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2009年4月

2009年4月29日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (42)

さて、ゴールデン・ウィークも間近となり、仕事関係をはじめアチコチ切羽詰りながらもチンタラと続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(1:18:22)から(1:20:32)までをば、ナニやらカニやらタコやらアワビやらすることにする。

この後、アリスはフレッドの「代弁者/代行者」としての機能を明確に表す。それは続く「ホテル」の室内におけるシークエンスの具体的映像からも明らかである。

ホテル 内部 夜 (1:18:22)
(1)アリスとピートのアップ。閉められるホテルのドア。ドアには「9」の表示がある。部屋の内部の壁はピンク色の光で照らされている。ドアが閉まると同時にキスを交わす二人。ピートの右側面からのショット。二人にクロース・アップ。何度もキスを交わしたあと、互いに見つめあう。
(2)アリスとピートの下半身のアップ。ピートの右手を両手で握り、スカートの上から自分の股間に導くアリス。アリスの手が離れたあとも、アリスの股間をさぐるピートの右手。
(3)アリスとピートのアップ。再び激しいキスを何度もする。
アリス: Take my clothes off...

カット(2)の映像が非常に端的に物語るように、アリスは積極的にピートを誘惑する。そしてそれに応える形で、ピート=フレッドは自らの「希求」を具体的行動として発露させる。つまりはこの局面においても、ピート=フレッドは自分が「行動の主体」であることを回避しているのである。もちろん、以前にも述べたようにこれは「欺瞞」以外のなにものでもない。図式的には彼女(のイメージ)を支配する「現実=ミスター・エディ」に対する「逃げ道」の用意としてこの「欺瞞」は描かれるが、これまでもみてきたようにそれは本質的には自分自身荷対する「言い訳」でしかない。「アリス」という「レネエの代替イメージ」を希求することが「幻想/捏造された現実」の崩壊につながる可能性があることをフレッドは認識しており、それがゆえに彼が「アリス」を手に入れることに対して「葛藤」を抱いていることは以前にも述べたとおりだ。アリスを「現実の支配」から引き離し自分のものにするためには、この「葛藤」は解消あるいは宥和されなければならならない。一連のシークエンスが描く”屈折したフレッドの「レネエに対する希求」”は、そうした宥和を目的としたものであるといえる。

ホテルの駐車場 外部 (1:18:56)
(4)ミドル・ショット。ホテルの駐車場に停められたピートの自動車を、右側面やや後方からとらえたショット。駐車場のすぐ前は壁のないホテルの通路で、そこには部屋の赤いドアが二つ見えており、ドアの上には黄色い照明が光を投げかけている。ドアとドアの間には、部屋の窓がある。右のドアの横の壁には二脚の椅子が、左のドアの横の壁には一脚の椅子が置かれている。駐車場と通路の間には、木が植えられており、画面の上三分の一程度をその木の葉がおおっている。
(5)アップ。ピートの張り込みをしている自動車の中の二人の刑事のアップ。運転席に座ったハンクの斜め右からのサイド・ウィンドウ越しのショット。画面奥には、ルーのアウト・フォーカス気味のバスト・ショット。二人はしぶい顔をしている。
ハンク:(小さく首を振って)The fucker get more pussy than a toilet seat!
ルーも首を振る。
(6)ミドル・ショット。ホテルの駐車場に停められたピートの自動車を、右側面やや後方からとらえたショット。

ここにも「監視/追及」のイメージとしての「二人の刑事たち」がリフレインされる。この「二人の刑事たち」もフレッドの「代弁者/代行者」として機能することを考えるなら、「ヤツは易々と女を手に入れる」というハンクの言及(カット(5))もまた、フレッドが抱いている「意識」や「感情」のある側面を反映していることになる。その観点にしたがうなら、ここでハンクが「代弁」しているのは「アリス=レネエの代替イメージ」を手に入れたフレッドの「歓喜」、あるいは彼が感じている「全能感」である。彼が「ピート」として存在するかぎり、「監視/追求」の施行者であるはずの刑事たちがまったく手を出せないという状況には以前と何ら変わりはない。それに加え、ここに至ってフレッドは「希求の対象」を手に入れるが、それに対しても「監視者たち」は完全に無力である。すべてはフレッドの思うがままであり、彼の「都合のよい」ように展開する。「後半部=ピートを核にした幻想/捏造された現実」が始まったときと同様、フレッドは自分が「全能」であることに酔いしれている。その「裏返し」が二人の刑事たちの「渋い表情」であり、ハンクの言及であるわけだ。

そして、このフレッドが感じている「全能感」は以降のシークエンスにも引き継がれる。

ホテルの部屋 内部 夜 (1:19:07)
(7)ミドル・ショット。ベッドの上で性交しているピートとアリスを右側面から捉えたショット。アリスにのしかかり、腰を振っているピート。画面中央奥のシェードが半ば降りた窓からさしこむオレンジ色の柔らかい光にぼんやりと照らされている室内。窓際には白い傘の電気スタンドが見える。窓の右横には開かれたカーテンと、木張りの壁。
(ディゾルヴ)
(8)アリスの右目あたりのクロース・アップ。アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。画面左からの照明で、彼女の顔の左半分は影になっている。
(素早いディゾルヴ)
(9)ピートの左目あたりのクロース・アップ。画面右方向からの照明で、右目のあたりは影になっている。左から右へパンしてピートの左目が画面中央に来る。
(10)アリスとピートのアップ。横たわったアリスの顔を、上からピートがのぞき込むショット。画面左が頭方向、ピートの右側面、やや頭方向からのショット。アリスが右手の人差し指の腹で、ピートの顎のあたりを愛撫している。ピートの右手は、アリスの髪を撫でている。アリスは顎を愛撫していた右手の人差し指をピートのペンダントにかけ、それを下に引っ張ってピートの頭を引き寄せ、口づけを交わす。一度唇を離したピートは、自分の顔を右によせ、再度アリスにキスをする。三度、キス。
(ディゾルヴ)
(11)アリスとピートのアップ。二人はすでに服を着ている。画面左のアリスが、キスをしながらピートを右方向に押していく。背後の壁にピートの背中が行き当たるが、そのままキスを続ける二人。画面の左端に窓の端が見える。二人にクロース・アップ。一度離れ、今度はピートの方からキスをする。また離れ、ピートが首の角度を変えてまたキス。アリスがピートの顔に広げた右手を伸ばしてキスをする。
アリス: I want more!
ピート: Me, too.
キスする二人。顔を離すアリス。ピートはそれを追いかけてキスしようするが、アリスは頭を後ろにひいてそれを許さない。
アリス:(笑いを浮かべながら)Can I call you?
ピート: Yeah, Call me at home. I'll give you the number.(笑みを浮かべる)
頬をすりあわせ、やがてキスをする二人。右手をピートの頭の左側面に伸ばす。
アリス: OK, baby.
(ディゾルヴ)

