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2008年10月

2008年10月30日 (木)

「Beautiful Dark」を読む (3)

うははー。Linux2号機が絶不調でございます。使用中にいきなりブチっと電源が落ちやがるの。打ち込み途中の文章がパアじゃねえかよう、ナニ書いてたんだか忘れちゃったよう(笑)。トロいくせに爆熱を出す機体なんで、そのうち電源がイカれるかもなあと思ってたんだけど、そりゃアンマリよ随分ね(笑)。まあ、古い機体だし、シリコン・グリスが硬化してCPUからヒート・シンクへの熱伝導がうまくいかずに熱暴走……ってな可能性もあるんで、一回バラしてグリス塗り直してみよーかな。

実はLinux3号機も先月あたりからなんか挙動がおかしくて、充電池がセットされていると電源が入らないってのは、いったいどーゆー仕儀でありましょーか(笑)。とりあえず、AC電源だけなら動くんで、電池引っこ抜いて運用中。まあ、9000円で買った機械だしあんまり贅沢はいわんが、アンタは確かノートPCのハズじゃなかったのか、その「自己同一性」はないのか(笑)。

ってな具合に、あっちゃこっちゃ脱線しながら、ボチボチと読書進行中(笑)。引き続き、デイヴィッド・リンチの伝記本「Beautiful Dark」のお話。

ちょっと話は戻って、「映像製作」に至るまで画家を志望していたころの「絵画作品」についても、いろいろと興味深い指摘がいくつかありました。

まあ、フツーそーだろーと思うのだけれど、まあ、最初はリンチも写実画から描き始めていて、最終的に抽象画に至るまでにはいろいろな画家の影響を受けたことが、ティーン・エイジのころに描かれた作品からはうかがえるそうな。たとえば、明らかにゴッホの色彩の影響を受けたであろう「自画像」が残っていて、まあ、その、髪に隠れてだかなんだか、左耳がよく見えないように描かれていると(笑)。うむむ、ゴッホの「耳」と「ブルー・ベルベット」の「耳」をつなぐリングってえわけでございますな。

しかし、ハイ・スクールのころになると、すでにキュビズムの手法をとりいれたりしてたりで、写実的な具象画からは逸脱していた様子であります。フランシス・ベーコン作品との出会いは、まあ、有名だからおいとくとして、Olson氏は1950年代の「抽象表現主義」の画家たち、とりわけフランツ・クラインからの影響を指摘していますが、えーと、クラインの絵っちゅうと、たとえばこんな感じ。

Kline03

いやもう、こりゃまたみごとに真っ暗けっつーか、モノトーンっつーか、白黒ってゆーか、リンチの一連のドローイングみてると、ああた、確かに影響受けまくりに受けてマスったら受けてマス(笑)。

で、「嘔吐を催す六人の男」なんですが、Olson氏はこのリンチの処女映像作品に、その後の様々な映画作品にみられる特徴やモチーフの萌芽をみます。「初期短篇集」のDVDを持ってるヒトは、参照しながら読んでくだせえ(笑)。

まずOlson氏が指摘するのは、分割した画面に映し出される「カウント・ダウン」の「数字」と、「LOOK」という「文字」であります。リンチの「絵画作品」には、こうした「文字」や「数字」が貼り込まれたものが多数あるわけですが、映像処女作品である「嘔吐を催す六人の男」にもそれが現れちょるわけです。「インランド・エンパイア」においても、スー=ニッキーの右手の甲に書かれた「LB/」ってなのがありました。いわゆるひとつの「文字のテクスチャー」ってヤツでございます。

続いて、画面右側に「二人の男」の「映像」が映し出されるわけですが、「一人」ではなく「二人」であるところにOlson氏はその後のリンチ作品に現れる「抽象概念」の基本的提示方法をみてとります。氏は「One and Same」という言い方をしていますが、画面左にあるリンチ自身の顔から型を採った彫像を含めた「六人の男」はすべて「等価」で、全員の「総体」でもって”「人間」の「概念」”という抽象的かつ普遍的なものを表わしているのだということです。要するに「インランド・エンパイア」に現れた、ニッキーやらスーやらロスト・ガールやらの「トラブル=機能しない家族」の「諸例」がすべて「等価」であって、それらの「集合体」が”「機能しない家族」の「抽象概念」”という普遍的なものを表わしている……ってのと、同じことなんでありますな。まあ、こういう「抽象概念」や「普遍/一般」の表し方って、リンチの専売特許ってわけじゃなくて、芸術全般でよく使われる「手口」であるとは思いますけども。

でもって、「嘔吐」というものそのものが”外部からはうかがいしれない「内面」”があからさまにされる行為なわけで、Olson氏の文章を引くなら「リンチの劇場用映画作品は人間精神の深部における働きを暴いているが、この彼の最初の映画では、六人の男たちの肉体的器官の内部を明らさまにすることによって、表層の下に潜むものを白昼のもとに晒したいという衝動を表明している」っつーことです。つまり、この「嘔吐」によって表されるものは”「外面」と「内面」の対比”ひいては”「内面」の「外界化」”であって、いうなれば「ゲロはきわめて表現主義的」なものであるってーことっスね(笑)。しかし、ま、サルトルといい、ジョン・ウォーターズといい(をい)、「ゲロ」が人間の思索や創造に与える影響というのは多大でありますなあ。バブルの頃は終電間際の駅のホームがゲロまみれだったりしましたが、アレは非常に実存主義的かつ表現主義的な時代であったわけですなあ(ホントかよ?)。それはそれとして、リンチが絵画や映像を含めた自分の作品の方向性を、この時点から”「人間の内面」の「視覚化」”に向けて確立していることは明白であって、こうした方向性のもとに「ブルー・ベルベット」の「芝生の下に潜む蟻」とか、「ロスト・ハイウェイ」や「インランド・エンパイア」の「人間の内面の象徴としての家」というようなモノが出てくるわけですね。

もひとつ、この「嘔吐を催す六人の男」はループさせたフィルムによって上映され、リンチがその気になれば延々と何度も映し出されること(DVDでは六回リピートですけど)もOlson氏は指摘しております。氏の表現を借りれば「繰り返し嘔吐に苦しむ人間存在というアイデアが、リンチの頭にあったことは明白だ」ということで、まあ要するに、こうした「嘔吐」(によって表される)行為を「人間」がその生ある限り延々と続けるっつーことをこの「リフレイン」は指し示しているわけです。ぶっちゃけのハナシ、「ロスト・ハイウェイ」の「円環構造」と基本的に同一の発想だといえるでしょう。

サウンド・トラックとして流れる「サイレンの音」は、明らかにその後のリンチ作品の音響の特徴である「インダストリアル・ノイズ」の先駆けであるし、「炎」もやっぱ現れるし、その他モロモロ、リンチ作品を通して現れる共通したモチーフが「嘔吐を催す六人の男」には「テンコ盛り」だとOlson氏は指摘しております。たーしーかーにおっさるとおりで、いやあ、リンチって全然そのころから「ブレがない」んですねー……とゆーお話でした。

2008年10月28日 (火)

高き「Lime Green Box Set」の悩み

Dllimegreen 本日のdugpa.comネタ。

11月18日に発売が迫ったディヴィッド・リンチの新DVDボックス「Lime Green Box Set」についての続報。謎だった「Mystery Disk」の内容が、徐々に明らかになってきました。

こちらのインタビュー記事によると、「Mystery Disk」に収められる映像特典は……

・「ワイルド・アット・ハート」の未公開シーン(32シーン)
・フィラデルフィア時代に作った16mmフィルムの実験フィルム各種
・「Rabbits」のオリジナル・エピソード

……という具合であると、リンチ本人がバラしております(笑)。

「実験フィルム各種」のほうは、60年代からリンチが所蔵していたフット・ロッカーを86年ごろ開けてみたら、あら、まあ、「お宝映像」が……という文字通りの「お蔵出し品」だそうな(笑)。内訳としては、当時の作品である「アルファベット」や「グランドマザー」用に撮影した各種素材、および「アナシン(Anacin)」という薬の「架空コマーシャル・フィルム」なんてのが混じっている様子。「アナシン」って、ナンの薬ですの? ……と思って調べてみたら、要するに主成分がアスピリンとカフェインの「頭痛薬」っつーか「鎮痛薬」なんスね。

にしても、そっかー、「Rabbits」収録されるっすかー。うむむー、$179.99かあ。円高だしなあ。悩むなあ。どーでもいいんですが、「エレファントマン」の特典映像とブックレットについて「いやあ、そんなにレアな内容じゃないよん(Well, it’s not so rare)」とか本人が言っちゃうのは、売り上げ的にみたバヤイ、どーなんですか?(笑)

その他、いままでリンチ作品の北米版DVDにはチャプターを付けるのを拒否していたのに、「インランド・エンパイア」のDVDで初めて付けたのは何故? という質問に対して「最初は作品そのままの形で収録するのがいいと思ってたんだけど、ちょっと考えを変えた。だって、オシッコ行きたくなったりしたら、困っちゃうだろ?」とか答えてるのも、どーなんですか?(笑) いや、別にチャプターがなくても、プレイヤーを一時停止すりゃいいだけの話なんでは……と思ったりもするんだけど、半分冗談なのかなあ(笑)。でも、リンチ、「オーデオ・コメンタリー」だけは死んでもやる気がないよーです。

「インランド・エンパイア」は、最初から、劇場での興行収益よりもDVDで売ることを考えて製作したのではないか? と、割とキツい質問があったりなんかして。おそらくは、低解像度の民生用DVでの撮影を念頭においての質問だと思うのでありますが。それに対してリンチは「決して劇場での公開を副次的に考えているわけではなくて、可能な限り公開規模を広げた。だけど、ブロック・バスター以外の映画作品が劇場公開で収益を上げるのは、どんどん難しくなっている状況である」と答えております。非常に悲しいけど、そーゆー状況であると。

あと、ブルーレイ・ディスクはどーっすか? という質問には、「いや、最終的には配信でしょ?」というご意見らしい。うーむ、公式サイトの更新が止まっているという話題が、向こうのリンチ・ファンの間では取り沙汰されたりしてたんだけど、うーむ、どーなるんですかね。

あ、残念ながら、今のところ次回作の具体的な予定とかはないみたい。現在、せっせと絵を描く日々のよーであります。

2008年10月27日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (9)

ぜいぜい、なんか風邪気味ながら「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(0:05:12)から(0:09:39)まで。

