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2009年1月

2009年1月31日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (31)

月曜日は仕事休んで朝から酒くらいながらスーパー・ボウル観戦のつもりだったのに、打合せが入ってしまいましたあああぁ、なんてこったいいぃぃ。エエエエエエエ……と思わず「もやしもん」のA・オリゼーみたいに口を四角にしてしまった大山崎でありますが、それはそれとして、細菌が酒を「醸す」が如くゆっくりと進行中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」をばアレコレする作業であります。今回は、(0:57:38)から(0:58:53)まで。

この「ボウリング場」を舞台にしたシークエンスが提示するものもまた、フレッドが「ピートを核にした幻想/捏造された現実」を構築し続ける様子である。このシークエンスにおいて、ピートは友人に連れられて、初めて「家」を離れて「外界(に相当する場所)」へと足を踏み入れる。そこでピート=フレッドが何をしようとしているかは、具体的映像からして明快である。すなわち、「シーラ」という「人格」によって表される「恋人」に関する「幻想/捏造された現実」の構築だ。

この「イメージの連鎖」において、直前のシークエンスで提示された「映像内映像」(0:57:02)……「イチゴを摘む少年と少女」の「少女」が表象するところもまた明確になるといえるだろう。これもまたピート=フレッドの「欲求」の反映であり、彼は「少年」と対になる「少女」のような存在を……自分と対になる「女性」を「希求」しているのだ。

ボウリング場の酒場 内部 (0:58:00)
(ディゾルヴ)
(1)ピートとシーラのツー・ショット。踊っている二人をピートの右から捉えたショット。シーラはピートの右肩に左手を掛け、その目を見つめている。同じくシーラを見つめているピート。右手をピートの首の後ろに掛け、伸び上がってピートの右耳に顔を寄せるシーラ。
シーラ: What's happening to you?
左にパンを始める視点。顔を離すシーラ。互いに見詰めあう二人。
シーラ: What happening to your face?
ピート:(一瞬、顔を上げて)I don't know.
シーラ: What do you mean? You've been acting strange lately. Like the other night...
踊りながら右方に移動する二人。それを追って、右にパン。
ピート: What night?
シーラ: The last night I saw you.
ピート:(首を振って)I don't remember.
(2)踊っているピートとシーラのアップ。ピートの右斜め後ろからの、ピートの肩越しのショット。シーラの左手はピートの右肩に置かれ、右手は彼の左の首筋あたりに回されている。黙ってピートの顔を見詰めるシーラ。
(3)踊っているピートとシーラのアップ。シーラの左斜め後方からの、シーラの左肩越しのショット。じっとシーラの顔を見下ろしているピート。微かに微笑を浮かべる。
(4)踊っているピートとシーラのアップ。ピートの右斜め後ろからの、ピートの肩越しのショット。しばらく黙って踊る二人。
シーラ: You still care about me?
(5)踊っているピートとシーラのアップ。シーラの左斜め後方からの、シーラの左肩越しのショット。シーラにキスをするピート。
(6)踊っているピートとシーラのアップ。ピートの右斜め後ろからの、ピートの肩越しのショット。目をつぶり、キスに応えるシーラ。左手がピートの背中に回され、右手はピートの髪を掴んでいる。両腕をピートの首に回し、強く彼を抱きしめるシーラ。
(ディゾルヴ)

当然ながら、この「外界」も「ピートという人格」を核にして構築されており、「フレッド自身を核にした幻想/捏造された記憶」に現れた「外界」とは鋭い対照を見せる。その一例がこのシークエンスの舞台となる「ボウリング場」であり、その一角に存在する酒場である。雑多な人々が集まっている様子が描かれるが、それは「アンディの屋敷」で開かれていた「パーティ」(0:27:19)とはさまざまな点で異なっている。そもそも「プール付きの屋敷で開かれるプライヴェート・パーティ」と、「ボウリング場」に併設された安価な「公衆酒場」では比較にならないわけだが、それを反映してそこに集まる人々の間にも歴然とした格差が見てとれる。たとえば「パーティ」にはナイトドレスの女性たちやジャケットを着た男性たちといった「招待客」が現れるのに対し、「ボウリング場」には三々五々集まった普段着姿の中産階級の人々が対置される。あるいは、果物が載ったトレーを捧げ持つ蝶ネクタイに黒ジャケットのウェイターに対しては、料理を運ぶ太ったウェイトレスが対置されるといった具合である。フレッドは「ピートを核にした幻想/捏造された現実」から、徹底的に「フレッドに関連する記憶」(それはすなわち、「レネエ殺害」につながる記憶につながるものだ)を排除しようとしており、あるいはこの「ボウリング場」のイメージそのものが「アンディの屋敷のパーティ」の「無害化/安全化」だ。

それは、ピート=フレッドが構築しようとしている「恋人(の幻想)」に関しても同様で、彼が「恋人の基本イメージ」として求めているのは「自分に従順な存在」であり、決して「現実のレネエ」のように「コントロール不能な存在」ではない。それを反映して、このシークエンスをつうじてずっと、シーラは「フレッドの欲求」に則った行動をとる。彼女はピートにぴったりと寄り添い、彼に「まだ自分が好きか?」と問い掛ける(カット(4))。もちろん、この質問は「彼女がピート=フレッドを愛していること」を前提としており、ピートに対するシーラの態度はフレッドに対するレネエの態度……「ライブに行かないと宣言するレネエ」(0:05:13)や「アンディと戯れるレネエ」(0:27:36)……とは、対極にあるといえる。かつ、この「愛の確認」において、能動的に「自分が好きか?」と問い掛けるのはピート=フレッドではなくシーラのほうであり、ピート=フレッドはなんらリスクを負うことなく受動的に(つまり、都合よく)「二人の関係(の幻想)」を構築するのである。あるいはこれは、「イチゴを摘む少年と少女」の「映像内映像」において、「少女」のほうが画面手前に配置され「支配的映像」となっていることとも合致するものだ。

カット(3)において、ピートは「微笑」を浮かべる。「後半部」で登場して以来、ピートがなんらかの「表情」をあらわにするのは、これが始めてであることに注目したい。ピート=フレッドは「シーラ(という幻想)」に満足している。「ピートを核にした幻想/捏造された記憶」「幻想/捏造された記憶」における「因果律」や「外界と内面の関係性」をピート=フレッドは発見しつつあり、その構築作業は、非常にスムーズに進行しているかのようにみえる。

ところがその一方で、すでに「ピートを核にした幻想/捏造された現実」が「小さな綻び」をのぞかせていることは見逃せない。カット(1)において、シーラがピートに対して行う「あの夜(other night)のこと」に関する問い掛けがそれである。彼女の言及に従うなら、ピートは「最近、おかしな振る舞い」をしており、それは「彼女が彼に最後に会った夜」もそうであったことになる。それに対しピートが「どの夜のことだ?」という返答をすることに明白なように、彼には「あの夜」の記憶自体がない。シーラからのそれ以上の「追及」はなく、とりあえずピート=フレッドに対する「脅威」とはならないまま、二人の会話は終わる。

ピートがフレッドの「代弁者/代行者」であること、つまりピートの言動がフレッドの「感情」や「意識」の反映であることを踏まえたとき、この「記憶の欠落」が意味するところは明瞭だろう。結局のところ、フレッドは「あの夜」のことを思い出したくないのだ。そして、フレッドとって「もっとも思い出したくない事項」とは、「自分がレネエを殺害した」という「ありのままの記憶」に他ならない。そのことは、「前半部」によって描かれた「フレッドの忘却」……自分がレネエを殺害したという「記憶」をフレッドが都合よく消滅させ、彼女が存在している「幻想/捏造された記憶」を構築していたことによって明らかだ。「フレッドの忘却」と「ピートの忘却」は完全に「等質」のものであり、その「忘却の対象」となるものもまったく「同一」なのである。要するにシーラが言及する「あの夜」とは、「フレッドがレネエを殺害した夜」のことなのだ。

それにしても、「あの夜のこと」というシーラの言及によって表される”「ありのままの記憶」の蘇生”のイメージが、どうしてフレッドによって想起されてしまったのだろうか? その理由は曖昧にされたまま、「ロスト・ハイウェイ」は引き続きフレッドが「幻想/捏造された記憶」を構築する様子を描いていく。

2009年1月27日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (30)

んなわけで、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」をばアレコレする作業である。今回は、(0:56:33)から(0:57:38)まで。

フレッドによる「ピートを核にした幻想/捏造された現実」の構築は続く。

このシークエンスでは、まずピートの家を訪れる「友人たち」が提示される。彼/彼女たちもまた、年齢といい風体といい、中年のジャズ・ミュージシャンであるフレッドの「交友関係」とはかけ離れた存在であることが推察される。彼/彼女たちは「ピートの部屋」にダイレクトに「侵入」してくる。「前半部」における”「フレッド自身」を核にした「幻想/捏造されて記憶」においては、「フレッドの家」の「内部」に直接的に侵入するのが「監視/追及の行使者」である「二人の刑事」だけであり、その他の「内部」との接触手段が「電話」等の「間接的なもの」であったこととは鋭い対照をみせている。

また、このシークエンスでは、「ピートの家」の「内部構造」も一部明らかにされている。「ピートの部屋」にベッドが置かれていることが明示するように、「ピートの家」には独立した彼の「ベッド・ルーム」は存在しない。「両親」の「ベッド・ルーム」を含め、この後少なくとも具体的映像として「ピートの家」の「ベッド・ルーム」はどのような形でも登場しない。「フレッドの家」にはあった「ベッド・ルーム」が、「ピートの家」からはきれいに欠落しているのである……いや、「フレッドの家」の「ベッド・ルーム」が「レネエ殺害」という事件が発生した現場であったことを考えるなら、「ピートの家」からは「ベッド・ルーム」の存在自体がフレッドによって排除されているのだ。そして、この”「家」のなかでも、もっとも「私的な場所」の欠落”は、すでに「フレッドの幻想」として現れ、のちにより明瞭な姿を現す「砂漠の小屋」によって補完されているといえるだろう。

