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2009年5月

2009年5月21日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (46)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:23:21)から(1:24:18)まで。

では、さくさくと具体的映像から。

街路 外部  夜 (1:23:21)
(1)ロング・ショット。夜の街。四車線の道路。画面右には、道路の右端に停められている自動車の正面。道路の両側に並ぶ街灯の灯り。遠くに見える建物の灯りと、店々の明るい看板やネオン・サイン。疾走してくるピートのバイクのヘッド・ライト。ピートのバイクを追いかけて左から右へパン。バイクに乗ったピートの右側面からのアップになる。
[バイクの爆音]
(2)走り去る道路を、左斜め後方に見たショット。アウト・フォーカスで画面の右から左へと移動し画面外に消えていく自動車の赤いテイル・ランプ、建物、街灯の支柱、街路樹、また別の白い建物。視点はそのまま疾走しているピートのバイクの正面に回り込み、やや左斜めからの彼の上半身のアップになる。まばゆいバイクのヘッド・ライト。アウト・フォーカスで過ぎて行く道路脇の建物。バイクの背後を走る自動車のヘッド・ライト。画面奥には、アウト・フォーカスで街の照明の遠景が見える。
(ディゾルヴ)

今回取り上げるシークエンス全体が表すものを踏まえたうえで、この二つのショットからなるシークエンスが提示しているものを敢えて名付けるなら、「遁走内遁走」あるいは「小規模な遁走」であるといえる。その「遁走手段」は、これまでのような「自動車」ではなく「バイク」であることも、あるいはこれが(”フレッドの「ピートを核にした幻想」への「遁走」”に比較して)「小規模な遁走」であることの示唆である。

ピートを核にした「幻想/捏造された現実」自体が、本来フレッドにとって都合のよい「遁走の対象」であることはいうまでもない。だが、それは、いまや変調をきたし始めている。その起因となったのが「アリス=レネエの代替イメージ」の発生、そしてそれに対するフレッドの強い「希求」そのものであることは、これまでも何度か述べたとおりだ。一度は自分のものになったと思っていた「アリス」が、実はいまだに「現実=ミスター・エディ」の支配下にあるという認識によって、一時は最高潮に達したピート=フレッドの「全能感」は色あせ、それにともなって彼の「自我」は大きく傷つけられている。結果としてフレッドは、「遁走」先であるはずの「幻想/捏造された現実」の内部においてさえ、なおかつ「遁走」する場所を捜さなければならないのだ。

ホテルの部屋 内部 夜 (1:23:38)
(ディゾルヴ)
(3)ベッドの天板にあしらわれた鳥の彫刻のアップ。ベッドの振動にあわせて揺れ、背後の壁にぶつかっている。上から下へパン。
シーラ:(画面外で)Pete!
下方にパンするにつれ、ベッドの上で性交しているピートとシーラの姿が視界に入ってくる。ベッドの足元の方向から、ピートの背中越しにやや見下ろすショット。二人はベッドの左上部からずり落ちそうになりながら、体を重ねている。ピートの背中と、大きく割広げられたシーラの足。ピートはシーラにのしかかるようにして、体を激しく揺すっている。ピートの背中に回されたシーラの両腕。

このシークエンスが明示するとおり、結局のところ、ピート=フレッドが”「遁走内遁走」の対象”として選んだのは「恋人(の幻想)」である「シーラ」である。このピート=フレッドの「行動」が、(1:08:29)における彼自身の行動のパターンを踏襲していることは明瞭だ。このときピート=フレッドは、「現実=ミスター・エディ」による「幻想への侵入」(1:00:39)によって傷つけられた「自我」を、「シーラ」のイメージを喚起することによって修復しようとした。今回もピート=フレッドはまったく同様の「イメージの連鎖」を発生させ、「都合のいい恋人」であるシーラのイメージを喚起して、「アリスの喪失」によって「傷ついた自我」を修復するための「手段」として使うのである。

ホテルの駐車場 外部 夜 (1:23:45)
(4)ミドル・ショット。ホテルの駐車場に停められたピートのバイクを、右側面やや後方からとらえたショット。駐車場のすぐ前は壁のないホテルの通路で、そこには部屋の赤いドアが二つ見えており、ドアの上には黄色い照明が光を投げかけている。ドアとドアの間には、部屋の窓がある。右のドアの横の壁には二脚の椅子が、左のドアの横の壁には一脚の椅子が置かれている。駐車場と通路の間には、木が植えられており、画面の上三分の一程度をその木の葉がおおっている。
(5)ピートを張り込んでいる二人の刑事のアップ。二人が乗った自動車の、運転席のサイド・ウィンドウ越しに斜め右から刑事たちを捉えたショット。運転席にすわったハンクは、うんざりしたようにシートにもたれている。画面奥にはルーが助手席に座っているのがアウト・フォーカス気味に見える。
ルー: What a fucking job!
ハンク:(ホテルのほうを見詰めたまま)His or ours, Lou?
ルー:(ちらりとハンクの方を見て、また視線を正面に戻し)Ours, Hank.

再び、「監視/追及」のイメージである「二人の刑事」が想起される。具体的映像から認められるように、(1:20:55)で発生していた彼らとピートたちの間の「高低差」は消滅してしまい、再び同等の「高さ」にまで戻ってしまっていることがわかる。ピート=フレッドが感じていた「高揚感」や「全能感」が色褪せてしまった現在、「刑事たち」はもはや「見下ろされる対象」ではない。

問題となるのは、カット(5)におけるルーとハンクの「遣り取り」が表象するものである。繰り返し述べてきたように、この「刑事たち」は”フレッドの「代弁者/代行者」”として機能している。カット(5)で彼らが「代弁/代行」しているものをストレートに捉えるなら、フレッドの「内面」において発生している「優越感」……「現実」に関連している「監視/追及の施行者」に対する「優越感」の表れということになるはずだ。より詳細に述べるなら、「シーラとの性交」のイメージによって、”フレッドは「自我」に負った傷を回復させ、再び「全能感」を取り戻したことに表れとして、(刑事たちにとっては)自虐的な「言動」がルーとハンクによってとられるということである。「アリス=レネエの代替イメージ」が取り上げられたとしても自分には別の「代替イメージ」があり、ピート=フレッドを「監視/追及」しようとしても「無益」であって、そのような「作業」は「糞みたいな仕事」である……「刑事たち」の言動に仮託しされたフレッドの「意識」を言い表すとすれば、そういうことになるだろう。

だが、どうやらことはそれほど単純ではなさそうだ。なぜなら、この直後のシークエンスが提示する映像を観る限りでは、ピート=フレッドが「シーラとの性交」のイメージによって満足を得ていないように理解されるからだ。それはつまり、フレッドの「自我」が負った傷はまったく癒されておらず、「全能感」も回復されていないことと同義である。であるならば、この「刑事たち」の言動はフレッドの何を「代弁」しているのか。

