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2009年2月

2009年2月28日 (土)

結婚式の鐘がキンコンカン

本日のdugpa.comネタ。

Ringing 前々から噂になっていた女優エミリー・ストーフル(Emily Stofle)とデイヴィッド・リンチの結婚式が、現地2月26日に執り行われた模様。おめでとうございます。

Twitterでも「Wedding bells are ringing」なんて発言してたりして、完全に舞い上がってますなあ、リンチ御大(笑)。レジオン・ドヌール勲章の授与式のときとか、カンヌ映画祭のレッド・カーペットのときとか、もーベッタベタ状態だったもんなー。

個人的には、この後、作品製作において、前妻メアリー・スウィニーとの関係はどーなるのか……とゆー点が気になったり。彼女のプロデュースや編集作業ってのも、リンチ作品の重要な一部であったのではないかと思っておるのですが、はてさて。

2009年2月21日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (32)

えー、家人に今まで使っていたNetbookを召し上げられてしまった大山崎であります。で、いつの間にか新しい機械が目の前にあったりなんかするわけなんですが、ありゃー、オカシイなあ(笑)。というわけで、現在、データのお引越し&ドライバの入れ替えをしながら、この文章を打ってたりするんでありますけども、ここんとこ何ヶ月かおきに必ず新しい機械をセット・アップしているよーな気がするのは、きっとなんかの勘違いに違いない、そーに違いない(笑)。

そんなこんなで、ボチボチと進行したりしなかったりの「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の話題だったりする。今回は(0:59:47)から(1:01:30)まで。

まず、ここにも「監視/追及」のイメージが「二人の刑事が乗った自動車」の形で現れる(0:59:47)。だが、後に明らかになるように、この刑事たちは案の定、「ミスター・エディのベンツに乗ったピートが工場を出て行くのを見逃す」という「失態」をしでかすために登場している。やはり、「監視/追及の施行者」は、揶揄の対象でしかないのだ。

そして、ついに、「ミスター・エディ」が「工場」に「侵入」する。彼は黒塗りのベンツに乗って「道路=外界」に姿を現し、「工場の入り口」という「フレーム内フレーム」に姿を現す。車から降り立った彼は、見るからに尊大な雰囲気を漂わせているが、当然ながらこれもまたフレッドの「感情の反映」に他ならない。彼の背後には二人の「用心棒」が控えており、そのまた背後には「道路を行き交う大量の自動車」が認められる(1:00:23)。これらのミスター・エディの背後にある「もの」が、文字どおり彼の「バック・グラウンド」であるといえるだろう。フレッドが自らの「内面」から「移り変わる外界=現実」を観るように、ピートは「工場の入り口=フレーム」を通して「道路を行き過ぎる自動車の群れ」を観る。その前に立つミスター・エディは、明確に「道路を行き交う自動車=外界=現実」と関連づけられる。また、「二人の用心棒」はミスター・エディが備えている「直截な力」の行使能力を裏付けており、それは彼がもつ「権力」を保証している。

これらの事項から了解されるのは、概論でも述べたように「ミスター・エディ」が(フレッドにとっての)「現実」や「社会」あるいは「外界」を指し示す「象徴」であり、「抽象概念」であるということだ。そして、それはこの後、「ロスト・ハイウェイ」が提示する映像によって、より具体的に提示されていく。

その一方で、このシークエンスにおいて、ミスター・エディがピートに対してとる態度は非常に興味深いものだ。

アーニーの自動車工場 内部 (1:00:39)
(1)ミスター・エディとピートのバスト・ショット。ミスター・エディの右側方からのショット。画面右端に立っているミスター・エディ。左側から画面内に入ってくるピート。二人の向こう側には、工場の壁が見える。
ミスター・エディ: Pete!
二人はハグをする。ハグを終え、互いに向かい合う二人。
(2)ミスター・エディのアップ。ピートの右肩越しのショット。笑みを浮かべているミスター・エディ。彼の右肩後方には、金髪のボディ・ガードがベンツの横あたりに立っているのがアウト・フォーカスで見えている。ボディ・ガードの後方には、自動車が行き交っている道路。ミスター・エディは、ピートの額の傷に気づく。
ミスター・エディ: What happened? Somebody giving you trouble?
(3)ピートのアップ。ミスター・エディの右肩越しのショット。ミスター・エディを見ているピート。
ピート:(慌てて首を振りながら)No...n-no trouble.
ミスター・エディ: 'Cause if somebody's giving you trouble, Pete,
(4)ミスター・エディとピートのバスト・ショット。ミスター・エディの右側方からのショット。向き合う二人。広げた右手の手のひらを、ピートの胸のあたりまで上げているミスター・エディ。
ミスター・エディ: I can care of the problem... like that.
右手の指を鳴らすミスター・エディ。
ピート: No, I, I'm fine, Mr Eddy.
ミスター・エディ: I mean it, Pete. Like that!
右手の指を鳴らしたあと、右手の拳に左手の手のひらを打ち付け、そのまま右手の拳を肩の高さまで突き上げるミスター・エディ。
ピート: Thank you. Really, I, I'm fine. So, uh,(腕を組みながら)what you want? Just a, a regular tune-up?
(5)ミスター・エディのアップ。ピートの斜め右後方からの、右肩越しのショット。
ミスター・エディ: I want you to take ride with me. I don't like the sound of something.
ピート:
OK. I got to check it with the, with the boss.
画面右、アーニーがいる事務所の方を見て、右手を振るピート。
ミスター・エディ:(画面外で、右手でピートの左肩を叩き)It's OK with Arnie. Come on,. Let's go.
肩を叩かれ、ミスター・エディの方を見るピート。そのまま右手を振り、ベンツの方に引き返すミスター・エディ。再度アーニーの方を見ながら彼に続くピート。
(6)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。出ていくピートたちには気づかず、事務所の中で電話しているアーニーの右側面からのショット。