しかし、このシークエンスで注意をひかれるのは、「両親たち」が観ているテレビ番組が表象するものである。

デイトン家のリビング・ルーム 内部 夜 (0:57:02)-(0:57:11)
(1)ミドル・ショット。濃い緑色の長ソファの右端に腰掛け、テレビを観ているピートの両親の正面からのショット。父親は前に置かれた低いテーブルに靴を履いた足を載せ、左肘をソファの肘掛けに載せて、拳を上方に突き出している。父親はチェックのシャツにジーンズ、母親は黒いTシャツにジーンズのベストにジーンズのボトム。二人の前のテーブルには吸いがらが入った灰皿と、ビールの瓶が一本置かれている。父親の右側には背の低い小さなテーブルがあり、その上には点灯した電気スタンドが置かれている。二人の背後の白い壁の上方には絵が掛けられており、壁の右側には奥に続く廊下が見える。
テレビのアナウンサー:(画面外で)...differnt kinds of fruits grow and ripen.
(2)テレビの画面のアップ。モノクロの映像。イチゴを収穫している両手のアップ。テレビの右側にはベージュのカーテンが見える。その手前にはテーブルの一部。映像が切り替わる。籠を持ち、うつむいてイチゴを収穫している少女と少年。
アナウンサー: it takes many strawberries to fill a buscket, but it's worth it, ...when you know that...
切り替わる映像。台所。手前のテーブルには少年と少女が座り、その奥ではオーブンに向かった母親が何か料理をしている。

デイトン家のリビング・ルーム 内部 (0:57:15)-(0:57:38)
(3)ミドル・ショット。長ソファに腰掛け、テレビを観ているピートの両親。
アナウンサー:(画面外で)...and a glass of fresh, cold milk form Grandfather's cows.
母親の方をちらりと見る父親。それに気づいて父親の方を見る母親。廊下から、女性を先頭にして友人たちが出てくる。
先頭の男性:(両親に左手を差し延べ)See you later.
そのまま右手の玄関のほうに向かう友人たち。
最後にピートが出てくる。
ピート:
(両親に)I'm going to go out with clowns for a wihle.
ピートの右では、友人たちが立ち止まってピートと両親を見ている。
長ソファに座ったまま、ピートの方を見上げている両親。
父親:
(ピートに)That should do you some good.
母親:(ピートたちに)Night, honey.
父親:(ピートたちに向かって左手を上げて)See you.
両親に向かってクロース・アップ。
[玄関のドアが開けられ、また閉められる音]
両親のバスト・ショットまでクロース・アップ。右手にグラスを持ったまま、ピートたちが出ていくの見守っている父親。母親の方を振り返り、彼女と顔を見合わせる。

「前半部」における「フレッドを核にした幻想/捏造された記憶」に登場した「ビデオ・テープ」がその好例だが、「ロスト・ハイウェイ」に現れる「映像内映像」は、端的に「フレッドの意識や感情」を反映している。それは「後半部」の「ピートを核にした幻想/捏造された現実」に現れる「映像内映像」についても同様で、それらもまた「フレッドの意識や感情」をキーにして理解されるべきものである……いや、「後半部」が提示する「映像内映像」に対してフレッドが与える「歪み」は、むしろエスカレートしているといえる。「前半部」の「映像内映像=ビデオ・テープ」においては保証された(あるいは通常なら保証される)「映像」や「写真」の内容の「指標性=ありのままの記録であること」すら、もはや「後半部」では保証されないのだから。

この「イチゴ狩りの少年と少女」という「映像内映像」においても、上述した観点はそのまま当てはまる。「両親」たちが観ているテレビ番組は、明らかに「家族」ないしは「家族関係」の(それも「機能している家族」の)モチーフを内包している。かつ、そこに現れる「記号」は、(0:55:08)以降の映像群が提示する”フレッドによって構築されつつある「ピートを核にした幻想/捏造された現実」”と重なっている。だが、なによりも興味深いのは、この「映像内映像」に現れる”「外界」と「内面」の関係性”だ。

そこに描かれている「外界=畑」は、フレッドが現在「現実の外界」に対して感じているような「理不尽な混沌」ではないし、ましてや「内面」に対して「監視/追求」を行う「脅威」でもない。そこは「果実が育ち成熟する」といった「明瞭な因果律」が存在し、「イチゴ」のような”「収穫」される対象”を提供する非敵対的な場所である。一方の「内面=家」も、母親や祖父の「保護」によってその内部の「安全」と「平穏」が保証され、「避難場所」として十全に機能している。「外界」と「内面」をまたいだ「関係性=因果律」も非常に整然としており、そこに混乱は持ち込まれない……「外界=畑」から持ち込まれた「収穫物=イチゴ」は、母親によって「内面=家」においても有効に役立てられるのだから。こうした「世界観/宇宙観」は、普遍的/一般的な「現実」と比較しても単純でストレートであり、あるいは「短絡的/幼児的」ですらあるといえるだろう。それは”フレッドが現在置かれている「状況」”とは明らかに真逆であり、それがゆえに彼の「希求」の対象となる。この「映像内映像」が表しているのは、いわばフレッドが現在構築している「幻想/捏造された現実」の「理想的な原型(モデル)」であり、その提示自体が彼の「希求」の反映であるといえる……たとえ、それがモノクロの揺れる「テレビ画像」のように、おぼろげでおぼつかない「原型」であったとしても。

「ピートの両親」自体がフレッドによって構築されつつある「ピートに関連する幻想/捏造された現実」を構成する一要素であることを考えるとき、この「映像内映像=フレッドの理想」を父親と母親が観ているという事象は、一見、パラドキシカルにみえる。まるで「両親」たちは、新しく構築された「幻想/捏造された現実」における「外界」と「家=内面」の「因果律」について、あるいは「ピート」との関係=自分たちが彼を保護する存在であること」について「映像内」を通じて「学習」しているかのようだ。(0:53:16)からのシークエンスにおける「両親」たちの「呆然とした表情」が……あるいはカット(3)にみられる「友人たち」と「家」を出て行くピートを見送った後の「父親と母親へのクロース・アップ」と「二人が交わすとまどったような視線の交換」が、この二人が「世界の因果律」を把握できないまま「混乱」していることを物語っている。特に後者に関しては、自分たちが「保護すべき対象=ピート」が「友人たち」に連れられて「家=内面」から「外界(に相当する場所)」に出て行こうとすることへの「とまどい」とも理解できる。

だが、フレッドが構築した「幻想/捏造された現実」のなかでは、基本的にすべての「登場人物」がフレッドの「代弁者/代行者」として機能する。それを踏まえるなら、「混乱」しているのは「フレッド自身」に他ならないし、「外界」に出ることにとまどっているのも「フレッド」自身だ。それを裏付けるかのように、フレッドのもっとも有能な「代弁者/代行者」であるピートもまた、このシークエンスに至るまでずっと「空虚で呆然とした表情」を浮かべ続けている。構築途上にある「幻想/捏造された現実」において、フレッドは(「外界」との関係性を含めた)自分に都合のよい「因果律」を早急に用意する必要に迫られているのだ。「イチゴ狩りの少年と少女」という「映像内映像」が……すなわち「理想的な原型(モデル)」がフレッドによって想起されるのは、このような機序においてである。

さて、このシークエンスの「映像内映像」に現れる「少年/少女」自体が、「裏庭」のシークエンス(0:55:08)に現れる「記号」群と同じく、「幼児性」を指し示している。この二人が母親や祖父によって「保護される対象」であることを考えるなら、そして「代弁者/代行者」というキー・ワードでこの「子供たち」を捉えるなら、「少年」が「ピート=フレッド自身」を表していることは自明だろう。では、もう一方の「少女」のほうは?……という疑問には、この直後のシークエンスが応えることになる。

2009年1月24日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (29)

そういえば、遅ればせながら、お誕生日おめでとうございました、デイヴィッド・リンチ殿……っつったって、ご本人がここ読んでるわけがないんですが、ソレはソレとして引き続き「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」のおハナシだったりする。今回は(0:53:16)から(0:56:33)まで。

ピートへの「変身」を遂げたあと、彼を核にした「幻想/捏造された記憶」をフレッドはより詳細に構築し始める。すでに(0:49:55)のショットにおいて、「恋人=シーラ」と「両親」、そして「ピートの家」のイメージはあらかじめ登場しているが、フレッドはそれらのイメージに具体性を与え続けるのだ。

すでに何度か指摘したように、こうした「ピートおよび彼に関連するイメージ」は「フレッド自身および彼に関連するイメージ」から遠くかけ離れている。年齢、職業、家族構成、交友関係、住居の構造……どれをとってもこの二人のイメージは重ならない。いうまでもなく、これはフレッドの「願望/欲求」の反映である。「幻想/捏造された現実」の「核」にすえる「人格」として、フレッドはもっとも自分と重ならない「人物像」を意図的に(あるいは無意識に)チョイスしているのだ。そのほうが現在受けている「監視/追求」から逃れるのに都合がよいのは当然だろう。だが、もう一点指摘しておきたいのは、「自分がレネエを殺害した」という現実から目を背けることもまた、フレッドの「願望/欲求」のひとつであることだ。

「前半部」によって提示されたように、”「フレッド自身」を核にした「捏造された記憶」”は崩壊し、フレッドは「第三のビデオ・テープ」という形の”自分がレネエを殺害したという「ありのままの記憶」”を明瞭に蘇生させてしまった(0:39:47)。それに連鎖して「現実に近い記憶」をも想起してしまったフレッドは、新たに構築し始めた「幻想/捏造された現実」から”「ありのままの記憶」の蘇生”につながる「要素」を排除する必要に迫られるが、その「要素」の最大のものは実は”「ありのままの記憶」を蘇生させた「フレッド自身」”に他ならない。このように「ピートおよび彼に関連するイメージ」は、フレッドが「外界」から受けている「監視/追求」のイメージから逃れるのに有効であるばかりでなく、彼自身の「内面」に存在する「ありのままの記憶」や「現実に近い記憶」、あるいはそれらに起因する「罪の意識」や「レネエをなくした喪失感」から遁走し「自我」を保護するうえでも効果的なのである。

