フォト
2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月31日 (水)

「Beautiful Dark」を読む (7)

Beautifuldark えーと、忘れたころにやってくることになっている、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」についての話題。今回は、「イレーザーヘッド」を製作する前後のことなんか。

前回も述べたように、結局、 「Gardenback」に関してAFIの教官から不本意な指導を受けた挙句、作品が形にならなかったことで、リンチは一挙にヤル気を失くします。まあ、この頃から自分の作りたいものしか作る気ナッシングだったわけでありますね。あわせて、リンチはAFIの二年生のクラスに編入されるはずだったのですが、何故か手違いで一年次のクラスに入れられてしまっておりました。それもあって、リンチ、ぶんむくれてAFIをやめることまで考えます。

そうした荒れ模様のリンチに気づき、「何か問題があるのか?」と問い掛けた教授がおりました。名前はFrank Daniel教授。教授は「もし君が動揺しているのだとしたら、我々は何か間違ったことをしているのだと思う。自分が本当は何をやりたいのか、話してみてくれないか?」とリンチに声をかけます。そんなこんなでクラスの件が手違いであることがわかり、リンチは教授の誠意に感銘を受けつつ、「自分がやりたいこと」として「イレイザーヘッド」の核となるアイデア……「体から離れた頭が少年に拾われ、工場の機械にかけられて、鉛筆の頭につけられる消しゴムにされてしまう」というアイデアを話します。

というわけで、「イレイザーヘッド」はその「助走」を始めるわけですが、これに関してもやはりいろいろと紆余曲折があったようです。当然ながら、「Gardenback」と同じくリンチは「イレイザーヘッド」をAFIでの課題製作とするつもりだったのですが、一部の教授から「これはAFIが作るべき作品ではない」という反対を受けたみたいです。これに対して反論してくれたのもFrank Daniel教授で、教授は「(「イレイザーヘッド」の製作が)認められないなら、私はAFIを辞める」とまで言い、本当に辞表を提出します。教授自身はパフォーマンスのつもりで、まさか誰も本気に受け取らないだろうと思っていたようですが、これがなんとなんと受理されてしまいます。あれま(笑)。いわば教授は体を張ってリンチを守ろうとしてくれたわけで、リンチはDaniel教授のことを「史上最高の映画教育者だった」と賛辞を贈っていますが、いやまあ、これくらいは当然で、一生足を向けては寝られないんじゃないスかね、リンチ(笑)。

そのような騒ぎのすえに、最終的に「イレイザーヘッド」の22ページのシナリオは承認され、21分間の作品として製作することが認められます。1971年から製作がスタートしたこの作品は、結局89分間の作品として1977年に完成することになるわけですが、作品そのものに関するOlson氏の記述については次回以降に譲ることにして、今回は「イレイザーヘッド」製作期間におけるリンチ自身のことに絞って「Beautiful Dark」の記述をまとめてみます。

Olson氏は、「イレイザーヘッド」の製作をつうじて、リンチは二つの面で成長を遂げたと指摘します。まず、一つ目はは「芸術家」としての成長で、子供の頃の絵から少年時代の絵画に始まり、「アルファベット」などのアニメによる短編を経て、アニメと実写の混合作品である「グランドマザー」、そしてついには完全な実写長編作品を作るに至るという成長です。と同時に、Olson氏はリンチの人間としての成長をも見てとります。すなわち、自室に閉じこもりフィルムに延々と絵を描きこみアニメを創る、社会から切り離された寡黙な芸術家であったリンチが、多くの協力者たちや出資者たちとコミユニケーションをとって作品のヴィジョンを共有できるようになったという点でです。「イレイザーヘッド」を製作していた約5年間は、リンチにとって経済的な点を含めて苦しい期間であったわけですが、その一方で自身が言うように「長く素晴らしい旅(wonderful long juorney)」でもあったわけです。

しかし、この時期、リンチにとって「転換」となったのはそれだけではありません。私生活においても、大きな転換点を迎えることになります。

リンチが一日二回の「瞑想」を欠かさないことは有名な話ですが、その「瞑想」……正確にいうなら「Transcendental Meditation」との出会いも「イレイザーヘッド」製作期間中、27歳のときのことでした。事の始まりはリンチの妹のマーサがスキーに行ったときのこと。そのときについたインストラクターの男性が「いつも落ち着いていて、幸せそう」なことに気づいた彼女が「なぜ、そんなふうにいられるのか?」と尋ねたところ、彼の解答が「Transcendental Meditationを行っているから」というものでした。これがきっかけとなってマーサ自身も「Transcendental Meditation」を始め、彼女はリンチにもこの瞑想方法を紹介して……という次第だった様子。ただし、最初はリンチも懐疑的な部分を残していた様子が伺えます。「丸太おばさん」キャサリン・コールソンの証言によれば、同じように「Transcendental Meditation」に興味を持った彼女に対し、リンチは「キャス、もし制服を着せられて行進させられそうになったりしたら、走って逃げよう」と発言していたようで、やはり「洗脳」やら「統制」やらを受けるのを恐れていた様子です。いずれにせよ、その後「TMは自分にぴったりだと思った(knew TM was for me)」と発言していることからもわかるように、リンチにとって「瞑想」は切っても切れないものになっていくわけですが。

しかし、では、なぜリンチが妹の勧めに従って「Transcendental Meditation」のレクチャーを受けようと思い立ったのか。それについては、Olson氏はこのような事実を紹介しています。

その頃、リンチは当時の妻ペギーとうまくいかなくなっており、自宅には帰らず「イレイザーヘッド」のセットで……あのヘンリーが使っていたベッドで寝泊りするというようなことをしていたらしいです。リンチいわく「精神的にも最低の時期だった」とのことですが、なぜペギーとうまくいかなくなったのかについて、具体的な理由等は本書では明らかにされていません。ペギー側の談話として、「彼(リンチ)も結婚生活を続けたいと思っていなかったし、自分もそうだった」と、リンチだけでなく「早過ぎた結婚」が彼女にとっても負担であったことを匂わせています。あるいは「イレイザーヘッド」のテーマは、リンチだけでなくその当時の彼女にとっても「リアルなもの」であったのかもしれません。

加えて、「Gardenback」を製作していた時期の話として、ペギーは以下のような発言を残しています。すなわち、それまで……つまり、「グランドマザー」までは、リンチは自分(ペギー)と討論を重ねながら作品を製作していた。ところがロサンジェルスに移りAFIに入学してからは、他にもリンチと作品に関して意見を戦わせる相手が(若い女性も含めて)たくさんできてしまった、と。

これは大山崎の意見ですが、フィラデルフィアの美術学校で同級生だったペギーの幻術的感覚をリンチは評価していたということなのでしょう。共同製作とまではいかなくても、製作に迷ったときなど、リンチがペギーの意見を参考にしていたであろうことは容易に想像がつきます。そのあたりの実際は、前回触れた「『Gardenback』がなぜうまくいかなかったか」に関するペギーの分析にも表れているといえるでしょう。リンチがAFIに入学しそうした環境が変わったとき、ペギーはリンチの創作面で自分の価値が相対的に低下したように感じてしまったと告白しています。あるいはこうしたこともリンチとペギーの間の「パートナーシップ」がうまくいかなくなった要因としてあったのかもしれません……結局、二人は1974年に離婚してしまうことになるわけですが。

また、ペギーとうまくいかなくなった頃の話として、このような話が記載されています。

まだ「イレイザーヘッド」の製作が始まる前のこと、ロサンジェルス・カウンティ美術館で西インドの古代彫刻展が開かれ、リンチはペギーとまだ幼かったジェニファーを連れてこの展覧会を訪れたそうです。閉館時間も近くなった頃、リンチは家族から離れて一人で通廊をふらついていました。で、以下はリンチの証言--「他に人はおらず、彫刻が並んでいるだけで、非常に静かだった。ある角を曲がり、通路に目をやると、いちばん奥にひとつの台座があるのが見えた。台座に沿って上を見上げたら、そこには仏陀の頭部の彫刻が展示されていた。それを見たとたん、白い光が仏陀の頭部から自分の目に向かって放たれ……ブン!……私は至福感に包まれていた」。

えーと、「オーラの泉」っスか?(笑) とかいうのはともかく、実はリンチはペギーにもこの体験を話していなかったようで、このリンチの「体験」を彼女が知ったのは2000年のこと、それもOlson氏に教えられて初めてそのようなことがあったと知ったらしいです。そして、Olson氏はこの「美術館での体験」を、「リンチの芸術生活が家族生活から切り離されたことのメタファーである」と述べます。要するに、リンチが家庭を捨てて芸術生活に専念することを決意したことを、ゴータマ・シッタルダが仏門に入るとき「家族や王宮生活を捨てたこと」に例えている……というのがOlson氏の見方であるわけですね。

しかし、いや、そっかー、仏様のお導きじゃ離婚してもしょーがないわなー……などと思ってしまう大山崎は、近頃めっきり不信心者なのでした(笑)。

2008年12月30日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (25)

えー、突然の「電源落ち」を繰り返しながらそれでも健気に動いていてくれていたLinux2号機君ですが、またもや書きかけのテキストが消滅して、ついにこちらの堪忍袋の緒が切れました(笑)。とゆーわけで、酔っ払った勢いに乗じて巷で大流行のNetbookをばポチっとな。ううむ、当たり前だけど、Linux2号機君よりも速いうえに熱くないぞ(笑)。とゆーわけで、Linux2号機君は現役引退確定。さらばじゃー。

んでわ、前回から引き続き今回も「ターニング・ポイント-1(0:41:49)-(0:51:16)」を構成するシークエンスをとりあげてみる。今回はそのうち、(0:42:11)から(0:44:49)までのシークエンスをみてみよう。

死刑囚房 (0:42:11)
(ディゾルヴ)
(1)死刑囚房に続く階段。階上からさしている光。踊り場が途中にあり、手すりには四角い頭の柱がある。壁にも鉄パイプの手すりがある。後ろ手に手錠をはめられたフレッドが看守にひきつれられて、階段の上から下りてくる。二人の背後に、もう一人の看守が付き添っている。
陪審員長の声:(画面外で)We, the jury, find the defendant guilty of murder in the first degree.
フレッドたちが階段を下りるに連れて、下方にパン。
裁判長の声:(画面外で)Fred Madison, the jury having found you guilty of murder in the first degree, it is my order that you be put in death in the electric chair.
階段は最下部で左に折れており、フレッドたちは画面右方向に向かって下り続ける。画面左手には大きな鉄の扉が視界に入ってくる。階段を下りきり、鉄の扉をくぐって画面左方向に向かう三人。光によって、彼らの姿が明瞭に見てくる。三人が左方に進むに連れて、左に移動する視点。
(2)アップ。独房の鉄の扉の、内部からのアップ。頑丈な扉は四方を鉄の帯で補強され、リベットで止められている。扉の上部には、四角い覗き窓があるが、今は閉められている。
[鍵が触れ合う金属音。鍵が開けられる音]
向こう側に開かれる扉。扉を開けた看守(黒髪)が、扉を支えたまま左のほうを見ている。左から、後ろ手に手錠をはめられた囚人服姿のフレッドが姿を現す。もう一人の看守(白髪)に後ろから押され、独房の中に入るフレッド。フレッドと一緒に独房に入る看守。
白髪の看守:(画面外、左手下のベッドに何かを置きながら)Make yourself to home, fella.
(3)ミドル・ショット。独房の外から扉越しに内部を見るショット。黒髪の看守は扉を開けたまま外で待機している。独房の中で立っているフレッド。その右には白髪の看守。
白髪の看守:(フレッドに)Need anything, just ask the concierge.
独房を出る白髪の看守。黒髪の看守は扉に左手を伸ばして閉める準備をしている。
(4)ミドル・ショット。独房の内部から扉越しに通路を見るショット。立っているフレッドの背後からのショット。フレッドは扉越しに外の通路と二人の看守を見ている。扉を閉める黒髪の看守。それを見守ったまま動かないフレッドの後ろ姿。音を立てて閉められる扉、
(5)ミドル・ショット。独房の外部から扉の方向を見るショット。左に立った白髪の看守が、扉の下部に開いたスロットに身をかがめる。それを右から見守っている黒髪の看守。身をのばし、スロットから離れる白髪の看守。それを見て、入れ代わりに黒髪の看守が手錠の鍵を取り出しながらフレッドに声を掛ける。
黒髪の看守: Stick your hand out, chief.
(6)ミドル・ショット。独房の内部。扉に背中を向け、手錠の掛けられた両手を扉の方に差し出すフレッド。頭を垂れるフレッド。
[鍵が触れ合う音]
(7)ミドル・ショット。独房の外部のショット。扉のスロットから突き出されている手錠が掛かったフレッドの腕。黒髪の看守が手錠の鍵を外す。それを見守っている白髪の看守。
(8)ミドル・ショット。独房の内部。腰をややかがめ、手錠が掛けられた両腕をスロットに差し出しているフレッドの斜め左前からのショット。やがて手錠が外され、両手を下に降ろすとともに、上体を伸ばす。囚人服の左胸に付けられた番号は「47516」と読める。
(9)ミドル・ショット。独房の外部のショット。ずらりと並んだ独房の扉を、左斜め方向から見たショット。身をかがめ、フレッドの独房の扉に鍵を掛ける白髪の看守の背後。その向こうで、黒髪の看守が鍵を掛けられるのを確認している。鍵を掛け終わり、画面手前に向かって歩き始める二人の看守。
(10)ミドル・ショット。独房の内部。中を見回しているフレッド。やがて画面手前、独房の奥に向かってアップになるまで歩き、真ん中あたりで立ち止まる。ふと、画面の右下あたりに目を向けるフレッド。
(11)レネエの死体のカラー映像。画質は悪い。血まみれのベッドの上に置かれた、バラバラにされたレネエの腕や足。
[不気味な音楽]
(12)フレッドのアップ。呆然としていたが、やがて上方、天井の方を見上げる。
(13)ミドル・ショット。天井の鉄格子越しに、独房の中を見下ろすショット。鉄格子を見上げているフレッド。その背後には茶色の毛布が敷かれたベッド。右には洗面台。彼の前には蓋のない洋式便器、右には扉が見える。ゆっくりと視線を落とすフレッド。そのまま、両手を膝の上で組み、ベッドに腰掛ける。組んだ両手の上に、頭を載せ身を小さくするフレッド。
(フェイド・アウト)

それが「フレッドの記憶」であるか「作品内現実」であるかはともかく、「ロスト・ハイウェイ」はフレッドの身に「何があったか」を非常に手際よく凝縮して描いてみせる。シナリオではフレッドが判決を受ける「法廷」のシークエンスが存在するのだが、おそらくは編集の段階でそれに関する映像は完全に省略されたようだ。ただ、「票決を告げる陪審員長の声*」とそれを受けて「判決を告げる裁判長の声」が、カット(1)の死刑囚房に向かって階段を下りるフレッドの姿にヴォイス・オーヴァーで残されているのみである。この編集は簡潔でありながら充分に事の次第を伝えており、「階段を下りる行為」が表象する「フレッドの転落」の顛末を物語っている。