上に挙げたタイム・チャート内の映像は、大きく分けて三つのシークエンスに分割される。具体的にいうなら、(1)(0:05:12)から(0:06:52)までの「フレッドの家の内部」におけるシークエンス、(2)(0:06:52)から(0:08:33)までの「ルナ・ラウンジ」を中心にしたシークエンス、(3)(0:08:33)から(0:09:39)までの再度「フレッドの家の内部」のシークエンスである。

前項で挙げた(0:02:48)から(0:05:12)までのシークエンスに続き、これらのシークエンス群においても作品全体についての「状況説明(エスタブリッシユメント)」が継続して提示される。まず簡潔に説明されるのが、「ミュージシャンというフレッドの職業」、「レネエという登場人物」「フレッドとレネエが夫婦関係にあること」といった「具体的事実」である。ある意味で、これらの事項の説明に関しては、もし「ロスト・ハイウェイ」がナラティヴな作品であったとしても大きく変わらないだろう。だが、それと平行して、これらのシークエンス群は、「フレッドとレネエの関係」……二人の間で発生している、どちらかといえば「内的な関係」をも描き始める。より特定していうならば、それは「フレッドが抱えている問題」の反映であり、前半部における「レネエ」の「存在(あるいは非存在)」に関する示唆を含むものだ。

たとえば、「今夜はフレッドのライブには行かない」とレネエが告げた後、彼女とフレッドとの間で交わされる会話である(0:06:12)。

フレッド: Read?... Read what, Renee?
笑いを浮かべ、フレッドの方を見上げるレネエ。しかし、その笑いはすぐに消える。それを見て、レネエから目を逸らすフレッド。
フレッド: It's nice to know I can still make you laugh.
再びレネエに視線を戻すフレッド。
レネエ: (フレッドを見上げたまま)I like to laugh, Fred.
フレッドは左手をレネエの頭上の壁につき、身を少しかがめてレネエの目をのぞき込む。ゆっくりと二人にクロース・アップしていく視点。
フレッド: That's why I married you.
なおもクロース・アップ。
レネエ: You can wake me up when you get home if you want to.

この会話をストレートに受け取るなら、まず理解できるのは、この二人の間に発生している「緊張関係」だ。一言でいうなら、うまく行っている夫婦が交わす会話ではないということである。そして、これ以降の映像で徐々に明らかにされるように、その「緊張関係」の根底には、フレッドがレネエに対して抱いている「感情」……たとえば「炎」に象徴される「強い感情」がある。では、なぜフレッドはそのような「感情」を抱くようになったのか。それを「説明(エスタブリッシュメント)」するのが、フレッドが「ルナ・ラウンジ」から自宅にいる(はずの)レネエに電話をかけるシークエンスである。

ルナ・ラウンジ 内部 (0:07:39)
(1)ミドル・ショット。赤い光に照らされている公衆電話機。その左には、壁に付けられた小さな棚の上の灰皿。画面左からフレッドが左手で煙草をくわえつつ現れ、公衆電話の前で立ち止まる。右手を公衆電話の上部にかけ、左手で受話器を取る。首を左に傾げて受話器を支えながら、両手で両ポケットの小銭をさぐるフレッド。やがて左手を公衆電話につきつつ、右手で電話機にコインを入れ、そのまま右手の人差し指でダイヤルをプッシュする。今度は右手に持ったライターで煙草に火をつけながら、首で支えていた受話器を左手で持つ。
(2)[電話機のベル]
ミドル・ショット。フレッドの家のリビング・ルーム。白い長ソファが画面左奥にみえる。その前には黒いプラスティックの椅子。低いテーブルの上に置かれた黒い電話機。鳴り続ける電話機にクロース・アップしていく視点。
(3)フレッドの左側からのバスト・ショット。赤い光の中、右手を公衆電話にかけ、受話器を左耳に押しあてて、煙草をくわえたまま呼び出し音に耳を傾けているフレッド。くわえていた煙草を、右手に持ち帰る。
(4)ミドル・ショット。フレッドのスタジオ。右から左にパンしつつ、画面手前に置かれた椅子を越えて前進し、キー・ボードの上に置かれた鳴り続ける電話機に向かってクロース・アップするショット。キー・ボードの左には、スタンドに立て掛けられたサックスが見える。
(5)フレッドのアップ。赤い光の中、左手で持った受話器を耳におしあて、呼び出し音が鳴り続けるのを聞いている。
(6)ミドル・ショット。ベッド・ルームの内部。左から右へパンし前に移動しつつ、黒いカバーが掛けられたベッドの横に回り込み、床の上に置かれた鳴り続ける電話機へクロース・アップする低い視点のショット。
(7)フレッドのアップ。赤い光の中、口を半ば開き、歪んだ表情で誰も出ない呼び出し音を聞き続けるフレッド。やがてあきらめ、受話器を公衆電話に掛ける。
(ディゾルヴ)

具体的な「映像」に明らかなように、このシークエンスからは「レネエを映した映像」が完全に排除されている。そのため、果たして彼女はすでに眠ってしまっているのか、それともそもそも「家」にいないのか……フレッドと同様、我々=受容者にとってもまるで定かではない。そして、この「不確定性」によって我々が感じる「不安」や「疑念」こそが、フレッドがレネエに対して抱いている「感情」の根底にあるものに他ならない。我々はこのシークエンスにおいて、フレッドと同じ「不安」と「疑念」を共有し、彼の「内面」と「感情」を「体験」するのである。

ただ、敢えて指摘しておくなら、「(作品内)現実」において、この一連のシークエンスが描いているような「出来事」が実際に発生したかどうかは、我々=受容者には確認するすべがない。確実にいえるのは、このシークエンスで発生している「レネエがライブに来ない」という「事象」(とそれに続く一連の「事象」)そのものが、フレッドのレネエに対する「疑念や感情」の「反映」であるということだけだ。なぜなら、後述するように、この一連のシークエンス……いや、前半部における映像全体が、フレッドの「捏造された記憶」であると捉えられるからだ。

そうした捉え方のキーとなるのが、やはり”「フレッドの内面」を表すものとしての「家」”という概念である。この観点に基づいて(0:07:39)からのシークエンスを観たとき、前述した「レネエの不在」と、そのかわりとでもいうような「電話機=外界からの接触」を強調する映像は、非常に重要な示唆を内包していることになる。つまり、この「フレッドからの電話に出ないレネエ」のイメージによって表されているのは、「家の外部」……すなわち、「外界」という「客観性」を伴った場所からの「接触=電話」に対してレネエが「対応」しない(できない)ということであり、それはレネエが客観的な意味では「非存在=死亡している」だからだと理解されるからだ。レネエの「存在」は、フレッドの「主観=捏造された記憶」によってしか裏付けられない。作中で映像として提示されている「レネエ」(の大部分)はフレッドの「内面」にしか存在せず、その意味では後半部の「アリス」と同様、彼の「幻想」に過ぎないのだ。そしてそのとおり、「外界」から「家=内面」に帰ったフレッドによって、「不在」だったはずのレネエは、ベッドで寝ている姿で「確認」されるのである(0:09:22)。

となれば、(0:06:12)のフレッドとの会話におけるレネエの発言……「家に帰ってきたら、起こしてくれてもかまわない」という言及は、あるいはこうした「作品構造」に関する端的な「説明」でありえるように思えてくる。フレッドが自分の「内面=家」においてレネエを「想起した=起こした」ときにのみ、彼女は「内面=家」に「存在」するのだから。フレッドが「想起」しないものは「家」には存在しないし、存在できない。逆に、フレッドが「想起」したもの、あるいは彼が抱いた「感情」を反映する「事象」は、たとえ現実的にはあり得ないことであったとしても「発生」する……そう、たとえばミステリー・マンが、「アンディの屋敷」と「フレッドの家」の両方に同時に「存在」するように。これはきわめて「表現主義的」な方法論に基づく映像なのである。

付け加えるなら、「表現主義的手法」という観点からみたとき、「ルナ・ラウンジ」でフレッドが演奏する激しいフリー・ジャズの曲(「Red Bats with teath」)は、そのまま彼の「感情の表出」であるといえる。目に見えない「感情」を表すのは、「映像」だけとは限らないのだ。

2008年10月22日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (8)

