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2009年3月

2009年3月22日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (38)

さて、非常にお陽気もおヨロシくなってきて、某集団主催のお花見大会も近づいてきた今日この頃。てなことで、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。いや、あんまし関係ないのだけれど、いつもいつもまったく季節感がないこと夥しいので、ちょいと時事ネタも入れてみよーかなと(笑)。そーいえば、そろそろNFLのドラフトも近くなって、レギュラー・シーズン全敗のデトロイトは果たしてドラ1でどのポジションを補強するのか、ワシントンは選手じゃなくてオーナーをドラフトで獲得できればいいのにね……って、ほら、なんと時事ネタが二つも(笑)。

なんのこっちゃな前振りが終わったところで(笑)、今回は(1:12:50)から(1:13:39)まで。

しかし、「ラジオの音楽」という形の「現実の侵入」を回避したのも束の間、「自動車工場」は再び新たな「侵入」を受ける。「ミスター・エディ=現実」が、先に宣言したように(1:06:57)「再訪」を果たすのだ。

アーニーの自動車修理工場(続き) 内部 昼 (1:12:50)
(11)ミドル・ショット。画面右半分を閉めるタイヤのアップ。画面左にはアウト・フォーカスで工場の赤い壁と、その後方の三つ並んだ大きな窓。下方にゆっくりとパン。それに連れて、画面左から入ってきた、白リボンのタイヤに黒いボディのキャデラックのオープン・カーにフォーカスがあう。逆にアウト・フォーカスになっていく画面右のタイヤのアップ。そのタイヤのアップにボンネットあたりまでを隠しながら停車するキャディ。助手席には金髪の女性が座っているのが見える。
[工場内に響くキャディのクラクション]
(12)ミドル・ショット。自動車の下に潜り込んで、修理作業を行っているピート。足元、左斜め下から見下ろすショット。クラクションの音を聞いて、自動車の下から滑り出るピート。少し体を起こしてクラクションの方向を見る。
(13)ミドル・ショット。修理工場内に停車している黒のキャディの右側面。助手席には金髪の女性が座ったままで、キャディの向こう側にはミスター・エディが車を降りて立っている。画面右端には、アウト・フォーカス気味のタイヤのアップ。画面手前を見たまま、キャディの前部の方に歩き出すミスター・エディ。
(14)ピートのアップ。作業台から慌てて立ち上がるピート。それを追って上方にパン。画面手前、キャディのほうを見ているピート。右斜め前からのショット。
(15)ミドル・ショット。右側面を見せて停車している黒のキャディと、助手席に座ったまま画面手前、ピートのほうを見ている肩までの金髪の女性。
(16)ピートのアップ。右斜め前からのショット。自分の正面、キャディが停められている方向を見ている。
(17)アリスのアップ。キャディの右側面からのアップ。助手席に座ったまま、画面手前、ピートの方を見ている。その前に画面右から現れるミスター・エディ。彼の顔をアップで画面に収めて少し上方にパンすると同時に、彼の顔にイン・フォーカス。背景は、逆にアウト・フォーカスになる。
ミスターエディ:
I'm leaving the Caddy like I told you.

そして、「アリス」のイメージが登場する。作品の終盤でミステリー・マンが喝破するように(1:58:09)、彼女は「レネエ」のイメージを踏襲して構築されており、本質的にこの両者が「等価」であることについては以前にも述べた。また、こうした表現がリンチ特有の表現主義的な発想に基づいたものであることも「概論」で指摘したとおりである。すなわち、フレッドとピートが「異なる人格」であることが「異なった演技者」によって演じられることで表されるのとは逆に、レネエとアリスが「同一の人格」であることが「同一の演技者」によって演じられることで表される。

この「アリス」のイメージがフレッドの「意識/感情」の反映として現れていることについても、あえて詳述する必要はないだろう。前々回に触れたように、ピート=フレッドは「レネエの代替イメージ」としてのシーラに充足していない。「幻想/捏造された現実」の維持を優先するなら、ピート=フレッドは「恋人(の幻想)」であるシーラで満足する「べき」なのだが、彼の心のどこかに存在する「レネエを希求する感情」がそれを許さないのだ。いわば「アリスのイメージ」は、このような彼の「葛藤」の結果の産物……あるいは「妥協」の産物である。「ありのままのレネエ」のイメージを自らの「幻想/捏造された現実」の内部に喚起することができないフレッドは、「黒髪→金髪」という「修正(モデファイ)」が加えられた「レネエのヴァリエーション=アリス」のイメージを喚起してしまうのだ。

だが「レネエのヴァリエーション」である限りにおいて、「アリスのイメージ」もまた「ありのままの現実」に所属するものであり、「現実」のイメージを付随させるものにならざるを得ない。それを表象して、彼女は「ミスター・エディ=現実」に連れられて「アーニーの自動車工場」に姿を現す(カット(13))。カット(16)の映像に表れるピートの表情が、彼の「希求」の度合いを明確に物語るが、後のシークエンスにおいて明示されるように彼女はミスター・エディの支配下に置かれており、ピート=フレッドからは「分断」され「隔絶」していることがさまざまな映像によって示唆される。

たとえば、カット(11)にあるように、画面を支配するのは右半分を占める「黒々としたタイヤ」のアップであり、アリスはあくまでその遠景として押し込められた形で現れ、ピートからは距離をもって描かれる。ピートは彼女を仔細に見ようとするが(カット(16))、カウンター・ショットとして提示される彼の主観ショット(カット(17))では、その「視線」の前にミスター・エディが立ちはだかり、せっかくアップになったアリスの姿をアウト・フォーカスの背景へと追いやってしまう。同時に、成立しかけていたピートとアリスの「視線の交換」もミスター・エディによって妨害され、完全に分断される。二人は「分断」され、「隔絶」させられるのだ。

あるいは見方をかえるなら、アリスにとってかわって、最終的にミスター・エディがこのショット(カット(17))の「支配的映像」となることに表されるように、ミスター・エディはフレッドの「幻想/捏造された現実」に侵入し、そこで発生する「事象」をまさしく「支配」している。このシークエンスで起きる事象は、明らかに彼=現実の統制下にあり、その結果、本来はフレッドにとって「都合のよいもの」であるはずの「幻想」は機能を著しく制限されてしまうのである。

前述したように、アリス=レネエへのピート=フレッドの「希求」は「ミスター・エディ=現実」によって阻害され、決して充足されることがない。とはいえ、ごく客観的にみるかぎりにおいて、これは至極当然のことである。なぜなら「ありのままの現実」においてレネエがすでに「不在」である限り……有体にいうならフレッドによって彼女が殺害されてしまった以上、フレッドのレネエに対する「希求」を満足させる方法など、現実問題としてどこにも存在し得ないからだ。つまり、「現実的」にフレッドの「希求」が満たされる可能性は、最初からゼロなのである。もしこの「希求」が充足される可能性が存在するとしたら、それは「非現実=幻想」においてのみなのだ……そう、「前半部」における「幻想/捏造された記憶」がそうであったように。

(1:13:17)
(18)ピートのアップ。ミスター・エディの右背後からのショット。至近距離で二人は向き合っている。
ミスター・エディ:
Think you'll get a chance to give her the once-over today?
ピートにフォーカスをあわせ、右に回り込む視点。
ピート: Sure. Uh, you want to pick it up later on, or uh, or in the morning?
ミスター・エディの右肩越し、彼がアウト・フォーカス気味になる地点で停止する視点。
(19)ミスター・エディのアップ。ピートの左肩越しのやや斜め左からのショット。彼の背後にはアウト・フォーカスになった工場の内部。
ミスター・エディ: Well, if you think you can finish it, I'll be back later today.
(20)ピートのアップ。ミスター・エディの右肩越し、やや斜め右からのショット。
ピート:(ミスター・エディを見つめながら)It'll be done.
ミスター・エディ: You're my man, Pete.
右手を上げ、ピートの左頬をつねるミスター・エディ。目をつぶって頬をつねられているピート。ミスター・エディが手を放し、ピートは笑みを浮かべる。
(21)ミスター・エディのアップ。ピートの左肩越し、やや斜め左からのショット。笑みを浮かべているミスター・エディ。そのまま振り返り、キャディのほうに歩み寄る。それを見守っているピート。右に回り込み、歩み去るミスター・エディの背中越しに、助手席にアリスが座ったキャディを捉えるショット。
(22)ピートのアップ。画面左の方向、キャディのほうを見ているピート。
[サンダーで物を削る音]