その後、カット(2)からカット(9)までは、見事なまでな「常套句的表現」であるといってよいだろう。過去、犯罪映画はもちろんのこと、シリアスな作品からコメディに至るまで、どれだけの数の映画作品が「投獄」あるいは「出獄」というパトスを描いてきたかわからない。それが作品の端緒であることもあれば結尾であることもあり、その始まりや終わりを告げる明確な「説話上の記号」として「投獄/出獄」が機能していることは明らかだ。リンチもまたその系譜を踏襲し、明瞭な「区切り」として「フレッドの投獄」を描く。そこにはカリカチュアのように誇張された「二人の看守」が配置されるが、彼らはミスター・エディという「顔役」と同じく「典型」であり、ミスター・エディが演じる「悪事」と同じく、看守たちの言動は「パターン化/記号化」されている点で一貫している。

もし、このシークエンスによって表されるものがフレッドが保持している「現実にもっとも近い記憶」であるならば、それはこの「看守」の例をみてもわかるように非常に「貧しい」ものだというしかない。前述したように彼らは「記号」でしかなく、とても生身の人間として描かれているとはいえないからだ。しかし、あるいは、それもまたフレッドの「現実」に対する「認識」がどのようなものかを逆説的に物語るものである。彼の「世界=内面」では彼だけが「生身」であり、彼の「感情」だけが「リアル」なのだ。

その意味で……すなわち、フレッドの「感情」の反映という意味で、それに続くカット(10)からカット(13)までの映像は、むしろ「前半部」において提示され続けた「表現主義的な手法に基づく映像」の延長線上にあり、逆により「リアル」であるとさえいえる。それを端的に表しているのは、カット(10)およびカット(11)によって提示される「フレッドの幻視」である。「第三のビデオ・テープ=ありのままの記憶」があらわにした「レネエの死の状況」が、(カラーではあるが、荒い映像として)独房に閉じ込められたフレッドの眼前に浮かび上がる。

注意をひかれるのは、カット(10)におけるフレッドの動作である。独房内に置かれた備品類との位置関係からして、独房内を奥に進みながらフレッドは最初「視線」を自分の左手に向けるが、明らかにその先に存在するのは「ベッド」である。次いで、彼は視線を自分の右下に向けるが、そこはベッドの(「独房」の入り口方向から見て)左横の「床」であるはずだ(右横は壁でしかないのだが)。この直後に「レネエの死の状況」がフレッドによって想起されており、明らかに何かを契機として「フレッドの幻視」は始まるわけだが、ではその「契機」とはいったい何なのか?

それに対する「手掛かり」となるかもしれないと思われるのが、カット(13)によって提示される「独房内部」の天井からの俯瞰ショットである。この映像で確認できるかぎりでは、「独房」の「入り口」は画面右下にあり、画面左上方には「ベッド」がある。そして、画面左端の「奥の壁」下方には「洗面台」と「便器」が配されている。非常におおかまではあるが、この構造は「フレッドの家」の「ベッド・ルーム」内の構造や、「ベッド・ルーム」と「バス・ルーム」の位置関係と合致している(0:36:04)。つまり”彼の家の「ベッド・ルーム」”と「独房」は、その構造において「相似形」であるわけだ。

この「独房の構造」を念頭においてカット(9)のフレッドの動作を追いかけたとき、彼の「視線」の先にあるであろうものが推察されることになる。彼は「ベッド」を見、次いで「洗面台」と「便器」を見て、最後にベッドの左横の「床」を見ている。「第三のビデオ・テープ」の映像(0:41:19)と対比させれば明らかだが、この「ベッドの左横の床」は、「フレッドの家」の「ベッド・ルーム」においてレネエの死体が横たえられていた場所なのだ。

では、彼に「レネエの死の状況」を想起させるキーとなったのは、「ベッド・ルーム」と「独房」の構造的な「相似性」なのだろうか?

こうした「相似性」を踏まえたとき、ある可能性が浮上してくる。つまり、この「相似性」は「物理的」なものに留まらないのではないか……という可能性だ。リンチ作品における「表現主義」や「象徴主義」を念頭におくなら、「外見上の相似性」はそのまま「象徴としての相似性」をも指し示していることになりはしないか? もしそうならば、「フレッドの家」がそうであったように、彼が投獄されたこの「独房」もまた「家」のテーマの延長線上にあるものとして捉えられることになりはしないだろうか? これは非常に興味深い「可能性」である。その構造のとおり、きわめて「閉鎖的」な「独房=家」は、「フレッドの家」との同一性を保ちつつ、しかし「閉塞」し「逃げ場」を失ったフレッドの「内面」を表象するものとして捉えられることになるからだ。

この”「家」としての「独房」”の「可能性」を補足するのが、カット(12)によって提示される「天井を見上げるフレッドのショット」と、カット(13)が提示する「鉄格子越しにフレッドを見下ろすショット」である。これは、(0:25:59)の「フレッドの家」のシークエンスにおいて現れた、「刑事のエドが天井の採光窓からフレッドを見下ろし、フレッドが採光窓越しにエドを見上げる」シークエンスと「相似形」である。かつ、このシークエンスで提示されるのがカット(13)の「見下ろされるフレッド」の「客観ショット」であるのに対し、「フレッドの家」のシークエンスでは「見上げられる刑事」が「フレッドの主観ショット」として提示されるという「対象形」が認められる。この点で両ショットは「視点」を転換した「対置関係」にあるといえ、互いに「ヴァリエーション」の関係にあると理解してよいだろう。いや、むしろ当該シークエンスに触れた際に述べたように、こうした「見上げるフレッド」あるいは「見下ろされるフレッド」の映像によって伝えられるものが”フレッドが感じてる「監視/追及」のイメージ”であるならば、カット(12)(13)によって提示されているものこそが、「フレッドの家」のシークエンスの「原型」となるものであるかもしれない。

となると、またもうひとつの可能性が浮かび上がる。実は、この「独房」こそが「フレッドの家」の「原型」なのではないか……という可能性だ。残念ながらその他の事象と同じく、我々=受容者がそれを確認する手立てはまったくないが、いずれにせよ、この「見上げる/見下ろされるフレッド」の映像が示唆するものが、「フレッドの家」と「独房」の「共通性」であることは間違いないはずだ。

独房 内部 (0:44:16)
(フェイド・イン)
(14)ミドル・ショット。上方からのショット。独房のベッドに横たわり、白い枕に頭を乗せ、額の上で手を組んでいるフレッド。ゆるやかに左へパン。ベッドの左の汚れた白い洗面台が見えてくる。
(15)ミドル・ショット。フレッドの主観ショット。ベッドあたりから上を見上げるショット。独房の天井の鉄格子と、その上の円形の照明、照明が下がっている白い天井。照明の白い光が、両側の壁に反射している。
(16)フレッドの家のベッド・ルームの床に仰向けに横たえられた、レネエの死体。血にまみれた死体の上半身。カラーだが、画質はよくない。胴体あたりから頭までパン。
[衝撃的なノイズのような音楽]
(17)フレッドのアップ。ベッドに横たわり、額の上に組んだ両手を乗せ、ぼんやりと天井を見上げているフレッド。
(フェイド・アウト)

前述したように、もし「独房」もまた「家」であり、フレッドの「内面」を指し示すものであるならば、収監された彼は「物理的」にだけでなく、「精神的」にもそこから逃れようがない。そのような境遇にあるフレッドにできるのは、カット(14)からカット(17)が表すように、「あの夜」のことを繰り返し想起すること……つまり「レネエ殺害」に関する「ありのままの記憶」を蘇生させ続けることだけだ。いうまでもなく、それはフレッドがもっとも回避したいと感じてる「状況」である。そもそも「前半部=捏造された記憶」をフレッドが必要としたのは、「ありのままの記憶」が耐え難いものであったからではなかったのか。レネエを殺害したことに対する「罪悪感」、そして彼女を失った「喪失感」が彼の内面においてたかまる。だがその一方で、たとえば「前半部」において”現実のレネエの「コントロール不能性」”に事の責を帰そうとしたように、彼は自分の「自我」を保護する本能的欲求をも感じている。だが、当然ながら「現実社会」や「世間一般」がそうした「責任回避」を許さないことは、彼に対して下りた「判決」をみても明らかだろう。

カット(15)に表されるように、フレッドは厳しい「監視/追及」を、そして「閉鎖感」を感じ続けている(「視点」は、直前の「見下ろされるフレッド」の「客観ショット」を経て、また再び「見上げるフレッド」の「主観ショット」へと「対象形」に回帰している)。それは「物理的=外的」なものにとどまらず、彼自身の「内的」なものでもある。そして、それから逃れる術は今の彼にはない……少なくとも、「物理的」な点では。

この陪審員長の声は、ジョン・ウォーターズ作品の常連としてお馴染みのミンク・ストールである。もし裁判場面のシークエンスが残されていれば、彼女がリンチ作品に登場する映像が拝めたかと思うと少し残念だったりする。

2008年12月27日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (24)

うええ。連日お酒飲み過ぎで、二日酔いを通り越してギボヂ悪いッス。昼間は半分死んでるのに、何故か夜になると元気が出るのは、もーこりゃ末期症状なんでしょーか?(笑)

んでは、ウコン・エキスの力を借りつつ続く(笑)、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」だったりする。

前項までに述べたシークエンス群で「ロスト・ハイウェイ」の「前半部」は終了し、今回とりあげるシークエンスから第一の「ターニング・ポイント」が始まる。大きく捉えるならば、この後の(0:41:49)から(0:51:16)までが「ターニング・ポイント-1」を構成するシークエンスとなる。

この「ターニング・ポイント」が提示する映像群をどのように理解するかについては、さまざまな意見があるようであろうことは間違いない。すなわち、これらの事象は果たして「作品内における現実」であるのか、それともやはり「前半部」と同じくフレッドの「内面」に沸き起こっている「心象風景」であるのか。もちろん、「フレッドの主観や感情」をキーにして「ロスト・ハイウェイ」が提示する諸映像を観るとき、こうした区分け自体が意味をなさないことはいうまでもない。フレッドが何らかの「事象」を「現実と認知した/認知している」限りにおいて、それがどのようなものであれフレッドにとっては「現実」であるからだ。たとえば「前半部」における「ミステリー・マンの二重存在」という非現実的な事象も、あるいはこの後展開される「死刑囚房」のリアルな描写も、ひとたびそれらが”フレッドが「現実と認知/認識する(した)対象」である”という点で「共通」しており、すべて「等価」である。

とはいえ、この「ターニング・ポイント-1」が提示する映像群は、「作品内現実」にもっとも近い「フレッドの記憶」として受け取るのが妥当であるのも、また間違いのないところである。つまり、「ターニング・ポイント-1」で提示されている映像群は、彼とレネエの間に「あの夜」何が起きたか、あるいは「その後」何が起きたかを我々=受容者が推測するための大きな「手掛かり」になっているということである。そして、これらの諸映像から確実に理解されるのは、「フレッドがレネエ殺害の罪で逮捕されたこと」「裁判で死刑判決を受けたこと」「死刑囚房に収監されたこと」の三点だ。つまり、フレッドは現在、収監された死刑囚房で死刑が執行されるのを待っている身であり、「ロスト・ハイウェイ」は死刑囚房に閉じ込められた彼の「内面」で発生している「心象風景」を描いているのだ。

こうした観点に立ったとき、この(0:41:49)から(0:51:16)までのシークエンスは、たとえば「マルホランド・ドライブ」の「後半部分」のシークエンス……「ブルー・ボックス」開封後の映像群と「同質」のものであると捉えることができる。すなわち、前者が「作品内現実にもっとも近いフレッドの認知/記憶」であるならば、後者は「作品内現実にもっとも近いダイアンの認知/記憶」であるということだ。あわせて、ともに作品構造を捉えるうえでキーとなる描写が散りばめられているという点でも共通しているといえるだろう。ただし注意しなければならないのは、ダイアンの「認知/主観/感情」をキーにして「マルホランド・ドライブ」を観たとき、フレッドの「幻想/捏造された記憶」と「作品内現実にもっとも近い認知/記憶」が「等価」であるのと同じ理由で、「ブルー・ボックス開封前」と「開封後」の諸映像が提示されるものもまた完全に「等価」であるということだ。つまり、「マルホランド・ドライブ」を「前半が夢、後半が(作品内)現実」といった具合に単純化して捉えることはあまり妥当ではなく、ましてや「夢落ち」などという「ナラティヴ上の形式」を当てはめて理解することは論外なのである。「ブルー・ボックス開封後」に提示される映像は「作品内現実そのもの」では決してなく、「ダイアンの主観や感情」による「フィルター」を通過した「作品内現実に対する彼女の認知/認識」でしかない。

このような文脈の上に捉えたとき、両作品が「作品内現実に対する『主体』の認知/認識」を描いた果てに、「主体=フレッド=ダイアン」の精神的遁走や精神的崩壊を表す映像を「地続き」に提示することの「意味」がみえてくるはずだ。

上記のような事項をおさえつつ、では、具体的な映像を追いかけてみよう。

警察の取調室 内部 (0:41:49)
(1)[音楽は継続している]
刑事(エド)のアップ。怒りの形相を浮かべ、左拳を振り上げて画面の方に向かってパンチを放つ。腕まくりをした白いワイシャツ姿。
(2)椅子に座ったフレッドのアップ。エドのパンチをくらい、顎をのけぞらして後方に泳ぐ。
エド:
(画面外で)Sit down
(3)エドのクロース・アップ。大きく口を開けて怒鳴っている。
エド: killer!
フレッドの方を睨みながら、ガムを噛みつつ後退するエド。彼の右背後にはシェードが降ろされた窓が、その下にはアルの登頂部が見える。
(4)フレッドのアップ。あえぎながら、左手で鼻血が流れる鼻を押さえ、エドの方を見ている。
フレッド: I don't kill her!
左手を鼻から離すフレッド。左の鼻から垂れた血が、顎のあたりまで流れている。
(5)エドとアルのツー・ショット。立ち上がっているエドは、画面外で腰に手を当て、半身になって顔だけフレッドの方を向け、彼をにらんでいる。アルはその左で座っており、エドの方を無言で見ている。エドの背後には、彼の体で半ば隠された電気スタンドがあり、点灯されている。
(6)フレッドの左斜め前からアップ。目の下に殴られた傷。彼の左横には木の扉があり、ノブが見えている。エドを見ながらあえいでいるフレッド。
フレッド:(かすれ声で)Tell me I didn't kill her!
大きく息を吐くフレッド。
(ディゾルヴ)