おっと、忘れてはいけない、「ロスト・ハイウェイ」における「イメージの連鎖」話の続きである(笑)。

オープニングに続いて、本編はマディソン家のベッド・ルームにいるフレッドの映像から始まる。まずは具体的な映像から。

フレッド・マディソンの家 ベッド・ルーム (0:02:48)-(0:05:11)
(フェイド・イン)
(1)闇の中に浮かぶオレンジ色の煙草の火。それに照らされるフレッドの右側からのアップ。彼は左手で煙草を持ち、それを喫っている。煙草を口から離すフレッド。闇の中に、白い煙草とその火だけが見える。やがて明るくなり始める周囲。フレッドのアップが見えるようになってくる。
(2)フレッドの左からのアップ。徐々に明るくなっていく。右手に煙草を持ち、虚ろな表情でやや彼の左の方を見ているフレッド。黒いローブを着ており、髪は少し乱れている。背後には、部屋の壁が見える。ガタンという物音がするのを聞き、半ば口を開け、目を伏せ気味にその方向(彼の左背後の方)を振り返るフレッド。やがて、また目を上げ左手の方を見つめる。また右手の煙草を吸う。
[インターフォンのブザー音]
煙草の煙を吐き出しつつ、インターフォンの方に目をやるフレッド。
(3)フレッドのアップ。右側、やや下方からのショット。左手に半ば灰になった煙草を持っている。
[インターフォンのブザー音]
ブザーの音の方、自分の右手の方を見るフレッド。
(4)茶色い壁に掛かったインターフォンのアップ。フレッドの主観ショット。インターフォンは銀色の金属のプレートで出来ており、上部に四列のスピーカーのスリット、下方に白いプラスティックのボタンが三つ並んでいる。
(5)フレッドのアップ。右側、やや下方からのショット。やがて立ち上がり、右手に煙草を持ったまま画面右手に消えるフレッド。黒色のローブが画面を右のほうに横切る。画面を横切る彼の影。
(6)ミドル・ショット。インターフォンのある壁の前に立つフレッドの右からのショット。画面奥の壁面を照らす光が逆光になって、彼の姿はほとんどシルエットとしてしか見えない。右手にある壁もほとんど闇に沈んでいる。
(7)インターフォンのクロース・アップ。上部にはスピーカーのスリットが見える。その下には白いプラスティックのボタンが三つ並んでいる。左から「TALK」「LISTEN」「DOOR」の浮彫りにされた表示が見える。ボタンの下部には、螺子が二つ見える。「LISTEN」のボタンを押すフレッドの右手の人差し指。
男の声: Dick Laurent is dead.
ボタンから離れるフレッドの指。
(8)ミドル・ショット。インターフォンのある壁の前に立つフレッドの右からのショット。頭を垂れ気味に、インターフォンの前に立つフレッドのシルエット。やがて首を傾げ気味に右(画面手前)の方を見るが、その表情は逆光になっていてうかがえない。首を傾げたまま画面手前に向かって歩き、廊下に出て、闇の中を画面奥に向かって歩くフレッド。その姿はほとんど闇に沈んでおり、左手に白いドアらしきものが見えるだけである。彼が進むに連れて、その後を追うショット。
(9)ミドル・ショット。リビング・ルーム。画面左側の白い壁と、右側の白い壁の間に開いた入り口。画面左手前には、棚らしきものの一部が見える。入り口の向こうは闇であり、そこからフレッドが姿を現す。両側の壁の間を通って、画面左側に歩を進めるフレッド。そこは別の部屋(リビング・ルーム)である。彼が歩くに連れて左へパン。やがて、入り口の正対した壁が視界に入っている。その壁には細長い窓があり、そこから陽光に照らされた家の外の様子が見える。窓に向かって真っすぐ歩き、その前に立つフレッドの背後からのショット。彼の左手の壁の前には、黒いソファの背もたれが見える。窓から外部をうかがうフレッド。
(10)ロング・ショット。フレッドの主観ショット。無人の道路。道路の手前には、家から道路に続く黒い金属製の手すりがついた階段が見える。道路の向こうには木々が見える。少し下方にパン。だが、そこには誰の姿もない。
(11)ミドル・ショット。窓の前に立つフレッドの背後からのショット。やがて彼は、画面左手に向かって歩き始める。その背後を追いかけるショット。ソファや電気スタンドやテレビが置かれた部屋の中を通り抜け、二方に面した広いガラス窓に至るフレッド。窓からは陽光がさしこみ、緑の木々が見える。そこでとどまる視点。画面右手のガラス窓から、外部をうかがうフレッドのロング・ショット。
(12)フレッドのアップ。右側からのショット。窓ガラスに顔をくっつけ、外部をうかがうフレッド。彼の背後には、窓越しに木々がアウト・フォーカスで見える。
(13)ロング・ショット。フレッドの主観ショット。無人の道路。右から下方をなめ、やはり無人の道路を映しつつ、視点は道路とその両側の林を映し出すまで左へとパンする。
(14)フレッドのアップ。右側からのショット。彼は窓の前に立ち、左のほうを見ているため、視点は彼の後頭部を映し出している。やがてフレッドは正面を向き直るが、呆然とした表情だ。
(15)ロング・ショット。家の外部からのショット。窓の前に立って外をうかがっているフレッド。ローブの前ははだけられている。画面の右半分を窓が、左半分を白い家の壁が占めている。左右を見回すフレッド。
(16)ロング・ショット。フレッドの家の外観。二階建ての白い壁の家。左手には、飛び出したガレージと銀色をしたそのシャッターが見える。正面には白い玄関のドアと、そのひさしを支える白い壁が見える。玄関ドアの左三分の一ははめ殺しのガラスがはまった壁だ。玄関へと続く緩やかなカーブの階段があり、それには黒い金属の格子状の手すりがついている。階段の横のスロープは芝生だ。玄関の左手の壁の前には鉢植えが三つ置かれ、右手の壁の前には背の低い木の列がある。玄関の左横の壁には横長の窓がひとつ、右手の壁には縦長の細い窓がひとつ、そのまた右には横長の窓がひとつ見えている。二階部分には縦長の窓が二つ、いちばん右手には広いガラス窓があり、そこをとおして外を見ているフレッドの姿がうかがえる。やがて窓の前を離れるフレッド。
(フェイド・アウト)

まず、カット(1)において、真っ先に目に入ってくるのが、フレッド自身の映像というよりも、彼の吸っている「煙草の火」であることが注意をひく。リンチ作品において「火」のイメージは頻繁に登場し、それが基本的なモチーフであることは、たとえば「ワイルド・アット・ハート」のオープニングや「ツイン・ピークス」における有名なフレーズ「火よ、我とともに歩め」などに表れているが、この「ロスト・ハイウェイ」においても例外ではない。作中で、もっとも明瞭に表れているのが「砂漠の小屋」の映像(0:48:42)(1:50:38)であるのはいうまでもないが、その他にも「フレッドの家の暖炉で燃える火」(0:16:52)や、「ミスター・エディの屋敷の暖炉で燃える火」(1:31:51)といった形で「火のモチーフ」は登場している。そして、「ロスト・ハイウェイ」において、「砂漠の小屋」がフレッドの「意識」の奥深い部分を指し示していること、あるいはそこに「内包」される「炎」がフレッドの「真実の感情=激情=レネエに対する殺意」を表していると考えられることについては、概論部分で触れたとおりだ。

他のどの映像よりも先駆けて本編に現れるこの「煙草の火」を、そうした”「火」によって表象されるもの”の延長線上に捉えるなら、これもまたフレッドの「感情=激情」を表すものとしてみることも可能だろう。ただし、それは、「砂漠の小屋」のショットで観られるような激しいものではない。この時点では、フレッドは「自分がレネエを殺害したこと」を都合よく「忘却」しているとともに、自分の「記憶」を「捏造」しており、その結果として彼の「感情」は沈静しているからだ。

カット(7)のインターフォン越しの「声」の「発声者」が実はフレッド自身であり、それが彼の「裡なる声」であることは(2:08:16)において明らかにされるわけだが、ここではまず、作中で提示される”「外界」からの「フレッドの家の内部」に対する「接触」”が、すべて基本的に「間接的」な形で行われることを指摘しておきたい。この「インターフォン越しの声」もそうだが、「差出人不明のビデオ・テープ」あるいは「電話」によって、この「家」と「外部」はつながれる(あるいは、フレッドのレネエに対する「電話」のように「つながれない」)。唯一の例外が、「レネエの通報」によって、ビデオ・テープの「謎」を探るために来訪する「刑事たち」(0:22:34)である。他の誰でもなく、彼らだけが「フレッドの家」を「直接」来訪し、その内部に足を踏み入れる。それは彼らに付随する「監視/追及」のイメージに直結しており、彼らの「追及の強度」がフレッドの「内面」に侵食していることの表れと受け取っていいだろう。なによりも、フレッドから「ビデオと記憶の関係」についての発言を引き出すのは、この刑事たちなのだから。そしてそれが故に、ピートを核にしたフレッドの「幻想」のなかでは、刑事たちは徹底的に「無力化」され「無害化」されるのだ。

いずれにせよ、こうした「外界からの接触」が「間接性」をもって発生することもまた、フレッドの「内面」の表象として彼の「家」が描かれていることの一端を垣間みせるものである。この「間接性」自体が、フレッドの「意識」の閉塞性を物語っているといえるだろう。

そして、その「外部」からの「接触」に応じて、フレッドはカット(9)-(16)にあるように、「窓」から「外界」を見る。この「外界」を覗く行為そのものが、フレッドが「内面」から「外界」を観照しようとする試みであるのは明らかだ。そこには誰の姿も見えない。実際に映像上の実時間で計測した限りでは、「家の内部のフレッド」が窓に辿り着く前に、「家の外部のフレッド」は刑事たちのセダンに追われ、とうにミスター・エディのベンツで走り去っている。だが、もし「内部のフレッド」が間にあっていたとしたら、彼に「外部のフレッド」の姿が認められただろうか? これは非常に興味深い問題だ。それがフレッド自身の「裡なる声」である以上、フレッドには「発声者」が見えたどうかは、なんともいえないところだ。

だとすればこの「発声者の不在」は、”人間の「認識」”の根本問題に関する言及であると同時に、この作品の基本テーマの明瞭な提示であり得る。フレッドの「主観」では、それは「外界」からの「接触」だと認識した。だが、「客観的」に見た場合、それが正しいかどうか「認識」の主体であるフレッドには答えられない。そして、それはもちろん、フレッドだけに限った話ではないのだ。程度の差こそあれ、フレッドと同じく我々は全員、「外界」を自分なりのやり方で「認識」し、自分の好きなように「記憶」するしかないのだから。

このシークエンスを全体的にみたとき、まず「フレッドの家」の「内部」から始まり、「家」の「外観」の一部を見せつつ、最後にカット(16)で「家」の全景を見せるという構成になっている。基本的に、このシークエンス全体が作品の「舞台説明」や「状況説明」、あるいは「主要登場人物の紹介」の機能を果たしている以上、その短いスパンのなかで説明の順序が「倒置」されていること……通常なら一番初めに提示されるであろう「フレッドの家」の全景の映像が、シークエンスの最後に配置されていること自体はとりたてて問題ではない。だが、この作品がフレッドの「内面」を描いているという認識に立ったとき、この「煙草の火」から「家の外観」へという提示対象の「移行順序」は、非常に面白い。通常なら「極小」から「極大」への移行であるはずのものが、主題的には逆であるからだ。このシークエンスの映像は、まず「フレッドの感情」が作品の主題であることを提示し、その「感情」が「家」の「内部」に存在することを表しつつ、カット(15)および(16)によって「家」と「フレッド」の「同一性」を表象するという「手順」を踏んでいる。いわば、「外的」な説明と、「内的」な説明が、互いに逆方向に同時進行しているのである。

2008年10月21日 (火)

「Beautiful Dark」を読む (2)

のてのてと読み進めるワタシ(笑)。

あ、書き忘れたけれど、基本的にこの本、リンチの子供時代から始まって、「通年史」的にリンチの作品とその時の周辺情報を追うという構成になっております。どっちかっていうと、「研究本」というよりは「伝記」なのね……と思ったら、Dugpa.com管理人のDugpaさんは最初っから「biography」って言ってますわ。大山崎が勝手に思い込んでただけでした、ごめんなさい。

しかし、粗筋紹介して何やら感想めいた文章をくっつけたようなそこらへんの「研究書」に比べても、リンチ作品に関するテーマ分析とかは、むしろこの本のほうが的確だと思います……とりあえず、読んだ範囲では。というか、ここまで真正面からデイヴィッド・リンチを論じている本は、今まで存在しなかったといっていいのではないかと。その実証主義的な姿勢といい、これまでのリンチ本とはまったくレベルが違うと感じました。もし、この本を買おうかどうか迷っているなら、間違いなく「買い」です。