このシークエンスが提示するように、「顧客=ミスター・エディ」と「被雇用者=ピート=フレッド」の関係は継続されたままである。この「関係」が持続する限りにおいて……すなわち、「現実=ミスター・エディ」が規定する「ルール」に従っている(ように振舞う)限りにおいて、ピートはミスター・エディの「お気に入り(my man)」でいることができ、「直裁的な力」の行使を免れることができる。ピート=フレッドはこのことを認識しており、「幻想/捏造された現実」を維持するべくリアクションするわけだが、いずれにせよ、彼に選択の余地はないといえる。ミスター・エディが修理されたキャデラックを回収するために、早かれ遅かれ(今日中であれ明日の朝であれ)「自動車工場」を「再々訪=侵入」することは確実であり、ピート=フレッドにそれを排除する手段は(今のところ)ないのだから。

しかし、カット(18)で行われる「今日、彼女をちょっと調べられるか?」というミスター・エディの発言は興味深いものがある。もちろん、第一義的に「彼女」という代名詞が指すのは「修理に持ち込まれたキャデラック」のことである。だが、先ほどのシークエンスのカット(16)で描かれ、この後も何度か描かれる「ピートの視線」が意味するもの、そしてその「対象」を考えるなら、あるいはこれは複義的な言及である。さて、ピート=フレッドが「ちょっと調べる」のは「キャデラック」だけなのか?

(この項、続く)

2009年3月17日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (37)

てなことで、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(1:11:45)から(1:12:50)まで。

「恋人(の幻想)」であるシーラを「使い」、「幻想/捏造された現実」の修復を遂げるとともにそれへの統制を取り戻したピート=フレッドだったが、その後も「現実の侵入」は止まらない。このシークエンスで描かれるのもそうした「現実の侵入」を表す事象であり、その舞台となるのは、やはり彼の「幻想/捏造された現実」においてもっとも開放され、「現実の侵入」に対して脆弱である部分……「職場(の幻想)」である「アーニーの自動車工場」においてだ。

アーニーの自動車修理工場 内部 昼 (1:11:45)
(フェイド・イン)
(1)ミドル・ショット。ジャッキ・アップした自動車の下で仰向けになり、作業をしている作業服姿のピート。ピートの足元左斜めの方向から見下ろすショット。画面左には、修理されている自動車の白いボディの一部と、白リボンのタイヤとホィールの一部が見えている。右手でボディの裏側にある何かをいじっているピート。
[ラジオからジャズが流れている]
(2)ミドル・ショット。初老の修理工(フィル)の腰の上あたりのショット。彼の左斜め前、やや下方からのショット。大きなジャッキ台で目の高さに上げられた自動車を修理しているフィル。長いドライバーを使ってネジを外し、外したネジを自分の左手にある棚式の工具入れの上に置くフィル。置き終わって、また別のネジを外しにかかる。
(3)ミドル・ショット。車の下で仰向けになって作業しているピートの、足元左斜めからの見下ろすショット。両手をボディの陰に突っ込んで、何かをいじっているピート。
[高まるテナー・サックスの音]
手をだらりと下ろし、目をつぶって顔をしかめるピート。左手を頭のあたりに持っていく。あえぎ始めるピート。左手は、頭を離れて左胸のあたりに置かれる。まず左手を、次に右手を修理していた車のボディにかけ、起き上がるピート。それに連れて右上にパン。立ち上がり、赤い工具入れの上に置かれた卓上ラジオに右手を伸ばし、選局のダイヤルを回す。
[局間のザーというノイズ]
(4)ミドル・ショット。フィルの腰から上あたりのショット。右手に持ったスパナを見ていたが、ラジオの音楽が消えたのに気づき、画面左手を見る。そのままスパナを両手で持ち、首を右にかしげながら、ピートのほうに近づくフィル。それを追って左にパン。
(5)ピートのアップ。彼の左側面、やや後方からのショット。うつむき加減に左に体を回すピート。苦しそうな表情をしている。
(6)ミドル・ショット。ピートの正面からの腰の上あたりからのショット。右からレンチを両手で持ったフィルが近寄ってくる。少し後退する視線。
フィル:(ピートのほうに首を突き出すようにしながら)What'd you change it for?
フィルのほうを見るピート。
(7)ピートのアップ。フィルの左肩越し、斜め左からのショット。唇をなめるピート。
フィル:(ラジオのほうに首を振って)I like that.
ピート:(あえぎながら)Well, I don't.
画面左方に目を逸らすピート。
(8)ミドル・ショット。ピートの正面からのショット。画面左下方に目を落とし、あえいでいるピート。そのまま自分の右前のほうに歩き始める。それを追って、左へパン。アップになるまで近付き、またローラーのついた作業台の上に腰を下ろし、ついで仰向けになるピート。だが、右手を頭の上に投げ出して苦しそうにしており、すぐに作業にはかかれそうにもない。
(9)ミドル・ショット。フィルのバスト・ショット。斜め右、やや下方からのショット。半身になり、右手の人差し指をラジオのほうに向けて振るフィル。
フィル: I like that.
右手を下ろし、自分の作業を続けるために右手に歩くフィル。それを追って右へパン。持っていたレンチを工具台の上に置く。画面右に見えているジャッキ・アップされた自動車の一部。
(10)ミドル・ショット。仰向けになって車の下に潜り込んでいるピート。足元、斜め左からの見下ろすショット。作業に戻ろうとしているが、すぐにだらりと左手を左胸に乗せ、目をつぶる。
[流れているピアノ音楽]

カット(1)(2)(3)で、ラジオから流れているフリー・ジャズは、「前半部」においてフレッドが「ルナ・ラウンジ」で演奏していた曲と同一である(0:06:52)。つまり、この「音楽のイメージ」は、「フレッドの現実=ありのままの記憶」のイメージに関連しているものであるわけだ。結論からいうなら、これは形を変えた「現実の侵入」なのである。そもそも「後半部」におけるピートを核にした「幻想/捏造された現実」は、「フレッドの現実」に関連するものを可能な限り排除し、それと重ならないイメージを集積することで成立していたはずである。であるからこそこの「幻想/捏造された現実」はフレッドにとって「遁走の対象」となり得るのであって、そこに「フレッドに関連するイメージ」が現れることは、本来は考えられない事態なのだ。

この「音楽=現実の侵入」を耳にしたピートは、頭痛を訴え「苦悶」する(カット(3))。頭を押さえ顔をしかめるその様子は、死刑囚房のシークエンスでフレッドがみせた様子とまったく同一である(0:47:04)。この「同一性」は、第一義的には、フレッドとピートの「同一性」……つまり、フレッドとピートが、その「内面性」において本質的に「同一の存在」であることを示唆するものである。これ以降もピートはときとして同様の「苦悶」をみせるが、そのトリガーとなっているのは、やはり「フレッドにとって都合の悪い事象」の発生である。ピートを核にした「幻想/捏造された現実」が「ありのまま現実の侵入」を受け、フレッドの「意識」が「ありのままの現実」への覚醒に傾くに際し、ピート=フレッドは(肉体的にも)「苦悶」を覚えるのである……「現実」から逃れ「遁走」に向かう直前にそうであったように。

