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2008年11月

2008年11月30日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (5)

うええ。なんだかなんだでなかなか読み進まないGreg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」でありますが。今回は、お約束どおり「グランドマザー(The Grandmother)」(1970)製作の前後あたりをば、Olson氏の作品分析を中心に。

AFI(American Film Insititute)から製作資金を得たリンチは、さっそく「グランドマザー」の製作に取りかかります。途中、AFIから追加資金を受けるなど「なんやかんや」しながら完成したこの作品にも、やはりリンチ作品の共通テーマ……「家族間のトラブル」あるいは「何かよくないことが起きる可能性のある場所」としての「家族の住む家」が現れていることをOlson氏は指摘します。

この作品に表れる「家庭内のトラブル」は、「厳格かつ野卑で暴力的な父親」と「父親から迫害を受ける息子」という形で現れます。少年はそれから逃れるために「祖母」を種から育てます。彼は祖母に甘え、祖母は彼に愛情を注ぐと同時に過酷な環境から逃れる「種」を彼に受け付けます。「祖母」は死んでしまうわけですが、少年のなかに受け付けられた「種」は育ち続け、彼を忌避すべき環境から解放することになる……というような「厳格な両親/慈しむ祖母」というテーマを、著者のGreg Olson氏は「グランドマザー」から読み取ります。

同時に、この作品に登場する「厳格かつ野卑で暴力的な父親」は、後のリンチ作品に表れる「野獣のようなキャラクターの原型」として捉えられるとOlson氏は述べます。たとえば「ブルーベルベット」のフランク・ブースや「ツインピークス」のキラー・ボブのような「存在」の「原型」でありますね。Olson氏によれば、こうした「野獣的なキャラクター」も、リンチ作品に頻繁に現れる共通モチーフのひとつとして理解されることになります。つまり、キラー・ボブの例に顕著なように、これも”何か他の存在が、自分の「内面」に侵入することへの恐怖”であり、”「無秩序で混沌とした外界」が「内面」を脅かすことへの不安”に基づいているということであります。「グランドマザー」に話を戻すと、「少年」の抱く「恐怖」というのは、自分も父親のような「野獣」になってしまうことである……というのがOlson氏の分析であります。

Olson氏はこのような「恐怖」を抱く「少年」に、リンチの「自己投影」をみます。当然ながら「外界からの侵入」をもっとも怖れているのはリンチ自身であるわけで、であるからこそ共通モチーフとして様々な作品に現れることになるとゆー機序でございます。と同時に、少年が地面から生まれたことに驚く「両親」のキャラクターのほうにも、長女ジェニファーの誕生に驚き慄いたリンチの「自己投影」がなされているとOlson氏は喝破します。で、この作品の「両親」に対するリンチの「自己投影」は、続く「イレイザーヘッド」でも継承され、テーマとして発展していくわけですね。このあたりは、たとえば「ロスト・ハイウェイ」でピートがフレッドの「代弁者/代行者」であるのと同じような意味で、リンチ作品の諸登場人物はリンチ自身の「代弁者/代行者」として機能しているとみなされること……つまりは、リンチ作品が非常に「リンチの私的なもの」の投影であることの指摘として捉えてヨロシいんじゃないか……と大山崎は考えましたことでした。

ちらっと前段で書きましたけど、この作品の「少年」も「両親」も「地面の中から生まれてくる」んであります。「祖母」のほうも「種」から生まれてくることに表されているように、「土」の中から生まれてきます。Olson氏は、そこに毎度お馴染み「表層の下にあるもの(beneath the surface)」 のモチーフを見いだしています。これは、後に述べる「区分けの消滅」というこの作品の特徴とも関連しているわけですが。

次いで、「学ぶ」ということをキーにして、Olson氏は「アルファベット」と「グランドマザー」を「対比」させ、その「差異」を述べます。「アルファベット」では「強制的に学ばされることのへの嫌悪」が描かれているのに対し、「グランドマザー」では「知識を獲得することの喜びと価値」が描かれているということですね。つまり、「アルファベット」におけるアルファベットの文字によって表されている「知識」は、少女=子供にとって”敵対的な大人の世界から見下ろされつつ、無理矢理「注入」されるもの”であったわけですが、逆に「グランドマザー」の少年は、”両親が属する野卑で暴力的な階下から、自分で階段を上って「直感と愛情」そして「世界とのつながり」という「人生教育」を受けに行く”というのがOlson氏による両作品の比較です。大山崎の私見ですが、”「すでに体系化された規則」に従った「知識」”と”「体系化されていない」感覚的な「経験則」”の違いが、リンチ作品において「ネガティヴに扱われるか/ポジティヴに扱われるか」の差異になっているんですかね? あるいはその「獲得」が、結果として「受動的であるか/能動的であるか」の違いにあるのかもしれません。「受動的」である場合は、これはいいかえれば”「外界」からの「侵入」への恐怖”としても理解可能なような。

Olson氏の指摘のなかで大山崎がもっとも面白いと感じたのは、この「グランドマザー」においては、「アルファベット」でみられたような「実写部分」と「アニメーション部分」の区分けというのが消滅しているという点でした。前回にも述べたように、「アルファベット」では「実写=現実の少女」というフレームと「アニメ=少女の内面」という「区分け」が(最終的には消滅するとしても)まず存在しているわけですが、「グランドマザー」ではそもそもそうした「外面/内面」の区分け自体が存在しないとOlson氏は述べます。「アニメ部分」が減少して「実写部分」が増えているという映像的比率の違いはさておき、それとも関係なく本質的なところで、少年や両親や祖母の「実写部分」と、たとえば両親や少年が地面の中から生まれるといった「アニメ部分」が完全に等価なものとして地続きに扱われている、ということですね。Olsoin氏が言うように、「イレイザーヘッド」や「ロスト・ハイウェイ」などをみても、こうした「区分けの消滅」はその後のリンチ作品の明確な特徴になるわけですが、実際問題としてこれ以降、「Dumb Land」などの例外を除いて、リンチは基本的に映像作品を「実写」でのみ製作するようになったのも事実です。このような理由で、この作品をOlson氏は”「時間経過とともに変化する絵」を作っていた「画家」としてのリンチ”と”「映画」というメディアを意識した「映像作家」としてのリンチ”の「明確な分岐点」として位置づけています。

ところで、こうした「区分けの消滅」は、「グランドマザー」に関してリンチ自身が述べた短いキャッチ・フレーズに端的に表れています。1970年にBellevue Film Festivalでこの作品がコンペ出品されたときに述べた、「a journey into the mind of lonley boy」っつーのがそれなわけですが、こりゃもう、確かにまんまっちゃあ、まんまです。大山崎としては、「lonley boy」の部分を「despairate husband」に置き換えれば「イレイザーヘッド」や「ロストハイウェイ」になるし、「brokenhearted actress」に置き換えれば「マルホランド・ドライブ」になってしまうよーな気もしますですが、それはそれとして(笑)。この「journey into the mind」というフレーズに関連して、Olson氏はリンチの家にある数少ない書籍のなかに、ウィリアム・ブレイクの詩集が含まれているという事実を指摘しています。「For in the Brain of Man we live」とか「To Me This World is all One continued Vision of Fancy or Imagination」とかいうブレイクのフレーズは、まんまリンチの諸作品にも当てはまるわけですね。

余談として、Olson氏は、リンチは自作についてそれぞれ短いキャッチ・フレーズをつけると指摘します。確かに我々もよく目にする光景ですが、新作の記者会見やインタビューで自作についての「説明」を求められたとき、リンチはそうしたキャッチ・フレーズを繰り返すだけですませてしまいます。たとえば「インランド・エンパイア」の「A woman in trouble」なんつーのも、その典型例であるわけですね。で、それ以上の説明は一切せず、受容者の解釈(ないしは誤読)に任せてしまう……てなことを、リンチは「グランドマザー」の頃からやっていたことになります。こうしたリンチの自作への態度を、Olson氏は皮肉っぽく「戦争中に捕虜になった兵士が、敵軍兵士のどのような尋問に対しても、自分の名前と所属と認識番号しか答えないがごとく」とか評しておりますが、まあ、そのようなことを評論家に言わせたくなるほどリンチの口が堅いとゆーことでありましょーか(笑)。

てなわけで、これで第一章「FEARFULLY AND WONDERFULLY MADE」は読了。リンチは「グランドマザー」を完成させるわけですが、AFIから追加資金を受ける際に、実はリンチはもうひとつのオファーを受けておりました……ロスアンジェルスに来て、AFIに入学しないか、と。このあと、リンチは友人のジャック・フィスクやらアラン・スプレッドたちと一緒にフィラディフィアからロサンゼルスに移り住み、そこで初の長編映画「イレイザーヘッド」を五年かけて製作することになります。そのあたりの話は、次回からとりあげる第二章「FACTORY CHILD」にて……ってことで。

2008年11月29日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (17)

「ロスト・ハイウェイ」にける「イメージの連鎖」である。今回は、前回から引き続き、(0:23:20)からのシークエンスの残りと、それ以降(0:27:19)までのシークエンスをば。

んでもって、具体的な映像から。

(20)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。余計に面食らったような二人。エドがちらりとアルの方を見る。
エド: You have an alarm system?
レネエ: (画面外から)Yes, actually we do.   
(21)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。
レネエ: But we haven't been using it lately.
やや目を伏せているフレッド。フレッドの方を見てから、刑事たちの方を見るレネエ。 
(22)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。
アル: Why not?
ガムを噛み続けるエド。 
(23)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。フレッドの方を見るレネエ。
フレッド: It kept going off...for some reason. False alarms...
レネエと顔を見合わせるフレッド。 
(24)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。
エド: Might want to try and use it again. 
(25)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。
レネエ: (脅えたように震える声で)Yeah. 
(26)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。左眉を上げ、エドの方を見るアル。
エド: OK.
ちらりと天井の方を見るアル。 
(27)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。刑事たちを見ているレネエ。レネエの方を見ているフレッド。
(28)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。エドの方を見ているアル。
エド: We're going to check the windows and doors,(右手を振りながら)see if anybody tried to break in. 
(29)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。
フレッド: (うなずきながら)OK.
もたれていた壁から身を離し、腕を組んだまま通路へと出るレネエ。その後を追ってベッド・ルームを出ていくアルとエド。最後にフレッドも三人に続いてベッド・ルームを出ていく。

カット(20)において、刑事たちは「フレッドの家」の「警備システム」についての質問をする。それに対し、レネエとフレッドは「あるが、使っていない」と答える。(0:18:44)からの「第二のビデオ・テープの到着」のシークエンスにおける「犬の鳴き声」がフレッドに対する「警告」の性格を帯びていたこと、そしてフレッドがその「警告」を明瞭に受け取れなかったことを考えると、このカット(20)からカット(25)で発生している一連のやりとりは非常に示唆的だ。ここでも根底にあるのは「フレッドの内面」を表すものとしての「フレッドの家」という概念であり、明らかに「ありのままの記憶=ビデオ・テープ」の到着をフレッドの「内面」に対して「警告」する「警備システム」は作動しなかったのである。刑事たちの勧めで、レネエは「警備システム」の使用を考慮することを「代弁」する。だが、フレッドが意識のどこかに「ありのままの記憶」を留めている限り、新たな「ビデオ・テープ」の到着を阻止することなどできないし、それに対する「警告」も用をなさないはずだ。

フレッドの家 ダイニング・ルーム 内部 (0:25:33) 
(30)フレッドの主観ショット。リビング・ルームの入り口あたりからダイニング・ルームの方を見るショット。ダイニングへの入り口から、円形の金属製灰皿が置かれた大きなテーブルが見える。テーブルの向こうには大きめの窓が見え、その向こうには赤茶色の煉瓦の塀が見える。窓の外、右手からアルが窓を指差しながら現れる。続いてレネエが現れ、アルが指差す上方を二人して見上げる。 
(31)リビング・ルームの入り口あたりに立っているフレッドのバスト・ショット。 
(32)ミドル・ショット。フレッドの主観ショット。ダイニングの窓越しのショット。左から右へと歩き、視界から消えるレネエとアル。レネエは腕を組んでいる。 
(33)リビング・ルームの入り口あたりに立っているフレッドのバスト・ショット。二人を追って左の方を見る。それからやや目を伏せ気味にする。
[足音]
足音を聞きつけて、左上、天井の方を見上げるフレッド。そのまま足音を追って、正面上方から右上方へと頭を巡らせる。 
(34)ミドル・ショット。リビング・ルームの内部から入り口の方をみるショット。入り口のあたりに立っていたフレッドが、リビング・ルームの中にゆっくりと入ってくる。部屋の中央、バスト・ショットになるまで進んでくるフレッド。天井の方を見上げている。 
(35)ミドル・ショット。天井を見上げるフレッドの主観ショット。天井に開いている不規則な鉄枠がはまった採光窓越しに、屋根を歩き部屋の内部を見下ろしているエドの姿が見える。 
(36)フレッドのアップ。採光窓の方を見上げているフレッド。

カット(30)に見られるように、このシークエンスはフレッドの「主観ショット」による映像提示から始まる。そして、彼が「観る」のは、「窓」をとおした「外界」で、アルとレネエが「家」を調べている様子である。続いて、カット(35)では同じくフレッドの「主観ショット」によって、天井の「採光窓」を調べているエドの様子が提示される。「家」の内部にいるのはフレッドだけであり、両ショットとも彼は「窓」を通して外部を垣間見るのである。このシークエンスの映像が、”フレッドの「内面」を探ろうとする「外界」の動きを、彼の意識が見ている”という状況の「図式化」であることはいうまでもないだろう。側面から天井から、いろいろな形で「彼の家=彼の内面=彼の意識」は調査/捜査される。カット(31)(33)にあるように、フレッドはそれに対して無力であり、黙って受け入れるしかない。

