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2008年9月20日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (117)

さて、この後、「インランド・エンパイア」は……

・ロコモーション・ガールの二人による「ポーランド・サイド」の「ストリート」へのスー=ニッキーの誘導(1:11:30)
・ロスト・ガールによる「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」と「腕時計の必要性」の示唆(1:13:08)
・「スミシーの家」の内部で上下に交わされるニッキー(あるいはスー)の「視線」(1:13:55)
・ロコモーション・ガールによる「向かいの建物」の提示(1:14:14)
・腕時計をし、シルクの布に煙草の火で穴を開けてそれを覗くスー=ニッキー(1:17:03)

……などの映像イメージを提示し、「映画を作ることについて」に関連する事象だけでなく「映画を観ることについて」に関連する事象の記述を開始していくが、これ以降の「イメージの連鎖」に関してはすでに述べたことの繰り返しになってしまうので、割愛することにする。

敢えて付け加えるなら(1:06:05)および(1:16:46)において、「スー=ニッキーの様子をうかがいながら、廊下のドアの中に姿を隠すピオトルケ」のショットを挟んで提示される「無人のリビング・ルーム」の映像である。「スミシーの家」がニッキー(あるいはスー)の「内面」であり、この「無人のリビング・ルーム」がその「空虚さ」を表象するものであると捉えるなら、(1:08:24)の映像を含めたその繰り返しの提示や、(1:28:25)からの”「ロコモーション」にあわせて踊る「ロコモーション・ガールたち」の姿が消失し、「無人のリビング・ルーム」だけが残る”という表現もその延長線上にあるとして理解することが可能だろう。

     **********************

……てなわけで、非常に未整理なうえに、いろいろと「見落とし」あるいは「勘違い」も多々あるかとは思いつつ、「インランド・エンパイア」に関する個人的な「解釈」(あるいは「誤読」)については、ひとまずこれでひと区切りとしたいと思います(なんか思い付いたら、また書くかもしれないけどね)。行き当たりばったり、テキトーに書き散らした文章に最後までお付き合いいただいた皆様、お疲れさまでした。

締めくくりとして、何度目になるかわからないが雑感をば。

何を隠そう、大山崎自身にとっても、リンチ作品をここまで詳細に論じるのは初めての体験でりありました。ショット単位までさかのぼった映像の確認作業を通じて「見逃していたもの」がいろいろと見つかるのはスリリングな体験であったし、リンチが採用する「表現」の再認識や整理ができたのは大きな収穫だったと感じております。でもって、そうした作業を通じて実感したのは、「インランド・エンパイア」が冗談抜きに「リンチ作品の集大成」であるということ。これは、単に過去のリンチ作品が提示してきたテーマやモチーフが「インランド・エンパイア」においてもなぞられているからでもなければ、ましてや映画作品を売り込むに際に「なんか褒めとけ」的に用いられる思考停止気味な「キャッチ・フレーズ」でもございません(笑)。以前からの共通テーマやモチーフが有機的に結合されて、「映画というメディア」における……「映画」を「作る局面」と「観る局面」における様々な事象を描く上で、効果的に援用されていることが「集大成」と呼ぶ所以であります。

だが、逆にいうと、そのせいで、リンチが過去作品において展開してきたテーマやモチーフを把握できていない受容者にとって、「インランド・エンパイア」が非常に敷居の高い作品になってしまっているのも確かだと思う今日この頃。特に中盤から後半にかけての「抽象的表現」や「象徴表現」が咀嚼できなかった受容者が確実に存在していることは、巷に流れている”リンチの「作家性」など一切無視した感想”……たとえば「ナラティヴに理解しようとする試み」や「『統合失調症』をキーにしたアプローチ」などが証明しているわけで。