「ロスト・ハイウェイ」は、「フレッドの家」の「リビング・ルーム」から警察の「取調室」へと、一瞬、我々=受容者が何が起きたか理解できないほど場面を大きく転換させる。だが、子細にみれば、「リビング・ルーム」のシークエンスと「取調室」のシークエンスは「断絶したもの」というよりは、むしろ「連続したもの」として提示されていることに気づくだろう。

まずカット(1)に明らかなように、直前の「リビング・ルーム」のシークエンスから流れていた「音楽」が場面転換後も継続され、サウンド・ブリッジとして機能していることが目に(耳に?)つく。だが、それよりも明確な形で「連続性」を主張しているのは、両シークエンスをまたがる「フレッドの動作」である。

前項でとりあげた「リビング・ルーム」のシークエンスの最終カットにおいて、フレッドはレネエの名前を呼びつつソファから立ち上がっている(0:41:44)。それに対し、現在論じているシークエンスのカット(2)およびカット(3)においてエドがフレッドに向かって言う台詞……「座ってろ、人殺し!」という台詞は、明らかにフレッドが立ち上がろうとする動作に対して発言されており、彼がフレッドを殴るのもその動作を制するためである。これらの事実からわかるように、フレッドの「立ち上がろうとする動作」は、両シークエンスをまたがって「継続」しているわけだ。

現実の「取り調べ」において、カット(1)からカット(6)までで提示されている映像そのままの出来事が起きたかどうかは定かではないし、それはどうでもいい。もっと重要なのは、前述したとおり、この「リビング・ルーム」から「取調室」へのシークエンス移行が「シームレス」であること……というより、むしろ両シークエンス間の「連続性」が強調する形でカッティングされていることだ。これが示唆するのは、「リビング・ルーム」から「取調室」への移行は、通常のナラティヴな作品における「場面転換」に類したものではないということである。

そうではなく、ここで発生しているのは、あくまでフレッドの「内面」で想起されている「意識の流れ」であり「イメージの連鎖」である。つまり、「第三のビデオ・テープの到着」によって表される「レネエ殺害」に関する「ありのままの記憶」の完全な蘇生が、逮捕後に取調べを受けた自分の「ありのままの記憶」を喚起しているのだ。両シークエンスが「連続性」をもって提示されているのは、まさにこうした理由である。たとえ「リビング・ルーム」と「取調室」の間の「落差」がどれだけ大きくても、それはあくまでナラティヴにこの作品を捉えた際に発生する「表面上」のものに過ぎない。ひとたび「フレッドの意識/感情」をキーにしてこの二つのシークエンスをみたとき、明らかにそこには「連続性」が認められるのである……「サウンド・ブリッジ」や「フレッドの動作の継続性」という「編集操作」によって示唆されるとおりの。

また、フレッドを取り調べている二人の刑事……エドとアルこそが、(0:22:38)からの「捏造された記憶」のなかで「フレッドの家」を直接的に訪問する人物として登場していることも見逃せない。当該シークエンスでも触れたようにこれが示唆するのは、フレッドの「捏造された記憶」において、二人の刑事は「捜査/追求」のイメージを表すものとして機能しており、それは「現実の刑事たち」……現在論じているシークエンスに登場している「刑事たち」をモデルにして構築されたものであることは間違いないだろう。

フレッドは「自分はレネエを殺していない」と訴え、アルとエドに同意を求める。こうした描写からも、フレッドが「幻想/捏造された記憶」……自分がレネエを殺害していないという「もうひとつの現実」をいまだ引きずっていることが了解される。だがそれが「ありのままの現実」ではないことを、「ターニング・ポイント-1」が内包する映像群は指摘し続ける……冷酷に、容赦なく。

2008年12月22日 (月)

いつも足もとに「Fire walk with me」

久々のdugpa.comネタ。

Nike社スニーカーの2009年新作ラインアップに、ぬわんと「Twin Peaks」モデルっちゅーのが予定されているらしい。
Twinpeaksdunk1 Twinpeaksdunk2 Twinpeaksdunk3



                    

ご覧のとおり、黒を基調にした本体に、アンクル・ストラップには「殺人事件に関する三つの手掛かり」の一つ「The owls are not what they seem」の「フクロウ」があしらわれ、チラっと「カーテン」の「赤」がのぞくのもオサレ。何よりも極めつけは、靴底の「白黒の波模様」……いや、一瞬、「地下足袋か?」とか思っちゃったのはナイショ(笑)。

正式商品名は「Nike SB Dunk High Premium - "Twin Peaks"」で、来年の春頃発売とゆー予定であるらしい。お値段は……よくわかりませんが、同シリーズの日本価格をみる限り、だいたい15,000円弱ってなイメージでよいのかしらん? 詳しいひと、教えてください。ただし、ざっと当たってみた限りでは、現在のところ国内外ともに予約を開始しているところはなさそう。まあ、発売日自体がまだ未定だしな。

しかし、だ。Nike社の元記事についたコメントを読むと、「靴はカッコイイけど、『TP』は観たことないんだよネー」とゆーのが並んでいて、ちょいと教育的指導をカマしたくなりますな……いや、ほんの1496分+135分ばかり、テレビの前に縛り付けて不眠不休のマラソンで(笑)。

そーさのう。次は「赤」を基調にした「踊る小人」ヴァージョンとかも出してくれんかのう(笑)。

2008年12月21日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (23)

忘年会「死のロード」はまだ継続中でございまふ。気がついたらいつの間にか予定が二件ほど増えているのは、どーゆーことだ(笑)。それも最後は三連チャンだ、重ね重ねどーゆーことだ(笑)。

という具合に「諸行無常」感を噛み締めつつ続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:36:01)から(0:41:49)までっちゅーことで。

ついに「前半部」における「イメージの連鎖」は最終段階を迎える。まずはその先駆けとなるシークエンスを、具体的映像から追ってみよう。

フレッドの家 ベッド・ルーム 内部 夜 (0:36:01)
(ディゾルヴ)
(1)ミドル・ショット。ベッド・ルームの内部、画面左端に立つフレッド。画面中央にはバス・ルームに続く入り口が見える。画面右にはベッドと、その上に置かれた白い光沢のある布の枕が見える。ベッドの左側、枕元に寄せられて置かれた小さなテーブルの上には円筒形の傘の電気スタンドが点灯されており、そこには黒い電話機も置かれている。部屋とバス・ルームの照明は灯されている。ゆっくりと部屋の中を見回し、バス・ルームの方を見るフレッド。そのままバス・ルームへと向かう。

フレッドの家 バス・ルーム 内部 夜 (0:36:13)
(2)
ミドル・ショット。バス・ルームでは、黒いローブを着たレネエが洗面台の前に立ち、うつむいて洗面台の水を出そうとしている。彼女の背後斜め後ろから、彼女が映っている鏡を映すショット。鏡の右端に、バス・ルームに入ってきたフレッドの姿が映し出される。右手にコットンを持ったレネエはそれに気づき、鏡越しにフレッドの方を見る。鏡の右端には白いタオルが掛けられた金属製のタオル掛けが、そして鏡に映ったフレッドの背後には作り付けの背の高い戸棚の扉が見える。そのまま鏡越しに見つめあう二人。
(3)フレッドのアップ。左斜めからのアップ。バス・ルームの入り口に立ち、画面右手のレネエの方を見ているフレッド。
(4)ミドル・ショット。洗面台の前に立つレネエのショット。彼女はうつむき、右手にコットンを持って化粧を落とそうとしている。鏡越しに、バス・ルームを出ていくフレッドの姿が映し出される。鏡に向かい、化粧を落とし始めるレネエ。

まずカット(1)では、このシークエンスに対するエスタブリッシュメントが行われる。ここで主に説明されているのは、「ベッド・ルーム」とカット(2)以降に現れる「バス・ルーム」の位置関係についてだ。我々=受容者は、いくばくかの驚きをもってこれらの映像を観ることになる。開巻以降、これまで「ロスト・ハイウェイ」が提示してきた映像の範囲では、「ベッド・ルーム」は「フレッドの家」のもっとも奥深いところにあり、もっともプライヴェートな場所であったはずだ。それがカット(1)カット(2)によって覆される。「ベッド・ルーム」よりなお奥まった場所に、「バス・ルーム」が存在することが明示されるのだ。”「人間の内面の象徴」としての「家」”というリンチの共通テーマに則り「家」を「内面」に置き換えたとき、それが表象するものは明らかだろう。「フレッドの家=フレッドの内面」には、我々がまだ関知していなかった「隠匿されていた部分」があったのである。

カット(2)の「鏡」を介在させたショットは、鏡を使った「映像文法」の典型例といっていいだろう。多くの映像作品において、ある登場人物の「実像」と「鏡像」を同時に提示する映像が、しばしばその「外面」と「内面」の対比を表すものとして、あるいは「建前」と「本心」の対照を表すものなどとして採用されてきた。それにしたがうなら、この「実像」と「鏡像」に分離した「レネエ」の映像は、彼女の二面性……「幻想のレネエ」と「現実のレネエ」の乖離を示唆していると捉えてよいはずだ。フレッドの「理想=都合のよいもの」であったはずの「幻想のレネエ」は、彼が「ありのままの記憶」を蘇生させるのに連動して「現実のレネエ」のイメージの部分を募らせてきた。”コントロール不能な「現実のレネエ」”は当然ながらフレッドの”「理想/幻想のレネエ」のイメージ”とは合致せず、この「乖離」はどんどん進むばかりだ。いうまでもないが、この「乖離」はフレッドの「主観」からみたものである。そうした「フレッドの主観」の「介在」は、画面の右端に「フレッド自身の姿」が登場し、鏡越しにレネエと「視線」を交わすショットによって明示されているといえるだろう。カット(2)が提示する「バス・ルーム」の「実像」と「鏡像」の「二人のレネエ」、そしてそこに一緒に映り込むフレッドの姿は、これらの事象を端的に表象する映像であるわけだ。

あえて付記するなら、カット(4)で明示されるように、バス・ルームのレネエは「化粧を落としている」最中である。”「幻想のレネエ」と「現実のレネエ」の対比”あるいは”「幻想のレネエ」から「現実のレネエ」への移行”という観点からこの「化粧を落とすレネエ」をみたとき、それが表すものはもはや露骨といってよいほど明快なのではないだろうか。

いずれにせよ、これらの映像群もまた、やはりフレッドの「幻想/捏造された記憶」が「ありのままの記憶」の蘇生によって「崩壊」しつつあることの証左だ。ひとつの「崩壊」はまた次の段階への「崩壊」につながり、そしてこのシークエンスによって描かれている「崩壊」のイメージは、最終的な「崩壊」へと雪崩的に連鎖していくことになる。

フレッドの家 ベッド・ルーム 内部 (0:36:29)
(5)フレッド左背後からのアップ。クローゼットの扉を開く、上着を脱ぎ始めるフレッド。

バス・ルーム 内部 (0:36:38)
(6)ミドル・ショット。洗面台の鏡に向かい、化粧を落とし続けるレネエ。

ベッド・ルーム 内部 (0:36:43)
(7)フレッドの左背後からのアップ。脱いだ上着をクローゼットにしまうフレッド。やや右にパン。上着をしまい、うつむいて首を振るフレッド。やがて左を振り向き、自分の左背後を見つめる。画面左端にフレッド。右は空白の壁。
(8)ミドル・ショット。ベッドの左側の壁にあるクローゼットの前に立つフレッドの左背後からのショット。画面手前、視点の方を見ているフレッド。やがて、ゆっくりと画面右手の方を見つつ、画面手前に向かって歩きアップになる。画面右手の方をずっと見つめているフレッド。そのまま画面右手に向かう。彼を追って、右へパンする視点。彼の右背後からのショットになる。画面右から、通路の闇が視界に入ってくる。その闇をじっと見つめるフレッド。ゆっくりとその闇に向き直るフレッド。

バス・ルーム 内部 (0:37:17)
(9)洗面台に向かうネネエの、右背後からのショット。画面右下の方を向いて手を伸ばし、画面外で何かを片づけている。正面下方を向き、画面外で片付けを続けるレネエ。

通路 内部 (0:37:20)
(10)通路の闇と対峙しているフレッドの右肩越しの背後からのショット。やがてその中にゆっくりと進み始め、やがて闇の中に姿を消す。

バス・ルーム 内部 (0:37:42)
(11)
洗面台に身を乗り出し、蛇口から出る水を両手で受けているレネエの右からのショット。レネエは顔を洗い始める。蛇口に右手をさしのべ、水を止めるレネエ。そのまま身を起こしながら、彼女の背後、ベッド・ルームの方を振り返る。そのままの姿勢で、ベッド・ルームの様子をうかがうレネエ。

通路 内部 (0:37:54)
(12)ミドル・ショット。通路の闇の中に立ち尽くし、画面右の方をうかがっているフレッド。やがて、画面右に向かってゆっくりと歩き始める。画面右からフレッドの左からの横顔が視界に入り、最初認められた画面左のフレッドが、鏡に映った鏡像であったことがわかる。鏡の中の自分の姿をじっと見つめるフレッド。二人のフレッドは互いを見つめあう。

ベッド・ルーム 内部 (0:38:08)
(13)ミドル・ショット。無人のベッド・ルーム。やがてバス・ルームからレネエが出てきて、そこにフレッドがいないことに気づく。ゆっくりと画面手前に向かって進むレネエ。アップになったところで、画面右、ベッド・ルームの入り口を見ながら、自分を守るように体の前で腕を組む。そのまま入り口まで進み、それを追って右にパンするショット。通路の方を見るレネエの右背後からのショットになる。
レネエ: Fred?