これらの「刑事」がらみのシークエンスで提示される映像群が、”「外界」からの「内面」への侵入”のモチーフに基づいていることは明瞭である。フレッドが自らの「内面」に構築している「幻想/捏造された記憶」は、「刑事たち」に表される「追求/捜査」のイメージによって侵食されているのだ。特に、カット(35)ではフレッドはエドによって高所から「見下ろされる」構図になっており、映像的にも彼が「刑事たちの捜査」から受ける「威圧感」や「不安感」は強調されているといえるだろう。

ここで改めて指摘しておきたいのは、このシークエンスの「刑事たち」によって表される「追求/捜査」のイメージ自体がフレッドが創った「幻想/捏造された記憶」であり、彼の「内面」において彼自身の「意識」が発生させているものであることだ。自分に都合の良い「幻想/記憶」を捏造して「自我の保全」を図るのもフレッドなら、レネエを殺したことの「罪悪感」に苛まれて自身を「指弾」するのもフレッドなのである。なおかつ、「刑事=追求/捜査のイメージ」を喚起した契機は、フレッドのコントロールを逸脱する(と彼が感じていた)「現実のレネエ」のイメージであるが、それもまたフレッドの「幻想/捏造された記憶」に他ならない。

上記のような点を踏まえれば、「第二のビデオ・テープ」の到着以降のシークエンスで発生している「事象」が、すべてフレッドの「内面」で発生している「イメージの連鎖=意識の流れ」そのものの「映像化」であることが理解されるはずだ。”繰り返される「ビデオ・テープ」の到着=ありのままの記憶の蘇生(の予感)”は”コントロール不能な「現実のレネエ」をモデルにした「幻想のレネエ」”のイメージを喚起し、それは「追及/捜査」のイメージを付随させた”「現実の刑事たち」をモデルにした「幻想の刑事たち」の登場”のイメージへと連鎖する。このようにフレッドの「内面」ではさまざまなイメージが彼の「感情/意識」をキーとしてつながっており、逆にその「連鎖」を読み取ることが、すなわち彼の「感情/意識」を理解し受容することになるのだ。

もちろん、こうした「イメージの連鎖」が発生しているのは、現在論じているシークエンスにおいてのみではない。振り返ってみれば、「第一のビデオ・テープの到着」はそもそも「ルナ・ラウンジへ行かない『レネエ』=コントロール不能の『現実のレネエ』」のイメージによって喚起されており、「第一のビデオ・テープの到着=ありのままの記憶の蘇生」は「幻想の性交」や「レネエではないレネエ」といったイメージへと連鎖している。こうした「イメージの連鎖」の構造は、これ以降のすべてのシークエンスにおいて変わらない。すなわち、作品内で発生している「事象」すべてが「フレッドの意識内で起きていること」の映像化であり、その具体的映像はきわめて表現主義的な発想に基づくものなのだ。非ナラティヴなリンチ作品においては、一見「客観ショット」とみなされる映像も、すべて実質的には「主観ショット」として受け止めるべきと思われる理由は……この作品においては「フレッドの主観ショット」として理解するべきである理由は、まさにこうした点にある。

フレッドの家 玄関 外部 (0:26:18) 
(37)ミドル・ショット。高い位置から玄関を見下ろすクレーン・ショット。玄関のドア。はめ殺しのガラスの左手にインターフォンが見える。玄関のドアが開いて、アル、エドが出てくる。階段を下りる二人を追って、左へパンするショット。階段を下りながらも、アルとエドは家の上方を見上げている。彼らに続いて、レネエとフレッドも玄関を出て、階段を下りてくる。なおも左へパン。階段を下り切ったところで、アルとエドは再び家の方を向き、家の上のほうを見上げる。
アル: We'll keep watch over the house.
エド: We'll do the best we can.
スーツの内ポケットに手を入れるアル。
アル: If anything else happens, you'll call us?
エドもスーツの内ポケットに手を伸ばす。フレッドに向かって自分の名刺を右手で差し出すアル。
レネエ: We will.
レネエに名刺を差し出すエド。アルの名刺を左手で受け取るフレッド。エドの名刺を右手で受け取るレネエ。
フレッド: (刑事たちに向かって)Thanks guys.
ゆっくりと降下していく視点。
エド: It's what we do.
踵を返し、道路を渡り始めるアル。エドも道路を渡り始め、二人は画面左から姿を消す。残されたフレッドとレネエめがけて、なおも降下していく視点。二人はもらった名刺を両手で持って、帰っていく刑事たちを目で追っている。右に回転しながら、二人に向かってなおも降下する視点。 
(38)ミドル・ショット。階段の下あたりからのショット。道路を刑事たちが乗った茶色いセダンが、左から右へと走り去って行く。画面左から消えるセダン。 
(39)ツー・ショット。階段の下で立ち尽くすレネエとフレッドのバスト・ショット。なおも降下し続ける視点。走り去る刑事たちのセダンを目で追う二人。視線は、二人の胸あたりの高さで降下を止める。フレッドの方を心配気に見るレネエ。目を伏せ、ため息をついて正面を向くフレッド。 
(ディゾルヴ) 

このシークエンスにおいて、特徴的に「クレーン・ショット」が使われる。まるでカット(35)でフレッドを見下ろしていたエドの目を引き継ぐかのように「刑事たち」や「フレッドとレネエ」を見下ろす視点から始まったこのシークエンスは、進行するにつれて視点の位置を下降させ、最終的にグラウンド・レベルの「フレッドとレネエ」のバスト・サイズのツー・ショットとなって終わる。

開巻以来、フレッドが明瞭に”「家」の「外部」”に存在するショットは……つまり、彼と「家」が同一フレームに収められるショットはこのカット(37)が初めてである。訪れた「刑事たち」が備える「外部性」によって、フレッドの「意識」が「外界」に向けられたことの表れである。だが、クレーン・ショットによる移動によって、「俯瞰的位置」から始まったこのシークエンスの「視点」が、最終的に「フレッドたちのツー・ショット」で終わることが示唆するように、全体として示唆されているのは「客観性」から「主観性」への移行である。「刑事たち」の来訪によって「外界」に対して開かれたと思われたフレッドの「意識」は、最終的には「家」に……やはり彼の「内面」へと回帰するのだ。最終的なツー・ショットにおいて、フレッドとレネエの背後にあるのは「家」の外観であり、この二人が「家=内面」に関連付けられていることが映像的にも示唆されている。

この「客観」から「主観」への変遷の間に、「刑事たち」は「道路」を渡ってフレッドたちから「分断」され、カット(38)で「外界」へと消えてしまう。だが、フレッドを脅かす「外界」からの「追求/捜査」のイメージはこれで排除されたわけではない。カット(37)において、アルは「家を見張る」とフレッドたちに約束するが、それはフレッドにとって彼自身(の「内面」)が「監視」されることと同義だ。フレッドの「内面」に対する「外界からの侵入」はもはや押し止めようがなく、「ビデオ・テープの到着」に表される「ありのままの記憶の蘇生」も進行し続ける。この後、「ロスト・ハイウェイ」は、「捏造された記憶」の終末とフレッドの新たな「幻想=遁走」に向けて、雪崩的にイメージを連鎖させていくのである。

2008年11月25日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (16)

んー? もうダメだと思って放置してたLinux2号機が、なんかいつの間にか復活してるんですが(笑)。起動時にいろいろエラーを吐いた挙げ句、Xを起動し損ねてコマンド・ラインに落ちたりなんかなさいましたけど、再起動したらば無事に立ち上がって下さって、もう何がなんだか(笑)。「三時間の連続使用テスト」×3セットを行った範囲では、突然電源が落ちたりという症状も出てなくって、ナニごともなかったかのように動いております。あらー? なにか安いNetbookでも買ってやろうかと思ってたのに、こ、口実がなくなってしまいました(笑)。

てなわけで、いつ落っこちてもいいようにコマメにUSBメモリにバックアップをとりつつ(笑)、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話である。今回および次回は、(0:22:34)から(0:27:19)までについてのありゃこりゃ。

では、毎度お馴染み、具体的な映像から。

フレッドの家 リビング・ルーム 内部  (0:22:34) 
(1)モニター画面のクロース・アップ。荒い走査線が浮かぶモノクロの映像。フレッドの家の内部、ベッド・ルームへと続く通路を進む視点。 
(2)ミドル・ショット。リビング・ルームの長ソファに座っている二人の刑事。左に座った刑事は明るいグレーのスーツを着て、黒髪、口髭を生やした小太りの男(アル)である。右に座った警部はダーク・グレーのスーツを着た痩せぎすの男(エド)である。彼らはモニターに映し出される映像を観ている。 後退する視点。アルの右側に座ったレネエとフレッドが見えてくる。レネエは濃い茶色のドレスに着替え、黒のパンプスをはき、足を組んでいる。フレッドは黒いセーターにジーンズをはき、右膝を立ててそこに左腕の二の腕あたりを載せている。 
(3)モニター画面のクロース・アップ。右回りに回りながらベッド・ルームに侵入していく視点。
[不気味な音楽]
ベッドで寝ているレネエとフレッドを高い位置から映し出し、画面は雑音とともにブランクになる。 
(4)ミドル・ショット。リビング・ルームの長ソファに座っている四人。レネエは背もたれに背をもたせかけ、腕を組む。顔を見合わせる二人の刑事。彼らを見守るレネエとフレッド。
フレッド: (再びモニターの方を見ながら)That's it.
フレッドとレネエを見る二人の刑事。テープの映像を撮影したカメラの位置を確かめるように上方を仰ぎ見るエド。
エド: (アルの方を見ながら)What do you think?
手を広げ、首を振るアル。
アル: (立ち上がりながら)I really don't know.
立ち上がったアルは、天井の方を仰ぎ見ながら部屋の中央まで歩み出る。それに連れて上方にパン。白い陽光が入ってくる天井の採光窓が画面上方に見えてくる。なおも右方に歩き、画面に背中を見せるエド。そのままくるりと回り、部屋の中央を向きながらなおも上方を見上げるアル。下にパン。長ソファに座ったままのエドとレネエとフレッドが視界に入ってくる。アルの姿は腹部から膝の上あたりまでしか見えない。そのまま軽く手を広げてみせるアル。
エド: (膝に手をあて、長ソファから立ち上がりながら)Let's check the hallway and the bedroom.
立ち上がるエドを見て、レネエも組んでいた足を解き、立ち上がる。立ち上がりながら誘うようにフレッドを見るレネエ。それに応えてフレッドも立ち上がる。画面左手に向かって歩き抱す四人。それを追って左にパンするショット。エド、アル、レネエ、フレッドの順で通路へと向かう。歩きながら、天井を見上げ、腕を組むレネエ。同じく天井を見上げながら最後尾を歩くフレッド。部屋を出て、通路を右に折れる四人の後ろ姿。

レネエの「電話」によって、二人の刑事が「フレッドの家」を訪れる。以前にも述べたように、「外界」から「フレッドの家」の内部に入り込み、「直接的な接触」を行うのはこの「二人の刑事」だけである。他はすべて「電話」や「いつの間にか配送されるビデオ・テープ」といった「間接的な接触」ばかりだ。

(0:40:49)からのシークエンスから推察されるように、事件後、逮捕されたフレッドに対する取り調べはこの二人の刑事によって行われている。明らかにフレッドはそうした「記憶」に基づき、「現実の刑事たち」を「モデル」にして登場する刑事たちを創り上げているのである……ちょうど、「現実のレネエ」を「モデル=原型」として前半部の「レネエ」を創り、後半部の「アリス」を創り上げるように。「レネエ」や「アリス」と同じく、彼らもまたフレッドによる「幻想/捏造された記憶」の一部なのだ。

だが、刑事たちに付随する「監視/追求」のイメージは、問題の「ビデオ・テープ」の性格を明らかにする。カット(4)で刑事たちが指摘する、二本目のビデオ・テープに録画されている「家の内部」の映像が、普通では撮れないような高い位置から撮影されているという「事実」だ。当然ながら、刑事たちがフレッドの「幻想/捏造された記憶」の一部である以上、彼らもフレッドの「代弁者/代行者」として機能する。刑事たちが指摘するように、「ビデオ・テープ」に収録された映像が「通常」ではない……あるいは「ビデオ・テープ」そのものが具象的なものではない……たとえば「ありのままの記憶」といった抽象的かつ象徴的なものであることを、フレッド自身は免れようもなく、意識のどこかで「認識」しているのである。たとえ「どう思う?」「さっぱりわからんな」と刑事たちが「代弁」するように、それが表わすものがフレッドには明瞭に理解できなかったとしてもだ。

続いて、刑事たちは「家」の内部を……「事件」の核心部分が発生した場所であり、もっともフレッドのプライヴェートな場所である「ベッド・ルーム」を調べようとする。後にもっと明確な形で現れるが、”「フレッドの内面」を表わすものとしての「フレッドの家」”という観点に立ったとき、刑事たちのこの「探索行為」もまた「表現主義的かつ象徴的なもの」として理解されることになる。そして、その「モデル=原型」となっているのは、これもまたおそらくは刑事たちに受けた「取り調べ」の「記憶」である。フレッドへの「取り調べ」は彼の「内面」まで侵入し、その心の奥に潜むものまで探り出すような厳しいものであったわけだ。

その「ベッド・ルーム」を舞台にしたシークエンスにおいて、刑事たちは「フレッドの内面」にあるものを厳しく問い質し、作品全体のキーとなる数々の「言及」を引き出すことに成功する。もちろん、それもまた、もともと「フレッドの意識」のどこかに存在したものだ。

