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2009年2月15日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (31)

てなわけで、ゆったりまったりと進行中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の話である。今回は(0:58:53)から(0:59:47)までをば。

フレッドによる「ピート核にした幻想/捏造された現実」の構築作業は続く。

このシークエンスで主として行われるのは、引き続き「ピートを核にした幻想/捏造された現実」のうち、「外界(に相当するもの)」の構築作業である。直前のシークエンスでは「ボウリング場」という「余暇の場所」が構築され、同時に「恋人(の幻想)」としての「シーラ」との関係が形成された(0:57:38)。これから触れるシークエンスでは、そうした「余暇の場所」とは対照的に、ピートの「職場」としての「自動車工場」(という幻想)が構築されることになるわけだが、そこでもやはり、(0:57:02)から提示された「イチゴを摘む少年と少女」という「映像内映像」に認められる”「外界」と「内面」の因果律/関係性”が踏襲されていることに留意すべきだろう。つまり、このシークエンスで提示される「労働を行う場所としての職場」あるいは「給金を獲得する場所としての職場」は、「収穫の場所である畑」という概念と対応しているのだ。言葉を換えるなら、ピートの両親がテレビで観ていた「映像内映像」が提示する概念に従って、フレッドが「ピートを核にした幻想/捏造された現実」の構築作業を行っていることの例示である。

フレッドの「幻想/捏造された現実」における「恋人」であるシーラと同じく、この工場を経営者でありピートの「雇い主」であるアーニーも、当然ながらフレッドにとって「都合のよい」相手として描かれている。「雇用者」である以上、アーニーはピート=フレッドに対して本来は上位にあるはずなのだが、そうした「優位性」は車椅子に座った彼がピート=フレッドの「現実的な脅威」にはなり得ないことによって相殺されてしまう。たとえば(0:59:15)のショットが明示するように、このシークエンス全体を通して車椅子に乗ったアーニーはピートよりも「低い位置」に配置されており、こうした映像をつうじて「優位なもの」として提示されているのはむしろピートのほうだ。ピートが「仕事に来ないこと=不在であったこと」に対してもアーニーは非常に寛容に対処し、それどころかピートが帰ってきたことを手放しで歓迎しているようにみえる。そして、そうした対応に応えピートが笑顔をみせる「図式」も、シーラのときと同様だ。ピート=フレッドは、思いどおりに自分を受け入れる相手に対し、感情を露にする。

さて、この「自動車工場」は、同じ「職場」でありながら、「フレッドの職場」であった「ルナ・ラウンジ」とはいろいろな点で対照的である。たとえばステージといった「高み」が存在し、フレッドが多数の観客の視点の中心であった「ルナ・ラウンジ」とは違い、工場のフラットな内部構造はピートをその中に「隠匿」する。「音楽」に満ち、強烈な照明の光と闇の交錯によってモノトーン化したジャズ・クラブの内部とは裏腹に、「アーニーの自動車工場」の内部にはカラフルな「文字のテクスチャー」が散りばめられている。だが、なによりも大きく異なっているのは、「ルナ・ラウンジ」が閉鎖的空間であったのに対し、「自動車工場」は自動車が行き交う道路に向かって……すなわち、より広い「外界」に向かって、建物の幅一杯に大きく「開口」していることだ。

この「道路に接合され、それに向かって開放されている構造」は、「アーニーの自動車工場」がどのような性格の場所であるかを端的に物語っているといえる。この場所は、常に「不特定多数」のものの「侵入」を許してしまう危険性をはらんでいるのだ。誰がいつなんどき突然この「工場」に侵入してきてもおかしくないし、それを防ぐことは非常に困難である。当然ながら、そこに「侵入するもの」が必ずしもフレッド=ピートにとって「都合のよいもの」とは限らず、それどころか「脅威」ですらあり得る……そう、たとえば「ありのままの記憶/現実」のような。

その一方で、リンチ作品において「家」がもっとも”私的な場所”であり、「裏庭」が”「私的なもの」と「公的なもの」が「交錯する場所」”であることを考えるならば、それらの場所との対比において、この「職場」としての「工場」は、基本的に”公的な場所”だといえることになる。かつ、これらの「概念=イメージ群」を(リンチ作品に現れる「イメージ群」が常にそうであるように)「複合的/複義的」なもとのして捉えるなら……たとえば「私的なもの=内面=意識」であり「公的なもの=外界=現実」であるというコンテキスト上に捉えるなら、「家」や「裏庭」に比して、そもそもその本質において「工場=職場」は「現実」に偏った場所であるといえるはずだ*

こうした事項を踏まえたとき、フレッドが構築したさまざまな「幻想/捏造された現実」のなかでも、この「自動車工場」が著しく「現実の侵入」に対して脆弱な箇所であることが了解されるはずだ。この「脆弱性」は、この後に提示されるさまざまな映像群によって具体的に明示されるのだが、あるいはこれは大きな皮肉である。もし、フレッドが「幻想/捏造された現実」の構築を進め、自分の「遁走」の対象であるピートに関連する「環境」を整えれば整えるほど……つまり、「幻想/捏造された現実」が「完成」に近づけば近づくほど、「ありのままの現実」の「侵入」に対する「脆弱性」が高まるのだから。

「自動車工場」が「職場」であるかぎりにおいて、この「現実の侵入」は基本的に「顧客」という形をとって現れる。アーニーがピートに向かって言及する「お前が帰ってきて、多くの人が喜ぶぞ(A lot of people going to be real happy that you're back)」と、あるいは「スミス氏がお前の帰りを待っている(Mr Smith is waiting for you)」という言葉が示唆するようにだ(0:59:17)。しかし、ある「顧客」に関して言及し、その「顧客」を工場に「侵入」させるのがアーニーであることもまた見逃せないだろう。フレッドにとって「都合のよい」ものであったはずの「幻想/捏造された現実」が、「前半部」と同様、やはりここでも密やかに彼を裏切り始めるのだ。

そして、その「顧客」の具体例として登場するのが「ミスター・エディ」である。

*こうした「複合的イメージ」は、「インランド・エンパイア」においても「私的なもの=内面=(スミシーの)家」と「公的なもの=外界=組織=サーカス」の対比として現れていることは、「インランド・エンパイア」について述べる際に触れた。また、「前半部」における「フレッドの(幻想内)幻想」において、「ルナ・ラウンジ」で発生する「レネエとアンディの関係性」(0:12:25)の提示が何を表象しているかも、「公的なもの」としての「職場」の性格を考えれば理解できる。それはやはりフレッドの「幻想/捏造された記憶」に対する「現実=ありのままの記憶」の「侵入」であり、有体にいえば「現実のレネエ」が備える「コントロールの不能性」である。

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