ホテルの客室 内部 夜 (1:23:57)
(6)ピートのアップ。ピートをベッドの右斜め下から見上げるショット。眉をしかめ、口を半ば開けている。
シーラ:(画面外で)Pete!
ベッドの端(あるいは枕)を左手で握りしめ、なおも激しく体を動かすピート。
シーラ:(画面外で)Pete!
(7)ミドル・ショット。ベッドの上で体を揺らしているピートとシーラのバスト・ショット。ベッドの足元のほうから、ピートの背中越しに見下ろすショット。ピートの裸の背中が見えている。ベッドの左上からずり落ちそうになっている二人。枕に横たえられたシーラの頭が、ピートの右肩越しに見えている。シーラの右手はピートの背中に、左手は彼の脇の下から肩に掛けられている。なおも激しく体を揺らしてシーラを突くピート。それにあわせて上がるシーラのあえぎ声。シーラは一層強くピートを抱きしめる。
(8)ピートのアップ。シーラの上のピートを、ベッドの右斜め下から見上げるショット。シーラを突きながら、目をつぶり、眉をしかめてあえぐピート。画面左には、シーラの頭部が見えている。ピートの首に回されたシーラの右腕。やがて動きを止めつつ、目を開くピート。
(フェイド・アウト)

注目すべきは、カット(6)カット(8)だろう。この両ショットの構図は、(0:15:29)において提示された、「レネエと性交するフレッド」をとらえたショットとまったく同一だ。具体的映像を比較すれば明瞭なように、差異があるとすれば「フレッドとピートが入れ替わっているだけ」だといっていい。さて、ではこの「映像的同一性」は何を示唆しているのか。

まず指摘できるのは、「フレッドとピートの同一性」である。つまり、「フレッドとピートが入れ替わっているだけ」の映像は、この二人がいわば「置換可能」であり「等価」であることの示唆として了解されるということだ。要するに、ピートはフレッドが「遁走先」として構築し自分自身を仮託している「イメージ」であり、その「本質」において両者はイコールであることの表れである。このような「示唆」をいくつか経たうえで、最終的に(1:56:41)からのシークエンスにおいて”この二人の「等価性」”は明示されることになる。

次に指摘できるのは、このような”(構図を含めた)映像の「同一性」”は、”フレッドの「内面」においてその時点で発生している「感情や意識」の「同一性」”をも表しているということである。この作品が提示する映像がすべてフレッドの「内面」で発生している事象を描いており、かつそれらの「事象」には彼の「感情」や「意識」が反映されていることについては繰り返し述べているとおりである。逆にいえば、もしある時点のフレッドがある「感情や意識」を抱き、また別の時点のフレッドがそれと「同一」の「感情や意識」を抱いたとしたら、それぞれの時点の「事象」を描いた二つの映像の間になんらかの「同一性」が存在していても、なんら不思議はないことになる。現在比較の対象としているショット群はその典型例であり、これらのショットが備える「映像の同一性」の根底にあるのは、それぞれが描いている「フレッドの感情/意識の同一性」であるわけだ。

早い話が、これもリンチが自作において頻繁に採用する「リフレイン/ヴァリエーション」の一例であるといえる。たとえば、「インランド・エンパイア」で繰り返された「Where am I?」や「I'm afraid」といったキー・ワードの「言及」は、それを発する”女性たちの「内的同一性」”を表していた。同様に、「ロスト・ハイウェイ」において反復される「同一の映像」は、ときとして”フレッドの「内的同一性」(あるいはその「ヴァリエーション」)”を表象するのである。

そして、フレッドが抱いている「同一の感情/意識」がどのようなものかを端的に示唆しているのが、共通して採用されている「構図」自体である。ベッドの左下、床に近い位置からフレッド(あるいはピート)を捉える「視点」は、しかしその相手であるレネエ(あるいはシーラ)を写さない。この「レネエ(あるいはシーラ)の映像的欠落」は、あたかもフレッド(あるいはピート)は、そこには存在しない「非在の女性」と交わっているかのようだ。だが、考えてみれば、それらの映像によって表象されているのが「フレッドによって捏造された記憶あるいは現実」であり、彼にとって都合のよい「幻想」である限りにおいて、それらの「女性たち」の「非在性」は最初から保証されているといえる。あからさまな言い方をするならば、映像として現れている「性交の相手」が「前半部のレネエ」であろうと「後半部のシーラあるいはアリス」であろうと、彼は自らが構築した「幻想=(現実の)レネエの代替イメージ」と交わっているだけなのだ。極論すればそれは「自慰行為」でしかなく、こうした「一方的な関係」からフレッドが本質的な「満足」を引き出すことは困難である。「代替イメージ」はどこまでいっても「代替イメージ」であり、「レネエそのもの」ではないのだから。

なおかつ、シーラが(1:10:08)において「代弁」したように(「Why don't you like me?」)、ピート=フレッドは当初から「レネエの代替イメージ」としての「シーラ」に満足していなかったわけだが、これもまた当然の帰結である。フレッドが意図的に”現実の自分自身とまったく重ならない「イメージの集合体=人格」”として「ピート」を構築したのと同じく、「シーラ」も”レネエと重ならない「イメージの集合体」”として形成されていたはずなのだから。これは彼の「幻想」が抱える最大の、そして致命的な欠陥である。「現実の侵入」を怖れて「現実との関係性」を排除すればするほど、あるいはフレッドにとって「都合のよいもの」になればなるほど、その「幻想」に彼は「満足」できなくなるのだ。結果として、ピート=フレッドは「レネエの代替イメージ」としてより優秀な「アリスのイメージ」を発生させ、より大きな「満足」を味わってしまった。いったんそうなった以上、もはや「シーラ」によってピート=フレッドが「満足」を獲得できる可能性は皆無に等しい*。たとえどんなに激しくシーラを抱こうとも(カット(3))、彼がそれによって「自我」を回復し「全能感」を取り戻すことなど、もはやあり得ないのだ。

といった具合に現在のシークエンスにおける”フレッドの「感情」や「意識」”を了解したとき、カット(5)における「刑事たち」の「遣り取り」が基本として「代弁」しているものが、非常に端的な「フレッドによる自己言及」に他ならないことがみえてくる。ルーのいう「fucking job」を、”字義的に”ピート=フレッドが現在「行為」として行っているなどということはさておき、ハンクが投げかける「あいつのか、それとも俺たちのか?(His or ours, Lou?)」という「問い掛け」を「論理的命題」として捉えたとき、それは実はただ一つの「解」しかもたない。その「解」とは「フレッド」であり、自分が「クソみたいな仕事」を……「決して満足が得られることのない無益な行為」を行っていると「感じている」のは「ピート」でも「刑事たち」でもなく、「フレッド」自身なのだ。そこに「彼我」の概念を持ち込むことは無意味であり、もはやハンクの「問い掛け」自体が「トートロジー(「同義循環」)」に類したものだといえるだろう。

このようにピート=フレッドは「自我」を修復するに至らず、「全能感」も回復されずに終わる。シーラを対象にした「遁走内遁走」は失敗したのだ。フレッドに残されたのは、「欲求不満」と「何かがおかしくなりかけている」という感覚である。そして、これ以降、彼のそうした「予感」のとおりに(あるいはそうしたフレッドの「感情/意識」を反映して)、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」は失調の度合いを強めていくことになる……いったん狂い始めた歯車が、回転を続けるにつれてますますその歪み具合を進め、最後には自壊してしまうように。