カット(1)における二人のハグが端的に表すように、ミスター・エディのピートに対する態度が非常に友好的なものだ。このことが示唆するのは、「ミスター・エディ(によって表されるもの)」もまた、「シーラ」や「アーニー」と同様に、フレッドの「欲求」に基づいて構築された「幻想/捏造された現実」の一構成要素であり、彼にとって「都合のよいもの」のひとつとして、まずは現れているということである。

その「友好的関係」は、ミスター・エディのピートの「額の傷」を気遣う発言にも現れているといえる(カット(2))。だが、それは単なる「言葉」にとどまらない。ミスター・エディは「誰かと面倒なことになったのか?」と尋ねるとともに、その「面倒の解決」に関して「直裁的な力」を行使する用意があることを所作でほのめかす(カット(3)(4))。もちろん、前述したように、そうした「直裁的な力」を実際に行使するのは彼の背後にいる「用心棒たち」であるわけだが。そして、カット(2)が明示する位置関係からして、ピート=フレッドにはミスター・エディの背後にいる「用心棒たち」が「視界=フレーム」に入っており、彼の所作が示すものの意味を明確に受け取っているはずである。

しかし、仔細にみればこのカット(2)の時点からすでに、「ミスター・エディの侵入」を契機として、フレッドの「幻想/捏造された現実」が微妙な齟齬を引き起こし始めていることは見逃せない。ピートは「額の傷」の由来について明瞭な「記憶」をもっておらず、それがゆえにミスター・エディの「誰かと面倒なことになったのか?」という問い掛けに、明瞭に答えることができないのだ(カット(4))。すでに述べたように、ピートが(「額の傷」を含めた)「あの夜のこと」に関する「記憶」を欠落させているのは、つまりそれがフレッドにとって「都合の悪いこと」であるからに他ならないし、そもそも(0:50:09)の映像において明らかなように、ピート=フレッドの「額の傷」は、フレッドがピートという「人格」に「遁走」する際に発生したものである。その意味で、もしミスター・エディから「直裁的な力」による「処理」を受ける対象があるとすれば、それは他ならぬフレッド自身だ。これはピート=フレッドにとって「好ましくない話題」である。そのためにピートは慌てて「仕事」のことに話題を変えようとするが、結果として「より好ましくない」方向にイメージを連鎖させてしまう……ミスター・エディはピートを自分のベンツに乗せて、「外界」に連れ出そうとするのである。

いずれにせよ、フレッドの「ピートを核にした幻想/捏造された現実」のコンテキスト上において、「顧客」としてのミスター・エディがピートに「友好的」であるのは、非常に功利的な理由による。すなわち、自動車修理工としてピートが「有能」であるからこそ、ミスター・エディはピート重用するのである。だが、その「評価」についての「言及」はみようによっては多義的/複義的であり、あるいはフレッドにとっては「好ましくないもの」かもしれない。というのは、ミスター・エディは自分の車が出す「音が気にくわない」と言及し(カット(5))、また後のシークエンスにおいてはピートのことを「街で一番の耳の持ち主だ(Best goddamn ears in town!)」と賞賛する(1:02:13)。だが、ミスター・エディのこの「賞賛」は、はたして自動車修理工としてのピートに対してのものなのか、それともミュージシャンとしてのフレッドに対してのものなのか?

意識的にせよ無意識にせよ、事態をコントロールしようと……つまり、自らの「幻想/捏造された現実」を思い通りの方向に修正しようと、ピート=フレッドは「雇い主」であるアーニーに許可を取る必要性があることを持ち出す(カット(5))。しかし、アーニーは、隔絶され分断された「事務所」のブースで「電話」に……「前半部」において、「フレッドの家」と「外界」とをつなぐ「間接的接触」手段として何度となく登場した「電話」にかかりきりであり(カット(6))、「修正を行うためのもの」として機能しない。そもそも前回述べたように、「顧客」であるミスター・エディを「電話」で呼び出したのがアーニーであろうことは、彼の発言……「ミスター・エディに電話があったが、来るように連絡していいか?(And Mr Eddy called. Can I call him to tell him to come in?)」(0:59:28)……からも明瞭だ。この「事実」が明らかにするように、フレッドが構築した「雇い主(の幻想)」であるアーニーは「ミスター・エディ=現実」の前に最初から無力であり、その「進入」を阻止する役に立たないばかりか、むしろお誂え向きの「入り口」を用意するのである。そう、ちょうど「職場」である「工場」の「開口部」が”「ミスター・エディ=現実」の「侵入」”を許すように。