さて、(0:53:16)から(0:53:47)までのシークエンスでは、ピートの「両親」のイメージが具体的映像によって提示される。そもそもフレッド自身の「両親」は一度も作中では登場せず、その「存在」自体が不明瞭である。であるならば、ピートが「両親」と同居していること以前に、その「存在の提示」自体が「フレッドのイメージ」からは逸脱しているといえるだろう。加えて、ここで提示されるピートの両親の「人物像」は、その服装(革ジャンにジーンズ、サングラス)が指し示すように「典型的なバイカー」として描かれている。この「両親」の「人物像(イメージ)」は、明らかにピートのイメージ……(0:52:44)で提示された「自動車修理工」「車泥棒」というイメージから連鎖して構築されたものと考えるのが妥当だ。そして、直後のショットが表すように、「両親」たちはピート=フレッドを「保護するもの」としてまずは機能する。

同様に、(0:53:47)から(0:54:29)のショットによって、「ピートの家」の構造が「フレッドの家」の構造とはまったく異なっていること……「二階建ての瀟洒な高級住宅」と「平屋建ての郊外住宅」という対比も明示される。この差異は、”「人間の内面」を表すものとしての「家」”というリンチ作品における共通テーマを踏まえたとき、非常に興味深いものになる。「フレッドの内面」の変化……つまり、「フレッドの人格」と「ピートの人格」の入れ替わった結果、その「外見」とともに「家=内面」の構造も変化したと捉えることも可能だからだ……そう、たとえば、「インランド・エンパイア」における「演技者=ニッキ-の屋敷」と「登場人物=スーの家(スミシーの家)」の構造が完全に異なっているように。

もう一点このシークエンスで指摘しておきたいのは、クレーン・ショットを使用した「視点の移動」である。「高い位置から俯瞰」から「ピートや両親のいる低み」まで下降していく「視点の移動」は、(0:26:18)から提示された「フレッドの家」の外部でのシークエンス……「フレッドとレネエが刑事のエドとアルを見送る」シークエンスにおいて現れたものと同一である。当該シークエンスについて述べる際に触れたように、そこで使われた「視点の移動」が”すべてを俯瞰する「客観=外界」から、狭窄的な「主観/感情」を内包する「内面=家」への移行”を表すものであるならば、現在論じているシークエンスにおける同様の「視点の移動」もまた、同じものを表象すると捉えて差し支えないはずだ。なによりもその「視点」によって捉えられる事象とは、”ピートに変貌したフレッドが「外界」の「監視/追求」から逃れ、「両親」に文字どおり庇護されつつ、変わってしまった「家=内面」に帰還(あるいは遁走)する姿”なのである。

ただし、(0:54:29)から(0:55:08)までの「ピートの家を見張る刑事たち」のシークエンスが明示するように、ピート=フレッドは(自分が現実に受けている)「監視/追求」のイメージを完全には排除できていない。前回述べたように、基本的にそれらのイメージは「揶揄の対象」へと置換されてはいるが、ピートを核にした「幻想/捏造された現実」においても「監視/追求」のイメージは厳然として残留しているのである。こうしたイメージに対してフレッドがどのような「感情」を抱いているかは、”「刑事たちの自動車」の「フロント・グリルのアップ」が、最終的にフレーム一杯に画面を占領する映像”が伝える「圧迫感」によって明らかだろう。そして、そこから上方にパンした「視点」が捉えるのは、その「圧迫感」の「主体」である「監視/追求の施行者=刑事たち」なのだ。

では、周到に構築された”ピートを核にした「幻想/捏造された現実」”のなかで、フレッドがどのような「感情」に浸っているのだろうか。それを端的に描くのが、続く(0:55:08)からの「デイトン家の裏庭」のシークエンスだ。

デイトン家の裏庭 外部 昼 (0:55:08)
(1)[ピアノ・バンドによるボサノバ調の曲が流れる]
クレーン・ショット。芝生に置かれた緑色のデッキ・チェアに寝転んでいるピートを、真上から捉えたショット。ピートは、赤茶色のV首セーターと白いスラックス姿で、腕を組み、左足首の上に右足を乗せている。首を自分の右の方に傾け、そちらの方を眺めるピート。彼の左側に、徐々に降下していく視点。ほぼ彼と同じ高さになり、彼の背後の白い木のフェンスと、その向こうの茶色い煉瓦の壁が視界に入ってくる。壁の右寄りには灌木が一本立っている。ピートを捉えて降下を止める視点。デッキ・チェアの上でピートが身じろぎし、組んでいた腕を解き足を降ろして、画面手前の方を向いて座る。視線は今まで見ていた方向に向けられたままだ。そのまま両肘を膝の上に乗せ、自分の体を抱くように両肩の下のほうに手をかける。左から右を見回すピート。その左の額の傷痕。また、もと見ていた方向に視線を戻す。背後の灌木の葉や枝を揺らす微風。やがて、ピートはデッキ・チェアから立ち上がる。それに連れて上方にパン。ゆっくりと左に歩き出すピート。それを追って左へパン。それまで見えていた煉瓦の壁と直角に交わった、隣家との境をなす低い煉瓦の壁が視界に入ってくる。隣家との境の煉瓦壁にまず右手を、続いて左の肘を掛けるピートの背後からのショット。彼の肩と煉瓦壁越しに、隣家の裏庭が見えている。左のほうには大きな木があり、その枝からはブランコが下がっている。木の右の芝生の上には木製の折畳み椅子が一脚置かれている。
(2)隣家の裏庭の方向からのピートのアップ。煉瓦壁の上端に両方の腕を載せ、隣家の裏庭を眺めているピート。その背後には、アウト・フォーカスで煉瓦の壁と木々が見えている。
(3)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。芝生が植えられた隣家の裏庭。画面奥に煉瓦の壁。その手前左には太い木の根元。その右には木製の折畳み椅子。画面手前には青い子供用プールがあり、その水面には黄色い帆のヨットの玩具とピンク色のボールが漂っている。プールの左、コンクリートが張られた一角には子犬がおり、コンクリートの地面を嗅いでいる。背後の太い木からコンクリートのあたりまで緑色のゴム・ホースが伸びている。コンクリートが張られた地面の右の芝生には木の杭が一本打たれている。やがて画面左に姿を消す子犬。
(4)ピートのアップ。煉瓦壁に両腕を載せて、隣家の庭を眺めているピートの正面からのショット。
(5)ミドル・ショット。ピートの主観ショット。子供用プールが置かれた隣家の庭のショット。
(フェイド・アウト)
[フェイド・アウトする音楽]

シークエンスをとおして流れるAntonio Carlos Jobimの「Insensatez」の穏やかな曲調が、全体のトーンを規定する。

その曲をバックグラウンドにカット(1)でまず提示されるのは、デッキ・チェアに寝転ぶピートを真上から捉えたクレーン・ショットだ。そして、ここでも「下方に向かって移動する視点」が……ピートを見下ろす「高み」に始まり、最終的に寝転がる彼と同じ「低さ」まで降下する「視点の移動」がなぞられる。要するに、「視点の位置変化」によって表される”「外界」から「内面」への移行”あるいは”「客観」から「主観」への転換”のモチーフが、またもやリフレインされているのだ。ただし、以前のシークエンス群が”フレッドやレネエ、刑事たちを含めた「フレッドの家」”や”「ピートと両親」と「ピートの家」”という広範囲を高い位置から収めた俯瞰ショットを「視点移動の開始点」にしていたのに対し、今回は「ピートのミドル・ショット」という比較的低い位置のより狭い範囲の映像を「開始点」にしていることが目をひく。すなわち、この「視点の移動」のモチーフに則っていうならば、このシークエンスの「視点」は、これまでに現れた二つのシークエンスよりも「内面/主観」に傾いた位置から移動を開始しているのである。

ここで指摘してきたいのは、現在論じているシークエンスの舞台が”「ピートの家」の「裏庭」”であることだ。「インランド・エンパイア」に登場する”「スミシーの家」の「裏庭」”のシークエンスについて述べる際にも触れたように、そこは「外界」と「家」の中間的性格をもち、「公的なもの」と「私的なもの」が交錯する場所である*。そして、それはそのまま”「客観」と「主観」”、”「普遍」と「個」”、あるいは”「外界」と「内面」”が交錯する場所であることを意味する。つまりは、これまでに「下方に向かう視点」が現れた二つのシークエンスに比べ、そもそもこのシークエンスの舞台自体が「内面/主観/個」に傾いており、この”「低い位置」からスタートする「視点」”はそれに合致しているといえる。かつ、このシークエンスを「ピートの帰還」のシークエンスと連続性を有するものと捉えるなら、「極大」から「極小」への「視点の移動」が両シークエンスをまたがって描かれていることになるだろう。であるならば、このシークエンスの「視点の移動」が「より低い位置」から開始されることには何の不思議もない。

その「視点」が捉える「緑の芝生」「白い木のフェンス」といった「記号」は、たとえば「ブルーベルベット」においても採用されていたものだ。リンチの原点のひとつである「サバービア(郊外住宅地)」のイメージを指し示すこれらの「記号」群は、リンチ作品においては「安全」や「日常」といったのイメージ、ひいては精神的「避難場所(shelter)」としての「家=内面」のイメージと重なっていく。ただし、この「避難場所=家=内面」が、実にしばしば”「外界」の侵入を受ける「対象」”でしかないことは、この後の「ロスト・ハイウェイ」の展開をみても明らかだが。

