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2008年10月 9日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (5)

どーするどーなると話題になっていた(いや、正確にいうと、騒いでたのは大山崎だけですが)リンチ研究本「Beautiful Dark」ですけども、無事に米アマゾンから発送通知が届きました。いや、最初ポチったときの到着予定日が11月末から12月上旬だったんで、一時期はどーしたもんかと思ってたんですが、予想より早く入手できそーな感じ。よかったよかった。結果的に日アマゾンで買うより安くなりそーだしな。転んでもタダでは起きんとゆーヤツでしょーか。いや、どー考えてもサブプライムな感じの「株価損失額」には追いつかんのですが(笑)。

……などとつぶやきつつ、前回に引き続き、「ロスト・ハイウェイ」における「表現」のアレコレである。今回のお題は、コレ。

「象徴表現」
次に、「ロスト・ハイウェイ」の随所にみられる「象徴表現」について述べよう。もちろん、こうした「表現」も前項で述べた「表現主義的手法」の枠内にあり、その文脈上に捉えられるものだ。というより、「象徴表現」として捉えられる「映像」のほとんどすべてが、「表現主義的手法」と密接に結びつけられている。

「象徴表現」として捉えられる「映像」はこの作品の随所にみられるが、その重要度において真っ先に挙げておかなければならないのは、「『レネエ殺害』に関するフレッドの記憶」の「象徴」として現れる「ビデオ・テープ」だろう。差出人不明のまま、マニラ封筒に入れられ、フレッド(とレネエ)のもとに届けられる三本の「ビデオ・テープ」である。

この「ビデオ・テープ」が”「フレッドの記憶」の「象徴」”であることを表象する「映像」はいくつもあるが、なによりも明瞭な示唆は、それが「ビデオ・テープ」であること自体である。レネエの通報で「フレッドの家」を訪れた刑事による「家にビデオ・カメラはあるか?」という質問に対して、レネエは「フレッドが嫌いなので、ない(No. Fred hates them)」と「代弁」して答える(0:24:13)。続いて、その理由として、フレッドは「自分が好きなように記憶していたいから(I like to remember things my own way)」と述べる。だが、この二人の言及をパラフレーズするなら、彼が「ビデオ」を嫌いなのはそれが「ありのままを記録するもの」であり、「改竄不能」であるからだ。要するに、フレッドが実際に「忌避」しているのは、「ありのままの記憶」……「自分がレネエを殺害した」という「記憶」なのである。それがゆえに、”「レネエ殺害」に関する「現実の記憶」”は「ビデオ・テープ」の形をとり、「忌避の対象」となる。

このように「レネエ殺害の記憶」は「思い出したくない現実」であるため、当然ながらフレッドはそれが蘇ることに抵抗する。ビデオ・テープが三度にわたって届き、それに記録された「映像」が徐々に「フレッドの家」の「ベッド・ルーム」に侵入していくのは、まさにそのためだ。同時に、ビデオ・テープに記録された映像の「画質」は、「フレッドの「記憶」が非常に曖昧であることを物語っている(当然、それはフレッドが忘れたがっているからだが)。その反映として、最初の二本のビデオ・テープおよび三本目の途中までの「映像」は、「モノクロ」で「ノイズだらけ」である(0:40:47)。しかし、フレッドが自らの「記憶」を甦らせるのに連動して「画質」は向上し、ついに彼が完全に「自分がレネエを殺したこと」を思い出した瞬間、その決定的な「映像」は「鮮明なカラー」として提示されるのだ(0:41:32)。

また、フレッドが「記憶」を蘇らせるに連れて、ビデオ・テープが彼の家に「到着」する経緯が変化するのも見逃せない。最初の二本はレネエによって「家」に持ち込まれるが、最後の一本は彼女ではなくフレッドによって持ち込まれる(階段に置かれているという描写はない)。前述したように、最初の二本は「決定的映像」までは至らないのに対し、三本目のビデオ・テープは「レネエ殺害」の「シーン」を鮮明に映し出す。この変遷のキーとなっているのは、レネエの「在/不在」だ。フレッドが「レネエ殺害の記憶」を欠落させている間は、彼の「内面」おいてレネエは「実在」する。だが、一度「レネエ殺害の記憶」が蘇生し始めたとき、当然ながらすでに死亡している彼女は「不在」のものとなるのだ。「不在」となったレネエがビデオ・テープを受け取れるはずがなく、それはフレッド自身によって「家」に持ち込まれなければならないのである。

前項で「表現主義的手法」について述べた際、フレッドの「代弁者/代行者」が「登場人物」だけとは限らないことに触れた。それと同じように、この作品に「象徴表現」として現れているのは、「ビデオ・テープ」のような「物体」だけではない。「ロスト・ハイウェイ」においては「登場人物」もまた、何か「抽象的な概念」を「象徴」する。その顕著な例が「ミステリー・マン」だ。

この「白塗りの男」は、フレッドの「真実の『感情』や『意識』」の「象徴」として、なによりも「あからさま」にフレッドを「代弁」し、彼を「代行」する。その「真実性」を指し示すものとして、ミステリー・マンは「ビデオ・カメラ」を所持し、「ありのままを記録/記憶する者」として提示される。そもそも「ありのままの記憶」を忌避するフレッドは、それがゆえに「ミステリー・マン」を自分の「自我」から切り離し、「第三者化」せざるを得ないのだ。