*カット(4)の映像は(1:18:56)のショットとまったく「同一の構図」であり、両ショット間の映像的差異は、ホテルの駐車場に停められているのが「自動車」であるか「バイク」であるかだけである。この「映像の同一性」が指し示すものがフレッドの「内面」で発生している「意識の同一性」……つまり、両ショットの直後で共通して明示される”「刑事たち=監視/追及のイメージ」の想起”であることはいうまでもない。だが、より本質的な「差異」として重要視しなくてはならないのは、「同一のホテル」の内部において、ピート=フレッドが性交している相手が片方は「アリス」であり、もう片方が「シーラ」であることだ。「同一のホテル」において「違った相手」と「同一の行為」をピート=フレッドが行っているという図式は、おのずと「レネエの代替イメージ」としての「アリス」と「シーラ」の比較という図式に結びつくことになる。

2009年5月12日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (45)

んでは、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:22:16)から(1:23:21)まで。

前回発生した事象を受けて、ピート=フレッドの「内面」は大きく揺れ動く。直前まで彼が感じていた「高揚感」は消し飛び、「全能感」は傷つけられている。「アリス=レネエの代替イメージ」が「現実=ミスター・エディ」の支配下にあることに対する「欲求不満」や「焦燥感」が彼を苛む。と同時に、一度は手に入れた「アリス」を喪失するかもしれないという「不安」や、なによりもそれに対する「希求」は募る一方だ。このシークエンスは、フレッドの「内面」に発生しているそうしたさまざまな「感情」を、「多重露光」など使った非常に典型的な(まはや「古典的」といってよいかもしれない)「表現主義的手法」でもって描く。

デイトン家 内部 夜 (1:22:16)
(ディゾルヴ)
(1)ミドル・ショット。ピートの部屋の内部。薄暗い部屋の中で、ポツンと所在なげにベッドの上に座っているピート。彼は画面の左下のほうにおり、上半身しかフレームに入っていない。彼の背後には白い壁がぼんやりと見えている。壁の右には廊下の闇があり、その上のほうには小さな灯りが円周状に並んだ照明の光が見えるが、それは周囲を照らすほど強くない。
(2)ピートの部屋の内部。ベッドのあたりの壁。右から左へパン。薄暗い白い壁をバックに、ベッドの頭のほう、左脇に置かれた金属の傘が二つついた電気スタンド(両方の電球が点灯されている)、物置への入り口の闇、スタンド式のハンガーに掛けられた衣服、低いテーブルとその上に置かれた諸々の順に視界に入り、パンのスピードが上がる。途中で映し出された闇のなかにオーヴァー・ラップで浮かび上がる、アウト・フォーカスのアリスの頭部。猛烈なスピードでパンは続く。アウト・フォーカスで写される部屋の内部。ときどき青白い光で照らし出されるアリスの顔。徐々にアリスの顔がイン・フォーカスになり、最後はくっきりと浮かび上がる。

表層的に受け取るなら、先に触れた「表現主義的な映像」によって提示されているのは「ピートの感情/意識」である。だが、彼が「フレッドの代弁者/代行者」として機能している以上、「ピートの感情/意識」を介して最終的に描かれているのが「フレッドの感情/意識」であることには留意しておきたい。

まずこのシークエンスは、自室に一人いるピートの映像で始まる(カット(1))。画面を支配しているのは「暗く茫漠とした壁」であり、彼が感じている(つまりフレッドが感じている)「漠たる不安」と「行き詰った欲望」を示唆している。それとは対照的に「全能感」を傷つけられ「高揚感」を喪失した彼自身は、画面の左下に小さく押し込められて「矮小化」されてしまっている。このショットの陰鬱なメゼンソンは、そのままピート=フレッドの「内面」の表象だといえるだろう。付け加えるなら、このショットは、(0:44:51)の「監獄の中庭にいるフレッド」のショットと対をなしている。そこではフレッドが同じく監獄の壁を背にして画面右に押し込められているといったように構図的にみても「左右対称」をなしているわけだが、そこでフレッドが感じていた「感情」は、現在ピート=フレッドが抱えている「不安」や「喪失感」とまったく同じものであるといっていい。なぜなら「レネエ」とその代替イメージである「アリス」が等価である以上、フレッドにとって「アリス」を喪失することは「レネエ」を再び喪失することと同義なのだから。

続くカット(2)は、あるいはピート=フレッドの「主観ショット」として捉えてよいかもしれない。「主観ショット」として物理的にはあり得ない「視点の移動」をこのショットは行うが、表現主義的な観点に立つならばこの次第に回転を早める「視点」こそが、ピート=フレッドの「内面」で高まりつつある「理不尽な焦燥感」や「やり場のない怒り」、あるいはますます募る一方の「アリス=レネエの代替イメージ」への「希求」を指し示すものだといえる。なによりも、酩酊感を与えつつ回転する「部屋の内部」の映像に重なって提示されるのは、次第に明確になっていく「アリスのイメージ」……すなわち、ピート=フレッドの「希求の対象」に他ならないのである。

(1:22:29)
(3)ピートのアップ。チェックのシャツを着て、険しい顔をして座っているピートを正面からとらえたショット。ゆっくりと彼にクロース・アップ。画面左上のほうをゆっくりを見上げるピート。
(4)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。木の天板の机と、その上に置かれた双頭の電気スタンドやペン立て。揺れながら、イン・フォーカスからアウト・フォーカスへ。
(5)壁を上方に向かって伝う蟻の足のクロース・アップ。それを追って下から上へパン。
(6)ピートのアップ。画面左上方を見つめている。
(7)壁を上方に向かって伝う蟻の全身。それを追って下から上へパン。
[ガサガサという蟻の足が壁に触れる音が増幅されて聞こえる]
(8)ピートのアップ。画面左上方を見つめている。ゆっくりと、今度は画面の右上のほうに視線を移すピート。
(9)天井につけられた照明器具のアップ。ピートの主観ショット。天井のざらざらした表面。黒点があしらわれた白い円形のカバー。その中心には青白い透明部分があり、金属の輪がはまっている。照明器具のカバーの内部で羽根をばたつかせている蛾のシルエット。揺れながらイン・フォーカスからアウト・フォーカスへ。アウト・フォーカスのまま、一段ジャンプしてアップに。
[蛾の羽根がカバーとこすれる音]
[蛍光灯のうなる音]
(10)ピートのアップ。画面右上を見つめている。
(11)天井の照明器具のカバーの内部。電球の下部のクロース・アップ。それに繰り返しぶつかる二匹の蛾。カバーの内部にはさまざまな塵芥や虫の死体が転がっている。
[蛾の羽根が電球にぶつかる乾いた音]
(12)ピートのアップ。画面右上を見上げているピートを、彼の上方やや右から見下ろすショット。ベッドからゆっくりと立ち上がる。それに連れて、揺れながらイン・フォーカスからアウト・フォーカスへ。
(13)天井につけられた照明器具のアップ。ピートの主観ショット。カバーの内部で電球にぶつかっている蛾のシルエット。揺れながらイン・フォーカスからアウト・フォーカスへ。またイン・フォーカスへ。