いうまでもなく、このシークエンスで発生している事象……「ありのままの現実」に関連する「音楽のイメージ」の発生……も、フレッドにとって「都合の悪いもの」である。それを回避するために、彼の「代行者」であるピートは「ラジオ局を変える」というリアクションをとる(カット(3))。ところが、このリアクションは、同じ工員仲間であるフィルの非難の対象となってしまう(カット(6))。この二人による音楽を巡る「遣り取り」が、実は前回とりあげた「ピートとシーラの会話が表すもの」の「構図(パターン)」を踏襲しており、いわばその「ヴァリエーション」であることはおわかりだろう。フィルもまた、シーラやピートと同様「フレッドの代弁者/代行者」として機能し、フレッドの「もうひとつの感情」を「代弁」しているのである……すなわち、「ピート=フレッド」はこの曲が「嫌い」だが(カット(7))、「フィル=フレッド」はこの音楽が「好き」なのだ(カット(7)(9))。「ピートとシーラの会話」と同様に、「ピートとフィルの会話」もフレッドの「内面」で発生している葛藤を表象している。本来「好き」であるはずの音楽を、フレッドは自分の「幻想/捏造された現実」を維持するために「嫌い」と宣言しなくてはならない……フレッドが抱く背反した「感情」を、「代弁者/代行者たち」は雄弁に物語るのである。

さて、大きな視点で捉えるなら、最初の「アーニーの自動車工場」のシークエンス(0:58:53)以降に提示される一連の「事象=イメージ」が、フレッドの「感情」や「意識」を反映し、それらをキーにして連鎖的に発生していることは指摘するまでもないだろう。フレッドが構築した「職場=自動車工場」のイメージは、「顧客」のイメージを連鎖的に発生させ、それは「ミスター・エディ=現実」のイメージを喚起してその「侵入」を呼んでしまった。次にそれは「ポルノのビデオ・テープ」という「現実のレネエ(に対するフレッドの疑惑)」のイメージを付随させた「脅威」の喚起へとつながり、それによる「ダメージ」から「幻想/捏造された現実」を修復する作業は、フレッドの「内面」において発生している「背反した感情」をかえって浮き彫りにしてしまう。こうしてみる限りにおいて、「前半部」における「幻想/捏造された記憶」の崩壊がそうであったように、「後半部」における「幻想/捏造された現実」を崩壊に導くのも実は「フレッド自身」の「意識」や「想念」に他ならないのだ。かつ、「後半部」の幻想を「崩壊」させる萌芽は、実はかなり早い段階から現れていることに気づく。

とはいえ、ピート=フレッドは、まだそれほどの危機感を抱いてるわけではない。「ラジオのチューニング」を変えて「現実の侵入」の排除に成功することに表れているように、「幻想/捏造された現実」のコントロールは現在も彼の手の中にある。ピート=フレッドは「ありのまま現実」の侵入を警戒しながらも、自分はそれが引き起こす「危機」を回避できると思っている。そして、みてのとおり、実際、それに成功しているのだ……少なくとも今のところは。

2009年3月14日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (36)

てなことで、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(1:08:29)から(1:11:45)まで。「ミスター・エディ=現実」の「侵入」によって「自我」を傷つけられたピート=フレッドが、いかにそれを「修復」するかを表象するシークエンスについてをば。

さて、ピート=フレッドが「自我」を「修復」するに際して、「シーラのイメージ」が選択されるのは決して偶然ではない。そもそもフレッドが「ピートの恋人(の幻想)」として「シーラのイメージ」を構築したのは、「現実のレネエに関する記憶」の代替として機能させるためであったはずだ。その一方で、ミスター・エディによって提示された「脅威」は、「ポルノのビデオ・テープ」の形をとっていた。それが付随させる「直裁的なセックス」のイメージはいうまでもないが、前回述べたような機序で、この「ポルノのビデオ・テープ」は「フレッドが抱いていた、レネエへの疑惑」を表象しており、ということはつまり、「現実のレネエ」のイメージと連結されている。ピート=フレッドが「自我」にダメージを受けたのは、まさにそうした理由であり、であるならばそのダメージから回復するためには、「レネエの代替イメージ」であり、かつレネエの「欠点」を欠落させた「シーラのイメージ」が必要とされるのである。

そして、ピート=フレッドの思惑どおり、「シーラ」のイメージは彼に「都合のいい」ように「機能」する。「何が欲しいのか?(What do you want?)」と親切にも彼に尋ね、「ドライブ」に誘われると(You want to go for a drive?)、一度は「どうしようか(I don't know)」と迷う素振りをみせながらも、再度ピートに誘われればそれにしたがって素直に「車に乗り込む」(1:08:48)……まるで、ピートがミスター・エディの車に乗せられ、山道を連れ回された事象(「Let's take a ride!」)をリフレインするかのように(1:02:43)。いや、より正確にいうなら、そうではない。「ミスター・エディが彼に対して行った行為」を、ピートはシーラに対して同じようにトレースすることを「求める」のである。山道のシークエンスでは「どこに向かうかわからない、他者が運転する車に乗り込む行為」によって、”ピートがミスター・エディの「コントロール下」に置かれること”が表象された。それに対し、このシークエンスでは、”シーラがピートの「コントロール下」に置かれること”が「ピートの車に彼女が乗り込む行為」によって表象されるのだ。このように「シーラのイメージ」がコントロール可能であると確認することを通じて、フレッドは再び「幻想/捏造された現実」を自分の統制下に置くことに成功する。彼の傷ついた「自我」は「修復」される……直前のシークエンスから引き継がれた「夜の闇」に紛れて、密やかに。

だが、その一方で、「シーラ」を喚起するにあたって発生した「彼女との逢瀬」のイメージは、フレッドが抱える「別の問題」をも明らかにしてしまう。

(1:10:08)
シーラ:(唇を離して)Why don't you like me?
ピート:(シーラを見つめながら、左手で彼女の首筋をなぜつつ)I do like you.
シーラ:(右手でピートの左頬を愛撫しつつ、ピートを見返しながら)How much?

「ピートを核にした幻想/捏造された現実」において、そこに現れる事象がすべて「フレッドの意識や感情」の反映であることに関しては、繰り返し述べた。その一例として、そこに登場する人物たちは全員「フレッドの代弁者/代行者」として機能することについても、何度か触れたとおりだ。そうした観点に従うなら、「どうして自分(シーラ)が好きでないのか?」と問い掛けているのは、実はフレッド自身である。言葉をかえるなら、要するに彼は「シーラ」という「レネエの代替イメージ」に満足していないのだ。この「不満足」の理由は後に明示されるが、一言で言うなら、フレッドが希求しているのはあくまで「レネエ」だからだ。シーラがその代替として非常に「都合のいい」存在であるにもかかわらず(あるいはそうであるがゆえに)、彼女はやはり「レネエの代用物」でしかないのである。だが、「レネエ」を希求し彼女に関連するイメージを想起する行為は、せっかく構築した「幻想/捏造された現実」に自ら「現実の侵入」を許してしまうことと同義だ。それを回避するために(あるいはそうした「感情」を否定するために)、ピート=フレッドはシーラに「好きである」由の発言をし、彼女の「どのくらい?」という問い掛けには文字どおり行動で答えるしかない。そもそも「セックスの対象の入手」が、「ポルノのビデオ」から喚起されたフレッドの「希求」のひとつであったのも確かだが、シーラとのそれは彼に完全な「満足」をもたらさないのだ。

このように、シーラとピートの間に発生している会話自体が、背反するフレッドの感情を「代弁」する。彼の「感情」が「シーラ」と「レネエ」との間で引き裂かれていることが、このようにして示唆される。以前にも触れたとおり、これはフレッドが陥っている本質的な「罠」である。「自分に都合のいいもの」であるはずの「幻想/捏造された現実」のなかで、フレッドは「もっとも自分が希求するもの」を手に入れられない。だからといって、「もっとも自分が希求するもの」を「幻想/捏造された現実」のなかに引き込んだなら、それはそのまま「幻想」の崩壊につながってしまう。いずれにしても、再度の「侵入」をミスター・エディが予告したことに表されるように(1:06:57)、フレッドがどのように巧妙に「幻想」を構築しようと、彼は本質的に「現実」から逃れようがない。そして、だからこそ、生ある限りフレッドは繰り返し「遁走」の必要に迫られる……そう、ちょうど作品の「円環構造」が示唆するように、彼は「逃れられない閉じた輪」のなかにいるのだ。

ピート=フレッドに「修復作業」を、「刑事たち」によって表される「監視/追求」のイメージが見守る(1:11:14)。基本的に彼らが依然として「揶揄の対象」でしかないことは、その「登場」の映像(1:09:49)が、これまで現れた二回のショットのパターンを踏襲していること……すなわち、画面の奥から近づいてきて「圧迫のイメージ」を伴いつつ画面一杯になり、座席に座った「刑事たち」のクロース・アップでショットを終えることにも表れているといえる。あるいは、この「パターン化した登場方法」自体が、ユーモアを狙ってのものとも理解されるかもしれないが、いずれにせよ、フレッドが「自我」を修復し「幻想/捏造された現実」への統制を回復する様子を、彼らは黙って見守ることしかできないのである。

2009年3月12日 (木)

「ツイン・ツイン・ピークス」、快調に製作進行中!