カット(7)からカット(10)にかけて、ピートが「アリス」と激しい性交を行う様子が描かれる。この二人の様子は、「前半部」において「レネエ」とフレッドの性交が不首尾に終わること(0:12:25)が示唆されていたのとは対照的であるといえる。「レネエ」がフレッドとの行為の最中もほとんど「感情」を表さなかったのとは異なり、「アリス」はきちんとピートとの性行為に「満足」し、最終的にはより一層の「希求」を表明する(カット(11))。このアリスの言動が、フレッドの「満足」もしくは「希求」を「代弁/代行」していることは指摘するまでもない。また、辛辣な見方をするなら、「アリスが満足し一層の希求を表明すること」自体がフレッドの「希求」に包括されているともいえるだろう。

だが、この「アリスとピートの関係」もまたある種の「欺瞞」でしかないことは指摘するまでもないはずだ。なぜならフレッドもしくはピートと女性たちの「性行為」(とみえるもの)は、それがフレッドの「幻想/捏造された現実」の内部において発生している事象であるかぎり、実は「幻想」でしかないからだ。それはいわばフレッドの「自慰行為」でしかなく、どのように「他者との関係性」が成立しているように見えるとしても、そこにあるのはフレッドと「イメージ」との間にむすばれた「一方的な関係」なのである。それを端的に表しているのが「不首尾に終わるフレッドとレネエの性行為」のシークエンスであり、特にレネエがほとんど無反応であることはきわめて示唆的であるといえる。だが、前述したように、「ピートとアリスの性行為」も「幻想」としての本質においてまったくの差異はなく、これは「ロスト・ハイウェイ」が描く「性行為」全般(「映像内映像」として現れるものも含めて)について共通して指摘できることになる。

こうしたことを念頭においてこのシークエンスをみたとき、興味をひかれるのはカット(8)からカット(9)にかけての映像……「アリスの右目のアップ」と「ピートの左目のアップ」がデゾルヴによってつなげられる映像である。まずこの二つの映像は、明らかにアリスとピートが「対置される存在」であり、かつ「対称的な存在」であることを示唆している。つまり、二人はともにフレッドの「代弁者/代行者」であり、それぞれが(ときとして背反する)彼の「意識」あるいは「感情」を表象しているということだ。

示唆的なのは、「アリスの顔の右半分」と「ピートの顔の左半分」を瞬間ディゾルヴで重ね合わされた瞬間、左右が揃った「一つの顔」が完成することである。前段で触れた”フレッドの「意識」あるいは「感情」の表象としてのアリスおよびピート”を踏まえるなら、この「完成した一つの顔」が「フレッドの意識の総体」を表わすことはいうまでもなく、であなるならばこの「顔の統合」がアリスとピートそれぞれの顔の「影」の部分……つまり「闇」の部分を糊代にしてなされることも、リンチ作品における「夜」と「闇」のモチーフが表すものを踏まえるなら、あるいは当然であるかもしれない。

ピートの自動車 夜 (1:20:16)
(12)(ディゾルヴ)
ピートとアリスのアップ。自動車に乗っている二人を、ウィンド・シールド越しに右斜めから撮ったショット。ハンドルを操作しているピート。目をつぶり、彼の右肩に頭を乗せるアリス。それを見下ろすピート。正面に視線を戻し運転を続けるピート。ピートの右肩に頭を乗せたまま、彼を見上げるアリス。それを見下ろすピート。また正面に顔を戻して運転を続けるピート。
(フェイド・アウト)

この映像は、(0:33:04)で提示された「車中のレネエとフレッド」のリフレインでありヴァリーエションであるといえる。ヴァリエーションで有り得るのは、アンディの屋敷から帰宅する途中のレネエとフレッドの間には不和と諍いしかないのに対し、このショットにおけるアリスとピートはその真逆であるという点においてだ。その意味合いにおいて、直前のシークエンスにおける「ピートとアリスの性行為」と同じく、これはフレッドにとって「あったかもしれないレネエとの関係」あるいは「構築したいと思っていたレネエとの関係」だといえる。

だが、作品の各所で示唆される映像をみるかぎりにおいて、そうした関係の成立を阻害していたのは実はフレッドによる「一方的な関係の強要」に他ならないのも確かだ。かつ、フレッド自身はその阻害要因が”「現実のレネエ」のコントロール不能性”にあると理解していること……いいかえれば”阻害の責を「現実のレネエ」のコントロール不能性に帰したいと「感じている/考えている」”ことも明白なのである。そもそもその「幻想」の根幹において、フレッドは徹底的に「遁走」しているのだ。

2009年4月20日 (月)

リンチ in ロシア

本日のdugpa.comネタ。

4月の上旬にデイヴィッド・リンチはロシアに行ってた模様で、現地のファンからのレポートが掲載されております。フランスのシューズ・デザイナーであるクリスチャン・ルブタン氏が同行していたとのことで、氏と組んでリンチが写真作品を出展している展示会「Fetish」のモスクワでの開催にあわせてのことであった様子。

Fetish_1 このルブタン氏とのコラボのそもそもは、パリで開催されたリンチの作品展「The Air is on Fire」の際に、リンチがその展示の一部として、ルブタンが作った靴によるオブジェを出展したいと申し出たことに端を発しているらしい。そのお返しにとして、ルブタンは自作の靴の写真撮影をリンチに頼んだそうなのだが、そのときの注文が「自分の靴がフェチシズムの対象以外のなにものでもないことを表すような写真を撮ってほしい」。で、リンチが語るところによれば、出来上がった写真は「自分の欲望を抑えるために、安全で人目につかない場所に隠しておくこと」という注意が必要な出来だったそーで、実際の作品のひとつがこのよーな感じ。さて、欲望が抑えられるかどーか、みんなで勝負だ(笑)。

でもって、4月10日からはかの地で「The Air is on Fire」も開催されているとの話なんでありますが、こちらはどうやらロシア語で「Aura of Passion」というタイトルになっている模様。その詳細&機序はdugpa.comの記事からではちょいとよくわからず……って、なんかいきなりロシアでリンチ関係花盛りになってるのはどーゆーことなんスか? うー、ウラヤマしいわ、ジェラしいわ(取り乱している)。だが、しかーし! パリ、イタリア、ロシアと来たからには、きっと次の開催は日本に違いない……などとまったく根拠のない希望的観測を言ってみるワタシ(笑)。