カット(4)(9)(12)(13)において、「揺れ動きつつ、焦点を失う映像」というモチーフが提示される。この後、たとえば(1:27:53)や(1:37:08)などにおいて、このモチーフは繰り返し提示されることになるが、これが基本的に表象するのは、「現実の侵入」を受けて文字どおり”揺さぶられる”「ピートを核にした幻想/捏造された現実」である。言葉をかえるなら、フレッドが「現実」であると思い込んでいるもの(あるいは思い込みたがっているもの)が、実は「自分が構築/捏造した幻想」に過ぎないことを彼がおぼろげにでも想起したとき、「世界」は確固とした基盤を失い「揺れ動く幻影」と化すのである。同時に、後により明確にされる「不調」……「死刑囚房」に収監されたフレッドが訴えたのと同じ「頭痛」を、このシークエンスのピートが覚えているのも間違いない。

続くカット(5)からカット(13)にかけて、「虫」のモチーフが登場する。

ごくストレートに捉えるなら、カット(9)(11)(13)に現れる「照明器具の内部に囚われた蛾」が表象しているものが、「現在のピート=フレッドそのもの」であることはいうまでもない。「現実=ミスター・エディ」の存在と彼の「直截な力」を知りつつも「アリス=レネエの代替イメージ」に惹かれそれを希求するフレッドと、「光に誘われ逃げられなくなった蛾」との対置である。もしくは、これまでの作品構造を踏まえるなら、この「蛾」もまた、フレッドの「意識」や「感情」の「代弁者/代行者」として機能しているといえるかもしれない。

だが、子細に映像をみれば、こうした理解だけではこのシークエンスに登場する「虫」のモチーフのすべてをカバーできないことに気づく。なぜなら、カット(5)およびカット(7)に現れる「壁を這う蟻」は「蛾」のような囚われた状況におかれておらず、上述したような「フレッドとの対比」からは外れているからだ。このシークエンスに現れている「虫」のモチーフは、「フレッドの現状」といった端的な「象徴」を含みつつも、そこからはみ出した部分をも内包しているのである。

Antinhouse こうした「虫」のモチーフを理解する取っ掛かりになると思われるのが、「Beautiful Dark」におけるGreg Olson氏の指摘である。氏は、映像化されなかったリンチのシナリオ「Gardenback」に関する項で、そこに登場する「虫」のモチーフについて触れている。詳細は当該紹介記事を読んでいただくとして、重要なポイントと思われるのは「Gardenback」に登場する「虫」が、最終的には「家」のモチーフと関連付けられていることだ。そして、この”「虫」と「家」”という観点からリンチの諸作品をみたとき、両者の「関係性」がしばしば、いろんな形で表れていることに気づくはずだ。たとえばアニメ作品「DumbLand」の「Ants」と題されたエピソードにおいては、「蟻」たちは主人公の男の「家の内部」を闊歩し、歌い踊り、トラブルをもたらす。「ブルーベルベット」では、「虫」たちは「家」の裏庭に敷かれた芝生の下の暗闇で、蠢き繁殖しているさまが描かれている(0:03:20)。映像作品だけでなく、「ant in house」や「Ants in My House」などといった(テーマもタイトルもズバリそのものの)絵画作品が複数存在していることも、こうした”「虫」と「家」の関係性”がリンチ固有の共通テーマのひとつであることの裏付けとみてよいだろう。

このような諸例を踏まえたうえで、リンチ作品における「家」のモチーフが「人間の内面」を指し示していること、「家」が「何かよくないことが起きる可能性のある場所」であることを考え合わせたとき、「虫」という共通モチーフが示すものが何となくみえてくる……それは、目には見えない物陰で人知れず生まれ、「人間の内面=家」にどこからともなく姿を現しトラブルを引き起こす、ときとしてネガティヴな「想念や衝動」そのものなのだ。

「ロスト・ハイウェイ」においてもこのパターンは変わらない。このシークエンスに現れる「虫たち」も「家」の内部に……ピート=フレッドの「内面」に存在している。そしてこの「虫たち」は、彼の「内面」で蠢き這い回る「ネガティヴな感情」を……すなわち、「アリス=レネエ」を喪失することへの「不安」や「怒り」や「焦燥感」といった「感情」を、ひいては彼女に対する「希求」という抜きがたい「衝動」を表象しているのである。

(1:22:59)
(14)ミドル・ショット。ベッドから立ち上がって画面の右上のほうを見ているピート。口を半ば開け、せっぱ詰まった表情を浮かべている。画面左手を急いだ動作で振り返り、下方に手を伸ばして画面外の革ジャンをとるピート。それにあわせて小さく左へパン。手にした革ジャンをあせったように羽織るピート。それにあわせて細かく右へパン。ちらりと右上方を見たあと、一度左を見てから正面を向き、革ジャンの前を閉じながら部屋の出口に向かうピート。それにあわせて左へパン。廊下の闇を進むピートにあわせて、なおも左へパン。廊下は右へ折れており、その先にはリビング・ルームの光景がアウト・フォーカスで見えている。リビング・ルームに向かって廊下を歩くピートの背中のシルエット。彼が廊下を進むに連れて前進する視点。リビング・ルームの入り口あたりで立ち止まり、右のほうを見るピート。一度正面からやや左を見たあと、また右のほうを見て、最初は後ろ向きに、途中で向き直って左手のほうに去るピート。イン・フォーカスで残されるリビング・ルームの内部。

さまざまな「感情」や「衝動」が押し寄せるとともに、頭痛に耐えられなくなったピートは自分の部屋を、そして「家」を追い立てられるように飛び出す。ピート=フレッドは傷ついた「全能感」を癒し、どうしようもなく高まる「アリス=レネエ」に対する「希求」を「処理」しなくてはならない。そうした彼の「意識」を反映して、「ロスト・ハイウェイ」は次なる「イメージの連鎖」を引き起こす。

2009年5月10日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (44)

えー、それでは「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:21:13)から(1:22:16)まで。

大きな流れで捉えたとき、これ以降のシークエンスで提示されるのは、フレッドの「ピートを核にした幻想/捏造された現実」が崩壊に向かう過程である。

そもそも直前のシークエンスで頂点を迎えたフレッドの「全能感」自体が「幻想」であり「欺瞞」であることは、改めて指摘するまでもないだろう。「現実」から乖離している以上、客観的にみれば彼の「幻想」は基本的に脆弱なものでしかない。彼の「幻想/捏造された現実」は、自身の「真の心の声=現実認識」を「ミステリー・マン」という形で第三者化し、遠く離れた辺境にある「砂漠の小屋」に押し込めるという手順を踏むことで(0:48:17)、かろうじて成立しているのだ。その脆弱性は「前半部」における「幻想/捏造された記憶」と同等であり、「後半部」における「ピートを核にした幻想/捏造された現実」も常に崩壊の危機にさらされていることに変わりはないのだ。

