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2009年6月

2009年6月25日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (50)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回から数回に分けて(1:28:13)から(1:36:09)までについて、何やらやらかしてみる。

この後、「ロスト・ハイウェイ」は三つのパートに分割される大きなひとつのシークエンスを提示する。タイム・カウントを使って述べるなら

・パート1 (1:28:14)-(1:31:18)
・パート2 (1:31:18)-(1:34:14)
・パート3 (1:34:14)-(1:36:09)

といった具合だ。

構造的なところから述べるなら、「パート2」は、「パート1」と「パート3」という”「空間的/時制的」に一致した二つのシークエンス”の間に挿入される形になっており、両パートとは一致しない「空間/時間」における事象を描いている。いうまでもなく、これは「作品内非現実」を混乱なく受容者に伝えるための典型的な映像文法であり、端的にいえば「パート2」が「(作品内現実における)現在のものではないこと」=「回想であること」を明示している。結果としてこの3パートからなるシークエンス全体の映像によって描かれているのは、”「スターライト・ホテル」の一室におけるピートとアリスの会話”であり、そこで行われている”アリスによる「言及」”の「部分的映像化」だということになる。こうした手法の採用自体が、リンチが「ハリウッドの古典的映像文法に批判的でないこと」を裏付ける証左のひとつといえるだろう。

前回述べた”「アリス」のイメージが付随させる「不確実性」や「曖昧性」”は、このシークエンスにおける「アリスの言及」にも当てはまる。彼女の「言及」の「正確性/真実性」に対し、我々=受容者は一定の「担保」を掛けざるを得ないのだ。もちろん、それらの「具体的映像」がに反映されている「フレッドの意識」もまた、この「担保」の対象となることはいうまでもない。そうした「担保」と引き替えに我々=受容者が手に入れるのは、ときとして屈折し、非常に歪んだ形で表現される「フレッドがその内面で抱いている感情」に対する理解である。

さて、そうした「フレッドの感情」をキーにした観点に基づき、このシークエンスが提示している「事象」をごく大雑把に述べるなら、”ダメージを受けた「幻想/捏造された現実」”をフレッドが修復し、補強しようとしている様子である。ただし、これまでも何度かフレッドが繰り返してきた同様の「修復作業」と比較して、このシークエンスにおけるそれはより複雑な様相を帯びている点には注意したい。たとえば、これまでフレッドが重ねてきた「自分に都合の悪いイメージ」あるいは「自分にとって危険なイメージ」を「矮小化/安全化」する作業である。(0:55:08)の「裏庭のシークエンス」では、「アンディの屋敷のプール」が「子供用プール」に矮小化され、「ビデオ・テープを回収する際に鳴いていた犬」は「子犬」に安全化されていた。だが、このシークエンスにおいて認められる同様の「作業」は、そのような単純な「記号の置き換え」の域を越えている。その原因のひとつとして考えられるのが、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」自体、構築された直後と比較してより複雑化し屈折していることであるのは間違いないだろう。が、より根本的な要因となるのは、フレッドが抱いている”「レネエ」に対する愛憎が入り混じった「感情」”そのものだ。

……という具合な前置きを述べたところで、では、さっそく「パート1」に相当するシークエンスの具体的映像から観てみよう。

パート1
スターライト・ホテル 客室 内部 夜 (1:28:14)
(1)画面左を向いたアリスの太股に添えられた、ピートの右手のアップ。そのままアリスの体の右側面伝いに上にパン。アリスの右腕の肘を越えて、両の手で覆われたアリスの顔までパン。
アリス: He'll kill us.
(2)アリスのアップ。ピートの右肩越しに、斜め右からのショット。黒いマニキュアをした指を広げ、うつむき加減の顔を手で覆っているアリス。
アリス:(ため息)
ピート: Are you, uh...positive that he knows?
(3)ピートとアリスのアップ。ツー・ショット。画面右を向いているピートの右側面からのショット。耳のあたりを押さえてうつむき加減にしているアリス。彼女をのぞき込むようにしている革ジャンを着たピート。アリスは黒いスリップ姿だ。二人の向こうには、白いホテルの壁と、黒い窓らしきものが見えている。
アリス:(泣きそうな声で)I'm not positive that he knows.
ピート:(間)So?
一層うつむくアリス。
ピート: What are we supposed to do?
耳あたりを押さえていた両手を離し、画面外のピートの両腕あたりにかけるアリス。顔を上げて、ピートを見る。
アリス: I don't know.
ピートの目を見つめつつ、弱々しく首を振るアリス。長いため息をつきつつアリスから体を離し、左手を自分の頬のあたりまで上げるピート。それに連れて左へパン。
(4)ピートのアップ。アリスの左肩越しのショット。左手を自分の頬のあたりに上げたまま、曲げた指を動かしつつ、アリスを見つめるピート。
(5)アリスのアップ。彼女の斜め 右からのショット。泣きそうな顔をして、ややうつむき加減にしている。顔を上げて、画面右方向、ピートのほうを見るアリス。吐息をついて、ピートのほうに少し体を寄せる。

さて、ここで基本的な疑問が発生する……はたしてミスター・エディは「ピートとアリスの関係」を認識しているのだろうか? 少なくとも、これまで提示された「ミスター・エディが何かを察知している」という「電話を介したアリスによる言及」(1:21:50))や「ミスター・エディによる自動車工場への訪問と恫喝」(1:26:29)の「具体的映像」、あるいはカット(1)からカット(3)の前半における「ピートとアリスの会話の具体的映像」をみる限り、それは明瞭ではない。確定事項として理解されるのは、ミスター・エディが「アリスが誰かと関係をもっている」と疑っていることのみである。その「誰か」がピートではないかという疑義を抱いているらしき様子はあるものの、確信に至った様子は今のところ「具体的映像」としては明示されていない。

「アリスの相手がピートであることをミスター・エディは知っているか」という問題に関して、アリスは否定的な発言をする(カット(3))。が、これも何らかの裏付けがある話ではないのは明らかだ。結局のところ、「ピートとアリスの関係をミスター・エディが知っているか」という疑問に関する限り、「真相」は闇のなかというしかない。いずれにせよ、(アリスがカット(1)で言及するように)一度ミスター・エディが「二人の関係」を知れば、その「直裁的な力」による「処罰」を受けることになることだけは確実である。そして、カット(3)の後半からカット(5)にかけての描写にあるように、(ミスター・エディがどこまで知っているかを確認することを含めて)ピートとアリスが現状に対してなんら対処方法を見出せず、絶望的な状況にあるのは明白だ。