通路 内部 (0:38:43)
(14)レネエのアップ。画面の左に立つレネエ。心配そうにフレッドの姿を捜している。彼女の背後には、赤いカーテンが見える。
レネエ:(しばし黙ったあと)Fred, where are you?
(15)レネエのアップ。彼女の背後から、右肩越しのショット。彼女の前には通路の闇がある。ゆっくりと画面左、ベッド・ルームの方に姿を消すレネエ。画面には通路の闇だけが残される。

リビング・ルーム 内部 (0:39:05)
(16)ミドル・ショット。暗闇に沈むリビング・ルーム。壁に掛かった絵や、電気スタンド、長ソファも闇に沈んでいる。部屋の右奥の壁から左の壁へと映る二人分の人影。それを追って右から左へパン。

通路 内部 (0:39:21)
(17)ミドル・ショット。通路の途中から、暗闇を望むショット。暗闇の中からフレッドがゆっくりと画面手前まで進み出てくる。そのまま画面手前に進み続けるフレッド。クロース・アップになったところで、また彼の姿は闇に沈む。そのまま画面手前から姿を消すフレッド。
(フェイド・アウト)

クロス・カッティングが採用されていること自体に現われているように、カット(5)以降、フレッドとレネエは明確に「分断」される。概論部分でも述べたが、この「分断」は二人の存在する「界(プレーン)」が異なったことを指し示すものだ。フレッドによって殺害された以上、形而下的な意味合いにおいて「現実のレネエ」はすでに存在しない。存在するのは、フレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかに存在する「幻想のレネエ」だけだ。だが、「幻想のレネエ」が”「現実のレネエ」のイメージ”に侵蝕され両者がイコールになってしまった今、フレッドの「幻想/捏造された記憶」には「幻想のレネエ」すら存在できなくなってしまった。もはやフレッドとレネエは「分断」されるしかない。

そして、その”分断された「界」”を、リンチは独特の表現を用いて描く。「前半部」がフレッドの「捏造された記憶」であるならば、このシークエンスの「主体」となるのはフレッドであるはずだ。だが、カット(11)(13)(14)を見る限り、この二人の”「界」の「分断」”は、フレッドの”「幻想」の対象”であり「客体」であるはずの「レネエの視点」から(この両カットの”フレッドを捜し呼びかける彼女の姿”によって表されているように)、「フレッドの消失」として描かれるのである。概論部分でも触れたように、こうした「主体/客体」の混乱(あるいはその「優先順位」の入れ換え)はリンチが好んで採用する「表現」だ。

もうひとつ指摘できるのは、カット(13)およびカット(14)でフレッドに呼びかけるレネエの台詞は、(0:16:52)におけるフレッドの「幻想内幻想」のシークエンスにおいて、画面外からエコーを伴ってインサートされるレネエの台詞と同一であり、「リフレイン」であることだ。この後、「ありのままの記憶」の完全な蘇生と同時にフレッドの「捏造された記憶」が完全に崩壊することを考えると、(0:16:52)からの「幻想内幻想」は……そして、そこでフレッドが言及する「レネエでないレネエ」や、具体的映像として提示される「ミステリー・マンの顔をしたレネエ」は、その完全な「予兆」であったといえる……いや、フレッドは、どこかで自分が「捏造された記憶」の中に生きていることを認識していたはずであると考えるなら、これはむしろ「予感」だ。

一方、フレッドの方は、カット(8)(10)にあるように、通路の「闇」の中に姿を消すという行動をとる。もちろん、この「闇」は、(0:34:51)からのパンによる映像において、「赤いカーテン」と「フレッドの姿」の間に現われた「闇」と同一のものである。それはフレッドの「不安」や「現実からの断絶」を指し示すものであったわけだが、ここでは”フレッドとレネエの「分断」”をも表象するものとして現れる。言葉をかえるなら、この「闇」そのものが”フレッドが存在する「界」”と”レネエが存在する「界」”を分ける「障壁」であるといえるだろう。フレッドにとってこの「闇」を通り抜けることは、「捏造された記憶」から「ありのままへの記憶」への「障壁」を越えること……すなわち「現実」へと回帰することを意味する。カット(10)からカット(17)に至るフレッドの「闇への埋没」から「闇からの回帰」の映像が提示しているのは、そうした事象である。

その「闇」の先に、再び「鏡」によるモチーフが再び登場する(カット(12))。この「実像」と「鏡像」の「二人のフレッドによって表されるもの」もまた、カット(2)における「二人のレネエによって表されるもの」を踏襲したものと考えて差し支えないはずだ。カット(2)に現れたのが「幻想のレネエ」と「現実のレネエ」であるならば、カット(12)に現われているのもまた「幻想のフレッド」と「現実のフレッド」……正確にいえば、”「捏造された記憶」に生きるフレッド”と、”「ありのままの記憶」を蘇生させつつあるフレッド”である。つまり、カット(12)の映像が提示するのは、”「捏造された記憶」の中で生きていた自分”を「客観視」せざるを得なくなったフレッドの姿として捉えるべきものなのだ。

この「二人のフレッド」は、「鏡」によって明瞭に「分断」されているといえる。前段で述べた事項を踏まえるなら、「闇」の内部に存在する「捏造された記憶」と「ありのままの記憶」を切り分ける「障壁」の具体的映像化がこの「鏡」である。

フレッドの「内面」において、当然ながら「幻想」と「現実」は同時には存在し得ない。「ありのままの記憶」の蘇生は、フレッドがどんなにそれを糊塗しようとしても、もはや追い付かない状況まで進行している。フレッドが「障壁」を越えてしまったいま、「捏造された記憶」は以降のシークエンスにおいて完全に「崩壊」する。

リビング・ルーム 内部 (0:39:43)
(フェイド・イン)
(18)モニター画面の超クロース・アップ。後退する視線。モニター全体の姿と背後の壁が視界に入ってくる。アップになったところで後退は止まる。

リビング・ルーム 内部 朝 (0:39:47)
(19)ミドル・ショット。部屋の右奥から入り口方向を見るショット。入り口から、マニラ封筒を両手で持ったフレッドが入ってくる。入り口の壁の棚にある低い電気スタンドの光でマニラ封筒を確かめるフレッド。中からビデオ・テープを取り出し、マニラ封筒は棚の上、電気スタンドの前あたりに置く。右手にビデオ・テープを持ち、デッキの方に向かうフレッド。デッキにテープをセットし、長ソファの方にゆっくりと進むフレッド。
(20)
フレッドのアップ。長ソファの方に向かうフレッド。それに連れて右へパンする視点。クロース・アップになったところで画面左を向き、上方の採光窓を見上げる。
[不気味な音楽]
そのまま画面外の長ソファに腰を降ろすフレッド。画面外のテーブルの上から、画面外でリモコンをとりあげ、ボタンを押す。
[リモコンの操作音]
モニターの方を見ているフレッド。
(21)モニター画面のアップ。一瞬、雑音とともにノイズが画面に走り、再生が始まる。前回、前々回に届いたのと同じ、フレッドの家の外観のモノクロ映像。玄関が映るあたりまで左へパン。
(22)長ソファに座ったフレッドのアップ。左からの横顔のアップ。モニターの方を見ている。
(23)モニター画面のアップ。フレッドの家の内部。リビング・ルーム。高い位置から、長ソファアと背の低いテーブルが置かれた床を映すショット。リビング・ルームの入り口のほうへ移動する視点。荒い走査線。一瞬、雑音とともにスノー・ノイズ。ベッド・ルームに続く通路を奥へと進む高い位置からの視点。また雑音とスノー・ノイズ。右に回転を始める視点。
(24)長ソファに座ったフレッドの斜め左からのアップ。モニターを見ている。
(25)モニター画面のアップ。右に回転しながら、赤い(はずの)カーテンを映し、次いでベッド・ルームに侵入していく視点。ベッドの左横の床の上に、頭を入り口方向に向けて横たえられ、バラバラにされたレネエの死体が視界に入ってくる。その横に座り込み、体を激しく揺すぶっているフレッド。画面はクリアに、そしてカラーになる。カメラの方を見ているフレッド。切り離されたレネエの上半身と下半身。その間の床の上には内臓らしきものが見える。血まみれのベッドの上には、レネエの左手と、左足、右腕らしきものが見える。
(26)長ソファに座ったフレッドの左斜め前からのアップ。大きくあえぐフレッド。
(27)モニター画面のクロース・アップ。モノクロ画面。荒い走査線と画質。フレッドのクロース・アップ。体をゆすりながら笑いを浮かべ、虚ろな目でカメラの方を見ている。
(28)長ソファに座ったフレッドの左斜め前からのアップ。再び大きくあえぐフレッド。
(29)モニター画面のクロース・アップ。モノクロの荒い画質。切断され、床に置かれたレネエの体の切断面あたりで顔を揺らしているフレッド。下方にパン。レネエの上半身が見えてくる。
[高まる音楽]
(30)長ソファに座ったフレッドの左斜め前からのアップ。脅えたように自分の左の方、画面手前の下方を見るフレッド。
フレッド: Renee!
ストロボ・ライトのフラッシュ。ソファから立ち上がるフレッド。
フレッド: Renee!
フレッドのクロース・アップ。
[なおも高まる音楽]

カット(18)において、リビング・ルームに置かれた「モニター」が強調された形で提示される。カット(17)で最後に提示された”クロース・アップになったフレッドの影による「闇」”はカット(18)のモニタ画面の「闇」にそのまま引き継がれ、両者が「等価」であること……つまり、モニタ画面に映し出される「もの」がフレッドの「内面」に存在する「もの」であることを保証する。

同時に、この「モニタ画面」のショットによって、我々は否応なく過去に届いた二本の「ビデオ・テープ=ありのままの記憶」の存在を、そしてそれに収められていた「映像」を想起させられることになる。案に違わず、カット(19)に現れるのはマニラ封筒を携えたフレッドであり、彼はそこから「第三のビデオ・テープ」を取り出し、それを観ようとする。前二本のビデオ・テープを一緒に「観た」レネエの存在は、もはやそこにはない。前述したように、「幻想のレネエ」は「フレッドが捏造した記憶」のなかに留まり、「ありのままの記憶」を決定的に蘇生させつつあるフレッドとはもう同じ「界」にはいないからだ。

カット(20)において、フレッドは画面外にある「天井の採光窓」の方向を見上げる。その姿は、(0:26:04)において提示された「刑事のエドが採光窓越しにリビング・ルームを見下ろしている姿を、家の内部から見上げたフレッド」を想起させるものだ。今この瞬間もフレッドが「監視/追跡」のイメージを感じていることが、この様子から伝わってくる。

第一および第二の「ビデオ・テープ」と同じように、「第三のビデオ・テープ」の映像は「フレッドの家」の「外部」からその「内部」へと、そして「ベッド・ルーム」へとその「視点」を侵入させる。朧ろげなモノクロ映像はフレッドの「ありのままの記憶」が曖昧であることを示唆しつつ進み、だが、ついにそれはカット(25)で決定的な「映像=記憶」を一瞬、映し出す。完全に蘇ったフレッドの「ありのままの記憶」は鮮明なカラー映像で提示され、「あの夜」に何が起きたかを明瞭に告げる……そこに映し出されているのは、無残な「レネエ殺害」の現場だ。カット(27)(29)で再びその「記憶」はモノクロの荒い画面に戻り、フレッドが「ありのままの記憶」から逃れようとしていることを示唆するが、すでに手遅れである。

フレッドが「捏造された記憶」でもって糊塗し、忘却しようとしていた「ありのままの記憶」はいまや完全に蘇った。それは彼が「捏造した記憶」が完璧に崩壊したことと同義であるとともに、フレッドが「自我を保護する術」を失ってしまったことをも意味する。彼の「内面」で激しく動く「感情」を、後に何度も登場する「ストロボ・ライト」のモチーフが強調するなか(カット30)、すべてを思い出し絶望的にレネエの名前を呼ぶフレッドのショットでもって、「ロスト・ハイウェイ」はその「前半部」を終える。

2008年12月19日 (金)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (22)

連日連夜の忘年会で、断然いい感じに「酔っぱー」な状態が続く大山崎でござーます。和食洋食中華韓国料理と続いて、あと仏蘭西料理と伊太利亜料理と露西亜料理なんかくれば、もはや世界一周を達成しそうな勢いでござーます。まあ、なんつか、このまま引き続き年末年始の「酔っぱーモード」に突入するのはミエミエでありまして、いやー、去年の今頃やってたこととゼーンゼン変わらんとゆーあたり、人間的成長の跡などキレイさっぱりないわけですが(笑)。

……てなことを呟きつつ、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」を探る作業である。今回は(0:33:45)から(0:36:01)までをば。

まず指摘しておきたいのは、フレッドとレネエが「アンディの屋敷」から「車中」を経て、「フレッドの家」へと帰る……というシークエンス構造である。これは「後半部」において、ピートとアリスが「アンディの屋敷」でアンディを殺害した後、同じように「車中」を経て(「夜のハイウェイ」と「炎を吸い込む砂漠の小屋」の映像をインサートさせつつ)「砂漠の小屋」へと至るシークエンス構造と「相似形」をなしている(1:49:45)-(1:51:25)。この二つのシークエンスが、いずれも「アンディの屋敷」を起点として、最終的に「フレッドの内面」を表象する「場所」に至るという共通した「構造」をもち、ともに「対置」されるものであることは明らかだ。

そのような事項を踏まえつつ、まずは具体的な映像から追いかけてみよう。

フレッドの家 外部 夜 (0:33:45)
(1)ミドル・ショット。夜の道を近づいてくるフレッドの赤いコンパーチブル。それを追って右へパン。フレッドの家のガレージの前で停車する。
(2)ミドル・ショット。暗闇に沈むフレッドの家の正面の外観。一階途中から二階、屋根の一部まで。窓越しに、二階の内部ではためく光が見える。
[不気味な音]
[ドアが閉まる音]
(3)ミドル・ショット。ガレージの前の赤いコンパーティブル。フレッドが運転席から降りて、ボンネットあたりまで歩いてくる。煙草をくわえ、バッグを持ってドアを開け、助手席から降りようとするレネエ。
フレッド:(ボンネットに両手をつき、慌てたようにレネエに向かって)Hey! Hey!
降りようとしたまま動きを止め、フレッドの方を振り返るレネエ。
フレッド:(ボンネットに身を乗り出し、レネエに)Stay in the car.