続く4月11日には、Russian State Cinema University (VGIK)でリンチの特別授業が開講され、会場になったホールは満員御礼札止状態、ステージに立つリンチの足元にまで人が座り込む大盛況であったそーな。学生たちからは「夜に夢をみるか?」とか「東欧およびロシアのどういうところに関心があるか?」とか「長編のアニメを作る気があるか?」とか「この世界危機に際して、どうやって自分を失わず、作品を作り続けているのか?」とかいった質問に混じって、「『マルホランド・ドライブ』を観た夜に悪夢でうなされましたぁ」という感想やら「一緒にお仕事がしたいですぅ。ワタシの名前はナニナニで、電話番号はコレコレですぅ」という売り込み、はては「ローラ・パーマーを殺したのはダレですかー?」ってなお問い合わせもあった模様で場内爆笑。

その後、リンチは市内の書店に移動し、「Catiching the Big Fish」のサイン会が開催されたちゅーことなんでありますが、どーやらロシアでの翻訳版が3月に出版されたばかりであったようでアリますね。現地のファンの方の話では、サイン会には100mを越える列ができて、1時間半ほどで店内にあった「Catiching the Big Fish」は売り切れてしまったとのことであります。レポーターの方は「ロシアでのベスト・セラーに入るかも」とゆーてはりますが、アチラのベスト・セラーって平均何万部くらい売れるもんなんですかしらね?

そんなこんなで、翌12日にはリンチはキエフに向かってモスクワを出立。そこで何日かを過ごす予定だったそーですが、ってーことは、そろそろアメリカに帰ってる頃かも?……というお話でありました。

2009年4月19日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (41)

てなことで慌てず急がず続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」のお話であったりする。今回は、前回に引き続き(1:14:56)から(1:18:22)までのシークエンスを追ってみる。

前回述べたように、(1:15:19)から(1:18:22)までのシークエンスにおいて、ピート=フレッドは葛藤のすえ「アリス=レネエの代替イメージ」を自分のものにする決意を下す。いわば”フレッドの「感情」が「理性」に勝った瞬間”であるわけだが、しかし、あるいは「ロスト・ハイウェイ」は編がそうした「瞬間」を描いているといえなくもないだろう。それはさておき、前回触れたようにこのフレッドの「内面」で発生している”「アリス=レネエの代替イメージ」への傾倒”は、彼にとって非常に大きな「心理的変遷」であるといえる。そして、(1:14:56)から(1:15:19)までのシークエンスで提示される「夕刻から夜へと移り変わる情景」の映像が、その変遷のキーとなっていると考えられることを前回の最後で触れた。

なぜそう考えられるのか? それを述べるうえで触れておきたいのは、リンチ作品における共通モチーフとしての「夜」あるいは「闇」である。この共通モチーフに関しては、Greg Olson氏がリンチに関する伝記「Beautiful Dark」において何度か触れているが、たとえば「エレファントマン」に現れる「夜」についてOlson氏はこのように指摘している。

メリックにとって「良い事(good things)」が(たとえばトリーヴスによる教育や、ケンドール夫人とのロマンティックな語らいや、病院にずっと住み続ける許可が伝えられるといったことが)「昼」に発生し、「悪い事(bad things)」が(病院の夜警が酔っ払いたちにメリックを見せびらかすといったようなことが)「夜」に発生するというパターンをリンチは辿る。

また、「ブルーベルベット」においてジェフリーがみた「夢」のシークエンス(0:52:15)などに現れる「闇」への言及に関して、Olson氏はこのように述べる。

脅迫者であるフランク・ブースは「さあ、闇だ(Now it's dark)」と宣言する。それはいたぶる対象を発見したという宣言であるとともに、彼の歪んだ精神から飛び出さんと待ち構える飢えた野獣のような悪魔を召喚する呪文でもある。あるいはリンチが作詞したジュリー・クルーズの「Into the Night」では、「闇が来た(Now It's dark)」というフレーズが、失恋し悲しみにくれる女性を涙の暗い海に送り出す。リンチにとって「闇」は邪悪や恐怖、悲嘆あるいは苦痛が存在するところである。と同時に「闇」は幻想が育まれる肥沃な大地であり、創造的な自己発見と遠大な精神的航海の王国でもあるのだ。

つまり、リンチ作品における「夜あるいは闇」は、(往々にしてネガティヴな)「隠されたもの」や「不可視のもの」が姿を表し、可視化されるところであるといえる。「夜あるいは闇」のなかでは、物事の「境界」……たとえば「内面」と「外界」を区分けする「境界」(それは「家」であったり「人間」そのものであったりする)は暗闇に溶け込み、見えなくなってしまう。かつ、リンチの映像作品において「見えないこと」は「存在しないこと」と同義であり、「境界」を見失うことはその存在が消失することを意味する。このような機序にしたがい、リンチ作品に「夜あるいは闇」が訪れるとき、「内面」に隠されていた不可視のものは、「外界」(に相当するもの)に向かって解放されこぼれ出すのである。

このような視点を念頭におきつつ「ロスト・ハイウェイ」を観たとき、ある興味深い点に気づく。現在論じているシークエンス以降、「後半部」が提示する映像は、一部のシークエンスを除いてほとんどが「夜」において展開されるのだ。具体的にいうと、その「夜」でないシークエンス(「昼」のシークエンス)とは以下の二箇所である。

・「ミスター・エディ」が「自動車工場」を訪れ、拳銃でピートを脅すシークエンス(1:26:39)
・「友人(アンディ)に紹介された仕事の顛末」に関するアリスの「言及」を映像化したシークエンス(1:31:18)

この二つのシークエンスの「共通項」は明らかだ。その「性質」の差異はあるとしても、これらのシークエンスで発生している事象にはともに「ミスター・エディ」が登場しており、つまりは「現実」のイメージに紐付けられているのである。このような点を踏まえつつ今度は「前半部」を振り返ってみると、「ビデオ・テープの到着」「刑事たちの訪問」といった「現実」のイメージに関連づけられる事象は「朝」あるいは「昼」において発生しており、それ以外の事象は(アンディの屋敷でのフレッドとミステリー・マンとの邂逅を含めて)すべて「夜」において発生していることがわかる。ごく大雑把に定義するなら、「ロスト・ハイウェイ」の作品全体をとおした基本構造として、「昼」は「フレッドの現実」と関連付けられ、それに対し「夜」は「フレッドの幻想」に関連付けられているといえるのだ。