フレッドの家 ベッド・ルーム 内部 朝 (0:23:20)
(5)ガムを噛みつつ、あたりを見回しながら薄暗い通路から明るいベッド・ルームに入るエド。歩くエドよりも早く、部屋の左奥、画面手前に向かって後退する視点。エドのアップからミドル・ショットまで。エドの左手には大きな窓があり、明るい外部の光景が見える。左の壁には、インターフォンの金属プレートが見える。あたりを見回しながらベッド・ルームに入るエドに続いて、アルも左右を見ながら入ってくる。一瞬、左を振り返って窓の外を見るエド。次いでフレッドもベッド・ルームに入ってくる。なおも後退する視線。腕を組んだレネエも視界に入ってきて、フレッドの右背後に、入り口の壁にもたれるようにして立つ。左から、フレッド、レネエ、アル、エドの順でベッド・ルームの中に立つ四人。体の前で手を組むアル、ズボンのポケットに手を突っ込むエド。
アル: (フレッドに)This is the bedroom?
沈黙する四人。
アル: You sleep here, in this room, both of you?
落ち着かなげなフレッドとレネエ。 
(6)ミドル・ショット。アルの背後、窓あたりからの、やや高い位置からのショット。画面右にアルの背中と薄くなった後頭部が見える。その向こうアルの左の肩ごしにフレッド、右の肩ごしに入り口にもたれたレネエが見える。エドは画面の左にほとんど見切れている。アルとエドの間に、黒いカバーがかけられ、黒い枕が木製のヘッドにもたせ掛けられたベッドが見える。ベッドの右枕元には低いテーブルが置かれ、円筒形の傘の低い電気スタンドが載せられているのが見える。そのなお右には裏に通路のある壁があり、壁には鏡が掛けられている。
フレッド: (ベッドの方に右手を振り、アルに向かって)This is our bedroom.
何度もうなずくアル。 
(7)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。顔を見合わせるフレッドとレネエ。 
(8)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。アルの背後の窓からは陽光に輝く木々といった外部の光景がみえる。
エド: (左手を振りながら)There's no other bedroom? 
(9)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。視線を落とすフレッド。腕を組んだまま刑事たちの方を見ているレネエ。
フレッド: (刑事たちを見て)No.
フレッドのほうを見るレネエ。
フレッド: (レネエの方を見ながら)I mean, I use it as a practice room. It's soundproof. 

ベッド・ルームにまで足を踏み込んだ刑事たちに対して、フレッドも、そして彼の「代弁者/代行者」であるレネエも落ち着かなげな態度をとる。この「刑事たち」の「モデル/原型」に「取り調べ」を受けたフレッドにとって、彼らはその際に抱いた「感情」を想起させるものであるからだ。そして、当然ながら、この「幻想/捏造された記憶」のなかでも、その「取り調べ」は形を変えて「リフレイン」される。

また、映像的には、フレッドとレネエがベッド・ルームの「奥」に立ち、刑事たちが「外界」が見える「窓際」に立つというこのシークエンスを通して採用されている「構図」も、非常に興味深いものだといえる。フレッドにとって「刑事たち」は自分の「内面」に対する「外界」から「侵入者」であり、彼らは背後の窓越しに見える「外界」のイメージと明確に紐付けられるのだ。それに対し、フレッドとレネエの背後にあるのは、閉塞的な「壁」と、「外界」と間接的な関係しかもてない「インターフォン」である。彼我の「立場」の対比は、映像的に明瞭だ。

カット(8)において、アルは「ベッド・ルームはここだけか?」と尋ねる。この質問は、カット(17)でフレッドから、「練習場所」として使われている”「もうひとつのベッド・ルーム」の存在”に関する言及を引き出す。(0:06:52)からの「ルナ・ラウンジ」におけるフレッドの演奏が彼の「心の叫び」として理解されることを考えるとき、「もうひとつのベッド・ルーム」が彼の「練習スタジオ」として使われていることは非常に示唆的である。そこは彼の「ミュージシャン」としての「根元的な場所」であり、当然ながら現在舞台となっている「ベッド・ルーム」と同様に「非常に私的な場所」だといえるからだ。刑事たちの「追求」(のイメージ)は、我々=受容者が知らなかった事実を……作品が提示してこなかった事実をもフレッドから引き出し、明らかにするのである。

(10)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。
アル: you're musician? 
(11)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。
フレッド: Yeah. 
(12)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。
エド: What's your axe?
フレッド: (画面外から)Tenor. 
(13)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。
フレッド: Tenor saxophone...Do you? 
(14)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。
エド: (笑いながら右手の人差し指で自分の耳を指差して)No. Tone deaf.
アル: Do you own a video camera?
レネエ: (画面外から)No. 
(15)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。画面右の方に顔を背けるフレッド。レネエはフレッドの方を見る。
レネエ: Fred hates them.
振り返り、刑事たちの方を見るフレッド。 
(16)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。黙ったまま、フレッドとレネエを見守る二人の刑事。ガムを噛み続けるエド。 
(17)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。刑事たちの方を見ている。
フレッド: (意を決したように)I like to remember things my own way. 
(18)バスト・ショット。フレッドたちの方向からのアルとエドのルー・ショット。一瞬、面食らう二人。
アル: What do you mean by that? 
(19)バスト・ショット。ベッドの方からのフレッドとレネエのツー・ショット。視線を落とすレネエ。
フレッド: How I remenbered them.
レネエも刑事たちの方を見る。
フレッド: Not ncessarily the way they happened. 

次いで、カット(14)において、アルは「ビデオ・カメラを持っているか?」という決定的な質問をする。だが、フレッドは、この質問に答えたくない。カット(15)の「顔を背ける行為」に表れるように、彼は文字どおり「現実」に「直面」することを恐れており、この質問を回避する。そのため、「ない」と答えるのは「代弁者/代行者」であるレネエだ。ところが、それだけにとどまらず、彼女は「フレッドが嫌いだから」と付け加える。もちろん、このレネエの発言も基本的にフレッドの「感情」を「代弁」するものである。何よりも「ビデオ・カメラ=ありのままを記録するもの」を忌避しているのは、「主体」である彼自身であるからだ。だが、これは彼にとって「隠しておきたい事実」であり、それを明らかにするレネエの行為は、フレッドにとってはコントロールを「逸脱」したものに他ならない。

結果として、フレッドはカット(16)において刑事たちから「無言の追求」を受ける。レネエによる「代弁」が不可能になったフレッドには、自分自身で答えるしかない。彼は「自分が好きなように記憶していたいから」と言い、「どういう意味か」と問う刑事たちに対し、続けて「記憶する方法の話だ」「実際に起こった通りに記憶しなければならないわけではない」と言及する。普通に考えるなら、「ビデオ・カメラが嫌いな理由」の説明としてはこれはかなり異質なものといわざるを得ない。だが、それが意味するところの「抽象性」を考えるなら、これらの「言及」は作品の全体構造の非常に端的な説明だ。

繰り返し述べるように、フレッドにとって、「レネエ殺害」に関する「ありのままの記憶」は「忌避」すべき対象である。なぜなら、それは彼に「罪悪感」を感じさせて彼の自我を傷つけるとともに、自らが「追求/懲罰」の対象であることを認識させるばかりでなく、自分の「レネエに対する希求」がもはや実現不可能であることまでも明確にしてしまうものだからだ。そうした事態を回避するために、フレッドは、前半部においてはレネエが変わりなく「存在」しているという「幻想/記憶」を捏造し、後半部ではピートという「別人格」を核にした「幻想/記憶」を創造して心理的に「遁走」する。その内容は「実際に起こったとおりでなく」「自分が好きなように」フレッが歪めたものだが、彼がそれを「現実=短期の記憶」と捉えている限りにおいて、彼にとってはこれが唯一の「現実」なのである。

フレッドの「ありのままの記憶」に対する「忌避」は、「ありのまま」を記録する「ビデオ・カメラ」あるいは「ビデオ・テープ」にその対象を「転化」させる。彼が「ビデオ・カメラ」を嫌うのは、こうした機序によるものである。このようにして、彼の「家」に届く「ビデオ・テープ」は、「ありのままの記憶」そのものを表す「象徴」として位置づけられることになる。

(この項、続く)

2008年11月22日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (15)

三連休の間もちまちまと続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話なんか。今回は(0:21:56)から(0:22:34)まで。

フレッドの家 リビング・ルーム 内部 (0:21:56)
(1)黒いテーブルの上に置かれた黒い電話機のアップ。受話器は外され、レネエが話をしている。電話機の右には、銀色に鈍く光る金属製の灰皿の、鋭角的な角が見えている。
レネエ: (画面外で)That right. Yes. 
(2)レネエのアップ。右手で受話器を耳に当て、左手を背後のフレッドの方に伸ばす。彼女の右後方に立っているフレッドの姿は画面からほとんど見切れていて、膝の下から腰当たりまでしか見えない。フレッドの右手が背後から伸びてきて、レネエの左手に火の点いた煙草を渡す。煙草を渡したフレッドの右手は、自分の太もものあたりに開いて当てられる。彼女の左背後には、アウト・フォーカスとなった縦長の窓があり、そこから外の木々の緑が見えている。深刻な表情のレネエ。
(3)レネエのクロース・アップ。口紅がひかれた口元あたりのアップ。黒い受話器の一部が見えている。
レネエ:(受話器に向かって)Someone broke in and taped us while we slept! 
(4)黒に白い細めのストライプが入ったパジャマを着ているフレッドのアップ。
レネエ: (画面外で)Isn't that enough?
部屋の中を右へ左へと、レネエを見下ろしながら、心配そうな表情でうろうろしている。それを追って右へ、次に左へパン。
レネエ: 7035 Hollis. 
(5)レネエのクロース・アップ。口紅がひかれた口元あたりのアップ。黒い受話器の一部が見えている。
レネエ: Near the observatory.
レネエの目のあたりまで、上にパン。
レネエ: Yes. 
(6)レネエのアップ。右手で受話器を耳に当て、話をしている。彼女の右背後には、アウト・フォーカス気味に、フレッドの太ももから腰あたりが見えている。彼の体の右半分は画面から見切れている。彼の右手は、新しい煙草を持っている。
レネエ: We'll be here.
レネエは画面外で受話器を置く。レネエの手前を上方に向かって漂う煙草の煙。フレッドの持った煙草からも煙が出ている。
[受話器を置くガチャリという音] 
(7)フレッドのアップ。画面右端の方でうろうろしながら、物問いたげにレネエの方を見下ろしている。一歩レネエに近づくフレッド。
フレッド: (レネエに向かって)So? 
(8)レネエのアップ。フレッドを右上に見上げる。
レネエ: They're sending two detectives out.
煙草の煙が、下方から上方へ、レネエの顔のあたりを漂っている。

「ありのままの記憶」がフレッドの「内面」において蘇生するのに連動して、「現実」は容赦なく彼の「幻想/捏造された記憶」に侵蝕を開始する。「第二のビデオ・テープ」のイメージは、「警察」という直截な「監視/追及」のイメージへと連鎖していく。このシークエンスで提示されているのはこの「連鎖の過程」であり、それがフレッドの「内面」でどのように葛藤を引き起こしつつ発生しているかだ。

言うまでもなく、「ありのままの記憶」がフレッドの「内面」において完全に蘇るということは、彼の「幻想/捏造された記憶」が崩壊することと同義である。当然ながらフレッドはそれに「抵抗」を覚え、葛藤する。その葛藤は、このシークエンスにおけるフレッドとレネエの「態度」の違いに表れている。そもそも、直前のシークエンスの最後で「警察を呼ばなくちゃ(We have to call the police)」と発言するのはレネエであるし、カット(1)であからさまに提示される「電話」を介し、「外界」と主体的/積極的に接触するのも彼女である。フレッドはただそれを見守っているに過ぎない。興味深いのは、「ビデオ・テープ」を観ることについてレネエは消極的であり、むしろフレッドの方が積極的だったのに対し、この「警察」に連絡をとるシークエンスでは両者の「態度」が逆転してしまっていることだ。映像的にも、カット(3)(5)のクロース・アップを含めて彼女の映像が大きな比重を占めており、このシークエンス全体を通じて「支配的映像」となっているのは、明らかにフレッドではなくレネエの方なのである。

表現を変えよう。レネエとの比較において、「警察」に連絡をとることを「積極的に拒否」しているのはフレッドの方なのである。以前にも触れたように、リンチ作品では、往々にして”「主体」となる登場人物の「内面の葛藤」”が、「主体」とその「代行者/代弁者」によって演じられ、本来なら「拒否」の立場であるはずの「主体」が「受諾」の意思を表し、かわりにその「代弁者/代行者」が「拒否」を表明する。たとえば「マルホランド・ドライブ」において、ベティが事故があったかどうか警察に確認することを勧め、リタがそれに難色を示すようにだ(0:47:35)。「ロスト・ハイウェイ」においても、「ビデオ・テープ」を観るシークエンスでは同様の「逆転」した関係がフレッドとレネエの間に認められたわけだが、しかし、では、なぜこのシークエンスではそれが「再逆転」し「本来の立場」に戻るのか?