カット(1)で注意をひかれるのが、フレッドとレネエが乗る「赤いコンパーティブル」である。前述した”「アンディの屋敷」から「砂漠の小屋」へとピートとアリスが至るシークエンス”をみれば、そこでも「赤いコンパーティブル」が二人の「移動手段」として(あるいは、インサートされる「夜のハイウェイ」の映像が表すように「遁走の手段」として)登場していることが認められるはずだ。この「赤いコンパーティブル」*という「共通項」が、この両シークエンスの「対置性/等価性」されるものであり、後者が前者の「リフレイン」であることを強調する「指標」として機能していることはいうまでもない。

カット(2)は、”「人間の内面」を表すものとしての「家」”というリンチの共通テーマの映像化として、「インランド・エンパイア」の「スミシーの家」と並んで、白眉のものである。暗く闇に沈んだ「家」の内部で、何かが人知れず蠢いている……「フレッドの家」の窓から垣間見える「はためく光」が、外見からは窺い知れない人間の「内面」で沸き起こる「感情」や「思考」の視覚化として現れていることは、もはや改めて指摘する必要もないだろう。我々はこの不気味なメゾンセンにいいしれない不安を覚え、それが表象する「人間の内面」の不透明性/不可視性に慄然とすることになる。

かつ、その「白い光」を「目撃」するのが「フレッド自身」であることが、「ロスト・ハイウェイ」の作品構造を間接的に示唆しているといえる。「自分の家」を「外部」から見ることは、フレッドにとって「自分の内面」を一歩離れたところから「客観視」することに等しい。「到着するビデオ・テープ」のイメージや「コントロール不能な現実のレネエ」のイメージをキーにして進行しつつある”「ありのままの記憶」の蘇生”は、フレッドに「ありのままの自分自身の姿」を想起させる。だが、それも瞬時のことで、フレッドは再び「自分の家」の内部に……自分の「内面」に張り巡らされた「幻想/捏造された記憶」の中へと、再び沈溺していく。

フレッドの家 玄関 内部 夜 (0:34:00)
(4)玄関の内部からのショット。暗闇のなか、左手から玄関のドア、はめ殺しのガラス、壁が見える。はめ殺しのガラスの右手、壁にはアラームの操作パネルが見える。壁の右側上部には、横長の採光窓が二つ見える。玄関のドアが開き、フレッドが入ってくる。フレッドのアップ。上半身だけだけをドアから内部に入れ、右手の壁にあるアラームのスイッチを切るフレッド。そのまま家の内部に入り、画面右手上方、二階の方を見上げる。後ろ手に、玄関のドアを閉めるフレッド。
[ドアが閉まるガチャリという音]

フレッドの家 リビング・ルーム 内部 夜 (0:34:15)
(5)暗闇に沈むリビング・ルームの入り口を、部屋の内部からみるショット。入り口にフレッドが姿を現す。フレッドのバスト・ショット。リビング・ルームの内部を見てから、画面右手のベッド・ルームの方を見るフレッド。彼を追って、少し右へパン。再度、リビング・ルームの方を向き、その内部に足を踏み入れるフレッド。右からのほのかな灯りが彼の姿を浮かび上がらせる。
(6)フレッドの主観ショット。テーブルに置かれた黒い電話機のアップ。
(7)フレッドのアップ。電話機を眺めていたが、背後の闇を振り返る。

フレッドの家 ベッド・ルーム 内部 闇 (0:34:37)
(8)フレッドの主観ショット。左から右へパン。ベッド・ルームに続く通路を進んでいく視点。闇に沈む赤いカーテン。
(9)画面右手から、ベッド・ルームに入ってくるフレッドのアップ。彼を追って左へパン。立ち止まり、やや左に首を傾げて部屋の内部を見るフレッド。やや後退する視点。
(10)ベッドの左横にある小さなテーブルに置かれた黒い電話機と、三角形の金属製灰皿のアップ。
[電話機のベルが鳴り始める]
下方、床を映しつつ右へパンするショット。ベッドの左端が視界に入る。そのまま足の方向へとベッドをなめる視点。
(11)赤いカーテンのアップ。少しカーテンに近付き、それからカーテンに沿って左方向に急激にパンする視点。その先は真っ暗な闇である。
[鳴り続ける電話のベル]
左へのパンは続き、画面左端にフレッドのバスト・ショットを捉える。急速にフレッドにクロース・アップ。画面手前、電話機の方に向き直るフレッド。
[高まる不気味な音楽。鳴りやむ電話のベル]
電話機の方向を見つめているフレッド。脅えたようにあえいでいる。電話機の方を見たまま入り口に引き返し始め、やがて入り口の闇を見る。そのまま入り口の方に向かい、闇に消え去るフレッド。

カット(3)でレネエにその場に留まるように告げたあと、カット(4)においてフレッドは自分の「家」の内部に進入する。ナラティヴな理解にストレートに基づけば、このフレッドの行動は家の内部にいるかもしれない「誰か」……「アンディの屋敷」から「ミステリー・マン」の携帯電話を使って会話を交わした「誰か」が、今なお家の中に存在することを危惧しての行動だということになる。だが、あくまで「イメージの連鎖」上に一連のフレッドの行動を捉えるなら、また違ったコンテキストが成立することに気づく。それは、やはり、彼の”「ありのままの記憶」の蘇生”につながるものだ。

上述したように、彼の「家」の内部にあるもの……たとえば彼が「現実のレネエ」に対して抱いている/抱いていた「感情」は、彼にとって「否定すべき対象」であり、それがゆえに「隠匿」され、自分自身の「感情」ではないものと見なされている。「ミステリー・マン=真の声」という「他者」が「幻想/捏造された記憶」のなかに喚起されたのはそれ故であるし、「ミステリー・マン」が招かれ「フレッドの家」にも存在したこともこの理由による。当然ながら、フレッドは「現実のレネエ」に対する「感情」を糊塗しなくてはならない。ましてや、「幻想のレネエ」に「彼の家の内部にあるもの=自分の感情」を見せることなどできない。彼が彼女を「家」の外部に押しとどめるのは、まさにそのためだ。

家の内部に入ったフレッドの「視線」の先には、やはり「電話」が姿を現す。カット(6)あるいはカット(10)の「主観ショット」において、「フレッドの家=フレッドの内面」と「外部」とを間接的につなぐ手段としてこれまで何度も登場した「電話」が、またしてもクローズ・アップで提示される。これまたナラティヴに捉えるなら、こ「電話機」を強調した映像は、「アンディの屋敷」からフレッドが「携帯電話」で会話した者の「存在」を、あらためて受容者に想起させるものとして機能している。しかし、フレッドが自分の「家」へと……自らの「幻想/捏造された記憶」へと回帰したと捉えたとき、この「電話」の映像が指し示すものもまた、異なったコンテキスト上に置かれることになる。その端的な現われが、カット(10)において鳴り始める「ベッド・ルーム」の「電話」である。これは果たして誰が、どこからかけているものなのか? 

これまでも何度か「電話」や「インターフォン」という「間接的手段」で「フレッドの内面」が「外界」と接触する映像が提示されてきた。「幻想/捏造された記憶」のなかでは、それが指し示すものが結局フレッドの「自問自答」であると考えられることに基づくなら(そして、後にそれを端的に表す映像が提示されることを踏まえるなら)、このシークエンスの「かかってくる電話」の先にいる「存在」が何者であるかもまた、自ずと了解される。おそらくは、それもまた「フレッド自身」に他ならない。であるならば、これもまた「ミステリー・マン」が「アンディの屋敷」と「フレッドの家」の両方に、同時に存在した映像の「リフレイン」であり、「ヴァリエーション」である。フレッドがこの「電話のベル」に応えられず、カット(11)にみられるような脅えた表情を浮かべるのは、そのためだ。彼は、どこかでこの「電話」が誰からかかってきたものかを了解している。それがために、彼はこの「電話」に出ることができないである。

こうした視点に立ったとき、カット(11)の「赤いカーテン」から「闇」へ、そしてフレッドのアップへのパン、そして彼に向かって急激にクロース・アップする映像は非常に興味深いものとなる。「ロスト・ハイウェイ」では、「赤いカーテン」は「ベッド・ルーム」と緊密に関係づけられ、これがフレッドの「家=内面」に関連するものであること……それも、もっとも「核」となる「奥深い場所」につながっていることを示唆している。かつ、その次に提示されるのが「底知れぬ闇」であり、フレッドの「感情」……いいしれぬ「不安」と絶望的な「現実との断絶」を表象する。そして、その「視点」が最後に到達するのがフレッド自身の姿であり、彼がその「中心」であること……「赤いカーテン」と「闇」と「彼」が「関連づけられるもの」であることが、彼に向かってクロース・アップしていく「視点」によって強調されるのだ。

フレッドの家の前 外部 夜 (0:35:24)
(12)フレッドの家の前のロング・ショット。ガレージから玄関への階段、玄関を収めるショット。画面左のガレージの前には、フレッドの赤いコンパーチブルが停車している。画面右の玄関の外灯は灯っており、階段とその周辺までを照らしている。階段の下には、ややふらつき気味のレネエが立っている。玄関のドアが開いてフレッドが出てくるのを見て、レネエは階段を上り始める。ドアを開け放したまま、フレッドも階段を下り始める。
フレッド:(レネエに右手の人差し指を突きつけながら) I told you to stay in the car!
レネエ:(階段を上りながら)Why?(それでも二段上ったところで立ち止まる)What is it?
フレッドは階段の中ほどで立ち止まり、一瞬、背後の開いたままの玄関のドアを振り返る。階段の途中の壁に、その上辺に左腕を乗せてもたれかかるレネエ。
レネエ: Why did you make me stay out here? Hmm?
ゆっくりと二人にクロース・アップ。
フレッド:(レネエを見下ろしながら)I'll tell you why: because I thought someone was inside the house.
レネエ:(しばらくフレッドを見つめてから)Was there?
なおもゆっくりと二人にクロース・アップしていく視点。
フレッド: No. Of course not.
踵を返し、玄関へと階段を上るフレッド。レネエも彼を追って階段を上り始める。ドアが開け放たれた玄関の脇に立って、レネエが上がってくるのを待つフレッド。
(ディゾルヴ)

結局、フレッドは「家」の「内部」に侵入者を発見できずに終わる。それは、カット(12)でフレッドがいうように、まったく当然なことだ。彼の「家」が彼自身の「内面」を表している限りにおいて、本当の意味でそこに「存在」しているのは「フレッド」と、彼の「真の声」である「ミステリー・マン」のみなのだから。

レネエは彼の言葉に従わず、自動車から降りてきてしまっている。それが彼女がエスカレートさせる「コントロールの不能性」を表していることは、もはや指摘するまでもないだろう。この後、”「ありのままの記憶」の蘇生”は一挙に進み、「前半部」の終結に向けて「イメージの連鎖」は大きくジャンプすることになる。


*
(0:32:27)と(1:57:03)の映像に現れるフロント・グリルの形状を見る限り、この二台はともに「赤いコンパーティブル」ではあっても、同一の車種ではない。

2008年12月12日 (金)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (21)

すわて、忘年会シーズンが始まり、なかなかヘヴィな日程が今週来週と組まれている大山崎でございます。まずは「アンコウ鍋」から幕が開いたりしたわけですが、いやあ非常に美味しゅうございました。てなことで、コラーゲンでツヤツヤ状態の「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話であります(笑)。今回は(0:33:04)から(0:33:45)までをば。

フレッドとレネエ「アンディの屋敷」を離れ、二人の車中での会話へとシークエンスは移行する。まずは具体的映像なんか。

フレッドの自動車 夜 (0:33:04)
(1)
[タイヤのスキール音]
ミドル・ショット。フレッドとレネエのツー・ショット。走っているフレッドの自動車の内部を、ウィンド・シールド越しに望むショット。
フレッド:(ハンドルを操作しながらレネエに向かって)So how'd you meet that asshole Andy anyway?
画面右、フレッドの方を見るレネエ。レネエから目を逸らして右手の窓外を見るフレッド。目を伏せるレネエ。
(2)レネエの斜め右からのアップ。右手のフレッドを横目で見ている。一度正面を見て、再度フレッドの方を見る。
レネエ: It was a long time ago.
レネエは正面を見てから、またフレッドを見る。
レネエ: We met at a place called Moke's. We became friends.(正面を向きつつ)He told me about a job.
(3)フレッドの斜め左からのアップ。ハンドルを操作しているフレッド。
フレッド: What job?
(4)レネエの斜め右からのアップ。しばらく沈黙するレネエ。やがてフレッドの方を見る。
レネエ:(首を振りつつ)I don't remember.
フレッドから目を逸らし、正面やや右手を見るレネエ。
レネエ: Anyway...Andy's OK.
(5)ツー・ショット。走行している自動車のウィンドウ越しのレネエとフレッドのショット。レネエを見ていたフレッドは、正面に視線を戻す。
フレッド: Well, he's got some pretty fucked-up friends.
フレッドの方を見るレネエ。

フレッドにとって、基本的にアンディは「好ましからぬ人物」である。表現主義的な視点から捉えるなら、映像として提示されているアンディの「胡乱な風体」自体が、フレッドの「主観」や「感情」の反映であると受け取ってよい。いずれにせよ、そうしたフレッドのアンディに対する「感情」は、カット(1)における「あのクソ野郎とはどこで知り合ったんだ?」という発言に明確に表れているといえる。ただし、実際の「具体的映像」から確実な「事実」として我々=受容者がみてとれるのは、フレッドのアンディに対する「感情」と、それが「レネエ」との関係性において発生しているということだけだ。なにゆえにフレッドが彼に対してそのような「感情」を抱くに至ったかを明示する映像は「ロスト・ハイウェイ」のどこにも存在せず、その機序は「曖昧」なまま残されている。

こうした「曖昧さ」は、フレッドの詰問を受けたレネエがカット(2)で語る「彼女がアンディと知り合った経緯」にも現れている。彼女が行う説明は、正直いって非常に茫洋としたものであり、ほとんど実体がないといってよい。「Moke's」という店がどこにあるのか、そこで何が発生したのか、「ずっと以前」というのはいつのことだったのか……彼女の発言からはそうした具体性がまったく欠落している。この「具体性の欠落」はカット(2)でレネエが言及する「仕事」についても同様で、カット(3)でフレッドが「何の仕事だ」と詰問しても、レネエは「覚えていない」と簡単にはぐらかしてしまい(カット(4))、結局その詳細はわからないままに終わる。「ありのままの記憶=(作品内)現実」において、アンディとレネエに「仕事」を実際に紹介したのかどうか、いや、そもそも彼と彼女がが本当に「友人」であったのかについてさえ、確たる判断を下す材料を「ロスト・ハイウェイ」は提供してくれないのだ。

はたしてこの「曖昧さ」をどう捉えるべきなのか。忘れてならないのは、フレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかにおいては「レネエ」もその「幻想」の一部であり(あるいは「幻想」そのものであり)、彼女はフレッドの「代弁者/代行者」として機能しているということだ(いまや、その「機能」は不全状態になりつつあるとしてもだ)。であるならば、フレッドが認知していない事項を「代弁者」であるレネエが認知しているはずがない。言葉を換えるなら、彼女の発言に付随する「曖昧さ」は、すなわちフレッドの認知の「曖昧さ」の「代弁」である。結局のところ、これらの事項にまつわる「曖昧さ」が可能性として指し示しているのは、「フレッドのアンディに対する感情」「レネエがアンディと友人になった経緯」「レネエがアンディから紹介された仕事」という「イメージ群」自体が、フレッドのレネエに対する「猜疑心」や「疑心暗鬼」から生まれた「実体のないもの=幻想」でしかないということである。

より正確にいうなら、このシークエンスで「レネエ」が言及する「仕事」(とフレッドが思っているもの)は、「後半部」で「アリス」によって具体的映像を伴いつつ「リフレイン」される(1:31:44)。だが、「ミステリー・マン」が喝破するように、”「アリス」によって表されるもの”が「幻想のレネエ」と同義である以上、この「リフレイン」自体がなんら「(作品内)現実性」を伴っていないのは明白だ。案の定、そこで提示されているのは、それこそ40~50年代のフィルム・ノワール諸作品が仄めかしていたような、「典型的悪党ども」によって営まれる「定型化」された「後ろ暗い仕事(racket)」以外の何ものでもない。こうしたあからさまにデフォルメされた「常套句(クリシェ)」を、「ロスト・ハイウェイ」の「(作品内)現実」と捉えることのほうが無理がある。この「アリスのお仕事」のシークエンスによって表される事象もまた、やはりフレッドの勝手な「幻想」であり「捏造された記憶」なのだ。