「ロスト・ハイウェイ」の「全体構造」からみた「夜」と「昼」が指し示すものをこのように仮定したとき、問題となっている(1:14:56)から(1:15:19)の「夕刻から夜へと向かう情景」が何を表象しているのかが、なんとなくみえてくる。そう、これは映像による「さあ、闇だ(Now it's dark)」という宣言なのだ。その「宣言者」はもちろんフレッドであり、その意味でこれらの「情景」もまた”彼の「内面」の反映”に他ならないのである。

フレッドの「内面」に「夜」が訪れ「闇」が広がるとき……すなわち彼が「幻想」に向かって傾くとき、彼の「内面にあるもの」は境界を越えて「表層化」する。フレッドの「感情」は赤裸々になり、「レネエに対する希求」も剥き出しになる。それに応え「アリス」は「ミスター・エディ=現実」の軛(くびき)を逃れ、フレッドにとって「都合のよい幻想」の「代弁者/代行者」としての機能をあらわにする。あるいは逆に、フレッドが自らの「感情」や「希求」に傾斜し、それにしたがった「幻想」が構築されるとき、彼の「内面」は「夜」と「闇」へと向かうと捉えることも可能だろう。いずれにせよ、前回および今回とりあげている一連のシークエンス……「夕刻から夜へと向かう情景」と「自動車工場を訪れるアリス」のシークエンスの関係性は、こうした「イメージの連鎖」のもとに成立していると考えられるわけだ。

しかし、具体的映像を観たとき、上記のような「定義」に当てはまらないと思われるシークエンスがいくつか存在するのも確かである*。たとえば「後半部」が始まった直後のシークエンス……「死刑囚房におけるピートの発見」から「ピートの自宅への帰還」そして「裏庭でくつろぐピート」といった一連のシークエンスは、こうした「夜」と「昼」の対置から外れているのではないだろうか? これらのシークエンスで発生している事象は、フレッドがピートという「別人格」へと「遁走」した結果発生したものであり、彼の「幻想/捏造された現実」以外のなにものでもないはずなのに。

あるいはこうした疑問に対して回答を与えてくれるのが、「ターニング-2」における「ミスター・エディの死体」のショット(2:07:15)……「夜」が明けつつある砂漠に横たわる「ミスター・エディの死体」から上方にパンしたカメラの視点が、最終的に山の端の曙光をとらえるショットである。”「ミスター・エディ=ディック・ロラント」の死”がフレッドにとっての「現実の消滅」を表象していることに関しては、これまでも何度か触れたとおりだ。だが、フレッドの「幻想」から「現実」が消滅するということは、「完全なる幻想」が構築されたこと、あるいは「彼に都合のよい現実の捏造」が達成されたことと同義である。このように考えれば、「ミスター・エディの死」によって、「闇」が消失し「朝」が訪れるのは非常に象徴的な事象であることがわかるだろう。「現実の消滅」=「完全なる幻想」=「捏造された現実」の等号式が成立するとき……すなわち「幻想」がフレッドの「内面」を支配し、「幻想」こそがフレッドにとって「現実」となったとき、「夜」もまたフレッドにとっては「昼」となるのである。そして、大きな作品の流れからとらえるなら、この「ミスター・エディの死とともに訪れる朝」のショットは、今回論じている「夕刻から夜へと向かう情景」と対置され「括弧」を形成するものといえるのだ。

こうした観点に立つならば、前述した「後半部」が始まった直後のシークエンスが「昼」であることも、なんら不思議ではないだろう。構築されたばかりの「ピートを核にした幻想/捏造された現実」はまだ「現実による侵入」を受けておらず、その意味で「幻想」として瑕疵がない。そこに初めて「夜」が訪れるのは(0:56:33)からの「友人たちがピートを訪れる」シークエンスであり、その際に友人の女性は「(ピートに)何が起きたのか?(Yeah, what happend?)」という「現実」に関連する質問を発している。また、それに続く同じく「夜」である「ボーリング場」のシークエンス(0:58:00)では、シーラによって「あの夜(other night)」に関する言及がなされる。いいかえれば、「夜」が訪れるのは「昼」との対比あるいは「幻想」と「現実」の対比が発生した時点においてであることになる。そのような対比そのものがなく、フレッドの「幻想」のみしか存在しないあいだは、そもそも「昼」と「夜」の対置性に基づいた「定義」自体があてはまらないわけだ。

あるいは、前述した「砂漠に横たわるミスター・エディの死体」のショット以降、フレッドが自宅のインターフォンに向かって「ディック・ロラントは死んだ」と告げるシークエンスが「昼間」において展開されることも、きわめて妥当であることがわかるだろう。また、その直後、フレッドが警察のパトカーに追跡されつつ「遁走」する間に、また「夕暮れ」が訪れすぐに「夜」に変わることも。このように、「ロスト・ハイウェイ」における「夜」と「昼」は、”「フレッドの内面」で発生している「感情」の描写”という基本テーマにきわめて密着した形で発生しているのである。


*「後半部」における「ミスター・エディとミステリー・マンが、電話でピートを脅す」シークエンス(1:38:17)などもこれに当てはまらないと思われるのだが、これらに関しては当該シークエンスについて触れるときに述べることにする。

2009年4月12日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (40)

てなことで続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」のお話であったりする。今回は(1:14:56)から(1:18:22)まで。まずは、具体的な映像から。

どこか 外部 夕刻 (1:14:56)
--Will last forever...
(ディゾルヴ)
(1)ロング・ショット。夕焼け。近くの山、遠くの山。その間に広がる雲海。右から左へパン。沈もうとしている夕日が視界に入ってくる。茜色の雲。夕日が画面真ん中までくるまでパン。
(ディゾルヴ)
(2)ロング・ショット。暗い海辺の丘。下方から上方へパン。海を挟んだ半島。水平線に沈もうとしている夕日。茜色と灰色が混じった雲。空が画面の上三分の一を占めるまでパン。
(ディゾルヴ)
(3)ロング・ショット。都市の夕方。藍色に染まっている、雲が浮かんだ空。画面下端には灯りが点っている建物。空と建物が接しているあたりの雲は、夕焼けの茜色のなごりがある。

このように「This Magic Moment」をサウンド・ブリッジにしつつ、映像はディゾルヴによってピートのアップから「夕暮れの山々」や「日没の海辺」、そして「街部の夜空」といった情景へと変遷する。ごくストレートに捉えるなら、このシークエンスは、直前および直後のシークエンスの間に発生している「時間経過」を途中経過を省略しつつ示すものとして了解されるはずだ。具体的映像においても、現在論じているシークエンスの直前に提示されていたのは”ミスター・エディに連れられて「アリス」が自動車工場を訪れた「昼間」”のシークエンス(1:12:50)であり、直後に提示されるのは”ピートが「職場」での仕事を終えて工員仲間と談笑している「夕刻」”のシークエンス(1:15:19)である。この間に発生している「時間経過」は、現在論じているシークエンスが提示する「時間経過」と一応は合致しているわけだ。