いずれにせよ、「顧客」であるミスター・エディは、ピートの申し出を一蹴する。ピート=フレッドの「操作」を「アーニーは大丈夫だ」と一蹴したミスター・エディは、ピートを自分の自動車に乗せて「自動車工場」を後にする。彼がその「本質」を明らかにし始めるのは、この後のシークエンスにおいてだ。

2009年2月15日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (31)

てなわけで、ゆったりまったりと進行中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の話である。今回は(0:58:53)から(0:59:47)までをば。

フレッドによる「ピート核にした幻想/捏造された現実」の構築作業は続く。

このシークエンスで主として行われるのは、引き続き「ピートを核にした幻想/捏造された現実」のうち、「外界(に相当するもの)」の構築作業である。直前のシークエンスでは「ボウリング場」という「余暇の場所」が構築され、同時に「恋人(の幻想)」としての「シーラ」との関係が形成された(0:57:38)。これから触れるシークエンスでは、そうした「余暇の場所」とは対照的に、ピートの「職場」としての「自動車工場」(という幻想)が構築されることになるわけだが、そこでもやはり、(0:57:02)から提示された「イチゴを摘む少年と少女」という「映像内映像」に認められる”「外界」と「内面」の因果律/関係性”が踏襲されていることに留意すべきだろう。つまり、このシークエンスで提示される「労働を行う場所としての職場」あるいは「給金を獲得する場所としての職場」は、「収穫の場所である畑」という概念と対応しているのだ。言葉を換えるなら、ピートの両親がテレビで観ていた「映像内映像」が提示する概念に従って、フレッドが「ピートを核にした幻想/捏造された現実」の構築作業を行っていることの例示である。

フレッドの「幻想/捏造された現実」における「恋人」であるシーラと同じく、この工場を経営者でありピートの「雇い主」であるアーニーも、当然ながらフレッドにとって「都合のよい」相手として描かれている。「雇用者」である以上、アーニーはピート=フレッドに対して本来は上位にあるはずなのだが、そうした「優位性」は車椅子に座った彼がピート=フレッドの「現実的な脅威」にはなり得ないことによって相殺されてしまう。たとえば(0:59:15)のショットが明示するように、このシークエンス全体を通して車椅子に乗ったアーニーはピートよりも「低い位置」に配置されており、こうした映像をつうじて「優位なもの」として提示されているのはむしろピートのほうだ。ピートが「仕事に来ないこと=不在であったこと」に対してもアーニーは非常に寛容に対処し、それどころかピートが帰ってきたことを手放しで歓迎しているようにみえる。そして、そうした対応に応えピートが笑顔をみせる「図式」も、シーラのときと同様だ。ピート=フレッドは、思いどおりに自分を受け入れる相手に対し、感情を露にする。

さて、この「自動車工場」は、同じ「職場」でありながら、「フレッドの職場」であった「ルナ・ラウンジ」とはいろいろな点で対照的である。たとえばステージといった「高み」が存在し、フレッドが多数の観客の視点の中心であった「ルナ・ラウンジ」とは違い、工場のフラットな内部構造はピートをその中に「隠匿」する。「音楽」に満ち、強烈な照明の光と闇の交錯によってモノトーン化したジャズ・クラブの内部とは裏腹に、「アーニーの自動車工場」の内部にはカラフルな「文字のテクスチャー」が散りばめられている。だが、なによりも大きく異なっているのは、「ルナ・ラウンジ」が閉鎖的空間であったのに対し、「自動車工場」は自動車が行き交う道路に向かって……すなわち、より広い「外界」に向かって、建物の幅一杯に大きく「開口」していることだ。

この「道路に接合され、それに向かって開放されている構造」は、「アーニーの自動車工場」がどのような性格の場所であるかを端的に物語っているといえる。この場所は、常に「不特定多数」のものの「侵入」を許してしまう危険性をはらんでいるのだ。誰がいつなんどき突然この「工場」に侵入してきてもおかしくないし、それを防ぐことは非常に困難である。当然ながら、そこに「侵入するもの」が必ずしもフレッド=ピートにとって「都合のよいもの」とは限らず、それどころか「脅威」ですらあり得る……そう、たとえば「ありのままの記憶/現実」のような。

その一方で、リンチ作品において「家」がもっとも”私的な場所”であり、「裏庭」が”「私的なもの」と「公的なもの」が「交錯する場所」”であることを考えるならば、それらの場所との対比において、この「職場」としての「工場」は、基本的に”公的な場所”だといえることになる。かつ、これらの「概念=イメージ群」を(リンチ作品に現れる「イメージ群」が常にそうであるように)「複合的/複義的」なもとのして捉えるなら……たとえば「私的なもの=内面=意識」であり「公的なもの=外界=現実」であるというコンテキスト上に捉えるなら、「家」や「裏庭」に比して、そもそもその本質において「工場=職場」は「現実」に偏った場所であるといえるはずだ*

こうした事項を踏まえたとき、フレッドが構築したさまざまな「幻想/捏造された現実」のなかでも、この「自動車工場」が著しく「現実の侵入」に対して脆弱な箇所であることが了解されるはずだ。この「脆弱性」は、この後に提示されるさまざまな映像群によって具体的に明示されるのだが、あるいはこれは大きな皮肉である。もし、フレッドが「幻想/捏造された現実」の構築を進め、自分の「遁走」の対象であるピートに関連する「環境」を整えれば整えるほど……つまり、「幻想/捏造された現実」が「完成」に近づけば近づくほど、「ありのままの現実」の「侵入」に対する「脆弱性」が高まるのだから。