ミステリー・マンは、まずフレッドが参加しているアンディのパーティの席上に現れる(0:28:51)。ミステリー・マンがそこに姿を現したのは、アンディといちゃつくレネエを見て、フレッドが激しい「感情」を抱いたからだ。フレッドはその「感情」を抑え否定しようとするが、「真実の心の声」は否定できない。リンチ作品において、”何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』”あるいは”「人間の内面」の表象としての「家」”は繰り返し提示される共通テーマだが、ミステリー・マンがフレッドの「内面の声」である以上、当然ながらこの男はパーティの席上だけでなく、”フレッドの「内面」”としての「フレッドの家」の内部にも同時に存在することになる。間違いなく「この男を招待したのはフレッド自身(You invited me)」であり、「以前にも会ったことがある(We've met before, haven't we?)」ことや、その邂逅の場所が「フレッドの家(At your house)」であったのも、また当然なのである。

話が少し逸れるが、このミステリー・マンが、「炎」のイメージと密接に結び付けられていることは特筆しておくべきだろう。「炎が吸い込まれた『砂漠の小屋』からミステリー・マンが姿を現す映像」(0:48:42)によって提示されているのは、彼とこの「炎」の「同一性」である。この作品において、「炎」はフレッドが抱く「激しい感情」を指し示すものとして表れており、それは有態にいえば「フレッドのレネエに対する殺意」の「象徴」として捉えられるものだ。それもまたフレッドの「内面の声」であることは間違いなく、この「炎」のモチーフ自体も、いろいろな形をとって作中で繰り返し提示されることになる。

ミステリー・マンと同様に、「ミスター・エディ」も”「抽象概念」を表す「象徴」”として理解される。この両者が、まずともに「象徴」であるという点で「等価」であることは、たとえばアンディによる「ディック・ロラントの友人だと思う(He's a friend of Dick Laurent's, I think)」という発言(0:31:54)によっても明らかにされている。あるいは、この二人がピートに電話をかけるシークエンスにおいて、ミスター・エディは明確にミステリー・マンを「自分の友人と話をしてくれ(I want you to talk to a friend of mine)」と言及する(1:39:05)。そもそも彼らが「友人」であるのは、ともに「抽象概念を表す象徴」として「同類」であるからに他ならない。

この「ディック・ロラント=ミスター・エディ」によって「象徴」されるものは、フレッドにとって「現実」あるいは「現実社会」といったものの「複合的イメージ」である。これは、まず、フレッドの「幻想」のなかで、ピートの「仕事場」である「アーニーの自動車修理工場」にミスター・エディが登場すること(1:00:14)によって示唆される。「仕事場」は「社会」あるいは「現実社会」との強力な接点であり、フレッドの「幻想」が「現実」の侵入を受けるポイントとして格好の場所である。それと承知してフレッドが自らの「幻想」にそのような「侵入点」を作ってしまったかどうかは定かではないが、フレッドの「幻想」が「精緻」であればあるほど……つまり「現実」に近ければ近いほど、その「侵入」を許す確率が高まるのは当然のことといえるだろう。

フレッドの「幻想」に侵入した「現実=ミスター・エディ」は、早速そのなんたるかをピート=フレッドに見せ付ける。ミスター・エディは、山道で彼の運転する自動車を追い上げた車のドライバーを「追跡」し、「追求」する。捕まえたドライバーに「交通規則」という「ルール」を文字通り「暴力的」に押し付け、「処罰」する(1:02:57)。これが「レネエ殺し」で「逮捕」され、死刑判決を受けて収監中のフレッドの「現状」そのままの「図式化=イメージ化」であることはいうまでもなく、ミスター・エディに手荒い扱いを受ける無力なドライバーは、間違いなくフレッドの「代弁者/代行者」の一人であるといえる。フレッドにとって「現実」は、ミスター・エディのような「実力者」であり、一方的な「規則」を「暴力的」に押し付けてくる「抗し難い存在」なのだ。

「ロスト・ハイウェイ」では、「場所」あるいは「建物」も「象徴」として登場する。「フレッドの家」を「フレッドの内面」として受け取ることができるのは前述したとおりだが、それ以外にもそのような「場所」が存在している。たとえば「砂漠の小屋」は、フレッドの「内面」の奥深い部分の「象徴」として理解することが可能だろう。この「小屋」は周囲に何もない砂漠の果てに存在し、どこからも孤立している。かつ、そこには「フレッドの真実の声」であるミステリー・マンが住み、「炎」によって表されるものが存在しているのだ。この小屋の「隔離性」は、ピートを核にしたフレッドの「幻想」において、この「場所」が切り離されていたことを指し示している。もちろんそれは、この「小屋」が、フレッドが意識の奥底に封じ込めた「真実の心の声」を内包しているからに他ならない。であるからには、アリスに「決してあなたのものにならないわ」と告げられ、あるいはミステリー・マンに「アリスが幻想であること」「自分がピートでなくフレッドであること」という「事実」を突きつけられ、フレッドが自らの「幻想」を崩壊させる「場所」がこの「小屋」であるのは、まったく必然的なことなのだ。

(この項、もちっと、続いたりして)

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