これだけの本をまとめあげるには、大変な時間と労力がかかったであろうことを考えると、著者のOlson氏には頭が下がる思いであります。もちろんクリス・ロドリー氏のインタビュー本という労作はすでにあるわけだけど、この「Beautiful Dark」とインタビュー本をあわせて読むと、「あ、リンチはそーゆーコトを言いたかったのくわー!」と目からウロコなこと、請け合いであります。これから先、デイヴィッド・リンチについて誰が何を言おうと、この本を読んでないヤツのいうコトはあんまり信用せん……と、個人的には決めました(笑)。

で、やっとフィラデルフィアに移り住んで、初の「映像作品」である「吐き気を催す六人の男(Six Men Getting Sick)」(1967)を製作するあたりまで読み進みました。やっと「映像作品」を製作するところまでたどりついたわけでありますが、そもそも「フィラデルフィアは自分にとって重要な地である」というリンチの発言の意味が、遅まきながら、あ、ナルホドと納得できました。フィラデルフィアでリンチが住んでいた周辺がどのようなところで、そこで住んでいたときに何があったかは、たとえばインタビュー集「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」の64ページあたりに書かれているし、発言集の「According to...David Lynch」にもわざわざ「Philadelpha」という一章が設けられているぐらいなわけですが、正直いってボンクラな大山崎は、それらの事件や事項がリンチ作品のテーマにどのような影を落としているか、Olson氏に指摘されるまで気がついてませんでした。

リンチが住んでいた周辺は「黒人少年が道端で頭を撃たれて死ぬ」というようなところで、つまり、前回触れた「無秩序で混沌とした外界」そのものなわけです。で、そこにリンチは妻のペギーや娘のジェニファーと住んでいて、車を盗まれるわ、二回も不法侵入を受けるわってなことが起きて、それって「外界」による「安全で統制された『避難所』」への「侵入」に他ならないということですね。結局、フィラデルフィア時代に起こったことは、最終的にリンチ作品のテーマのひとつである「人間の『内面』を表すものとしての『家』」や、頻繁に現れる「監視/侵入/追及」のモチーフにつながっていく……っていうことです。ある意味、前回の「広所恐怖症」の話といい、非常にわかりやすいハナシであるわけですが、こういう基礎的事項が押さえられているのといないのとでは、リンチ作品に対する理解度もそりゃ違うだろーよ、ってなもんであります。

「吐き気を催す六人の男」についても、いろいろ興味深いOlson氏の指摘があるんですが、それについては次回にでも。

2008年10月19日 (日)

「Beautiful Dark」を読む (1)

Beautifuldark えー、というわけでGreg Olson著のリンチ研究本「Beautiful Dark」がやっと手元に到着したので、ご報告。やっぱ、電車の中で読むには、ちと分厚いし重いな、これ。試しに重さを計ってみたら、1.4Kgっつーことで、ちょっとしたB5サイズのノートPCぐらいの重さ。当然、手に持って読んでると疲れるので、床の上に置いて、絨毯に寝転がって読むのが吉とみた(笑)。というわけで、お家にいるとき限定で読み進めることにします(笑)。

まだ最初の方を何ページかパラパラ読んだだけなのだけど、すでにいろいろと驚く新事実が次々と(笑)。リンチは小さい頃「広所恐怖症」の傾向があり、それは成長してからも続いていたとか、森林調査官だった父親のオフィスの壁に掛けられていた「体系化して並べられた『害虫』の標本」の話とか、非常に興味深かったりする。とりわけ、リンチ家が信奉していた「長老教会派」の教えと(表現主義的な観点からの)リンチ作品の共通性の指摘とかは、ちょっと大半の日本人には不可能なものかもしれません。

子供の頃、「木にたかった赤蟻」をリンチが目撃して……などに代表される「日常に隠された非日常」の話なんかは、すでにあちこちで紹介されていて有名だからおいとくとして、”リンチにとって「外界」は「無秩序で混沌とした脅威」であり、それと「体系化された安全な『待避所』」との関係性が、リンチ作品を押し進めるものである”とするOlson氏の指摘は、かなり頷けるものがあるような気がする。もちろん、リンチにとって、そうした「待避所」の端的なものが「家」であり、あるいは自分の「内面」であるわけでありますな。逆にいうとリンチにとって最大の「脅威」は、「家」や「内面」に「無秩序な外界」が侵入することであって……などなど、先ほど述べた「広所恐怖症」的傾向の話をあわせ、あるいはリンチにとって作品を創ることは、「無秩序な外界」という「害虫」を、「整理し体系化された標本」にすることによって、その「脅威」を「中和」する作業であると思えなくもないわけですが、どんなもんでしょーか。

とまあ、これからボチボチ読み進めるにつれて、他にもいろいろと新事実が明らかにされそうな勢いですが、Olson氏のエライところは(って、大山崎がエラそーですが)、冒頭の6ページぐらいの間に、リンチの手法が「表現主義的なもの」であり、その作品が目に見えない人間の「内面」や「感情」の「視覚化」であることを、きちんと述べていること。こーゆー基礎的なことにちゃんと触れるかどーかは、それはそれで著者の見識の問題だよなあと思ったりするんですが、いかがなもんでしょーか。

てなわけで、折に触れて、ときどきこの本の内容紹介も進めていきたいと思っておりますので……ということで。

2008年10月16日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (7)

うおお。「Beautiful Dark」はまだ届きやがりません。とっとと持ってこいな感じですが、オトナの大山崎はそんなコト言わずに我慢します(笑)。

では、ボチボチ、「ロスト・ハイウェイ」の具体的映像を観ながら、そこに表されている「イメージの連鎖」をさぐっていきたいと思う。先は長いですが、まあ、テキトーに(笑)。

まずは、オープニング・タイトルから。

道路 夜
(1)夜の道路を疾走する自動車の中からのショット。ヘッド・ライトに照らされる黄色い中央線。
オープニング・クレジットが始まる。
[I'm deranged]
--Funny how secrets travel
--I start to believe, if I were to bleed
--Thin sky, the man changed, his hands held fire
--cruise beyond, cruise me, baby
--A blond belief beyond, beyond, beyond
--No reply, no return
--I'm deranged
--Deranged, down, down, down
--And the rain fell down, down
--So cruise me, babe
--Cruise me, babe, beyond
--And the rain sets in
--It's the angel-man, I'm deranged
--Cruise me, cruise me, cruise me, baby

--The cluch of life...

(フェイド・アウト)

何度か触れたように、このオープニング・クレジットに現れる「疾走する自動車の内部から見た夜の道路」は、主人公であるフレッド・マディソンの「精神的遁走」を表すものである。ヘッド・ライトに照らされた道路しか見えない闇を疾走する自動車は、フレッドの先行きのない精神状態の反映であり、そのスピードは彼の「遁走」への願望の激しさを物語るものだ。この映像とともに流れるデビッド・ボウイの「I'm deranged」の歌詞もまた、フレッドの状況を端的に物語っているといえるだろう。

この「夜の道路」の映像はエンド・クレジットにも現れ、ループを形成して作品の「円環構造」を完結させていることに関しても、概論部分で述べたとおりだ。また、作中においても、(0:49:40)(1:50:26)(1:59:09)(2:09:11)に「夜の道路」の映像が提示され、そのときのフレッドが「遁走状態」に陥っていることを指し示している。「遁走」の先はそれぞれ異なっているのだが、詳しくは当該シークエンスについて触れるときに述べよう。

この「夜の道路」の映像が、「ロスト・ハイウェイ」の作中でその他にも映像が引用されている、ロバート・アルドリッチのフィルム・ノワール作品「キッスで殺せ!(Kiss me deadly)」(1955)のオープニングへのオマージュと見る見方もあるようだ。この作品は、冒頭、私立探偵マイク・ハマーが身元不明の少女を拾い上げるシークエンスから始まり、二人の乗る車中から写された「夜の道路」をバックにオープニング・ロールが流れるのである。だが、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(43)の注釈でも軽く触れたように、実は冒頭に「走行する自動車」の映像が現れる映画作品は「キッスで殺せ!」以外にもたくさん存在する。正確な統計が残っているわけではないが、フィルム・ノワール作品に限っても、ハンフリー・ボガートが夜の道路を車で走る映像で始まる「孤独な場所で(In a Lonely Space)」(1950)を筆頭に、走行する自動車の車中からの映像から物語がスタートする作品は何本もある。その他のジャンルまで範囲を広げれば、かなりの数のこれに当てはまる映画作品がピック・アップできるはずだ。もちろん、ハリウッド映画が「車社会」であるアメリカの社会状況を反映していることも間違いないが、アメリカ以外で作られた映画作品……たとえばフリッツ・ラング監督のドイツ時代の作品である「怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺書)(The Testament of Dr.Mabuse)」(1932)などにも「走行する自動車」のモチーフが現れること、あるいは同じくラングのフィルム・ノワール作品「仕組まれた罠(Human Desire)」(1954)が、同様のモチーフを「鉄道」で提示しつつオープニング・ロールの映像としていることなどを考えると、ことはそれほど単純ではないようである。

ひとつ明確に指摘できるのは、映画はその初期段階から「汽車」などの「移動体」をその題材に選んできたことだ。「映画史」の本を読めば必ず触れられているように、リュミエール兄弟の「シオタ駅の列車の到着(Arrivee d'un train a La Cootat, L')」(1896)はその嚆矢である。そして、「走行する列車の内部から見た風景」も黎明期の映画の題材として選択され、「リヨンの移動ショット(Tracking Shot Of Lyon)」(1988)という作品もリュミエール兄弟は残している。加藤幹郎氏の「映画館と観客の文化史」では、1989年ごろ「ファントム・ライド」と呼ばれる「列車等の先頭にカメラを積んで撮影した風景映画」が人気を集めたこと、1905には「振動や風まで再現した、汽車の内部を模した映画館」でこの「ファントム・ライド」の映像が上映される「ヘイルズ・ツアーズ」という「疑似列車旅行体験装置」がアメリカで生まれ、大流行したことが紹介されている(これは、現在も遊園地で人気を博しているいわゆる「ライド系の遊具」につながるものだ)。同著では、「車窓」というフレームに区切られた「移り変わる風景」を見ることが、「スクリーン」というフレームに区切られた「映画」を観る作業と類似していることが指摘されているが、「移動体」……特に「移動体の内部からの光景」と「映像」の親和性の高さの根底にあるのは、そうした「類似性」であるわけだ。