ひるがえって、このシークエンスを「フレッドの意識」をキーにしてみたとき、この「二人の会話」が”ピートとアリスという「代弁者」による「自問自答」”であることは容易に理解される。このあたりの基本的な構造は、たとえば「ピートとシーラの会話」(1:10:08)あるいは「ピートとフィルの会話」(1:11:45)と同じだ。異なるのは、前述の二例がフレッドの「内面」で発生している「二律背反的な思考」を表象しているのに対し、このシークエンスにおける「自問自答」が、むしろ「ミスター・エディがピートとアリスの関係を知っているかどうかを曖昧にする」ために行われていることである。

それが他ならぬフレッドの「内面」において発生している事象である以上、”「アリス=レネエの代替イメージ」の獲得”は彼にとっては「既定事実」である。その一方で、「ミスター・エディ」が「現実のイメージ」を指し示すものとしてフレッドの「内面」に存在し、広い意味で彼の「代弁者」として機能している限りにおいて、「ミスター・エディがピートとアリスの関係を知っていること」も、本来は「既定事実」のはずなのだ。「具体的映像」にあるようにこの件に関してアリスとピートが「結論」に達しないのは、実は”フレッドが自分にとってネガティヴな「結論」を出したくない”からに過ぎない。一言でいうなら、これもまた「フレッドの欺瞞」なのだ。そして、その根底にあるのは、”自分の「幻想」のなかに存在する「アリスのイメージ」を「隠蔽」しておきたい”というフレッドの「感情」あるいは「欲望」である。表現を変えるなら、もし可能であれば、彼は自らの「幻想」のなかに「レネエの代替イメージ=アリス」を確保しておきたいのだ……それも、「レネエ=アリスのイメージ」が付随させている「現実=ミスター・エディ」のイメージによる侵入や介入を排除した形で。

繰り返し指摘するように、「現実による侵入」は、”フレッドが構築した「幻想/捏造された現実」の崩壊”に直結する。それは、「前半部」における「幻想/捏造された記憶」が、「ビデオ・テープ=ありのままの記憶」による度重なる侵入の末に崩壊したことにも明らかだ。同様に「後半部」における「幻想/捏造された現実」も、このまま「現実=ミスター・エディ」による侵入が繰り返されれば崩壊の危機に瀕するであろうことは、明白である。フレッドにとって、この「幻想の崩壊」がすなわち「遁走先の喪失」と同義であることはいうまでもないだろう。かつ、「遁走先」を喪失することは、”「客観的(作品内)現実」に自分が強制的に回帰させられること”同義である……ちょうど、「三本目のビデオ・テープの到着」を機に決定的に崩壊した「幻想/捏造された記憶」(0:39:47)が、そのまま「警察の取調室」(0:41:49)や「死刑囚房」(0:42:11)という「客観的現実(もしくは”よりありのままに近い記憶”)」のイメージへと連鎖していったように。

フレッドからみれば、”「幻想/捏造された現実」の崩壊”は「二重の処罰」だといえる。自分の現状からの「遁走手段」を奪われること自体が「精神的処罰」であるのはもちろん、回帰した先の「客観的(作品内)現実」においても彼を待ち構えているのは、「収監/死刑執行」という「肉体的処罰」なのだから……そう、カット(1)でアリスが「ミスター・エディは私たちを殺すわ」と言及するとおりに、「現実はフレッドを殺す」のである。フレッドが「アリスのイメージ」を隠匿しておきたいと「願望」するのは当然のことだ。

だが、もちろん、これは達成不能な「願望」である。「レネエのイメージ」が「現実のイメージ」と分割不可能であるのと同様に、その「レネエのイメージ」をもとに構築された「アリスのイメージ」も「現実のイメージ」とはそもそも分断不能だ。である以上、「アリスのイメージ」を喚起することは必然的に「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」を招くことになる。有り体にいえば、「アリスのイメージ」を構築してしまった段階で、フレッドの「幻想/捏造された現実」はすでに崩壊すべく運命づけられているといってよいだろう。そして、実際に「幻想/捏造された現実」がどのような結末を迎えるかは、「ロスト・ハイウェイ」のこの後の展開が物語るとおりである。

このようにしてみるかぎりにおいて、カット(3)の後半からカット(5)にかけての描写……「為す術がないピートとアリス」という「具体的映像」は、そのまま「フレッドの現況」を表象していることが理解されるだろう。”「幻想」とアリスの両方を獲得したい”という「フレッドの願望」が根本的に達成不能な命題である以上、彼に抜本的な「解決手段」などあるはずがないのだから。

(この項、続く)

2009年6月21日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (49)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:27:56)から(1:28:13)まで。ちょいと切り所がムズカシイので、今回はかんなり短めに、ちゃっちゃと……終わらせられたらいいな(笑)。

前々回、前回で述べた「ピートの自宅のシークエンス」(1:24:18)と「自動車工場のシークエンス」(1:26:29)の二回にわたる「現実による侵入」を受けたピート=フレッドは、大きくその「内面」を揺さぶられる。「客観的(作品内)現実からの遁走」のために構築したはずの「幻想/捏造された現実」が、自分の思ったように機能しなくなり始めているのだ。「レネエ殺害」とそれに端を発するさまざまな「忘却したい記憶」が、次第に蘇り始めている。”両親による「あの夜」についての曖昧な言及”から”「ミスター・エディ=現実」による直裁的な脅迫”へといった具合に、フレッドに対する「精神的圧力」はエスカレートするばかりだ。

大きな流れで捉えたとき、これ以降のいくつかのシークエンスによって提示されるのは、フレッドがこうした「精神的圧力」に耐えかね、それからの回避を目的として、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」に対して修正あるいは補強を試みようとする様子である。

デイトン家 内部 夜 (1:27:59)
(ディゾルヴ)
(1)[電話のベルの音]
デイトン家のキッチンの壁に掛かった黒い電話機のアップ。アウト・フォーカス。
ピート:(画面外から)I'll get it!
画面右から姿を現すピートの背中。アウト・フォーカスのまま、受話器をとるピート。イン・フォーカスになると、左斜め前からの彼のアップになる。左手に持った受話器を左の耳にあてるピート。彼の背後には、戸棚などのキッチンの中の様子がアウト・フォーカス気味に見えている。
ピート:(受話器に向かって)Hello?
(2)アリスの両目のあたりのアップ。目のあたりに、スリット状の光が当たっている。その他の部分は闇になっている。下方にパン。
アリス: Meet me at the Starlight Hotel on Sycamore in 20 minutes.
パンは続き、鼻のあたりを過ぎて、受話器に向かってささやいている口元と受話器を持っている右手の指のアップになる。鼻の頭は闇に沈み、口元あたりにスリット状の光がさしている。右手の指にも光が当たっている。指にはめられた銀色の指輪。

