フォト
2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 「ロスト・ハイウェイ」を観た (45) | トップページ | 「ロスト・ハイウェイ」を観た (47) »

2009年5月21日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (46)

「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:23:21)から(1:24:18)まで。

では、さくさくと具体的映像から。

街路 外部  夜 (1:23:21)
(1)ロング・ショット。夜の街。四車線の道路。画面右には、道路の右端に停められている自動車の正面。道路の両側に並ぶ街灯の灯り。遠くに見える建物の灯りと、店々の明るい看板やネオン・サイン。疾走してくるピートのバイクのヘッド・ライト。ピートのバイクを追いかけて左から右へパン。バイクに乗ったピートの右側面からのアップになる。
[バイクの爆音]
(2)走り去る道路を、左斜め後方に見たショット。アウト・フォーカスで画面の右から左へと移動し画面外に消えていく自動車の赤いテイル・ランプ、建物、街灯の支柱、街路樹、また別の白い建物。視点はそのまま疾走しているピートのバイクの正面に回り込み、やや左斜めからの彼の上半身のアップになる。まばゆいバイクのヘッド・ライト。アウト・フォーカスで過ぎて行く道路脇の建物。バイクの背後を走る自動車のヘッド・ライト。画面奥には、アウト・フォーカスで街の照明の遠景が見える。
(ディゾルヴ)

今回取り上げるシークエンス全体が表すものを踏まえたうえで、この二つのショットからなるシークエンスが提示しているものを敢えて名付けるなら、「遁走内遁走」あるいは「小規模な遁走」であるといえる。その「遁走手段」は、これまでのような「自動車」ではなく「バイク」であることも、あるいはこれが(”フレッドの「ピートを核にした幻想」への「遁走」”に比較して)「小規模な遁走」であることの示唆である。

ピートを核にした「幻想/捏造された現実」自体が、本来フレッドにとって都合のよい「遁走の対象」であることはいうまでもない。だが、それは、いまや変調をきたし始めている。その起因となったのが「アリス=レネエの代替イメージ」の発生、そしてそれに対するフレッドの強い「希求」そのものであることは、これまでも何度か述べたとおりだ。一度は自分のものになったと思っていた「アリス」が、実はいまだに「現実=ミスター・エディ」の支配下にあるという認識によって、一時は最高潮に達したピート=フレッドの「全能感」は色あせ、それにともなって彼の「自我」は大きく傷つけられている。結果としてフレッドは、「遁走」先であるはずの「幻想/捏造された現実」の内部においてさえ、なおかつ「遁走」する場所を捜さなければならないのだ。

ホテルの部屋 内部 夜 (1:23:38)
(ディゾルヴ)
(3)ベッドの天板にあしらわれた鳥の彫刻のアップ。ベッドの振動にあわせて揺れ、背後の壁にぶつかっている。上から下へパン。
シーラ:(画面外で)Pete!
下方にパンするにつれ、ベッドの上で性交しているピートとシーラの姿が視界に入ってくる。ベッドの足元の方向から、ピートの背中越しにやや見下ろすショット。二人はベッドの左上部からずり落ちそうになりながら、体を重ねている。ピートの背中と、大きく割広げられたシーラの足。ピートはシーラにのしかかるようにして、体を激しく揺すっている。ピートの背中に回されたシーラの両腕。

このシークエンスが明示するとおり、結局のところ、ピート=フレッドが”「遁走内遁走」の対象”として選んだのは「恋人(の幻想)」である「シーラ」である。このピート=フレッドの「行動」が、(1:08:29)における彼自身の行動のパターンを踏襲していることは明瞭だ。このときピート=フレッドは、「現実=ミスター・エディ」による「幻想への侵入」(1:00:39)によって傷つけられた「自我」を、「シーラ」のイメージを喚起することによって修復しようとした。今回もピート=フレッドはまったく同様の「イメージの連鎖」を発生させ、「都合のいい恋人」であるシーラのイメージを喚起して、「アリスの喪失」によって「傷ついた自我」を修復するための「手段」として使うのである。