「移動体の内部からの光景」を題材にした映画が、1913年に自動車の大量生産技術が確立されて以降(もしくはそれ以前から)、「列車」だけでなく「自動車」をもその範疇に収めたであろうことは想像に難くない。その後の交通手段の変遷につれ、現在では、むしろ「自動車」を対象にした「移動体の内部からの光景」が発生頻度の点では主流になっているといえるだろう。こうした「移動体の内部からの光景」もまた、映像におけるひとつの「コード」であり、「映画」というメディアがその黎明期から受け継ぐ「常套句」なのである。この「ロスト・ハイウェイ」のオープニング・ショットもまた、上述したような「映画」における「移動体の内部からの光景」の系譜のうえにあることがおわかりいただけただろうか。

「ファントム・ライド」の例をとってもわかるように、「移動体の内部からの光景」と「映画」との「親和性」は、主としてそれが「主観ショット」として提示されることに大きく負っている。受容者は、「カメラの視点」を「自らの視点」とし、「自分の身体」を忘却して「意識だけの存在」*になる。この「ロスト・ハイウェイ」のオープニング・ショットが「主観ショット」として……それも「フレッドの主観視点」として捉えられることは見てのとおりで、つまり、我々=受容者はフレッドと「視線を共有」しつつ「夜の道路」を見ており、この時点ですでに彼の「主観」を「体験」し、彼と「意識」を「共有」しているのである。

*そう考えるとき、「人間の意識」の象徴としての「自動車」が映画作品に現れることも、特に驚くにあたらないように思える。たとえばアッパス・キアロスタミの「桜桃の味」(1997)では、主人公の中年男が乗っている「自動車」は、彼の「意識」あるいは「内面」の象徴として描かれている。彼の「自動車」は彼を「外界から隔絶」し、その「窓」を「外界への接点」とする。「外界」から彼の「心」に「侵入した=車に同乗した」他者たちのある者は彼を拒否し、あるいは彼に拒絶されるが、ある者は受け入れられて主人公を「外界へ=自動車の外へ」と連れ出すのだ。

2008年10月13日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (6)

えーと、「Beautiful Dark」はまだ届いてましぇん。早く読みたいよう……って、クリスマス・プレゼント待ちの小学生低学年状態な感じ(笑)。

さて、続いて、「ロスト・ハイウェイ」はリンチの製作歴のなかでどのような位置づけがなされるのか、その「テーマ」「モチーフ」「表現」の面から、他作品との比較・照合を行いつつみていこう。

「機能しない家族」というテーマの発展
すでに何度か触れたように、「ロスト・ハイウェイ」が内包している最大のテーマは、リンチが自作で繰り返し提示するテーマである「機能しない家族」である。ただし、それは、それまで同一テーマのもとにリンチが提示してきたものとは少し異なっており、いわばそれを発展させたものだといえるだろう。

というのは、この作品で提示されている「機能しない家族」のテーマは、フレッドとレネエという「夫婦間の関係」に発生する/発生した「問題」を「核」としているのに対し、それまでのリンチ作品は基本的に「親と子の関係」の問題を「核」にしていたからだ。たとえば「グランド・マザー」(1970)では、リンチは、厳格な両親に怒られ慰撫を求めて祖母を”育てる”少年を描いている。「イレイザー・ヘッド」(1978)では、メアリーXとヘンリーの「夫婦間の問題」はあるものの、彼女は早々に退場し、やはり作品の中心となるのはヘンリーと「赤ん坊」の関係である。もっとも端的なのが「ブルー・ベルベット」(1986)で、そこでは子供=ジェフリーとフランク=父親およびドロシー=母親の関係が描かれる。この二人の「親」は、ジェフリー自身の「倒れた父親」やサンディの「両親」と重なり融合し、総体としてリンチが考える「父親像/母親像」の概念を提示するのだ。「ワイルド・アット・ハート」(1990)においては、セイラーとルーラの間にマリエッタという「母親の問題」が介入し、そこには「ルーラの父親の死」に関する経緯が関連している。そして当然ながら、「ツイン・ピークス」(1990)の「核」となるのは、ローラ・パーマーとリーランド・パーマーという「親子」の関係性であったことはいうまでもない。

つまり、「ロスト・ハイウェイ」で、初めてリンチは「夫婦間の問題」を「機能しない家族」のテーマの「核」として据えたことになるのだ。そして、この作品に続く「ストレイト・ストーリー」(1999)では「兄弟間の問題」が描かれ、「インランド・エンパイア」(2006)ではより発展して「さまざまな家族間の問題」を列挙することにより、それらの総体を「家庭内のトラブル=機能しない家族」の抽象概念として提示するという手法が採用されることになる。このようにリンチの映画製作歴からみたとき、「機能しない家族」というテーマの扱いに関して、「ロスト・ハイウェイ」がひとつのターニング・ポイントとなったことが理解されるだろう。

「表現主義的手法」への回帰
大きな括りにおける「表現主義的手法」……つまり、”人間の「内面」の映像化”という方法論からリンチの諸作品をみた場合、最初期の「吐き気を催す六人の男」(1967)、「アルファベット」「グランドマザー」「イレイザー・ヘッド」、そして「マルホランド・ドライブ」(2001)、「インランド・エンパイア」などがダイレクトにその範疇に入るといえるだろう。そもそも、リンチは画家としてその芸術におけるキャリアを踏み出しており、現在も続けている画作をみてもわかるように、基本的にその絵画作品は決して写実主義(realism)あるいは印象主義(impressionism)に基づいた具象的なものではない。あくまで表現主義(expressionism)を基調とした抽象絵画である。そう考えれば、リンチが「時間経過とともに変化する絵」を作ろうと映像製作に手を染めたとき、それが表現主義的なものであると同時に抽象的なものとなったのは当然であったといえるし、実際、最初期の作品群はその範疇に入るものだ。その具体的な使われ方はともかく、リンチの手になる作品……絵画、写真、映像を問わない……には、なんらかの形で「表現主義的なアプローチ」が内包されているのが「本来的」と考えてよい。

だが、ひるがえって、リンチの映画作品の製作歴をみたとき、「イレイザー・ヘッド」以降、全面的に表現主義的な手法を用いた作品は、実は「ロスト・ハイウェイ」まで存在しなかったといえる。つまり、「エレファント・マン」(1980)から「ツイン・ピークス 劇場版」(1992)までの作品は、程度の差こそあれ明確なストーリー・ラインを備えており、いわばその「ナラティヴ」のなかにリンチ独特の「表現主義的映像」が断片的に散りばめられる……という構造になっているのだ*。こうした視点からみたとき、「ロスト・ハイウェイ」は、リンチが全面的に「表現主義的な手法」に回帰し、再び「抽象的」かつ「非ナラティヴ」なものへの志向を明確に打ち出した点で、特異な作品であるといえるだろう。言葉をかえれば、それはリンチが「初期の手法」に戻った、あるいはその「本質」に立ち帰ったということでもある。その後リンチは「ストレイト・ストーリー」を挟んで、「マルホランド・ドライブ」「インランド・エンパイア」と、「抽象的かつ表現主義的手法」と「非ナラティヴな表現」への傾向を強めていく。こうした意味でも「ロスト・ハイウェイ」は、リンチにとってターニング・ポイント的な作品になったと捉えられるのだ。

また、前述したように、「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』」あるいは「人間の『内面』の象徴としての『家』」というテーマが、リンチが「エレファントマン」で商業映画監督としてデビューした以降、映像作品において明瞭な形で現れたのも「ロスト・ハイウェイ」が最初であるといっていい。このテーマは、「グランドマザー」(1970)などの初期映像作品にすでに現われ、絵画作品や写真作品にも現れる「基本テーマ」であるが、この作品の音響に関するリンチ自身の言及にもあるように、「フレッドの家」は明確に「フレッドの内面」を表象するものとして提示されている。いうまでもなく、このモチーフは、「インランド・エンパイア」における「ニッキー/スーザン/ロスト・ガールの内面」としての「スミシーの家」という表現につながるものだ。加えて、これらの「家」の内部で発生する「トラブルの原因」が、「ベッド・ルーム」というもっともプライベートな場所に存在するという点においても、「ロスト・ハイウェイ」と「インランド・エンパイア」は明確な「共通性」を備えているといえる。すなわち、フレッドによる「レネエ殺害」は「フレッドの家」のベッド・ルームにおいて行われるのに対し、実体化した「スミシーの家」の内部でスー=ニッキーが目にするのは、そのベッド・ルームに存在する「トラブルの要因」としての「ピオトルケ=夫の抽象概念」なのだ。この「問題発生の核としてのベッド・ルーム」という「共通性」は、リンチが抱く”「人間の内面」を表すものとしての「家」”という概念がどのようなものかを端的に示唆しているといえるだろう。

同様に、「同一のものを同一の演技者が演じる」という表現も、「ロスト・ハイウェイ」においてリンチは採用している。その萌芽は「ツイン・ピークス」におけるシェリル・リーによるローラ・パーマーとマデリン・ファーガソンの二役にあるが、「ロスト・ハイウェイ」においては、「レネエ」をモデルとしてフレッドが創りあげた「幻想」である「アリス」がともにパトリシア・アークエットによって演じられ、この二人の女性の「同一性」を表すための観念的表現として採用された。同様に、「マルホランド・ドライブ」では「ベティ」「ダイアン」をともにナオミ・ワッツが演じ、「カミーラ」「リタ」をともにローラ・ハリングが演じるという形で、それぞれの「同一性」を描くために用いられている。また、「インランド・エンパイア」においては、この「演技者による同一性の表象」は、「登場人物による象徴」の手法と組み合わせられるという発展を遂げている。すなわち、「夫の抽象概念」としての「ピオトルケ」がピーター・J・ルーカスによって演じられ、彼は「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「一般的受容者=ロスト・ガール」すべての「夫」として登場しているのだ。

「マルホランド・ドライブ」との比較
だが、リンチの諸作品のなかでも、もっとも「ロスト・ハイウェイ」に類似した構造と表現を備えているのが「マルホランド・ドライブ」であることは間違いないだろう。前者が「フレッドの内面」を舞台に彼の「幻想」を描いているなら、後者は「ダイアンの内面」を舞台に彼女の「幻想」を描いている点で、この両作品は完全な「相似形」にある。あるいは、広く「幻想=改竄された記憶/外界認識の問題」というテーマを内包している点で、「ロスト・ハイウェイ」と「マルホランド・ドライブ」はまったく同一のテーマを扱っているといえる。