本日のdugpa.comネタ。

いつまでたっても「ツイン・ピークス」の続きをリンチが作ってくんないなら、テメーたちで作っちゃうぞ! とゆーわけで、ポートランド州立大の学生たちを中心にファン・フィルムが製作中だそーな。題して「TWIN TWIN PEAKS PROJECT」(笑)。

公式ホームページによると、ファン・ベースで書かれた30エピソードの「サード・シーズン」シナリオをもとに、なんとスノコルミーやノース・ベンドをはじめとするオリジナルTVシリーズのロケ地で撮影を行うとゆーから、こりゃまた豪勢な話だ(笑)。あ、そのかわりといっちゃーなんだけど、キャストもすべてファンが手弁当でやっておりますのでご注意(笑)。

公式ホームページでは、現在「撮影日記」が三日分掲載されております(いや、全部3月9日のアップだけどな)。それによると、「グレート・ノーザン・ホテル」の内部として使われた「キアナ・ロッジ(The Kiana Lodge)」での撮影や、「ダブル・R・ダイナー」の内部撮影で使われ、火事で焼けたあと現在では「ツゥエード・カフェ(Twede’s Cafe)」となっている食堂での撮影が行われた様子。今後も進行にあわせて順次アップされる(と思うぞ)。

Lauraslog300x225 ところで、こちらは「キアナ・ロッジ」の前の湖畔に転がっている、ローラ・パーマーの死体が見つかった近くに鎮座ましましていたとゆー由緒正しい「丸太」(笑)。何年か前、いつの間にかドンブラコと湖に流れ出しちゃったことがあって、ボートで回収するのに大騒ぎだったそーだ。また流れ出したりしないように、今はアンカーで固定されているとゆー話。いやー、この丸太の横で客をビニールでグルグル巻きにして10分寝転がらせる……とゆー「ローラ・パーマー体験アトラクション」を10ドルぐらいの料金でやったら、儲かりませんかね?(笑)

てなわけで、「ツイン・ピークス・フェスティヴァル」での公開を目指して、快調に(ホントにホントだな?)製作が進んでいるよーです。いや、監督が主演女優に惚れて、口説いてフラれて、ショックのあまり製作中断……ってな、自主制作映画によくありがちな事態が発生しないことを祈りつつ(笑)、乞うご期待!(笑)

2009年3月10日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (35)

えー、さても南京玉すだれな感じで続く、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてのハナシである。今回は(1:07:58)から(1:08:29)までをば。

フェイド・アウト、フェイド・インに続いてまず提示されるのは、夜の闇に浮かぶ「ピートの家の外観」のエスタブリッシュメント・ショットである。そして、この「闇」は、続く「家の内部」のショットにも引き継がれる。

ピートの家 内部 夜 (1:08:03)
ミドル・ショット。画面右の闇の中から、ゆっくりと姿を現すピートのバスト・ショット。画面右三分の一のところで、乏しい灯りを浴びながら立ち止まる。じっと前方を見すえているピート。やがて、意を決したように前方に歩き始める。画面左端からピートの横顔が現れ、最初認められた画面右端のピートが鏡に映った鏡像であることがわかる。暗い色のチェックのシャツを着て、鏡の中の自分をじっと見つめるピート。やがて右手を上げ、右の額の傷に指先で触れる。

このショットは、明らかに「前半部」に現れた「フレッドが鏡に映った自分自身を見るショット」(0:37:54)の「ヴァリエーション」である。リフレインではなくヴァリエーションであるのは、両ショットがちょうど「鏡」を見たように左右が反転し、裏返しになっているからだ。現在論じているショットではピートの「鏡像」が画面右に、そして「実体」が左に位置しているが、(0:37:54)からのショットではフレッドの「鏡像」が画面左に、「実体」が右に位置している。この「配置」の「鏡像関係」は、第一義的にはフレッドとピートの「鏡像関係」……つまり、ピートがフレッドの「実体のない鏡像」でありフレッドがピートの「実体」であることを示唆しているといえるだろう。いずれにせよ確実に指摘できるのは、この「ヴァリエーション」が描く「ピートとフレッドの対置関係」が、この二人の「等価性/同一性」を表象しているということだ。

以前に述べたように、(0:37:54)からのショットに現れるフレッドの「実体」と「鏡像」は、それぞれ「幻想のフレッド」と「現実のフレッド」……正確にいえば、”「捏造された記憶」に生きるフレッド”と”「ありのままの記憶」を蘇生させつつあるフレッド”の発生を表していた。そして、現在論じているショットで発生している”ピートの「実体」と「鏡像」”もまた、そうした表現を踏襲していると理解できる。つまり、ここに登場しているのは、”「捏造された現実」に生きるピート=フレッド”と”「ありのままの現実」を思い出しそうになっているピート=フレッド”である。いうまでもなく、こうしたイメージを引き起こしたのは、フレッドの「幻想/捏造された現実」に傍若無人に「侵入」し、「ルールを破った者」を「直裁的な力」で「処罰」してみせるばかりか、「ポルノ=レネエに対するフレッドの疑惑」が収録された「ビデオ・テープ=ありのままの記録」をピート=フレッドに突きつけた存在……ミスター・エディに他ならない。

「現実=ミスター・エディ」による「侵入」と、彼から受けた「脅威」によって、ピート=フレッドは大きく動揺している。”「鏡像」と「実体」のフレッド”の発生は、そのまま「前半部」における「幻想/捏造された記憶」の崩壊へとつながってしまった。同様に、”「鏡像」と「実体」のピート”の発生は、「ピートを核にした幻想/捏造された現実」もまた崩壊の危険に曝されていることを示唆している。いうまでもなく、それはピート=フレッドにとって非常に好ましくない事態だ。

そもそもこの「脅威」の本質を具体的に述べるなら、「外界」から「強制的なコントロール」が下され、フレッドの意のままに「幻想/捏造された現実」が機能しなくなることにある。「山道」のシークエンスについて述べる際に触れたように、「ミスター・エディの車に乗ること」自体が「他者のコントロールを受けること=自分がコントロールする権限を失うこと」を表象するわけだが、問題はそうした事態に直面するにあたって、「処罰されるドライバー」と同様、ピート=フレッドがほとんど無力であったことだ。かろうじて「ポルノ」の「ビデオ・テープ」のオファーを断ることには成功したものの、「幻想/捏造された現実」(それは自分自身のために構築したはずだった)に対するコントロールを一時的にせよ奪われたことで、フレッドの「自我」は傷ついている。「ピートを核にした幻想/捏造された現実」への「遁走」が、「レネエを殺したこと」による「自責の念」や「罪の意識」から「自我を保護すること」をも目的にしていると考えるなら、フレッドの「自我」は二重に傷ついているといってよいだろう。