さて、ピート=フレッドは、「緑の芝生」や「白い木のフェンス」といった「記号」が散りばめられた「裏庭」に存在し、「下方に向かう視点」がそうした彼の姿を提示する。このシークエンスのすべての事象が、自分が創りあげた「新しい人格=内面」に遁走し、そこに構築した「新しい幻想/捏造された現実」によって「外界=ありのままの記憶」から守られ、「安堵」しているフレッドの「意識」を反映している。

ピート=フレッドは「裏庭」を取り囲む「壁」によって保護されているが、それは「刑務所の中庭の壁」(0:44:51)のような、「拒絶/断絶」のイメージを付随させた高く厳ついものではない。その上部に肘を乗せてピートが隣家の「裏庭」を覗く映像(カット(2))に表れているように、「裏庭の壁」が付随させているのはむしろ「緩やかな開放/保護」のイメージだ。その「壁」越しのピート=フレッドの視線は、「隣家の裏庭」を捉える。当然ながら、それはもうひとつの……他者の”「外界」と「内面」が交錯する場所”であるわけだが、ピートのいる「裏庭」からはみた場合、それ自体が「外界」に相当するものであるはずだ。だが、現実の「外界」とは異なり、カット(3)にあるように、「隣家の裏庭」に存在するのは「子供用プール」やそこに浮かぶ「玩具のヨット」「ビーチ・ボール」「ブランコ」そして「子犬」というような「幼児性/無害性」のイメージを付随させた「記号」群である。

ここに至って、我々=受容者は、このシークエンスに現れる「記号群」が表象しているものが、”「フレッドが置かれている状況」の「無害化」”であることに気づく。「裏庭の壁」は「刑務所の壁」の無害化であるし、「白い木のフェンス」はあるいは「独房の壁」の無害化である。かつ、”コントロール不能な「現実のレネエ」”や”彼女に対してフレッドが抱いた「激しい感情」”を想起させる”「アンディの屋敷」の「プール」”(0:27:19)は、「子供用プール」のイメージに矮小され「玩具のヨット」や「ボール」が浮かべられる。レネエが「第二のビデオ・テープ」を「フレッドの家」に持ち込む際に喧しく泣き続けた「近所の犬」(0:18:44)は、「子犬」のイメージに置き換えられてもはや「警告」を発することもなく、カット(3)の結尾では画面から姿を消してしまい、カット(5)にはまったく現れない。「監視/追求の施行者」たちが「監視/追求の対象」であるフレッドを失って無力化され「揶揄の対象」にされるのと同様に、フレッドに「レネエ殺害」という「ありのままの現実」を想起させる可能性のあるものは、関連性を残しつつも異なった「無害なイメージ」に置き換えられ、徹底的に「脅威」を除外される。

現在ピート=フレッドが感じている「安堵感」は、こうした「脅威」を「無害化」する作業によって……すなわち、フレッド自身の「現実の捏造」によって保障されているのだ。

*「ロスト・ハイウェイ」のこのシークエンスと、「インランド・エンパイア」の”「スミシーの家」の「裏庭」”のシークエンスに共通して現れる「幼児性」のイメージについても指摘し置くべきだろう。「サーカスの芸人たち」やピオトルケの言動に表れる「幼児性」は、「隣家の裏庭」に現れている「子供用プール」「玩具のヨット」「ブランコ」「ビーチ・ボール」「子犬」といった「記号」が備えている「幼児性」と重なっている。これらの「記号」がフレッドの「捏造」の結果生まれたものだとしたら、そこに現れる「幼児性」はピオトルケの「幼児性」と同じく、”「権力」を手にした/手にする者”の「全能感」に裏付けられているといえる。確かに、自分の希求に従って「現実=記憶=世界」を捏造し、そこで生きることができるならば、それは「絶大な権力」であるはずだ。

2009年1月21日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (28)

てなわけで、引き続き「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」のおハナシだったりする。今回は(0:51:14)から(0:53:16)まで。

概論の「全体構造」に関する項で述べたように、このシークエンスから「後半部」がスタートする。

これまた概論で述べたように、これ以降、(1:56:48)からの「ターニング・ポイント-2」に至るまでの映像群によって描かれているのは、フレッドによって構築された”「ピート」という「架空の人格」を核とした「幻想」あるいは「捏造された記憶」”である。表層的にそれらの映像群を観たとき、あたかもそこで発生している事象の「主体」がピートであるようにみえるが、あくまでその「主体」はフレッドだ。

これまでも何度か触れたように、フレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかでは、しばしばフレッド以外の人物がフレッドが抱いた感情や思考を「代弁」し、フレッドの行動を「代行」する。それらの「人物」のなかでも、ピートはもっとも有能な「フレッドの代弁者/代行者」として機能する。基本的に、ピートが抱く感情はフレッドが抱いている感情であるし、ピートがとる行動はフレッドの願望/欲望に沿った行動である。

ピートがフレッドの有能な「代弁者/代行者」であるのは、なによりもピートがフレッドにとっての最大の「願望/欲求」……つまりは現在フレッドが置かれている状況からの「脱出口」であるからだ。ただし、その「脱出口としてのピート」があくまで「心理的」なものであり、端的にいえばフレッドの「内面」において発生し、そこにしか存在しない「捏造されたもの」であることは、直前のシークエンスにおける「フレッドの額の傷の内部に向かって、煙を追って侵入する視点」の映像によって保障されている。

リンチ作品に頻出する「侵入する視点」のモチーフの直後に提示される映像は、基本的に「侵入される対象」の内部に存在するものを指し示している。たとえば「マルホランド・ドライブ」における「ブルー・ボックス」に「侵入する視点」は、その後のシークエンスにおいて「ダイアンの現実の記憶」を目撃する。「ロスト・ハイウェイ」における「フレッドの額の傷」に「侵入する視点」もその例に漏れず、その後に提示される映像群は「フレッドの内面」において発生している事象そのものだ。なぜなら、「侵入する対象の先にあるもの」はフレッドのの「頭部の内側」であり、そこに存在するのは「フレッドの内面」の容れ物(vessel)である「脳」に他ならないからだ。その表象するところにおいて、これは「ブルー・ベルベット」における”「耳」の内部に向かって「侵入する視点」”の非常に近しい「ヴァリエーション」であり、基本的にまったく同義であるといってよい。

ただし、何度か述べたように、これをナラティヴな意味での”「(作品内)現実」と「(作品内)非現実」の混同”という具合に理解したのでは、その本質を見逃すことになる。その端的な表れが、前回触れた”「独房の天井」にオーヴァーラップされる「ピートの目」”の映像であり、”そこに発生している「煙」が「フレッドの内面」に侵入する”映像である。”「外界」であったものが「内面」に侵入する”というモチーフはリンチ作品において共通のものだが、そもそも「ロスト・ハイウェイ」においては、そこで描かれている「外界」そのものが実は「フレッドの内面」で発生している事象なのだ。この「外界」が「客観的な現実」ではなく、主観によって歪められた「フレッドの認識」であることは、「前半部」が提示する映像群によって明らかである。であるからこそ、「独房の天井」と「ピートの目」のイメージはフレッドが感じている「監視/追求」のイメージによって連鎖し、「独房」に漂う「煙」は「フレッドの内面」に向かって侵入することが可能になるのだ。こうした表現の根底には、リンチ独特の「表現主義」的な発想が存在していることは間違いない。たとえ「後半部」が提示する映像群がどれだけ「ピートを主体とした現実」としてリアルであったとしても、その内実は「フレッドの内面」で想起されている「幻想/捏造された記憶」でしかなく、それこそ「独房を漂う煙」のように「実体」をもたないものなのである。だが、それを「現実」とフレッドが捉える限りにおいて、そこで発生している事象がどれだけ彼の「感情」に歪められた「非現実」なものであろうと、それは彼にとっての「現実」なのだ。

かくして、「後半部」が提示する映像群は、間違いなくすべて「フレッドの内面」において発生している事象を描いており、彼の「感情」や「思考」をキーにして理解されるべきものであることが了解されることになる。そして、それらの事象は、(少なくとも最初のうちは)フレッドが自分が現在置かれている状況から逃れること、ただその一点に向かって収束する。たとえば(0:51:14)から(0:52:44)までのシークエンスが提示する「脱出不可能であるはずの死刑囚房の独房からフレッドの姿が消え、かわりにまったくの別人=ピートが見つかる」という事象のように、だ。あくまで「フレッド」を監視/追求していた看守たちは、当然ながら「監視する対象」も「追求する対象」も失ってしまう(という「外界に関する認識=記憶」をフレッドは捏造する)。こうして、フレッドはまんまと(彼の「内面」において)「監視/追及」や「自らの罪の意識」から逃れ、「心理的遁走」を達成することに成功するのだ。

ただし、ピート=フレッドであることは、具体的映像によっても我々=受容者にあらかじめ随所で示唆される。(0:51:21)および(0:52:38)の映像においても、ピートの額には(0:50:10)でフレッドが負っていたのと同様の「傷」が存在していることが明示されているが、この二人の「同一性」が決定的に明瞭になるのは、終盤近く(1:56:45)からの映像によってだ。

(0:52:44)から(0:53:16)までのシークエンスにおいて、「フレッドの独房にいたストレンジャー」の正体はあっけなく明かされる。その理由はもちろん、その「男」が「ピート・デイトン」であり「フレッド・マディソン」でないことが早急に明らかにされたほうが、フレッドにとって都合がいいからだ。「フレッドの独房内で発見された男」はもはや「アイデンティティを持たない正体不明の存在」ではない。24歳という年齢、五年前に自動車泥棒で逮捕され一年間の執行猶予処分を受けたこと、両親と暮らしていることや住所までが、所長の言及および彼が操作するコンピュータ画面によって、効率よく「フレッドを監視/追及していた存在たち」に、そして我々=受容者に対して説明される。