映像として提示されている現象面からいうなら、このシークエンスのレネエは「主体性」を回復し、フレッドの「コントロール」から「逸脱」している。そもそも(0:05:12)からのシークエンスで「フレッドのライブに行かないと宣言するレネエ」という形で表されているように、フレッドはレネエの行動を統制できていない(と、少なくともフレッドは感じている)。フレッドのこの「感情」こそが彼をして凶行に走らせた根底にあるものであり、「レネエの不倫行為」という彼の「疑念」はこの「感情」と表裏一体であることがうかがえる。彼のこうした「感情」は、(0:12:25)からの「ルナ・ラウンジにおけるレネエとアンディ」の映像や、(0:27:19)からの「アンディの屋敷」のシークエンスにおいて、より端的にエスカレートした形で描かれているといえるだろう。

後半部のシーラの例をみてもわかるように、フレッドが「幻想/捏造された記憶」のなかで求める「女性像」は、彼の意思に従順に従う存在である。だが、当然ながら、「現実のレネエ」は、彼の「理想の女性像」とは乖離したものであったはずだ。レネエに限らず、主体性をもち自意識のある人間存在が、他者の一方的なコントロール下に唯々諾々と置かれるはずがないからである。このシークエンスにおけるレネエは、こうした「ありのままの現実」における彼女の姿を反映しており、フレッドのコントロールから「逸脱」し始めている。つまり、フレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかにありながら、彼女は彼の「代弁者/代行者」としての機能を失いつつあるのだ。もちろん、このレネエの「機能変化」は、”「ビデオ・テープ」の到着”や”それが提示する「映像」の進捗”に表わされるように、これはフレッドが「ありのままの記憶」を蘇生させつつあることに連動していると捉えていいはずだ。

ひるがえってリンチ作品全体を見回したとき、そこに現れる「機能しない家族」のテーマの根底には、フレッドが抱えているような「コントロールの問題」の存在……”過剰な「統制」による「一方的な関係」”が見え隠れしているように思われる。たとえば、「ツイン・ピークス」に現れる「機能しない家族像」も、父リーランドによる娘ローラへの「一方的な関係の強制」にある。あるいは「インランド・エンパイア」で繰り返し変奏される「夫と妻の間の諸問題」の多くが「妻に対する夫の一方的な関係の強制」に端を発しており、その「原型」は冒頭の「顔のない男女」によって演じられる「関係性」によって明確に提示されていた。「コントロールされる側」の「内面」からの視点でみたとき、これはGreg Olson氏が「Beautiful Dark」で指摘する”無秩序で混沌とした「外界の脅威」が、「内面」へ侵入することに対する恐怖”の表れとして理解可能であるように思える。

話を戻そう。フレッドがレネエに対する「コントロール」を失い、彼女が「代弁者/代行者」として機能しなくなったということは、フレッドの「内面」における「二律背反」そのものの消失を意味する。彼のために「拒否」を表明してくれる「代弁者」を喪失してしまった「主体=フレッド」は、最終的に自我の保護を優先し、「受諾」を捨てて「本来の立場」である「拒否」を選択するのである。

この”「代弁者/代行者」としての機能”をキーにしてみたとき、カット(2)に現れるフレッドとレネエの「火のついた煙草の受け渡し」のショットは、非常に興味深いものだ。当該シークエンスでも触れたが、開巻直後、他のどの映像よりも先行して「煙草の火」の映像が提示されることに表れているように、この作品では「煙草(の火)」という「プロップ」は、フレッドの「内面」に発生している「感情」を表すものとして重要なものである。その観点に立つならば、「感情=火のついた煙草」がフレッドからレネエに渡されることによって表されるもの自体が、あるいは彼女の「感情の回復」すなわち「主体の回復」であり、「代弁者/代行者」としての「機能喪失」であるといえる。「アリスの姿をしたレネエ」が後半部の「ピートを核にした幻想」を崩壊させるように、前半部においても「レネエの姿をしたレネエ」がフレッドの「捏造された記憶」の欺瞞性を暴き始めるのだ。

2008年11月18日 (火)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (14)

チンタラと続く、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:18:44)から(0:21:56)までを追いかけてみることにする。

んでわ、まずは具体的な映像から。

フレッドの家 玄関 内部 朝 (0:18:44) 
(フェイド・イン) 
(1)ミドル・ショット。階上から玄関へと続く階段を降りてくる黒いローブ姿のレネエ。それに連れて左へパン。階段を降りたレネエは、そのまま玄関のドアを開ける。ドアからは、陽光に照らされた外の風景が見える。
[犬の鳴き声]
玄関から出て、外の階段に置かれた新聞に手を伸ばすレネエのドア越しのショット。膝を折ってしゃがみこみ、新聞を拾い上げる途中で、何かを認める。 
(2)ミドル・ショット。レネエの背後斜め右からの、玄関のドア越しのショット。画面外の新聞を手にしゃがんでいるレネエ。階段の下のほうを見ている。立ち上がるレネエ。それにつれて上方にパン。階段を降り、再びしゃがみ込むレネエ。それを追って下方にパン。左手で何かを拾い上げるレネエ。マニラ封筒だ。右手に新聞を持ったまま、立ち上がりつつマニラ封筒の中をのぞくレネエ。それに連れて上方にパン。
[犬の鳴き声]
前方、鳴き声がしたほうをやや見上げるように見るレネエ。やがて、マニラ封筒に目を落としつつ、玄関に引き返そうとする。
[再び、犬の鳴き声が続く]
立ち止まり、鳴き声のほうを見上げるレネエ。どこから鳴き声がしているのか、探すように左右を見る。
[なおも続く犬の鳴き声]
鳴き声を背に、玄関に戻るレネエ。玄関をくぐり、アップになる。
[なおも続く犬の鳴き声]
視線を落としたまま、背後で玄関のドアを閉める。そのまま、画面右手に姿を消すレネエ。枠にはまった玄関のガラス戸。 

見ての通り、フレッドの「家」に第二の「ビデオ・テープ」が届くシークエンスである。第一のビデオ・テープと同様、このビデオ・テープもやはり「新聞」を取りに来たレネエによって「発見」され、「回収」される。そこまでは完全に”第一のビデオ・テープの「発見と回収」”(0:09:39)の「リフレイン」だといえるだろう。ただし、この両者を「対置/併置」されるものとしてみたとき、そこにはいろいろな相違点が認められる。

真っ先に気が付くのは、このシークエンス全体をとおして聞こえる「犬の鳴き声」である。「外界」からの「客観的情報」を表す「新聞」と同じく、この「犬の鳴き声」もビデオ・テープの「付属物(アトリビュート)」であり、その「性格」を補助的に表すものとして理解してよいだろう。そして、この「犬の鳴き声」が指し示すものは、複合的である。

まず思いつくのは、フレッドの「代行者/代弁者」であるレネエが「ビデオ・テープ」を手にし、「家の内部」に持ち込むことに対する「警告」である。「ビデオ・テープ」は「レネエ殺害」に関するフレッドの「ありのままの記憶」の象徴であり、それは彼が自我を保護するために創り上げた「幻想/捏造された記憶」を崩壊させるものであるが故に、彼にとって「忌避の対象」であるからだ。だが、現状、いまだ「幻想/捏造された記憶」を保持しているフレッドには、その「警告」の意味するところが明瞭には把握できない。彼が感じているのはあくまで「漠たる不安」であり、それを表すように、この執拗な「犬の鳴き声」の出所をフレッドは(そして、カット(2)にあるように彼の「代行者/代弁者」であるレネエも)特定できずに終わってしまう。

加えて、この「犬の鳴き声」には、「監視/追及」のイメージも付随している。見えない場所から「フレッドの家=フレッドの内面」を見張り、そこに垣間見える動きを「監視する存在」の示唆である。この「監視/追及」のイメージを伝える映像群は後半部において顕著であり、そこでは「警察」というより直裁なイメージでも現れている。だが、このシークエンスの「犬の鳴き声」に付随している「監視/追及」のイメージは、それほど単純ではない。レネエを殺したことの「罪悪感」と、それから逃れて「自我」を守りたいという「要求」、そしてやはりレネエを我が物にしたいという「欲望」の間で、フレッドの「意識」は揺れ動いている。「幻想/捏造された記憶」を創り上げるのがフレッドであるなら、「ビデオ・テープ=ありのままの記憶」を保持し、それを「フレッドの家」に届けるのも「彼自身」である。同様に、最終的に彼を「監視/追及」するのも「彼自身」に他ならない。たとえ他の誰かの「監視/追及」から逃れられたとしても、自分の「意識」からは逃れられないからだ。「犬の鳴き声」(によって表されるもの)でもってフレッドを追い詰めるのは、フレッド自身なのである。

次に気がつくのが「視点の位置」である。このシークエンスにおける「視点の位置」は、「第一のビデオ・テープ」のシークエンスとの対応において、完全に逆になっている。後者では、「フレッドの家」の外部からのショットによってレネエによるビデオ・テープの「発見/回収」が提示された。それに対しこのシークエンスでは、「家」の内部から「玄関のドア越し」の視点によって同じ行為が提示されるのである。”「人間の内面」を表すものとしての「家」”というリンチの共通テーマからみたとき、この「視点の変遷」は非常に興味深い。「外界からの視点=客観的な視点」はもはや放棄され、「内面からの視点=主観的な視点」がそれにとってかわる。そして、この「主観的な視点」は、ドアの隙間から覗き込むようにして、狭く分断された「外界」をぼんやりとしたアウト・フォーカスで「認識」するのである。前項で述べた「作品構造上の混乱」を機に、「「ロスト・ハイウェイ」は”「フレッドの内面における事象」の表象”という方向にむかって、本格的にその描写をシフトし始めるのだ。

フレッドの家 リビング・ルーム 内部 朝 (0:19:31) 
(3)ミドル・ショット。リンビング・ルームの内部。新聞とマニラ封筒を手に持ったレネエが入ってくる。入り口脇の点灯された電気スタンドが置かれた棚にマニラ封筒を置くレネエ。
フレッド: (画面外から)You're up early.
レネエ:
That dog woke me.
新聞を手にリビング・ルームを出て、通路を右へと姿を消すレネエ。同時に、画面右手前、リビング・ルームの奥から暗い色のパジャマを着たフレッドが姿を現す。フレッドの背後からのバスト・ショットになる。
[かすかに聞こえる犬の鳴き声]
フレッド: Who the hell owns that dog?
左の方を見ていたフレッドは、右に顔を向ける。そのまま入り口の方に歩くレネエ。棚の前まできたとき、その上に置かれたマニラ封筒に気づく。
フレッド: What's that?
棚の前で立ち止まるフレッド。
フレッド: (画面外のレネエに向かって)Another videotape?
レネエ: (画面外から)Yeah.
マニラ封筒に手を伸ばし、それを取り上げるフレッド。中からビデオ・テープを取り出し、マニラ封筒は棚に戻す。
フレッド: (画面外のレネエに)Don't you want to watch it?
レネエ: (画面外から)I guess so.
ビデオ・テープを両手で持って、ビデオ・デッキの方に歩くフレッド。テープをデッキにセットし、長ソファに戻り、テーブルの上のリモコンを拾い上げて、長ソフアに腰を降ろす。リモコンをデッキに向け、ボタンを押すフレッド。
[ピッというリモコンの操作音] 
(4)TVモニターのアップ。ノイズが画面に走る。
フレッド: (画面外から)Well, don't you want to watch it? 
(5)ミドル・ショット。長ソファに座ってモニターを見ているフレッド。レネエが皿に載せた白いコーヒー・カップを両手に入り口に姿を現す。
レネエ: Yeah.
そのまま長ソファに歩み寄り、フレッドの右、やや離れたいちばん端に腰掛ける。 
(6)モニター画面のアップ。前回と同じ、フレッドの家の外観のモノクロ映像。左にパンして玄関付近を映す。(0:11:49)からの「第一のビデオ・テープ」の映像と同一のものである。 
(7)レネエのアップ。右のフレッドを見る。
レネエ: It's the same thing.
再びTVモニターの方に目を移すレネエ。 
(8)モニター画面のアップ。玄関に向かってズーム。 
(9)フレッドのアップ。食い入るようにモニターを見ている。
[ザーッというノイズ]
フレッド: No, it isn't. 
(10)モニター画面のアップ。家の内部。一瞬、ノイズとともに映像が乱れる。リビング・ルームの内部。高い位置から、右回りに回りつつ前進する映像。低いテーブルと二人がいま座っている長ソファが映る。 
(11)レネエのアップ。脅えた表情でフレッドの方を見る。
レネエ: Fred... 
(12)フレッドのアップ。レネエを見ていたが、再びモニター画面の方を振り返る。
(13)モニター画面のクロース・アップ。荒い走査線が見えている。左へパン。ベッド・ルームへの通路。ノイズとともに乱れる画面。通路を進む視点。 
(14)フレッドのクロース・アップ。目のあたりのアップ。
[ノイズ] 
(15)モニター画面のクロース・アップ。荒い走査線。ベッド・ルームの入り口から、右回りに内部に侵入していく高い位置からの視点。床を映し出していたが、やがてベッドが視界に入ってくる。ベッドの上にはレネエとフレッドが寝ている。
レネエ: (画面外で脅えた声で)What? 
(16)レネエのクロース・アップ。目のあたりのアップ。 
(17)モニター画面のクロース・アップ。荒い走査線。なおもフレッドとレネエが寝ているベッドに近づいていく視点。
[高まる音楽] 
(18)レネエのクロース・アップ。目のあたりのアップ。 
(19)モニター画面のクロース・アップ。荒い走査線。寝ているフレッドとレネエのアップ。雑音とともにスノー・ノイズになる画面。 
(20)レネエのアップ。呆然と長ソファから立ち上がるレネエ。それを追って上方にパン。
[高まり、途切れる音楽]
レネエ: We have to call the police.