「第二のビデオ・テープ」が届いて以降、フレッドの「ありのままの記憶」が段階的に蘇生しつつあることは既に述べた。このシークエンスにおいて登場する「幻想のレネエ」も、それに連動して「ありのままの記憶」である「現実のレネエ」を反映させており、引き続き「コントロールの不能性」をエスカレーションさせている。カット(4)において、彼女は「どっちにせよ、アンディは大丈夫」とフレッドに対して言い放つが、何がどう大丈夫であるのやら、当然ながらそこには一片の根拠もない。

このアンディを擁護する「レネエの発言」に対し、フレッドは「(アンディは)いい友人を持っている」と皮肉混じりに言及する(カット(5))。この言及によって、アンディもまた「ミステリー・マン」や「ディック・ロラント=ミスター・エディ」の「友人」であること……すなわち、フレッドの「幻想/捏造された記憶」において、アンディもなんらかの「抽象概念」を指し示す「象徴性」を負わされており、かつ「(作品内)非現実の存在」であることが示される。同様に、カット(2)におけるレネエの「(アンディと自分は)友達になった」という発言から了解されるのは、彼女もまたフレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかをたゆたう「(作品内)非現実の存在」であるという示唆だ。そして、彼らとまったく逆に作中で「フレッド」が「友人」をまったく持たないという「事実」、かつ「後半部」の「幻想」の核である「ピート」が「友人」を持つという「事実」(0:56:33)が示唆するものも、また明らかであるといえるだろう。

2008年12月 9日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (20)

うええ、寒いざんす。このような気候の時、爆熱でキーボードが温かいLinux2号機は指先が快適、快適。連続使用2時間を越えたあたりからホッカホカのホカロン状態で、冬場はこれに限りますな(笑)。そのよーな次第で、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は前回の続きということで、同じく(0:27:19)から(0:33:04)までの「アンディの屋敷」を舞台にしたパーティのシークエンスをば、(0:31:44)あたりから追いかけてみる。

例によって、まずは具体的な映像から。

(0:31:44)
(37)フレッドのアップ。立ち去るミステリー・マンの背中を見ているフレッド。やや後退する視点。それに連れて左からレネエが視界に入ってくる。フレッドと向かい合うレネエ。彼女に視線を移すフレッド。
レネエ: Thought you were getting me a drink...
フレッド:(彼女を遮るように)Hang on just a minute.
ミステリー・マンが去った方向を見ながら、レネエを置いて画面左手に急いで歩き始めるフレッド。それに連れて、左へパン。
フレッド:(画面外のアンディに)Andy...
なおも左へパン。暖炉の前に立ったアンディが左から視界に入ってくる。フレッドは背後を振り向き、ミステリー・マンがいる方向を指差す。
フレッド: who's the guy on the stairs?
アンディとフレッドのツー・ショットになって、パンは終わる。フレッドが指差す方向を見るアンディ。
(38)ミドル・ショット。フレッドの主観ショット。階段の上に立ち、左手をダーク・スーツを着た男に差し伸ばして、会話をしているミステリー・マン。彼の向こうには、赤いエナメルの服をきた金髪の女性と、黒い服を着た黒髪の女性がいる。
フレッド:(画面外から)The guy in black.
(39)アンディとフレッドのアップ。アンディの右斜め後ろからのショット。二人は右手の方、ミステリー・マンがいる方向を見ている。
アンディ: I don't know his name. He's a friend of Dick Laurent's, I think.
アンディの方を振り返って、何事かを考え込むフレッド。やがて口を開く。
フレッド: Dick Laurent?
(40)フレッドの左背後からのアンディのアップ。アウト・フォーカスになっているフレッドの顔の左うしろ。
アンディ:(画面左手、ミステリー・マンの方を見たまま)Yeah, I believe so.
ゆっくりとフレッドの方を見て、目をつぶり、またミステリー・マンの方を向いて目を開く。
(41)ミドル・ショット。左手にグラスを持ち、バー・カウンターの前に立つレネエ。心配そうにフレッドとアンディを見守っている。彼女の左には、水色のTシャツを着た長い金髪の女性の後ろ姿。右には黒髪に黒いドレスの女性の後ろ姿とダーク・スーツを着た黒人男性の後ろ姿、背後のカウンターの向こうでは、バーテンが忙しく客に酒を用意している。
(42)アンディとフレッドのアップ。アンディの右後ろからのショット。アンディの右背後からの顔はアウト・フォーカスになっている。目を伏せ、首を振るフレッド。
フレッド:(目を伏せたまま)Dick Laurent is dead, isn't he?
(43)
アンディとフレッドのアップ。フレッドの左背後からのショット。アウト・フォーカスになっているフレッドの顔の左後。馬鹿にしたように、口を歪めて笑うアンディ。右側にいるフレッドを見つめている。
アンディ: He is?
笑いを消すアンディ。
アンディ: I didn't think you knew Dick. How do you know he's dead?
(44)アンディとフレッドのアップ。アンディの右後ろからのショット。アンディの右背後からの顔はアウト・フォーカスになっている。目を伏せ、首を振るフレッド。
フレッド: I don't.
アンディと目を合わせず、右の方に視線を逸らすフレッド。
フレッド: I don't know him.
(45)アンディとフレッドのアップ。フレッドの左背後からのショット。アウト・フォーカスになっているフレッドの顔の左後。真剣な表情でフレッドを見ているアンディ。
アンディ:
No, Dick can't be dead.
フレッドから目を逸らして、ミステリー・マンの方を見るアンディ。再びフレッドをにらむようにして、強い口調で問い詰める。
アンディ: Who told you he was dead?
(46)レネエのアップ。見兼ねて右からフレッドの方に近づいてくるレネエ。それに連れて右へパン。
レネエ: (フレッドに)Who honey?
(47)アンディとフレッドのアップ。アンディの右後ろからのショット。慌てて右方、レネエの方を振り返るフレッド。
(48)レネエのアップ。左手のフレッドを見上げるようにしている。
レネエ:
Who's dead?
画面左から視界に入ってくるフレッドの右肩。様子が変なのを察して、右手の慌ててアンディの方を見るレネエ。
(49)アンディとフレッドのアップ。フレッドの左背後からのショット。アウト・フォーカスになっているフレッドの右横顔。真剣な表情のアンディ。ちらりとフレッドの方を見るアンディ。
フレッド:(レネエに)Let's go home.
(50)ミドル・ショット。アンディとフレッドとレネエのバスト・ショット。部屋の奥の方向からのショット。暖炉の前で画面右方向のフレッドとレネエを見ているアンディ。画面の方を向いているフレッド。フレッドを振り返っているレネエの後頭部。
レネエ: But...
フレッド: Now, We're leaving now.
レネエを急き立てて画面右に立ち去るフレッド。呆然と立ち尽くしたまま二人を見送るアンディ。画面左端のアンディがアップになるまで、左に移動しつつアンディに近寄るショット。
(51)ミドル・ショット。部屋の奥、両開きの木の扉のあたりからのショット。人込みを縫いつつ、階段を上って出口に向かうフレッドとレネエ。左背後の暖炉の前では、アンディがまだ二人を目で追っている。
フレッド: We never should've come here in the first place.
そのまま階段を上り、画面左端から姿を消すフレッドとレネエ。踊ったり、会話をしたりしているパーティの参加者たち。

フレッドとミステリー・マンのカット・バックの連続から(ミステリー・マンの何たるかを知れば、それはまるで「実像」と「鏡像」を交互に見ているようだ)、ショットは再び遠近を強調したミドル・ショットを交えてのシークエンスへと移行する。

さて、立ち去った「ミステリー・マン」の「正体」を巡って、フレッドとアンディの間で会話が交わされるが、その内容は「ロスト・ハイウェイ」の作品構造に関する示唆を与え、そこに散りばめられた抽象的な「象徴表現」のなんたるかを例示するものだ。

フレッドにミステリー・マンについて問いかけられたアンディは、「名前は知らないが、ディック・ロラントの友人である」とカット(37)で言及する。当然ながら、これは「字義どおり」の意味でこの二人が「友人」であることを指し示すものではない。ピートを核にした「後半部」の「フレッドの幻想」において、「ディック・ロラント」が実は「ミスター・エディ」と「同一のもの」であることがまず提示されたあと、徐々にこの「ディック・ロラント=ミスター・エディ」が”(フレッドにとっての)「現実」や「社会」といった「概念」を表す「象徴」”として機能していることが様々な「映像=イメージ」の積み重ねからみえてくる。あるいは「山道の交通道徳教育」(1:02:57)を通じて、あるいは「アリス=レネエを愛人にすること」(2:04:36)を通じて、「ディック・ロラント=ミスター・エディ」は、ルールを強制的に押し付けてそれに抗うものを追跡し罰する一方で、権力と暴力でもってフレッドの「希求の対象=アリス=レネエ」を我が物にするのである……これらの「イメージ」がフレッドが自ら創り上げたものであることは、改めて指摘するまでもないが。

それに対し、すでに述べたように、「ミステリー・マン」がフレッドの「真の声」を表象するものであることもまた、「後半部」において明示される。つまり、フレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかで、彼らはともに”「何らかの概念」を表す「象徴」”として機能しているのである。「ミステリー・マン」と「ミスター・エディ=ディック・ロラント」が「友人」であり得るのは、まさにこうした「共通性」がゆえだ。実際に、彼らは……「ミスター・エディ」は「現実/社会」の「象徴」として、「ミステリー・マン」は「フレッドの真の声」の「象徴」として、ともに「ピート(=フレッド)」に対して「恫喝」ともいうべき「追求」を行う(それも、「電話」という「接触手段」を通じて)。その「電話」による「接触」において、「ミスター・エディ」は明確に「ミステリー・マン」を「自分の友人である(I want you to talk to a friend of mine)」とピート=フレッドに宣言するのだ(1:39:04)。

だが、フレッドはまだ、「ディック・ロラント=ミスター・エディ」はもとより、「ミステリー・マン」がどのような存在であるかを明確には認識していない。彼は「漠たる不安」を「ミステリー・マン」に対して抱いているにとどまっており、それが「ミステリー・マン」の不気味な形相に反映される(という「表現主義的」な映像が採用される)範疇にとどまっている。いうまでもなく、フレッドにとって「ミステリー・マン」が「不気味な存在」であるのは、自分の「幻想/捏造された記憶」を崩壊させる「危険」をはらんでいるからであり、フレッドがどこかでそれを認識しているからに他ならない。

そして、我々=受容者が把握しているのは、フレッドとまったく同じ範囲の情報でしかない。すなわち、(0:03:53)でインターフォン越しにフレッドに伝えられた「ディック・ロラントは死んだ」という情報だ。カット(42)で、フレッドはその「情報」に基づいた言及をする……「ディック・ロラントは死んだんじゃなかったのか?」と。だが、この「情報」を聞かされたアンディは「フレッドがロラントと知り合いであるとは思えない」と彼を嘲笑するように言う(カット(43))。もちろんアンディが言うとおり(そしてカット(44)でフレッド自身が認めるように)、フレッドが「ディック・ロラント」と「知り合い」であるはずがない……少なくとも、「ミステリー・マン」がそうであるのと同じ意味合いでは。フレッドは自分の「幻想/捏造された記憶」のなかでは何の「象徴」でもなく、その「幻想/捏造された記憶」そのものを抱く「主体」でしかないのだから。

かつ、「ディック・ロラント=ミスター・エディ」が「現実」や「社会」を表象するものである限りにおいて、彼が「死ぬ」ことなどおよそあり得ない。カット(45)でアンディが「彼が死ぬはずがない」と言及するのは、まさしくこのような意味においてだ。客観的にみるならば、アンディの指摘するとおり”「現実」や「社会」”は常にそこに存在するが、主観的にみるならば話は別だ。フレッドにとっては、「幻想/捏造された記憶」を創り上げ、そこに「遁走」することによって”「現実」や「社会」は死に得る”のである。そして、そのことは、作品の終結(あるいは新たな始まり)において、「ディック・ロラントは死んだ」とフレッドに伝えるのが誰かが明らかにされることによって明瞭に示されることになるだろう。

それを考えるとき、カット(45)でアンディが真剣な面持ちでフレッドに投げかける「誰がディック・ロラントが死んだと言ったのか」という質問は、非常に「根源的」な問いかけであることが理解されるはずだ。その「情報」を誰が自分に伝えたかを思い出すことは、フレッドにとって「ありのままの記憶」が蘇生することと同義である。カット(39)(42)(44)でフレッドがみせる表情をみてもわかるように、彼は「ありのままの記憶」が蘇生し始めていることに抵抗を覚え、同時に苦しんでいる。彼は、急いでこの場を……「アンディの屋敷」とそこで開かれている「パーティ」から離れ、「コントロール不能になりつつあるレネエ」を連れて自分の「家」へと帰らねばならない。カット(51)でフレッドが言うように、そもそも彼は「この場所」に「来るべきではなかった」のである。

2008年12月 7日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (19)

うええ、寒いざんす。このような気候の時、爆熱でキーボードが温かいLinux2号機は指先が快適、快適。連続使用2時間を越えたあたりからホッカホカのホカロン状態で、冬場はこれに限りますな(笑)。そのよーな次第で、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は前回の続きということで、同じく(0:27:19)から(0:33:04)までの「アンディの屋敷」を舞台にしたパーティのシークエンスをば、(0:30:03)あたりから追いかけてみる。