デイトン家 外部 夜 (1:21:13)
(1)ロング・ショット。ビートの家の外観。家の前の道路の中ほどからのショット。家の前の道路にはデイトン家の白いライトバンが停められており、画面左にその後部が見えている。ライトバンの車体で半ば隠されているデイトン家のガレージの入り口。デイトン家のガレージの側壁には街灯が二つ灯され、黄色い光を投げかけている。玄関にも白い光の街灯が灯され、玄関のドアを照らしている。真っ黒な夜空。突然、画面左から強烈な青白い光がまたたく。その光に照らされてくっきりと浮かび上がるデイトン家の建物。停められたライトバンの影が道路に、あるいは歩道の街路樹の影が前庭の芝生に落とされる。光が消え、また夜の闇に沈むデイトン家。

「幻想/捏造された現実」の「崩壊」は、まずリンチ作品の共通モチーフである「家」の提示から始まる。「前半部」におけるフレッドの「家」が彼の「内面」を指し示すものとして現れたのと同様、「後半部」におけるピートの「家」は彼の、そして最終的にはやはりフレッドの「内面」を指し示すものとして提示されていることが、この後のシークエンスにおいても明瞭にされる。

たとえば(0:53:47)に登場するデイトン家の家屋が陽光のもと「安穏」なイメージを付随させていたのとは対照的に、このショットにおけるデイトン家は夜の闇のなかに、その中で発生している事象を覆い隠すように現れる。このカット(1)がこの後に続くシークエンスの発生現場を説明するためのエスタブリッシュメント・ショットとして機能していることはいうまでもないが、同時にこれがフレッドの「内面」で発生している事象であることを、青白くはためく突然の「光」が表象する。以前にも述べたように、あるいは「イレイザーヘッド」における「メアリーX宅の居間で明滅する電球」や「マルホランド・ドライブ」における「明滅する牧場の電球」などにも現れているように、この「青白くはためく光」などを例とする「電気」に関連するモチーフは、しばしば登場人物の「大きな感情の動き」を指し示すものとして現れる。このショットにおいても、フレッドの「大きな感情の動き」を指し示すものとして「青白くはためく光」は現れ、それはこの後に続くシークエンスで提示される事象が彼にとってネガティヴなものであることを予見させる。

デイトン家 内部 夜 (1:21:23)
(2)壁に掛けられた黒い電話機のアップ。電話機は画面の右を占め、左にはアウト・フォーカスで白いTシャツを着たピートの母親の背中が見える。電話のベルが鳴り、左肩越しに電話機のほうを振り返る母親。電話に出ようと、彼女は電話機のほうに急いで歩み寄る。受話器をとろうと左手を伸ばす母親。
ピート:(画面外から)I'll got it.
画面右端からピートの左手が伸び、受話器をかっさらうように取る。取られた受話器を追って画面は右上へパンし、正面からのピートのアップになる。キッチンの入り口の壁にもたれたピート。左耳にあてた受話器を左肩で支え、口には煙草をくわえている。
ピート: Hello?
口の煙草に左手を伸ばすピート。
(3)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。その中でも唇の周辺と白いマニキュアの指の一部がスリット状の光で浮かび上がっており、周囲は闇に沈んでいる。
アリス:(ささやき声で)Meow, meow! It's me.
(4)ピートのアップ。キッチンの入り口の壁にもたれ、左肩で受話器を支えたまま、にやりと笑う。
ピート: Hey, baby...
(5)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I can't see you tonight.
(6)ピートのアップ。笑いが消えている。
ピート: OK.
(7)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I have to go somewhere with Mr Eddy.
(8)ピートのアップ。
ピート:(左手に持った煙草をくわえながら)Sure.
左手に持ったままの煙草を一服し、また口から離すピート。
(9)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I think he suspects something. We have to be careful.
(10)ピートのアップ。黙ったまま、左肩で支えた受話器に耳を傾けている。
アリス:(受話器から)I miss you.
黙ったままのピート。
アリス:(受話器から)Pete?
ピート: Me, too.
左手に持った煙草を口元に運ぶピート。
(11)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I'll call you again.
画面外で、受話器を右耳からはずし、電話を切るアリス。
[受話器を電話機に置く音]
(ディゾルヴ)

カット(5)あるいはカット(7)におけるアリスの言及が明らかにするように、このシークエンスで発生している事象が指し示しているのは、「アリス=レネエの代替イメージ」がいまだに「ミスター・エディ」の支配下にあること、つまり「現実のイメージ」に関連づけられたままであることだ。同時に、カット(8)におけるアリスの言及によって、ミスター・エディが「ピートとアリスの関係」を察知しはじめていることが示唆される。

当然ながら、これらの事象もまた、フレッドの「意識」あるいは「感情」の反映として捉えられるべきものであることはいうまでもない。直前のシークエンスにおいては、ピート=フレッドは「アリス」を自分の支配下におくことに成功したと認識しており、彼が抱いていた「全能感」はそれに裏づけられたものだった。より正確にいうなら、フレッドにとって「アリスを支配下におくこと」は、彼が「レネエを再獲得すること」と同義である。つまり、「レネエ」と等価である「アリス」を手に入れることによって、フレッドは(間接的に)「レネエ」を手に入れるわけだ。ただし、逆にいえば、というよりそれゆえに、この「アリスのイメージ」は「現実のイメージ」と関連づけられるを得ない。なぜなら、「アリスのイメージ」はそもそも「現実のレネエ」をもとに構築された、いわば「修正物(モデファイ)」であるからだ。その意味で、「アリスのイメージ」は、本質的に「前半部」の「幻想/捏造された記憶」に登場した「幻想のレネエ」同質のものであるといってよく、である以上、彼女が「現実」の支配を……「ミスター・エディ」の支配を逃れられるはずがないのはそもそも自明のことなのである。

カット(5)(7)における「アリスの言及」は、まさに上記のような事項……「現実による侵入/支配」に関するフレッドの「不安」を代弁しているといえる。「前半部」で提示された「幻想/捏造された記憶」において、「幻想のレネエ」は繰り返される「ビデオ・テープの配送=ありのままの記憶」の侵入を受けた結果、「現実のレネエ」のイメージによって侵食され「変質」してしまった。「後半部」における「アリス=レネエの代替イメージ」が同じような結末をたどる可能性は常に存在し、フレッドは心のどこかで「不安」を抱かざるを得ない(そして作品を観ればわかるように、最終的にこの「不安」はそのとおりのものとなる)。しかし、なによりも、フレッドが「ミステリー・マンの第三者化」という手順を踏まなければ「幻想」を構築できなかったこと自体に、彼が心のどこかで自分の「欺瞞」に気づいていることが表れているといえるだろう。どのように「幻想=自分に都合のよい非現実」を構築し客観的現実から目を背けようと、「現実のレネエ」がすでにフレッドに殺害され「非実在」である以上、彼が「彼女そのもの」を手に入れることなど最初からあり得ないのだから。

