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2009年5月10日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (44)

えー、それでは「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:21:13)から(1:22:16)まで。

大きな流れで捉えたとき、これ以降のシークエンスで提示されるのは、フレッドの「ピートを核にした幻想/捏造された現実」が崩壊に向かう過程である。

そもそも直前のシークエンスで頂点を迎えたフレッドの「全能感」自体が「幻想」であり「欺瞞」であることは、改めて指摘するまでもないだろう。「現実」から乖離している以上、客観的にみれば彼の「幻想」は基本的に脆弱なものでしかない。彼の「幻想/捏造された現実」は、自身の「真の心の声=現実認識」を「ミステリー・マン」という形で第三者化し、遠く離れた辺境にある「砂漠の小屋」に押し込めるという手順を踏むことで(0:48:17)、かろうじて成立しているのだ。その脆弱性は「前半部」における「幻想/捏造された記憶」と同等であり、「後半部」における「ピートを核にした幻想/捏造された現実」も常に崩壊の危機にさらされていることに変わりはないのだ。

デイトン家 外部 夜 (1:21:13)
(1)ロング・ショット。ビートの家の外観。家の前の道路の中ほどからのショット。家の前の道路にはデイトン家の白いライトバンが停められており、画面左にその後部が見えている。ライトバンの車体で半ば隠されているデイトン家のガレージの入り口。デイトン家のガレージの側壁には街灯が二つ灯され、黄色い光を投げかけている。玄関にも白い光の街灯が灯され、玄関のドアを照らしている。真っ黒な夜空。突然、画面左から強烈な青白い光がまたたく。その光に照らされてくっきりと浮かび上がるデイトン家の建物。停められたライトバンの影が道路に、あるいは歩道の街路樹の影が前庭の芝生に落とされる。光が消え、また夜の闇に沈むデイトン家。

「幻想/捏造された現実」の「崩壊」は、まずリンチ作品の共通モチーフである「家」の提示から始まる。「前半部」におけるフレッドの「家」が彼の「内面」を指し示すものとして現れたのと同様、「後半部」におけるピートの「家」は彼の、そして最終的にはやはりフレッドの「内面」を指し示すものとして提示されていることが、この後のシークエンスにおいても明瞭にされる。

たとえば(0:53:47)に登場するデイトン家の家屋が陽光のもと「安穏」なイメージを付随させていたのとは対照的に、このショットにおけるデイトン家は夜の闇のなかに、その中で発生している事象を覆い隠すように現れる。このカット(1)がこの後に続くシークエンスの発生現場を説明するためのエスタブリッシュメント・ショットとして機能していることはいうまでもないが、同時にこれがフレッドの「内面」で発生している事象であることを、青白くはためく突然の「光」が表象する。以前にも述べたように、あるいは「イレイザーヘッド」における「メアリーX宅の居間で明滅する電球」や「マルホランド・ドライブ」における「明滅する牧場の電球」などにも現れているように、この「青白くはためく光」などを例とする「電気」に関連するモチーフは、しばしば登場人物の「大きな感情の動き」を指し示すものとして現れる。このショットにおいても、フレッドの「大きな感情の動き」を指し示すものとして「青白くはためく光」は現れ、それはこの後に続くシークエンスで提示される事象が彼にとってネガティヴなものであることを予見させる。

