「ロスト・ハイウェイ」を観た (49)
「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:27:56)から(1:28:13)まで。ちょいと切り所がムズカシイので、今回はかんなり短めに、ちゃっちゃと……終わらせられたらいいな(笑)。
前々回、前回で述べた「ピートの自宅のシークエンス」(1:24:18)と「自動車工場のシークエンス」(1:26:29)の二回にわたる「現実による侵入」を受けたピート=フレッドは、大きくその「内面」を揺さぶられる。「客観的(作品内)現実からの遁走」のために構築したはずの「幻想/捏造された現実」が、自分の思ったように機能しなくなり始めているのだ。「レネエ殺害」とそれに端を発するさまざまな「忘却したい記憶」が、次第に蘇り始めている。”両親による「あの夜」についての曖昧な言及”から”「ミスター・エディ=現実」による直裁的な脅迫”へといった具合に、フレッドに対する「精神的圧力」はエスカレートするばかりだ。
大きな流れで捉えたとき、これ以降のいくつかのシークエンスによって提示されるのは、フレッドがこうした「精神的圧力」に耐えかね、それからの回避を目的として、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」に対して修正あるいは補強を試みようとする様子である。
デイトン家 内部 夜 (1:27:59)
(ディゾルヴ)
(1)[電話のベルの音]
デイトン家のキッチンの壁に掛かった黒い電話機のアップ。アウト・フォーカス。
ピート:(画面外から)I'll get it!
画面右から姿を現すピートの背中。アウト・フォーカスのまま、受話器をとるピート。イン・フォーカスになると、左斜め前からの彼のアップになる。左手に持った受話器を左の耳にあてるピート。彼の背後には、戸棚などのキッチンの中の様子がアウト・フォーカス気味に見えている。
ピート:(受話器に向かって)Hello?
(2)アリスの両目のあたりのアップ。目のあたりに、スリット状の光が当たっている。その他の部分は闇になっている。下方にパン。
アリス: Meet me at the Starlight Hotel on Sycamore in 20 minutes.
パンは続き、鼻のあたりを過ぎて、受話器に向かってささやいている口元と受話器を持っている右手の指のアップになる。鼻の頭は闇に沈み、口元あたりにスリット状の光がさしている。右手の指にも光が当たっている。指にはめられた銀色の指輪。
まず注意をひくのが、直前のシークエンスの最終ショットからこのシークエンスのカット(1)へとつながるカッティングである。単純なディゾルヴではなく、若干の「クロースアップ」とともに「アウト・フォーカス&イン・フォーカス」といった操作が伴われている。この「アウト・フォーカス&イン・フォーカス」は、(1:22:16)のシークエンスに現れた「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」というモチーフの明瞭なリフレインである。当該シークエンスにおいても述べたように、このモチーフが表象するのは、「現実の侵入」を受けて文字どおり”揺さぶられる”「ピートを核にした幻想/捏造された現実」である。今回の例に関して具体的に述べるなら、直前のシークエンスにおいて発生した「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」によって「ピートを核にした幻想/捏造された現実」にダメージを受けている。この「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」は、それによって揺れ動く「幻想/捏造された現実」を表し、ひいてはそれに起因する”フレッドの「内面」に発生した「動揺」”を表象していることになる。
その「動揺」に応じて喚起されるのは、観てのとおり「アリス」のイメージである。ピート=フレッドはダメージを受けた「幻想」の修復を、「自分にとって好ましいもの」である「アリス=レネエの代替イメージ」をもって行おうとしているのだ。このあたりの構造は、(1:08:29)において発生した”「シーラ」へとつながる「イメージの連鎖」”とまったく同一であることに留意しておきたい。かつ、この二つの「イメージの連鎖」が、いずれも「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」をトリガーにして発生していることも見逃せない点である。こうした「共通性」から指摘できるのは、「ミスター・エディの訪問=現実による侵入」が、「幻想/捏造された現実」を揺さぶると同時に、その「幻想」を構築したフレッドの「自我」に対してもダメージを与えていることだ。「幻想」が「自我」を守るために構築されている以上、あるいはこの連動性は必然であり、逆にいえばフレッドにとって”失調をきたした「幻想」を修復すること”は”傷ついた「自我」を修復すること”と同義といってよい。