だが、作品全体を見回したとき、このシークエンスは少なからず「奇異」である。少なくともこのシークエンス以前には、このような表現は……「山部や海辺の情景」のような前後のシークエンスとはまったく無関係な情景が、それこそいわゆる「イメージ映像」のように挿入されるといった表現は存在しない。というより、これまでみてきたように、「ロスト・ハイウェイ」が(あるいはリンチ作品のすべてが)フレッドの(あるいは各作品の登場人物の)「感情」や「意識」をキーにした「イメージの連鎖」によってそのコンテキストを構築しているならば、このような表現の採用はむしろそれを阻害するものでしかない。

では、このシークエンスが提示するものがいわゆる「イメージ映像」的な発想に基づくものでなく、ひいては単純に作品中の「時間経過」を示唆する表現に収まらないと仮定したとき……すなわち、これまでの諸映像がそうであったように”フレッドの「感情」や「意識」を表象するもの”であるとしてみたとき、この「夕刻」から「夜」に向かうこの一連の映像は何を表象していると考えられるのか? それについて論じる足掛かりとして、まずは続く(1:15:19)から(1:18:22)に至るシークエンスにおいて提示されている事象がどのようなものかを確認しておきたい。

アーニーの自動車修理工場 内部 夜 (1:15:19)
(4)ミドル・ショット。仕事が終わり、工場内で談笑している修理工たち。ピートは作業ツナギの上半身をはだけ、黒のTシャツ姿で画面に背中を向けている。ピートに煙草の火をつけてもらう黒人の修理工。二人の間には、腰までぐらいの高さの赤い移動工具棚がある。工場内の照明は落とされ、この二人の左あたりだけが天井からの照明で明るくなっている。二人の向こうには白い作業台があり、その上にはいろいろな工具類が置かれている。工具台の向こうにも二人の修理工が、その右手の赤色の工具らしいものの右、画面の右端にも修理工が一人立っている。
(5)ミドル・ショット。(1)のショットのアップ。画面に背中を向けて立っているピートの、腰から上の後ろ姿。彼と向き合って煙草を吸いながら話している黒人の修理工。その背後では、フィルがもうひとりの黒人の修理工と談笑している。
ピート:(右腕を振りながら)Well, he's the boss.
(6)
ミドル・ショット。工場内から工場の入り口をみるショット。暗くなった道路。向かいの店の照明とネオン・サインが見える。画面左から黄色のタクシーがゆっくりと現れ、入り口に停車する。
(8)ミドル・ショット。工場内のショット。画面に背中を向けているピートの腰から上の背中。左手に煙草を持ち、彼と話をしている黒人の修理工。二人の背後を、画面手前、工場の入り口のほうを見ながら、フィルが画面右から左へと移動する。
(9)ミドル・ショット。工場内から工場の入り口を見るショット。停車したタクシーの右後部ドアを開けて、白いミニ・ドレス姿のアリスが降りてくる。後ろの道路を激しく行き交う自動車の列。自分の右背後を半ば振り返り、ドアを閉めるアリス。バッグを腰の前あたりに両手で持って、工場の入り口に立ちつくす。その背後で発車し、画面右に消えていくタクシー。
(10)ミドル・ショット。工場内のショット。画面に背中を向けているピートの腰から上の背中。左手に煙草を持ち、彼と話をしている黒人の修理工。二人の右手に立ち、入り口のほうを見ているフィル。
フィル: Holy smokes!
左に振り向いて、入り口のほうを見るピート。その左手に持っていた煙草を口にくわえ、画面左のほうを見る黒人の修理工。
(11)ミドル・ショット。工場内から工場の入り口を見るショット。バッグを両手で体の前に持ち、画面左三分の一あたりに立ち尽くしているアリス。彼女の背後では、右方向に向かう自動車が速度をゆるめ、停車し始める。
(12)ミドル・ショット。好場内のショット。ややひいたショット。左に半身になり、工場の入り口のほうを振り返っているピート。その左には移動式工具棚に手をつき、身を乗り出すようにして、画面手前の入り口のほうを見ているフィル。その右で煙草をふかしている黒人の修理工。彼らの背後、背の低い作業台の向こうに立っている黒人の修理工。やがてピートは向き直り、画面手前に向かってゆっくりと歩き出す。
(13)ミドル・ショット。工場内から工場の入り口をみるショット。画面手前、工場の内部に向かって歩き始めるアリス。
(14)ミドル・ショット。工場内のショット。画面手前、工場の入り口に向かって歩くピート。
(15)ミドル・ショット。工場内から工場の入り口をみるショット。歩き続けるアリス。腰の上あたりまでのショットから、アップまで。それに連れて右にパン。ピートの左肩越し、彼の左後頭部を収めたショットになる。
(16)ピートのアップ。アリスの右肩越し、彼女の右後頭部を収めたショット。ピートの背後には、アウト・フォーカスになった工場内が見える。アリスを見つめるピート。
ピート: Hi.

見てのとおり、このシークエンスで描かれているのは「アリスの再訪」……すなわちフレッドの「幻想/捏造された現実」の内部における「レネエの代替イメージの再発生」という事象である。前回彼女が現れたときと同じように(1:12:50)、あるいはそもそもミスター・エディが初めて姿を現したときと同じように(1:00:14)、今回のアリスも「自動車工場の入り口」という開口部を通じた「外部からの侵入」というパターンを踏襲して現れる(カット(9))。だが、彼女が初めて「自動車工場」に現れたときとの「差異」は簡単に見て取れるはずだ。そう、そこには「現実=ミスター・エディ」の姿が欠落している。前回の彼女がミスター・エディの運転する自動車に乗せられて……つまり、彼の「支配下」におかれた状態で現れ退場したのに対し、今回の彼女は「タクシー」という手段を「自己の意思」で使い、ミスター・エディの支配を逃れて単独で姿を現すのだ。

もちろんこの「アリスの再登場」という事象自体がフレッドの「意識や感情の反映」として発生していることは自明であり、端的にいえばその発生の要因が彼の「レネエに対する希求」であることは指摘するまでもないだろう。この「希求」の存在は、カット(12)およびカット(14)における「レネエに向かって近づくピート」の映像にも表れているといえる。ピート=フレッドが「恋人(の幻想)」であるシーラに充足しておらず、そのために「アリス=モデファイされたレネエ=レネエの代替イメージ」がフレッドによって構築されたと考えられることについては、以前に指摘したとおりだ。ということは、基本的に「アリス」のイメージがフレッドの「幻想」の一部であり、彼女もまた彼の「代弁者/代行者」として機能すると同時に、彼にとって「都合のよい存在」であることを意味している。続いて提示される具体的映像からも、これらの諸点は明瞭に認められる。