その意味で興味深いのは、カット(8)でのアリスの言及である。彼女がフレッドの「代弁者/代行者」であるかぎりにおいて、「ミスター・エディが何か怪しんでいる」という彼女の発言は、前述したようなフレッドが懸命に隠匿しようとしている「自らの現実に対する認識の存在」そのものを指し示している。つまり、「アリスの獲得」をつうじた「レネエの再獲得」が「欺瞞」であり「幻想」であることを「現実=ミスター・エディ」は認知しており、かつその「現実の認知=ミスター・エディの認知」=「客観的事実からみたとき、自分の幻想が非現実であること」をフレッドが認識しているという構造だ。こうした「間接性」は、このシークエンスのアリスとピートが(作中、たびたび登場する)「電話」によって……”「外界」と「内面」をつなぐ「間接的な方法」”によって接触していることとも符丁するといえる。だが、それよりも問題としなければならないのは、アリスの言及の「後半」……「私たちは気をつけなければならない」という発言が表象するものだ。

たとえそれが「幻想」あるいは「欺瞞」であろうと、一度「アリス=レネエの代替イメージ」を自分のものにしたと感じた以上、それをとりあげられるかもしれないという「不安」はより一層ピート=フレッドの「レネエ(あるいはその「代替イメージ」であるアリス)に対する希求の度合い」を強くする。彼は「アリス」が「レネエの代替イメージ」であることを理解し、それに手を出せば「現実=ミスター・エディ」の「直裁な力」による介入を呼び、その「処罰の対象」となる可能性を知りながらも、自分の「希求」をあきらめることができない。この彼の「葛藤」の結果が、アリスによる「私たちは気をつけなければならない」という発言に表れている。すなわち、”注意深く「ミスター・エディ」を欺き、彼の目を逃れることによって、「アリス」との関係を続けることができるのではないか”というフレッドの「都合のよい願望」が……言葉をかえるなら「現実から入念に目を背けることによって、幻想を自らの現実として維持し続けたい」という「欲望」が、このアリスの発言によって「代弁」されているのだ。何度か繰り返し述べたように、こうした「自らに対する欺瞞」こそが、フレッドが陥っている罠である。

特筆しておきたいのは、このシークエンスにおける「アリス」に関する映像である。彼女が映像として登場するショット(カット(3)(5)(7)(9)(11))は、すべて彼女の「口元のアップ」のみであり、他の部分は「影」で覆い隠されている。逆にいうと、彼女の「顔」は影によって分断されており、上述したようなもろもろの「言及」をもたらす「唇」だけがクロース・アップで提示されると一方、肝心の彼女の「表情」はまったく見えない状況になっている。はたして、彼女の「言及」の内容は(たとえば「会えなくて淋しい」という発言は)「真実」であり、彼女はその「内面」において発言どおりのことを「意図」しているのか? このような「光と影」による表現自体が、「ドイツ表現主義映画」から受け継がれ「フィルム・ノワール」の諸作品に(あるいは40~50年代のハリウッド映画に)かなりの頻度で採用されたものだ。そして、しばしば(実にしばしば)、「分断され一部が覆い隠された映像」は「分断された意味」を表象し、ひいては「外面と内面の不一致」を……すなわち、「発言が真実でない」ことを意味するのである。このシークエンスにおいては、我々=受容者には「外面と内面の合致もしくは乖離」を判断する材料は与えられず、我々はいわば「宙ぶらりんの疑念」と「獏たる不安」を抱かされることになる。「真実」は覆い隠されたままであり、明確な「結論」は与えられないのだ。そして、この我々が抱いた「疑念」や「不安」は、ピート=フレッドが現在抱いている「疑念」や「不安」とも重なるものだといえるだろう。

さて、直前のシークエンスで最高潮に達したフレッドの「全能感」は、このシークエンスの事象によって大きく傷つけられている。それは、カット(4)からカット(6)を経てカット(8)に至るショットにおける「ピートの表情の変遷」からも明らかだ。そして、このフレッドの「感情」を反映した「イメージの連鎖」が、これ以降のシークエンスにおいて発生することになる。

2009年5月 6日 (水)

「Stranger on The Third Floor」を観た

とわいえ、連休中は「芸者vs忍者」だけを観ていたわけでもなく(笑)、たとえばボリス・イングスター監督の「Stranger on The Third Floor」(1940)なんぞもやっとこ観たりしておりました。で、この作品をつうじて、いわゆるフィルム・ノワール作品とリンチ作品の親和性を改めて確認できたように思ったり思わなかったり。

この作品がフィルム・ノワールの先駆的作品とされたり、あるいはもっとも初期のフィルム・ノワール作品そのものとして扱われるのは、一般的定義ではこのジャンルの始まりとされる「マルタの鷹」(1941)の一年前に製作公開され、かつテーマ的にも映像的にもフィルム・ノワールの特徴とされるものに合致しているからであります。でも、逆にいうと、そもそものフィルム・ノワールの一般的定義自体が、実は第二次世界大戦後、解禁されたハリウッド映画を集中的に受容したフランス人批評家の発言に端を発する「言説」に過ぎないこと……要するにフィルム・ノワールという明確な「ジャンル」がハリウッドに存在したわけではなく、あくまで当時のハリウッド映画が内包していた傾向の一部を後付で曖昧に切り取っただけであること、「単一的な現象としてのフィルム・ノワールというものは存在しない(As a single phenomenon, noir, in my view, never existed)」(Steve Neale / Genre and Hollywood. London, Routledge, 2000)ことを、間接的に裏付ける作品であるとゆーことですね。

ざくっとした粗筋としては、新聞記者の主人公が連続殺人事件の遺体発見者となり被疑者として拘束されてしまうわけですが、彼が目撃した真犯人と思しき人物を主人公の恋人が捜し当てて、そしたらホントにその人物が真犯人でよかったよかった……ってな感じの、まあ、予定調和っちゃあ予定調和な話で、特に最後に主人公と恋人が結婚するところなんか、いわゆるハリウッド映画における「美徳の観念」の範疇にあるといえます。映画評なんかをみると、真犯人役を演じたピーター・ローレの演技が評価されている様子で、確かにこの作品においてもローレの神経症的な演技は光っています。ただ、この真犯人は「M」(1931)の幼児誘拐犯の人物像を踏襲しているといえ、その後の「マルタの鷹」におけるジョエル・カイロとも重なる部分があったりで、ある意味でローレの演技パターンのヴァリエーションのひとつとして理解してしまえる部分があるように感じます。

かようにローレが高評価される一方、主人公のマイケル・ウォード役のジョン・マクガイアの演技はあまり評価されていないようです(てか、ある評では、恋人役ジェインを演じるマーガレット・タリチェットともども「大根」とまで言われちゃってる始末です)。しかし、この作品をそのテーマの面からフィルム・ノワールとして捉えた場合、むしろ興味深いのはローレ演じる真犯人よりもこのマイケル君の人物像であるように思いました。