カット(3)にみられるように、「家の内部」においても「犬の鳴き声」のモチーフは継続される。フレッドが「どこの犬だ?」と発言するのは「鳴き声」が意味するものに対する彼の「認識の曖昧さ」を表しているとして、興味深いのはレネエが「あの鳴き声で起こされた」と言及していることだ。「ロスト・ハイウェイ」を観た (9)で述べたように、”フレッドが自分の「内面=家」においてレネエを「想起した=起こした」ときにのみ、彼女は「内面=家」に「存在」する”という考えに基づくなら、これは「犬の鳴き声」が(および、それによって表される「監視/追及」のイメージが)フレッド自身の「意識」に由来するものであることを示唆しているといえるだろう。

続いて、「家」の内部に持ち込まれた「第二のビデオ・テープ」は、「第一のビデオ・テープ」と同じように再生される。「第二のビデオ・テープ」に対する二人の「態度」も、基本的に「第一のビデオ・テープ」のシークエンスを踏襲しており、その「リフレイン」となっている。すなわち、カット(3)の「観たくないのか?」「そう思う」という二人の会話、あるいはフレッドが「観ないのか?」と繰り返しレネエに尋ねる描写、フレッドがレネエの返事を待たずにビデオ・テープを再生し始める描写などが端的に表しているように、このシークエンスにおいてもレネエはビデオ・テープを観ることを躊躇い、むしろ積極的に収録された映像を確認しようとするのはフレッドのほうだ。このあたりの「図式」と「それが表すもの」は「第一のビデオ・テープ」のシークエンスとまったく同一であり、フレッドの「内面」における葛藤や乖離を指し示すものである。

異なっているのは、ビデオ・テープに収めてられている「映像」だ。これも途中までは「第一のビデオ・テープ」の内容の完全な「リフレイン」である。ただし、「第一のビデオ・テープ」が「フレッドの家」の「外観」を映して終わったのに対し、「第二のビデオ・テープ」はその「内部」の映像を映し出す。カット(10)(13)(15)にみられるように、そこに現れるのは「侵入する視点」のモチーフであり、その「視点」は「家の内部」を最終的に「ベッド・ルーム」まで「侵入」する。つまり、この「視点」はフレッドの「内面」を、彼のもっとも思い出したくない「記憶」に向かって分け入るのである。もちろん、この「進捗するビデオ・テープの映像」が表象するのは、フレッドが「ありのままの記憶」を取り戻しつつあるということだ。好むと好まざると「実際に起きたこと」の「記憶」は何かの折にフレッドの「意識」に蘇り、彼が創り上げた「幻想/捏造された記憶」を根底から揺さぶる。「第一のビデオ・テープ」と同じように「第二のビデオ・テープ」の映像もノイズまみれであり、明瞭ではない。それと同じぐらい朧げであるものの、彼は徐々に、しかし確実に「何が起きたか」を思い出し始めている。

2008年11月15日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (13)

えー、これがまた「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話である。今回は前二回に続き、(0:12:25)から(0:18:44)までのシークエンスのうち、パート3にあたる(0:18:04)から(0:18:44)までを追いかけてみるであります。

まずは、具体的映像をば。

フレッドの家 ベッド・ルーム 内部 (0:18:04)
(47)ベッドで寝ているフレッドの、左からのショット。腹部あたりまで黒い上描けをかけ、裸で寝ている。体をびくりとさせ、跳ねるようにするフレッド。
(48)ツー・ショット。ベッドで寝ているフレッドとレネエの斜め右からの、フレッドの体越しのショット。フレッドの様子に驚いたレネエが身を起こす。彼女の顔は逆光で闇になっている。何度かあえぐフレッド。
(49)フレッドのアップ。左からのショット。なかば身を起こし、なおもあえぎながらレネエの方を見る。
(50)レネエのアップ。その顔は完全に闇になっていて、表情が見えない。
(51)フレッドのアップ。左からのショット。あえぎながら、ベッドに横たわろうとして、すぐにまた身を起こす。
(52)レネエのアップ。だが、その顔はまったく見知らぬ顔だ(ミステリー・マンの顔)。 高まる衝撃的な音楽。
(53)フレッドのアップ。左からのショット。驚き、急激に体を左に回転させて、ベッドの向こうのテーブルの上に置かれた円筒形の傘の電気スタンドを点けるフレッド。点灯させたあと、また慌ててレネエの方に向き直る。
(54)レネエのアップ。電気スタンドの光に照らされた顔は、彼女のものに戻っている。
レネエ: Fred...are you all right?
(55)ツー・ショット。ベッドに寝ているレネエとフレッドの、レネエの背後(やや足元より)からのショット。レネエを見て、ため息をつくフレッド。
(56)ツー・ショット。フレッドとレネエの、フレッドの体越し(やや足元より)からのショット。身を乗り出し、心配そうにフレッドを見つめているレネエ。なおもあえぎつつ、左手を伸ばしてネレエの左頬に触れるフレッド。
(57)ツー・ショット。ベッドに寝ているレネエとフレッドの、レネエの背後(やや足元より)からのショット。左手を伸ばし、確かめるようにレネエの左頬に触れているフレッド。
(58)レネエのアップ。身を起こし、心配そうにフレッドを見つめている。彼女の左手は、自分の頬をなぜているフレッドの左手に添えられている。
(フェイド・アウト)

このシークエンスで提示されているものを一言で述べるなら、前回触れたパート2カット(46)において、フレッドがヴォイス・オーヴァーで言及する「レネエのようにみえるが、彼女ではない(It looked like you, but it wasn't)」という発言の具体的映像化であるといえる。

まず問題となるのは、フレッドはそもそも「何」を見たのか……ということだ。それが具体的に表されているのが、カット(52)である。我々=受容者には(0:28:51)まで明らかにならないが、闇に沈んだレネエの顔にオーヴァー・ラップで映し出される顔は、「ミステリー・マン」のものだ。当該シークエンスについて触れる際に詳述するが、(2:04:02)からの映像によって明示されるように、フレッドとミステリー・マンは「同一」の存在であり、この不気味な男はフレッドの「内面」の奥深いところに存在するフレッド自身の「心の声」の象徴である。であるならば、フレッドがカット(52)で目撃する「ミステリー・マンの相貌をしたレネエ」は、実は「フレッド自身」であり、彼の心の奥深いところに存在する「意識」の「投影」に他ならない。

では、フレッドのどのような「意識」がこの「ミステリー・マンの相貌をしたレネエ」に投影されているのだろうか。それを理解するキーとなるのが、パート1カット(3)(5)(7)(8)で提示される「ルナ・ラウンジ」のショットである。このショット群が”「フレッドのレネエに対する疑惑や猜疑心」の「図式化」”であることについては、前々回で述べた。要するに「ミステリー・マンの相貌をしたレネエ」は、フレッドが抱いている「レネエの不倫」に関する「疑念」をキーにして、連鎖的に喚起された「イメージ」なのである。ここで重要なのは、このフレッドの「疑念」が、彼の「内面」において発生しているものであるということだ。ということは、その「発生場所の同一性」という点からいえば、この「疑念」は、形こそ違えど「フレッドの幻想/捏造された記憶」とまったく「同質」のものなのである。そして、この「同質性」が明らかにするのは、後半部に登場する「アリスの姿をしたレネエ」を含めて、この作品に登場する「レネエ」はすべてフレッドの「内面」にしか存在しないということであり、彼女(たち)が何らかの「感情」を伴ってフレッドに「想起」される存在である限りにおいて、すべて彼の「意識」の「投影物」だということである。

そのように考えるとき、このシークエンスにおいて、フレッドは一時的にせよ”「レネエが自分の創造物であり、自分自身の投影である」と認知/認識したこと”になる。要は、後半部におけるものとは異なってはいるが、これもまたフレッドの「幻想/捏造された記憶」が「現実の侵入」を受けた瞬間であり、「幻想/捏造された記憶」が崩壊する危険に晒されたことを表しているのだ。パート1の終わり近くカット(28)において、レネエからの「接触」を受けたフレッドが怯えた表情を浮かべる理由はまさにそこにある。ただし、「レネエがレネエでない=自分が創り上げた幻想である」という認識がフレッドの心のどこかに存在している限り、彼の「幻想/捏造された記憶」は常に崩壊の危険をはらんでいる。フレッドが「幻想のレネエ」を想起するとき、そこには「ミステリー・マンの相貌をしたレネエが登場する=彼女が自分の創造物である」ことが同時に想起される可能性があるからだ。そのことは、後半部の「アリスの姿をしたレネエ」においても同様であり、その結果は作品が提示するとおりである。考えてみれば、これこそが、フレッドが本質的に陥っている脱出不能な「罠(キャッチ)」だ。もはや存在しないレネエを狂おしく希求して、フレッドは繰り返し彼女を獲得するための「幻想/捏造された記憶」を創り上げる。だが、その「幻想/捏造された記憶」のなかに存在する「レネエのイメージ」自体に、その「幻想/捏造された記憶」を崩壊させる根本原因が内包されているのだ。

さて、ここで我々=受容者はある「混乱」を覚えることになる。現在論じているパート3のシークエンスは、パート1とパート2との関係性において、どのような文脈上に位置づけられるものなのか? 具体的にいうなら、パート3が提示する映像が表象しているのは、(1)「夢」をみたあとの「昨夜のフレッド」なのか、あるいは(2)レネエに「夢」の話をしたあと眠りについた「今夜のフレッド」なのか、それとも(3)「フレッドが昨夜みた夢」の続きなのだろうか? いうまでもなく、その気になれば、このあたりの「時系列」を映像的に明瞭にする手段はいくらでもあるはずだ。しかし、少なくとも一連のシークエンスの映像に対してそのような工夫は施されていない。どう受け止めるかは人によってさまざまだろうが、いずれにせよこのシークエンスに対する「時系列」的な理解は、それがどのようなものであれ、明確な映像的根拠をもてないのだ。

だが、この「時系列整理の不可能性/無効性」こそが、実はリンチが意図して選択した「表現」であることは間違いない。パート3が、前段で挙げた(1)(2)(3)のどの「文脈」上からも理解可能であり、いわば「置き換え可能」であることによって表わされているのは、パート1とパート2、ひいてはパート3の映像が提示するものの「質的な等価性」である。つまり、この三つのパートで構成されているシークエンス全体がフレッドの「内面」で発生している事象であり、すべてフレッドの「幻想/捏造された記憶」だという点で「同質」であり「等価」なのだ。一見「(作品内)現実」であるかのようなパート1のシークエンスも、実はパート2と同じように「夢=幻想」であり、それはパート3も同様なのである。また、前項で述べたようにパート2を”「ありのままの(作品内)現実」に近いフレッドの「記憶」”と捉えた場合も、この構造自体はまったく変わらない。「幻想/捏造された記憶」と「ありのままの(あるいはそれに限りなく近い)記憶」は、フレッドの「内面」における「事象」として、完全に「等価」なものとして扱われている。

上述したようなパート1から3のシークエンスが備える「構造」は、「ロスト・ハイウェイ」全体の「基本構造」をも説明するものだ。開巻以来このシークエンスに至まで、この作品に初めて接した大部分の受容者は、提示される映像をまず「(作品内)現実」として理解しようとしていたはずである。大多数の映画作品と同様に、そこで発生している「出来事」は、「(作品内)現実」を流れる一定の「時間軸」に沿って発生しており、物語としてナラティヴに理解できるものであるという経験則的前提のもとに作品に接っしているということだ。「物語記述」の技法として多少の「時間軸」の入れ替えはあっても、あるいは「幻想」や「回想」という「(物語内)非現実」がインサートされることはあっても、前項で挙げた「ヴォイス・オーヴァー」などを使ってそれらの「映像」が「(作品内)現実」でないことが明示されるのが基本であり、我々=受容者が混乱をきたすことはあり得ない。それが通常の……少なくとも古典的ハリウッドの「映像文法」であり、我々=受容者はそれを前提にして「映画」を受容しようとする。このシークエンスにおける我々=受容者が抱く「混乱」は、まさしくこうした前提のもとに発生したものだ。

そして、このシークエンスが引き起こす「混乱」こそが、そうした「共通認識」が「ロスト・ハイウェイ」を受容するに際して無効であること、それとは異なった「認識」に基づいてこの作品を理解しなくてはならないことを逆説的に明示している。この一連のシークエンスがすべて「フレッドの内面」で発生している「事象」であるならば、それより以前のシークエンスで提示されていた「(作品内)現実」であるとばかり思っていた「事象」もまた、彼の「内面」において発生していた「幻想/捏造された記憶」に他ならない。これらの「事象」が「(作品内)現実/非現実」のいずれかであることを切り分けるキーとなる映像もまた、「ロスト・ハイウェイ」には一切存在しないからだ。そしてこの「時系列整理の不可能性/無効性」はこのシークエンス以降のすべての「映像」に関しても当てはまり、当然ながら、そこで発生している「事象」もすべて「フレッドの内面」におけるものであることが示唆されるのである。

ここに至って、「ロスト・ハイウェイ」が内包する基本テーマがどういうものであるかが、徐々にみえてくる。それは、”人間の「認知/認識」の問題”という非常に普遍的なテーマだ。フレッドに限らず、我々人間は、すべからく自分が認識したようにしか「外界」を認識できない。その「認識」が客観的にみて正しいかどうか、もっといえば我々が「認識」した「事象」が現実に発生しているのかどうかさえ、実は我々自身には判別のしようがないのである。程度の差こそあれ、我々は全員フレッドと同じように「外界」を自分の好きなように認知/認識し、自らの感情や主観によって歪められた「記憶」をもとに生きており、「自分の好きなように記憶していたい(I like to remember things my own way)」というフレッドの言及(0:24:28)は、実は我々「人間存在」全員にあてはまるのだ。「ロスト・ハイウェイ」がリンチの個人的なアイデアの範疇を越え、広く普遍性を備えているのは、まさにそうした意味合いにおいてである。

