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2008年11月 8日 (土)

「Beautiful Dark」を読む (4)

忘れたころにやってくる(笑)、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」の話題であります。

うむむ、電車のなかで読めないと、なかなか読み進みませんなあ。いまだにフィラディルフィア時代をさまよっているワタシ(笑)。なんとか「アルファベット」が作られる前後のところまで読みましたんで、そこらへんまでご紹介。

「アルファベット」に関する記述の紹介と前後して、リンチ作品全体に関するOlson氏の見方とゆーか記述があるので、ちょいとこれを先に紹介しておきます。

リンチ作品の製作過程の根底にあるのは、リンチが言うところの「act and react」であるとOlson氏は述べます。リンチが画家を目指していたころに「絵画」におけるパラダイム・シフト……つまり、伝統的な「現実の説話的な描写(narrative representation of reality)」が棄却されて、「自由な抽象表現(freedom abstraction)」や「アクション・ペインティング(action painting)」なんやかへのシフトがあって、リンチはその洗礼を受けているとOlson氏は指摘します。でもって、そういうまず「絵画」において採用された「何が正解でバランスがとれているかを判断するにあたって、その瞬間その瞬間の感覚にしたがう」といった手法をリンチは映画作品にも持ち込んでいて、「絵筆をふるうように映像や音響を使ってムードや感情の高まりを描き、それを時間経過とともに変化するよう構成する」ってなことをやっている、と。んで、その結果として、「(リンチの作品は)我々が大多数の映画を観る際に慣れ親しんでいるような、安定し理路整然とした可読性を欠いている(lack the stable, orderly readablility of most of what we are accustomed to seeing on the screen)」ちゅうこってす。でも、一見「予測不能で、安定を欠き、混沌としている(unpredictable, unstable, and chaotic)」ようにみえるリンチ作品てーのは、「時として言葉では表せないような感覚的-感情的な意味を伝える動的な過程のなかで、相互的に作用する諸要素によって出来上がったものである(they are composed of elements interacting in a dynamic process that conveys often sublingual sensory-emotional meanings)」とOlson氏は述べます。

まあ、ぶっちゃけたハナシ、大山崎がしつこく言及しているリンチ作品における「イメージの連鎖」ちゅうのは、Olson氏の見解をちょっと別な角度から、非常に雑駁に述べたものと捉えていただいてかまわねーかなと思います。リンチ作品が登場人物の「感情」をキーにして理解できること、リンチ独自の感覚に基づいた「抽象的概念の結節=イメージの連鎖」によって成立していること、そしてリンチの映像作品と絵画作品は手法として共通していること等について、氏は指摘しているわけです。「予測不能で、安定を欠き、混沌としている」ってーと、まるで「統合失調症患者の妄想」みたいですが、決してそーではないとゆーことですね(笑)。

んでもって、「アルファベット(Alphabet)」(1968)に関して。

ちょっと「Beautiful Dark」内での記述とは前後関係が入れ違うんですが、Olson氏はこの作品がリンチが「映像のみ」で表現することに軸足を移した最初の作品であることを指摘しています。つまり、ご存知のように、「嘔吐を催す六人の男」が、リンチの頭部を原型とした「彫像」がスクリーンに貼り付けられているといういわゆる「インスタレーション」のジャンルに属する作品であったのに対し、「アルファベット」はそうした(いわば)ギミックを排した「映像一本」での表現を目指しているということです。リンチの画家から映像作家への軸足のシフトは、この作品において決定的に行われた……ということですね。とはいえ「アルファベット」を作ったときには、リンチは映像製作に関する教育などまったく受けてなかったので、ま、見よう見真似とゆーか、この作品にみられる映像文法は、自分が観たことのある数少ない映画作品から本能的にリンチが学び取ったものであると、Olson氏は述べています。

この作品が、当時のリンチの妻だったペギーの姪の「悪夢」をもとにして作られたことはよく知られた事実でありますが、Olson氏はそこに「強制的な教育に対する恐怖」というテーマを読み取ります。特に、この作品に明瞭に現れているように、「言語」を強制的に「習得」させられることに対する「恐怖」ですね。そして、リンチが「言語習得」に対して抱く「恐怖」の根底に、氏は「言語習得前の子供が抱く自由な発想や概念が、言語によって整理/体系化されることによって制限を受け、無味乾燥なものになってしまうことへの精神的苦痛」を読み取ります。リンチにとって、そのような「制限」はそのまま創作の障害につながるものであり、その姿勢は現在に至るまで変わっていない、と氏は指摘します。リンチが自作について語ることを頑なに拒否するのは、まさにそうした「制限」に対する恐怖からであるわけっスね。

そして、この作品もやはり「表現主義的」な手法に基づいていることが指摘されます。この作品でいえば、「外面」として現れているのはペギー・リンチによって演じられている「少女」の実写映像であり、「内面」として現れているのは「キュビズム的な手法によって描かれた頭部」などを描くアニメーション映像であると氏は述べます。つまり、アニメーション部分で提示されているのは、少女の「内面」で発生している「事象」であるということですね。「キュビズムの頭部」に「A」やら「B」やらのアルファベットがぶち込まれ、この「頭部」はうげーと喘ぐわけですが、それに続いて実写映像のほうでも「少女」がうげーと喘ぎます。「頭部」がでんでろりんと血を吐くと、「少女」もでんでろりんと血を吐きます。つまりこの両者は連動していて最終的には「内面」と「外面」の境界が消失してしまうわけですが、こーゆー「内面の外界化」という表現を、リンチは「インランド・エンパイア」の”「スミシーの家」の実体化”に至るまでずーっとやっているということですね。そもそも、「アルファベット」の冒頭で提示される「少女がベッドで寝ているショット」そのものに、Olson氏はその後のリンチ作品が提示する「夢と現実の混同(interpenetration of dream state and waking reality)」の初期形を見て取っております。となると、「マルホランド・ドライブ」の冒頭で提示される”枕に向かって進む「視点」”の映像は、この「ベッドに横たわる少女」のヴァリーエションといえなくもないかも……と大山崎は思ったことでした。

で、AFI(American Film Insititute)が有望な映像作家の卵に作品制作費を提供していることを知ったリンチは、この「アルファベット」を提出するとともに、「グランドマザー」の脚本で応募します。リンチは他にもっと有望な候補者がいることを知っており、自分が選ばれるとはあんまり考えてなかったみたいですが、みごとに製作資金を獲得します。その当時、審査にあたっていたGeorge Stevens Jr.氏は、「応募された作品をカテゴリーごとの山に集めていたのだが、その作業が終わったとき、ひとつだけどの山にも属さない作品が残っていた……それが『アルファベット』だった」と証言しています。いやまあ、確かに、どのよーに分類してよいか困る作品であるかもしれません。

ってなことで、次回は「グランドマザー」(1970)製作の前後のことなどについて、です。

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