ピートを「核」としたフレッドの「幻想」のなかで、「登場人物の言動」を含めたさまざまな「事象」がフレッドの「代弁者/代行者」であるように、ベティを「核」としたダイアンの「幻想」なかでも、さまざまな「事象」がダンアンの「感情」や「意識」に基づき彼女を「代行」し「代弁」する。もちろん、ダイアンのいちばんの「代弁者/代行者」はベティであるわけだが、「ロスト・ハイウェイ」においてピート以外の登場人物も同様にフレッドを「代弁」し「代行」するように、「マルホランド・ドライブ」ではリタやアダム・ケシャーもまたダイアンを「代弁」し「代行」する。こうした「表現」の点で両作品は完全な「共通点」を備えており、それこそが両作品が「相似形」であるとする所以である。もちろん、このような「代弁者/代行者」といった「表現」の根底には、リンチが採用する「表現主義的な手法」が存在しているのは指摘するまでもない。その意味ではリンチが採用する表現の「本質」はその初期から変わっておらず、たとえば「イレイザー・ヘッド」における「異形の赤ん坊」の姿が、ヘンリーの「赤ん坊」に対する「感情」の反映であることなどと、完全に同根なのだ。

また、「象徴表現」の点でも、両作品は重なる部分が多い。たとえば「ロスト・ハイウェイ」における「フレッドのレネエ殺害に関する記憶」の象徴としての「ビデオ・テープ」と同様のものとして、「マルホランド・ドライブ」においては「ダイアンの(現実に関する)記憶」の象徴としての「ブルー・ボックス」や、あるいは「ブルー・ボックス」を開封する「カーミラとの関係性の終結=幻想の終わり=覚醒」の象徴としての「ブルー・キー」が登場する。こうした「象徴表現」は、もとを正せば「イレイザー・ヘッド」における「消しゴム」が「社会的に有用な消費物/消耗物」の象徴として現れ、ヘンリーの「頭」が「有効に消費されるもの」に利用されるなどといった表現に端を発し、「インランド・エンパイア」における「映画を撮る作業/映画を観る作業」の象徴としての「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」などにつながっていくものだ。しかし、「ロスト・ハイウェイ」の「ビデオ・テープ」と「マルホランド・ドライブ」の「ブルー・ボックス」あるいは「ブルー・キー」は、「人間の内面」における「記憶」や「幻想」そのものを指し示しているという点で、より近しい関係にあるはずだ。

このように「ロスト・ハイウェイ」をリンチの作品史のうえで捉えたとき、その「重要度」が明瞭に浮かび上がってくる。「マルホランド・ドライブ」が明らかにこの作品の延長線上にあることはいうまでもないが、加えて「インランド・エンパイア」では「受容者=登場人物=演技者」の「感情移入=同一化」を題材に、「複数の登場人物による『内面』の共有」という「発展形」が示され、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」での「一人の登場人物の『内面』」からは一歩進んだ「表現」がとられている。リンチのその後の作品を理解するうえで、いや、すべてのリンチ作品に共通する「テーマ」や「表現」を理解するうえで、あるいはリンチの「作家性の本質」を理解するうえで、「ロスト・ハイウェイ」が「重要なキー」となる作品であるのは間違いない。

*映画作品以外では、絵画作品はもとより、「インダストリアル・シンフォニー No.1」などの「表現主義的手法」を全面に押し出した作品が存在する。

2008年10月 9日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (5)

どーするどーなると話題になっていた(いや、正確にいうと、騒いでたのは大山崎だけですが)リンチ研究本「Beautiful Dark」ですけども、無事に米アマゾンから発送通知が届きました。いや、最初ポチったときの到着予定日が11月末から12月上旬だったんで、一時期はどーしたもんかと思ってたんですが、予想より早く入手できそーな感じ。よかったよかった。結果的に日アマゾンで買うより安くなりそーだしな。転んでもタダでは起きんとゆーヤツでしょーか。いや、どー考えてもサブプライムな感じの「株価損失額」には追いつかんのですが(笑)。

……などとつぶやきつつ、前回に引き続き、「ロスト・ハイウェイ」における「表現」のアレコレである。今回のお題は、コレ。

「象徴表現」
次に、「ロスト・ハイウェイ」の随所にみられる「象徴表現」について述べよう。もちろん、こうした「表現」も前項で述べた「表現主義的手法」の枠内にあり、その文脈上に捉えられるものだ。というより、「象徴表現」として捉えられる「映像」のほとんどすべてが、「表現主義的手法」と密接に結びつけられている。

「象徴表現」として捉えられる「映像」はこの作品の随所にみられるが、その重要度において真っ先に挙げておかなければならないのは、「『レネエ殺害』に関するフレッドの記憶」の「象徴」として現れる「ビデオ・テープ」だろう。差出人不明のまま、マニラ封筒に入れられ、フレッド(とレネエ)のもとに届けられる三本の「ビデオ・テープ」である。

この「ビデオ・テープ」が”「フレッドの記憶」の「象徴」”であることを表象する「映像」はいくつもあるが、なによりも明瞭な示唆は、それが「ビデオ・テープ」であること自体である。レネエの通報で「フレッドの家」を訪れた刑事による「家にビデオ・カメラはあるか?」という質問に対して、レネエは「フレッドが嫌いなので、ない(No. Fred hates them)」と「代弁」して答える(0:24:13)。続いて、その理由として、フレッドは「自分が好きなように記憶していたいから(I like to remember things my own way)」と述べる。だが、この二人の言及をパラフレーズするなら、彼が「ビデオ」を嫌いなのはそれが「ありのままを記録するもの」であり、「改竄不能」であるからだ。要するに、フレッドが実際に「忌避」しているのは、「ありのままの記憶」……「自分がレネエを殺害した」という「記憶」なのである。それがゆえに、”「レネエ殺害」に関する「現実の記憶」”は「ビデオ・テープ」の形をとり、「忌避の対象」となる。

このように「レネエ殺害の記憶」は「思い出したくない現実」であるため、当然ながらフレッドはそれが蘇ることに抵抗する。ビデオ・テープが三度にわたって届き、それに記録された「映像」が徐々に「フレッドの家」の「ベッド・ルーム」に侵入していくのは、まさにそのためだ。同時に、ビデオ・テープに記録された映像の「画質」は、「フレッドの「記憶」が非常に曖昧であることを物語っている(当然、それはフレッドが忘れたがっているからだが)。その反映として、最初の二本のビデオ・テープおよび三本目の途中までの「映像」は、「モノクロ」で「ノイズだらけ」である(0:40:47)。しかし、フレッドが自らの「記憶」を甦らせるのに連動して「画質」は向上し、ついに彼が完全に「自分がレネエを殺したこと」を思い出した瞬間、その決定的な「映像」は「鮮明なカラー」として提示されるのだ(0:41:32)。

また、フレッドが「記憶」を蘇らせるに連れて、ビデオ・テープが彼の家に「到着」する経緯が変化するのも見逃せない。最初の二本はレネエによって「家」に持ち込まれるが、最後の一本は彼女ではなくフレッドによって持ち込まれる(階段に置かれているという描写はない)。前述したように、最初の二本は「決定的映像」までは至らないのに対し、三本目のビデオ・テープは「レネエ殺害」の「シーン」を鮮明に映し出す。この変遷のキーとなっているのは、レネエの「在/不在」だ。フレッドが「レネエ殺害の記憶」を欠落させている間は、彼の「内面」おいてレネエは「実在」する。だが、一度「レネエ殺害の記憶」が蘇生し始めたとき、当然ながらすでに死亡している彼女は「不在」のものとなるのだ。「不在」となったレネエがビデオ・テープを受け取れるはずがなく、それはフレッド自身によって「家」に持ち込まれなければならないのである。

前項で「表現主義的手法」について述べた際、フレッドの「代弁者/代行者」が「登場人物」だけとは限らないことに触れた。それと同じように、この作品に「象徴表現」として現れているのは、「ビデオ・テープ」のような「物体」だけではない。「ロスト・ハイウェイ」においては「登場人物」もまた、何か「抽象的な概念」を「象徴」する。その顕著な例が「ミステリー・マン」だ。

この「白塗りの男」は、フレッドの「真実の『感情』や『意識』」の「象徴」として、なによりも「あからさま」にフレッドを「代弁」し、彼を「代行」する。その「真実性」を指し示すものとして、ミステリー・マンは「ビデオ・カメラ」を所持し、「ありのままを記録/記憶する者」として提示される。そもそも「ありのままの記憶」を忌避するフレッドは、それがゆえに「ミステリー・マン」を自分の「自我」から切り離し、「第三者化」せざるを得ないのだ。

ミステリー・マンは、まずフレッドが参加しているアンディのパーティの席上に現れる(0:28:51)。ミステリー・マンがそこに姿を現したのは、アンディといちゃつくレネエを見て、フレッドが激しい「感情」を抱いたからだ。フレッドはその「感情」を抑え否定しようとするが、「真実の心の声」は否定できない。リンチ作品において、”何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』”あるいは”「人間の内面」の表象としての「家」”は繰り返し提示される共通テーマだが、ミステリー・マンがフレッドの「内面の声」である以上、当然ながらこの男はパーティの席上だけでなく、”フレッドの「内面」”としての「フレッドの家」の内部にも同時に存在することになる。間違いなく「この男を招待したのはフレッド自身(You invited me)」であり、「以前にも会ったことがある(We've met before, haven't we?)」ことや、その邂逅の場所が「フレッドの家(At your house)」であったのも、また当然なのである。

話が少し逸れるが、このミステリー・マンが、「炎」のイメージと密接に結び付けられていることは特筆しておくべきだろう。「炎が吸い込まれた『砂漠の小屋』からミステリー・マンが姿を現す映像」(0:48:42)によって提示されているのは、彼とこの「炎」の「同一性」である。この作品において、「炎」はフレッドが抱く「激しい感情」を指し示すものとして表れており、それは有態にいえば「フレッドのレネエに対する殺意」の「象徴」として捉えられるものだ。それもまたフレッドの「内面の声」であることは間違いなく、この「炎」のモチーフ自体も、いろいろな形をとって作中で繰り返し提示されることになる。