まず注意をひくのが、直前のシークエンスの最終ショットからこのシークエンスのカット(1)へとつながるカッティングである。単純なディゾルヴではなく、若干の「クロースアップ」とともに「アウト・フォーカス&イン・フォーカス」といった操作が伴われている。この「アウト・フォーカス&イン・フォーカス」は、(1:22:16)のシークエンスに現れた「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」というモチーフの明瞭なリフレインである。当該シークエンスにおいても述べたように、このモチーフが表象するのは、「現実の侵入」を受けて文字どおり”揺さぶられる”「ピートを核にした幻想/捏造された現実」である。今回の例に関して具体的に述べるなら、直前のシークエンスにおいて発生した「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」によって「ピートを核にした幻想/捏造された現実」にダメージを受けている。この「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」は、それによって揺れ動く「幻想/捏造された現実」を表し、ひいてはそれに起因する”フレッドの「内面」に発生した「動揺」”を表象していることになる。

その「動揺」に応じて喚起されるのは、観てのとおり「アリス」のイメージである。ピート=フレッドはダメージを受けた「幻想」の修復を、「自分にとって好ましいもの」である「アリス=レネエの代替イメージ」をもって行おうとしているのだ。このあたりの構造は、(1:08:29)において発生した”「シーラ」へとつながる「イメージの連鎖」”とまったく同一であることに留意しておきたい。かつ、この二つの「イメージの連鎖」が、いずれも「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」をトリガーにして発生していることも見逃せない点である。こうした「共通性」から指摘できるのは、「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」が、「幻想/捏造された現実」を揺さぶると同時に、その「幻想」を構築したフレッドの「自我」に対してもダメージを与えていることだ。「幻想」が「自我」を守るために構築されている以上、あるいはこの連動性は必然であり、逆にいえばフレッドにとって”失調をきたした「幻想」を修復すること”は”傷ついた「自我」を修復すること”と同義といってよい。

しかし、「シーラへの連鎖」が彼女との「直接的」な接触という形で現れていたのとは異なり、「アリス」のイメージは「電話」という「間接的」なイメージを付随させて、まずは喚起される(カット(2))。前回の「アリス」の映像(1:21:23)と同様、彼女の「顔」は影によって分断され、かつ、「クロースアップされた目から口元へのパン」といった具合に「局所的な映像」によってしか提示されない。彼女の「顔」が全体像をみせることはなく、その表情は「影」によって覆い隠されている。全体としてこのシークエンスにおける「アリス」のイメージも(前回と同じく)分断され不明瞭であり、ひいては「彼女の言動によって表されるもの」の「不確実性」をも表象することになる。少なくとも我々=受容者は、彼女の発言の「正確性」や「真実性」に関して、ある一定の担保を掛けざるを得ない。

一方で、我々=受容者が常に意識しなくてはならないのは、こうした担保を「彼女の言及」に対して掛けざるを得ない本当の理由……ぶっちゃけた言い方をするなら、それを「額面どおりに信用できない理由」である。根底にあるのは、繰り返し述べるように、「ロスト・ハイウェイ」が提示する映像がすべて「フレッドの意識」を反映した「表現主義的なもの」であるという前提だ。こうした視点に立つならば、我々=受容者が担保しなければならないのは、実は「フレッドの意識」そのものに対する「信頼性」であることが理解されるだろう。これまでの何度かみてきたように、フレッドは「レネエを殺害したという現実」から目を背け「遁走」しようとしている。彼は「自我」を守るためにさまざまな形で「欺瞞」を重ね、その「内面」で想起されるイメージ群は彼の「願望」や「欲望」によって……つまり、彼の「感情」や「主観」によって大きく歪められている。「フレッドの意識」の「真実性/正確性」に対し、我々=受容者が一定の担保を掛けざるを得ないのはまさにそのためであり、この「担保の必要性」は「フレッドの意識」の反映である”「ロスト・ハイウェイ」が提示するすべての映像群”に関して当てはまることになる。このシークエンスや(1:21:23)で提示される「分断されたアリスの映像」が備える曖昧性や不確定性は、こうした”「フレッドの意識」の「不確定性」の示唆”であることを押さえておきたい。

加えて指摘しておきたいのは、フレッドが「アリス」のイメージを構築するもととした「(現実の)レネエ」が、作中でどのような描かれ方をしてきたかである(この「描かれ方」自体が、「フレッドの主観」によって歪められたものであることはいうまでもない)。たとえば「前半部」に登場する「レネエ」をみれば理解されるように……(0:05:39)における「フレッドのライヴに行かないと表明するレネエ」や(0:33:04)における「フレッドの詰問を曖昧にはぐらかすレネエ」の映像をみればわかるように、基本的に彼女は「コントロール不能な存在」として提示されている。もちろん、この「コントロールの不能性」は「フレッドにとって」のことであり、彼女が彼にとってきわめて「曖昧で不確定な存在であること/あったこと」(いわゆる「ファム=ファタール的存在」であること/あったこと)が「前半部」ですでに明示されているのである。こうした「レネエのイメージ」を基礎にしている以上、「アリス」もまた最終的に(ピート=フレッドにとって)「コントロール不能な存在=曖昧で不確定な存在」にならざるを得ない。このシークエンスや(1:21:23)で描かれる「分断されたアリス」の「曖昧で不確定な」映像は、「レネエ」が備える「曖昧性/不確定性」を踏襲したもの(ひいては、フレッドが了解している「レネエ像」の反映)でもあるのである。

いずれの理由にせよ、「アリスの言動」に対し、我々=受容者は”何らかの「担保」”を掛けざるを得ない。そしてそれは、この後のシークエンスでアリスが言及する「彼女とミスター・エディとの関係」に関しても同様である。

2009年6月16日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (48)

まさかのときに書き込まれる「スペインの宗教裁判」……じゃなかった、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:26:29)から(1:27:56)まで。

引き続き、このシークエンスにおいても「失調」をきたしたフレッドの「幻想/捏造された現実」が描かれる。前回のシークエンスの舞台は「家」だったが、今回は「職場」だ。そして、より「現実」に近いこの場所で発生する事象は、前回の「両親による言及」のように曖昧なものではない。より直截的であると同時に暴力的であり、もはや明確な「現実による侵入」の様相を帯びている。

