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2008年10月13日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (6)

えーと、「Beautiful Dark」はまだ届いてましぇん。早く読みたいよう……って、クリスマス・プレゼント待ちの小学生低学年状態な感じ(笑)。

さて、続いて、「ロスト・ハイウェイ」はリンチの製作歴のなかでどのような位置づけがなされるのか、その「テーマ」「モチーフ」「表現」の面から、他作品との比較・照合を行いつつみていこう。

「機能しない家族」というテーマの発展
すでに何度か触れたように、「ロスト・ハイウェイ」が内包している最大のテーマは、リンチが自作で繰り返し提示するテーマである「機能しない家族」である。ただし、それは、それまで同一テーマのもとにリンチが提示してきたものとは少し異なっており、いわばそれを発展させたものだといえるだろう。

というのは、この作品で提示されている「機能しない家族」のテーマは、フレッドとレネエという「夫婦間の関係」に発生する/発生した「問題」を「核」としているのに対し、それまでのリンチ作品は基本的に「親と子の関係」の問題を「核」にしていたからだ。たとえば「グランド・マザー」(1970)では、リンチは、厳格な両親に怒られ慰撫を求めて祖母を”育てる”少年を描いている。「イレイザー・ヘッド」(1978)では、メアリーXとヘンリーの「夫婦間の問題」はあるものの、彼女は早々に退場し、やはり作品の中心となるのはヘンリーと「赤ん坊」の関係である。もっとも端的なのが「ブルー・ベルベット」(1986)で、そこでは子供=ジェフリーとフランク=父親およびドロシー=母親の関係が描かれる。この二人の「親」は、ジェフリー自身の「倒れた父親」やサンディの「両親」と重なり融合し、総体としてリンチが考える「父親像/母親像」の概念を提示するのだ。「ワイルド・アット・ハート」(1990)においては、セイラーとルーラの間にマリエッタという「母親の問題」が介入し、そこには「ルーラの父親の死」に関する経緯が関連している。そして当然ながら、「ツイン・ピークス」(1990)の「核」となるのは、ローラ・パーマーとリーランド・パーマーという「親子」の関係性であったことはいうまでもない。

つまり、「ロスト・ハイウェイ」で、初めてリンチは「夫婦間の問題」を「機能しない家族」のテーマの「核」として据えたことになるのだ。そして、この作品に続く「ストレイト・ストーリー」(1999)では「兄弟間の問題」が描かれ、「インランド・エンパイア」(2006)ではより発展して「さまざまな家族間の問題」を列挙することにより、それらの総体を「家庭内のトラブル=機能しない家族」の抽象概念として提示するという手法が採用されることになる。このようにリンチの映画製作歴からみたとき、「機能しない家族」というテーマの扱いに関して、「ロスト・ハイウェイ」がひとつのターニング・ポイントとなったことが理解されるだろう。

「表現主義的手法」への回帰
大きな括りにおける「表現主義的手法」……つまり、”人間の「内面」の映像化”という方法論からリンチの諸作品をみた場合、最初期の「吐き気を催す六人の男」(1967)、「アルファベット」「グランドマザー」「イレイザー・ヘッド」、そして「マルホランド・ドライブ」(2001)、「インランド・エンパイア」などがダイレクトにその範疇に入るといえるだろう。そもそも、リンチは画家としてその芸術におけるキャリアを踏み出しており、現在も続けている画作をみてもわかるように、基本的にその絵画作品は決して写実主義(realism)あるいは印象主義(impressionism)に基づいた具象的なものではない。あくまで表現主義(expressionism)を基調とした抽象絵画である。そう考えれば、リンチが「時間経過とともに変化する絵」を作ろうと映像製作に手を染めたとき、それが表現主義的なものであると同時に抽象的なものとなったのは当然であったといえるし、実際、最初期の作品群はその範疇に入るものだ。その具体的な使われ方はともかく、リンチの手になる作品……絵画、写真、映像を問わない……には、なんらかの形で「表現主義的なアプローチ」が内包されているのが「本来的」と考えてよい。

