ、DVD出してください(笑)。

**「十字路」では「登場人物の台詞」はもちろん、「姉と弟という人間関係」も字幕によって「説明」されています。このような点からも、この作品が(ごく普通に)「ナラティヴに関する受容者の理解」を優先して作られていることは明らかです。

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