このような観点に立ったとき、リンチ作品を「(作品内)現実と(作品内)非現実の混同」などという大雑把な「常套句(クリシェ)」を用いて論じるのは、非常に誤解を招きやすい行為であるといえる。少なくとも「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」は、そうしたクリシェが言外に匂わせる”創作者の「恣意」”とは完全に無縁であるし、単純な「現実ー非現実」という二項対立による理解を許さない。もし、この作品が「現実と非現実の混同」を描いているとしたら、それは我々=人間がそのようにしか「外界」を「認識」できないという「事実」に基づいているからに他ならない。だが、そもそも、人間の「内面」に存在するものに関して「現実と非現実」の区別を論じること自体がナンセンスだといえるだろう。それは主体となる者にとってはすべて「現実」であり、「外界」にいる他者からみたときにはすべて「非現実」なのだから。

2008年11月12日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (12)

なんだか腰が痛い。座ると痛いし、立っても痛いし、寝てても痛い。実は原因はわかっていて、それというのも他でもない、ここだけのハナシ、某○○會館の椅子の形状がどうもおヨロシくない(笑)。背もたれが真っ直ぐな割に座席部分の真ん中がポッコリ盛り上がっている……という人間工学をあんまり考えてない代物で、座っていて腰が定まらないこと夥しいんであります。そーゆー椅子に何時間も座らされて長々とお話を聞かされたひには、翌日から覿面に腰にくるという次第。年一回、秋口にそのよーな機会があるわけですが、毎年それからしばらくは腰痛に悩まされるってのを繰り返してるので、あの椅子が完全にクロだと大山崎は断定しております(笑)。いつも自分が使っている椅子のほーがまだマシかなと思うんですが、某○○會館って「椅子のお持ち込み」は可能なんでしょーか?(笑)

てなわけで、腰をさすりさすり、ボチボチと続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の追いかけバナシである。今回は前回の続きということで、(0:12:25)から(0:18:44)までのシークエンスのうち、パート2にあたる(0:16:52)-(0:18:04)までのシークエンスをみてみる。 

とりあえずは、具体的映像の引用から。

フレッドの夢 リビング・ルーム 内部
(39)ミドル・ショット。リビング・ルームの内部。左手の壁は暗闇に沈み、右手の壁は茶色く沈んでいる。両方の壁の間には開口部があり、黒いTシャツを着たフレッドが開口部から部屋に入ってくる。
フレッド: You were inside the house.
左に進むフレッドに連れて左へパン。やや手前に向かって歩いてくるフレッド。バスト・ショットからアップまで。
フレッド: You were calling my name.
やや斜め右の方を向くまでフレッドは歩を進める。
レネエ: (画面外で)Fred?
(40)煉瓦作りの暖炉のアップ。暖炉の中では薪が炎を上げて燃えている。
(41)フレッドのアップ。やや斜め左の方を見ている。
レネエ: (画面外で)Fred?
左回りにフレッドの回りを回るショット。
レネエ: (画面外で)Where are you?
なおも回り続けるショット。ぼんやりとした光が当たっている壁が右から姿を現し、左へと消える。
(42)ミドル・ショット。リビング・ルームの内部。木の棚の右端あたり、ビデオ・デッキが置かれている段のあたりのアップ。
フレッド: And I couldn't find you.
ガラスの仕切りの向こうから、白い煙がリビング・ルームの中に入ってくる。
(43)フレッドのアップ。侵入してくる煙を見つめているフレッド。彼の周囲を左回りに回るショット。ぼんやりとした光が当たっている壁が右から現れ、左へと消える。
(44)ミドル・ショット。通路を早いスピードで進んでいく視点。
(45)フレッドのアップ。右斜め前からのショット。厳しい顔をしているフレッド。
(46)赤いカーテンに沿って、右方向へ進んでいく視点。
フレッド: Then there you were, lying in bed.
ミドル・ショット。下方を向いたまま、右方向にパン。床を経て、ベッドの端が見えてくる。なおもパン。ベッドの左側で眠っているレネエ。両手は上掛けの上、胸の当たりに置かれている。ベッドの左側には低いテーブルがあり、その上には黒い電話機が置かれている。
フレッド: It wasn't you.
かすかに揺れる視点。
フレッド: It looked like you, but it wasn't.
急激にレネエに近づいていく視点。目を覚まし、脅えた表情を浮かべ、守るように顔の前に両手を突き出すレネエ。
レネエ: (悲鳴)

このシークエンスのあいだ、フレッドの台詞はすべて「ヴォイス・オーヴァー」で語られる。このテクニックが「映像」に対する端的な状況説明として機能するとともに、いわゆる「フラッシュ・バック」などとともに併用され、「記憶」や「幻想」といった「(作品内)非現実」を映像で明示する際に使用される「古典的手法」であることはいうまでもない。このシークエンスにおいても、それがパート1カット(38)でフレッドが言及する「昨日の夜にみた夢(I had a dream last night)」の「具体的映像による提示」であることを、この「ヴォイス・オーヴァー」が明示しているといえる。

だが、作品を通じてみたとき、このシークエンスで提示されている「映像」が表すものが、単純な「フレッドの夢」ではないことは明らかである。たとえば第三の「ビデオ・テープ」によって提示される「映像=記憶」が、現在触れているシークエンスのカット(46)の直後に起きた「出来事」と捉えて差し支えないことを考えるなら、このシークエンスで起きている「事象」は、「(作品内)現実」で実際に起きた「出来事」に限りなく近いものであるはずだ。フレッドがそれを「夢」と認識しているのは、それが「ビデオ・テープ」と同じく「ありのままの記憶」であり、「思い出したくない事実」であるからに他ならない。「非現実」のなかでは、「現実」こそが「非現実」になるのである。  そして、そうした前提に立つなら、このシークエンスはさまざまな「象徴」に満ちている。

まず気が付くのが、フレッドとレネエの両者から明らかにされる”互いの「不在」”である。フレッドの側からはカット(39)およびカット(42)のヴォイス・オーヴァーによって「レネエの不在」が言及される。そして、それに対応するように、カット(39)およびカット(42)においては「フレッドを探すレネエの声」というこれまたヴォイス・オーヴァーによって、レネエの側からの「フレッドの不在」が提示される。

このうち、後者の「フレッドの不在」に関しては、(0:38:26)においてレネエ側の視点を中心にして「リフレイン」されるわけだが、「インランド・エンパイア」について述べる際にも言及したように、この「登場人物による他の登場人物の捜索」という「表現」は、「ロスト・ハイウェイ」以降のリンチ作品において常套的に表れるものである。こうした表現によって示唆されるのは、「捜索する登場人物」と「捜索される登場人物」が「断絶した場所」に存在するということであり、「ロスト・ハイウェイ」のケースについていうなら、「レネエが現実には存在しないこと」つまり「すでに殺害されていること」の提示として理解される。リンチ作品におけるこうした「表現」の特異性は、「(作品内)現実」を基本に考えるなら「捜索される側」であるはずの登場人物が「捜索する側」として表れることであり、そのために一見、わかりにくい構造になっていることである。このシークエンスにおける「フレッドの側からのレネエの不在」は、こうした表現の意図をわかりやすく補完するものだといえるだろう。

次いで目を惹くのが、カット(40)に現れる「暖炉の炎」である。このうち、「暖炉」に関しては、フレッドの家のリビング・ルーム内において、明確な位置を表す映像が作品内に存在しない(このシークエンスのカット(39)-(43)がリビング・ルーム内の映像であることは、カット(42)に現れる「棚」の一部分によって明らかである)。あるいはこの「暖炉」自体が「非現実のもの」としても捉えられるのだが、それを明確にする映像もない。だが、この「暖炉」が、「ミスター・エディの屋敷」を舞台にしたシークエンスに現れる「暖炉」および「そこで燃える炎」(1:31:51)と「対置/対応」されるものであることは間違いなく、かつこの「ミスター・エディの屋敷」自体が「フレッドの幻想」であることを考えるとき、この「暖炉の炎」がフレッドの「内面」における「感情」を……レネエに対する「殺意」に接続される「激しい感情」を表象するものとして理解されることになるのだ。

同様のことは、カット(42)に現れる「白い煙」についても指摘できる。これが「表現主義的」な発想に基づき、フレッドの「内面」に(文字通り)沸き起こった「感情」を……「漠たる不安」や「得体のしれない焦燥感」を表象しているのは明らかだ。そして、「煙」が「通路」のほうから姿を現すことによって示唆されるように、そうした「感情」の「根源」はリンビング・ルーム内にはない。その所在の「場所」へと我々=受容者を導くのが、カット(44)およびカット(46)に現れる「侵入する視点」のモチーフである。この「視点」がフレッドの主観視点として現れていることはいうまでもなく、我々=受容者は彼と視点を「共有」しつつ、「フレッドの不安」の根源へ……「問題の核心」へと迫ることになる。カット(46)には「赤いカーテン」が現れ、その先にあるものがフレッドの「内面」に関するものであることを指し示すと同時に、その「重要性」を強調する。

そして、カット(46)において、フレッド=我々の「視点」は「ベッド・ルーム」の内部に導かれ、そこに「ベッドに眠るレネエ」を「観る」。フレッド=我々の「視点」は彼女に収束され、「フレッド」が抱く「感情」……「激情」や「不安」の対象が「レネエ」であることが明示される。このシークエンスの構造が、たとえば「インランド・エンパイア」の(1:06:46)から(1:08:18)にかけてのシークエンスの構造とまったく同一であり、当然ながらそこに成立している「文法」も同一であることを是非とも指摘しておきたい。どちらの作品においても、最終的に「視点」の対象となるものこそが、「視点の持ち主」の抱く「感情」の成立要因なのだ。かつ、この両作品が、ともに「ベッド・ルームへの侵入」という「共通性」を備えていることも見逃せない点である。絵画を含めたリンチ作品に頻出する”人間の「内面」を表すものとしての「家」”の内部において、「ベッド・ルーム」はその「最深部」を指し示している。「外見」からは伺いしれない「人間の内面」の「深層」を表すものとして、あるいは夫婦間における赤裸々な「人間関係」が営まれるところとして、「ベッド・ルーム」以上に適切な場所が「家」の内部にあるだろうか? 加えて、この二つの「ベッド・ルーム」に至るまでの道程において、これもまたリンチが頻繁に採用する「侵入する視点」のモチーフが併用されていることにも留意すべきだろう。リンチ作品において、「家」の内部を覗き込むことは、「人間の内面」を覗きみることと同義である。「侵入する視点」は、「家=内面」の「奥まった場所=深層」に隠された「もの=感情や思考」に向かって文字通り分け入り、それを可視化する。まさしく、Greg Olson氏が「Beautiful Dark」で指摘するリンチの衝動に従い、「表層の下に隠されたもの(beneath the surface)を晒し出す」べく機能するのだ。

カット(46)の最後で、急激にレネエに向かって迫る「視点」、そしてその「視点の持ち主」に対して彼女が示す「恐怖」は、フレッドの言う「昨夜」あるいはピートの父親が言及する「あの夜(other night)」(1:24:47)に何が起きたかを明瞭に物語るものである。だが、フレッドの「声」は告げる……「一見、レネエのように見えるが、あれはレネエではなかった」と。では、フレッドは何者を見たのか? それは続くパート3のシークエンスにおいて明らかにされることになる。

(この項、もうちょい続く)

2008年11月 8日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (4)

忘れたころにやってくる(笑)、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」の話題であります。

うむむ、電車のなかで読めないと、なかなか読み進みませんなあ。いまだにフィラディルフィア時代をさまよっているワタシ(笑)。なんとか「アルファベット」が作られる前後のところまで読みましたんで、そこらへんまでご紹介。

「アルファベット」に関する記述の紹介と前後して、リンチ作品全体に関するOlson氏の見方とゆーか記述があるので、ちょいとこれを先に紹介しておきます。

リンチ作品の製作過程の根底にあるのは、リンチが言うところの「act and react」であるとOlson氏は述べます。リンチが画家を目指していたころに「絵画」におけるパラダイム・シフト……つまり、伝統的な「現実の説話的な描写(narrative representation of reality)」が棄却されて、「自由な抽象表現(freedom abstraction)」や「アクション・ペインティング(action painting)」なんやかへのシフトがあって、リンチはその洗礼を受けているとOlson氏は指摘します。でもって、そういうまず「絵画」において採用された「何が正解でバランスがとれているかを判断するにあたって、その瞬間その瞬間の感覚にしたがう」といった手法をリンチは映画作品にも持ち込んでいて、「絵筆をふるうように映像や音響を使ってムードや感情の高まりを描き、それを時間経過とともに変化するよう構成する」ってなことをやっている、と。んで、その結果として、「(リンチの作品は)我々が大多数の映画を観る際に慣れ親しんでいるような、安定し理路整然とした可読性を欠いている(lack the stable, orderly readablility of most of what we are accustomed to seeing on the screen)」ちゅうこってす。でも、一見「予測不能で、安定を欠き、混沌としている(unpredictable, unstable, and chaotic)」ようにみえるリンチ作品てーのは、「時として言葉では表せないような感覚的-感情的な意味を伝える動的な過程のなかで、相互的に作用する諸要素によって出来上がったものである(they are composed of elements interacting in a dynamic process that conveys often sublingual sensory-emotional meanings)」とOlson氏は述べます。

まあ、ぶっちゃけたハナシ、大山崎がしつこく言及しているリンチ作品における「イメージの連鎖」ちゅうのは、Olson氏の見解をちょっと別な角度から、非常に雑駁に述べたものと捉えていただいてかまわねーかなと思います。リンチ作品が登場人物の「感情」をキーにして理解できること、リンチ独自の感覚に基づいた「抽象的概念の結節=イメージの連鎖」によって成立していること、そしてリンチの映像作品と絵画作品は手法として共通していること等について、氏は指摘しているわけです。「予測不能で、安定を欠き、混沌としている」ってーと、まるで「統合失調症患者の妄想」みたいですが、決してそーではないとゆーことですね(笑)。