だが、ひるがえって、リンチの映画作品の製作歴をみたとき、「イレイザー・ヘッド」以降、全面的に表現主義的な手法を用いた作品は、実は「ロスト・ハイウェイ」まで存在しなかったといえる。つまり、「エレファント・マン」(1980)から「ツイン・ピークス 劇場版」(1992)までの作品は、程度の差こそあれ明確なストーリー・ラインを備えており、いわばその「ナラティヴ」のなかにリンチ独特の「表現主義的映像」が断片的に散りばめられる……という構造になっているのだ*。こうした視点からみたとき、「ロスト・ハイウェイ」は、リンチが全面的に「表現主義的な手法」に回帰し、再び「抽象的」かつ「非ナラティヴ」なものへの志向を明確に打ち出した点で、特異な作品であるといえるだろう。言葉をかえれば、それはリンチが「初期の手法」に戻った、あるいはその「本質」に立ち帰ったということでもある。その後リンチは「ストレイト・ストーリー」を挟んで、「マルホランド・ドライブ」「インランド・エンパイア」と、「抽象的かつ表現主義的手法」と「非ナラティヴな表現」への傾向を強めていく。こうした意味でも「ロスト・ハイウェイ」は、リンチにとってターニング・ポイント的な作品になったと捉えられるのだ。

また、前述したように、「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』」あるいは「人間の『内面』の象徴としての『家』」というテーマが、リンチが「エレファントマン」で商業映画監督としてデビューした以降、映像作品において明瞭な形で現れたのも「ロスト・ハイウェイ」が最初であるといっていい。このテーマは、「グランドマザー」(1970)などの初期映像作品にすでに現われ、絵画作品や写真作品にも現れる「基本テーマ」であるが、この作品の音響に関するリンチ自身の言及にもあるように、「フレッドの家」は明確に「フレッドの内面」を表象するものとして提示されている。いうまでもなく、このモチーフは、「インランド・エンパイア」における「ニッキー/スーザン/ロスト・ガールの内面」としての「スミシーの家」という表現につながるものだ。加えて、これらの「家」の内部で発生する「トラブルの原因」が、「ベッド・ルーム」というもっともプライベートな場所に存在するという点においても、「ロスト・ハイウェイ」と「インランド・エンパイア」は明確な「共通性」を備えているといえる。すなわち、フレッドによる「レネエ殺害」は「フレッドの家」のベッド・ルームにおいて行われるのに対し、実体化した「スミシーの家」の内部でスー=ニッキーが目にするのは、そのベッド・ルームに存在する「トラブルの要因」としての「ピオトルケ=夫の抽象概念」なのだ。この「問題発生の核としてのベッド・ルーム」という「共通性」は、リンチが抱く”「人間の内面」を表すものとしての「家」”という概念がどのようなものかを端的に示唆しているといえるだろう。

同様に、「同一のものを同一の演技者が演じる」という表現も、「ロスト・ハイウェイ」においてリンチは採用している。その萌芽は「ツイン・ピークス」におけるシェリル・リーによるローラ・パーマーとマデリン・ファーガソンの二役にあるが、「ロスト・ハイウェイ」においては、「レネエ」をモデルとしてフレッドが創りあげた「幻想」である「アリス」がともにパトリシア・アークエットによって演じられ、この二人の女性の「同一性」を表すための観念的表現として採用された。同様に、「マルホランド・ドライブ」では「ベティ」「ダイアン」をともにナオミ・ワッツが演じ、「カミーラ」「リタ」をともにローラ・ハリングが演じるという形で、それぞれの「同一性」を描くために用いられている。また、「インランド・エンパイア」においては、この「演技者による同一性の表象」は、「登場人物による象徴」の手法と組み合わせられるという発展を遂げている。すなわち、「夫の抽象概念」としての「ピオトルケ」がピーター・J・ルーカスによって演じられ、彼は「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「一般的受容者=ロスト・ガール」すべての「夫」として登場しているのだ。