(1:16:20)
(17)アリスのアップ。ピートの左肩越しのショット。少し左に首をかしげ、笑みを浮かべながらピートを見るアリス。
アリス:
I'm Alice Wakefield.
ピート: Pete Dayton.
目をつぶり、また開けてほほ笑むアリス。彼女の背後の道路を行き交う自動車。
アリス: I was here earlier.
(18)ピートのアップ。アリスの右肩越しのショット。笑みを浮かべ、何度か小さく頷くピート。
ピート: Yeah. I remenber.
(19)アリスのアップ。ピートの左肩越しのショット。笑みを浮かべたまま、黙ってピートをみつめるアリス。
アリス: How'd you like to take me to dinner?
(20)ピートのアップ。アリスの右肩越しのショット。笑うピート。
ピート:(首を振りながら)Uh, I don't know, I...
(21)アリスのアップ。ピートの左肩越しのショット。目をつぶり、また開けて笑い掛けるアリス。
アリス:(少し顎を突き出し)OK. Why I don't take yo to dinner?
(22)ピートのアップ。アリスの右肩越しのショット。笑いが消え、真剣な顔のピート。頬を膨らませた後、口を切る。
ピート: Look, uh...I don't think (首を振りながら)this is a very good idea.
(23)アリスのアップ。ピートの左肩越しのショット。しばし黙ったあと、無理をして笑みを浮かべるアリス。目をつぶり、左に首をかしげ、また目を開けて尋ねる。
アリス: Do you have a phone?
(24)ピートのアップ。アリスの右肩越しのショット。真剣な表情で、少し沈黙する。
ピート: Yeah. It's right,(自分の右を見ながら、画面外でそちらを指差し))it's right there.
再び、アリスと向き合うピート。
(25)ミドル・ショット。ピートの左側面からの、アリスとピートのツー・ショット。首をかしげてピートを見つめているアリス。首を突き出すようにして、アリスをみつめているピート。
アリス: I'm going to have to call myself another taxi.
二人の背後には、上半分がガラス窓になった、赤く塗られた仕切りが見える。仕切りのガラス窓越しに、工場の内部が見えている。白い横方向のシャッターは閉められ、その向こうに照明のついた赤や青の看板、道路を走る自動さのヘッド・ライトがアウト・フォーカスで見えている。左を向き、画面手前に背中を向けながら、仕切りの壁ぎわの電話機に向かって歩くアリス。画面手前に背中を向け、彼女を見守るピート。右手で受話器を取り、耳に当てながらピートを振り返るアリス。
(26)ピートのアップ。アリスを見ているピートの正面からのショット。鼻から煙草の煙を出すピート。
アリス:(画面外で)Hello?
(27)ミドル・ショット。仕切りの壁ぎわで、ピートに右半身を見せながら電話を掛けているアリス。その右には、それを見守っているピートの背後の腰から首あたりまでが見える。
アリス: Ban Nuys? Could I have the number for Vanguard Cab?
(28)ピートのアップ。アリスを見ているピートの正面からのショット。
(29)ミドル・ショット。仕切りの壁ぎわで、ピートに右半身を見せながら電話を掛けているアリス。その右には、それを見守っているピートの背後の腰から首あたりまでが見える。画面に背中を向け、タクシー会社の電話番号を書き留めるアリス。
(30)ピートのアップ。アリスを見ているピートの正面からのショット。やがて意を決したように前に進み、画面左に消える。
(31)ミドル・ショット。画面に背中を向け、右手に受話器を持ち左手にバッグがぶらさげつつ、タクシー会社の電話をかけるアリス。彼女に近づいていくピートの後ろ姿。それを追って、前進するショット。
アリス: Hello. Yes, I need taxi. Arnie's Garage, the cotner of 5th...
少し右にパンしつつ、二人のバスト・ショットになるまでクロース・アップ。アリスが持っている受話器に右手を伸ばすピート。それを取り上げ、うつむき加減に左側面をみせながら耳に当てる。
ピート: Hello? Uh, yeah, we're not going to need that cab. Thanks.
画面右手のピートのほうをやや振り返るアリス。そのまま受話器を電話機に戻すピート。彼はアリスを見る。笑みを浮かべながらピートのほうに向き直るアリス。仕切りに背中を向け、ピートを見つめる。しばし、黙ったままみつめあう二人。やがて、アリスはピートのほうに二歩近づく。
アリス:(しばらく躊躇ったあと)Maybe we should just skip dinner.

カット(19)以降に描かれているアリスの「言動」は、フレッドにとってこれ以上ないほど「都合のよい」ものであることは論をまたない。アリスはピートを「食事」に誘い、彼のほうは「どうかな(I don't know)」と応える(カット(20))。要するに、(1:08:48)におけるピートとシーラの遣り取りの「ヴァリエーション」をこの二人はリフレインしているのだ……ただし、「男女の位置」を逆にした形で。これがフレッドによる巧妙な「自己弁護」であり、「欺瞞」でしかないことは明白だろう。シーラのときと違い、彼はあくまでこの再度の邂逅を意図したのは自分ではなく、アリスであることにしたいのである。そのほうが彼にとって「都合のいい」ことは、たとえば今この瞬間アリスが「ミスター・エディ=現実」から分断されているとしても、彼女が基本的に「現実」のイメージを付随させその支配下にあることを考えれば明らかだ。このシークエンスの具体的映像においても、彼女は「工場」の「外界=自動車が行き交う道路」を背にし、それと関連付けられていることがわかる(カット(9)(11)(17))。

なによりもミスター・エディが備える「直截な力」に関しては、「山道」のシークエンス(1:02:57)における事象をとおしてピート=フレッドもよく知るところだ。であるからこそ、(フレッドに都合よく)なおも迫るアリスに対して、ピートは「それはあまりいい考えではないと思う」と婉曲に断らざるを得ない(カット(22))。繰り返しになるが、フレッドは「レネエの代替イメージ=アリス」を構築しておきながら、同時にそのイメージが自分にとって危険なものであることを……「ミスター・エディ=現実」による「幻想/捏造された現実」への「介入/侵入」を発生させる可能性を秘めたものであることを認識している。あるいは「前半部=幻想/捏造された記憶」が、”「ビデオ・テープ」によって表される「ありのままの記憶」”や”コントロール不能な「現実のレネエ」のイメージ”の侵入によって崩壊させられたことも、フレッドにとっては苦い経験だったはずだ。そもそもそれを踏まえて、フレッドは自分とは大きくかけ離れた「人格」であるピートを核にした「幻想/捏造された現実」を構築したのではなかったか? ピートはこうしたフレッドの「意識」を、その言動によって忠実に「代弁/代行」するのである。

その一方で、前述したように、アリスもフレッドの「意識/感情」を……つまり彼の「レネエに対する希求」を「代弁」し、彼が「意図」する行動を「代行」する存在である。となれば、このシークエンスにおける「ピートとアリスの遣り取り」もまた、「ピートとシーラの会話」(1:10:08)あるいは「ピートとフィルの会話」(1:11:45)と同じく、フレッドの「内面」で発生している二律背反的な「葛藤」を表象していることがわかるだろう。はたして自分=フレッドは、「希求」にしたがって「アリス」を手に入れるべきなのか?