「フレッドの消失/ピートの発現」を発見した看守たちもそうだが、所長の背後に言葉もなく立ち尽くす三人の男たちは、現在発生している事象に対して「監視/追及」する側がまったく無力であることを示している。男たちの背後には書籍やファイルが詰まった「本棚」が立ち並び、彼らがそうした「知識」や「情報」を駆使する「権力」を備えていることを表象しているが、それも現在発生している事象に対しては無力である。彼らの「監視/追及」を手助けするはずだったコンピュータも、かえって「監視/追及する対象の消失」を裏付けるだけでだ。いみじくも看守が言及したように(0:52:31)、彼らは自分たちが「とんでもない羽目に陥っている(this is some spooky shit we got here)」ことを思い知らされる。当然ながら、こうした事象もまた、フレッドの「感情」の反映であることは言うまでもないだろう。(0:41:50)の刑事による暴力や、(0:48:01)などの映像に現れる看守たちが「典型的な行動」をとることからも逆説的にわかるように、フレッドが「監視/追及する者たち」に対してどのような「感情」を抱いているかは明瞭だからだ。ピートという「新しい人格」を獲得し、「監視/追及する者たち」の手から逃れることに(内面において)成功したフレッドは、彼らを揶揄した「幻想=イメージ」をこの後も引き続き展開させることになる。

2009年1月17日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (27)

なーんか年始のゴタゴタに紛れて間が空いてしまいましたが、そこはそれ、テキトーなペースでチマチマ進行中の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」を追っかける作業の続き。

今回は、(0:49:39)から(0:51:14)まで。「ターニング・ポイント-1」を構成する、最後のシークエンスである。さて、では、「真の感情」と「真の声」を隠匿し終えたフレッドが抱える「心理的変動」とは、いったいどのようなものであるのか。

夜のハイウェイ (0:49:39)
(11)(フェイド・イン)
疾走する自動車の内部からの夜のハイウェイ。オープニングに現れた映像と同一である。
[高まる音楽]
やがて視点はスピードを落とし、道路の右端に向かう。ヘッドライトの光が、道路の端に立っている男(ピート・デイトン)の姿を捉える。彼と向き合って停止する視点。
(12)ミドル・ショット。ヘッド・ライトのを浴びて、画面右に立っているピート。ライトは革ジャンを着たフレッドの腰のあたりを捉えており、顔は下からの照明を浴びてぼんやりとしか見えない。ゆっくりとピートに近寄っていく視点。突然、強烈な青白い光が彼の右から浴びせかけられ、同時に画面右にはオーヴァー・ラップでピートの家の前に立つシーラの姿が浮かび上がる。シーラは黒い上着とミニ・スカートをつけ、両手をほほのあたりに当てて立っている。なおもピートに近づいていく視点。
シーラ: Pete!
明滅する青白い光。オーバーラップで写された平屋建てのピート家の玄関付近には、彼の両親が立っている。
シーラ:
Pete, don't go!
なおもピートに近づいていく視点。アップになるピート。明滅する光に照らされ、ホワイト・アウトするピートの顔。オーヴァーラップされた映像では、シーラが画面手前に向かって駆け出す。その背後では、ピートの両親も駆け出している。
シーラ: Pete!
父親: Pete! Pete! Pete!
画面手前に消えるシーラ。その背後から、両腕を振り上げて走ってくる父親。
(13)明滅する青白い光に照らされる、ピートの目のあたりのクロース・アップ。
シーラ: Pete!
(14)暗闇
(15)ピートの目のあたりのクロース・アップ。
(16)(ディゾルヴ)
独房の天井の鉄格子とその向こうの照明のアップ。下から見上げるショット。漂う煙。
(17)(ディゾルヴ)
ピートの目のあたりのクロース・アップ。
(18)(ディゾルヴ)
独房の天井の鉄格子とその向こうの照明のアップ。下から見上げるショット。漂う煙。
(19)(ディゾルヴ)
明滅する青白い光に照らされる、ピートの目のあたりのクロース・アップ。
(20)(ディゾルヴ)
独房の天井の鉄格子とその向こうの照明のアップ。下から見上げるショット。漂う煙。
(21)(ディゾルヴ)
ピートの目のあたりのクロース・アップ。青白い光は衰え、通常の色を取り戻している。
(22)(ディゾルヴ)
血が流れる頭を両手で抱え、床を転がるフレッドの高速度撮影ショット。明滅する青白い光。床にも血は流れている。
[エコーのかかったフレッドの悲鳴]
(23)独房の天井の鉄格子と、その向こうの照明のアップ。下から見上げるショット。明滅する青白い光。漂う煙が濃くなり、何も見えなくなる。煙の合間を縫って鋲が打たれた壁が現れ、視点が下方に向かってパンし続けていることがわかる。煙は下方に向かって漂っている。最終的に、煙は大きく開いた傷口のように向かって吸い込まれていく。視点は煙を追って、生々しく肉と血がのぞいている傷口の中に侵入する。
(フェイド・アウト)
(24)(フェイド・イン)
画面の右端にアウト・フォーカスで映される、暗闇の中でうごめく人の顔のようなもの。(フェイド・アウト)

現在論じているシークエンスは、前回取り上げたシークエンスと連続性があるため、カット番号を連番にしていることをあらかじめお断りしておく。

カット(11)にまず現れるのは、疾走する車内からの「主観ショット」によって提示される「夜のハイウェイ」の映像である。この映像は「オープニング」および「エンディング」において、あるいはこの後のシークエンスにおいても使用されている「フレッドの遁走」というこの作品の基本テーマを象徴する映像である。そして、このシークエンスによって提示されているのは、フレッドが「遁走」を開始するまさにその瞬間だ。

ここで指摘しておきたいのは、このカット(11)が直前のシークエンスのラスト・カット(カット(10))と連続性をもって提示されていることである。この二つのショットの間には「フェイド・アウト」「フェイド・イン」が挟まれているためこの連続性がわかりにくいのだが、それを補完するのがカット(16)(18)(20)の「独房の天井の鉄格子」を見上げるショットだ。これらのショットはカット(10)の映像と同一アングルであり、これは「視点」の位置がすべて共通であることを意味している。カット(10)の映像がカット(9)における「上方を見上げるフレッド」の「視線の対象」であることは明らかであり、これら「独房の天井」の映像群はすべて独房内にいる「フレッドの主観ショット」であることが了解されることになる。

この「独房の天井」と重なって、ディゾルブによるカッティングによって様々な映像が提示されるわけだが、ここで思い出されるのが、前回挙げたシークエンスにおいて発生していた「視線」と「その対象」の関係性……つまり、「フレッドの視線」と「砂漠の小屋」との関係性である。「独房の扉」と重なって現れる「砂漠の小屋」が「フレッドの視線」の対象物であることは、カット(2)カット(3)の関係性において明らかだ。当然ながら、この「視線とその対象」の関係性は現在論じているシークエンスにおいてもキープされているのが妥当だろう。つまり、カット(11)の「夜のハイウェイ」の映像からカット(13)までの映像は「フレッドの視線の対象物」であり、「独房の扉」に重なって現れる「砂漠の小屋」と同じく、フレッドによって「幻視」されているものなのだ。

これらの「視線とその対象の関係の同一性」や「視線の主体」から了解されるのは、「独房の扉」という「物理的出口」に重なって現れた「砂漠の小屋」のイメージがフレッドの「心理的出口」であったのと同じく、「監視/追及」のイメージを付随させている「独房の天井」*と重なって現れる「夜のハイウェイ」および「ピート」の(そして、それに関連する)イメージもまた、フレッドの「監視/追及」からの「脱出口」として捉えられるということである。

上記のような事項を念頭に置きつつ「ピートに関連するイメージ」群を観たとき、なかでも興味深いのは、ディゾルヴによって「独房の天井」のショットと交互に現れる「ピートの目のあたり」のクロース・アップ(カット(13)(15)(17)(19)(21))である。「独房の天井」が「監視/追及」のイメージを付随させていることは前述したとおりだが、「採光窓から見下ろすエド」(0:26:04)や「中庭のフレッドを監視する看守たち」(0:45:18)といった映像に明白なように、それは「監視する視線」の存在を前提にしている。であるならば、「独房の天井」に重なって「目」のイメージが提示されること自体には、何の不思議もないといえるはずだ。「独房の扉」と「砂漠の小屋」のイメージがともに「出口」という共通イメージによって結び付けられ重なって現れるように、「独房の天井」と「ピートの目」のイメージは「視線」という共通項によって結び付けられ現れるのである。同時に、あるいはこれは「視線の主」を「フレッドがコントロールできない外界に存在するもの」から「フレッドがコントロールできる内面に存在するもの」に置き換えることによる、「監視/追及」のイメージの「無力化」としても理解できる。

特に注意をひかれるのは、カット(21)の「ピートの目」のクロース・アップである。シークエンスを通じて「青白い光」に晒され(「フィルム・ノワール」諸作品の映像的特徴を思わせる)コントラストの強いモノトーンの映像として提示されていた「ピート」のイメージが、カット(21)において瞬間「色彩」を取り戻す。それはあたかも「非現実な幻想」っであったモノトーンの「ピート」が、「現実的存在」へと「実体化」を果たしたかのようだ。

カット(16)以降「独房の天井」の映像とともに現れていた「煙」のモチーフが、カット(23)において明瞭に提示される。リンチ作品に頻出する共通モチーフのひとつである「煙」は、すでに「フレッドの幻想」を表すシークエンスにおいて、フレッドの「感情」を表象するものとして現れていること(0:17:29)は以前に述べたとおりだが、このカット(23)に現れる「煙」のモチーフもまた、抽象的な概念の表象であることは明らかである。前述したように「煙」のモチーフは「ピート(の目)」のクロース・アップと重なって提示されているわけだが、こうした表現が示唆するのは、この二つのイメージ……「煙」と「ピート(の目)」のイメージの「同一性」だ。すなわち、ここに現れる「煙」は、(後に明らかになるように)「ピートおよびそれに関連するイメージ群」によって構成される「幻想/捏造された記憶」を表す「概念」なのである。