さて、さっそく具体的映像から観てみよう。

アーニーの自動車修理工場 内部 昼 (1:26:29)
(フェイド・イン)
(1)ミドル・ショット。フィルとピートのバスト・サイズのツー・ショット。画面左にこちらのほうを向いたフィル、画面右端には、半ば背中を向けて左側面をみせているピート。ピートは白いTシャツ姿で、うつむいて画面外で作業をしている。横目でピートをちらりと見るフィル。
フィル: Hey.
声を掛けられ、頭を上げてフィルを見るピート。顎を軽くしゃくり、自分の正面のほうを示すフィル。
フィル:(目だけでピートをみながら)Mr Eddy.
[(画面外で)自動車のドアの閉められる音が工場内に響く]
慌てて左背後を振り返るピート。フィルは下からねめつけるように画面手前のほうを見たあと、画面外の自分の手元に視線を落とす。
(2)ミドル・ショット。工場の内部から、入り口の方向をみるショット。工場の真ん中ほどあたりまで入り込んで停車している黒いベンツ。ベンツの正面をこちらに向かって歩いてくるスーツ姿のミスター・エディ。背後のベンツの左側では金髪のボディ・ガードが、右側では黒髪・口髭のボディ・ガードが、同じく画面手前に向かって歩いてくる。画面奥の道路には自動車が行き交っている。ミスター・エディが工場の奥に向かって歩くに連れて、左にパン。二人のボディ・ガードはちょうどベンツの前あたりで立ち止まり、仁王立ちになって待機する。そのまま画面手前に向かって歩き続けるミスター・エディ。
(3)ミドル・ショット。手を拭いつつ、左肩越しに自分の背後のほうを見ているピート。フィルは画面左、作業台の向こうで右手に持った金属のパーツを左手でいじっている。顔を伏せながらもピートの様子をうかがっているフィル。作業台を離れ、向き直って画面右に向かって歩き始めるピート。手元に目を落として作業に戻るフィル。ピートが歩くに連れて右へパン。
(4)ミスター・エディのバスト・ショット。工場の奥から入り口方向を見たショット。彼の背後左にはアウト・フォーカスで半ば閉じられた赤いシャッター。彼の右背後には金髪のボディ・ガードが立っているのが見える。バスト・ショットからアップになるまで歩き続けるミスター・エディ。
ミスター・エディ: Hey,
(5)ピートのアップ。バストショット。彼の左斜め前からのショット。画面右手、ミスター・エディのほうを見ているピート。アップになるまで進む。
ミスター・エディ:(画面外で) Pete!
(6)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しの、斜め右からのショット。
ミスター・エディ:(ピートに近付きづつ)How you doing?
(7)ピートのアップ。ミスター・エディの左肩越しの、斜め左からのショット。
ピート: I'm OK.
(8)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しの、斜め右からのショット。ピートに顔を近づけ、彼の目をのぞきこむようにするミスター・エディ。
ミスター・エディ: I'm sure you noticed that girl that was with me the other day...Good-looking blonde? She stayed in the car?
(9)ピートのアップ。ミスター・エディの左肩越しの、斜め左からのショット。細かく首を振るピート。
(10)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しの、斜め右からのショット。ピートの様子をうかがうミスター・エディ。
ミスター・エディ: Her name is Alice. I swear I love that girl to death.(首を振りながら)If I ever found out somebody was making out with her...
沈黙し、ちらりと自分の右方向を見てから、またピートを見るミスター・エディ。
(11)ミドル・ショット。ピートとミスター・エディのバスト・サイズのツー・ショット。ピートの右側面からのショット。右手で銀色の大口径の拳銃を取り出すミスター・エディ。
(12)ピートのアップ。ミスター・エディの左肩越しの、斜め左からのショット。右手の拳銃の銃口を上方に向けて持ち、ピートの顔の前に突きつけるミスター・エディ。
ミスター・エディ: I'd shove it so far up his ass it would come out his mouth.
(13)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しの、斜め右からのショット。右手に持った拳銃をちらつかせながら、ピートの顔をのぞき込むミスター・エディ。
ミスター・エディ:(沈黙)And then you know what I'd do?
(14)ピートのアップ。ミスター・エディの左肩越しの、斜め左からのショット。脅えた表情。
ピート: What?
(15)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しの、斜め右からのショット。右手に持った拳銃をちらつかせながら、ピートの顔をのぞき込むミスター・エディ。
ミスター・エディ: I'd blow his fucking brains out...
唇の端を吊り上げて笑うミスター・エディ。笑顔を浮かべてピートの顔をのぞき込んだまま、画面外で拳銃をしまう。
(16)ピートのアップ。ミスター・エディの左肩越しの、斜め左からのショット。言葉が出ない。
(17)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しの、斜め右からのショット。満足気に画面外でピートの肩を叩くミスター・エディ。
ミスター・エディ: Hey.(画面外でもう一度肩を叩き)You're looking good. What you been up to?
ピートの顔を見つめるミスター・エディ。
(18)ピートのアップ。ミスター・エディの左肩越しの、斜め左からのショット。黙ったままミスター・エディをみつめているピート。彼の顔にクロース・アップするとともにアウト・フォーカスになる。
(ディゾルヴ)

このシークエンスにおける「失調をきたした幻想」を指し示す事象は、観てのとおり「ミスター・エディによる訪問」という事象をとおして描かれる。この「訪問」自体が「現実による侵入」であることは、たとえば(1:00:23)や(1:12:50)における「ミスター・エディによる訪問」がそうであるのと同様である。これらの”「訪問」によって表わされるもの”が備える「共通性/等価性」は、現在論じているシークエンスを含めたこの三つのシークエンスに登場する「ミスター・エディ関連の映像」が、ともに”背後に配置された「開放された自動車工場の入り口」や「自動車が行き交う道路」”(カット(2)(4))という「彼と外界の関連性」を表象する「共通項」を備えている点にも表されている。また、ミスター・エディが保持している(そして恣意的に行使できる)「直截的な力」を指し示す「二人のボディガード」の存在も、これらのシークエンスが備える「映像的共通項」である。

だが、今回の「ミスター・エディによる訪問」は、前述した(1:00:23)や(1:12:50)の「訪問」とは様相を異にしている点がある。表層的なところはともかく、その本質において今回の「訪問」は、前二回がそうであったような「友好的なもの」では、必ずしもない。というよりもそこに認められるのは、ミスター・エディによる彼の「直裁な力」の露骨な誇示であり、その力によって処罰される「対象」が”あるいは”ピート=フレッドである可能性が示唆されるといった、(ピート=フレッドにとって)むしろ「敵対的」な性質のものである。