「自動車工場」が「職場」であるかぎりにおいて、この「現実の侵入」は基本的に「顧客」という形をとって現れる。アーニーがピートに向かって言及する「お前が帰ってきて、多くの人が喜ぶぞ(A lot of people going to be real happy that you're back)」と、あるいは「スミス氏がお前の帰りを待っている(Mr Smith is waiting for you)」という言葉が示唆するようにだ(0:59:17)。しかし、ある「顧客」に関して言及し、その「顧客」を工場に「侵入」させるのがアーニーであることもまた見逃せないだろう。フレッドにとって「都合のよい」ものであったはずの「幻想/捏造された現実」が、「前半部」と同様、やはりここでも密やかに彼を裏切り始めるのだ。

そして、その「顧客」の具体例として登場するのが「ミスター・エディ」である。

*こうした「複合的イメージ」は、「インランド・エンパイア」においても「私的なもの=内面=(スミシーの)家」と「公的なもの=外界=組織=サーカス」の対比として現れていることは、「インランド・エンパイア」について述べる際に触れた。また、「前半部」における「フレッドの(幻想内)幻想」において、「ルナ・ラウンジ」で発生する「レネエとアンディの関係性」(0:12:25)の提示が何を表象しているかも、「公的なもの」としての「職場」の性格を考えれば理解できる。それはやはりフレッドの「幻想/捏造された記憶」に対する「現実=ありのままの記憶」の「侵入」であり、有体にいえば「現実のレネエ」が備える「コントロールの不能性」である。

2009年2月12日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (12)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の記述の続きをば。

さて、ここから先は落穂拾い的にOlson氏の記述で興味深かったところをばピック・アップしてみることにします。

Olson氏は、リンチの諸作品の根底にある「家族」の概念が、やはり「エレファント・マン」にも見出せることを指摘します。その端的な表れがメリックがトレーヴスの家を訪問するシークエンスで、「リンチはトレーヴス家の者と訪問者を、まるで家族写真のような配置に置く。すなわち、妻のアンとトレーヴスがジョン・メリックを守るようにだ」とOlson氏は述べ、トレーヴス家がジョン・メリックの「拡大家族(extended family)」として機能していることを示唆します。また、バイツによって檻に入れられたジョンを解放する、小人をはじめとするサーカスの畸形たちもジョンの「拡大家族」として捉えます。この文脈において、トレーヴスは「善き父(good father)」として機能し、逆にバイツは「悪しき父(bad father)」として機能するとOlson氏は述べますが、このあたりは「ブルーベルベット」に登場するさまざまな「父親」と比較してみるのも面白いかもしれません。

もうひとつ、面白いと感じたのは、トリーヴスがバイツに金を払い、メリックを検査のために病院に連れて行こうとする際の映像に関するOlson氏の記述です。バイツはトレーヴスの襟をつかみ、息がかかるほど顔を寄せるのですが、Olson氏はこうした登場人物の動作あるいは配置が、その後のリンチ作品にも頻繁にみられるモチーフであると指摘します。そして、このモチーフの底流にあるのは、「身体のもっとも重要な機能は、精神をいろいろなところに運ぶことにあるように思える」というリンチの発言であると氏は捉えます。つまり、人間の「頭」は「精神の容れ物(mind's vessel)」であり、そしてそこには「想像、夢、意識」だけではなく「天国と地獄」=「善いものと悪いもの」も収められているとリンチは捉えている、と。

Lynch_distorted_nude そして「容器」である「頭」と「頭」が接近したとき、その「内容物」である「善いもの」と「悪いもの」は……この作品に従っていうならトレーヴスの意識とバイツの意識は、「物理的には交わらないものの、融合する危機に瀕することになる」とOlson氏は述べます。この氏の記述を読んで思い出されるのが、リンチの写真作品「Distorted Nude」シリーズの一作品です。この写真作品では、二人の女性の接近した頭部の間で、明らかに「融合」が発生していることがみてとれます。まさしく「リンチの世界では、空気を介して、電線を伝う信号を介して、あるいは目を見るだけで、もっとも忌避し恐れるものにその者の心を変貌させてしまう。静かに、そして怖いぐらい易々と、闇はあなたの内面に滑り込む」ことを、この写真作品は表しておりますですね。でもって、「エレファント・マン」において、トリーヴスとバイツの「頭」が接近し、その「容器の内容物」が融合した結果生まれたものが、トリーヴスがバイツに対して感じる「精神的な類似性(psychic kinship)」であることになります。それは、つまり「メリックを搾取している点で、自分とバイツがどう異なっているのか」という思いであるわけですね。