でわ、いつものよーに具体的映像から。

(0:30:03)
(14)ミステリー・マンのアップ。画面外で腰の携帯電話に手を伸ばす。
(15)ミステリー・マンの手のアップ。左手で腰のあたりから携帯電話を取り出し、右手でアンテナを伸ばしてからフリップを開け、通話ボタンを押す。
[ボタンの操作音]
そのまま、携帯電話をフレッドの方に差し出す。
(16)ミステリー・マンのアップ。
ミステリー・マン: Call me.
(17)フレッドのアップ。右に小首をかしげ、口を半ば開けたまま、しばらくミステリー・マンの方を見る。
(18)ミステリー・マンが左手で差し出している携帯電話のアップ。フレッドの右手がそれを受けとる。
(19)フレッドのアップ。右に首をかしげ、口を半ば開けたまま、ミステリー・マンを見ている。
ミステリー・マン:
(画面外から)Dial your number.
画面外の携帯電話に視線を落とすフレッド。
(20)ミステリー・マンのアップ。不気味な笑みを浮かべている。
ミステリー・マン: Go ahead.
(21)フレッドのアップ。画面外の携帯電話に目を落としたまま、ダイアル・ボタンを押し始める。
[ボタンを押す操作音]
(22)フレッドの左手に握られた携帯電話のアップ。右手の人差し指で自宅の番号を押すフレッド。
[ボタンを押す操作音]
(23)フレッドのアップ。挑むようにミステリー・マンをちらりと見て、また画面外の携帯電話に目を落とす。
[ボタンを押す操作音]
ダイアルし終わったフレッドは、再びミステリー・マンをちらりと見る。
[呼び出し音]
右手に持った携帯電話を右耳に押し当てるフレッド。挑むようにミステリー・マンをちらりと見る。
[呼び出し音]
(24)ミステリー・マンのアップ。瞬きしない目、不気味な笑い。
ミステリー・マンの声:(携帯電話から)I told you I was here.
(25)フレッドのアップ。ぎょっとしたように、目の前のミステリー・マンの方を見る。視線を落としつつ携帯電話を耳から外し、再度ミステリー・マンの方を見る。
フレッド:
How'd you do that?
ゆっくりとフレッドにクロース・アップ。
(26)ミステリー・マンのアップ。
ミステリー・マン: Ask me.
(27)フレッドのアップ。しばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように携帯電話を耳に当てる。
フレッド: How'd you get inside my house?
ミステリー・マンの声: (携帯電話から)You invited me. It is not...
(28)ミステリー・マンのアップ。笑みを浮かべてフレッドを見守っている。相変わらず瞬きをしない。
ミステリー・マンの声: (画面外の携帯電話から)...my custom to go where I'm not wanted.
(29)フレッドのアップ。向かい合ったミステリー・マンを見たままだ。
フレッド:(携帯電話に向かって)Who are you?
(30)ミステリー・マンのアップ。含み笑いを始めるミステリー・マン。それは哄笑に変わるが、画面外の携帯電話からもまったく同じ笑い声が聞こえ、不気味にこだまする。口端をつり上げ、笑うミステリー・マン。
(31)フレッドのアップ。右手に持った携帯電話を耳に当てながら、呆然とした表情で目の前のミステリー・マンを見つめている。響きわたるミステリー・マンの笑いの二重奏。
(32)ミステリー・マンのアップ。歯をむき出し、不気味に笑うミステリー・マン。
ミステリー・マンの声:(画面外の携帯電話から)Give me back my phone.
(33)フレッドのアップ。呆然と携帯電話を耳から外す。画面外でフリップを閉じ、目の前のミステリー・マンに渡すフレッド。
(34)ミステリー・マンのアップ。笑みを浮かべたまま、画面外で携帯電話を受け取る。
ミステリー・マン:
It's been a pleasure talking to you.
踵を返し、フレッドに背を向けて立ち去るミステリー・マン。それに連れて、少し左へパン。
[再び音楽が流れ始める]
(35)フレッドのアップ。呆然と立ち去るミステリー・マンを見守っているフレッド。
(36)ミドル・ショット。フレッドの主観ショット。パーティの人込みのなかを、背中で手を組み、部屋の奥に向かって歩き去るミステリー・マンの背後。

まず目をひくのが、カット(18)で明瞭に提示される「携帯電話」である。ここでも、”「フレッドの家」の「内部」”と「接触するもの」としての「電話」のモチーフが、「間接的」イメージを付随させつつ姿を現すのだ。だがより重要なのは、こうした「間接的接触」のイメージであるはずの「携帯電話」が、ミステリー・マンによってもたらされることだ。一見、これは矛盾しているようにみえる。ミステリー・マンがフレッドの「真の声」であり、「砂漠の小屋」によって指し示されるフレッドの「内面」の奥深いところに存在するものである。なによりも(2:05:58)からの映像によって、フレッドとミステリー・マンの「同一性」は明確に指し示されているはずだ。ならば、なぜ彼は「フレッドの内面」との「接触方法」として、「電話」という「間接的な手段」を提起するのか。

それに対する答は、前項で述べた”フレッドにとっての「ミステリー・マンの第三者化」の必要性”をキーにして考えれば、すでに明瞭であるはずだ。「真の声=ミステリー・マン」は「ありのままの現実の記憶の蘇生」に直結するものであるがゆえに、フレッドが創り上げた「幻想/捏造された記憶」を崩壊させる要因となり得るものである。事実、「後半部」において、「アリスなど存在しない(Alice who? Her name is 'Renee'!)」と喝破し、「お前は誰だ?(What the fuck is your name!)」とフレッドを問い詰めるのは「彼」だ(1:58:09)。それはフレッドにとっては「脅威」となるものであり、「無力化」されなければならない。フレッドが「真の声=ミステリー・マン」を自分自身から切り離し、「第三者化=他者化」するのはこうした理由によるものであって、もちろんその最終的な目的はフレッド自身の「自我の保護」だ。フレッドの「幻想/捏造された記憶」の中において、あたかも「ミステリー・マン」が「外部」に存在するかのように……自分に関連しないもののようにフレッドに認識されるのはこのような理由からである。そして、その「(捏造された)外部性」のゆえに、ミステリー・マンは「フレッドの家=フレッドの内面」との接触手段として、「携帯電話」を介在させる必要があるのだ。

だが、このフレッドの「都合」に基づいた「ミステリー・マンの第三者化」や「電話の間接性」による「直接性の排除」は、カット(6)(8)での「(フレッドの)家で以前出会った」というミステリー・マンの言及によって、すでに揺り動かされ、突き崩されてしまっていることも見逃せない。ミステリー・マンの弁に従うなら、「二人の刑事たち」と同じく彼もまた「フレッドの家=フレッドの内面」を「直接的に訪問」した/している数少ない登場人物の一人なのである。フレッドは「覚えがない」とそれを否定するが(カット(7))、もちろんこのフレッドの否定は「捏造された記憶」に基づく「欺瞞」でしかない。その「欺瞞性」は、「外部性/間接性」を確保する目的でフレッドが登場させたはずの「携帯電話」によって、むしろかえって簡単に曝け出されてしまう。カット(24)でフレッドが自宅にかけた「電話」に「ミステリー・マン」が応対することによって、「彼」が今この時にも「フレッドの家」を「直接的に訪問」していることが明快に証明され、ミステリー・マンのカット(10)での言及が「真実」であることがあからさまにされてしまうからだ。カット(30)のシンクロする「笑い声」によって明示されるように、「フレッドの目の前にいるミステリー・マン」と「フレッドの家にいるミステリー・マン」は、完全に「同一の存在」である。

繰り返しになるが、「ミステリー・マン=フレッドの真の声」が「フレッドの家=フレッドの内面」を訪問したことがあるのは、過去においてフレッドがレネエに対して「激しい感情」を抱いたことがあるからである。そして、このシークエンスにおいてミステリー・マンが「フレッドの家」に存在している理由は、そのときと同様の「感情」がフレッドの内面において今現在、発生しているからだ。フレッドがどのようにそうした「感情」を……「レネエ殺害」に結び付く「激しい感情」を否定し、それを覆い隠すための「幻想/捏造された記憶」を周到に構築しようと、その「事実」は変わらない。否定し覆い隠された「感情」の存在を主張する「真実の声」は、「他者化」されて「ミステリー・マン」の形をとる。ミステリー・マンが「フレッドの家」に存在しているのは、カット(27)(28)で言及されるようにフレッドが”彼を「招いた」から”であり、「主体」となるフレッドが”それを欲した”からである……たとえ、フレッドがそれを「意識」していなかったとしても。

概論部分でも説明したとおり、この「ミステリー・マン」がらみの一連のショットはきわめて「表現主義的」な発想に基づいたものである。そもそも「ミステリー・マン」がフレッドの「真の声」である限りにおいて、”フレッドの眼前に存在する「ミステリー・マン」”という「映像」自体が、フレッドの「内面」の「視覚化=具体的映像化」以外のなにものでもない。「ミステリー・マン」がフレッドが抱いた「感情」や想起した「意識」の反映であるならば、「彼」が「時間的束縛/空間的束縛」に縛られないのは当然のことだ。「彼」は「フレッドの家」の「内部」に存在しながら……つまりフレッドの「内面」において「想起」されながら、「激しい感情」を抱いた「主体」であるフレッドの眼前にも同時に存在できる……すなわち、フレッドによって「幻視」され得る。カット(34)において、カット(4)以降「消滅」していた音楽が復活するが、いうまでもなくこれはカット(4)において移行したシフトした「フェイズ」が元に戻ったこと……”「外枠」が消滅した地続きの「(幻想内)幻想」”が終わったことの明示に他ならない。この「音楽の復活」は「ミステリー・マン」が会話を終えフレッドから離れるのと明確に連動しており、「彼」がどのような存在であるかを、あるいは一連のショットの性格がどのようなものであるかを、非常にわかりやすく提示しているといえるだろう。

(この項、まだ続く)

2008年12月 4日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (6)

んなわけで、Greg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」をば、チマチマ読んだり読まなかったりする日々。

AFIに入学して妻ベギー&娘ジェニファーとロサンジェルスに移り住んだ直後、リンチは「サンセット大通り」のノーマ・デズモンドの屋敷として使われた建物を捜して、あちこちうろついたらしいです*。リンチの「サンセット大通り」に対する思い入れはいろいろな形で有名だけど、ということは1970年までにすでにリンチはこの作品を観ていたわけですね。根拠ナシなんだけど、なんとなくもっと後で観たのかと思っていたので、ちょっと意外。

「影響を受けたもの」という件でいえば、カフカの「変身」やゴーゴリの「鼻」をリンチが読んだのはAFIに入学してからだった……という事実がこの伝記中で明らかにされております。特に「鼻」に関しては、リンチは深い感銘を受けたようで、そのシュルレアリスム的な描写や、数回に及ぶナラティヴのシフト、オープン・エンドな結末等々に影響を受けた様子であります。当時の妻だったペギーの証言によると、「彼は『鼻』を翻訳で読んだので、より簡略化され(リンチ自身の考えや感覚や想像を反映させることができる)『余白』を残した形で体験することができた」ということでありますが、Olson氏はこれは、「(作品を作るに際して、観客が)夢をみる余地(give you room to dream)を残すように努めている」というリンチの発言と重なる……と述べています。

さて、映像作家を養成する学校であるからには当然至極ではありますが、AFIは学生に作品を作ることを求めておりました。リンチはそれに応えて「Gardenback」という作品のシナリオを書きます。これまたペギーの証言によれば、この作品はリンチが描いた「背中から緑色のものを生やし、前かがみになった人物」の絵に基づいたものであるようですが、ざくっとした粗筋はこんな具合。

「ヘンリーとメアリーは彼らの家で幸せに暮らしておりました。ある日、ヘンリーは別の女性を見掛け、『何か』がその女性からヘンリーへと移ります。その『何か』とは『虫』で、それはヘンリーの心に似た屋根裏で大きく育ちます。彼の家は、彼の頭のようなのです。『虫』は育ちつづけ変化して怪物になり、ヘンリーを乗っ取ってしまいます。ヘンリー自身が怪物になってしまったわけではありませんが、彼はそれと折り合いをつけつつやっていかなくてはなりません。しかし、そのせいで彼の家庭は完全に滅茶苦茶になってしまいます」

とまあ、Olson氏の指摘を待つまでもなく、みてのとおりこの作品のテーマは、完全に毎度お馴染みの「何かよくないことが起きる場所としての『家』」あるいは「人間の内面を表すものとしての『家』」であるということですね。Olson氏の指摘によると、このように「頭」を「家」になぞらえるという考えは、過去、多くの創作者や哲学者によって採用されていたようです。ただし、リンチはそのような過去の著作物に触れる前にこの「家」に関するテーマの作品を作っており、かつ、現在でもそのような著作物をほとんど読んでません。

もうひとつ、この作品のテーマとして採用され、後のリンチ作品にもみられる共通テーマとみなされるものとして、Olson氏は「不倫(adultery)」を挙げています。たとえば「イレイザーヘッド」の「向かいの部屋の女性」、「ロスト・ハイウェイ」の「レネエ」、「インランド・エンパイア」の「スーザン」にみられるような、っつーこってすねい。これまたペギーの証言によれば、リンチはロマンチストで、「互いに相手を連れた見知らぬ同士が、エレベーターの中で出会って一目惚れ」なんてなことが本当に起きる可能性があるなどとのたまっていたようです。そんなこと嫁さんと話してていいのか、リンチ(笑)。

興味深いのは、この作品に登場する”「虫」によって表されるもの”についてのOlson氏の考察です。当然ながら、これは「ヘンリーのメアリーに対する裏切りの象徴」であるわけですが、Olson氏は過去の文学作品において「虫」が「不安や欲望や恐怖によって不安定になった精神状態」を表すものとして使われていた例を挙げるとともに、ルイス・ブニュエルの諸作品に現れる「虫」についても触れています。ただし、リンチはそうした文学作品を読んでいないし、ブニュエルの映画作品を観たのも、この「Gardenback」のシナリオを書いた後であることも明らかにされています。この「虫」は、明らかにカフカの「変身」からの影響であるわけですが、同時にOlson氏は、むしろリンチが12歳のときにアイダホで観たカート・ニューマン監督の「蝿男の恐怖(The Fly)」(1958)、あるいはエルビス・プレスリーの「恋にしびれて(All Shook Up)」の歌詞「My friend's say I'm acting wild bug; I'm in love, I'm all shock up」からの影響だったんじゃねーの? と述べています。

このように改めて指摘されると、リンチ作品における「虫」のモチーフの共通性に気づかされます。Olson氏は例として、主人公のジェフリーが「害虫駆除員」になりすましてドロシーの部屋に入る「ブルーベルベット」を挙げていますが、思うに「ロスト・ハイウェイ」においてもピートの部屋の壁を這う「蜘蛛」や、照明器具の傘の中でもがく「蛾」が登場していますね。これらの「虫たち」が(駆除されるものをも含めて)何を指し示しているかといえば、やはり「よからぬ感情や意識や考え」であるように大山崎は思います。また、Olson氏はリンチのドローイングに「ant in house」というまんまな作品があることも指摘していますが、これもまたやはりモチーフとしては完全に同根であるのでしょう。

しかし、結局、リンチは「Gardenback」の作品自体を全ボツにします。その理由のひとつは、当初リンチはこの作品を45分くらいの中編として考えていたのですが、AFIの教官から「リニアなストーリーやダイアログを加えて、長編作品にせい」という教育的指導が出たことです。それは自分がやりたいことではなかったので、やる気を削がれたリンチは気分シオシオ。ううむ、この頃から「テメーの作りたいものを作りたいように作る」という基本姿勢を確立していたわけですね、エライなあ(笑)。そしてそれ追い討ちをかけるように、ワロン・グリーン(Walon Green)監督の「大自然の闘争 驚異の昆虫世界(Hellstrom Chronicle)」**(1971)が劇場公開されます。この作品は「虫」による世界支配を科学者が警告するっつー体裁のセミ・ドキュメンタリーでありました。これをみたリンチは、他人様が先にやっちゃったものの二番煎じはヤダ! とゆーことで「虫」関連について一気にやる気をなくし、このシナリオはなかったことになってしまいました。

