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2008年10月 2日 (木)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (3)

むう、なかなか社会復帰が難しい大山崎です。もう一週間ほどズレてたら、台風で南方に強制追加滞在だったのにな、惜しいコトをした(笑)。

などとボヤきつつ、「ロスト・ハイウェイ」に関する概論の続き。今回は、作品構造をみてみることにする。

まず大雑把に分けるなら、この作品は「前半」「後半」の二部構成をなしている。基本的に「前半」はフレッド・マディソン自身の人格を核にして彼の「記憶」に関連する映像が提示され、「後半」は彼が作り上げた新しい人格であるピート・デイトンを中心にした(フレッドの)「幻想」を描く映像が展開される。

そうした大きな構成のうえに、「前半」と「後半」の間には、フレッドからピートへの移行を描く「ターニング・ポイント」の映像が挿入され、また「後半」の最後には「幻想」が崩壊した後にピートからフレッドへの回帰と、それに続く「ディック・ロランド殺し」を頂点とする「第二のターニング・ポイント」が挿入される。これに「オープニング」と「エンディング」の「夜のハイウェイ」の映像が付され、作品が「円環構造」を備えていることを示している。

これらの作品構造を一覧にするなら、以下のようになる。

オープニング  (0:00:11)
前半              (0:02:47)
ターニング-1 (0:41:49)
後半              (0:51:14)
ターニング-2 (1:56:48)
エンディング    (2:09:46)

※タイム・スタンプは、すべてパイオニアLDC発売の国内版DVD(PIBF-91023)に準拠

まず、この作品の「円環構造」に関してだが、これはリンチ作品においてはかなり特異なものだといえるだろう。通常、リンチはこうした「時間操作」を用いず、基本的に作品内の時間軸は一定方向である。唯一といっていい例外が「ワイルド・アット・ハート」で部分的に用いられているフラッシュ・バックだが、こうした「物語記述上の時間操作」をほとんど採用しないのがリンチ作品の特徴である。あるいはそれはリンチの「ナラティヴなもの=物語性」に対する関心の薄さを示唆するものだ。派手な「どんでん返し」をストーリー・ラインに仕込み、「時系列操作」を行って「物語記述」に技巧をこらすのは、明らかにリンチの方法論ではない。

このことは「ロスト・ハイウェイ」の「円環構造」にも当てはまり、正確にいうなら、これは「物語記述上の時系列操作」ではない。むしろこれは、作品内で描かれている事象がフレッドの「内面」で発生していることを表すための”抽象的な「表現」”として捉えられるべきものである。当然ながら、この「円環構造」は、第一義的には、フレッドが「別人格への逃走」を処刑が行なわれるまで繰り返し続けるであろうという「循環性」を指し示している。だが、同時に、人間は誰でも自分の「内面」で発生している「思考」や「感情」からは逃げられないという「閉鎖性」……「輪をなして閉じた構造」をもこの「円環構造」は示唆しているのだ。

興味深いのは、リンチが審査委員長を努めた1994年のベネツィア国際映画祭において、楊徳昌監督の「愛情萬歳」と金獅子賞を同時受賞したミルチョ・マンチェフスキー監督作品「ビフォア・ザ・レイン」が、やはり「円環構造」を採用していることだ。こちらは、マケドニアで延々と続く内戦における「憎しみの連鎖」を描くためにこうした作品構造を用いているが、対象は異なれ、ある種の「永続性」を表すものとして「円環構造」が採用されている点では同一である。

さて、それぞれのパートで描かれているものをざっと取りまとめると、以下のようになる。

「オープニング」
”疾走する自動車の中から見た「夜のハイウェイ」”の映像にあわせて、オープニング・ロールが提示される。この「夜のハイウェイ」の映像は、フレッドの「遁走」を象徴するものとして本編中でも何度か提示されるが、最終的にエンディングにおいてもリフレインされて「オープニング」の同一映像と接合され、「円環構造」を構成する。

「前半」
このパートで提示されるのは、基本的にフレッドの「記憶」である。ただし、「心因性遁走」状態にある彼の「記憶」はきわめて曖昧で、かつ、「自己正当化」「責任転嫁」による「自我の保護」を目的としたバイアスがかかっているため、ときとしてその映像は現実にはあり得ない「歪んだ」ものになってしまっている。「すでに殺害されているレネエが存在している」こと自体がその端的な表れであり、このパートにおける彼女の存在そのものがフレッドの「記憶」に他ならない。また、フレッドが「レネエとアンディの関係」を疑っているシークエンスが何度か提示されるが、それがフレッドの「感情」によって歪められたものである以上、(作品内)現実としてそれがどこまで事実に即したものであるかについてはまったく明確ではない。我々が「確実な事実」として理解できるのは、「フレッドがレネエの不倫行為を疑っていた」ということのみである。別項で詳述するが、フレッドの「記憶」の象徴として現れているのが「差出人不明のビデオ・テープ」であり、その映像の状態はそのままフレッドの「記憶」の曖昧さを示唆している。最終的に”「レネエ殺害」の映像のビデオ・テープが届くこと=自分がレネエを殺害したことをフレッドが思い出したこと”を契機として、「ターニング-1」のシークエンスへの転換が喚起される。