頭部に傷を負い、床を転げまわるフレッドの姿(カット(22))を提示したあと、「煙」のモチーフはカット(23)においても継続して提示される。カット(23)において、「視点」は「独房の天井」から「鉄鋲が打たれた独房の壁」をなめつつ、下方に向かって漂う「煙」を追いかけて下にパンし続ける。明滅する「青白い光」と濃く漂う「煙」そのものによって映像は明瞭ではないが、最終的にこの「下方にパンする視点」が辿り着くのは「独房の床」だ。前述したように、カット(16)(18)(20)における「独房の天井」の映像は「フレッドの主観ショット」によって提示されていたはずなのだが、このカット(23)においてはそれがいつの間にか「客観ショット」に転換されている……あたかも、「フレッド」という「主観ショット」の「主体」が消滅したかのように。

そして、下方に向かう「煙」が最終的に到達するのは、同じくカット(22)で認められるフレッドが頭部に負った「傷口」である。あらためて指摘するまでもなく、この「構造」は”「砂漠の小屋」にが吸い込まれる「炎」”の映像と同一であり、その表象するところも基本的に同一であるはずだ。すなわち「煙=ピートに関連するイメージ=幻想/捏造された記憶」が「傷口の中」に……それはつまりフレッドの「頭」の内部に……内包される様子(あるいは隠匿される様子)を提示していると捉えるのが妥当ということである。また、この映像には、これまたリンチ作品に頻出する「侵入する視点」のモチーフが認められる。「ロスト・ハイウェイ」においてまず現れた「侵入する視点」が、「フレッドの家=フレッドの内面」における核となる場所である「ベッド・ルーム」へと入り込んだように(0:17:42)(0:21:26)(0:41:11)、このシークエンスに現れる「侵入する視点」もまた「フレッドの内面」の核となる場所である「フレッドの頭」に向かって侵入を果たすのである。

ここで観られるのは明らかに「外界」と「内面」の境界線の溶解である。「ピートに関連するイメージ」は「独房の天井」と重ねられ、「監視/追及」(とその根底にある「視線」)のイメージによって連結される。そのイメージが「傷口」をとおして「内面」へと回収される様子は、見方によっては「外界による内面への侵入」である。だが、ここで表象される「外界」もまた、フレッドの「内面」で発生している事象……つまりは「幻想/捏造された記憶」であること、あるいはフレッドの「認知/認識」に基づく「外界=現実」であることは看過してはならない。一見「外界による内面への侵入」と捉えられる映像は、実は「内面による外界への侵入」であり、あるいは両者はまったく「同一」の事象なのだ。

その結果として発生するのが、カット(24)の映像によって表される事象である。真っ暗な闇を背景に、画面の右端に押し込められたアウト・フォーカスの映像は不明瞭だが、仔細に観れば「頭を抱えた男」の映像であることがみてとれる。この映像によって指し示されるものは、これに続くシークエンスによって発生している事象から明確なのだが、たとえはシナリオでは非常に端的に記述されている。以下にシナリオ版「ロスト・ハイウェイ」から当該箇所を引用しておこう。

屋内。刑務所。フレッドの独房。夜。
のっぺらぼうになったフレッドの顔、歪みだし、顔の各部分が現れ、ピート・デイトンの顔になっていく。
フレッド・マディソン、ピート・デイトンへと変わっていく。(溶暗)
(P.114)

最終的にこのシナリオの「映像化」としてはカット(24)のような映像が採用されたわけだが**、その意図するところは変わっていないと考えて差し支えないはずだ。カット(23)に認められる「視点の転換」を「フレッドの主体の消滅」の示唆と捉える見方は、このカット(24)が表象するものを了解したとき、あるいは一定の蓋然性をもつことになるだろう。

……という具合に、「ターニング・ポイント-1」は、フレッドが自分の「真の感情」を自分の心の奥深いところに隠匿し、心理的な遁走を開始したこと、かつ、その「遁走」の先が「ピート」という「別人格」を核にした「幻想/捏造された記憶」であること……を描いて終了する。これ以降の「後半部」においては、この新しい「幻想/捏造された記憶」がどのようなものであるか、そしてそれがどのように(「前半部」の「幻想/捏造された記憶」と同様に)崩壊に至るかが提示されることになる。

*「ロスト・ハイウェイ」を観た(25)の項を参照されたい。

**このあたりの映像に含められた意図に関しては、インタビュー集「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」においてリンチ自身によって「フレッドがピートに変身した、ということをはっきりさせようと思った」という具合に明瞭に語られている(P.306)。また、当時の当時のリンチはフィルムを至上としており、アヴィッド・システムを含めた映像のデジタル化にには抵抗を感じていたことも言及されている。同様の理由で「フレッドからピートへの変身」の映像化においてもモーフィング処理等のCGIは採用されず、カット(24)のような「アナログな映像」となった(同P.309)。

2009年1月11日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (26)

年が明けたら明けたで新年会があるわけですね、これが。年が明けて仕事始めが月曜で、とゆーことは一週間フルに新年会が続くわけですね、これが。毎晩、酔っ払っているわけで、ブログを更新するどころじゃなくて、もーダメダメな感じで帰っちゃそのまま寝るわけですね。しかし、季節感がある話題になるとかなりの確率でアルコールの話題が伴っているとゆーのは、その時点でダメな感じですね、はい。

とゆーよーに反省を(とりあえず形だけ)済ませたところで(笑)、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話でござーます。引き続き「ターニング・ポイント-1」を構成するシークエンスのうち、今回は(0:44:51)から(0:49:39)まで。

これから論じようとしているシークエンスは、すべて「刑務所内」を舞台にしており、そこで提示されているのはフレッドが精神的に追い詰められ、「頭痛」や「不眠」といった具体的症状を訴え始める姿である。

そこには、やはりフレッドの追い詰められた心理状態を示唆する映像が散りばめられている。たとえば(0:44:51)から(0:45:28)までの「刑務所の中庭」におけるシークエンスでは、フレッドの背後に刑務所の「高い壁」が提示される。この壁は彼を「外界」から遮断し、「閉塞」した心理状態を暗示するものだ。かつ、その前にいるフレッドの姿は画面の右手に押し込められた形で矮小化されており、画面のフレームを越えて聳え立つ「高い壁」との対比は絶対的である。現在置かれている状況に対して、彼は完全に「無力」なのだ……少なくとも「物理的」には。

同様に、(0:45:28)から(0:47:04)の「医務室」のシークエンスでは、途中挟まれるエスタブリッシュメント的に使われているミドル・ショット以外は、極端な「見下ろしのショット」あるいは「あおりのショット」で構成されていることが目をひく。この「上下のショット」は、第一義的にはフレッドの表情を追いかけるためのものだが、同時に我々=受容者の「視点」はフレッドを中心にして大きく上下に揺さぶられることになる。かつ、この「不安定な視点」によって提示されるのは、画面のフレームに対して斜めに構築された「不安定な構図」である。これらの要素によって、我々=受容者にはレッドが現在味わっている「不安定な心理状態」を擬似的に体験することになる。

これらの映像群の提示を経て、(0:47:04)からの「独房内」のシークエンスにおいて「ターニング・ポイント-1」は「後半部」へと続く最終的な局面を迎える。頭痛を訴えるフレッドに対し「典型的な行動」をとる看守たちの映像を挟みつつ、こうしたフェイズの移行に連動し、「ロスト・ハイウェイ」は象徴を散りばめた表現主義的な映像を炸裂させ始める。

独房 内部 (0:48:17)
(1)ベッドに足を開いて座っているフレッドを、足元の方から見上がるショット。フレッド這首を少し右に傾け、画面外で肘を太ももの上に乗せ手の指を組んでいる。彼の背後には黒い独房の壁が、天井には鉄格子が見える。落ちつかなげに体を揺らすフレッド。
(2)フレッドの右からのアップ。目をつぶり、苦しそうに首を振るフレッド。
[女声の歌が流れ始める]
左手、扉の方を見るフレッド。
(3)独房の鉄扉。上部の覗き穴から下部のスリットの上半分までを収めたショット。そこに両側に向かって真ん中から開かれるカーテンのように、二重写しにされる「砂漠の小屋」の右斜めからのロング・ショット。柱に支えられ、高い位置にある床。その入り口の前のテラスと、そこに至る木の階段。煙と炎が小屋に吸い込まれていく。映像は完全に切り替わる。
(4)ロング・ショット。「砂漠の小屋」を入り口がある正面からのショット。小屋に吸い込まれていく煙と炎。倒れていた壁の木材が元に戻る。
[吸い込まれる効果音]
煙と炎は吸い込まれ終わり、夜の砂漠に立つ小屋の外観が映し出される。
[消える女声の歌]
(5)フレッドのアップ。うろたえたような表情で扉の方を見ている。
(6)ロング・ショット。「砂漠の小屋」の右斜め横からのショット。画面左端には電信柱が見える。青い光に照らされて漂う靄。入り口から、黒づくめの服を着たミステリー・マンが出てくる。入り口の前に立ち、画面の方を見るミステリー・マン。
(7)フレッドのアップ。扉の方を見ている。首を傾げるようにして視線を逸らし、また扉の方に戻すフレッド。
(8)ミドル・ショット。「砂漠の小屋」の右斜め横からの、入り口あたりのショット。入り口の前に立つミステリー・マン。彼は画面の方を見ている。やがて、スロー・モーションで入り口をくぐり、小屋の中に入るミステリー・マン。
(9)バスト・ショット。ベッドに腰掛けているフレッド。
[効果音]
突然、独房の中に上方から青い光がさしこんでくる。その光に照らされ、青く染まるフレッド。急激な動作で上方を見上げるフレッド。上を向いたフレッドを捉えたまま、上方に移動する視点。消える青い光。
(10)ミドル・ショット。フレッドの主観ショット。天井の鉄格子とその向こうの照明、正面が下がった白い天井を見上げるショット。
[続く効果音]
(フェイド・アウト)

