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2008年11月22日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (15)

三連休の間もちまちまと続く「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話なんか。今回は(0:21:56)から(0:22:34)まで。

フレッドの家 リビング・ルーム 内部 (0:21:56)
(1)黒いテーブルの上に置かれた黒い電話機のアップ。受話器は外され、レネエが話をしている。電話機の右には、銀色に鈍く光る金属製の灰皿の、鋭角的な角が見えている。
レネエ: (画面外で)That right. Yes. 
(2)レネエのアップ。右手で受話器を耳に当て、左手を背後のフレッドの方に伸ばす。彼女の右後方に立っているフレッドの姿は画面からほとんど見切れていて、膝の下から腰当たりまでしか見えない。フレッドの右手が背後から伸びてきて、レネエの左手に火の点いた煙草を渡す。煙草を渡したフレッドの右手は、自分の太もものあたりに開いて当てられる。彼女の左背後には、アウト・フォーカスとなった縦長の窓があり、そこから外の木々の緑が見えている。深刻な表情のレネエ。
(3)レネエのクロース・アップ。口紅がひかれた口元あたりのアップ。黒い受話器の一部が見えている。
レネエ:(受話器に向かって)Someone broke in and taped us while we slept! 
(4)黒に白い細めのストライプが入ったパジャマを着ているフレッドのアップ。
レネエ: (画面外で)Isn't that enough?
部屋の中を右へ左へと、レネエを見下ろしながら、心配そうな表情でうろうろしている。それを追って右へ、次に左へパン。
レネエ: 7035 Hollis. 
(5)レネエのクロース・アップ。口紅がひかれた口元あたりのアップ。黒い受話器の一部が見えている。
レネエ: Near the observatory.
レネエの目のあたりまで、上にパン。
レネエ: Yes. 
(6)レネエのアップ。右手で受話器を耳に当て、話をしている。彼女の右背後には、アウト・フォーカス気味に、フレッドの太ももから腰あたりが見えている。彼の体の右半分は画面から見切れている。彼の右手は、新しい煙草を持っている。
レネエ: We'll be here.
レネエは画面外で受話器を置く。レネエの手前を上方に向かって漂う煙草の煙。フレッドの持った煙草からも煙が出ている。
[受話器を置くガチャリという音] 
(7)フレッドのアップ。画面右端の方でうろうろしながら、物問いたげにレネエの方を見下ろしている。一歩レネエに近づくフレッド。
フレッド: (レネエに向かって)So? 
(8)レネエのアップ。フレッドを右上に見上げる。
レネエ: They're sending two detectives out.
煙草の煙が、下方から上方へ、レネエの顔のあたりを漂っている。

「ありのままの記憶」がフレッドの「内面」において蘇生するのに連動して、「現実」は容赦なく彼の「幻想/捏造された記憶」に侵蝕を開始する。「第二のビデオ・テープ」のイメージは、「警察」という直截な「監視/追及」のイメージへと連鎖していく。このシークエンスで提示されているのはこの「連鎖の過程」であり、それがフレッドの「内面」でどのように葛藤を引き起こしつつ発生しているかだ。

言うまでもなく、「ありのままの記憶」がフレッドの「内面」において完全に蘇るということは、彼の「幻想/捏造された記憶」が崩壊することと同義である。当然ながらフレッドはそれに「抵抗」を覚え、葛藤する。その葛藤は、このシークエンスにおけるフレッドとレネエの「態度」の違いに表れている。そもそも、直前のシークエンスの最後で「警察を呼ばなくちゃ(We have to call the police)」と発言するのはレネエであるし、カット(1)であからさまに提示される「電話」を介し、「外界」と主体的/積極的に接触するのも彼女である。フレッドはただそれを見守っているに過ぎない。興味深いのは、「ビデオ・テープ」を観ることについてレネエは消極的であり、むしろフレッドの方が積極的だったのに対し、この「警察」に連絡をとるシークエンスでは両者の「態度」が逆転してしまっていることだ。映像的にも、カット(3)(5)のクロース・アップを含めて彼女の映像が大きな比重を占めており、このシークエンス全体を通じて「支配的映像」となっているのは、明らかにフレッドではなくレネエの方なのである。

表現を変えよう。レネエとの比較において、「警察」に連絡をとることを「積極的に拒否」しているのはフレッドの方なのである。以前にも触れたように、リンチ作品では、往々にして”「主体」となる登場人物の「内面の葛藤」”が、「主体」とその「代行者/代弁者」によって演じられ、本来なら「拒否」の立場であるはずの「主体」が「受諾」の意思を表し、かわりにその「代弁者/代行者」が「拒否」を表明する。たとえば「マルホランド・ドライブ」において、ベティが事故があったかどうか警察に確認することを勧め、リタがそれに難色を示すようにだ(0:47:35)。「ロスト・ハイウェイ」においても、「ビデオ・テープ」を観るシークエンスでは同様の「逆転」した関係がフレッドとレネエの間に認められたわけだが、しかし、では、なぜこのシークエンスではそれが「再逆転」し「本来の立場」に戻るのか?

