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2008年11月30日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (5)

うええ。なんだかなんだでなかなか読み進まないGreg Olson著のデイヴィッド・リンチ伝記本「Beautiful Dark」でありますが。今回は、お約束どおり「グランドマザー(The Grandmother)」(1970)製作の前後あたりをば、Olson氏の作品分析を中心に。

AFI(American Film Insititute)から製作資金を得たリンチは、さっそく「グランドマザー」の製作に取りかかります。途中、AFIから追加資金を受けるなど「なんやかんや」しながら完成したこの作品にも、やはりリンチ作品の共通テーマ……「家族間のトラブル」あるいは「何かよくないことが起きる可能性のある場所」としての「家族の住む家」が現れていることをOlson氏は指摘します。

この作品に表れる「家庭内のトラブル」は、「厳格かつ野卑で暴力的な父親」と「父親から迫害を受ける息子」という形で現れます。少年はそれから逃れるために「祖母」を種から育てます。彼は祖母に甘え、祖母は彼に愛情を注ぐと同時に過酷な環境から逃れる「種」を彼に受け付けます。「祖母」は死んでしまうわけですが、少年のなかに受け付けられた「種」は育ち続け、彼を忌避すべき環境から解放することになる……というような「厳格な両親/慈しむ祖母」というテーマを、著者のGreg Olson氏は「グランドマザー」から読み取ります。

同時に、この作品に登場する「厳格かつ野卑で暴力的な父親」は、後のリンチ作品に表れる「野獣のようなキャラクターの原型」として捉えられるとOlson氏は述べます。たとえば「ブルーベルベット」のフランク・ブースや「ツインピークス」のキラー・ボブのような「存在」の「原型」でありますね。Olson氏によれば、こうした「野獣的なキャラクター」も、リンチ作品に頻繁に現れる共通モチーフのひとつとして理解されることになります。つまり、キラー・ボブの例に顕著なように、これも”何か他の存在が、自分の「内面」に侵入することへの恐怖”であり、”「無秩序で混沌とした外界」が「内面」を脅かすことへの不安”に基づいているということであります。「グランドマザー」に話を戻すと、「少年」の抱く「恐怖」というのは、自分も父親のような「野獣」になってしまうことである……というのがOlson氏の分析であります。

Olson氏はこのような「恐怖」を抱く「少年」に、リンチの「自己投影」をみます。当然ながら「外界からの侵入」をもっとも怖れているのはリンチ自身であるわけで、であるからこそ共通モチーフとして様々な作品に現れることになるとゆー機序でございます。と同時に、少年が地面から生まれたことに驚く「両親」のキャラクターのほうにも、長女ジェニファーの誕生に驚き慄いたリンチの「自己投影」がなされているとOlson氏は喝破します。で、この作品の「両親」に対するリンチの「自己投影」は、続く「イレイザーヘッド」でも継承され、テーマとして発展していくわけですね。このあたりは、たとえば「ロスト・ハイウェイ」でピートがフレッドの「代弁者/代行者」であるのと同じような意味で、リンチ作品の諸登場人物はリンチ自身の「代弁者/代行者」として機能しているとみなされること……つまりは、リンチ作品が非常に「リンチの私的なもの」の投影であることの指摘として捉えてヨロシいんじゃないか……と大山崎は考えましたことでした。

ちらっと前段で書きましたけど、この作品の「少年」も「両親」も「地面の中から生まれてくる」んであります。「祖母」のほうも「種」から生まれてくることに表されているように、「土」の中から生まれてきます。Olson氏は、そこに毎度お馴染み「表層の下にあるもの(beneath the surface)」 のモチーフを見いだしています。これは、後に述べる「区分けの消滅」というこの作品の特徴とも関連しているわけですが。

次いで、「学ぶ」ということをキーにして、Olson氏は「アルファベット」と「グランドマザー」を「対比」させ、その「差異」を述べます。「アルファベット」では「強制的に学ばされることのへの嫌悪」が描かれているのに対し、「グランドマザー」では「知識を獲得することの喜びと価値」が描かれているということですね。つまり、「アルファベット」におけるアルファベットの文字によって表されている「知識」は、少女=子供にとって”敵対的な大人の世界から見下ろされつつ、無理矢理「注入」されるもの”であったわけですが、逆に「グランドマザー」の少年は、”両親が属する野卑で暴力的な階下から、自分で階段を上って「直感と愛情」そして「世界とのつながり」という「人生教育」を受けに行く”というのがOlson氏による両作品の比較です。大山崎の私見ですが、”「すでに体系化された規則」に従った「知識」”と”「体系化されていない」感覚的な「経験則」”の違いが、リンチ作品において「ネガティヴに扱われるか/ポジティヴに扱われるか」の差異になっているんですかね? あるいはその「獲得」が、結果として「受動的であるか/能動的であるか」の違いにあるのかもしれません。「受動的」である場合は、これはいいかえれば”「外界」からの「侵入」への恐怖”としても理解可能なような。