しかし、「シーラへの連鎖」が彼女との「直接的」な接触という形で現れていたのとは異なり、「アリス」のイメージは「電話」という「間接的」なイメージを付随させて、まずは喚起される(カット(2))。前回の「アリス」の映像(1:21:23)と同様、彼女の「顔」は影によって分断され、かつ、「クロースアップされた目から口元へのパン」といった具合に「局所的な映像」によってしか提示されない。彼女の「顔」が全体像をみせることはなく、その表情は「影」によって覆い隠されている。全体としてこのシークエンスにおける「アリス」のイメージも(前回と同じく)分断され不明瞭であり、ひいては「彼女の言動によって表されるもの」の「不確実性」をも表象することになる。少なくとも我々=受容者は、彼女の発言の「正確性」や「真実性」に関して、ある一定の担保を掛けざるを得ない。
一方で、我々=受容者が常に意識しなくてはならないのは、こうした担保を「彼女の言及」に対して掛けざるを得ない本当の理由……ぶっちゃけた言い方をするなら、それを「額面どおりに信用できない理由」である。根底にあるのは、繰り返し述べるように、「ロスト・ハイウェイ」が提示する映像がすべて「フレッドの意識」を反映した「表現主義的なもの」であるという前提だ。こうした視点に立つならば、我々=受容者が担保しなければならないのは、実は「フレッドの意識」そのものに対する「信頼性」であることが理解されるだろう。これまでの何度かみてきたように、フレッドは「レネエを殺害したという現実」から目を背け「遁走」しようとしている。彼は「自我」を守るためにさまざまな形で「欺瞞」を重ね、その「内面」で想起されるイメージ群は彼の「願望」や「欲望」によって……つまり、彼の「感情」や「主観」によって大きく歪められている。「フレッドの意識」の「真実性/正確性」に対し、我々=受容者が一定の担保を掛けざるを得ないのはまさにそのためであり、この「担保の必要性」は「フレッドの意識」の反映である”「ロスト・ハイウェイ」が提示するすべての映像群”に関して当てはまることになる。このシークエンスや(1:21:23)で提示される「分断されたアリスの映像」が備える曖昧性や不確定性は、こうした”「フレッドの意識」の「不確定性」の示唆”であることを押さえておきたい。
加えて指摘しておきたいのは、フレッドが「アリス」のイメージを構築するもととした「(現実の)レネエ」が、作中でどのような描かれ方をしてきたかである(この「描かれ方」自体が、「フレッドの主観」によって歪められたものであることはいうまでもない)。たとえば「前半部」に登場する「レネエ」をみれば理解されるように……(0:05:39)における「フレッドのライヴに行かないと表明するレネエ」や(0:33:04)における「フレッドの詰問を曖昧にはぐらかすレネエ」の映像をみればわかるように、基本的に彼女は「コントロール不能な存在」として提示されている。もちろん、この「コントロールの不能性」は「フレッドにとって」のことであり、彼女が彼にとってきわめて「曖昧で不確定な存在であること/あったこと」(いわゆる「ファム=ファタール的存在」であること/あったこと)が「前半部」ですでに明示されているのである。こうした「レネエのイメージ」を基礎にしている以上、「アリス」もまた最終的に(ピート=フレッドにとって)「コントロール不能な存在=曖昧で不確定な存在」にならざるを得ない。このシークエンスや(1:21:23)で描かれる「分断されたアリス」の「曖昧で不確定な」映像は、「レネエ」が備える「曖昧性/不確定性」を踏襲したもの(ひいては、フレッドが了解している「レネエ像」の反映)でもあるのである。
いずれの理由にせよ、「アリスの言動」に対し、我々=受容者は”何らかの「担保」”を掛けざるを得ない。そしてそれは、この後のシークエンスでアリスが言及する「彼女とミスター・エディとの関係」に関しても同様である。


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