こうしたフレッドの「内面」に発生している「葛藤」を踏まえるなら、カット(23)にみられる彼女の表情が意味するものも、また別な観点から捉えられるはずだ。ストレートに考えるならば(つまり、ナラティヴな観点からみるならば)これは男から誘いを断られた女性の内心を語るものだ。だが、アリスをフレッドの「代弁者/代行者」として考えるなら、これは「希求の対象」をあきらめようとした瞬間にフレッドの「内面」をよぎったものを「代弁」していることになる。

ピートに「誘い」を断られたアリスは、再び「タクシー」で去ろうとする(カット(31))。彼女がタクシーを呼ぶために使用しようとするのは、「前半部=幻想/捏造された記憶」において、何度も繰り返し「外界との間接的接触手段」として登場した「電話」である。しかし、その「外界との接触」をピートは遮断する。その後彼が(あるいは彼らが)とった行動をみるなら、このピートによる「電話の切断=外界との接触の遮断」が表象するところは明白だろう。彼は「外界=現実」との接触を拒否し、自らの「内面」を、そしてそこで発生している「感情」を優先するのだ。彼は「レネエの代替イメージ=アリス」への「希求」を選択する決意をしたのであり、それはカット(30)における彼の表情からも明らかだ。

これまで述べてきたことからもわかるように、フレッドにとってはこれはかなり大きな「意識の変動」である。もちろん、この「変動」は、フレッドが抱いている「レネエへの希求」がどれだけ強いものであるかを物語ると同時に、彼が彼女を殺害するに至った「心理的経緯」を我々=受容者が理解するための手掛かりを提示するものだ。一応、それらの事項を理解しつつも、我々はやはりこのシークエンスにおけるフレッドの「心理的変遷」の落差を思わずにはいられない。片方で「現実の侵入」への恐怖を抱きながらも、彼がこの「決意」に至る機序とはどういうものなのだろうか? あるいはその「変遷の落差」を埋め、作品の全体構造のなかで彼のこの「決意」が意味するものを明確にするのが、冒頭で挙げた”「夕刻」から「夜」へと変遷する映像”であるわけだが、その詳細に関しては次回に譲ろう。

(この項、続く)

2009年4月 2日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (39)

某集団の花見大会は、現地着が24時間遅れるという豪快な遅刻者を出しつつ(笑)、つつがなく終了。すげえ寒くて酔っぱらうはなから醒めて悪酔いしないという、日頃ダメダメな連中にはいいんだか悪いんだかよくわからない仕様のお花見でありました。いや、どーせ二次会以降の居酒屋でテッテ的にダメになってんだから、結局は同じなんだけどネ(笑)。以上、季節ネタでした。

てなことで続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」のお話であったりする。今回は(1:13:39)から(1:14:56)まで。

アーニーの自動車工場 内部 昼 (続き)(1:13:39)
(22)[This magic moment]
スロー・モーション。キャディに近寄るミスター・エディの背中のアップ。それが画面左に消えたあと、キャディの助手席に座ったアリスのアップが視界に入ってくる。目を伏せるようにして、左の画面外から差し伸べられたミスター・エディの左手を左手で握り、右手をシートの上辺にかけつつ、開けられた助手席のドアから車外に出るアリス。それを追って左上方にパンする視点。左側からミスター・エディの腹部が視界に入ってくる。車から降り、目を伏せたまま立ち上がる半袖の黒いドレスを着たアリス。
--This magic moment
ミスター・エディの背中がアウト・フォーカス気味に視界に入ってくる。立ち上がり、工場の入り口のほうに向かいながら、画面の手前、ピートがいる方向を見るアリス。歩くにつれ、ミスター・エディの体の陰に隠れてアリスは見えなくなる。
(23)ピートのクロース・アップ。右斜め前からのショット。画面左、アリスのほうを見ている。
--So different and so new, was like any other
(24)アリスのアップ。スロー・モーション。工場を出ていくアリスの、左斜め背後からのショット。左にパン。歩きながら左の肩越しに後方、ピートのほうをを振り返るアリス。画面左端には、金髪のボディ・ガードがこちらを向いて立っているのがアウト・フォーカスで見える。
--Untill I met you
(25)ピートのクロース・アップ。右斜め前からのショット。画面の左、アリスの方を見ている。
--And then it happened
(26)アリスのクロース・アップ。スロー・モーション。ミスター・エディのベンツに乗り込もうとしている、アリスの背後からのショット。右側に振り返り、画面手前、ピートのほうを見るアリス。ベンツの屋根が見えている。
--It took me by surprise
画面手前を見たまま、ベンツの助手席に座るために腰を下ろすアリス。それを追って下にパンするショット。ベンツの屋根から上部が視界に入ってくる。ベンツの向こうでは、運転席に向かうミスター・エディが、アウト・フォーカスで見えている。ベンツの右後部座席のドアの前には、黒髪のボディ・ガードが立っているのがアウト・フォーカスで見えている。
--I knew that you felt it, too
画面手前を見たまま、ベンツの助手席に座るアリス。その背後では、進み出た黒髪のボディ・ガードがミスター・エディのために運転席のドアを開けるのが、助手席の開いたドア越しにアリスの背後に見える。
(27)ピートのクロース・アップ。右斜め前からのショット。画面左手、アリスたちのほうを見ているピート。
--I could see it by the look in your eyes
(28)アリスのアップ。スロー・モーション。ベンツの助手席に座り、斜め右前方を見ている。その背後では、運転席のドアを開ける黒髪のボディ・ガードの右腕と胴がサイド・ウィンドゥ越しに見えている。
--Sweeter than wine
運転席に座り、ハンドルに右手を伸ばすミスター・エディが見える。閉められる助手席のドア。
--Softer than a summer's night
ドアを閉めている金髪のボディ・ガードの薄茶色のジャケットが、画面右端から視界に入ってくる。スモークのサイド・ウインドゥに映っている金髪のボディ・ガードの歪んだ顔。運転席を閉め終わり、後部座席のドアに向かっている黒髪のボディ・ガードが、サイド・ウィンドウ越しに見えている。
--Everthing I want, I have
助手席のドアを閉め終わり、後部座席のドアのほうに向かう金髪のボディ・ガード。j書首席のドア越しに画面手前を見ているアリスの前を横切り、画面左端から消える。
--Whether I hold you tight
(29)ピートのクロース・アップ。ピートの右斜め前からのショット。画面左、アリスのほうを見ているピート。画面外でベンツが走り去るのにあわせて、視線を自分の正面方向に移動させる。
--This magic moment
--While your lips are close to mine
(ディゾルヴ)