キーとなるのは、作中で時間的にもかなりのウェイトを占めるマイケル君の「内省」および「悪夢」の部分です。この時期のフィルム・ノワールのテーマ的特徴として「人間の内面における対立概念の衝突」ってのがあります。要するに、それまでのハリウッド映画では、たとえば「善と悪の対立」がわかりやすく「善玉の主人公」と「悪玉の敵役」に別れて提示され、最終的に善玉が悪玉を倒すことで「悪に対する善の勝利」が明瞭に描かれていたわけですが、フィルム・ノワールに分類される多くの作品では、たとえば同じ「善と悪の対立」にしても「ある人物(フツーは主人公)の内面で発生している葛藤」として描かれます。でもって、下手したら「ひょっとして、善が勝利した……のかな?」ってな曖昧な結末しか描かれなかったりする。てなことを踏まえたとき、この作品におけるマイケル君の「内省」および「悪夢」は、まさにこの「人間の内面における葛藤」の典型であるといえるっちゅーことです。

とゆーよーな観点から特筆すべきは、常日頃から仲が悪かった隣人の中年男が殺害されているのを発見したあと、マイケル君がみる「悪夢」のシークエンスです。これがモロに表現主義的な映像の連続で、思わず大受け(笑)。

ご覧のようにこの「悪夢」のシークエンスは、「光と影」や「二重露光」を駆使した演出はもとより、あんたは「最後の人」かというくらい「ぐもももー」と迫るビルディングとか、「MURDER」と全面に書かれた新聞とかという表現主義的な映像によって、「隣人の殺人容疑で逮捕されて、裁判やら処刑やら」というマイケル君の「不安」をみごと描くことに成功しております。というか、フィルム・ノワール作品の特徴としてしばしば「ドイツ表現主義映画からの影響」が挙げられますが、「Stranger on The Third Floor」のような例をみていると、それはあくまで前述したような「内面の葛藤」というモチーフあるいはテーマを具体的映像としてするために採用された「手法」に過ぎないんじゃないか……とすら思えてくるんですが、さて、どんなもんでしょー?

てなことはともかく、こうしたマイケル君の「内面」を描く映像から感じられるのは、彼が非常に現代的な「漠たる不安」を抱いている人物であることです。いつもは普通人として日常を平和裏に暮らしているくせに(いや、だからこそ)「隣人殺害の動機」を山ほど抱え込み、それによる「葛藤」に悩まされることになる。ナニを隠そう、マイケル君こそ、この作品のなかでもっとも(実存的な意味で)イカれている人物であるように大山崎には思えるわけですね。ローレ演じる真犯人が(その描写の妥当性はともかくとして)わかりやすく精神的均衡を崩している「だけ」の人物であり、それがゆえにこの作品において彼の「内面」が詳しく描かれることがないのとは、まったく対照的です。

とまあ、ここまで書けば後はいわずもがななんですが、このマイケル君の人物像は、そのまんまリンチの諸作品に登場する人物たちと重なり合うといえます。内面に「葛藤」や「漠たる不安」を抱え、それがゆえの「悪夢」や「幻想」に追い詰められるマイケル君は、たとえばヘンリーやフレッドやダイアンたちとどこがどう違うのか。あるいは、もっといえば、今ここでこうしている我々自身といったいどこがどう違うのか。かつ、彼/彼女たちの「悪夢」や「幻想」が、表現主義的な映像によって彼/彼女たちの「感情」を反映しつつ展開されるという構造においても、この作品は(あるいはフィルム・ノワールと呼ばれる作品の一部は)リンチの諸作品と明瞭な同一性/類似性を備えているといえます。リンチ作品とフィルム・ノワールとの親和性はよく指摘されるところですが、それは特定作品からの引用といった表層的な問題などではなく、実はこうした本質的な部分での同一性/類似性からくるはずです。

さて、もしマイケル君にヘンリーたちと違うところがあるとすれば、彼が「悪夢」から逃れることに成功し、前述したように恋人ジェインとの幸せな結婚に至ること「ぐらい」です。それは当時のハリウッド映画の「範例」にしたがった解決であり、それにしたがうならマイケル君が「無実」であるかぎりにおいて彼が「不幸」なまま終わることは許されません(それはつまり、「悪」が「幸福」なままでいることが許されないことの裏返しであるわけで、案の定、ローレ演じる真犯人のほうは悲劇的な結末を迎えます)。しかし、「なにかと妄想体質」のマイケル君のことでありますからして、その後、彼はきっとフレッドと同じよーな状況に陥ったであろうことを大山崎は信じてやみません……なんちって(笑)。

2009年5月 5日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (43)

さーて、ゴールデン・ウィークの真っ最中でございますが、皆様方にあらせられましてはいかがお過ごしでございましょーか。大山崎は例によって、買ったっきり溜まっているDVDやら本やらを消化するつもりでおったのですが、ついうっかりノテノテと「芸者vs忍者(Geisha Assasin)」(2008)なんてものを観て、「んじゃ、忍者は芸者じゃないわけ?」とか「主人公の父親は、いったいナニを弟子に教えてたのだろーか?」とか悩んでいるうちに連休が終わっちゃいそーな勢いなので、ちょっと困ってます(笑)。

それはそれとして、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:20:32)から(1:21:13)まで。

映像のつながりとしてみたとき、このシークエンスは、前回とりあげた「ホテル」でのシークエンスから継続する大きなシークエンスとして理解されるものである。そのことは、前回のシークエンスから今回のシークエンスがディゾルヴによってつながれることによって、あるいは同じBGMがずっと継続して流されていることによって明示されているといえる。

というようなことを踏まえたうえで、まず具体的な映像からみてみよう。

どこか 夕方 (1:20:32)
(1)ロング・ショット。暗い海辺の丘。下方から上方へパン。海を挟んだ半島。水平線に沈もうとしている夕日。茜色と灰色が混じった雲(S083と同一)。
(ディゾルヴ)

ホテル 外部 (1:20:37)
(2)(ディゾルヴ)
テラス状になったホテルの二階の通路から、階下を見ているアリスのバスト・ショット。アリスはノー・スリーブの黒いドレスを着て画面右端に立ち、通路の黒い金属の手すりに両手を乗せている。ピートの車の音を聞きつけて前方右に視線を上げ、伸び上がり気味に手すりから身を乗り出すアリス。それとともに左下方へパン。画面中央あたりには、ホテルの受付の灯りの点った窓が見える。受付の建物の前、画面の左のほうには駐車場へ続くと思われるホテルの道路があり、そこにヘッド・ライトを点けたピートの黒い車が入ってくる。道路の奥に向かって、画面左に進むピートの自動車。それを追って左へパン。
アリス:(画面外から)Hey!
(3)アリスのバスト・ショット。画面の右に、二階通路の手すりに両手をかけ、眼下のピートの自動車を見下ろしている彼女を見上げるショット。
アリス: Up here!
(4)ミドル・ショット。ホテル内の道を画面左に向かって進むピートの自動車を、上斜め右から捉えたショット。それを追って、左へパン。道路に設けられたバンプ(障害帯)を乗り越えてゆっくり進ながら右へ曲がろうとする自動車。
アリス:(画面外から)Come on up, baby.
(4)アリスのバスト・ショット。画面の右に、二階通路の手すりに両手をかけ、眼下のピートの自動車を見下ろしている彼女を見上げるショット。
アリス:  I already got the room.
(5)ミドル・ショット。ピートの自動車の左側面を、上方やや左からおさめるショット。左腕を開けられた運転席のサイド・ウィンドウにかけ、右手でハンドルを操作しながら、ほほ笑みを浮かべてアリスのほうを見上げているピート。
(6)アリスのバスト・ショット。画面の右に、二階通路の手すりに両手をかけ、眼下のピートの自動車を見下ろして、ほほ笑んでいる彼女を見上げるショット。
(7)ミドル・ショット。ピートの自動車の左側面を、上方やや左からおさめるショット。そのまま画面の左端から走り去るピートの自動車。

