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2009年2月11日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (11)

Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。今回も「エレファント・マン」に関するOlson氏の解題の続き。

さて、「第二の抽象表現」のパートで具体的に「メリックの夢」としてまず提示されるのは、蒸気の音に伴われた「工場の鉄パイプ」です。「カメラの視点」は鉄パイプの群れを伝って下降し、「産道を思わせる暗い隘路」を通って「トレーヴスと我々が最初にジョン・メリックに会った、つまり彼の生きたイメージが初めて生まれたバイツの掘っ立て小屋に続く地下道」へと侵入していきます。これらの通路に付随する「子宮に似た」イメージは、「インダストリアルな音響」に伴われており、Olson氏はリンチが採用した「異形のジョン・メリックが、工業化時代に生まれ、それによってねじ曲げられた子供であることの暗喩」の強調をみます。ざっくりいえば、「抽象表現」のパートに登場する(あるいは全編を通して語られる)「象」のイメージは、「産業革命」あるいは「工業化/近代化」のイメージに重ねられているっつーことですね。それは、たとえば「プロローグ」に現れる「象の足音とも機械音ともとれる音響」によっても、すでに示されていたといえるわけですが。

「メリックの悪夢」は、次いで「レバーを動かす男たち」のイメージを提示します。ここでOlson氏はある疑問を呈します……すなわち、これは「男たちが機械を動かしているのか? それとも、機械が男たちを奴隷の如く使役しているのか?」。「男たち」と同じくジョン・メリックもバイツによる「使役/搾取の日々」を過ごしており、トレーヴスの助力でそれから逃れたわけですが、それでもやはり「逃れられようのない自らの異形性が生み出す恐怖の影が、メリックの夢を脅かしている」ことをOlson氏は指摘します。その「恐怖の影」を反映して、「メリックの悪夢」は「突き出された鏡に映る自分の顔」や「顔めがけて蹴りつけられる長靴」の映像を提示します。「(トレーヴスによって提供された住まいや紳士服などの)表面上の通常性は取り去られ、逃れようのない『エレファント・マン』としての自己が残される」わけですね。それらの「悪夢」は「メリックの主観ショット」によって我々に提示され(そして我々=受容者に共有され)、それを見て脅えるジョン・メリックの「目」のクロースアップが彼の悲痛な「叫び声」とともに重ねられます。これらの映像から、Olson氏が指摘するように「第二の抽象表現」が表象しているものはジョン・メリックの「内面」において発生している「意識」であることは明らかであり、ならば「同質の抽象表現」である「プロローグ」の映像も「メリックの内面におけるもの」であるということになります。

「第三の抽象表現」のパートは作品の結尾、「エンディング」において現れます。前述したような理由で、Olson氏はこのパートにおいて提示されている映像もまた「作品の粗筋を説明するものではなく、ジョン・メリックの内なる声を表すもの」であり、「彼の意識がかりそめの現世を離れて、精神的な世界で再生する」ことを表しているという具合に捉えます。そして、これはキリスト教的なコンテキストに収まりきらない概念だとOlson氏は指摘します。つまり、そこにはリンチが「瞑想」を通じて触れたヒンズー思想の反映がみられること……具体的にいうなら「バガヴァッド・ギーター(聖なる神の詩)」の一節である「人がその体を離れるとき、最後に思い浮かべるものはすべて、その人によってその後の現実となる。なぜなら、そのとき心にあるものこそ、その人が生涯を通じてずっと思い続けていたものだからだ」からの影響があると氏はみます。

この氏の見方に沿ってみたとき、「第三の抽象表現」のパートに至る直前の映像とその後の映像において、この「キリスト教的コンテキスト」と「ヒンズー思想」の対比は明らかです。「ベッドに横たわったメリックの頭部から彼の母親の写真へと、そして十字架が浮き彫りされた聖書を写したあと、メリックが作った聖堂の模型の尖塔まで、リンチはカメラをパンさせる」という具合に、そこにまず現れるのはキリスト教的なコンテキストを表す記号群です。しかし、「カメラの視点」が窓を越え、星がちりばめられた夜空に向かった瞬間から「第三の抽象概念」が始まり、そこで提示される概念は、その範疇に収まらなくなります。