ホテルの駐車場 外部 夜 (1:23:45)
(4)ミドル・ショット。ホテルの駐車場に停められたピートのバイクを、右側面やや後方からとらえたショット。駐車場のすぐ前は壁のないホテルの通路で、そこには部屋の赤いドアが二つ見えており、ドアの上には黄色い照明が光を投げかけている。ドアとドアの間には、部屋の窓がある。右のドアの横の壁には二脚の椅子が、左のドアの横の壁には一脚の椅子が置かれている。駐車場と通路の間には、木が植えられており、画面の上三分の一程度をその木の葉がおおっている。
(5)ピートを張り込んでいる二人の刑事のアップ。二人が乗った自動車の、運転席のサイド・ウィンドウ越しに斜め右から刑事たちを捉えたショット。運転席にすわったハンクは、うんざりしたようにシートにもたれている。画面奥にはルーが助手席に座っているのがアウト・フォーカス気味に見える。
ルー: What a fucking job!
ハンク:(ホテルのほうを見詰めたまま)His or ours, Lou?
ルー:(ちらりとハンクの方を見て、また視線を正面に戻し)Ours, Hank.

再び、「監視/追及」のイメージである「二人の刑事」が想起される。具体的映像から認められるように、(1:20:55)で発生していた彼らとピートたちの間の「高低差」は消滅してしまい、再び同等の「高さ」にまで戻ってしまっていることがわかる。ピート=フレッドが感じていた「高揚感」や「全能感」が色褪せてしまった現在、「刑事たち」はもはや「見下ろされる対象」ではない。

問題となるのは、カット(5)におけるルーとハンクの「遣り取り」が表象するものである。繰り返し述べてきたように、この「刑事たち」は”フレッドの「代弁者/代行者」”として機能している。カット(5)で彼らが「代弁/代行」しているものをストレートに捉えるなら、フレッドの「内面」において発生している「優越感」……「現実」に関連している「監視/追及の施行者」に対する「優越感」の表れということになるはずだ。より詳細に述べるなら、「シーラとの性交」のイメージによって、”フレッドは「自我」に負った傷を回復させ、再び「全能感」を取り戻したことに表れとして、(刑事たちにとっては)自虐的な「言動」がルーとハンクによってとられるということである。「アリス=レネエの代替イメージ」が取り上げられたとしても自分には別の「代替イメージ」があり、ピート=フレッドを「監視/追及」しようとしても「無益」であって、そのような「作業」は「糞みたいな仕事」である……「刑事たち」の言動に仮託しされたフレッドの「意識」を言い表すとすれば、そういうことになるだろう。

だが、どうやらことはそれほど単純ではなさそうだ。なぜなら、この直後のシークエンスが提示する映像を観る限りでは、ピート=フレッドが「シーラとの性交」のイメージによって満足を得ていないように理解されるからだ。それはつまり、フレッドの「自我」が負った傷はまったく癒されておらず、「全能感」も回復されていないことと同義である。であるならば、この「刑事たち」の言動はフレッドの何を「代弁」しているのか。

ホテルの客室 内部 夜 (1:23:57)
(6)ピートのアップ。ピートをベッドの右斜め下から見上げるショット。眉をしかめ、口を半ば開けている。
シーラ:(画面外で)Pete!
ベッドの端(あるいは枕)を左手で握りしめ、なおも激しく体を動かすピート。
シーラ:(画面外で)Pete!
(7)ミドル・ショット。ベッドの上で体を揺らしているピートとシーラのバスト・ショット。ベッドの足元のほうから、ピートの背中越しに見下ろすショット。ピートの裸の背中が見えている。ベッドの左上からずり落ちそうになっている二人。枕に横たえられたシーラの頭が、ピートの右肩越しに見えている。シーラの右手はピートの背中に、左手は彼の脇の下から肩に掛けられている。なおも激しく体を揺らしてシーラを突くピート。それにあわせて上がるシーラのあえぎ声。シーラは一層強くピートを抱きしめる。
(8)ピートのアップ。シーラの上のピートを、ベッドの右斜め下から見上げるショット。シーラを突きながら、目をつぶり、眉をしかめてあえぐピート。画面左には、シーラの頭部が見えている。ピートの首に回されたシーラの右腕。やがて動きを止めつつ、目を開くピート。
(フェイド・アウト)