さて、そんなこんなで「エレファント・マン」は好評をもって迎えられ、1981年のアカデミー賞において最優秀監督賞を含めた8部門にノミネートされます。このアカデミー賞授賞式はレーガン大統領が拳銃で撃たれるという事件のために、史上初めて開催が延期されるわけですが、実はロナルド・レーガンは普段はあまり政治的な発言をしないリンチが、唯一、支持を表明した政治家でもあります。ただし、Olson氏はリンチがレーガンの政治施策にどれだけ賛同していたかは疑問に感じているようです。むしろ、リンチがレーガン本人を評した言葉……「彼は昔ながらのハリウッドの雰囲気、カウボーイのたたずまい、力強さを備えている」に表されるように、非常に雑駁にいうなら、リンチが惹かれたのはレーガンに付随する「イメージ」であって、その政治能力ではないのではないかっつーことですね。ま、ここらへんはリンチ本人による詳細な発言があるわけでもないのでアレですが、娘ジェニファーを含めたさまざまな人の証言などからも、どーもOlson氏の言うとおりっぽい印象ではあります。

結果としてこのオスカーでは無冠に終わるものの、いずれにせよリンチは商業映画監督として非常に幸先のいいスタートを切ったといえます。それは「砂漠の惑星」の監督として抜擢されることにつながるわけですが、それについてはまた次回でということで。

2009年2月11日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (11)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の解題の続き。

さて、「第二の抽象表現」のパートで具体的に「メリックの夢」としてまず提示されるのは、蒸気の音に伴われた「工場の鉄パイプ」です。「カメラの視点」は鉄パイプの群れを伝って下降し、「産道を思わせる暗い隘路」を通って「トレーヴスと我々が最初にジョン・メリックに会った、つまり彼の生きたイメージが初めて生まれたバイツの掘っ立て小屋に続く地下道」へと侵入していきます。これらの通路に付随する「子宮に似た」イメージは、「インダストリアルな音響」に伴われており、Olson氏はリンチが採用した「異形のジョン・メリックが、工業化時代に生まれ、それによってねじ曲げられた子供であることの暗喩」の強調をみます。ざっくりいえば、「抽象表現」のパートに登場する(あるいは全編を通して語られる)「象」のイメージは、「産業革命」あるいは「工業化/近代化」のイメージに重ねられているっつーことですね。それは、たとえば「プロローグ」に現れる「象の足音とも機械音ともとれる音響」によっても、すでに示されていたといえるわけですが。

「メリックの悪夢」は、次いで「レバーを動かす男たち」のイメージを提示します。ここでOlson氏はある疑問を呈します……すなわち、これは「男たちが機械を動かしているのか? それとも、機械が男たちを奴隷の如く使役しているのか?」。「男たち」と同じくジョン・メリックもバイツによる「使役/搾取の日々」を過ごしており、トレーヴスの助力でそれから逃れたわけですが、それでもやはり「逃れられようのない自らの異形性が生み出す恐怖の影が、メリックの夢を脅かしている」ことをOlson氏は指摘します。その「恐怖の影」を反映して、「メリックの悪夢」は「突き出された鏡に映る自分の顔」や「顔めがけて蹴りつけられる長靴」の映像を提示します。「(トレーヴスによって提供された住まいや紳士服などの)表面上の通常性は取り去られ、逃れようのない『エレファント・マン』としての自己が残される」わけですね。それらの「悪夢」は「メリックの主観ショット」によって我々に提示され(そして我々=受容者に共有され)、それを見て脅えるジョン・メリックの「目」のクロースアップが彼の悲痛な「叫び声」とともに重ねられます。これらの映像から、Olson氏が指摘するように「第二の抽象表現」が表象しているものはジョン・メリックの「内面」において発生している「意識」であることは明らかであり、ならば「同質の抽象表現」である「プロローグ」の映像も「メリックの内面におけるもの」であるということになります。

「第三の抽象表現」のパートは作品の結尾、「エンディング」において現れます。前述したような理由で、Olson氏はこのパートにおいて提示されている映像もまた「作品の粗筋を説明するものではなく、ジョン・メリックの内なる声を表すもの」であり、「彼の意識がかりそめの現世を離れて、精神的な世界で再生する」ことを表しているという具合に捉えます。そして、これはキリスト教的なコンテキストに収まりきらない概念だとOlson氏は指摘します。つまり、そこにはリンチが「瞑想」を通じて触れたヒンズー思想の反映がみられること……具体的にいうなら「バガヴァッド・ギーター(聖なる神の詩)」の一節である「人がその体を離れるとき、最後に思い浮かべるものはすべて、その人によってその後の現実となる。なぜなら、そのとき心にあるものこそ、その人が生涯を通じてずっと思い続けていたものだからだ」からの影響があると氏はみます。

この氏の見方に沿ってみたとき、「第三の抽象表現」のパートに至る直前の映像とその後の映像において、この「キリスト教的コンテキスト」と「ヒンズー思想」の対比は明らかです。「ベッドに横たわったメリックの頭部から彼の母親の写真へと、そして十字架が浮き彫りされた聖書を写したあと、メリックが作った聖堂の模型の尖塔まで、リンチはカメラをパンさせる」という具合に、そこにまず現れるのはキリスト教的なコンテキストを表す記号群です。しかし、「カメラの視点」が窓を越え、星がちりばめられた夜空に向かった瞬間から「第三の抽象概念」が始まり、そこで提示される概念は、その範疇に収まらなくなります。