映像として提示されている現象面からいうなら、このシークエンスのレネエは「主体性」を回復し、フレッドの「コントロール」から「逸脱」している。そもそも(0:05:12)からのシークエンスで「フレッドのライブに行かないと宣言するレネエ」という形で表されているように、フレッドはレネエの行動を統制できていない(と、少なくともフレッドは感じている)。フレッドのこの「感情」こそが彼をして凶行に走らせた根底にあるものであり、「レネエの不倫行為」という彼の「疑念」はこの「感情」と表裏一体であることがうかがえる。彼のこうした「感情」は、(0:12:25)からの「ルナ・ラウンジにおけるレネエとアンディ」の映像や、(0:27:19)からの「アンディの屋敷」のシークエンスにおいて、より端的にエスカレートした形で描かれているといえるだろう。

後半部のシーラの例をみてもわかるように、フレッドが「幻想/捏造された記憶」のなかで求める「女性像」は、彼の意思に従順に従う存在である。だが、当然ながら、「現実のレネエ」は、彼の「理想の女性像」とは乖離したものであったはずだ。レネエに限らず、主体性をもち自意識のある人間存在が、他者の一方的なコントロール下に唯々諾々と置かれるはずがないからである。このシークエンスにおけるレネエは、こうした「ありのままの現実」における彼女の姿を反映しており、フレッドのコントロールから「逸脱」し始めている。つまり、フレッドの「幻想/捏造された記憶」のなかにありながら、彼女は彼の「代弁者/代行者」としての機能を失いつつあるのだ。もちろん、このレネエの「機能変化」は、”「ビデオ・テープ」の到着”や”それが提示する「映像」の進捗”に表わされるように、これはフレッドが「ありのままの記憶」を蘇生させつつあることに連動していると捉えていいはずだ。

ひるがえってリンチ作品全体を見回したとき、そこに現れる「機能しない家族」のテーマの根底には、フレッドが抱えているような「コントロールの問題」の存在……”過剰な「統制」による「一方的な関係」”が見え隠れしているように思われる。たとえば、「ツイン・ピークス」に現れる「機能しない家族像」も、父リーランドによる娘ローラへの「一方的な関係の強制」にある。あるいは「インランド・エンパイア」で繰り返し変奏される「夫と妻の間の諸問題」の多くが「妻に対する夫の一方的な関係の強制」に端を発しており、その「原型」は冒頭の「顔のない男女」によって演じられる「関係性」によって明確に提示されていた。「コントロールされる側」の「内面」からの視点でみたとき、これはGreg Olson氏が「Beautiful Dark」で指摘する”無秩序で混沌とした「外界の脅威」が、「内面」へ侵入することに対する恐怖”の表れとして理解可能であるように思える。

話を戻そう。フレッドがレネエに対する「コントロール」を失い、彼女が「代弁者/代行者」として機能しなくなったということは、フレッドの「内面」における「二律背反」そのものの消失を意味する。彼のために「拒否」を表明してくれる「代弁者」を喪失してしまった「主体=フレッド」は、最終的に自我の保護を優先し、「受諾」を捨てて「本来の立場」である「拒否」を選択するのである。

この”「代弁者/代行者」としての機能”をキーにしてみたとき、カット(2)に現れるフレッドとレネエの「火のついた煙草の受け渡し」のショットは、非常に興味深いものだ。当該シークエンスでも触れたが、開巻直後、他のどの映像よりも先行して「煙草の火」の映像が提示されることに表れているように、この作品では「煙草(の火)」という「プロップ」は、フレッドの「内面」に発生している「感情」を表すものとして重要なものである。その観点に立つならば、「感情=火のついた煙草」がフレッドからレネエに渡されることによって表されるもの自体が、あるいは彼女の「感情の回復」すなわち「主体の回復」であり、「代弁者/代行者」としての「機能喪失」であるといえる。「アリスの姿をしたレネエ」が後半部の「ピートを核にした幻想」を崩壊させるように、前半部においても「レネエの姿をしたレネエ」がフレッドの「捏造された記憶」の欺瞞性を暴き始めるのだ。

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