Olson氏の指摘のなかで大山崎がもっとも面白いと感じたのは、この「グランドマザー」においては、「アルファベット」でみられたような「実写部分」と「アニメーション部分」の区分けというのが消滅しているという点でした。前回にも述べたように、「アルファベット」では「実写=現実の少女」というフレームと「アニメ=少女の内面」という「区分け」が(最終的には消滅するとしても)まず存在しているわけですが、「グランドマザー」ではそもそもそうした「外面/内面」の区分け自体が存在しないとOlson氏は述べます。「アニメ部分」が減少して「実写部分」が増えているという映像的比率の違いはさておき、それとも関係なく本質的なところで、少年や両親や祖母の「実写部分」と、たとえば両親や少年が地面の中から生まれるといった「アニメ部分」が完全に等価なものとして地続きに扱われている、ということですね。Olsoin氏が言うように、「イレイザーヘッド」や「ロスト・ハイウェイ」などをみても、こうした「区分けの消滅」はその後のリンチ作品の明確な特徴になるわけですが、実際問題としてこれ以降、「Dumb Land」などの例外を除いて、リンチは基本的に映像作品を「実写」でのみ製作するようになったのも事実です。このような理由で、この作品をOlson氏は”「時間経過とともに変化する絵」を作っていた「画家」としてのリンチ”と”「映画」というメディアを意識した「映像作家」としてのリンチ”の「明確な分岐点」として位置づけています。

ところで、こうした「区分けの消滅」は、「グランドマザー」に関してリンチ自身が述べた短いキャッチ・フレーズに端的に表れています。1970年にBellevue Film Festivalでこの作品がコンペ出品されたときに述べた、「a journey into the mind of lonley boy」っつーのがそれなわけですが、こりゃもう、確かにまんまっちゃあ、まんまです。大山崎としては、「lonley boy」の部分を「despairate husband」に置き換えれば「イレイザーヘッド」や「ロストハイウェイ」になるし、「brokenhearted actress」に置き換えれば「マルホランド・ドライブ」になってしまうよーな気もしますですが、それはそれとして(笑)。この「journey into the mind」というフレーズに関連して、Olson氏はリンチの家にある数少ない書籍のなかに、ウィリアム・ブレイクの詩集が含まれているという事実を指摘しています。「For in the Brain of Man we live」とか「To Me This World is all One continued Vision of Fancy or Imagination」とかいうブレイクのフレーズは、まんまリンチの諸作品にも当てはまるわけですね。

余談として、Olson氏は、リンチは自作についてそれぞれ短いキャッチ・フレーズをつけると指摘します。確かに我々もよく目にする光景ですが、新作の記者会見やインタビューで自作についての「説明」を求められたとき、リンチはそうしたキャッチ・フレーズを繰り返すだけですませてしまいます。たとえば「インランド・エンパイア」の「A woman in trouble」なんつーのも、その典型例であるわけですね。で、それ以上の説明は一切せず、受容者の解釈(ないしは誤読)に任せてしまう……てなことを、リンチは「グランドマザー」の頃からやっていたことになります。こうしたリンチの自作への態度を、Olson氏は皮肉っぽく「戦争中に捕虜になった兵士が、敵軍兵士のどのような尋問に対しても、自分の名前と所属と認識番号しか答えないがごとく」とか評しておりますが、まあ、そのようなことを評論家に言わせたくなるほどリンチの口が堅いとゆーことでありましょーか(笑)。

てなわけで、これで第一章「FEARFULLY AND WONDERFULLY MADE」は読了。リンチは「グランドマザー」を完成させるわけですが、AFIから追加資金を受ける際に、実はリンチはもうひとつのオファーを受けておりました……ロスアンジェルスに来て、AFIに入学しないか、と。このあと、リンチは友人のジャック・フィスクやらアラン・スプレッドたちと一緒にフィラディフィアからロサンゼルスに移り住み、そこで初の長編映画「イレイザーヘッド」を五年かけて製作することになります。そのあたりの話は、次回からとりあげる第二章「FACTORY CHILD」にて……ってことで。

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