「第三の抽象表現」の具体的映像においても、やはりジョンの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージが登場します。彼女は、「決して、そう、決して。何も死に絶えることはない。川は流れ続け、風は吹き続け、雲は漂い続け、心臓は鼓動し続ける」とジョンに呼びかけます。彼女のイメージは星々が輝く夜空を背景に、「全き世界を表す白い光の環」に囲まれています。そして「永遠に続く誕生-生-死-再生のサイクルの新しい発生を描いて、彼女のイメージは消滅し、次いで我々は『プロローグ』に現れた白い煙が逆方向に内側に向かって流れ、生命の流れに回帰するのをみる」ことになります。「しかし、ジョンがトレーヴスの助けで家を手に入れ、バイツによる誘拐によってそれをなくし、また再び手に入れるという物語をなぞるように、メアリー・ジェーン・メリックの顔が再び現れる。彼女は息子を慰撫する……”何も死に絶えることはない”。『プロローグ』に現れたのと同じメアリー・ジェーン・メリックのイメージを写すカメラは、『プロローグ』のときとはちょうど逆に、彼女の眉毛と目に向かってクロースアップし、フェイド・アウトして作品は終わる」……という具合に、この最後の「抽象表現」のパートで描かれているのは明確な「死と再生」のイメージであり、かつOlson氏によれば、「メリックの思い」である点において先に述べたヒンズー思想の踏襲であることになります。

この「抽象表現」の三つのパートをみると、「多くの人間と共同作業を行い、スタジオの工業生産的なシステムによる制作でありながら、それでもなおリンチは『エレファント・マン』の世界を自らのものに変えてしまった」というOlson氏の見解は、まったくもって正しいし、「(この作品なら)妥協を要求されない」というリンチの判断も正しかったといえるでしょう。その中心にあるのは、それまでリンチ作品でも繰り広げられた(そしてその後も繰り返される)”「誕生」および「疎外された生」”です。同時にリンチはこの作品の主人公であるジョン・メリックに”「現実/現世」と「その後の世界」との連結/統合”を用意しますが、その連結/統合においてジョン・メリックを「慰め、救済する」のは、「グランドマザー」の祖母や「イレイザーヘッド」のラジエーター・レディと同じく、やはりメアリー・ジェーン・メリックという「女性」であることをOlson氏は指摘しています。

さて、このようにOlson氏による解題をみる限りにおいて、この三つの「抽象表現」のパートは、「エレファント・マン」という題材にリンチが見出した「基本テーマ」が凝縮されているといえるように思えます。表向きの明確なストーリーはジョン・メリックに関する歴史的事実を基にしたものであるわけですが、それは彼個人の物語に収まりません。”「メリック」と「象」”の関係性は”「ヴィクトリア朝時代の人々」と「工業化/近代化された社会」”の関係性を経て、”「敵対的な外界」と「それに脅かされる人々」”というより大きな関係性に経て、最終的に彼/彼女たちに「精神的/内面的な救済」が用意されるという普遍的なテーマに至るわけですが、この最終的なテーマはむしろ三つの「抽象表現」のパートにおいて明瞭に提示されているように大山崎は思います。そして、このテーマがリンチ作品において繰り返し提示される共通のものであることは、この作品の主人公であるジョン・メリックの「救済」が、たとえば「グランドマザー」の少年や「イレイザーヘッド」のヘンリー、「ツイン・ピークス 劇場版」のローラ・パーマーといったリンチ作品の登場人物たちの「救済」と完全に重なっていることからも明らかだといえるでしょう。

(「エレファント・マン」に関して、も一回くらい続く)

2009年2月 9日 (月)

「Beautiful Dark」を読む (10)

ああ、そーゆーのもあったわね……と思い出しつつ続く、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。「エレファント・マン(The Elephant Man)」(1980)製作前後のころに関する章を読み終わったので、今回はそこらへんについて。

「イレイザーヘッド」が完成したあと、リンチは映画製作の実作業から離れて、早朝一回の新聞配達(まだやってたんかい)と近所の「ビッグ・ボーイ」で「チョコレート・シェイク+砂糖をガバっと入れたコーヒー」で「シュガー・ハッピーな日々」三昧でありました。リンチが何年間も毎日毎日「ビッグ・ボーイ」で昼食をとっていたことはつとに有名な話で、Olson氏はここらへんにもリンチの嗜好……「コントロールが効くミニマルなもの」への嗜好をみとてりますが、まあ、それはそれとして。

これまた有名な話ですが、「イレイザーヘッド」製作の途中から、リンチは「ロニー・ロケット(Ronnie Rocket)」という作品のシナリオを書き始めておりました。しかし、リンチ本人はこの作品を「イレイザーヘッド」と同じように自主制作的に作る心積もりはなかったようです……まあ、ありゃシンドかったもんな(笑)。「イレイザーヘッド」が自主制作作品としてはそこそこ興行的にも成功したこともあって、リンチとしては「ロニー・ロケット」をメイン・ストリームでの製作を……つまりどこかのスタジオに企画をもちこんで誰かの資本を使うという、ハリウッドの製作スキームのもとで製作する道を探っていたようです。しかし、メジャー・スタジオはこの作品の興行的価値を認めず、リンチは内心鬱々とした日々を送ってた様子です。まあ、巷に流布しているシナリオを読んでも、そりゃ無理からぬところがある……というか、結局「ロニー・ロケット」は、今日現在に至るまで日の目を見ていないわけですけども。