極限まで追い詰められたフレッドの眼前にまず現れるのは、「砂漠の小屋」の「幻影」である(カット(3)(4)(6)(8))。

「後半部」で具体的映像によって明示されるとおり、この「小屋」は遠く離れた砂漠の深奥にあり、いわば「断絶」した場所に存在する。カット(3)(4)の映像が示すように「小屋」は「炎」を内包しており、またカット(6)にあるようにそこには「ミステリー・マン」が住まわっている。ただし、カット(4)の最後の映像が示唆するように、「小屋」が「炎」を内包していることはその普段の「外観」からはわからない。

結論から述べると、これらの一連の事項から了解されるのは、この「小屋」もまたリンチ作品の共通テーマである「家」のヴァリエーションとして捉えられること……つまり、「人間の内面」を指し示すものとしての「家」の一種であると考えられることだ。前述したような映像群が指し示すように、この「小屋」はフレッドの内面の深奥部にあり、彼が秘匿しておきたいもの……「炎のモチーフ」によって表される「激しい感情=レネエに対する殺意」が内包され、隠匿されている「場所」なのである。

なぜ、「炎=激しい感情」は隠匿されなければならないのか? いうまでもなく、それが「レネエ殺害」という「事実/記憶」の……フレッドにとって思い出したくない「事実/記憶」の発生要因であるからだ。それは「アンディの屋敷」において、フレッドがアンディといちゃつく「コントロール不能のレネエ」(のイメージ)を目撃/想起して抱いた「感情」であり、それがゆえに「ミステリー・マン」という「他者化された真実の自己」のイメージを喚起する契機となった「感情」と同一のものである(0:27:19)。「前半部」の「捏造された記憶」において、その「感情」を思い出すことは、すなわちフレッドにとって「ありのままの記憶」の蘇生が進むことを意味していた。だが、フレッドは「第三のビデオ・テープ」を観てしまっている(0:39:47)。それはすでに「レネエ殺害」に関する「記憶」を彼が完全に蘇らせたことを意味しており、彼は自分が「出口のない状況」に置かれていることを……自分が「死刑囚」であるという「ありのままの現実」を認識している。それに耐えかねたフレッドは、再び自分の「激しい感情」の隠匿を試みようとしているのだ。カット(3)が提示する”フレッドが「砂漠の小屋」のイメージを想起する映像”が表象しているのは、まさしくそういうことに他ならない。

かつ、この「小屋」には「ミステリー・マン」が住まわっていることが、カット(6)およびカット(8)によって明示される。繰り返し指摘したように、「後半部」の映像(2:05:58)によって「フレッド」と「ミステリー・マン」の「同一性」が、そして「ミステリー・マン」がフレッドの「真の声」であることは明示されている。であるならば、「真の声」である「ミステリー・マン」が、フレッドの「真の感情」である「炎=激しい感情」を内包する同じ「砂漠の小屋」に存在するのは、まったく当然のことといえるだろう。「炎」が隠匿されるのと同じ理由で、「ミステリー・マン」もまた隠匿されなければならないからだ。なによりも「ミステリー・マン」は、フレッドが「砂漠の小屋」に「炎=真の感情」を隠匿を試みたという「真実」を知っている。だからこそ、カット(7)にみてとれるように、フレッドは「ミステリー・マン」を直視することができないわけだが、それも一時のことだ。なぜならカット(8)で、その「ミステリー・マン」も「小屋」の内部に姿を消してしまうからだ。フレッドは自分の「真の声」すらも、とりあえずは「隠匿」することに成功したのである。

もうひとつ重要な示唆は、”この「砂漠の小屋」のイメージが、独房の「扉」と重なって、まるで「カーテンが開かれる」ように現れる”というカット(3)の映像が表象するものである。いわずもがなのことだが、「独房の扉」はフレッドにとって「外界」への物理的な「出口」である(これまた当然ながら、それは囚人であるフレッドに対しては閉ざされているわけだが)。それに重なって現れる「砂漠の小屋」のイメージは、「扉」とこの「小屋」が「等価」であること……「物理的」と「心理的」の差異はあっても、いずれもフレッドにとって「出口」であることを指し示している。こうした事項を踏まえるなら、最終的にこの映像が表象しているものは、追い詰められたフレッドが「心理的出口」を獲得したということに他ならない。そして、その契機となったのは、「炎」が「小屋」に吸い込まれ、内包されたこと……すなわち、フレッドが自分の「内面」の奥深いところに自分の「激しい感情」を隠匿してのけたということなのである……それが「まやかし」でしかないことを知っている「ミステリー・マン=真の声」と一緒に。

カット(9)からは、「炎」と「ミステリー・マン」の「隠匿」を契機にしたフレッドの「心理的変動」の始まりが描かれる。それを端的に表しているのが、この後、作中で繰り返し登場する「青白い光」の発現である。フレッドの「内面」の状況を「具体的映像」として示すものとして、あるいはこれは、「イレイザーヘッド」から始まり何度となくリンチ作品に現れる「電気のモチーフ」のヴァリエーションとして受け取るべきものだ。「イレイザーヘッド」においては、メアリーXの実家のシークエンスにおいて、ヘンリーがX夫人から「子供の誕生」を告げられる直前、居間の電気スタンドが明滅して消えるという映像が、ヘンリーの高まる心理的緊張を反映として採用された。もちろん、これは表現主義的な発想に基づくものであり、(今更ではあるが)そもそもの「ドイツ表現主義映画」が、ライティングを駆使した「心理描写=人間の内面の具体的映像化」をその手法のひとつとしたことの延長線上にあると捉えてよいだろう。「光と影」のメディアである映画において、「光」はただ「指標的」に被写体をフィルムに定着させるために用いられるわけではない。それは、あるときは「目に見えないもの」を「具体的映像」に置き換えるための手段として使われるのだ。

さて、では、カット(9)においてフレッドが抱えた「心理的変動」がどのようなものであるのか。はたまた、「炎=真の感情」や「ミステリー・マン=真の声」を「砂漠の小屋=自分の心の奥深い場所」に隠匿したフレッドが手に入れたものは、どういう「心理状態」であるのか。それは、続くシークエンスにおいて提示されることになる。

2009年1月 4日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (9)

これがまた続くときは続く、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」のおハナシ。

さて、今回は寄り道とゆーかオマケとゆーか。「イレイザーヘッド」の製作途中にリンチが製作した短編作品「切断手術を受けた人(The Amputee)」(1974)について。

リンチがこの作品を作った経緯をおさらいすると、まだカセット方式のヴィデオ・システムが爆発的に売れるようになる以前、ソニーが自社のビデオ・テープを評価用としてAFIに持ち込んだことに始まります。このビデオ・テープをお偉方が精査するためのテスト用カラー・パターンの撮影を任されたのが、「イレイザーヘッド」の撮影を担当していたフレッド・エルムスでした。エルムスからこのことを聞きつけたリンチは、キャサリン・コールソンに声をかけ、そのビデオ・テープを使って5分間の作品を撮影してしまいます……って、いや、無茶すんなあ(笑)。

あえてリンチを弁護するなら、そのころ「イレイザーヘッド」撮影用のフィルムを買うための資金捻出にリンチおよびスタッフ一同は非常に苦労していて、スタッフによるカンパなんかは当たり前、コールソンなんかはウェイトレスまでして製作資金を提供するとゆーよーな状況でありました。そういう撮影できるんだったら何でも見境なく撮っちまえ的な精神状態であったであろう連中のところに、のこのこビデオ・テープなんか持ち込むほうが悪いといえなくもなく……うむ、あんまり弁護になってないな、これ(笑)。

さて、てっきりテスト・パターンが写されているとばかり思っていたAFIの教授たちは、映像を観てびっくり。しかし、一人の教授が映像スタイルからリンチがそれを撮ったことを見分け、「リンチがコレにからんでるのか?」と尋ねたという話もあって、わはは、完全にバレてら(笑)。逆にいえば、その頃からリンチの映像は特徴的であったということの証明でもあるわけですが、それを見て取った教授もさすがとゆーことでありましょーか。そして、「初期短編集」のDVDにこの作品が収録されているということは、AFIの教授たちは作品が収められたビデオ・テープを取り上げたりしなかったっつーことですね。うーん、寛大だなあ。リンチ・ファンとしては感謝すべきなんでしょーね。

しかし、そっかー、確かクリス・ロドリーのインタビュー集では「ビデオ・テープ」のメーカー名は明らかにされてなかったと思いますが、ソニー製であったのかー。「インランド・エンパイア」よかずっと以前に、リンチはソニーのビデオ機材を使って作品を撮ったことがあったわけでありますね。

……というような経緯で作られたこの作品、観ればわかりますが出演者はコールソンとリンチの二人。ただし、リンチは終始カメラに背を向けていて、顔は映っていません。特にストーリーというべきものもなく、コールソンは足の切断手術を受けた患者を演じ、リンチは白衣を着て医師の役を演じています。椅子に座ったコールソンの前にリンチが跪き、包帯を解いて傷口をあれこれ調べている間、コールソンはまったくの無表情のまま煙草をくわえ、手紙を書きつつその内容を声を出して読み上げています。最後にリンチが画面から走り去り、暗転して作品は終了。

このコールソンが読み上げる断片的な「手紙」の文言に、Olson氏はリンチ特有のモチーフやテーマを認めます。

「そこには本能に対する重圧がある(『彼は何も言わなかったけれど、私にはそれが本当のことだとわかっていたわ』)。破壊的な炎の力がある(『ハリーは小屋の中にある全部のレンジに火をつけたわ--彼は近所の家を全部焼こうとしたの』)。そして、作品が終わったあとも終わらない謎がある(『ポウルが夜中の三時に家に帰ってきたとき、あなたはどこにいたの?』)。」