デイトン家 内部 夜 (1:21:23)
(2)壁に掛けられた黒い電話機のアップ。電話機は画面の右を占め、左にはアウト・フォーカスで白いTシャツを着たピートの母親の背中が見える。電話のベルが鳴り、左肩越しに電話機のほうを振り返る母親。電話に出ようと、彼女は電話機のほうに急いで歩み寄る。受話器をとろうと左手を伸ばす母親。
ピート:(画面外から)I'll got it.
画面右端からピートの左手が伸び、受話器をかっさらうように取る。取られた受話器を追って画面は右上へパンし、正面からのピートのアップになる。キッチンの入り口の壁にもたれたピート。左耳にあてた受話器を左肩で支え、口には煙草をくわえている。
ピート: Hello?
口の煙草に左手を伸ばすピート。
(3)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。その中でも唇の周辺と白いマニキュアの指の一部がスリット状の光で浮かび上がっており、周囲は闇に沈んでいる。
アリス:(ささやき声で)Meow, meow! It's me.
(4)ピートのアップ。キッチンの入り口の壁にもたれ、左肩で受話器を支えたまま、にやりと笑う。
ピート: Hey, baby...
(5)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I can't see you tonight.
(6)ピートのアップ。笑いが消えている。
ピート: OK.
(7)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I have to go somewhere with Mr Eddy.
(8)ピートのアップ。
ピート:(左手に持った煙草をくわえながら)Sure.
左手に持ったままの煙草を一服し、また口から離すピート。
(9)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I think he suspects something. We have to be careful.
(10)ピートのアップ。黙ったまま、左肩で支えた受話器に耳を傾けている。
アリス:(受話器から)I miss you.
黙ったままのピート。
アリス:(受話器から)Pete?
ピート: Me, too.
左手に持った煙草を口元に運ぶピート。
(11)電話をしているアリスの口元の、右斜めからのアップ。
アリス: I'll call you again.
画面外で、受話器を右耳からはずし、電話を切るアリス。
[受話器を電話機に置く音]
(ディゾルヴ)

カット(5)あるいはカット(7)におけるアリスの言及が明らかにするように、このシークエンスで発生している事象が指し示しているのは、「アリス=レネエの代替イメージ」がいまだに「ミスター・エディ」の支配下にあること、つまり「現実のイメージ」に関連づけられたままであることだ。同時に、カット(8)におけるアリスの言及によって、ミスター・エディが「ピートとアリスの関係」を察知しはじめていることが示唆される。

当然ながら、これらの事象もまた、フレッドの「意識」あるいは「感情」の反映として捉えられるべきものであることはいうまでもない。直前のシークエンスにおいては、ピート=フレッドは「アリス」を自分の支配下におくことに成功したと認識しており、彼が抱いていた「全能感」はそれに裏づけられたものだった。より正確にいうなら、フレッドにとって「アリスを支配下におくこと」は、彼が「レネエを再獲得すること」と同義である。つまり、「レネエ」と等価である「アリス」を手に入れることによって、フレッドは(間接的に)「レネエ」を手に入れるわけだ。ただし、逆にいえば、というよりそれゆえに、この「アリスのイメージ」は「現実のイメージ」と関連づけられるを得ない。なぜなら、「アリスのイメージ」はそもそも「現実のレネエ」をもとに構築された、いわば「修正物(モデファイ)」であるからだ。その意味で、「アリスのイメージ」は、本質的に「前半部」の「幻想/捏造された記憶」に登場した「幻想のレネエ」同質のものであるといってよく、である以上、彼女が「現実」の支配を……「ミスター・エディ」の支配を逃れられるはずがないのはそもそも自明のことなのである。

カット(5)(7)における「アリスの言及」は、まさに上記のような事項……「現実による侵入/支配」に関するフレッドの「不安」を代弁しているといえる。「前半部」で提示された「幻想/捏造された記憶」において、「幻想のレネエ」は繰り返される「ビデオ・テープの配送=ありのままの記憶」の侵入を受けた結果、「現実のレネエ」のイメージによって侵食され「変質」してしまった。「後半部」における「アリス=レネエの代替イメージ」が同じような結末をたどる可能性は常に存在し、フレッドは心のどこかで「不安」を抱かざるを得ない(そして作品を観ればわかるように、最終的にこの「不安」はそのとおりのものとなる)。しかし、なによりも、フレッドが「ミステリー・マンの第三者化」という手順を踏まなければ「幻想」を構築できなかったこと自体に、彼が心のどこかで自分の「欺瞞」に気づいていることが表れているといえるだろう。どのように「幻想=自分に都合のよい非現実」を構築し客観的現実から目を背けようと、「現実のレネエ」がすでにフレッドに殺害され「非実在」である以上、彼が「彼女そのもの」を手に入れることなど最初からあり得ないのだから。