ミステリー・マンと同様に、「ミスター・エディ」も”「抽象概念」を表す「象徴」”として理解される。この両者が、まずともに「象徴」であるという点で「等価」であることは、たとえばアンディによる「ディック・ロラントの友人だと思う(He's a friend of Dick Laurent's, I think)」という発言(0:31:54)によっても明らかにされている。あるいは、この二人がピートに電話をかけるシークエンスにおいて、ミスター・エディは明確にミステリー・マンを「自分の友人と話をしてくれ(I want you to talk to a friend of mine)」と言及する(1:39:05)。そもそも彼らが「友人」であるのは、ともに「抽象概念を表す象徴」として「同類」であるからに他ならない。

この「ディック・ロラント=ミスター・エディ」によって「象徴」されるものは、フレッドにとって「現実」あるいは「現実社会」といったものの「複合的イメージ」である。これは、まず、フレッドの「幻想」のなかで、ピートの「仕事場」である「アーニーの自動車修理工場」にミスター・エディが登場すること(1:00:14)によって示唆される。「仕事場」は「社会」あるいは「現実社会」との強力な接点であり、フレッドの「幻想」が「現実」の侵入を受けるポイントとして格好の場所である。それと承知してフレッドが自らの「幻想」にそのような「侵入点」を作ってしまったかどうかは定かではないが、フレッドの「幻想」が「精緻」であればあるほど……つまり「現実」に近ければ近いほど、その「侵入」を許す確率が高まるのは当然のことといえるだろう。

フレッドの「幻想」に侵入した「現実=ミスター・エディ」は、早速そのなんたるかをピート=フレッドに見せ付ける。ミスター・エディは、山道で彼の運転する自動車を追い上げた車のドライバーを「追跡」し、「追求」する。捕まえたドライバーに「交通規則」という「ルール」を文字通り「暴力的」に押し付け、「処罰」する(1:02:57)。これが「レネエ殺し」で「逮捕」され、死刑判決を受けて収監中のフレッドの「現状」そのままの「図式化=イメージ化」であることはいうまでもなく、ミスター・エディに手荒い扱いを受ける無力なドライバーは、間違いなくフレッドの「代弁者/代行者」の一人であるといえる。フレッドにとって「現実」は、ミスター・エディのような「実力者」であり、一方的な「規則」を「暴力的」に押し付けてくる「抗し難い存在」なのだ。

「ロスト・ハイウェイ」では、「場所」あるいは「建物」も「象徴」として登場する。「フレッドの家」を「フレッドの内面」として受け取ることができるのは前述したとおりだが、それ以外にもそのような「場所」が存在している。たとえば「砂漠の小屋」は、フレッドの「内面」の奥深い部分の「象徴」として理解することが可能だろう。この「小屋」は周囲に何もない砂漠の果てに存在し、どこからも孤立している。かつ、そこには「フレッドの真実の声」であるミステリー・マンが住み、「炎」によって表されるものが存在しているのだ。この小屋の「隔離性」は、ピートを核にしたフレッドの「幻想」において、この「場所」が切り離されていたことを指し示している。もちろんそれは、この「小屋」が、フレッドが意識の奥底に封じ込めた「真実の心の声」を内包しているからに他ならない。であるからには、アリスに「決してあなたのものにならないわ」と告げられ、あるいはミステリー・マンに「アリスが幻想であること」「自分がピートでなくフレッドであること」という「事実」を突きつけられ、フレッドが自らの「幻想」を崩壊させる「場所」がこの「小屋」であるのは、まったく必然的なことなのだ。

(この項、もちっと、続いたりして)

2008年10月 6日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (4)

うがが、リンチ研究本の「Beautiful Dark」の刊行が10月末に延期されてしまいました。なーんか日アマゾンからの連絡には「手配がつかなかったら、こっちからキャンセルするね」とか書いてあるのな。まあ、定型文の決まり文句ざんしょと理解しつつも、ちょっとビビって(笑)、米アマゾンに予約先をばチェンジ……と思ったら、あら? Dugpa.comの管理人さんはもう入手してる様子で、ベタ褒めの紹介文が掲載されているでないの。あら? ひょっとして、根性ナシの日アマゾンがファースト・プリントを手に入れ損ねたわけ? じ、重版ってちゃんとかかるの、これ?(笑)

……と少なからず動揺しつつ(笑)、「ロスト・ハイウェイ」においてリンチが採用している「表現」について、いくつかの分類わけのもとに、実例を挙げつつ整理をしてみよう。

「表現主義的手法」
まず、なによりも真っ先に指摘できるのが、全編を通じて提示される「映像」が、表現主義的手法に基づいているということである。つまり、そこで提示されている「映像群」はフレッド・マディソンの「内面」で展開されているものであり、そのすべてが彼の「感情」や「意思」を反映したものであるということだ。言葉をかえれば、作品内で提示されている事象はすべからく彼の「心象風景」を表象するものであり、「心理描写」なのである。

そのことは、フレッドの「別人格」であるピート・デイトンが「異なる演技者(バルサザール・ゲティ)」によって演じられるという「表現」そのものに、まず現れているといえる。”目に見えない「感情」や「思考」を、目に見える「映像」として提示する”という「表現主義的手法」の観点からこれをみたとき、この「二人一役」が「ある人格」と「別の新たな人格」の差異を表すうえで、非常にストレートな「表現」であることは容易に理解されるだろう。フレッドの「内面」において、ピートはまったく「別な人間」である。それがゆえに、必然的にピートは「別な演技者」によって演じられなければならないのだ。

かつ、ピートという「人格」そのものが、フレッドの「願望」や「希求」にしたがって形成されていることはいうまでもない。それは、この二つの「人格」にまったく共通点がなく、それどころか「対極」であることに明瞭に現れている。フレッドが「中年のジャズ・ミュージシャン/高級な家に住み、それなりに高収入らしい/レネエ以外の家族はおらず、子供もいない」のに対し、ピートのほうは「前歴もちの自動車修理工/あまり立派でない家に親と同居/取り柄は修理の腕前と若さ」であるといった具合に、まるで「対称的な立場」にあるのだ。もちろん、ピートという「人格」が備えるこうした「差異」は、現在置かれている自分の状況から逃れるためにフレッドが(意識してにせよ無意識にせよ)「選択」したものである。フレッドの第一目的は自分が置かれている状況からの「逃走」であり、それをを達成するためには新しい「人格」がなるべく彼本来の「人格」とは重ならず、可能な限りかけ離れたものである必要があったわけだ。実際、その思惑通り、ピートとなったフレッドは、(彼の「脳内=内面」で)死刑囚房からまんまと脱出することになる。

フレッドの「幻想」が構築されたのち、しばらく間、ピートは完全にフレッドの「感情」の「代弁者」となり、その「意思」に従った行動をとる「代行者」となる。ピートの「快楽」はフレッドの「快楽」であり、その「幻想」のなかではすべてがフレッドに都合よく物事が運ぶ。そして、こうした「フレッドの代弁者/代行者」はピートだけではない。「幻想」のなかでフレッドが創り上げたピートの「恋人」であるシーラは、彼=ピート=フレッドの「欲求」に諾々と応える(1:08:30)。ピートを張り込む刑事は自らの仕事を「糞みたいだ(What a fuckin' job)」と罵るが(1:23:45)、それはフレッドが刑事たちに対して抱いている「感情」の反映に他ならず、この刑事もまたフレッドの「代弁者」なのだ。

フレッドの「感情」を「代弁」するのは「登場人物」ばかりではない。たとえ「登場人物」の言動がからまない「出来事」であっても、それは「登場人物」と同様に、いやそれ以上に、フレッドが抱く「感情」や「思考」を雄弁に物語る。たとえば「変身」の直後、自宅の「裏庭」で寛ぐピート=フレッドの周囲には低い「壁」がめぐらされ、彼を「保護」する(0:55:08)。それは彼を「閉じ込める」刑務所の「壁」(0:44:51)とは完全に対称をなすものであり、ピートを核とした「幻想」に逃げ込んだ当初のフレッドの「安堵」を示すものだ。その「開放的」な壁越しにピートが覗き見る「隣家の庭」にあるのは、「子供用のプール」とそれに浮かぶ「ボール」や「ヨットの玩具」、「子犬」といった「幼児性」を表す「無害」な要素群である。だが、この「子供用プール」はアンディ宅でのパーティにおける「プールの記憶」(0:27:19)の「無害化」であるし、同じように「子犬」は、二本目のビデオ・テープの到着に際して「追求」するように激しく吠える「近所の犬」(0:18:46)の「安全化」に他ならない。そして、フレッド=ピートは、これらの「無害化/安全化」された要素からすらも、「煉瓦の壁」によって「隔離」あるいは「保護」されているのだ。すべてが……「登場人物」や「出来事」を含めたすべてがフレッドの「希求」に従い、「記憶」を改竄して彼の「自我」を守るとともに、「追及/追跡」からの「逃走手段」を与える。

しかし、フレッドの「感情」や「思考」が作品内の「事象」に反映されるのは、彼に「都合がいい局面」ばかりとは限らない。逆に、彼に「不都合な局面」に際しても……たとえば彼の「幻想」が「現実」の侵入を受けるときや、あるいは「幻想」が崩壊に瀕するときにも、やはりそれを表象する「事象」が現れる。このような「事象」は、多くの場合フレッドの「意思」ではなく、むしろ「無意識」に、あるいは彼の「意に反して」発生するものだ。

たとえば「ミスター・エディ」という「現実の象徴」の侵入を許してしまうのもフレッド自身であるし、「レネエへの希求」に負けて「アリス・ウェイクフィールド」という「幻想」を創り上げてしまうのも、また彼自身である。意識のどこかで少しでも自分の「幻想」に疑問を抱けば、それはてきめんにフレッドの「内面」において反映され、それに基づく「事象」が発生させることになるのだ。ピートが自動車修理工場で働いている最中に、同僚の修理工フィルがラジオで掛ける「音楽」(1:11:47)……それは「ルナ・ラウンジ」でフレッド自身が演奏していた曲であり(0:06:51)、当然ながらそれはフレッドの「好きな曲」である。甦りかける「現実の記憶」に頭痛を覚えたピートがラジオ局を変えたとき、フィルは「なぜ変える? あの曲が好きなのに(Why'd you change it?  I liked that)」と彼を非難する。ピートの「言動」が「逃走」を希求するフレッドの「思考」に従ったものなら、同じようにフィルの「言動」も音楽の嗜好に関するフレッドの「感情」の反映であり、二人はともにフレッドの「代弁者」なのだ。この二人の対立する「言動」が表象するのは、背反し引き裂かれているフレッドの「意識」そのものなのである。