んでもって、「アルファベット(Alphabet)」(1968)に関して。

ちょっと「Beautiful Dark」内での記述とは前後関係が入れ違うんですが、Olson氏はこの作品がリンチが「映像のみ」で表現することに軸足を移した最初の作品であることを指摘しています。つまり、ご存知のように、「嘔吐を催す六人の男」が、リンチの頭部を原型とした「彫像」がスクリーンに貼り付けられているといういわゆる「インスタレーション」のジャンルに属する作品であったのに対し、「アルファベット」はそうした(いわば)ギミックを排した「映像一本」での表現を目指しているということです。リンチの画家から映像作家への軸足のシフトは、この作品において決定的に行われた……ということですね。とはいえ「アルファベット」を作ったときには、リンチは映像製作に関する教育などまったく受けてなかったので、ま、見よう見真似とゆーか、この作品にみられる映像文法は、自分が観たことのある数少ない映画作品から本能的にリンチが学び取ったものであると、Olson氏は述べています。

この作品が、当時のリンチの妻だったペギーの姪の「悪夢」をもとにして作られたことはよく知られた事実でありますが、Olson氏はそこに「強制的な教育に対する恐怖」というテーマを読み取ります。特に、この作品に明瞭に現れているように、「言語」を強制的に「習得」させられることに対する「恐怖」ですね。そして、リンチが「言語習得」に対して抱く「恐怖」の根底に、氏は「言語習得前の子供が抱く自由な発想や概念が、言語によって整理/体系化されることによって制限を受け、無味乾燥なものになってしまうことへの精神的苦痛」を読み取ります。リンチにとって、そのような「制限」はそのまま創作の障害につながるものであり、その姿勢は現在に至るまで変わっていない、と氏は指摘します。リンチが自作について語ることを頑なに拒否するのは、まさにそうした「制限」に対する恐怖からであるわけっスね。

そして、この作品もやはり「表現主義的」な手法に基づいていることが指摘されます。この作品でいえば、「外面」として現れているのはペギー・リンチによって演じられている「少女」の実写映像であり、「内面」として現れているのは「キュビズム的な手法によって描かれた頭部」などを描くアニメーション映像であると氏は述べます。つまり、アニメーション部分で提示されているのは、少女の「内面」で発生している「事象」であるということですね。「キュビズムの頭部」に「A」やら「B」やらのアルファベットがぶち込まれ、この「頭部」はうげーと喘ぐわけですが、それに続いて実写映像のほうでも「少女」がうげーと喘ぎます。「頭部」がでんでろりんと血を吐くと、「少女」もでんでろりんと血を吐きます。つまりこの両者は連動していて最終的には「内面」と「外面」の境界が消失してしまうわけですが、こーゆー「内面の外界化」という表現を、リンチは「インランド・エンパイア」の”「スミシーの家」の実体化”に至るまでずーっとやっているということですね。そもそも、「アルファベット」の冒頭で提示される「少女がベッドで寝ているショット」そのものに、Olson氏はその後のリンチ作品が提示する「夢と現実の混同(interpenetration of dream state and waking reality)」の初期形を見て取っております。となると、「マルホランド・ドライブ」の冒頭で提示される”枕に向かって進む「視点」”の映像は、この「ベッドに横たわる少女」のヴァリーエションといえなくもないかも……と大山崎は思ったことでした。

で、AFI(American Film Insititute)が有望な映像作家の卵に作品制作費を提供していることを知ったリンチは、この「アルファベット」を提出するとともに、「グランドマザー」の脚本で応募します。リンチは他にもっと有望な候補者がいることを知っており、自分が選ばれるとはあんまり考えてなかったみたいですが、みごとに製作資金を獲得します。その当時、審査にあたっていたGeorge Stevens Jr.氏は、「応募された作品をカテゴリーごとの山に集めていたのだが、その作業が終わったとき、ひとつだけどの山にも属さない作品が残っていた……それが『アルファベット』だった」と証言しています。いやまあ、確かに、どのよーに分類してよいか困る作品であるかもしれません。

ってなことで、次回は「グランドマザー」(1970)製作の前後のことなどについて、です。

2008年11月 6日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (11)

海の向こうは「チェーンジ!」な感じで大騒ぎですが、「チェーンジ!」つったらオジサンたちはつい「キカイダー」とか連想してしまうのですけど、まあ、キカイダーをイラクに連れて行ったら、彼の「良心回路」はナニをどのよーに判断するか、非常に興味深いところではあります。

ってなことはさておき、引き続き、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」なんかだったりして。今回は(0:12:25)から(0:18:44)までを追いかけてみることにする。

このシークエンスは、以下のように大きく三つのパートに分割される。

パート1 (0:12:25)-(0:16:52)
パート2 (0:16:52)-(0:18:04)
パート3 (0:18:04)-(0:18:44)

基本的にこれらのシークエンスで提示されるのは、フレッドの家の内部、それも「ベッド・ルーム」において発生している事象である。このベッド・ルームが「フレッドの内面」におけるもっとも「プライヴェート」な場所であると同時に、「レネエ殺害」という「よくないこと」が起きた場所であること……つまり、「ロスト・ハイウェイ」の「核心」であることを念頭において、この一連のシークエンスで発生している「事象」は理解されるべきだろう。

なにはともあれ、まずパート1の具体的映像からみてみよう。

フレッドの家 ベッド・ルーム 内部 (0:12:25)
(フェイド・イン)
(1)赤いカーテン。それに近づいていくショット。クロース・アップになった後、カーテンに沿って右に早いスピードで移動していく視点。
(ディゾルヴ)
(2)
フレッドのアップ。半ば口を上げ、呆然とした表情でベッドの上に横たわっている。目だけを右に向けるフレッド。
(3)ミドル・ショット。左へのチルト・ショット。「ルナ・ラウンジ」のステージでサックスを吹き鳴らしているフレッド。彼は右端に位置し、左には闇とスポット・ライトの白い光が見える。フレッドの背後には赤い照明が、手前にはマイク用のブーム・スタンドが見える。しかし、無音である。
(4)フレッドのアップ。呆然としたまま、目を正面に向ける。
(5)ミドル・ショット。ステージにいるフレッドの主観ショット。「ルナ・ラウンジ」の客席。観客のなかを左手に向かうレネエとアンディのバスト・ショット。ちらりと背後のアンディを振り返ったあと、左手の方に姿を消すレネエ。立ち止まってフレッドの方を見るアンディ。
(6)フレッドのアップ。呆然としたまま、左の方を見ている。
(7)フレッドのアップ。「ルナ・ラウンジ」のステージ。サックスを激しく吹き鳴らすフレッド。彼は右端に位置し、左には闇とスポット・ライトの白い光がアウト・フォーカスで見えている。しかし、無音である。
(8)ミドル・ショット。ステージにいるフレッドの主観ショット。「ルナ・ラウンジ」の客席。フレッドの方を見ているアンディ。やがてレネエを追って左の方に歩き始め、そのまま出口に姿を消す。上方にパン。赤く光る「EXIT」のサイン。
(9)フレッドのアップ。呆然としたまま、自分の斜め右の方を見ている。物音を聞きつけ、頭を上げて右の方を振り返るフレッド。

カット(1)で現れるのは、リンチ作品における定番モチーフのひとつである「赤いカーテン」である。この「赤いカーテン」はこの後も何度か現れ、そのたびに我々=受容者の「視点」は「ベッド・ルーム」の内部へと誘われることになる。いわば、核心となる「事件」が起きた場所に我々=受容者を誘うキーとなるのがこの「赤いカーテン」であり、前述した「ロスト・ハイウェイ」における「ベッド・ルーム」の「特殊性」を繰り返し強調する機能を果たしているわけだ。と同時に、このカーテンは「ロスト・ハイウェイ」に散見される「赤のモチーフ」のひとつでもある。この作品において明瞭に「赤のモチーフ」の出現するのは、たとえば(0:07:39)における「自宅に電話をかけるフレッド」のショット、あるいは(1:47:22)で「ピートが覗き見る『ロスト・ハイウェイ・ホテル』の一室」などであるが、このどちらもが「フレッドの感情の反映」として現れていることは明らかだ。つまり、「ロスト・ハイウェイ」における「赤のモチーフ」は「炎のモチーフ」と同様、フレッドの「強い感情」を表すものとして登場しているとみるのが妥当であり、例として挙げた二つの「赤のモチーフ」は、その「共通性」を糊代にこの「赤いカーテン」に結び付けられ、ひいては「ベッド・ルーム」の内部で発生する「事象」の「心的要因の説明」として機能しているといえる。

この「赤いカーテン」に続いてディゾルヴで提示されるのが、ベッドに横たわるフレッドである。それとクロス・カッティングで「ルナ・ラウンジ」の内部の映像がカット(3)(5)(7)(8)と提示されるが、この一連のショットが、そのとき「フレッドが想起しているもの」……いわばフレッドが「幻視しているもの」を表象しているのは明白である。そのことは、このカット(3)(5)(7)(8)の「ルナ・ラウンジ」のショットが「無音」であることによっても明示されているといえるだろう。「ロスト・ハイウェイ」のその他の映像と同じく、例によってこの「ルナ・ラウンジ」内部の「映像」群が、実際に「(作品内)現実」において発生した「事実」であるかどうかは定かではない。むしろ、フレッドによる「サックスの演奏」が彼の「感情の表出」であり、「表現主義的」な手法に基づくものであったことの延長線上に捉えるなら、カット(3)(5)(7)(8)の「映像」もフレッドがレネエに対して抱いていた「感情」に基づく「幻想=捏造された記憶」であり、彼の「感情」を表す「抽象的イメージ」として捉えておいたほうが確実だろう。その意味で、この「他の男と一緒にいるレネエに向かって、自らの激しい感情を表出するフレッド」は、たとえば「ミスター・エディによる峠の山道での交通道徳講座」(1:02:57)と同じく、何らかの「抽象概念」の図式化……このシークエンスについていえば、「フレッドのレネエに対する疑惑や猜疑心」の「図式化」である。

(10)ミドル・ショット。ベッドにいるフレッドの主観ショット。ベッド・ルームからバス・ルームに続く入り口の前に立っているレネエ。画面中央下には、円筒形の傘をした電気スタンドが光を投げかけている。その光に照らされながら、黒いローブを脱ぐレネエ。彼女の裸身が光の中に浮かび上がる。右手で髪をかきあげるレネエ。
(11)フレッドのアップ。呆然とレネエの方を見ている。
(12)
ミドル・ショット。ベッドにいるフレッドの主観ショット。バス・ルームの闇の中に姿を消すレネエ。
(13)フレッドのアップ。目をしばたたかせ、何かを思い出そうとするかのように首を振り、目を上方に向ける。彼の顔にかかる影。
(14)ミドル・ショット。上方からのショット。ベッドの右側に横たわるフレッドと、その左側に入ったばかりのレネエ。二人とも裸身である。レネエは上掛けを直している。レネエの左側の小さなテーブルの上には、灰皿と写真立てが見える。
(15)レネエのアップ。目をつぶり枕の上で頭の位置を決めながら、やがて右を向き、フレッドを見る。
(16)フレッドのアップ。眩しいものを見るようにまばたきするフレッド。
(17)レネエのアップ。フレッドを見つめている。
(18)フレッドのアップ。レネエを見つめたまま、彼女の方に身を寄せるフレッド。左に移動するショット。フレッドとレネエのツー・ショットになる。目を閉じ口づけを交わす二人。
(19)ベッドの左側下方からのショット。目を閉じたまま、レネエの上に体を重ねるフレッドのアップ。レネエに顔を寄せていく。
(20)ベッドの上方からのアップ。接吻を交わすレネエとフレッド。レネエは右腕を上方に投げ出し、フレッドの左手はレネエの頭を抱いている。やがてレネエの左手がフレッドの顎に伸び、それを支えて接吻を続ける。接吻を続けながら、レネエに体を重ねるフレッド。フレッドの左手は、投げ出されたネレエの右手の脇あたりに添えられている。レネエの上で体をよじるフレッド。レネエの右肘あたりに添えられるフレッドの左手。なおも続く接吻。投げ出されていたレネエの右腕が下方に伸びる。レネエの上で体を動かすフレッド。フレッドを見つめているレネエ。
(21)ベッドの左側下方からのショット。レネエの上で体を動かしているフレッドのアップ。
(22)ベッドの上方からのアップ。レネエの上で体を動かしているフレッドの背後からのショット。下からフレッドを見上げているレネエ。
(23)ベッドの左側下方からのショット。目を閉じたまま、レネエの上で体を動かしているフレッドのアップ。やがて目を開いてレネエを見る。
(24)レネエのアップ。目を薄く閉じ、口を半ば開いた恍惚の表情。
(ホワイト・アウト)
(25)フレッドのアップ。ベッドに手をついたフレッドの左からのショット。レネエの左手がフレッドの右肩にかかっている。
(26)レネエのアップ。横たわったレネエの左からのショット。フレッドのベッドについた左腕が見える。動きにあわせて揺れる胸。ゆっくりと降りてくるフレッドの顔。
(27)ベッドの左側下方からのショット。レネエに体を重ねて動いているフレッド。荒い息。ベッドに半ば隠れてはっきりとは見えないが、快感に顔を歪め、やがて達する。目を開けて頭を上げ、また目を閉じてレネエに顔を擦り寄せる。