「裏庭」のシークエンス(0:55:08)において、「前半部」に登場したいろいろな「脅威」が「安全化/無力化」されたように、ミスター・エディによる「脅威」もまた「安全化/無力化」されなくてはならない。「後半部」の冒頭でピートが獲得した「全能感」を取り戻すためにも、「ミスター・エディ=現実」の「脅威」によって傷つけられた「自我」は修復されねばならないのだ。こうした「イメージの連鎖」に基づき、ディゾルヴによるカッティングを伴って、シークエンスは”ピート=フレッドが「傷ついた自我の修復」を試みる”イメージへと連結される。そこで喚起されるのは、「恋人(の幻想)」のイメージである「シーラ」だ。

2009年3月 8日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (34)

ぶっ壊れたデスクトップの入れ替えやら、新しい無線LANルータの設置やらでバタバタしている大山崎でございます。今年に入って、もう何度PCのセッティングをしてるのやら(笑)。おかしいなあ、そんなハズじゃなかったのになあ。とりあえずひととおりセッティングを終えて、一息ついている状況。もう当分、何も壊れてくれるなよ(笑)。

そんなこんなしながら難渋しつつ進行中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」であったりする。今回は(1:06:39)から(1:07:58)まで。

ミスター・エディとピートを乗せたベンツは、山道のドライブから「自動車工場」に帰還する。引き続きこのシークエンスにおいても、ミスター・エディが付随させているさまざまなイメージが明らかにされる。

アーニーの自動車修理工場 外部  (1:06:49)
(1)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの助手席側からの助手席のサイド・ウィンドウ越しのショット。助手席のドアを開けて降りようとするピートを、その向こうの運転席にいるミスター・エディが呼び止める。
ミスター・エディ: Wait a minute...
ベンツを降りようとしてとどまり、再び座席に座ってミスター・エディの方を見るピート。シャツの胸ポケットから紙幣を取り出し、二枚ほどをピートに差し出す。
(2)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの運転席側から、運転席のサイド・ウィンドウ越しのショット。助手席のピートのほうを見て、紙幣を差し出しているミスター・エディ。それを受け取り、ミスター・エディを見るピート。
ピート: Thanks, Mr Eddy.
(3)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの助手席側から、助手席のサイド・ウィンドウ越しに車内を見るショット。作業服の胸ポケットに、受けとった紙幣を突っ込んでいるピート。残った紙幣を再びシャツの胸ポケットにしまうミスター・エディ。
ミスター・エディ:
No. Thank you. I'll be bringing the Caddy by tomorrow.
ミスター・エディが助手席のほうに身を乗り出し、ピートの前にある画面外のダッシュ・ボードに右手を伸ばす。画面外でコンパートメント・ボックスを開け、右手で取り出したビデオ・テープをピートの前に差し上げる。
ミスター・エディ:(ピートを見ながら)You like pornos?
(4)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの運転席側から、運転席のサイド・ウィンドウ越しに車内を見るショット。
ピート:(差し出されたビデオ・テープを見ながら)Pornos...
ミスター・エディに視線を移すピート。
(5)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの助手席側から、助手席のサイド・ウィンドウ越しに車内を見るショット。
ミスター・エディ:(手に持ったビデオ・テープを見ながら)Give you a boner?
横目でピートを見るミスター・エディ。
(6)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの運転席側から、運転席のサイド・ウィンドウ越しに車内を見るショット。笑いながら差し出されたビデオ・テープに目を移すピート。
ピート:(右手を振って、ミスター・エディを見る)Uh, no, no thanks. No.
(7)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの助手席側から、助手席のサイド・ウィンドウ越しに車内を見るショット。
ミスター・エディ:
Suit yourself, champ.
そのまま、右手に持ったビデオ・テープを、画面外のコンパートメント・ボックスにすまうミスター・エディ。
(8)ピートとミスター・エディのバスト・ショット。ベンツの運転席側から、運転席のサイド・ウィンドウ越しに車内を見るショット。ビデオ・テープをしまったあと、左手をハンドルの上部に掛け、ピートに向き直るミスター・エディ。ミスター・エディを見ているピート。
ピート: Well, uh...I, I'll see you, then.
ミスター・エディ:(小さく頷きながら)You will.
ピートは少しミスター・エディを見つめていたが、やがて助手席のドアを開け、車外に出る。車外で立ち上がるピートを追って、上方にパン。ベンツの屋根越しに、ピートをおさめるショットになる。彼の向こうには、白と赤の修理工場の柱と壁。画面右端に、停められている自動車のサイド・ウィンドウが見える。振り返って助手席のドアを右手で閉め、腰をかがめてベンツの内部をのぞき込むピート。

カット(1)(2)で提示されているのが、ミスター・エディの「顧客」としての資格の再確認であることはいうまでもないだろう。ピートの労働に対して、ミスター・エディは「対価」を支払うのである。続いて、ミスター・エディは「もう一台の別な車=キャデラック」を明日までに持ち込むことを伝えるが(カット(3))、これは彼のピートの「労働」に対する「評価」であり、今後も継続して「顧客」としての関係を結び続けることを宣言するものである。それを受けて、カット(8)のピート(=フレッド)の言及や表情によって明らかなように、彼も自分とミスター・エディとの「関係性」が継続的なものであることを認識する。この宣言/認識によって、これより後のシークエンスでピート=フレッドがとる「行動」が一部規定されることになるのだが、それについては当該シークエンスについて述べる際に触れよう。

だが、より重要と思われるのは、同じくカット(3)およびカット(5)で行われるミスター・エディのピートに対する「オファー」……すなわち、「ポルノ」の「ビデオ・テープ」を提供するという申し出である。この「アイテム」には、二つのイメージが内包されている。まず一つは、「前半部」の「幻想/捏造された記憶」のなかでそうであったように、「ビデオ・テープ」が付随させる「ありのままの記憶」というイメージだ。それは「前半部」におけるフレッドの「幻想/捏造された記憶」を崩壊させるキーとなったイメージであり、当然ながらピート=フレッドにとっては「忌避」の対象となるものだ。であるならば、彼が言下にこの「オファー」を断るのは、至極理にかなった行動であるといえるだろう。

しかし、「ビデオ・テープ」が「ありのままの記憶」を指し示しているならば、それに収録された内容が「ポルノ」として言及されるのはなぜなのか? この疑問に対する答は以降のシークエンス群によって徐々に明らかにされるわけだが、結論から先に述べるなら、この「ポルノ」に関連するイメージが表しているのは、フレッドが抱いていた「レネエに対する疑惑」そのものであり、その反映である。そして、その「疑惑」こそが、フレッドがレネエを殺害するに至ったそもそもの「原因/動機」であったことは、あらためて指摘するまでもないはずだ。

たとえば(0:33:04)からのシークエンスにおいて、レネエは「アンディに仕事を紹介してもらった(He told me about a job)」とフレッドに向かって言及する。だが「それはどのような仕事か?」というフレッドの追及に対し、彼女は「忘れた(I don't remember)」と「曖昧」にしか答えない。以前にも述べたように、この「曖昧さ」は、フレッドの彼女に対する「疑惑」がなんら具体的根拠を伴っていないことを指し示している。だが、この「レネエとフレッドの会話」が「アリスとピート」の間で完全にリフレインされること(1:30:43)に表されるように、「後半部」に登場する「ビデオ・テープ」をはじめとする「物事のありのままの記録」であるはずの「媒体」が提示するものも、実は「曖昧」でまったく「実体」がない。それを端的に表すのが、たとえばミスター・エディやアンディと並んで「レネエとアリス」が写っていたはずの「写真」(1:45:46)から、「アリス」だけが姿を消してしまうという事象だ(2:06:38)。この「変容する写真」が表象しているのは、本来なら「ありのままの記録」であるはずのものもまた、「後半部」の「幻想/捏造された現実」のなかでは、「フレッドの主観や感情」によって歪められる「対象」でしかないということである。表面上、作品の文脈は「ビデオ・テープ」に収められた「ポルノ」こそが、レネエがアンディから紹介された「仕事」であることを示唆し、アリスによる「言説」(1:29:55)もそれを裏付けているかのようにみえる。だが、仔細にみれば、そうした文脈自体が「フレッドの根拠のない疑惑」の範疇を出ていない。もし「ビデオ・テープ」や「フィルム」や「写真」などの「ありのままの記録(であるはずのもの)」が「後半部」においてもそのとおりの機能を果たしているとすれば、それは「フレッドがレネエに対して、根拠のない疑惑を抱いていた」という「事実」を記録しているという一点においてのみなのである。