念のために補足しておくと、ここでいう「象徴表現」とは、非常に卑近な例でいえば、たとえば「鳩」が「平和の象徴」であるという「共通認識」を前提に、「平和な状態の終結=戦いの勃発」を「鳩の死体」の映像に仮託する……というようなことであります。結果として、「映像」と「それが表象するもの」がダイレクトに一致せず、いわば乖離状態にある、と。この「鳩の死体」の映像を”「鳩が死んでいる」という事実”を表していると具象的に捉えてしまっては、当然ながらそれが真に「表象しているもの」を見逃すことになってしまう……と書けば「なーんだ」なのだけど、リンチ作品の場合、コトがそれほど簡単ではないのはご存じのとおり。リンチは、「鳩=平和の象徴」といったような誰でもわかる「共通認識」とか、あるいは「図象学(イコノロジー)」上の象徴(イコン)なんかには見向きもしてくださらない。そうではなくて、リンチが採用するのは、リンチ自身の感覚や発想に基づいた独自の「象徴」なんであります。毎度引き合いに出して申し訳ないけれど、前述した「ナラティヴな理解への試み」や「『統合失調症』をキーにしたアプローチ」なんかは、リンチ独自の「象徴」を読み取ることに失敗して「映像」を具象的/表層的に受け取ってしまっている……つまり、「鳩の死体」の映像を「鳩が死んでいる」としか理解できていない「典型例」なんであります。

で、荒っぽくいうと、リンチ作品において「論理」がつながっているのは……つまり、「コンテキスト」を形成しているのは、この「象徴」の部分においてなわけです。大山崎は「イメージの連鎖」という言い方を用いましたけど、”「ある象徴」と「他の象徴」との関係性によって表されるもの”こそがリンチ作品が描いているものであるわけですね。別にしなくてもいいヤヤこしい書き方をするなら(笑)、いわゆる記号論における「連辞」やらナニやらが成立しているのは「シニフィエ(意味されるもの)=象徴=共示」間においてなのであって、「シニフィアン(意味するもの)=具体的映像=外示」間においてではないっつーことです。逆にいうと、リンチが用いている独自の「象徴」が理解できなければ、それを表している「映像」と「映像」の”つながり”がまったく認識できないのは当たり前で、それこそ「統合失調症患者が抱く妄想を描いている」などという粗雑な議論が発生してしまう理由は、まさにここらへんにあるといえましょう。

加えて、リンチ作品における「象徴」が一定の幅をもつこと……つまり、複合的/複義的で抽象的なものであることも問題を混迷させているといえます。たとえば「インランド・エンパイア」において、「サーカス」によって表されるものが「メディア」であると同時に「組織」でもあり得る……てか、この二つの間に境界がなく「融合」したものであるっつーのがその好例です(あくまで、「言語」で説明するなら、ですが)。んでもって、リンチ作品の場合、各「象徴」間の「つながり」が、この「融合」した状態で発生しているのがミソなんでありますね。「サーカス=メディア」と「ファントム=映画の魔」がくっつくと思えば、「サーカス=組織」と「夫の抽象概念=ピオトルケ」が連鎖するってなことが起きるわけです。こうした見方に基づくなら、「スミシーの家」の「裏庭」のシークエンスは、「夫の象徴=ピオトルケ」や「ニッキーの情緒の記憶=ロコモーション・ガール=私的なもの」が存在しているところに、「組織=メディア=公的なもの」を指し示す「サーカス団員」が乱入してくるという、複義的っつーか意味深っつーか、まあ、いろいろな具合に受け取れて「一粒で三百米走れるうえに、二度(以上)おいしい」場面だということになります。

話は戻って、もちろん、こうした「作家独自の象徴の採用」自体は、現代芸術全般においてごくフツーに認められるものであって、リンチ作品に限った話ではありません。のだけれど、それはそれとして、リンチ作品を受容する際して第一の障壁となっているのが、こうした点にあるであろうこともまた間違いないわけで。じゃー、それを理解するにはどーすればいーのよとなると、これがまた輪をかけて困ったちゃんな話になります。なぜなら、こうした「リンチ独自の象徴表現」に対する理解は、基本的に「過去作品を含めたリンチ作品を観ること」を通してしか得られないからです。つまり、リンチ作品を理解するためには、リンチ作品全体に対する(本来的な意味での)「作家論」的なアプローチが必要になる……つまり、実際の「映像」に対する分析的なアプローチの「集積」が不可欠である……というマコトに真っ当だけど、循環論法めいたコトになってしまう。小難しくいえば、あるリンチ作品を「テクスト分析」したうえで、他のリンチ作品との「間テクスト」を構築する……ってなことになるんでしょーか。いや、思いっきりぶっちゃけた言い方をすれば、単にリンチの「手癖」や「足癖」を把握するってだけのことなんですが。