このシークエンスでは「スローモーション」が使われるとともに、そのバックにはルー・リードの「This Magic Moment」が流される。通常の映像文法的に捉えるなら、こうした手法は「客観的描写」から「主観的描写」への転換……すなわち、この作品に沿っていえば「作品内現実」からピート=フレッドの「感情」といった「内的部分」を描く映像への「転換」として理解されるものである。スローモーションをこのように「登場人物の感情を表象する(あるいは強調する)表現」として使用する手法自体は非常に「常套的」であり、おそらく特段の説明を必要としないだろう。このシークエンス関していうなら、「レネエのヴァリエーション」である「アリス」のイメージに対してピート=フレッドが「希求」を感じたことが表象(あるいは強調)されていることは明白だ。

しかし、見方によっては、これはある種の「過剰性」である。そもそもこれまで提示されきた映像がすべてフレッドの「内的なものの反映」であるならば、こうした「転換の手法」はいわば屋上屋を重ねるようなものである。この「過剰性」は、たとえば「前半部」の「幻想/捏造された記憶」のパートに登場する「フレッドの夢」(0:16:52)のシークエンスや、あるいは「フレッドとミステリー・マンの邂逅」のシークエンス(0:27:48)との対比においても明らかだ。そこで使われていたヴォイス・オーヴァーや「音楽の消滅」もまたこうした「過剰性」の範疇に入りかねないものだったが、構造上それを免れているといえる。なぜなら、これらの「フレッドの幻想」自体がむしろ「ありのままの現実」に限りなく近いものであり、彼の「捏造された記憶」のなかではそれが逆転して「夢/幻想」として語られていると捉えられるからだ。しかし、このシークエンスにおけるスローモーションあるいは音響(=音楽)は、ピート=フレッドが抱いた「感情の表象(あるいは強調)」としてストレートに表れている。

以前にも指摘したように、これはリンチ作品のある特性を表す好例といってよいだろう。リンチの諸作品におけるカッティイングは、基本的にハリウッド的な編集からはみ出さず、むしろそれを踏襲していることは明らかだ。このシークエンスの「スローモーション」や使用される音楽の選択もあまりに「常套的」であり……率直なところをいうと「ベタ」過ぎて、かえってある種の「異化作用」を狙っているのかとすら疑ってしまうほどだ。

だが、おそらく、そのような「異化作用」すらリンチが意図するものではない。基本的に非ナラティヴな作品でありながら、リンチの諸作品はナラティヴな作品……つまり、「物語」を伝えることに特化した映画作品群と同一の「外見(ルック)」をなぞる。そして、おそらくリンチ自身は自分の作品が(前述したような「過剰性」といった)ある種の「矛盾点」を抱えることになんの疑問も抱いていないようだ。先鋭的な映像作家の多くが、映像文法を自覚的に「放棄」したりあるいは「過剰」に用いることを通じて「映像文法自体」の「解体/再構築」を行い、「映像というメディア」の特性そのものに言及するのに対し、リンチはほとんどそうした方法論に目を向けない。リンチにとって「映画」とは(ざっくばらんにいえば)「ハリウッド映画の文法規範」によって作られる「べき」ものなのであり、そこからの「意識的な逸脱」は特に視界にないようだ。多くの評者がリンチ作品に「映画の記憶」を見い出し言及するが、そこに存在するのは特定の作品への「目配せ」の範疇を越えた、もっと根源的な部分……「ハリウッド映画が備える形式」の踏襲である。

それはリンチが「映画」を「動く写真」の延長線上に捉えていないこと、あるいはアンドレ・バザンのいう「本質的な客観性」を備えたものとは考えていないことを表している。あるいは「アリスが消滅する写真」(2:06:38)といった発想の根底にあるのは、そうした意識だ。基本的にリンチにとって、映画や絵画や写真といった「メディアの差異」は「個別のアイデアをどれが適正に表現できるか」を基準に選ばれる「選択肢としての差異」でしかない。そして、「インランド・エンパイア」によって宣言されたように、リンチが考える「映画」とは、やはりその「表現主義的なアイデア」を反映させることのできる「とびきり優秀な感情移入装置」に他ならないのだ。

さて、カット(22)にあるように引き続き「ミスター・エディ=現実」の介入を受けながらも、アリスに向けられるピートの「視線」は次第にエスカレートする(カット(23))。そして、カット(24)において、ついにピートとアリスは「視線の交換」に成功する。これはフレッドの「感情」をキーにして考えるなら、「アリス=レネエのヴァリエーション」からの「視線」を受け取りたいという「希求」の結果に他ならない。「現実の妨害」……というより、「レネエはすでに存在しない」という「現実」を乗り越えて、フレッドはピートを核にした「幻想/捏造された現実」のなかで究極の「レネエの代替イメージ」を構築したのだ。いうまでもなく、「アリス」もまたフレッドの「代行者/代弁者」として機能しており、彼女がピートと「視線」を交換するのはフレッドの「希求」に応えてのことである。

ピート=フレッドは「工場の内部」から、「工場の外部」を背景にした……つまり「外界」に関連付けられたアリスに向かって執拗に「視線」を向ける(カット(25)(27))。だが両者の「視線の交換」は一度は成立したものの、最終的にアリスはミスター・エディのベンツに「乗り」……すなわち彼女がミスター・エディの「コントロール下」におかれていることを明示しつつ、ボディ・ガードという「直截な力」が閉めるドアによって再びピートから「分断」される。手に入れかけたと思われた「希求の対象=アリス」は、またもやピートの手の届かないところにやられるのだ。カット(29)におけるピートの表情が、フレッドの複雑な「感情」を「代弁」する……はたして彼は自分の「希求」に従って、「現実」の支配下にある「アリス」を手に入れるべきなのか?

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