上記のような事項を踏まえたとき、ミスター・エディが「ポルノ」の「ビデオ・テープ」をピートに提供しようとする行為が表すものがみえてくるはずだ。「現実」や「社会」を表象する彼は、客観的な「ありのままの記憶=ビデオ・テープ」と関連付けられ、”「ビデオ・テープ」の内容=「レネエに対するフレッドの疑惑」=「事件の要因」”をピート=フレッドに突きつけて、その「事実」を「認知/認識」するように迫るのである。ミスター・エディは、フレッドの「ピートを核にした幻想/捏造された現実」に侵入し、それを崩壊させる可能性を内包した「脅威」なのだ。前述したように、ピート=フレッドは「ビデオ・テープ」の申し出を断るが、ミスター・エディはその拒絶に対して「好きなようにしろ」と鷹揚に対応する(カット(7))。当然ながら、ピート=フレッドは「好きなようにする」。なぜなら、このシークエンスの「場」は、彼自身に都合のよく捏造された「幻想/現実」であるのだから……少なくとも、今はまだ。

また違った観点から述べるなら、ミスター・エディに付随するこのような「イメージ群」は、フレッドが「現実」や「社会」をどのように捉えているかを現わすものでもあるといえる。ミスター・エディは「交通ルール」を破ったドライバーを「処罰」し、その一方で「ポルノ」を製作するが、そのいずれの場合も「直裁的な力」を後ろ盾としているのだ(1:32:15)。つまり彼は、恣意的に強権を発動して「厳格なルーリング」を弱者に押し付けつつ、その片方でかろうじてルールに適合した「後ろ暗い仕事」によって利益を獲得している存在なのである。そして、フレッドの(自分に都合のいい)観点に基づくなら、「処罰されるドライバー」と同様、彼自身もそうした「現実」や「社会」に一方的に翻弄され、そうした利益からも阻害された「犠牲者」なのだ。しかし、客観的に考えるなら、それは「フレッドにとって都合のいいこと」が、「現実/社会」にとって必ずしも「都合のいいこと」とは限らず、またその逆も真であることの(歪んだ)表れにすぎない。

こうした「ミスター・エディによって表されるもの」の「性格」は、続く「刑事たち」のシークエンスによっても裏づけされることになる。

修理工場の外部 昼 (1:07:24)
(9)張り込んでいる二人の刑事のショット。ウィンド・シールド越しに車内を見るショット。左の助手席にはルーが、運転席にはハンクが座り、画面の右斜め方向を見ている。
ハンク: Damn!
(10)ミドル・ショット。工場の内部。刑事たちの主観ショット。ベンツの屋根越しに、向こうに立っているピートをバスト・ショットおさめるショット。画面左に向かって歩き姿を消すピート。下方にパンし、運転席に座ったミスター・エディの後頭部を、運転席のサイド・ウィンドウ越しに捉える。
ハンク:(画面外で)Lou...
ピートを見送ったあと、ミスター・エディはやや左を向き、その左横顔が視界に入る。
(11)ウィンド・シールド越しに車内を見るショット。運転席のハンクが、右手の人差し指で自分が見ている画面右方向を指差す。
ハンク: You recognize that guy?
ルー:(しばし沈黙したあと)Yeah.
(12)工場の車内。ベンツの運転席側のサイド・ウィンドウから車内を見るショット。やや左に顔を向けているミスター・エディ。
ルー:(画面外で)Raurent.
ベンツのエンジンをかけるミスター・エディ。ハンドルに左手をかけ、ベンツをバックさせ始める。ベンツが右方向にバックするに連れ、右にパンする視点。視点はやがてベンツのウィンド・シールド越しに斜め右から車内をとらえる。
(13)ウィンド・シールド越しに車内を見るショット。助手席のルーのほうを見るハンク。厳しい顔をしているルー。正面右手のほうに視線を戻すハンク。
(フェイド・アウト)

二人の刑事は、おそらくは「後ろ暗い仕事」に関連してミスター・エディを知っている(ように描かれる)。かつ、彼の本名が「ロラント(Raurent)」であることも、ハンクの問いかけ(カット(11))に対するルーの発言(カット(12))によって明らかにされる。もちろん、この「二人の刑事」が相変わらず「揶揄の対象」であることからわかるように、彼らもフレッドの「幻想/捏造された現実」を構成する一要素であることは間違いなく、そのかぎりにおいて「フレッドの代弁者/代行者」として機能しているのはいうまでもない。ならば、二人の刑事が「後ろ暗い仕事」に関連してミスター・エディを知っているということは、フレッドがそのようにミスター・エディを「後ろ暗い仕事」に関連付けたということに他ならない。また、彼らが「ミスター・エディ」と「ロラント」との「同一性」を認める発言をすることは、そのままフレッドが両者を「同一のもの」として認識したことを指し示している。

「ロラント」という名前が、冒頭のシークエンスにおいてインターフォン越しにフレッドが受け取ったメッセージに……「ディック・ロラントは死んだ(Dick Laurent is dead)」というメッセージに含まれていることは(0:03:53)、改めて指摘するまでもないだろう。この合致が、ミスター・エディとディック・ロラントの「同一性」を指し示しているならば、このメッセージの伝えるものは明瞭であるといえる。すなわち、フレッドにとって「現実は死んだ」のだ……フレッドが「ありのままの現実」から「遁走」し、それからまったく乖離した「幻想/記憶/現実」を捏造した時点で。そしてこの「現実殺し」は、その「幻想/記憶/現実」が崩壊し、また新たな「幻想/記憶/現実」を構築するたびに繰り返し発生するのだ。

ここに至って、「前半部」において提示された、いくつかの映像が表象するものがみえてくる。まず指摘できるのは、(0:02:48)からのシークエンス……フレッドがインターフォン越しに「メッセージ」を受け取るシークエンスが、彼が「幻想/捏造された記憶」を作り上げた直後であり、そもそもオープニングの「夜のハイウェイ」の映像がその「幻想の構築」に向かう途上の「遁走」を表象していたということだ。そして、(0:31:44)からのシークエンスにおいて「ロラントが死んだのじゃなかったか?」というフレッドの一言に、アンディが激しく反応した理由も明瞭に了解されることになる。アンディが発言するように、客観的な意味において「ディック・ロラントが死ぬことなどあり得ない(Dick can't be dead)」……ディック・ロラント=ミスター・エディが「現実」を象徴する存在である限りにおいて。かつ、同じくアンディの発言にあるように「ミステリー・マンがディック・ロラントの友人である( He's a friend of Dick Laurent's, I think)」ことの理由の一端も理解されるだろう。ミステリー・マンがフレッドの心の奥底に隔離され隠蔽された「真の心の声」であるかぎりにおいて、それは「ありのままの現実」すなわちミスター・エディ=ディック・ロラントと密接に関連することになるのだから。

2009年3月 2日 (月)

「狂った一頁」のDVDとか、そのへん

衣笠貞之助監督の「狂った一頁」(1926)は、1921年の「カリガリ博士」の日本公開以降ちょいとしたブームになった「ドイツ表現主義映画」の影響下にあると巷でもっぱら評判の前衛的なサイレント作品で、川端康成を含めた新感覚派の作家陣が脚本に参加してて、ガンバって無字幕にしたら余計にワケわかんなくなっちゃって(笑)、もうフィルムが残ってないと思ってたら1971年に衣笠家の倉にあった米櫃からひょっこり出てきて……ってな詳細はあちらこちらを検索すれば簡単にわかるので、パス(笑)。一昨年には東京国立近代美術館フィルムセンターによる修復作業を受けた35mmサイレント版が、「国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)東京会議2007」と連動して記念上映されたりなんかしておりました。