「ターニング-1」
「レネエ殺害」に関する「記憶」の蘇生は、「逮捕/取調べ」「死刑判決」「死刑囚房への収監」に関するフレッドの「記憶」を想起させる。このシークエンスで提示される映像の大部分は、フレッドの「現状」を物語るものであり、もっとも「客観的(作品内)事実」に近いものだ。しかし、「レネエ殺害」に関する罪悪感、死刑執行に対する恐怖感、なによりもレネエを失くしたことによる喪失感がフレッドを苛む。こうした心理的重圧によって彼の「心因性遁走状態」は進行し、ついにピート・デイトンという「別人格」を創り上げることになる。

「後半」
このパートでは、形成された「別人格=ピート」を核にしたフレッドの「幻想」が描かれる。「前半」の「記憶」と同様、この「幻想」もフレッドの「願望」や「感情」の反映であり、彼の恣意によって都合のいいように「歪んで」いる。そもそもピートという「人格」自体が、フレッドの本来の「人格」とは正反対といっていいものだ。死刑囚房から解放された「ピート=フレッドでなくなったフレッド」には警察も手を出せず、彼を監視するのみである。シーラという「恋人」も手に入れ、ピート=フレッドの「欲望」はすべて応えられたかに思われた。だが、完璧だったはずのフレッドの「幻想」は、「現実/社会」を象徴するミスター・エディ=ディック・ロラントを嚆矢とする”「現実」の侵食”を徐々に受け始める。なによりもフレッドは自分の「レネエに対する思い/渇望」を騙し続けられず、レネエと「相似形」である「アリス・ウェイクフィールド」という女性の「幻想」を自ら創り上げてしまう。しかし、”「現実」のレネエ”と同様、ピート=フレッドはレネエを「モデル」にした”アリスという「幻想」”をコントロールできない。アリスとの接触はミスター・エディの介入を呼び、ピート=フレッドの「幻想」はほころび始める。自らの「幻想」の産物であるはずのシーラやピートの両親にまで「あの夜のこと=レネエを殺害した夜のこと」を追求され、かつミスター・エディとミステリー・マンから決定的な「電話」を受け取るに至って、アリスが教唆するまま、フレッド=ピートは彼女と逃走するためにアンディを殺害する。だが、一度ほころび始めた「幻想」は崩壊の一途をたどる一方だ。「砂漠の小屋」の前での抱擁のあとアリスが告げる「決してあなたのものにはならないわ(You'll never have me)」という一言によって、フレッドのピートを核にした「幻想」は決定的に崩壊してしまう。それとともにピートの「別人格」を捨てざるを得なくなったフレッドは、本来の自分の「人格」に回帰する。

「ターニング-2」
自分自身に戻ったフレッドは、自らの”「感情」や「意識」の象徴”であるミステリー・マンから「アリスとレネエの関係性」そして「自分自身のアイデンティティ」に関する現実を突きつけられ、実際の自分の状況がまったく変わっていないことを認識する。その場を「逃走」したフレッドは、ロスト・ハイウェイ・ホテルの一室からミスター・エディ=ディック・ロラントを拉致し、再び「砂漠の小屋」に舞い戻る。そこで揉み合いのすえフレッドはロラントを殺害するが、それを幇助しロラントに止めをさすのは、フレッド自身の”「感情」や「意識」の象徴”であるミステリー・マンに他ならない。「ロラント殺し=現実の抹殺」を終えたフレッドは、自分の家に戻り、その内部にいる「自分自身」に「ロラント=現実」が死んだことを告げる。再び警察(によって表されるもの)に「追跡」されるフレッドと彼の新たな「遁走」、そしてフレッドがまた「別人格」を創ろうとしていることを示唆して、本編は終了する。

「エンディング」
エンド・ロールとともに、再び”疾走する自動車の中から見た「夜のハイウェイ」”の映像が提示される。これによって「オープニング」への映像的接合が行われ、作品は完全な「円環構造」を完成させる。

各パートのシークエンスが提示する詳細に関しては別項に譲るとして、「ロスト・ハイウェイ」の各パートが伝えるものを荒っぽく捉えるなら、ざっと上記のような具合だ。そこで描かれているのは、自分が抱いた「疑惑」によって最愛の妻を失くし、その「現実」から逃れようとして創り上げた「幻想」をすら自ら崩壊させてしまう男の「悲劇」である。

次項では、この作品が採用している「表現」の特性を、実例を挙げながら整理してみることにしよう。

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