なによりも、この”あるいは”という仮定が「仮定」ではないことをフレッドは(そして我々=受容者も)熟知している。フレッドの「内面」においては(もしくは彼が構築した「幻想/捏造された現実」においては)、「アリスの獲得」がもはや「既定事実」であるのは明白だ。その意味でフレッドが「ミスター・エディの処罰の対象」であることもすでに決定済みであり、このシーケンスで発生している事象……「ミスター・エディによる訪問」は、フレッドにとってあらかじめ「予見」されていたはずの事態だったといえる。具体的にいうなら、(1:21:50)におけるアリスの言及……「ミスター・エディが何かを察知しているようだ(I think he suspects something.)」という電話後しの言及は、フレッドのそうした「予見」を「代弁」するものに他ならない。「レネエの代替イメージ」である「アリス」に関与することは、すなわちそれが付随させる「現実のイメージ」の喚起につながり、それはそのまま「幻想/捏造された現実」に対する「現実の介入/侵入」に至る。このシークエンスで描かれているのは、まさにそうした”あらかじめ発生が予見されていた「事象」”である。

あえて指摘するならば、この「予見された事象」が、同時にフレッドにとって「出来れば回避したい事象」であることも間違いない。それを裏付けるように、「ミスター・エディの侵入」を先に認めるのが「フィルであってピートではない」ことは注目に値する(カット(1))。「現実の介入」が不可避であると知りながら、ピート=フレッドは可能な限り「都合の悪い事態」を先送りしようとし、出来れば「知らないふり」を通そうとする。ピートと比較して「より間接的なフレッドの代行者」であるフィルによって「ミスター・エディの侵入」が認識されるのは、まさしくそのためだ。

度々指摘してきたように、このような「認識の先送り」あるいは「意識的/無意識的な誤認=知らないふり」は、”フレッドによる「欺瞞」”以外のなにものでもない。そしてそれが「欺瞞」であり得るのは、そうした「認識」そのものが「客観的な事実」に反しているからだけでなく、どちらかといえばフレッド自身が「それは客観的な事実ではない」と「認識」しているからである。この後のシークエンスを観ても理解されるように、フレッドがそう「認識」している限りにおいて(映像的現象面でいえば「ミステリー・マン」が存在している限りにおいて)、彼にとって「都合の悪い事態」は必ず「現実」のものになる。言葉をかえれば、フレッドがたとえどれだけ巧妙かつ精緻な「幻想」を構築しようと、彼の裡にある「レネエに対する希求」を排除できない限り、それは必然的に崩壊するしかない。

さて、このようなことを念頭におきつつ「ミスター・エディとピートの遣り取り」を観たとき、まず気がつくのはカット(6)およびカット(7)におけるミスター・エディとピートの会話が表象するものである。「調子はどうだ?」というミスター・エディの問いかけは、一見すると何でもない普通の「挨拶」のようにも受け取れる。だが、子細にみればこれは直前の「ピートの家」におけるシークエンスにおいて、父親がピートに対して発した「具合が悪そうだな(You don't look so good)」という「問い掛け」(1:24:31)の「ヴァリエーション」であることがわかる(このことは、後のシークエンス(1:38:17)において、より明瞭にされることになる)。いずれにせよ問題は、ピート=フレッドの状況が、彼がそれに応えて言うような「OK」な状況では間違ってもないことだろう。「頭痛」という形而下的問題と「失調を呈し始めた幻想」という形而上的な問題を抱えたフレッド=ピートの「現状」を評するなら、むしろ父親の発言のほうがストレートであり的確だ。あるいはこれもまた”フレッドの「欺瞞」の表れ”として了解するならば、カット(17)における「調子が良さそうだな」というミスター・エディの発言は「大きな皮肉」であり、かつ「反語的」なものであることになる。

このように、このシークエンスにおける「現実による侵入」は「ミスター・エディによる侵入」という非常に端的な形で表現され、かつ、そこに認められる「記号」はたとえば「拳銃」(カット(11)(12)(13)(15))のように直裁的であり、ストレートに「処罰」のイメージとむすびついている。山道で「ルール」を守らなかった哀れなドライバーを「追跡/追求」の果てに「処罰」したのと同様(1:04:21)、いつでもミスター・エディは「直截的な力による処罰」をピート=フレッドに対して行使することができるのである……そう、ちょうどフレッドが「客観的(作品内)現実」において受けているのと同じような「直截的な処罰」を。こうした「直截性」は、直前のシークエンスにおける「現実の侵入」が「デイトン家の内部」における「両親による曖昧な言及」(1:24:18)に留まっていたのとは対照的であり、同時に「自動車工場=職場」という「より現実/外界に密着した場所」において「よりエスカレートした形」でリフレインされている。このシークエンスが提示している事象を、”「幻想/捏造された現実」の「失調」がその度合いをより進めたことの表れ”として理解されるのは、まさしくこのような機序によってだ。そしてこの「失調」が、「前半部」の「幻想/捏造された記憶」においてそうであったように、フレッドの内面において「現実に関する記憶」が次第に蘇りつつあることをも意味していることはいうまでもないだろう。

2009年6月 3日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (47)

ボチボチと進行する「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:24:18)から(1:26:29)まで。

このシークエンス表象しているものを大雑把にいうならば、「変調」の度合いを進行させつつある「ピートを核にした幻想/捏造された現実」である。

このシークエンス全体をとおしてまず注目したいのは、それがデイトン家の「家」の内部における「両親と息子の間の深刻な会話」という形で提示されていることだ。そこでは「不幸に見舞われた家族」の様相が、「悲嘆にくれる父と母」「混乱し懇願する息子」といったある種「常套的(クリシェ)」をつうじて描かれる。それらの映像的要素から明らかなように、このシークエンスで発生している事象はリンチ作品に頻繁に現れる二つの「共通モチーフ」……すなわち、”「家」のモチーフ”と”「機能しない家族」のモチーフ”を踏襲する形で提示されているのである。

そしてこの「家族劇(の幻想)」において、「両親(特に父親)」は「あの夜のこと=ありのままの記憶」や「警察からの電話=現実/外界からの接触」について語り、ピートは「記憶の欠落」について語る。みてのとおり、これは「家」=「フレッドの内面」で発生している「意識」を反映したものだ。狂い始めた「幻想/捏造された現実」のなかで、フレッドは「現実」に関連する「記憶」を漠然と蘇らせ始める一方、それを否定し「忘却」していたいと望むのである。言葉をかえるなら、前者の「フレッドの意識」を「両親」が「代弁」し、後者をピートが「代弁」するという構造である。要するに、「フレッドの内面」で発生している「二律背反的な葛藤=思い出したくないのに、思い出してしまうという状態」を、複数の「人物イメージ」の言動をとおして描いているわけだ。