注目すべきは、カット(6)カット(8)だろう。この両ショットの構図は、(0:15:29)において提示された、「レネエと性交するフレッド」をとらえたショットとまったく同一だ。具体的映像を比較すれば明瞭なように、差異があるとすれば「フレッドとピートが入れ替わっているだけ」だといっていい。さて、ではこの「映像的同一性」は何を示唆しているのか。

まず指摘できるのは、「フレッドとピートの同一性」である。つまり、「フレッドとピートが入れ替わっているだけ」の映像は、この二人がいわば「置換可能」であり「等価」であることの示唆として了解されるということだ。要するに、ピートはフレッドが「遁走先」として構築し自分自身を仮託している「イメージ」であり、その「本質」において両者はイコールであることの表れである。このような「示唆」をいくつか経たうえで、最終的に(1:56:41)からのシークエンスにおいて”この二人の「等価性」”は明示されることになる。

次に指摘できるのは、このような”(構図を含めた)映像の「同一性」”は、”フレッドの「内面」においてその時点で発生している「感情や意識」の「同一性」”をも表しているということである。この作品が提示する映像がすべてフレッドの「内面」で発生している事象を描いており、かつそれらの「事象」には彼の「感情」や「意識」が反映されていることについては繰り返し述べているとおりである。逆にいえば、もしある時点のフレッドがある「感情や意識」を抱き、また別の時点のフレッドがそれと「同一」の「感情や意識」を抱いたとしたら、それぞれの時点の「事象」を描いた二つの映像の間になんらかの「同一性」が存在していても、なんら不思議はないことになる。現在比較の対象としているショット群はその典型例であり、これらのショットが備える「映像の同一性」の根底にあるのは、それぞれが描いている「フレッドの感情/意識の同一性」であるわけだ。

早い話が、これもリンチが自作において頻繁に採用する「リフレイン/ヴァリエーション」の一例であるといえる。たとえば、「インランド・エンパイア」で繰り返された「Where am I?」や「I'm afraid」といったキー・ワードの「言及」は、それを発する”女性たちの「内的同一性」”を表していた。同様に、「ロスト・ハイウェイ」において反復される「同一の映像」は、ときとして”フレッドの「内的同一性」(あるいはその「ヴァリエーション」)”を表象するのである。

そして、フレッドが抱いている「同一の感情/意識」がどのようなものかを端的に示唆しているのが、共通して採用されている「構図」自体である。ベッドの左下、床に近い位置からフレッド(あるいはピート)を捉える「視点」は、しかしその相手であるレネエ(あるいはシーラ)を写さない。この「レネエ(あるいはシーラ)の映像的欠落」は、あたかもフレッド(あるいはピート)は、そこには存在しない「非在の女性」と交わっているかのようだ。だが、考えてみれば、それらの映像によって表象されているのが「フレッドによって捏造された記憶あるいは現実」であり、彼にとって都合のよい「幻想」である限りにおいて、それらの「女性たち」の「非在性」は最初から保証されているといえる。あからさまな言い方をするならば、映像として現れている「性交の相手」が「前半部のレネエ」であろうと「後半部のシーラあるいはアリス」であろうと、彼は自らが構築した「幻想=(現実の)レネエの代替イメージ」と交わっているだけなのだ。極論すればそれは「自慰行為」でしかなく、こうした「一方的な関係」からフレッドが本質的な「満足」を引き出すことは困難である。「代替イメージ」はどこまでいっても「代替イメージ」であり、「レネエそのもの」ではないのだから。