アンディの家で彼を殺害した後、ピートはミスター・エディやアンディとともに「レネエとアリス」の二人が並んで写った「写真」を発見する(1:45:40)。ピートはアリスに「これはどちらも君か?(Is that you?  Are both of them you?)」と尋ねるが、これはフレッド自身がアリスという「幻想」の「現実性」に疑いを抱き始めたことを指し示すものだ。かつ、後に刑事がアンディ宅で見る同じ「写真」からはアリスの姿は消えており、写っているのはネレエのみである(2:06:33)。刑事たちがこの「写真」を発見する以前に、すでにフレッドはピートを核とした「幻想」を放棄しており、同様に「アリスという幻想」も崩壊してる。フレッドにとって「アリス」はもはや不要なものになっており、彼の「内面」を反映して「写真」も変化する。この写真の「変容」は、このようなフレッドの「感情」や「意識」の変遷を反映する、きわめて「表現主義的なもの」なのだ。

(この項、続く)

2008年10月 2日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (3)

むう、なかなか社会復帰が難しい大山崎です。もう一週間ほどズレてたら、台風で南方に強制追加滞在だったのにな、惜しいコトをした(笑)。

などとボヤきつつ、「ロスト・ハイウェイ」に関する概論の続き。今回は、作品構造をみてみることにする。

まず大雑把に分けるなら、この作品は「前半」「後半」の二部構成をなしている。基本的に「前半」はフレッド・マディソン自身の人格を核にして彼の「記憶」に関連する映像が提示され、「後半」は彼が作り上げた新しい人格であるピート・デイトンを中心にした(フレッドの)「幻想」を描く映像が展開される。

そうした大きな構成のうえに、「前半」と「後半」の間には、フレッドからピートへの移行を描く「ターニング・ポイント」の映像が挿入され、また「後半」の最後には「幻想」が崩壊した後にピートからフレッドへの回帰と、それに続く「ディック・ロランド殺し」を頂点とする「第二のターニング・ポイント」が挿入される。これに「オープニング」と「エンディング」の「夜のハイウェイ」の映像が付され、作品が「円環構造」を備えていることを示している。

これらの作品構造を一覧にするなら、以下のようになる。

オープニング  (0:00:11)
前半              (0:02:47)
ターニング-1 (0:41:49)
後半              (0:51:14)
ターニング-2 (1:56:48)
エンディング    (2:09:46)

※タイム・スタンプは、すべてパイオニアLDC発売の国内版DVD(PIBF-91023)に準拠

まず、この作品の「円環構造」に関してだが、これはリンチ作品においてはかなり特異なものだといえるだろう。通常、リンチはこうした「時間操作」を用いず、基本的に作品内の時間軸は一定方向である。唯一といっていい例外が「ワイルド・アット・ハート」で部分的に用いられているフラッシュ・バックだが、こうした「物語記述上の時間操作」をほとんど採用しないのがリンチ作品の特徴である。あるいはそれはリンチの「ナラティヴなもの=物語性」に対する関心の薄さを示唆するものだ。派手な「どんでん返し」をストーリー・ラインに仕込み、「時系列操作」を行って「物語記述」に技巧をこらすのは、明らかにリンチの方法論ではない。

このことは「ロスト・ハイウェイ」の「円環構造」にも当てはまり、正確にいうなら、これは「物語記述上の時系列操作」ではない。むしろこれは、作品内で描かれている事象がフレッドの「内面」で発生していることを表すための”抽象的な「表現」”として捉えられるべきものである。当然ながら、この「円環構造」は、第一義的には、フレッドが「別人格への逃走」を処刑が行なわれるまで繰り返し続けるであろうという「循環性」を指し示している。だが、同時に、人間は誰でも自分の「内面」で発生している「思考」や「感情」からは逃げられないという「閉鎖性」……「輪をなして閉じた構造」をもこの「円環構造」は示唆しているのだ。

興味深いのは、リンチが審査委員長を努めた1994年のベネツィア国際映画祭において、楊徳昌監督の「愛情萬歳」と金獅子賞を同時受賞したミルチョ・マンチェフスキー監督作品「ビフォア・ザ・レイン」が、やはり「円環構造」を採用していることだ。こちらは、マケドニアで延々と続く内戦における「憎しみの連鎖」を描くためにこうした作品構造を用いているが、対象は異なれ、ある種の「永続性」を表すものとして「円環構造」が採用されている点では同一である。

さて、それぞれのパートで描かれているものをざっと取りまとめると、以下のようになる。

「オープニング」
”疾走する自動車の中から見た「夜のハイウェイ」”の映像にあわせて、オープニング・ロールが提示される。この「夜のハイウェイ」の映像は、フレッドの「遁走」を象徴するものとして本編中でも何度か提示されるが、最終的にエンディングにおいてもリフレインされて「オープニング」の同一映像と接合され、「円環構造」を構成する。

「前半」
このパートで提示されるのは、基本的にフレッドの「記憶」である。ただし、「心因性遁走」状態にある彼の「記憶」はきわめて曖昧で、かつ、「自己正当化」「責任転嫁」による「自我の保護」を目的としたバイアスがかかっているため、ときとしてその映像は現実にはあり得ない「歪んだ」ものになってしまっている。「すでに殺害されているレネエが存在している」こと自体がその端的な表れであり、このパートにおける彼女の存在そのものがフレッドの「記憶」に他ならない。また、フレッドが「レネエとアンディの関係」を疑っているシークエンスが何度か提示されるが、それがフレッドの「感情」によって歪められたものである以上、(作品内)現実としてそれがどこまで事実に即したものであるかについてはまったく明確ではない。我々が「確実な事実」として理解できるのは、「フレッドがレネエの不倫行為を疑っていた」ということのみである。別項で詳述するが、フレッドの「記憶」の象徴として現れているのが「差出人不明のビデオ・テープ」であり、その映像の状態はそのままフレッドの「記憶」の曖昧さを示唆している。最終的に”「レネエ殺害」の映像のビデオ・テープが届くこと=自分がレネエを殺害したことをフレッドが思い出したこと”を契機として、「ターニング-1」のシークエンスへの転換が喚起される。

「ターニング-1」
「レネエ殺害」に関する「記憶」の蘇生は、「逮捕/取調べ」「死刑判決」「死刑囚房への収監」に関するフレッドの「記憶」を想起させる。このシークエンスで提示される映像の大部分は、フレッドの「現状」を物語るものであり、もっとも「客観的(作品内)事実」に近いものだ。しかし、「レネエ殺害」に関する罪悪感、死刑執行に対する恐怖感、なによりもレネエを失くしたことによる喪失感がフレッドを苛む。こうした心理的重圧によって彼の「心因性遁走状態」は進行し、ついにピート・デイトンという「別人格」を創り上げることになる。

「後半」
このパートでは、形成された「別人格=ピート」を核にしたフレッドの「幻想」が描かれる。「前半」の「記憶」と同様、この「幻想」もフレッドの「願望」や「感情」の反映であり、彼の恣意によって都合のいいように「歪んで」いる。そもそもピートという「人格」自体が、フレッドの本来の「人格」とは正反対といっていいものだ。死刑囚房から解放された「ピート=フレッドでなくなったフレッド」には警察も手を出せず、彼を監視するのみである。シーラという「恋人」も手に入れ、ピート=フレッドの「欲望」はすべて応えられたかに思われた。だが、完璧だったはずのフレッドの「幻想」は、「現実/社会」を象徴するミスター・エディ=ディック・ロラントを嚆矢とする”「現実」の侵食”を徐々に受け始める。なによりもフレッドは自分の「レネエに対する思い/渇望」を騙し続けられず、レネエと「相似形」である「アリス・ウェイクフィールド」という女性の「幻想」を自ら創り上げてしまう。しかし、”「現実」のレネエ”と同様、ピート=フレッドはレネエを「モデル」にした”アリスという「幻想」”をコントロールできない。アリスとの接触はミスター・エディの介入を呼び、ピート=フレッドの「幻想」はほころび始める。自らの「幻想」の産物であるはずのシーラやピートの両親にまで「あの夜のこと=レネエを殺害した夜のこと」を追求され、かつミスター・エディとミステリー・マンから決定的な「電話」を受け取るに至って、アリスが教唆するまま、フレッド=ピートは彼女と逃走するためにアンディを殺害する。だが、一度ほころび始めた「幻想」は崩壊の一途をたどる一方だ。「砂漠の小屋」の前での抱擁のあとアリスが告げる「決してあなたのものにはならないわ(You'll never have me)」という一言によって、フレッドのピートを核にした「幻想」は決定的に崩壊してしまう。それとともにピートの「別人格」を捨てざるを得なくなったフレッドは、本来の自分の「人格」に回帰する。

「ターニング-2」
自分自身に戻ったフレッドは、自らの”「感情」や「意識」の象徴”であるミステリー・マンから「アリスとレネエの関係性」そして「自分自身のアイデンティティ」に関する現実を突きつけられ、実際の自分の状況がまったく変わっていないことを認識する。その場を「逃走」したフレッドは、ロスト・ハイウェイ・ホテルの一室からミスター・エディ=ディック・ロラントを拉致し、再び「砂漠の小屋」に舞い戻る。そこで揉み合いのすえフレッドはロラントを殺害するが、それを幇助しロラントに止めをさすのは、フレッド自身の”「感情」や「意識」の象徴”であるミステリー・マンに他ならない。「ロラント殺し=現実の抹殺」を終えたフレッドは、自分の家に戻り、その内部にいる「自分自身」に「ロラント=現実」が死んだことを告げる。再び警察(によって表されるもの)に「追跡」されるフレッドと彼の新たな「遁走」、そしてフレッドがまた「別人格」を創ろうとしていることを示唆して、本編は終了する。

「エンディング」
エンド・ロールとともに、再び”疾走する自動車の中から見た「夜のハイウェイ」”の映像が提示される。これによって「オープニング」への映像的接合が行われ、作品は完全な「円環構造」を完成させる。

各パートのシークエンスが提示する詳細に関しては別項に譲るとして、「ロスト・ハイウェイ」の各パートが伝えるものを荒っぽく捉えるなら、ざっと上記のような具合だ。そこで描かれているのは、自分が抱いた「疑惑」によって最愛の妻を失くし、その「現実」から逃れようとして創り上げた「幻想」をすら自ら崩壊させてしまう男の「悲劇」である。

次項では、この作品が採用している「表現」の特性を、実例を挙げながら整理してみることにしよう。

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