……というような概要を押さえたうえで、具体的な映像をみてみよう。

デイトン家 リビング・ルーム 内部 夜 (1:24:18)
(フェイド・イン)
(1)ミドル・ショット。デイトン家の暗いリビング・ルーム。画面左には、灰色の革の椅子に座り、膝の上で手を組んでいる父親。画面中央には、それと直角に画面手前に向けて置かれた長ソファの右端に座っている母親。画面外の玄関からピートが部屋に入ってくるのを見つめている。画面右からフレーム・インするピートの足から胸あたりまで。
ピート:(両親に向かって)Hey...
ピートが近づくにあわせて、彼を見上げる両親。
父親: Sit down a minute.
ピート: What's up?
父親:(合わせていた両手を小さく広げて)Sit down.
長ソファの自分の左隣を伸ばした左手の手のひらで示す母親。二人は再びもとの姿勢に戻る。母親の右側に座るピート。長ソファの前には、背の低いテーブルが置かれている。
父親: You don't look so good.
左手に持っていた煙草を右手に持ちかえ、左手を自分の左の額にやるピート。
ピート: No, I just, uh, just have a headache.
そのまま額をなぜ回し、また左手を膝に戻し煙草を持ち替えつつ、父親のほうを見るピート。母親のほうも父親を見て、テーブルの上の灰皿に右手を伸ばして吸っていた煙草を消し始める。
ピート: What's going on?
ピートの左手の煙草からたゆたう煙。
父親:(低い声で)The police called us.
煙草の火を消し終わる母親。
(2)革ジャンを着たピートのアップ。彼の正面からのショット。画面左手の父親のほうを見ている。彼の背後には、上が暗く下が明るくグラデーョンになった白い壁。
ピート: What'd they want?
(3)父親のアップ。袖を切り落としたチェックのシャツを着ている。彼のやや右斜めからのショット。画面右の、ピートがいる方向を見ている。
父親:
They want to know if we had had a chance...to find out what happend to you the other night, and they want to know if you remembered anything..
(4)ピートのアップ。しばらく沈黙するピート。舌で唇を湿す。
ピート: But I don't remember anything.(間)What'd you tell them?
(5)父親のアップ。しばらく沈黙していたが、やがて肩を上下させてあえぐ。
父親: We're not going to say anything about that night to the police.
(6)母親のアップ。薄茶色のセーターを着ている。右画面外にいるピートを見つめている。
母親:(静かな声で)We saw you that night, Pete.
(7)父親のアップ。
父親: You came home with your freind Sheila.
(8)ピートのアップ。目を伏せ、考え込むような表情。
ピート: Sheila?
(9)父親のアップ。
父親:(うなずきながら)Yeah. There was a man with you.
(10)ピートのアップ。追いつめられた表情で、画面左方向、父親のいるほうを見ている。
ピート: What is this? I mean, why didn't you tell me anything?
画面左、母親のほうに視線を向けるピート。
(11)母親のアップ。黙ってピートを見つめている。
(12)ピートのアップ。
ピート: Who was the man?
(13)父親のアップ。
父親:
I've never seen him before in my life.
(14)ピートのアップ。しばらく沈黙したあと、口を開く。
ピート: What happened to me?
(15)母親のアップ。ピートを見つめていたが、耐え兼ねたように唇を噛んで顔をそむけ、うなだれて視線を逸らす。髪の毛に隠されて彼女の表情はわからない。
(16)ピートのアップ。父親に懇願するピート。
ピート: Please! Please, Dad,
(17)父親のアップ。ピートを見つめている父親。
ピート:(画面外から)tell me!
黙っている父親。やがて、泣きそうな表情で首を振り始める。
(18)母親のアップ。うなだれて、顔を背けたままの母親。
(19)ピートのアップ。ため息をつき、目を伏せ気味に自分の正面のほうを向き、首を振るピート。もう一度小さなため息をつき、目を伏せたまま自分の画面右手のほうを向く。

カット(1)において、舞台が「ディトン家」の内部であることが明示される。家の内部は暗く、陰鬱なメゾンセンによってこのシークエンスが「提示するもの」の基調はすでに提示されている。

まず、「話題」になるのが「ピートの状態」である。それに応えてピートは「頭痛」に関して言及する。「後半部」に入って以来、「アーニーの自動車工場」でのシークエンスをはじめとしてピートが「不調」を訴える映像が何箇所か存在するが、その「不調」が具体的にいえば「頭痛」であることが、ピートの発言として初めて明示される。この「頭痛」が、フレッドが死刑囚房において訴えていたもの(0:45:28)と同質のものであろうことは想像に難くない。だが、フレッドの「頭痛」が、「罪悪感」や「喪失感」をはじめとする様々な感情にさいなまれた結果、「現実」として彼が抱いているものとしてストレートに理解できるのに対し、ピートの「頭痛」の表れ方に関しては少しく考察を要するかもしれない。先に触れた「アーニーの自動車工場」での例をみればわかるように、ピートが「頭痛」を訴えるのは、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」が(程度の差はあれ)なんらかの形で「現実の侵入」を受けた際である。このとき、いわば「幻想」は「現実」に接近し、その境界線は「侵入の度合い」に比例して曖昧になる。結果としてフレッドとピートの境界も曖昧になり、現実のフレッドが感じている「頭痛」はピートによっても「共有」されることになる。この「頭痛」もまた、フレッドとピートの内面的な「同一性」あるいは「等価性」を示唆する材料なのだ。

同じくカット(1)において、父親は「警察からの電話」について言及する。「刑事たち」に代表される「警察」が「監視/追求のイメージ」としてフレッドの「幻想」に現れていること、あるいは「電話」がしばしば「外界/現実との間接的接触」として登場していることを考えるなら、この「警察からの電話」そのものが「外界/現実からの侵入」を指し示すイメージとして機能していることになる。

続いて、話題は「あの夜(the other night/that night)」のことに移る。たとえばカット(3)で父親が言及するのは”「あの夜」にピートに何が起きたか”であり、カット(5)では”「あの夜」のことを警察に話すつもりはない”と語る。また、カット(6)では今度は母親が”「あの夜」にピートを見た”と告げる。おそらくこれは(0:58:10)でシーラがピートに向かって言及した「あの夜」と同一の夜のことだと理解されるのだが、さて、では、「あの夜」とははたして具体的にいつの「夜」のことであるのか?