YouTubeにアタマのほーの映像がアップされておりまして、まあ、こんな感じ

おお、ドイツ表現主義でもってロシア構造主義で、アヴァンな感じにギャルドだ(笑)。でもって、こちらが精神病院の廊下に、金襴緞子の花嫁を乗せた自動車が多重露光でデロデロと現れる……とゆー、イカしたクライマックス・シーン(笑)。

にしても、「影」を使った演出や「二重露光」のテクニックを介して、「舞台で踊る踊り子」が「病室の中にいる踊り子」へとシフトしていくシークエンスなんかは、今観てもなかなかなものがありますですね。明らかに「舞台で踊る踊り子」は「病室の中の踊り子」の「内面」において想起されているものであって、あるいは今この瞬間の「病室の中の踊り子」にとっての「現実」であるわけで。同様に、「嵐の窓」にオーヴァーラップして提示される楽器群が奏でる音楽も、「病室の中の踊り子」の耳に確かに聞こえているものであるはず。また、「精神病院の廊下」における主人公の「幻想」も、”彼の「内面」で発生している葛藤”の「視覚化」……自分の過去の行いがもとで精神を病んだ妻への贖罪の気持ちと、娘が結婚という幸福を掴むためにはその妻の存在が障害となるという焦燥感の「板挟み」に基づいたものに他ならないわけですね。

このように、少なくとも「映画における表現主義的手法」という観点からみたとき、海外で同時期に作られた映画作品と比べてもなんら遜色のない作品である、と個人的には思います。そーゆー意味では、1921年に「カリガリ博士」によって日本に伝えられた「表現主義的」な手法(当時の言い方に沿うなら「表現派」の手法)が、当初の「新奇なものに対する関心」の範囲を越えて、”「登場人物の内面」を映像で描く手法である”という認識のもとに、明確な意図によって採用されるようになったことを示している作品であるといえるのかもしれません。日本における表現主義映画として先行した溝口健二監督の「血と霊」(1923)が、(現在残っている当時の批評類を見る限りでは)「表現主義に対する理解の不足」を指摘されて終わった様子なのに対し、この「狂った一頁」は後世の作品における「表現主義的手法の一般化」につながるものとして評価されるべきであるよーに思います。ま、一言でいっちゃうと、”「幻想」と「現実」の等価性”あるいは”「外界」と「内面」の関係性”もしくは”人間の「記憶」や「認識」に関わるもの”の映像化として、リンチ作品なんかの思い切り遠い祖先のひとつみたいな作品なんでありマス。

で、「ネットの海」をドンブラコと漂っているうちに見つけたのが、イギリスの「National Institute of Japanese Studies」っつー研究機関のページ。題して「日本映画はコレ観なきゃダメ! 必見の15本!」(思いっきり意訳しています)。黒澤や溝口や成瀬に混じって「狂った一頁」も必見リストに挙げられているのだけれど、おや、この作品の「DVDが今年出るよん(DVD will be released in 2009)」とか書かれているじゃあーりませんか。

うお、マジっすか! かなり非常にとっても欲しいかも! と物欲が頭をもたげて(笑)、再び広大な「ネットの海」をさまよってみたんだけれど、具体的な情報が見つからない。引っかかるのは、まあ、なんちゅーか、どうも出所がウニャウニャっぽいのばっか(笑)。

うーん、結局、真偽のほどは不明。もうしばらく様子をみて、それでも情報が出てこないよーなら、記事を書いたご本人に問い合わせるしかないかナー……とか悶絶する今日この頃なのでした。

3/3追記:「狂った一頁」についての評論「A Page of Madness  Cinema and Modernity in 1920s Japan」(読んでみました。感想等はコチラ)を出版したばかりのイェール大助教授Aaron Gerow氏のページ「Tangemania」にも「2009年にDVD発売」という記述がありました。が、評論本が刊行されたことを告知する2009年2月24日付のニュースによると、どうやらDVD化の実現は危うくなっている気配です。このDVD化の話は、日本の某大学教授が国内のメーカーに働きかけて進行していたようなのですが、直近の状況ではメーカー側が難色を示し始めているとか。以下にGerow氏のこの件に関する記述を引用しておきます。

What would make the publication even better is if there was a DVD of the film out there. There are people who sell pretty bad copies  on VHS or DVD on the net, but only a real professional mastering could do justice to that film's visual complexity. A colleague in Japan is working on bringing out a DVD commercially in Japan, but the last word was that the company is showing second thoughts. I keep on telling him there is strong demand for such a DVD abroad, but some Japanese companies can be pretty dense about foreign markets. Maybe this book will be one more argument for putting a DVD out.

いえ、外国だけじゃなくて日本でもDVD欲しい人が、ここにいるんですけど……。

7/25追記:その筋に近いところからいただいた情報によると、「何年か前にDVD化の話が出ていたけど、その後、立ち消えになった様子だ」という話です。「何年か前」っていうのは、おそらくサイレント版からの復元版が上映された2007年頃のことなんでしょうね。なんにしても残念な話であります。

2010/8/13追記:この記事を書いた当時、コメント欄に奈良での上映情報をいただきました。今になって、2009年に続き2010年にも奈良で上映されたこの「狂った一頁」のフィルムが、個人の方が所蔵されていたものであることを知りました。うわ、それはすごい。詳細についてはこちらでどうぞ。

2009年3月 1日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (33)

おニュー(死語だな)のNetbookにかまけてたら、あろうことか母艦のデスクトップ(6年モノ)が大破炎上。あの手この手の救出作業も功を奏さず、無線LANのルーターを巻き添えにしつつ、轟沈なさいました。唖然呆然(笑)。取り急ぎ新しいルーターをお買い上げ……のついでに、その設定用ソフトをNetbookにインストールするための外付けDVDプレイヤーまでお買い上げになったりして、むう、どんどん余計なモノが増えていっている気が(笑)。

……というよーな艱難辛苦を乗り越えつつ(笑)、ボチボチと進行したりしなかったりの「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の話題だったりする。今回は(1:01:30)から(1:06:39)まで。

「自動車工場」から出て行くベンツにピートが乗せられていることを、張り込み中の「刑事たち」はみごとに見逃す(1:01:40)。(0:59:48)の映像を観れば了解されるように、彼らは「ピートの家」を見張るために現れたときと同様に、画面の奥から手前へと「圧迫のイメージ」を伴って登場している。それはこの「二人の刑事」が、「外界=現実」に対してフレッドが抱いているイメージの反映であることは間違いない(忘れてはならないが、フレッド自身は現在も「死刑囚房」の一室に監禁されたままなのだ)。(0:54:29)をはじめとする関連シークエンスにも表れているように、この「刑事たち」は最終的にフレッドの「揶揄の対象」でしかないわけだが、その一方で同じく「外界=現実を表すもの」に属するはずのミスター・エディは「揶揄の対象」にはならない。この差異は、あるいは後述する”フレッド自身が陥っている「罠」”に起因するものだ。

ピートはミスター・エディの賞賛どおりの「優秀な自動車修理工」ぶりを発揮する。彼が開けたエンジン・ルームの中に見えるのは、さまざまな金属のパイプ類だ(まるでフレッドが「演奏」していたサックスのような?)。ピートはそのパイプ類に接続された部品を「操作」し、あっという間にエンジンの調整を終える。ミスター・エディがピート(あるいはフレッド)の「耳」を「この街一番」と評価するのはこの際においてである(1:02:07)。

エンジンの調子が戻り、上機嫌のミスター・エディは「Let's take a ride!」と宣言する。さて、過去のリンチ作品で、同じような「宣言」をすでに我々は耳にしていなかっただろうか? そう、「ブルーベルベット」において、フランク・ブースがジェフリーにこのように問い掛けていたはずだ。

(1:11:31)
フランク: You wanta go for a ride?
ジェフリー: No thanks.
フランク: No thanks. What does that mean?
ジェフリー: I don't want to go.
フランク: Go where?
ジェフリー: On a ride.
フランク: A ride?  Hell, that's a good idea. okay, let's go. Hey, let's go.

