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2009年3月 1日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (33)

おニュー(死語だな)のNetbookにかまけてたら、あろうことか母艦のデスクトップ(6年モノ)が大破炎上。あの手この手の救出作業も功を奏さず、無線LANのルーターを巻き添えにしつつ、轟沈なさいました。唖然呆然(笑)。取り急ぎ新しいルーターをお買い上げ……のついでに、その設定用ソフトをNetbookにインストールするための外付けDVDプレイヤーまでお買い上げになったりして、むう、どんどん余計なモノが増えていっている気が(笑)。

……というよーな艱難辛苦を乗り越えつつ(笑)、ボチボチと進行したりしなかったりの「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の話題だったりする。今回は(1:01:30)から(1:06:39)まで。

「自動車工場」から出て行くベンツにピートが乗せられていることを、張り込み中の「刑事たち」はみごとに見逃す(1:01:40)。(0:59:48)の映像を観れば了解されるように、彼らは「ピートの家」を見張るために現れたときと同様に、画面の奥から手前へと「圧迫のイメージ」を伴って登場している。それはこの「二人の刑事」が、「外界=現実」に対してフレッドが抱いているイメージの反映であることは間違いない(忘れてはならないが、フレッド自身は現在も「死刑囚房」の一室に監禁されたままなのだ)。(0:54:29)をはじめとする関連シークエンスにも表れているように、この「刑事たち」は最終的にフレッドの「揶揄の対象」でしかないわけだが、その一方で同じく「外界=現実を表すもの」に属するはずのミスター・エディは「揶揄の対象」にはならない。この差異は、あるいは後述する”フレッド自身が陥っている「罠」”に起因するものだ。

ピートはミスター・エディの賞賛どおりの「優秀な自動車修理工」ぶりを発揮する。彼が開けたエンジン・ルームの中に見えるのは、さまざまな金属のパイプ類だ(まるでフレッドが「演奏」していたサックスのような?)。ピートはそのパイプ類に接続された部品を「操作」し、あっという間にエンジンの調整を終える。ミスター・エディがピート(あるいはフレッド)の「耳」を「この街一番」と評価するのはこの際においてである(1:02:07)。

エンジンの調子が戻り、上機嫌のミスター・エディは「Let's take a ride!」と宣言する。さて、過去のリンチ作品で、同じような「宣言」をすでに我々は耳にしていなかっただろうか? そう、「ブルーベルベット」において、フランク・ブースがジェフリーにこのように問い掛けていたはずだ。

(1:11:31)
フランク: You wanta go for a ride?
ジェフリー: No thanks.
フランク: No thanks. What does that mean?
ジェフリー: I don't want to go.
フランク: Go where?
ジェフリー: On a ride.
フランク: A ride?  Hell, that's a good idea. okay, let's go. Hey, let's go.

この「Let's take a ride」という宣言によって引き起こされるのは、ジェフリーあるいはピートの「これから先」を、フランクのあるいはミスター・エディの手に委ねるという事態だ。「誰かが運転する自動車に乗って、どことも知れない場所に連れられる」行為は、文字どおり「自らに関するコントロールを失う」行為である。Greg Olson氏が指摘するように、多くのリンチ作品において主人公が共通して味わう「最大の恐怖」は、「混沌とした外界」の侵入を受け「自らの内面に対するコントロールを失うこと」だ。フランク・ブースあるいはミスター・エディの「Let's take a ride」という発言をキーにして、ジェフリーとピート=フレッドは同じく「コントロールの失効」という「好ましくない」境遇に立たされることになるのだ*

もちろん、ピート=フレッドにとって、「自らの内面に対するコントロールの失効」とは、すなわち「幻想/捏造された現実」が「ありのままの現実」の侵入を受けることを意味する。これに続くシークエンスで提示されるのは、まさしくそうした事象だ。それを予兆させるかのように、ピートを乗せたミスター・エディの車が向かうのは、「刑務所」のシークエンスに登場する「隔絶した高い壁」(0:44:51)を思わせる「山」の方角なのである(1:02:50)。

「山道」において、「現実の象徴/抽象概念」たるミスター・エディは、その「直截な力」を含めた本領を発揮する。後ろから彼のベンツをあおり「交通ルール」を破ったドライバーが、ミスター・エディによって徹底的に「追求」され、「直截な力」によって「処罰」されるのである。

まず指摘しておきたいのは、それに伴う行動はともかく、彼がドライバーに向かって行う「車間距離を守れ」という主張自体は、非常に「真っ当なもの」であることだ。

ミスター・エディ: Don't you, don't you fucking tailgate!
ミスター・エディ: Do you know how many car lengths...it takes to stop a car at 35 miles an hour?!
ミスター・エディ: Six fucking car lengths!
ミスター・エディ: If I had stop suddenly,
ミスター・エディ: ...you would've hit me!
ミスター・エディ: I want you to get a fucking driver's manual,
ミスター・エディ: ...and I want to study that motherfucker!
ミスター・エディ: And I want to obey the goddamn rules!
ミスター・エディ: Fifty-fucking-thousand people were killed on the highway last year...
ミスター・エディ: because of fucking assholes...
ミスター・エディ: like you!