作品の冒頭からここに至るまでの間に「映像」として提示されたものからストレートに理解するなら、フレッドにとって大きく転機となった「夜」は二つある。まず思いつくのが、「フレッドがレネエを殺害した夜」であり、次に思いつくのが「死刑囚房において、フレッドがピートを核にした幻想を構築し、それに遁走した夜」だ。しかし、このシークエンスにおける両親の言及をみても、あるいは(0:58:10)におけるシーラの発言をみても、「あの夜」をこのどちらかの「夜」と特定する決定的な材料は乏しい。敢えて挙げるとしたら、カット(7)における父親の「(あの夜)ピートが友人のシーラと一緒に家に帰ってきた」という言及だろうか。「シーラ」のイメージそして「ディトン家」のイメージが形成されたのが、フレッドが「ピートおよび彼に関連した幻想/現実」を捏造した時点であると考えるなら、この父親の発言は「あの夜」が「死刑囚房でフレッドが遁走した夜」であることの示唆となるものだ。

あるいはこうした疑問に一定の回答を与えるのが、このシークエンスに続いて提示される三つのインサート・ショット(カット(20)(21)(22))である。順序は逆になってしまうが、「ディトン家の会話」について述べる前に、まずこのインサート・ショット群をみてみることにしよう。

(1:26:25)
(20)ミドル・ショット。夜。デイトン家の建物を、前庭の芝生あたりからとらえたショット。青白い光がまたたく。その光が向けられているのは画面左端、前庭の芝生に立っているシーラである。黒い革ジャンに黒いミニ、ショート・ブーツ姿のシーラ。両手を両頬に当て、ちょうどムンクの「叫び」のようなポーズ。彼女の背後にはデイトン家の家が見える。彼女のちょうど背後はガレージの側壁であり、ちょうど彼女の左右には側壁につけられた街灯が点っている。ガレージの横を通って母屋の玄関に至る小道。玄関の扉は開けられ、ピートの両親がそこに立ち尽くして、画面手前の視点のあたりを見ている。
[光とともに効果音]
光が弱くなり、シーラは頬に押し当てられた手をゆるめるが、再び青白い光がまたたき、彼女はその前と同じように両頬に両手を強く押し当て、体をよじるようにして叫ぶ。
シーラ: Pete!
[光とともに効果音]
玄関のところから小道を画面手前に向かって走り出す、父親と母親。父親が先頭である。
シーラ: Come back!
(21)はぜるように口を開ける肉。めくれあがった肉は細かく揺れている。その開口部に向かって侵入していく視点。
(ブラック・アウト)
(22)フレッドの家のベッド・ルーム。アウト・フォーカス気味。ベッドの足元のほう左端を斜め右から見下ろすショット。左斜め下に向かってパン。やがて、バラバラにされ、床に横たえられたレネエの死体の上半身のアップが視界に入ってくる。血にまみれた胸あたりから、レネエの顔がおさまるまで左下にパン。
(23)ピートのアップ。目を伏せ、震えるため息をつき、唾を飲み込むピート。
(フェイド・アウト)

カット(19)からカット(23)まで」の連続する5ショットからなるシークエンスに関して映像文法のうえから指摘できるのは、カット(19)およびカット(23)の二つの「ピートのアップ」に挟まれた三つのショット(カット(20)(21)(22))が、そのとき「ピートが想起したもの」であるということだ*。あわせて指摘できるのは、その「想起されたもの」の具体的内容が、それぞれ「フレッドのピートへの遁走」(カット(20))、「”ピートを核にした幻想”がフレッドの頭に侵入する様子」(カット(21))、「フレッドによるレネエ殺害」(カット(22))であることである。手っ取り早くいうなら、(0:49:39)における「独房内のシークエンス」が提示していた事象を……「レネエを殺害したフレッドが、ピートという別人格を核にした幻想に逃げ込んだ」ことを、この三つのショットからなるシークエンスはフラッシュバックで提示しているのだ。ただし、その提示方法は「帰納的」であり、”フレッドの「ピートへの遁走」の原因が、彼がレネエを殺害したことにある”という具合に構成されている点には注意したい。つまり、「両親」による「あの夜のこと」に関する言及をトリガーにして「ピートへの遁走」の記憶が喚起され、またそれを契機として雪崩的に「レネエ殺害」の記憶が想起されるという「イメージの連鎖」が発生していることが認められるのである。これをみる限り、「あの夜」が「フレッドがピートに遁走した夜」であると捉える見方は、それなりの正当性を備えているように思える。

だが、ここで思い起こさなければならないのは、リンチ作品が本質的に抽象的なものであり、かつ(「ロスト・ハイウェイ」がそうであるように)往々にして非ナラティヴな形態をとっていることだ。であれば、「あの夜」に関して論じるうえでまず検討されなければならないのは、そこに「時系列的な概念」に基づいたアプローチを持ち込むことの有効性そのものである。

そもそも、「ロスト・ハイウェイ」という作品は、どのような「(作品内現実における)時間的スパン」を描いたものなのだろう? 通常のナラティヴな作品に限っていえば、「(作品内)現実」における「時間経過」に関して明瞭であるのが大多数である。登場人物の「台詞」によって「時間経過」が明示されることも稀ではないし、親切にも「字幕」によって「何日後」あるいは「何時間後」といった具合に、直前のシークエンスから次のシークエンスへの移行時に省略された「時間経過」が提示されるのもよく使われる手だ。ナラティヴな作品が「受容者による登場人物への感情移入」を前提として「物語を語る」ものである以上、基本的に「受容者の感情移入」を阻害するような「混乱」はあらかじめ排除されるものだからである。しかし、みてのとおり「ロスト・ハイウェイ」はそうした「経過時間を記述する手法」を一切放棄しており、なんら我々=受容者に「経時に関する手がかり」を与えてくれない。というより、この作品が「フレッドの内面」で発生している「意識の流れ」を描いている限りにおいて、そこに存在しているのは「フレッドの主観時間」のみであり、「(作品内現実における)客観的時間」を前提としたアプローチ自体が効力をもたないのだ。確かに、いくつかの「夜」と「昼」は映像として登場しはする。が、たとえば「夕刻から夜へと変遷する映像」(1:14:56)がそうであったように、それすらも「フレッドの意識の変遷」の反映であるならば、そうした映像を「(作品内における)客観的時間経過の表れ」として了解するのはまったく妥当ではない。結論として、「ロスト・ハイウェイ」が描く事象群が発生したのが「(作品内の)客観的時間」において一日のことであるのか、一週間のことであるのか、確定的に述べることは不可能である**。作品の「時間枠」そのものが不確定である以上、「あの夜」の「発生時点」を特定しようとする作業自体が同じように不確定な「解」しか得られないこと……つまりは「不能」であることは自明である。