「第三の抽象表現」の具体的映像においても、やはりジョンの母親であるメアリー・ジェーン・メリックのイメージが登場します。彼女は、「決して、そう、決して。何も死に絶えることはない。川は流れ続け、風は吹き続け、雲は漂い続け、心臓は鼓動し続ける」とジョンに呼びかけます。彼女のイメージは星々が輝く夜空を背景に、「全き世界を表す白い光の環」に囲まれています。そして「永遠に続く誕生-生-死-再生のサイクルの新しい発生を描いて、彼女のイメージは消滅し、次いで我々は『プロローグ』に現れた白い煙が逆方向に内側に向かって流れ、生命の流れに回帰するのをみる」ことになります。「しかし、ジョンがトレーヴスの助けで家を手に入れ、バイツによる誘拐によってそれをなくし、また再び手に入れるという物語をなぞるように、メアリー・ジェーン・メリックの顔が再び現れる。彼女は息子を慰撫する……”何も死に絶えることはない”。『プロローグ』に現れたのと同じメアリー・ジェーン・メリックのイメージを写すカメラは、『プロローグ』のときとはちょうど逆に、彼女の眉毛と目に向かってクロースアップし、フェイド・アウトして作品は終わる」……という具合に、この最後の「抽象表現」のパートで描かれているのは明確な「死と再生」のイメージであり、かつOlson氏によれば、「メリックの思い」である点において先に述べたヒンズー思想の踏襲であることになります。

この「抽象表現」の三つのパートをみると、「多くの人間と共同作業を行い、スタジオの工業生産的なシステムによる制作でありながら、それでもなおリンチは『エレファント・マン』の世界を自らのものに変えてしまった」というOlson氏の見解は、まったくもって正しいし、「(この作品なら)妥協を要求されない」というリンチの判断も正しかったといえるでしょう。その中心にあるのは、それまでリンチ作品でも繰り広げられた(そしてその後も繰り返される)”「誕生」および「疎外された生」”です。同時にリンチはこの作品の主人公であるジョン・メリックに”「現実/現世」と「その後の世界」との連結/統合”を用意しますが、その連結/統合においてジョン・メリックを「慰め、救済する」のは、「グランドマザー」の祖母や「イレイザーヘッド」のラジエーター・レディと同じく、やはりメアリー・ジェーン・メリックという「女性」であることをOlson氏は指摘しています。

さて、このようにOlson氏による解題をみる限りにおいて、この三つの「抽象表現」のパートは、「エレファント・マン」という題材にリンチが見出した「基本テーマ」が凝縮されているといえるように思えます。表向きの明確なストーリーはジョン・メリックに関する歴史的事実を基にしたものであるわけですが、それは彼個人の物語に収まりません。”「メリック」と「象」”の関係性は”「ヴィクトリア朝時代の人々」と「工業化/近代化された社会」”の関係性を経て、”「敵対的な外界」と「それに脅かされる人々」”というより大きな関係性に経て、最終的に彼/彼女たちに「精神的/内面的な救済」が用意されるという普遍的なテーマに至るわけですが、この最終的なテーマはむしろ三つの「抽象表現」のパートにおいて明瞭に提示されているように大山崎は思います。そして、このテーマがリンチ作品において繰り返し提示される共通のものであることは、この作品の主人公であるジョン・メリックの「救済」が、たとえば「グランドマザー」の少年や「イレイザーヘッド」のヘンリー、「ツイン・ピークス 劇場版」のローラ・パーマーといったリンチ作品の登場人物たちの「救済」と完全に重なっていることからも明らかだといえるでしょう。

(「エレファント・マン」に関して、も一回くらい続く)

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