そんな鬱々リンチのところに、スチュワート・コーンフィールド(Stuart Cornfield)というプロデューサーが訪れます。彼は「イレイザーヘッド」を観て「今まで観たなかで、もっともユニークな傑作」と感じ、リンチのところにやってきたのでした。それをきっかけに二人は友人になりますが、ある日、鬱々のリンチは「(自分は)他の人間が書いたシナリオで映画を作ることも考えている」由の発言をします。これを聞いたコーンフィールドがリンチに話したのが、自分が最近読んだクリストファー・デヴォア(Christopher De Vore)とエリック・バーグレン(Eric Bergren)の二人の脚本家による「エレファント・マン」のシナリオのことでした。後に、リンチは「『エレファント』と『マン』という言葉をコーンフィールドから聞いた瞬間、頭の中で小さなノイズが起こり、自分がこの作品を製作することになるだろうと悟った」と発言しています。ピピッときたわけっすね(笑)。

また、これも後になっての言及になりますが、リンチは「エレファント・マン」という作品が「(自分を)メイン・ストリームへと連れて行ってくれると同時に、妥協を要求することもない格好の乗り物だった」と述べています。「自分にとっての関心事がそれだった。芸術を一般的なものにしたいと思っていたんだ。自分が本当に入れ込み、それを作ることが気に入ると同時に、他の人々も作品を気に入っていれることを望んでいた。それが可能なのかどうか、考えていたんだ」と。

この企画は、リンチとコーンフィールド、そして同じくプロデューサーのジョナサン・サンガーの三人による「ビッグ・ボーイ」(笑)での会議を経て、コメディ映画監督のメル・ブルックスのところに持ち込まれます。当時、ブルックスは「ブルックスフィルムズ」という会社を立ち上げ、作品のプロデュースを開始しようとしていたところでした。リンチのことをよく知らなかったブルックスにコーンフィールドが「イレイザーヘッド」を観せ、それをブルックスがいたく気に入って話がまとまったこと等はすでにいろいろなところで言及されているので、割愛。いずれにしても、リンチ、大ラッキー(笑)。

ロンドンで撮影を開始したリンチが、ジョン・メリックの特殊メイクを作ろうとして時間を無駄に費やし、「そーゆーことは専門職に任せろ」と諭された件や、当初トリーヴス博士役のアンソニー・ホプキンスと衝突した件なども、有名な話なのでこれまた割愛。追記しておくべきかと思われるのは、1979年の秋にロンドンに到着したリンチがまずこだわったのは、テーマ的なところではなく美学的なところ……端的にいうと「モノクロ」での撮影であったようです。「この作品はモノクロでなければならなかった。モノクロの画面は魔法のようなものだ。それは観る者を現実から即座に一歩切り離し、茫洋とした気分にさせる」というのがこの件に関するリンチの弁。幸い、ジョナサン・サンガーもメル・ブルックスもこれに同意し、「エレファントマン」はイギリス人撮影監督フレディー・フランシスによって撮影されることになります。

さて、作品そのものに関してもOlson氏の詳細な分析があるんですけど、そのなかから興味深かったポイントをいくつかピック・アップしてみますってーと。

Olson氏は、「エレファント・マン」において、リンチ特有の「抽象的表現」が三つのパートにおいてみられることを指摘しています。つまり、「プロローグ」「作中におけるジョン・メリックの夢」「エンディング」の三箇所です。逆にいうと、それまでの作品……たとえば「グランドマザー」や「イレイザーヘッド」では全編にわたって爆発していた「抽象的表現」が「エレファントマン」では限られたパートにおいてのみ現れているということです。かつ、それらは全体を通して語られる明確なストーリー・ラインのなかに組み込まれる形で提示されており、こういう形式が採用されたのは、リンチが「商業作品」を意識したことの現われではないか……という具合にOlson氏はみています。

まず、「プロローグ」で提示される「第一の抽象表現」ですが、そこに現れるさまざな映像と音響……「インダストリアルな音響をバックに現れるジョン・メリックの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージ、そこに重ねられる象のイメージ、象に打ち倒されて地面で叫び声をあげるメアリーのイメージ、そして白い煙のイメージに重ねられる赤ん坊の泣き声」ですが、Olson氏はまずここにヴィクトリア朝時代に人口に膾炙したいわゆる「胎教(maternal impression)」の概念をみてとります。といっても、その当時のことだもんで、「妊婦のお腹に苺をのっけたら、苺型の痣がある子供が生まれる」ってな民間信仰的っつーか非科学的っつーかなものなわけですが、要するに、この「プロローグ」は「サーカスで象をみて脅えたメアリー・ジェーン」から象に似た身体的障碍を備えたジョンが生まれた……ということを伝え、これから登場する主人公の生い立ちに関する「説明」として機能しているということですね。