このような観点から前掲した「三つのインサート・ショット」を論じるとするなら、より重要なポイントはこれらのショットが備える「概念的な共通項」のほうだ。みてのとおり、これらのショットが伝えるイメージが共通しているのは、それが「フレッドによるレネエ殺害」であるにせよ「フレッドの遁走」にであるにせよ、すべて「(作品内現実において)実際に発生した事項」……「ありのままの事実」であることである。そして、それは(「前半部」の「ビデオ・テープ」がそうであったように)フレッドにとって「思い出したくない事項」あるいは「忘却の対象」であることと同義だ。これらの事項を踏まえるなら、「あの夜」とは、「ピートへの遁走」や「レネエ殺害」をも包括した「フレッドが思い出したくない事項全般」を指し示す「抽象概念」であることがみえてくる。逆にいえば、カット(20)(21)(22)の映像が提示している事象はそれぞれ”「フレッドが思い出したくない事項」の「個別例」”であり、それらが集合的かつ総体的に”「フレッドが思い出したくない事項」の「抽象概念」”を構成しているのだ。「インランド・エンパイア」におけるニッキーやスーやロスト・ガールの”「機能しない家族」の「個別例」”が、総体として”「機能しない家族」の「抽象概念」”を構成していたのと同一の構造であり、リンチが好んで採用する表現手法である。

また、このようなコンテキストの上に「あの夜」を捉えるなら、それと「闇」との関連性もみえてくるはずだ……そう、「夕刻から夜へと変遷する映像」(1:14:56)によって到来が宣言された、あの「闇」である。「夜の闇」が均一にすべてを包み込み「境界線の輪郭」を消し去ったとき、その消失した境界を越えて本来隠されるべきであったはずの「フレッドの想念」が彼の心の中に忍び出る。(1:15:19)において露わになった「隠匿されるべき想念」は、「アリス=レネエの代替イメージへの希求」だった。同じように今回明らかにされたのは、「レネエ殺害」や「ピートへの遁走」という「隠匿されるべき想念」である。ともに「隠匿されるべき想念」であるという点でこれらは「等価」であり、「闇」それ以上の区別をつけない。ピート=フレッドが「希求」を満たす契機を作る一方で、「闇」は幻想の崩壊につながる「忘却の対象」をも同時に甦らせてしまうのだ。

これが「フレッドが抱えている本質的な陥穽」と同軸のものであることは、いうまでもないだろう。「レネエのイメージ」が「現実のイメージ」と関連づけられている以上、それを強く希求することはすなわちフレッドの「幻想=捏造された記憶/現実」を危うくする。「アリス」という優秀な「レネエの代替イメージ」への欲望は、「あの夜=忘却すべき事項」の蘇生と直結しているのである。

このような事項の延長線上に、現在論じているシークエンスが提示するもの……”「両親」と「ピート」の会話”という事象が指し示すものがみえてくる。「前半部」では”いつの間にか届けられる「ビデオ・テープ」”という形で現れた「ありのままの記憶=忘却の対象」が、このシークエンスでは”「両親」をはじめとする「ピートの周辺イメージ」による「言及」”という形で現れているのだ。これもまた形を変えた”幻想に対する「現実の侵入」”であり、結果としてこの「家族の対話」が伝えるのは、(すでに述べたように)フレッドの「内面」で発生している二律背反的な「葛藤」……蘇ろうとする「ありのままの記憶」と、それを懸命に押しとどめようとする「意識」とがせめぎあう有様なのである。カット(4)でピートは「自分は何も覚えていない」と主張するが、それはフレッドの「思い出したくない」という感情の「代弁」に他ならない。その一方、「両親」は「あの夜」について曖昧な言及を繰り返し、最終的には「悲嘆にくれる家族のイメージ」をなぞりつつ沈黙する(カット(15)(17)(18))。「前半部」に登場した「ビデオ・テープ」の映像が低画質のおぼろげなものであったように、「両親」たちの言及も「核心部分」にまでは至らない。だが、フレッドにとって、それは「ピートへの遁走」および「レネエ殺害」に関する「ありのままの記憶」を蘇生させるトリガーとして十分であったわけだ。

こうした「葛藤」が発生すること自体、どれだけフレッドが「ありのままの記憶」の存在を否定しようとしても、それが彼の心の奥深いところに(たとえば遠く離れた「砂漠」のようなところに)「隠匿」され、確固として存在していることを物語っている(カット(6)で「母親」が代弁するように、「あの夜」フレッドは「目撃」されていたのだ……他ならぬ自分自身に)。であるならば、カット(9)で父親が言及する「それまで見たこともなかったような男」が誰を(あるいは何を)指しているのかは、非常に明快だろう。具体的な映像こそ提示されないが、それは明らかに「第三者化」されたフレッドの「真の心の声」……すなわち「ミステリー・マン」を示唆している。フレッドが「ピートを核にした幻想/捏造された現実」に「遁走」するに際して、フレッドは「ミステリー・マン=真の心の声」を自己から切り離し、隔絶された「砂漠の小屋」に追いやらなくてはならなかった(0:48:17)。しかし、このミステリー・マンの「隔離/隠匿」はまったく無意味であったことが、父親の「ピートが帰宅したとき、男=ミステリー・マンが一緒にいた」という父親の言及によって明らかにされる。ミステリー・マンは「砂漠の小屋」から易々と抜け出て、あろうことか「ピートの家=内面」を知らないうちに訪れていたのだ。しかし、それは当然の機序である。「前半部」における"「アンディの屋敷」と「フレッドの自宅」に同時に存在するミステリー・マン”(0:30:03)という事象によって明らかなように、彼がやはり「フレッドの意識の一部」であるかぎりにおいて、ミステリー・マンは「フレッドの内面」のどこにでも(それは「フレッドの幻想」のどこにでも、というのと同じ意味だ)なんら制限を受けることなく「遍在」できるのだから。そう、隠匿された「ありのままの記憶」が、折あるごとにいつのまにか蘇えるように……。

*ここでもリンチ作品が古典的映像文法に批判的でなく、むしろそれを頻繁に踏襲することが表れているわけだが、これもまた(1:13:39)などと同じく「過剰な映像」であることは論をまたない。なぜなら、そもそも「ピート」自身がフレッドが構築した「イメージ=幻想」であり、ピートに関連する事象自体がフレッドの「内面」で発生しているものだからだ。つまり、「ピートが何かを想起する」というイメージを「フレッドが想起している」という二重構造なのである。

**個人的には、”「ロスト・ハイウェイ」における「作品内実経過時間」はその「上映時間」と同一である”としておきたい。

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