実はリンチはこのシナリオを書いている最中、ペギーと繰り返し討論を交わしており、彼女はこの作品の問題点を以下のように指摘しています。すなわち、「デイヴィッドは不倫という巨大で邪悪な怪物を、悪として捉えられないでいた。なので、彼はこの怪物をドラマ的に適切に倒す方法を見付けられなかった」と。えーと、そりゃまあ、「エレベーターで見知らぬ同士が一目惚れ」なんて言ってるようでは、この「虫」は退治できなかったかもしれません(笑)。

とゆーよーな経緯でこの「Gardenback」は幻の作品となってしまったわけですが、「心のような屋根裏(attic, whitch is like his mind)」や「頭のような家(The house is like his head)」がというイメージを、リンチは映像的にどのように表現するつもりだったのか、ちょっと観てみたかったよーな気もします。しかし、この作品の「ヘンリーとメアリー」という登場人物名はそのまんま、「不倫」というテーマは形を変えて「イレイザーヘッド」に引き継がれることになるわけです。

*結局、当時のリンチは見つけられずじまいだったみたいですが、IMDbによるとノーマ・デズモンドの屋敷として使われたのは「641 N. Irving Boulevard, Midtown, Los Angeles」の「Getty Mansion」という建物で、現在はすでに取り壊されてしまっているそーです。

**
余談ですけど、この「大自然の闘争 驚異の昆虫世界」、フランク・ハーバートの小説作品「Hellstrom's Hive」(1973/未訳)に触発されて作られたらしいです。「砂の惑星」の監督を引き受けたとき、リンチがそれを知っていたかどーかは不明。いや、たとえ知っていたとしても、さすがのリンチも「二番煎じは……」とか言い出して「砂の惑星」を蹴飛ばしたとは思えませんが(笑)。

2008年12月 2日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (18)

てなことで、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」について。今回は(0:27:19)から(0:33:04)までを追いかけてみる。

二人の刑事たちの来訪が終わり、シークエンスの舞台は「アンディの屋敷」へと移行する。後半部のピートを核としたシークエンスで明らかになるように、「アンディの屋敷」もまたフレッドの「内面」において「象徴的な場所」として現れている。その象徴性が何を指し示すのかについては、このシークエンスではまだ明瞭にされない。だが、この「場所」で提示される映像が基本的に「表現主義的」かつ「抽象的」なものであることだけは、これから論じるシークエンスにおいてもすでに明示されている。

アンディの家 内部 夜 (0:27:19)
(ディゾルヴ)
(1)ロング・ショット。水中照明で青く輝くプール越しに向かいのプール・サイドを望むショット。向かいのプール・サイドにはデッキ・チェアやテーブルが並べられ、その回りには水着を着た男女や服を着たままの男女が飲み物を手に談笑している。泳いでいる女性たち、今しも一人の男性が右側のプール・サイドから水に飛び込むところである。左へとパン。エア・マットを投げて、左へと泳ぐ女性。エア・マットに腹ばいになって泳いでいる女性。その他にも何人か泳いでいている人たちがいる。流れる音楽。歓声。水音。
画面手前に、黒いドレスを着た黒髪の女性(ジュリー)が現れ、左を向いて手をさしのべている。
ジュリー: Hey, Andy! What a party!
アンディ: Julie! Whoa!
ジュリーの手を取って、画面左から現れるアンディ((0:12:43)でレネエと「ルナ・ラウンジ」の観客席にいた男である)。黒地に白い大きな柄のシャツを着たアンディは、画面に背を向けてジュリーにキスをする。
アンディ:
You look ravishing!
ジュリー: (両手を握りあったまま)Thank you.
満面に笑みを浮かべて、画面手前に向き直るアンディ。ラテン系の黒髪、細い口髭をはう足、耳には銀色のピアスをしている。体を揺らして右に歩くアンディに連れて右にパン。背後では、背中を向けて歩き去るジュリー、話をしているフォーマルなジャケットを着た男性が二人、赤いドレスの女性が見える。右から白いドレスのレネエが現れ、アンディとハグを交わす。彼女は右手に煙草を持っている。画面に右端に、くわえた煙草にライターで火をつける灰色の襟なしジャケットを着たフレッドを収めて、パンは終わる。左手に持ったグラスの飲み物をあおるレネエ。視線を交わす無言のアンディとフレッド。空になったグラスをフレッドの方に差し出すと同時に、足元をよろけさせてアンディに支えられるレネエ。
レネエ: Fred...
空のグラスをフレッドに突き出すレネエ。
レネエ: (笑いながら)Please...
アンディもフレッドに笑いかける。グラスを受け取るフレッド。
レネエ: Please?(左手に持ちかえた煙草をくわえる)
苦笑いをするフレッド。アンディの方を向き直り、彼の胸をふざけて右手で押すレネエ。
レネエ: Hey!
笑っているアンディ。その様子を見ながら、画面手前の方に歩き始めるフレッド。彼の背後で手を取って踊り始める二人。開け放たれた大きな木枠の扉をくぐって、フレッドは室内に足を踏み入れる。それに連れて後退していくショット。彼の背後では、赤いキャミソールに黒いミニの女性と、暗い色のジャケットを着た男性が肩を歩いてくる。女性は踊るようにして室内に入る。煙草を吸いつつ、屋内の人込みの間を、奥に向かうフレッド。流れる音楽。ウェイターが果物を盛った盆を捧げて右から現れる。なおも歩き続け、バー・カウンターに向かうフレッド。カウンターでは、左手に葉巻を持った半ばはげ上がった白髪の男性が座っている。手前には白いシャツを着た黒人男性。フレッドは蝶ネクタイにダーク・スーツのバーテンダーに向かって酒を注文する。
フレッド: Two double Scotces, neat.
グラスを手にカウンターを立ち去る白髪の男性。黒人男性は画面右に見切れている人物と談笑している。グラスを取り出し、手早く酒を注ぐバーテンダー。右手に持った煙草を灰皿で消しつつ、酒を待つフレッド。バーテンダーは酒を注ぎ終わった二つのグラスをフレッドに向かって差し出す。右側のグラスを右手で取り、酒をあおるフレッド。空になったグラスをカウンターに置き、残ったグラスを右手に取る。カウンターに背を向け、左手をカウンターに乗せたまま、残ったグラスの酒も一気に飲み干す。フレッドにクロース・アップ。フレッドは何かを視線の先に認める。

カット(1)は移動撮影を含めた長回しのワン・ショットになっており、このシークエンスにおける、あるいは作品全体に対するさまざまな「エスタブリッシュメント=状況説明」を行っている。まず、(0:12:25)からの”「ルナ・ラウンジ」に関するフレッドの「幻想」”において、レネエとともに外に出ていった口鬚の男の名前が「アンディ」であることが、パーティ客の一人であるジュリーの発言によって明示される。かつ、彼女の発言から、彼がこのパーティの主催者であること、そしておそらく彼がパーティ会場であるこのプール付き豪邸の住人であることが示唆される。

そして、そこに現れるのは、やはり直前のシークエンスと同様の「コントロール不能のレネエ」である。アンディとじゃれあう彼女の姿は、フレッドが「幻視」した”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”のリフレインに他ならない。彼女に対する「コントロールの不能性」はさらにエスカレートし、むしろフレッドは彼女によって「使役」され、逆に「コントロール」されてしまう(というイメージが提示される)。いうまでもなく、これはフレッドにとって非常に不本意な状況である。そのような扱いを受けたフレッドの「内面」にはレネエに対する「激しい感情」が渦巻いており、それは頼んだ二杯のスコッチを自分自身で飲んでしまうといった自棄的な行動によって明快に表される。もちろん、彼が抱いているのは、たとえばこれまで何度か現れ、これ以降も繰り返し現れる「炎」のイメージによって象徴される「感情」である*。彼が「不気味な男」を……「ミステリー・マン」を目撃するのは、そのような「状況下」(あるいは「イメージの連鎖」)においてだ。

(2)ミドル・ショット。フレッドの左肩越しのショット。パーティの人込みの向こうに、全身黒ずくめの不気味な男(ミステリー・マン)の上半身が見える。髪はオール・バックになでつけられ、顔は白塗りだ。ミステリー・マンはじっとフレッドの方を見ている。彼の背後には、半ば開かれた両開きの木の扉が見える。ミステリー・マンは、一歩、フレッドの方に歩み、そこで立ち止まる。
(3)フレッドのアップ。彼はいぶかしげにミステリー・マンの方を見ているが、やがて目を逸らし、視線を落とす。
(4)ミドル・ショット。フレッドの左肩越しのショット。ミステリー・マンは不気味な笑みを浮かべ、手を後ろに組んだまま階段を下り、フレッドのほうに近寄ってくる。それに連れて上方に移動し、ミステリー・マンがアップになるまでややクロース・アップする視点。向かい合うフレッドとミステリー・マン。
[流れていた音楽が消える]
(5)フレッドのアップ。いぶかしげにミステリー・マンの顔を見つめるフレッド。
(6)ミステリー・マンのアップ。白い顔、赤い唇。不気味な笑みを浮かべたまま、瞬きをしない。
ミステリー・マン: We've met before, haven't we?
(7)フレッドのアップ。何のことだかわからず、愛想笑いを浮かべている。
フレッド: (首を振りながら)I don't think so.
左を向き、画面外で右手に持った空のグラスをカウンターに置く。
[グラスがカウンターに置かれる音]
グラスを置き、フレッドは再びミステリー・マンと向き直る。
フレッド: (半ば笑みを浮かべて)Where was it you think we met?
(8)ミステリー・マンのアップ。口元には笑みを浮かべたまま、眉毛のない眉をつり上げ、目を見開く。
ミステリー・マン: At your house. Don't you remember?
(9)フレッドのアップ。ちょっと考えてから首を振る。
フレッド: No. No, I don't...Are you sure?
(10)ミステリー・マンのアップ。目を見開き、まったく瞬きをしない。
ミステリー・マン: Of course...As a matter of fact, I'm there right now.
(11)フレッドのアップ。笑みを消し、しばらく黙って考え込むフレッド。
フレッド: What do you mean? You're where right now?
(12)ミステリー・マンのアップ。
ミステリー・マン: At your house.
瞬きしない目を見開いたまま、笑みを浮かべる。
(13)フレッドのアップ。右に小首をかしげ、ミステリー・マンの方をしばし見つめる。
フレッド: That's fucking crazy, man.

カット(4)において、このシークエンスが始まってからずっと鳴っていた音楽が消える。この音楽は作品内のBGMではなくアンディのパーティの会場に流されていた「環境音」であり、その「消滅」は、カット(5)以降がそれまでと違ったフェイズに入ったことを明確に示している。たとえば、(0:12:25)からのシークエンスに現れた”「ルナ・ラウンジ」に関するフレッドの「幻想」”のショット群が同じように「無音」であったことを考えれば、カット(5)以降のシークエンスの性格は明らかだ。

だが、”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”との差異として気がつくのは、このシークエンスにおけるフェイズの「移行」が何の「区切り」もないことである。”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”のシークエンスでは、ベッドに横たわっているフレッドのショットと「ルナ・ラウンジ」のショットが交互に提示され、「ルナ・ラウンジ」関連のショットが”フレッドが「幻視しているもの」”であることは映像文法的にも明確に区分されていた。それに対し、このシークエンスにおける「移行」は完全にシームレスである。カット(2)(4)にみられるように、この二人は同一のフレーム内に存在しており、そこには「(幻想内)幻想」をみているのがフレッドであることを表す「外枠」など、まったく存在しない。まるで、いったん作品全体が「幻想/捏造された記憶」であると明らかになった後では、もはや「外枠」の提示は不必要であるといわんばかりに……いや、もともとそのような「外枠」など存在していなかったかのようだ。

これは非常に巧妙な「手口=表現」である。後続するシークエンスとの関係性において、”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”を内包する「外枠」自体がフレッドの「幻想/捏造された記憶」と捉えられること……いわば”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”はフレッドの「幻想内幻想」であると捉えられることについては、当該シークエンスの項ですでに述べた。それは逆説的に、「ロスト・ハイウェイ」には一片の「作品内現実」は存在せず、作品全体がフレッドの「幻想/捏造された記憶」であることの示唆であったわけだが、このシークエンスにおける”「外枠」の消失”は、そうした示唆を明瞭に補強するものだ。

と同時に、”「外枠」の有無”という差異はあっても、このシークエンスと”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”のシークエンスで発生している「イメージの連鎖」自体は、完全に「相似形」であることを指摘しておきたい。「コントロール不能のレネエ」がフレッドの「激しい感情」を喚起し、それは”彼の「真の声」である「ミステリー・マン」”のイメージへと連鎖していくのである。このようにみるかぎりにおいて、現在論じているシークエンスは、”「ルナ・ラウンジ」の「幻想」”のシークエンスの「リフレイン」であり、よりエスカレートした「ヴァリエーション」として理解されることになる。

さて、「静寂」のなか、男はフレッドに話しかける……「以前、お会いしましたね」と。もちろんのことだが、男=ミステリー・マンがこの言及をとおして行っているのは、”今現在「内面」に抱えている「激しい感情」を、フレッドは以前にも抱いたことがある”という指摘に他ならない。であるならば、彼らが会った場所が「フレッドの家=フレッドの内面」であることは当然である。そして、その時と同じ「激しい感情」をフレッドが抱いている今現在、ミステリー・マンが「実のところ、今もあなたの家にいる」のも、まったく間違いがないところだ。だが、”「レネエ殺害」の事実”自体を忘却しようとしているフレッドにとって、そのような事実は「記憶」のどこにも残っていない。彼の「幻想/捏造された記憶」のなかでは、「ありのままの記憶」である「激しい感情」自体が存在していなかったことになっているのである。そして、それを指摘する「真の声」はフレッドにとって「都合の悪いもの」であるため、フレッド自身のものではありながらフレッドのものではないものとされる。このようにして、「真の声」は彼自身から切り離され、「ミステリー・マン」という形で「第三者化」されるのだ。

(この項、続く)

*このシークエンスにおけるフレッドの「感情」は、彼が「いちゃつくレネエとアンディ」を見守りつつ咥える「煙草」によっても表されているといえる。だが、同時にレネエのほうも「煙草」を咥えており、これは彼女の「主体の回復」を表す所作として非常に示唆的だ。

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

最近のトラックバック