ミスター・エディの言及は恐ろしく(どちらかというと無駄なくらい)詳細であり、かつ「科学的根拠」を備えている。この「交通ルール」の「正当性」を否定できる者はいないだろう……ちょうど、「レネエ殺害」という罪を犯したフレッドが、「ルール=法律」によって裁かれることの「正当性」が否定できないようにだ。少なくとも我々の社会では、「交通法規の遵守」や「殺人の否定」は守られるべき「規範」である。そして、「現実社会」においてそれを犯した場合、(程度の差こそあれ)なんらかの「社会的処罰」が下される。それが「我々が共通してもつ認識=常識」であるはずだ。

問題はこのシークエンスにおけるミスター・エディが、「直裁的な力」……「拳銃」や文字どおりの「暴力」、そして背後に控える「二人の用心棒」……をもって、ドライバーに対し「交通ルールの遵守」や「交通ルール集の購入」を強要することである。「主張内容」の合理性と「それ行使する方法」の不合理性とのギャップに思わず我々=受容者はユーモラスなものを感じてしまうが、それはそれとして、これは明らかにフレッドが自らの「現状」に対して抱いている「感情」の表れだ。「レネエ殺害」の罪によって裁かれ、死刑判決を受けて独房に収監されているという「状況」に対して、フレッドは理不尽な「直裁的な力」による制裁を……たとえば(0:41:49)における刑事による直接的な暴力だけでなく、(0:42:17)の陪審員の採決を受けて裁判長が下した死刑判決、そして彼が独房に収監され監視されていることを含めて……受けたと理解している。なぜなら、彼が「前半部」における「ありのままの記憶」を忌避して、「レネエ」が存在しているという「幻想/捏造された記憶」を構築したことに表れているように……あるいは「後半部」における「幻想/捏造された現実」への「遁走」に先立ち、「ありのままの感情」を「ミステリー・マン」という形で自分から切り離して「第三者化」し、「それ」を「砂漠の小屋」に押し込めるという「手続き」を必要としたことに表れているように、フレッドは自分がレネエを殺害したことに対する「罪の意識」を感じると同時に、それを心の奥深いところに押し込めて、都合よく「忘却」しようとしている。

この「忘却」こそが、自分が「現実社会」から受けている「処罰」を「理不尽なもの」とフレッドが感じる要因であるといえる。なぜなら、「記憶」や「現実」を捏造し、「レネエを殺害した」という「ありのままの記憶」を(表面上)失っているフレッドには、そのような「処罰」を受ける「理由」が思い当たらないのだから。彼にとってこの「処罰」は、「混沌とした外界」から自分の「内面」を脅かすために「侵入」したものであり、適用されるべきでない「ルール」を抗いようのない「直裁的な力」をもって強要されているのに等しいのだ。

このような事項から了解されるのは、ミスター・エディから「処罰」を受けるドライバーが、(ピートと同じく)フレッドの「代行者/代弁者」として機能していること……つまり「フレッド自身の第三者化」として現れているということである。このコンテキスト上に、たとえば「ロスト・ハイウェイを観た (7)」の注釈で述べた”自動車を「人間の意識の象徴と捉える”という見方を重ね合わせたとき、ドライバーがミスター・エディから受ける「処遇」の表象するものは明らかだろう。助手席のガラスを叩き割られ、車の外に引きずり出された彼は、ミスター・エディたちから拳銃を突きつけられる(1:04:49)……すなわち、フレッドと同じように「外界からの侵入」を「内面」に受け、「外界=現実」に強制的に引きずり出されたうえに、暴力的に「ルール」を押し付けられ「処罰」されるのである。「自動車=内面」から切り離され、すすり泣きつつ無力に地面に横たわる哀れなドライバーは(1:06:08)、そのまま「現実の」フレッドの姿であるのだ。

おそらくフレッドは、意識のどこかでこうした機序を理解している。当然ながら、ピート=フレッドは「処罰」を受けているのが「ドライバーという第三者」であり、自分が「傍観者」であることに安堵しつつも、彼に「自己同一」せざるを得ない。(1:05:57)や(1:06:35)でピートが浮かべる「脅えた表情」が物語るものはそれに他ならなず、「ミスター・エディ」が「外界」から「幻想/捏造された現実」に侵入するものであり、「現実」そのものであることを認識する。そして、「ルール」を破れば(あるいは、破ったことが露見すれば)、自分もドライバーと同様に「直裁的な力」による「処罰」を受けるであろうことを了解するのである。

こうした”「追求」と「処罰」のイメージ”の発生自体が、「現実」を想起させるという意味で、フレッドにとって「都合の悪いもの」であることは改めて指摘するまでもないだろう。明らかに、このシークエンスにおけるフレッドは、ピートを核にした「幻想/捏造された現実」のコントロールに失敗し、「ありのままの現実(のイメージ)」の侵入を許している。そして、それはひとえに「職場(に関する幻想)」を構築し、「顧客」が自由に侵入できる「開放された部分」を作ってしまったフレッド自身に起因するものだ。だが、そもそも、フレッドが自らの「内面」に構築した”都合のよい(はずの)「幻想/捏造された現実」”のなかで、彼が「ルールを破る」というのはいったいどういう事態を指すのか? それを考えたとき、我々は彼がとんでもない「陥穽」に直面していることを理解することになる。

*その意味で、フランク・ブースとミスター・エディによって「表されるもの」がまったく同一であり、この二人がリンチ作品において「共通した存在」であることは明瞭だ。すなわち、Greg Olson氏が「Beautiful Dark」で指摘する、「グランドマザー」の両親から系譜としてはじまる「野獣のようなキャラクター」である。フランクとミスター・エディが多用する「罵詈」も、この二人をつなぐ共通性のひとつといえるだろう。

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