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2009年5月 6日 (水)

「Stranger on The Third Floor」を観た

とわいえ、連休中は「芸者vs忍者」だけを観ていたわけでもなく(笑)、たとえばボリス・イングスター監督の「Stranger on The Third Floor」(1940)なんぞもやっとこ観たりしておりました。で、この作品をつうじて、いわゆるフィルム・ノワール作品とリンチ作品の親和性を改めて確認できたように思ったり思わなかったり。

この作品がフィルム・ノワールの先駆的作品とされたり、あるいはもっとも初期のフィルム・ノワール作品そのものとして扱われるのは、一般的定義ではこのジャンルの始まりとされる「マルタの鷹」(1941)の一年前に製作公開され、かつテーマ的にも映像的にもフィルム・ノワールの特徴とされるものに合致しているからであります。でも、逆にいうと、そもそものフィルム・ノワールの一般的定義自体が、実は第二次世界大戦後、解禁されたハリウッド映画を集中的に受容したフランス人批評家の発言に端を発する「言説」に過ぎないこと……要するにフィルム・ノワールという明確な「ジャンル」がハリウッドに存在したわけではなく、あくまで当時のハリウッド映画が内包していた傾向の一部を後付で曖昧に切り取っただけであること、「単一的な現象としてのフィルム・ノワールというものは存在しない(As a single phenomenon, noir, in my view, never existed)」(Steve Neale / Genre and Hollywood. London, Routledge, 2000)ことを、間接的に裏付ける作品であるとゆーことですね。

ざくっとした粗筋としては、新聞記者の主人公が連続殺人事件の遺体発見者となり被疑者として拘束されてしまうわけですが、彼が目撃した真犯人と思しき人物を主人公の恋人が捜し当てて、そしたらホントにその人物が真犯人でよかったよかった……ってな感じの、まあ、予定調和っちゃあ予定調和な話で、特に最後に主人公と恋人が結婚するところなんか、いわゆるハリウッド映画における「美徳の観念」の範疇にあるといえます。映画評なんかをみると、真犯人役を演じたピーター・ローレの演技が評価されている様子で、確かにこの作品においてもローレの神経症的な演技は光っています。ただ、この真犯人は「M」(1931)の幼児誘拐犯の人物像を踏襲しているといえ、その後の「マルタの鷹」におけるジョエル・カイロとも重なる部分があったりで、ある意味でローレの演技パターンのヴァリエーションのひとつとして理解してしまえる部分があるように感じます。

かようにローレが高評価される一方、主人公のマイケル・ウォード役のジョン・マクガイアの演技はあまり評価されていないようです(てか、ある評では、恋人役ジェインを演じるマーガレット・タリチェットともども「大根」とまで言われちゃってる始末です)。しかし、この作品をそのテーマの面からフィルム・ノワールとして捉えた場合、むしろ興味深いのはローレ演じる真犯人よりもこのマイケル君の人物像であるように思いました。

キーとなるのは、作中で時間的にもかなりのウェイトを占めるマイケル君の「内省」および「悪夢」の部分です。この時期のフィルム・ノワールのテーマ的特徴として「人間の内面における対立概念の衝突」ってのがあります。要するに、それまでのハリウッド映画では、たとえば「善と悪の対立」がわかりやすく「善玉の主人公」と「悪玉の敵役」に別れて提示され、最終的に善玉が悪玉を倒すことで「悪に対する善の勝利」が明瞭に描かれていたわけですが、フィルム・ノワールに分類される多くの作品では、たとえば同じ「善と悪の対立」にしても「ある人物(フツーは主人公)の内面で発生している葛藤」として描かれます。でもって、下手したら「ひょっとして、善が勝利した……のかな?」ってな曖昧な結末しか描かれなかったりする。てなことを踏まえたとき、この作品におけるマイケル君の「内省」および「悪夢」は、まさにこの「人間の内面における葛藤」の典型であるといえるっちゅーことです。

とゆーよーな観点から特筆すべきは、常日頃から仲が悪かった隣人の中年男が殺害されているのを発見したあと、マイケル君がみる「悪夢」のシークエンスです。これがモロに表現主義的な映像の連続で、思わず大受け(笑)。

ご覧のようにこの「悪夢」のシークエンスは、「光と影」や「二重露光」を駆使した演出はもとより、あんたは「最後の人」かというくらい「ぐもももー」と迫るビルディングとか、「MURDER」と全面に書かれた新聞とかという表現主義的な映像によって、「隣人の殺人容疑で逮捕されて、裁判やら処刑やら」というマイケル君の「不安」をみごと描くことに成功しております。というか、フィルム・ノワール作品の特徴としてしばしば「ドイツ表現主義映画からの影響」が挙げられますが、「Stranger on The Third Floor」のような例をみていると、それはあくまで前述したような「内面の葛藤」というモチーフあるいはテーマを具体的映像としてするために採用された「手法」に過ぎないんじゃないか……とすら思えてくるんですが、さて、どんなもんでしょー?

てなことはともかく、こうしたマイケル君の「内面」を描く映像から感じられるのは、彼が非常に現代的な「漠たる不安」を抱いている人物であることです。いつもは普通人として日常を平和裏に暮らしているくせに(いや、だからこそ)「隣人殺害の動機」を山ほど抱え込み、それによる「葛藤」に悩まされることになる。ナニを隠そう、マイケル君こそ、この作品のなかでもっとも(実存的な意味で)イカれている人物であるように大山崎には思えるわけですね。ローレ演じる真犯人が(その描写の妥当性はともかくとして)わかりやすく精神的均衡を崩している「だけ」の人物であり、それがゆえにこの作品において彼の「内面」が詳しく描かれることがないのとは、まったく対照的です。

とまあ、ここまで書けば後はいわずもがななんですが、このマイケル君の人物像は、そのまんまリンチの諸作品に登場する人物たちと重なり合うといえます。内面に「葛藤」や「漠たる不安」を抱え、それがゆえの「悪夢」や「幻想」に追い詰められるマイケル君は、たとえばヘンリーやフレッドやダイアンたちとどこがどう違うのか。あるいは、もっといえば、今ここでこうしている我々自身といったいどこがどう違うのか。かつ、彼/彼女たちの「悪夢」や「幻想」が、表現主義的な映像によって彼/彼女たちの「感情」を反映しつつ展開されるという構造においても、この作品は(あるいはフィルム・ノワールと呼ばれる作品の一部は)リンチの諸作品と明瞭な同一性/類似性を備えているといえます。リンチ作品とフィルム・ノワールとの親和性はよく指摘されるところですが、それは特定作品からの引用といった表層的な問題などではなく、実はこうした本質的な部分での同一性/類似性からくるはずです。

さて、もしマイケル君にヘンリーたちと違うところがあるとすれば、彼が「悪夢」から逃れることに成功し、前述したように恋人ジェインとの幸せな結婚に至ること「ぐらい」です。それは当時のハリウッド映画の「範例」にしたがった解決であり、それにしたがうならマイケル君が「無実」であるかぎりにおいて彼が「不幸」なまま終わることは許されません(それはつまり、「悪」が「幸福」なままでいることが許されないことの裏返しであるわけで、案の定、ローレ演じる真犯人のほうは悲劇的な結末を迎えます)。しかし、「なにかと妄想体質」のマイケル君のことでありますからして、その後、彼はきっとフレッドと同じよーな状況に陥ったであろうことを大山崎は信じてやみません……なんちって(笑)。

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