大山崎としては、そこに散りばめられた「小屋(cabin)」「家(house/home)」というキーワードも気になるところでありますが、それはそれとして。

「興味深いのはリンチ自身が、自然の謎を”調査”することを通して混沌と破壊に挑戦する”科学の側に立つ者”を演じていることだ……ちょうど彼の父親がそうであったような。そして、この後のリンチ作品には、彼の代行者である探偵役の人物たちが何度となく登場することになる」

うーむ、ってーことは、キャサリン・コールソンも「自然の謎(enigmas of nature)」であるわけですかー。なるほど「丸太おばさん」だもんなあ(そーゆーことなのか?)。そーいえば、リンチがコールソンが眼鏡をかけるのを見て「丸太を抱えた彼女」のイメージを想起したのも、「イレイザーヘッド」製作中のことであったのでした。

2009年1月 3日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (8)

お屠蘇片手に、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」をチマチマと読み続ける、新春の日々(早い話が、酔っ払っている(笑))。今回は「イレーザーヘッド」の作品そのものに関するOlson氏の記述なんかを、とりまとめて。

この作品の主人公であるヘンリーがその当時のリンチと等身大のキャラクターであり、作品自体がリンチの個人的な部分の反映であることは、これまでにもいろいろな論者から何度となく指摘され続けてきました。Olson氏も「この作品のいくつかのシーンは、スクリーン上にというよりも自分の頭の中に存在すると感じる」というリンチの発言を引用しながら、「『イレイザーヘッド』ほど、その創作者の実生活上の経験と緊密にリンクしたリンチ作品はない」と述べており、こうした見方を根底におきつつ作品をみていきます。

なかでも「イレイザーヘッド」に直接反映された実体験として氏が挙げているのは、娘ジェニファーの誕生とその結果としてのペギーとの早い結婚、そしてジェニファーが内反足の障碍をもって誕生し、生後まもなく大手術を受けなくてはならなかったこと、そして結果的に妻ペギーとの結婚生活がうまくいかず、離婚することになったことなどです。これらの諸事項はすでに他の論者によっても指摘されており、「イレイザーヘッド」を解釈するうえで基本的な見方であることは間違いないと思います。

と同時に、リンチが「ヘンリーを平凡などこにでもいる人間存在」として描いていることをOlson氏は指摘します。「(ヘンリーは)人生が投げ掛けるさまざまな無理難題となんとか折り合いをつけつつ」「自分や他者を傷つけないように日々を生きている」というのがOlson氏のヘンリーに関する人物評です。ヘンリーが抱える無理難題とは「メアリーXは彼を夕食に招待し、X夫人は彼に性的攻撃をかける。彼は夫と父親の役目を押し付けられる。彼の子供は異形の奇形児で、彼の自由を制限する。メアリーは彼を捨てる」などといったような事柄です。それらの難題を、ヘンリーは「生来の寛容性でもって辛抱強く受け止め」ます。映像からも明らかなように、「彼はメアリーなどよりよっぽど熱心に可哀そうな赤ん坊の面倒をみる。その点で、ヘンリーは世間一般が彼に対して要求する義務を問題なく果たしているといえる」わけです。

と同時に、「彼は精神的な避難所を希求するが、荒れ果てた工業的な環境やX家の食卓や、メアリーや赤ん坊とともにいる自分の部屋にすら、それを見つけられないでいる。ヘンリーは『家』に帰りたいだけなのだが、それはどこにも存在しないのだ」という具合にヘンリーの「希求」を位置づけます。結局、作品の途中でメアリーXは家を出て行ってしまうわけですが、Olson氏は彼女をはじめとして「向かいの部屋の美女」と「ラジエーター・レディ」が構成する「対立構造」に注目し、これらをヘンリーの「選択肢」であると捉えます。同時にこれらの「対立構造」を述べるうえで、グノーシス主義の世界観との類似性を指摘します。グノーシス主義者たちは、「世界」を「下位の劣った神が自らの優位性を主張するために作ったとんでもない間違い」であるとし、「人々が本当の心の拠り所に至る道に気がつくことを待ち望んでいる真の神は、下位の神によって人々の目から隠されている」とします。それに対し、Olson氏は「惑星の男」や「ラジエーター・レディ」を「生殖を強いる下位の神」……「メアリーX」や、彼女が家を出て行ったあと入れ替わりにヘンリーと生殖行為を行う「向かいの部屋の美女」……と対立するものとして捉えます。ヘンリーは、これらの選択肢のあいだで揺れ動きますが、最終的に「ラジエーター・レディ」を選択し、彼女によって救済されることになるわけです。

それに加え、Olson氏は「イレイザーヘッド」が内包する「再生」のイメージについて指摘します。たとえば、ヘンリーの頭が抜け落ち、工場で消しゴムにされたあと、工員がテストで鉛筆で引いた線を消し、その消し屑が宙を舞って再び頭が揃ったヘンリーに「再生」されるというシークエンスがその嚆矢です。すなわち「何よりも、ヘンリー自身が『消しゴム』である。彼は今までの自分を消し去り、新しく生まれ変わるのだ。鉛筆をヘンリーの身体のメタファーとしてみるならば、赤ん坊を作ることで、彼のペニスのペン先は世界に『印』をつけたといえる……何とかして消し去りたいような『黒い印』を」とOlson氏は記述します。

んでもって、氏は、この「再生」のイメージを、作品製作中にリンチが始めた「瞑想」……「Transcendental Meditation」との関連性において指摘します。この見方を裏付けるのが、当初リンチがAFIに提出した22ページのシナリオと、実際に出来上がった映像との差異です。Olson氏によれば当初の「イレイザーヘッド」のシナリオは、いろいろな点において前々回に触れた「Gardenback」との類似性が強いものでした。何よりもシナリオ版の結末は「巨大化した赤ん坊」にヘンリーが(文字通り)食われて終わるというもので、これは「Gardenback」の「家の中で育った怪物に侵食される主人公(同名のヘンリー)」とまったく同じだといえます。それが、最終的な映像では「ラジエーター・レディ」とヘンリーが「白い光」に包まれる「ハッピーエンド」になっており、完全に「転倒」しているわけですね。ペギーの証言によれば、「ラジエーター・レディ」は当初のシナリオには存在しておらず、この登場人物が「イレイザーヘッド」に現れたのは、リンチが瞑想を始めた後だったとのことです。Olson氏は、この「結末の変更」は、明らかにリンチが「TM」に触れた以降に行われ、その根底にある「ヒンズー思想」の影響下にあると指摘しています。

しかし、ヘンリーとリンチが「等身大」であるとするなら、このヘンリーの「選択」……「メアリーX」でも「向かいの部屋の美女」でもなく、「ラジエーター・レディ」を選んだという選択は、その当時のリンチの「選択」でもあったということです。ここで思い出されるのが、前回に触れた「美術館で、仏陀の頭の彫刻から白い光がピカ!」のエピソードなわけで、要するにリンチが家族生活よりも芸術生活を「選択」したことが、「イレイザーヘッド」でヘンリーが行った「選択」の構造と重なっているっつーことですね。

てな具合に、最終的にヘンリーは「ラジエーター・レディ」(と「白い光」)を選択するわけですが、Olson氏はそこに至る「過程」を問題とします。つまり、「ラジエーター・ガール」を選択し彼女との「抱擁」に至る前に、ヘンリーは「赤ん坊殺し」という行為を経るわけですが、それがヘンリー(とリンチ)にとってナニを意味するのか? ということですね。

Olson氏は、この問題を考察するに際して、「頭が抜け落ちたヘンリーの体から、赤ん坊の頭が顔を出す」映像に注目します。要するに、ヘンリーと赤ん坊の「等価性」ですね。これについてOlson氏は「ヘンリーは『叶えられない希求』という自分の傷口を、自分の子供に投影する。そして、それを自分自身とは別の生き物として、つまり『他者』としてみなす。『他者』は消却することが可能であり、それとともに彼の『苦痛』も消滅させることができるのだ」と述べます。「赤ん坊」はヘンリーの内面にあるもののを「他者化」したものであり、そーゆー意味で「同一」のものだということですね。この捉え方の根底には、人間の内面には「善や悪」などを含めたいろいろなものがごちゃまぜに内包されているという、リンチ作品が共通して採用する基本的概念があると(これはグノーシス主義の「世界観」とは相違している点であるという指摘とともに)Olson氏は述べるわけですが、このような機序で「赤ん坊殺し」は「ヘンリー自身の『何か』を殺す作業」として位置づけられることになります。

つまり、「ラジエーター・レディ」との抱擁に至るには、ヘンリー自身も何かを「犠牲」にしなくてはならず、それはたとえば「ヘンリーが自分の頭を失くすこと」あるいは、「ヘンリーの頭が落ちる」シーンに登場する巨大サイズの「鉢植え」が「血を流し」、その血に「ヘンリーの頭が浸かる」映像に表れているというのがOlson氏の見方です。逆にいえば、自分の内面に存在する(「他者化」された)「おヨロシくない部分」を消滅させることが、「再生=精神的成長」につながるということでありますね。Olson氏は、この「ヘンリーが自分の生命を失うこと(=頭を失うこと)は、瞑想者が自我意識を失うことのメタファーである」と述べ、リンチの「TM」への傾倒がこの作品に与えた影響を強く示唆します。

大山崎にとって、この「再生」のイメージとその「TM」との関連性の指摘は、なかなか興味深いものでありました。Olson氏も文中で述べていますが、このあたりは「キリストの受難」と「復活」というキリスト教圏のメンタリティに裏付けられた発想なのかもしれません。

さて、その後さまざまな紆余曲折を経て、「イレイザーヘッド」は「ミッドナイト・ムーヴィー」の代表作としてカルト的人気を獲得するわけですが、そこらへんはJ.Hoberman & Jonathan Rosenbaum著の「Midnight Movirs」などで既に紹介されているので割愛します。

というわけで、「Beautiful Dark」の「イレイザーヘッド」製作時期に関する章はおしまい。次は(ちょいと寄り道をはさみつつ)「エレファント・マン」の製作時期に関する記述が始まります。

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