続いて描かれるのは、「フレッドのレネエに対する一方的な関係」である。二人は性行為を行うが、まったくと言っていいほどレネエの「反応」はない。彼女はフレッドに身を任せるだけであり、彼女から積極的に行為に「参加」する意志がうかがえない。まるで、彼女はそこに存在しないかのようである。特に強くそうした印象を与えるのがカット(19)およびカット(21)の映像で、このアングルではレネエの姿は明瞭でなく、まるでフレッド一人が「行為」を行っているかのようだ。

興味深いのは、後半部のピートとシーラが性行為を行うシークエンス(1:23:38)において、このカット(19)およびカット(21)の映像が「模倣」され「リフレイン」されることである。(1:23:57)からのショットの映像は、このカット(19)およびカット(21)の映像とまったく同じ「構図」がなぞられており、異なっているのは、そこに「いる」のがフレッドとレネエではなくピートとシーラだという点だけだ。この「リフレイン/ヴァリエーション」によって第一義的に表されているものが、フレッドとピートの「等価性」であることはいうまでもないだろう。同時に、それはレネエとシーラの「等価性」をも表しており、ひいてはフレッド=ピートの相手となる女性はすべて「非実在」であること……すなわち「フレッドの幻想の産物」であることを指し示している。そして、それはそのまま、「フレッドの幻想=捏造された記憶」としての「前半部」と「後半部」の「等価性」をも表しているのだ。

もうひとつ、特徴的なのは、カット(24)カット(25)をつなぐカッティングに施されている「ホワイト・アウト」である。「ロスト・ハイウェイ」において、この「ホワイト・アウト」を用いたカッティングは作品全体で四箇所存在する。最初に現れるのが(0:07:24)の「ルナ・ラウンジ」におけるフレッドの演奏が最高潮を迎えるショットの終わりであり、残る二つは(1:46:40)および(1:59:21)の「ロスト・ハイウェイ・ホテル」がらみのショットになる。基本的に、フレッドの「感情」が何らかの頂点に達するときにこのカッティングが使用されていると捉えて間違いないが、詳細は後半部分について述べるときに譲ろう。

(28)フレッドの左側からの背中のアップ。レネエの左手が伸びて、フレッドの右肩の後ろにかかる。
(29)ベッドの下方からのショット。レネエの手を感じて、目を開きはっとするフレッドのアップ。
(30)
フレッドの背後からの背中のアップ。その背中に掛けられた、レネエの左手のアップ。黒いマニキュアをし、薬指には金の結婚指輪が見える。フレッドの背中を一度軽く叩くレネエの左手。
(31)ベッドの下方からのショット。フレッドのアップ。背中を叩かれたのを感じ、左の方を見ながら脅えたような表情を浮かべる。
レネエ:(囁き声で)It's OK.
正面に視線を戻し、レネエを見つめるフレッド。
レネエ:(囁き声で)It's OK.
(32)フレッドの背後からの背中のアップ。その背中に掛けられた、レネエの左手のアップ。
レネエ:(囁き声で)It's OK.
それに合わせて、再度フレッドの背中を軽く叩くレネエの手。
(33)ベッドの下方からのショット。フレッドのアップ。視線を左の方に向け、なおも脅えたような表情をしている。震えるようなため息をつくフレッド。後退していく視点。それに連れて画面から姿を消すフレッド。フレッドの体から離れるレネエの左手。
(34)ベッドの上方からのツー・ショット。フレッドはレネエから体を離し、ベッドの右側にいる。左手を宙に置いたままのレネエ。なおも右の方に体を離していくフレッド。それに合わせて右にパンしていく視点。やがてフレッドを見つめているレネエは画面左に切れる。右手を右目のあたりに当てて仰向けになっていくフレッド。やがて完全に仰向けになったときには、右手は離れて下方に伸ばされる。そのままレネエに背を向けるフレッド。
(35)ベッドの上方からのレネエのアップ。まばたきをしたあと、天井を見つめる。
(36)ベッドの上方からのフレッドのアップ。レネエに背を向け、目を閉じたままだ。
(37)ベッドの上方からのレネエのアップ。天井を見つめ続けている。
(38)ベッドの上方からのフレッドのアップ。仰向けになり、脅えたような表情でレネエの方をうかがっている。再び天井を見上げる。
フレッド: I had a dream last night.

このカット(28)からカット(33)までのシークエンスにおいけるフレッドに関する描写は、にわかには理解しがたいものだ。フレッドの肩を叩くレネエの動作に、彼は過剰なほどの反応を見せるのである……まるで、レネエからの自発的な「接触行為」に驚き脅えているかのように。彼がそのような反応を起こす理由は、これに続くパート2およびパート3のシークエンスで明示される。カット(38)でフレッドが言及する「昨日の夜にみた夢」を、具体的映像として提示するシークエンスである。

(この項、続く)

2008年11月 2日 (日)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (10)

うむー、本気でLinux2号機は電源がパアになったっぽいであるなあ。いったんは通電したものの、ブート・ローダー画面でブチっと電源が落ちやがりました。でもって、それっきりお黙りになられたまんまなんで、きっと電源のコンデンサーあたりが飛んでマス。さすがにテスターで基板を当たる根性はないので、残念ながら機体はあきらめてハード・ディスクのサルベージを行う方向で。

……てなコトをしつつ、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話。第一の「ビデオ・テープ」が届くシークエンスである。今回は(0:09:39)から(0:12:22)までをば。

概論部分で述べたとおり、この「ビデオ・テープ」は「真実の記憶」……つまり、「レネエ殺害」に関するフレッドの「ありのままの記憶」である。当然ながら、この「ありのままの記憶」はフレッドの「忌避の対象」であり、この「忌避感」は「ビデオ・カメラ」およびそれを使って「ありのままに」記録される「ビデオ・テープ」の形に「転化」され「象徴化」される。また、前項で述べたとおり、「前半部」がフレッドの都合のよいように「改竄された記憶」であることを考えるなら、この「ビデオ・テープの到着」もまた、フレッドが抱く「妄想」に対して「現実」が侵食するさまを描いているといえるだろう。

そして、これも概論部分で触れたように、この第一の「ビデオ・テープ」と第二の「ビデオ・テープ」はレネエによって発見され、「家」の中に持ち込まれる。そして、彼女が「存在」している間は、決して「ビデオ・テープ」は「レネエ殺害」の決定的「映像」まで至らない。その「記憶」が完全に蘇生するのは、レネエが「非存在」となった時点でフレッドによって持ち込まれる、三本目の「ビデオ・テープ」まで待たなければならないのだ。

それはともかくとして、興味深いのは、このシークエンスにおいて「ビデオ・テープ」とともに「フレッドの家」に持ち込まれる「もの」である。

(0:09:39)-(0:09:51)
(1)ミドル・ショット。フレッドの家の外観。斜め左から、玄関と黒い手すりの階段を右半分に、階段脇の壁と植木、そして家の壁を左半分に収めるショット。植木の一本は、赤い花をたくさん咲かせている。階段の一番上の断には、配達された新聞が落ちている。玄関のドアが開き、黒いローブを着たレネエが出てくる。腰をかがめて、左手を落ちている新聞に伸ばすレネエ。新聞を取り上げたところで、階段の先に何かを見つける。
(2)レネエの主観ショット。階段の中ほどに落ちているマニラ封筒のアップ。手すりの影が、階段と封筒の上に落ちている。

(0:10:10)-(0:10:18)
ミドル・ショット。階段に立つレネエ。左手に新聞を、右手にマニラ封筒を持っている。新聞とマニラ封筒を一緒にして両手に持ち替えながら右回りに振り返り、階段を上って玄関のドアに姿を消す。それを追って少し上にパン。彼女の背後で閉められるドア。
[ドアが閉まる音]

このように、「ビデオ・テープ」は「新聞」を取りにいったレネエによって「発見」され、ともに彼女によって「家」の「内部」に持ち込まれる。指摘するまでもなく「新聞」は「外部」からの「客観的情報」をもたらすものであり、いわば「ありのままの記録」だ。すなわち、この「新聞」は「ビデオ・テープ」が備える「性格」……”フレッドにとって「忌避」の対象となる「ありのままの記憶」であること”を補完説明するものとして現れており、いわば「ビデオ・テープ」の「付属物(アトリビュート)」として機能しているといえる。また、この「新聞」と「ビデオ・テープ」も、「電話」と同じく「外界からの接触」としてフレッドには「認識」されていることにも留意するべきだろう。

こうして「家の内部」に持ち込まれた第一の「ビデオ・テープ」は、「フレッドの家」の外観を写して終わる。「フレッドの家」が彼の「内面」の象徴であることを考えるなら、この”「映像」を観る行為”自体がフレッドにとって”「自分を客観視」する行為”である。こうした行為が「ありのままの記憶」につながるものである以上、フレッドにとって非常にストレスがかかるものであるはずだ。にもかかわらず、フレッドは「何が録画されているか、観てみよう」とレネエに対して発言し、自分自身で「ビデオ・テープ」をデッキにセットする。この行動をみるかぎりでは、彼は積極的に自らの「記憶」を蘇生させようとしており、一見それを「忌避」したいと思っているはずの彼の意志とは矛盾しているように思える。だが、ここで見落としてはならないのはレネエの態度である。具体的映像を観るかぎりにおいて、「ビデオ・テープ」の中身を観ることに「抵抗感」を示しているのは、むしろ彼女のほうだ。

(0:11:13)-(0:11:41)
(1)フレッド: (沈黙した後、左手をビデオ・テープに伸ばしつつ)Well, see what's on it.
レネエの右手からビデオ・テープを取り、両手に持ってそれを見下ろすフレッド。そのまま左手に歩き出す。それを追って左へパン。戸棚の前まで歩き、画面外でビデオ・テープをデッキにセットするフレッドの背後からのショット。
[テープがデッキにセットされる音]
フレッドはレネエの方を振り返る。そのまま右手の長ソファの方に歩き出すフレッド。それに連れて右へパン。フレッドが画面右に姿を消した後、腕組みをして入り口のところに立っているレネエの姿が映し出される。左に目を向けるレネエ。
(2)ミドル・ショット。長ソファの前に立っているフレッド。左手にいるレネエの方を見ている。
フレッド:(レネエに向かって)Come on.
画面外のテーブルに置かれたリモコンを取りつつ、長ソファの右端に腰をおろすフレッド。
(3)ミドル・ショット。腕を組んだままのレネエ。やがて目を伏せ、腕を組んだまま画面手前、長ソファの方に歩き始める。

「ロスト・ハイウェイ」おける基本的事項として忘れてはならないのは、フレッドの「幻想」(あるいは「捏造された記憶」)のなかでは、さまざまな「事象」がその「幻想/捏造された記憶」を維持する方向に働き、彼の自我を守ろうと機能することである。その意味において、上に引用したシークエンスにおけるレネエの態度は、きわめて的確にフレッドを「保護」するとともに、彼の「感情」を……「ビデオ・テープ」に対する彼の「忌避感」を「代弁」するものであるといえる。

だが、その一方で、どのように巧妙に「記憶」を捏造しようと、「現実」から完全に逃れることが不可能なのは自明のことだ。上述したレネエによる「代行/代弁」の例のように、フレッドは抵抗し自分の「捏造された記憶」を維持しようとするが、フレッドの心のどこか奥深いところで……たとえば「砂漠の小屋」で……「改竄された記憶」が「非現実」であることの「認識」が存在している限り、「ミステリー・マン」はずっとフレッドを問い詰め続け、「現実の侵入」が止まることもない。そして、結果として、フレッドはそれに抵抗できないのだ。このようにして我々は、フレッドが本当は何から「逃れられない」のかを知ることになる……彼は「現実」から逃れられない以上に、自分の「意識」そのものから逃れられないのである。

そう思い至るとき、”フレッドの「遁走」の永続性”を表わすものであった「ロスト・ハイウェイ」の「円環構造」は、また違った文脈からも理解できることに気がつく。すなわち、「ロスト・ハイウェイ」がフレッドの「内面=意識」を描いているかぎりにおいて、それは「円環」のように「閉鎖」され、「外界」に対して開かれることは決してないということの示唆だ。フレッドがいかに「遁走」を企てたとしても、彼が自らの「意識」を保持している以上、その行き先は「彼の内面」にしかない。人間が唯一絶対に逃れられない「もの」があるとしたら、それは「自分自身の意識」に他ならないことをこの「円環構造」は表わしているのだ。

いずれにせよ、フレッドは「ビデオ・テープ」に対して二律背反した立場にあり、彼の「内面」はそれを観たくないという「忌避感」と、それから逃れられないという「諦観」の狭間で揺れ動いている。フレッドとレネエがみせる「ビデオ・テープ」に対する「態度の落差」から理解できるのは、そうした二つの「感情」に引き裂かれるフレッドの「意識」だ。そして、この前半部の「捏造された記憶」と同じように後半部のピートを核にした「幻想」も「現実の侵入」を受けることから理解されるのは、実はどちらのパートで発生する「事象」も、すべて「フレッドの内面」における「意識の流れ」に基づいているということだ。それを「捏造された記憶」と呼ぼうが「幻想」と呼ぼうが、本質的な意味においてまったく差異はない。どちらにせよ彼の「内面」においてしか存在し得ないという点において、前半部と後半部はまったく「同質」のものであることが、この両者において発生する「現実の侵入」という「事象」によって明示されているのである。

フレッドの「代行者/代弁者」としてのレネエは、「ビデオ・テープ」を見終わった後も機能する。彼女の「きっと、不動産屋からだわ(Must be from real estate agent)」という発言は、問題の核心を暴くことなく終わった「ビデオ・テープ」に対するフレッドの「安堵感」の「代弁」以外のなにものでもない……もちろん、この後も「現実の侵入」は繰り返され、この「安堵」も長くは続かないのだが。

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