前述したとおり、これは真っ当な方法論ではあるけれど、リンチ作品に対する「とっかかり」を求める受容者にとっては、非常に敷居が高い話ではあります。簡単に「とっかかり」を手に入れる手立てとしては、そうした分析的アプローチの「集積」がどこかに参照できる形で存在すれば……たとえば、書籍として存在すれば事足りるはずで、「David Lynch Decorded」の方法論自体はそういう点では正しいわけです……内容は、ちと、アレだけど(笑)。ところが、少なくとも日本に限っていえば、人口に膾炙する形でそうした観点からリンチ作品を論じたテキストはほぼゼロに等しくて、日本語による基礎資料と呼べるものは、実質上クリス・ロドリーによるインタビュー集しかないというのが現状であります。ま、実際問題として、リンチ作品に関する基礎資料を出版しても数としちゃそんなにハケないだろうなと思うので、大人の大山崎としてはそのこと自体の是非は問いません(笑)。

ただひとつ、明確にいえるのは、最初からリンチの「表現」を理解する「試み」を放棄してしまえば、そもそもそれを理解できるはずなどないということ。「そんなの、当り前やんケ」といわれればそのとおりなのだけど、なかなかこういう当たり前の議論がリンチ作品に関して起こらないのも、また事実なんですよねえ……。

てなことをツラツラ考えつつ、リンチ作品の「集大成」として「インランド・エンパイア」をみたとき、この作品はちょいと皮肉な事態を引き起こしているよーな気がします。っていうのは、「インランド・エンパイア」について何か言及することによって、その「語り手」の(「インランド・エンパイア」だけでなく)リンチ作品全般に対する「理解度」が透けてみえてしまうから。うーん、意地悪ですね、そーですね。とはいえ、作品公開当時の文章だけでもって、評論家筋の方々の「理解度」を計ってしまうのもフェアではないでしょう。試写で一回観せられただけで「何か書け」って言わわれても、「ナニをどーしろと」なんですわ、こーゆーの(笑)。ここはひとつ、リベンジの意もこめて、大山崎のみたいなウダウダのヤツでなくて(笑)、もっとちゃんとした「インランド・エンパイア」論をばどなたか提出していただけないもんでしょうかしらん?

……なんか最後は思いっ切り愚痴っぽくなってしまいましたが(笑)、それはともかくとして、「インランド・エンパイア」を牛のごとく繰り返し咀嚼する作業自体は、ヒジョーに(面倒臭いけど)面白いものでありました。まさか、一年以上もこのネタで引っ張るとは思わなかったけどな(笑)。安物リーフリDVDプレイヤー&安物液晶付きポータブル・プレイヤーも、連続ゴー&ストップ&リヴァースの「耐久テスト」によくぞ耐えてくれました。偉いぞ(笑)。

てなことで、これに味をしめたわけではないがって、ウソ、味をしめて(笑)、自分なりの「リンチ作品に関するテクスト分析の蓄積」を続けてみようかなと考え始めている今日この頃であります。次は何にし・よ・う・か・な……と迷った結果、引き続き「ロスト・ハイウェイ」に関するテクスト分析めいたことをやらかしてみる予定。この作品を選んだ理由はいろいろあるのだけれど、準備が整い次第、そこらへんもあわせてボチボチ明らかにしていくつもりでおります。さて、鬼が出るか蛇が出るか……いや、ミステリー・マンが出てくることだけは確実なんスけど(笑)。

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