この「Let's take a ride」という宣言によって引き起こされるのは、ジェフリーあるいはピートの「これから先」を、フランクのあるいはミスター・エディの手に委ねるという事態だ。「誰かが運転する自動車に乗って、どことも知れない場所に連れられる」行為は、文字どおり「自らに関するコントロールを失う」行為である。Greg Olson氏が指摘するように、多くのリンチ作品において主人公が共通して味わう「最大の恐怖」は、「混沌とした外界」の侵入を受け「自らの内面に対するコントロールを失うこと」だ。フランク・ブースあるいはミスター・エディの「Let's take a ride」という発言をキーにして、ジェフリーとピート=フレッドは同じく「コントロールの失効」という「好ましくない」境遇に立たされることになるのだ*

もちろん、ピート=フレッドにとって、「自らの内面に対するコントロールの失効」とは、すなわち「幻想/捏造された現実」が「ありのままの現実」の侵入を受けることを意味する。これに続くシークエンスで提示されるのは、まさしくそうした事象だ。それを予兆させるかのように、ピートを乗せたミスター・エディの車が向かうのは、「刑務所」のシークエンスに登場する「隔絶した高い壁」(0:44:51)を思わせる「山」の方角なのである(1:02:50)。

「山道」において、「現実の象徴/抽象概念」たるミスター・エディは、その「直截な力」を含めた本領を発揮する。後ろから彼のベンツをあおり「交通ルール」を破ったドライバーが、ミスター・エディによって徹底的に「追求」され、「直截な力」によって「処罰」されるのである。

まず指摘しておきたいのは、それに伴う行動はともかく、彼がドライバーに向かって行う「車間距離を守れ」という主張自体は、非常に「真っ当なもの」であることだ。

ミスター・エディ: Don't you, don't you fucking tailgate!
ミスター・エディ: Do you know how many car lengths...it takes to stop a car at 35 miles an hour?!
ミスター・エディ: Six fucking car lengths!
ミスター・エディ: If I had stop suddenly,
ミスター・エディ: ...you would've hit me!
ミスター・エディ: I want you to get a fucking driver's manual,
ミスター・エディ: ...and I want to study that motherfucker!
ミスター・エディ: And I want to obey the goddamn rules!
ミスター・エディ: Fifty-fucking-thousand people were killed on the highway last year...
ミスター・エディ: because of fucking assholes...
ミスター・エディ: like you!

ミスター・エディの言及は恐ろしく(どちらかというと無駄なくらい)詳細であり、かつ「科学的根拠」を備えている。この「交通ルール」の「正当性」を否定できる者はいないだろう……ちょうど、「レネエ殺害」という罪を犯したフレッドが、「ルール=法律」によって裁かれることの「正当性」が否定できないようにだ。少なくとも我々の社会では、「交通法規の遵守」や「殺人の否定」は守られるべき「規範」である。そして、「現実社会」においてそれを犯した場合、(程度の差こそあれ)なんらかの「社会的処罰」が下される。それが「我々が共通してもつ認識=常識」であるはずだ。

問題はこのシークエンスにおけるミスター・エディが、「直裁的な力」……「拳銃」や文字どおりの「暴力」、そして背後に控える「二人の用心棒」……をもって、ドライバーに対し「交通ルールの遵守」や「交通ルール集の購入」を強要することである。「主張内容」の合理性と「それ行使する方法」の不合理性とのギャップに思わず我々=受容者はユーモラスなものを感じてしまうが、それはそれとして、これは明らかにフレッドが自らの「現状」に対して抱いている「感情」の表れだ。「レネエ殺害」の罪によって裁かれ、死刑判決を受けて独房に収監されているという「状況」に対して、フレッドは理不尽な「直裁的な力」による制裁を……たとえば(0:41:49)における刑事による直接的な暴力だけでなく、(0:42:17)の陪審員の採決を受けて裁判長が下した死刑判決、そして彼が独房に収監され監視されていることを含めて……受けたと理解している。なぜなら、彼が「前半部」における「ありのままの記憶」を忌避して、「レネエ」が存在しているという「幻想/捏造された記憶」を構築したことに表れているように……あるいは「後半部」における「幻想/捏造された現実」への「遁走」に先立ち、「ありのままの感情」を「ミステリー・マン」という形で自分から切り離して「第三者化」し、「それ」を「砂漠の小屋」に押し込めるという「手続き」を必要としたことに表れているように、フレッドは自分がレネエを殺害したことに対する「罪の意識」を感じると同時に、それを心の奥深いところに押し込めて、都合よく「忘却」しようとしている。

この「忘却」こそが、自分が「現実社会」から受けている「処罰」を「理不尽なもの」とフレッドが感じる要因であるといえる。なぜなら、「記憶」や「現実」を捏造し、「レネエを殺害した」という「ありのままの記憶」を(表面上)失っているフレッドには、そのような「処罰」を受ける「理由」が思い当たらないのだから。彼にとってこの「処罰」は、「混沌とした外界」から自分の「内面」を脅かすために「侵入」したものであり、適用されるべきでない「ルール」を抗いようのない「直裁的な力」をもって強要されているのに等しいのだ。

このような事項から了解されるのは、ミスター・エディから「処罰」を受けるドライバーが、(ピートと同じく)フレッドの「代行者/代弁者」として機能していること……つまり「フレッド自身の第三者化」として現れているということである。このコンテキスト上に、たとえば「ロスト・ハイウェイを観た (7)」の注釈で述べた”自動車を「人間の意識の象徴と捉える”という見方を重ね合わせたとき、ドライバーがミスター・エディから受ける「処遇」の表象するものは明らかだろう。助手席のガラスを叩き割られ、車の外に引きずり出された彼は、ミスター・エディたちから拳銃を突きつけられる(1:04:49)……すなわち、フレッドと同じように「外界からの侵入」を「内面」に受け、「外界=現実」に強制的に引きずり出されたうえに、暴力的に「ルール」を押し付けられ「処罰」されるのである。「自動車=内面」から切り離され、すすり泣きつつ無力に地面に横たわる哀れなドライバーは(1:06:08)、そのまま「現実の」フレッドの姿であるのだ。

おそらくフレッドは、意識のどこかでこうした機序を理解している。当然ながら、ピート=フレッドは「処罰」を受けているのが「ドライバーという第三者」であり、自分が「傍観者」であることに安堵しつつも、彼に「自己同一」せざるを得ない。(1:05:57)や(1:06:35)でピートが浮かべる「脅えた表情」が物語るものはそれに他ならなず、「ミスター・エディ」が「外界」から「幻想/捏造された現実」に侵入するものであり、「現実」そのものであることを認識する。そして、「ルール」を破れば(あるいは、破ったことが露見すれば)、自分もドライバーと同様に「直裁的な力」による「処罰」を受けるであろうことを了解するのである。

こうした”「追求」と「処罰」のイメージ”の発生自体が、「現実」を想起させるという意味で、フレッドにとって「都合の悪いもの」であることは改めて指摘するまでもないだろう。明らかに、このシークエンスにおけるフレッドは、ピートを核にした「幻想/捏造された現実」のコントロールに失敗し、「ありのままの現実(のイメージ)」の侵入を許している。そして、それはひとえに「職場(に関する幻想)」を構築し、「顧客」が自由に侵入できる「開放された部分」を作ってしまったフレッド自身に起因するものだ。だが、そもそも、フレッドが自らの「内面」に構築した”都合のよい(はずの)「幻想/捏造された現実」”のなかで、彼が「ルールを破る」というのはいったいどういう事態を指すのか? それを考えたとき、我々は彼がとんでもない「陥穽」に直面していることを理解することになる。

*その意味で、フランク・ブースとミスター・エディによって「表されるもの」がまったく同一であり、この二人がリンチ作品において「共通した存在」であることは明瞭だ。すなわち、Greg Olson氏が「Beautiful Dark」で指摘する、「グランドマザー」の両親から系譜としてはじまる「野獣のようなキャラクター」である。フランクとミスター・エディが多用する「罵詈」も、この二人をつなぐ共通性のひとつといえるだろう。

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