ホテルの敷地の外 外部 夜 (1:20:55)
(8)ロング・ショット。ホテルに向かって近づく刑事たちの車の後部座席から、刑事たちの肩越しにフロント・ガラスをとおして見た、ホテルの外観。やがて、刑事たちの自動車は停車する。二階建てのホテルの白い壁、その前にまばらに立っている木々。オープンになった一階と二階の通路。通路の黒い鉄の手すり。二階の左のほうの通路で待っているアリスと、彼女に向かって左から近い付いてくるピートの姿が小さく見えている。
(9)ミドル・ショット。刑事たちの主観ショット。ホテルの二階の通路で身を寄せ合い、口づけを交わしているピートとアリスの全身のショット。二人の右には開け放たれた客室のドアがある。やがて、アリスを先頭に、二人は開けられていたドアから客室の中に入る。後ろ手にドアを閉めるピート。客室の青いドアが音を立てて閉まる。
(フェイド・アウト)

再び(前回に比べて簡易な)映像による「闇の到来の宣言」とともに、前回とりあげたシークエンスで発生した事象が、形を変えてリフレインされる。「監視/追及」のイメージである「二人の刑事たち」が登場するところも含めて、このシークエンスが提示する「ピートとアリスの逢引」は前回のパターンの完全な踏襲であるといえるだろう。ピート=フレッドは「アリス=レネエの代替イメージ」を手に入れ、とりあえずの彼の「希求」は満たされたわけだが、当然ながら一度手に入れた「希求の対象」を彼が手放すわけがない。リフレインされる「ピートとアリスの関係」は、フレッドが「アリス=レネエの代替イメージ」に固執し、「内面」においてそのイメージを繰り返し想起していることを指し示している。

興味深いのは、アリスが”ホテルの「二階」”でピートの到着を待っていることである。カット(2)からカット(7)をとおしてみればわかるように、ピートはアリスを見上げ、かつ彼女に見下ろされている。ピート=フレッドにとって、彼女が「見上げる対象」であること……つまりは「希求の対象」であることがこの「高低差」によって示唆されているわけだが、その状況はこのシークエンスにおいて変化する。アリスはピートに「上がって」くるように呼びかけ(カット(4))、彼がそれに応えて「二階」に上がり、彼女に合流することで最終的にこの「高低差」は解消されるからだ(カット(8)(9))。この「高低差の解消」が、ピート=フレッドが「アリス=レネエの代替イメージ」を手に入れ、「希求の対象」と同じ「高み」に至ったことを表象しているのは明らかだ。

そして、かわって「低い位置」に取り残され、ピートとアリスを「見上げる」のは「監視/追及の施行者」である「二人の刑事たち」である(カット(8)(9))。(0:25:33)の「フレッドの家」における「監視」のイメージ、あるいは(0:43:40)の「死刑囚房」における「監視」のイメージをみればわかるように、「監視/追求の対象」であるフレッドは同時に「見下ろされる対象」でもあった。以前にも述べたように、これは「監視/追求」のイメージから彼が受けている「威圧感」や「被害意識」の表れであると捉えられる。しかし、この「高低の位置関係」は、(0:54:29)(0:59:47)(1:09:49)の三回にわたって提示された「監視する者」と「監視される者」が「同一平面上」に存在するという描写を経て、このシークエンスにおいてついに逆転する。かつて「見下ろされる対象」であったフレッドは、(角度こそまだマイルドだが)「見上げられる対象」あるいは「見下ろす者」へと遷移するのである。

かつ、上記三つのシークエンスで採用されていた「画面の奥から監視者の自動車が近づき、アップになる」という(フレッドが感じていた)「威圧感」を伝える表現は、(1:18:56)に現れる「監視/追及のイメージ」以降は姿を消してしまう。あるいは、現在論じているシークエンスでは、「監視/追求の施行者」であるはずの「二人の刑事たち」は、(1:18:56)のシークエンスでは存在したような「感想(The fucker get more pussy than a toilet seat!)」を述べる機会も与えられない(ということは、彼らはフレッドの「代弁者」として十全に機能していないわけだ)。それどころか、このシークエンスにあるのは「刑事たちの肩越しにホテルを見る車中からのショット」(カット(8))と「刑事たちの主観ショット」(カット(9))のみであり、「刑事たち自身」はもはや映像としてすら明瞭には提示されずに終わる。そして、最終的にピートによって閉ざされる扉によって刑事たちの「視線」は遮断され、彼らは「監視者」としての機能=アイデンティティをも喪失してしまうのだ。

こうした「監視/追及のイメージ」の「変遷」が物語るものは明らかだろう。フレッドが抱いている「全能感」は、「前半部」「後半部」を通じて抜きがたく彼につきまとっていた「監視/追及のイメージ」をも矮小化してしまう。その矮小化はエスカレートし、「監視/追及のイメージ」から感じていた「威圧感/圧迫感」を払拭してしまうばかりか、むしろ「優越感」すら抱くに至るのである。

2009年5月 2日 (土)

リンチのプロジェクト、いろいろ取り揃え

本日のdugpa.comネタ。

デイヴィッド・リンチの公式ページで、「インタヴュー・プロジェクト(Interview Project)」なるものの予告がされております。

思えば公式ページで何か立ち上がるのも久々な印象がありますですが、トレイラー映像でのリンチの説明を聞く限りでは、要するにアメリカのあちこちを回って(リンチの弁によれば「70日間で2万マイル」のロード・トリップちゅーことであります)いろんな人にインタヴューをするという、まあ、なんといいますか、タイトルのまんまな企画であるっぽいです。

実際の映像の配信は6月1日から始まるみたいでありますが、上記公式ページでアドレスを登録しておくと、配信スタートとともに連絡がもらえるみたい。というわけで、大山崎も早速ポチっと登録しておきました。

トレイラーには、おそらく実際の映像に登場するのであろう方々がチラリと映っておりますが、どこにでもいるフツーの方々であります。若干、「ジジイ率」が高そうな感じが「ジジババ使いがウマイ」と定評のあるリンチらしいっちゃ、リンチらしいかも。

つい先日もMobyの「Shot In The Back of The Head」のPVが公開され、加えて「Dark Night of the Soul」という音楽プロジェクトの映像を担当するという話も出たばっかりで(こちらは詳細待ち)、いろいろとリンチの活動が始まっている様子で楽しみ。

てなことで、乞うご期待ってことで。

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