「マルホランド・ドライブ」との比較
だが、リンチの諸作品のなかでも、もっとも「ロスト・ハイウェイ」に類似した構造と表現を備えているのが「マルホランド・ドライブ」であることは間違いないだろう。前者が「フレッドの内面」を舞台に彼の「幻想」を描いているなら、後者は「ダイアンの内面」を舞台に彼女の「幻想」を描いている点で、この両作品は完全な「相似形」にある。あるいは、広く「幻想=改竄された記憶/外界認識の問題」というテーマを内包している点で、「ロスト・ハイウェイ」と「マルホランド・ドライブ」はまったく同一のテーマを扱っているといえる。

ピートを「核」としたフレッドの「幻想」のなかで、「登場人物の言動」を含めたさまざまな「事象」がフレッドの「代弁者/代行者」であるように、ベティを「核」としたダイアンの「幻想」なかでも、さまざまな「事象」がダンアンの「感情」や「意識」に基づき彼女を「代行」し「代弁」する。もちろん、ダイアンのいちばんの「代弁者/代行者」はベティであるわけだが、「ロスト・ハイウェイ」においてピート以外の登場人物も同様にフレッドを「代弁」し「代行」するように、「マルホランド・ドライブ」ではリタやアダム・ケシャーもまたダイアンを「代弁」し「代行」する。こうした「表現」の点で両作品は完全な「共通点」を備えており、それこそが両作品が「相似形」であるとする所以である。もちろん、このような「代弁者/代行者」といった「表現」の根底には、リンチが採用する「表現主義的な手法」が存在しているのは指摘するまでもない。その意味ではリンチが採用する表現の「本質」はその初期から変わっておらず、たとえば「イレイザー・ヘッド」における「異形の赤ん坊」の姿が、ヘンリーの「赤ん坊」に対する「感情」の反映であることなどと、完全に同根なのだ。

また、「象徴表現」の点でも、両作品は重なる部分が多い。たとえば「ロスト・ハイウェイ」における「フレッドのレネエ殺害に関する記憶」の象徴としての「ビデオ・テープ」と同様のものとして、「マルホランド・ドライブ」においては「ダイアンの(現実に関する)記憶」の象徴としての「ブルー・ボックス」や、あるいは「ブルー・ボックス」を開封する「カーミラとの関係性の終結=幻想の終わり=覚醒」の象徴としての「ブルー・キー」が登場する。こうした「象徴表現」は、もとを正せば「イレイザー・ヘッド」における「消しゴム」が「社会的に有用な消費物/消耗物」の象徴として現れ、ヘンリーの「頭」が「有効に消費されるもの」に利用されるなどといった表現に端を発し、「インランド・エンパイア」における「映画を撮る作業/映画を観る作業」の象徴としての「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」などにつながっていくものだ。しかし、「ロスト・ハイウェイ」の「ビデオ・テープ」と「マルホランド・ドライブ」の「ブルー・ボックス」あるいは「ブルー・キー」は、「人間の内面」における「記憶」や「幻想」そのものを指し示しているという点で、より近しい関係にあるはずだ。

このように「ロスト・ハイウェイ」をリンチの作品史のうえで捉えたとき、その「重要度」が明瞭に浮かび上がってくる。「マルホランド・ドライブ」が明らかにこの作品の延長線上にあることはいうまでもないが、加えて「インランド・エンパイア」では「受容者=登場人物=演技者」の「感情移入=同一化」を題材に、「複数の登場人物による『内面』の共有」という「発展形」が示され、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」での「一人の登場人物の『内面』」からは一歩進んだ「表現」がとられている。リンチのその後の作品を理解するうえで、いや、すべてのリンチ作品に共通する「テーマ」や「表現」を理解するうえで、あるいはリンチの「作家性の本質」を理解するうえで、「ロスト・ハイウェイ」が「重要なキー」となる作品であるのは間違いない。

*映画作品以外では、絵画作品はもとより、「インダストリアル・シンフォニー No.1」などの「表現主義的手法」を全面に押し出した作品が存在する。

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