その意味で興味深いのは、カット(8)でのアリスの言及である。彼女がフレッドの「代弁者/代行者」であるかぎりにおいて、「ミスター・エディが何か怪しんでいる」という彼女の発言は、前述したようなフレッドが懸命に隠匿しようとしている「自らの現実に対する認識の存在」そのものを指し示している。つまり、「アリスの獲得」をつうじた「レネエの再獲得」が「欺瞞」であり「幻想」であることを「現実=ミスター・エディ」は認知しており、かつその「現実の認知=ミスター・エディの認知」=「客観的事実からみたとき、自分の幻想が非現実であること」をフレッドが認識しているという構造だ。こうした「間接性」は、このシークエンスのアリスとピートが(作中、たびたび登場する)「電話」によって……”「外界」と「内面」をつなぐ「間接的な方法」”によって接触していることとも符丁するといえる。だが、それよりも問題としなければならないのは、アリスの言及の「後半」……「私たちは気をつけなければならない」という発言が表象するものだ。

たとえそれが「幻想」あるいは「欺瞞」であろうと、一度「アリス=レネエの代替イメージ」を自分のものにしたと感じた以上、それをとりあげられるかもしれないという「不安」はより一層ピート=フレッドの「レネエ(あるいはその「代替イメージ」であるアリス)に対する希求の度合い」を強くする。彼は「アリス」が「レネエの代替イメージ」であることを理解し、それに手を出せば「現実=ミスター・エディ」の「直裁な力」による介入を呼び、その「処罰の対象」となる可能性を知りながらも、自分の「希求」をあきらめることができない。この彼の「葛藤」の結果が、アリスによる「私たちは気をつけなければならない」という発言に表れている。すなわち、”注意深く「ミスター・エディ」を欺き、彼の目を逃れることによって、「アリス」との関係を続けることができるのではないか”というフレッドの「都合のよい願望」が……言葉をかえるなら「現実から入念に目を背けることによって、幻想を自らの現実として維持し続けたい」という「欲望」が、このアリスの発言によって「代弁」されているのだ。何度か繰り返し述べたように、こうした「自らに対する欺瞞」こそが、フレッドが陥っている罠である。

特筆しておきたいのは、このシークエンスにおける「アリス」に関する映像である。彼女が映像として登場するショット(カット(3)(5)(7)(9)(11))は、すべて彼女の「口元のアップ」のみであり、他の部分は「影」で覆い隠されている。逆にいうと、彼女の「顔」は影によって分断されており、上述したようなもろもろの「言及」をもたらす「唇」だけがクロース・アップで提示されると一方、肝心の彼女の「表情」はまったく見えない状況になっている。はたして、彼女の「言及」の内容は(たとえば「会えなくて淋しい」という発言は)「真実」であり、彼女はその「内面」において発言どおりのことを「意図」しているのか? このような「光と影」による表現自体が、「ドイツ表現主義映画」から受け継がれ「フィルム・ノワール」の諸作品に(あるいは40~50年代のハリウッド映画に)かなりの頻度で採用されたものだ。そして、しばしば(実にしばしば)、「分断され一部が覆い隠された映像」は「分断された意味」を表象し、ひいては「外面と内面の不一致」を……すなわち、「発言が真実でない」ことを意味するのである。このシークエンスにおいては、我々=受容者には「外面と内面の合致もしくは乖離」を判断する材料は与えられず、我々はいわば「宙ぶらりんの疑念」と「獏たる不安」を抱かされることになる。「真実」は覆い隠されたままであり、明確な「結論」は与えられないのだ。そして、この我々が抱いた「疑念」や「不安」は、ピート=フレッドが現在抱いている「疑念」や「不安」とも重なるものだといえるだろう。

さて、直前のシークエンスで最高潮に達したフレッドの「全能感」は、このシークエンスの事象によって大きく傷つけられている。それは、カット(4)からカット(6)を経てカット(8)に至るショットにおける「ピートの表情の変遷」からも明らかだ。そして、このフレッドの「感情」を反映した「イメージの連鎖」が、これ以降のシークエンスにおいて発生することになる。

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