なおかつ、シーラが(1:10:08)において「代弁」したように(「Why don't you like me?」)、ピート=フレッドは当初から「レネエの代替イメージ」としての「シーラ」に満足していなかったわけだが、これもまた当然の帰結である。フレッドが意図的に”現実の自分自身とまったく重ならない「イメージの集合体=人格」”として「ピート」を構築したのと同じく、「シーラ」も”レネエと重ならない「イメージの集合体」”として形成されていたはずなのだから。これは彼の「幻想」が抱える最大の、そして致命的な欠陥である。「現実の侵入」を怖れて「現実との関係性」を排除すればするほど、あるいはフレッドにとって「都合のよいもの」になればなるほど、その「幻想」に彼は「満足」できなくなるのだ。結果として、ピート=フレッドは「レネエの代替イメージ」としてより優秀な「アリスのイメージ」を発生させ、より大きな「満足」を味わってしまった。いったんそうなった以上、もはや「シーラ」によってピート=フレッドが「満足」を獲得できる可能性は皆無に等しい*。たとえどんなに激しくシーラを抱こうとも(カット(3))、彼がそれによって「自我」を回復し「全能感」を取り戻すことなど、もはやあり得ないのだ。

といった具合に現在のシークエンスにおける”フレッドの「感情」や「意識」”を了解したとき、カット(5)における「刑事たち」の「遣り取り」が基本として「代弁」しているものが、非常に端的な「フレッドによる自己言及」に他ならないことがみえてくる。ルーのいう「fucking job」を、”字義的に”ピート=フレッドが現在「行為」として行っているなどということはさておき、ハンクが投げかける「あいつのか、それとも俺たちのか?(His or ours, Lou?)」という「問い掛け」を「論理的命題」として捉えたとき、それは実はただ一つの「解」しかもたない。その「解」とは「フレッド」であり、自分が「クソみたいな仕事」を……「決して満足が得られることのない無益な行為」を行っていると「感じている」のは「ピート」でも「刑事たち」でもなく、「フレッド」自身なのだ。そこに「彼我」の概念を持ち込むことは無意味であり、もはやハンクの「問い掛け」自体が「トートロジー(「同義循環」)」に類したものだといえるだろう。

このようにピート=フレッドは「自我」を修復するに至らず、「全能感」も回復されずに終わる。シーラを対象にした「遁走内遁走」は失敗したのだ。フレッドに残されたのは、「欲求不満」と「何かがおかしくなりかけている」という感覚である。そして、これ以降、彼のそうした「予感」のとおりに(あるいはそうしたフレッドの「感情/意識」を反映して)、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」は失調の度合いを強めていくことになる……いったん狂い始めた歯車が、回転を続けるにつれてますますその歪み具合を進め、最後には自壊してしまうように。

*カット(4)の映像は(1:18:56)のショットとまったく「同一の構図」であり、両ショット間の映像的差異は、ホテルの駐車場に停められているのが「自動車」であるか「バイク」であるかだけである。この「映像の同一性」が指し示すものがフレッドの「内面」で発生している「意識の同一性」……つまり、両ショットの直後で共通して明示される”「刑事たち=監視/追及のイメージ」の想起”であることはいうまでもない。だが、より本質的な「差異」として重要視しなくてはならないのは、「同一のホテル」の内部において、ピート=フレッドが性交している相手が片方は「アリス」であり、もう片方が「シーラ」であることだ。「同一のホテル」において「違った相手」と「同一の行為」をピート=フレッドが行っているという図式は、おのずと「レネエの代替イメージ」としての「アリス」と「シーラ」の比較という図式に結びつくことになる。

« 「ロスト・ハイウェイ」を観た (45) | トップページ | 「ロスト・ハイウェイ」を観た (47) »

ロスト・ハイウェイ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/215302/45085160

この記事へのトラックバック一覧です: 「ロスト・ハイウェイ」を観た (46):

« 「ロスト・ハイウェイ」を観た (45) | トップページ | 「ロスト・ハイウェイ」を観た (47) »

最近のトラックバック