しかし、「プロローグ」に対するこの見方は、「第二の抽象表現」……作品のなかほどで提示される「メリックの悪夢」が表すものによって、修正を迫られることになります。まず、この「第二の抽象表現」のパートで提示されるイメージ群は、明らかにジョン・メリックの内面において展開されている「悪夢」であることが示されています。それを何よりも明確にしているのは、ここで採用される「カメラの視点」です。Olson氏いわく、「リンチのカメラはメリックが人前に出るときに被っている布製のフードを見つけ出す。そのフードには、彼が外を見るための長方形の穴がひとつ開けられている。リンチはこの暗黒の開口部を通り、そこに流れているメリックの暗い夢の中へと潜っていく」……とまあ、ここでもリンチ作品に頻繁に現れる「侵入する視点」のモチーフが認められ、その直後に提示される映像群は「メリックの悪夢」そのものを表象しているというわけですね。かつ、この「悪夢」において、「プロローグ」にも現れた「叫び声をあげるメアリー・ジェーン・メリック」のイメージが再提示されるとともに、「プロローグ」と同じくこの「悪夢」もまた「白い煙」のイメージで締めくくられることになります。これらの共通点からOlson氏は、「第二の抽象表現」が「メリックの夢」であるならば、「プロローグ」もそうであるはずだと結論付けます。つまり、「プロローグ」で描かれているのは、ジョン・メリックが想起している「自分の母親や自分が属する時代に関する事柄」である……という具合にOlson氏は捉えるわけです。

(ちょいと中途半端だけど、続く)

2009年2月 5日 (木)

フランスやイタリアは遠いけど、カナダもね

またもや本日のdugpa.comネタ。

フランスのパリに続き、2007年10月9日から2008年1月13日にかけてイタリアのミラノでもデイヴィッド・リンチの作品展「The Air is on Fire」が開催されたのは、以前にこのブログでもご紹介したとおり。その時のリンチの様子を題材にしたドキュメンタリー「David Lynch: The Air is on Fire/Milano」が、カナダのArt Gallery of Ontarioで開催される映像展「Reel Artist film festival」で世界に先駆けて公開されるそうな。

作品展を準備中のリンチを中心に、ローラ・ダーンやデニス・ホッパー、作家のクリスティン・マッケーナ、作品展のキュレーターを勤めたイラーナ・シャモン(Ilana Shamoon)などへのインタヴューなどなど。

監督のマリナ・ゼノヴィッチ(Marina Zenovich)は、ロマン・ポランスキーをとりあげたドキュメンタリー「Roman Polanski: Wanted and Desired」を昨年のサンダンス映画祭で発表し最優秀ドキュメンタリー編集賞を獲得、同作品はカンヌ映画祭のオフィシャル・セレクションにも選ばれた経歴をお持ちの方でらっさいます。IMDbでたぐってみると、この監督さん、2004年から2008年にかけて放映されたテレビのドキュメンタリー・シリーズ「Art in Progress」のなかの一話でもすでにリンチをとりあげていた様子でございます。そのときのタイトルもやはり「David Lynch: The Air Is on Fire」……んーと、ってーことは、こっちはパリでの作品展のときに取材したのかしらん? それともこれがオンタリオで上映されるんかい? だったら、世界初公開じゃなくね? うーん、ちょいと、よくわかりません。

上映は2月28日の午後7時から、Al Green Theatreにて。上映時間は29分。えーと、今頃のカナダって、サーモンが美味しいんだろーか?(笑)

2009年2月 4日 (水)

そうだ、死体とリンチに聞いてみよう

本日のdugpa.comネタ。

ブラジルの監督ダビ・デ・オリヴィエラ・ピンへイロ(Davi de Oliveira Pinheiro)によるweb発表の5話短編シリーズ「Boundaries of Thought: THINK TANK」の最終話「THE SOUL DETECTIVE」に、ディヴィッド・リンチがご出演中でございます。

死者に残っている「想念」を聞くことができる「探偵」が主人公。打ち捨てられた客車の中に横たわる男の死体の「記憶」を聞き取っている探偵のエピソードのところどころに、リンチの語りが入る形で作品は展開されます。リンチが語っているのは、アイデアを得て、さまざまな断片が集まるが、最終的にすべてが揃うまで何がどうなるかわからない、というよーなこと。そして、死体は「この場所で撮られた二つの映画のこと」について語りはじめるという趣向。監督いわく、「ある意見が、どのようにもともととは完全に異なったフィクションとなり得るか」だそーで、ああ、そーゆーことね、なるほど。最後にリンチが語る「人間は探偵のようなものだ。世界を目にすれば、そこにはさまざまな手掛かりが存在している。そして、我々はいろいろなことを不思議に思う (Human being are like detectives. And when we see our world, and there are clues in the world. And we wonder about things)」という言葉が作品タイトルにつながっているよーであります。

このピンヘイロさん、ブラジル初のゾンビ映画「ビヨンド・ザ・グレイブ(Porto dos Mortos)」(2009)を作った方で、予告編を先に作って製作資金を集めたという苦労人でいらっしゃいますよーです。うむ、誰かさんみたいですが、この「Boundaries of Thought: THINK TANK」シリーズもweb発表っちゅーことで、ますますもって誰かさんみたいです(笑)。

ご本人の弁によれば、「『THE SOUL DETECTIVE』は『ビヨンド・ザ・グレイブ』を下敷きにしている。同じアイデアから、まったく新しい成果物を作りたかった。『ビヨンド・ザ・グレイブ』は実験的な要素をまじえた一般作品だが、それをまったく逆にして一般的な要素をまじえた実験的な作品を造ろうとしたんだ。それが『THE SOUL DETECTIVE』だ」とのことであります。んでもって、リンチと一緒に仕事して、どーだった? という質問には「彼のファンとしては楽しい時間だった。だが、映画監督として、短編作品作法についていろいろと聞けた」とのことでありました。

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