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2008年9月17日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (116)

てなわけで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の補追作業である。今回は、(1:09:09)から(1:11:30)までをば。

毎度おなじみ、まずは具体的な映像から。とりあえず、このシークエンスの前半部分をみてみよう。

「スミシーの家」の内部 小部屋 (続き)
(1)細長い青い電球のアップ。傘はついていない。そのままズーム・アウト。
(2)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。暗闇。テーブルの上の青い電球がついたライト・スタンド。闇の中に女性が二人(左からラニ、カリ)いるのが見える。少し右へパン。
(3)スー=ニッキーのアップ。驚きに息をのみ、目だけで自分の右の方向を見ている。
女性: (画面外から) Who the hell are you?
(4)ミドル・ショット。スー・ニッキーの主観ショット。たくさんの女性たちが暗い部屋の中にいる様子が、ところどころの明りのなかに見える。左からロリ、チェルシー、サンディ、ドリ、テリ。左から右へパン。
(5)ラニのミドル・ショット。暗闇の中、光の中に立っている。黒髪。
ラニ: Hey. Look at us and tell us if you're known us before.
(6)スー=ニッキーのアップ。呆然と様子を見ている。踊る光と影。
(7)テリのアップ。黒髪に青い目。
テリ:
There was a man...
(8)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の左手に視線を向ける。
(9)テリのアップ。
テリ: I once knew.
(10)スー=ニッキーのアップ。左手を見ている。
[心臓の鼓動に似たビート音]
(11)ロリのアップ。黒髪をアップにし、窓の下に座っている。
ロリ: [ささやき声で] I so liked to spread my legs wide for him. 
彼女は自分の右手の方に目をやる。踊る光と影。
(12)スー=ニッキーのクロース・アップ。口を半ば開け、呆然としている。
ラニ: (画面外から) Did he do that thing...
スー=ニッキーが声のした方(右手)を見る。
(13)ラニの斜め左からのアップ。肩までの黒髪。白いキャミソールに黒いブラジャー。
ラニ: you know... that little shaking thing, while he was...
(14)スー=ニッキーのクロース・アップ。
(15)ラニの斜め左からのアップ。
ラニ: you know. [笑う]
(16)スー=ニッキーのクロース・アップ。
チェルシー: (画面外から) wasn't that great?
スー=ニッキーが声がした方(左手)を見る。
(17)チェルシーのアップ。カールした金髪。踊る光と影。
チェルシー: (笑みを浮かべて) Yeah.
後退しつつ少し右へパン。
(18)スー=ニッキーのクロース・アップ。左手を見つめたいたが、やがてスー=ニッキーは目をつぶる。涙が彼女の右目からこぼれる。
(19)ドリのバスト・ショット。両肩に刺青。白いキャミソール。背後には積まれた箱が見える。
ドリ: I'd let him do... anything.
[女性たちの笑い声]
(20)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは目を閉じて泣いている。
(21)テリのアップ。左へパン。
(22)ラニのアップ
ラニ: (笑って)Yeah.
(23)スー=ニッキーのクロース・アップ。涙をため、右手を見つめている。目をつぶるスー=ニッキー。
チェルシー: (画面外から) Yeah.
(24)チェルシーの斜め右からのアップ。
チェルシー: [笑う]
(25)カリの斜め左からのアップ。ノースリーブの黒いドレス。背後には机の引き出しが見える。
カリ: [囁き声で] Yeah.
(26)スー=ニッキーのクロース・アップ。呆然と右手の方を見つめている。左下に目を動かした後、正面を見る。

現在論じているシークエンスは、(1:08:18)の「無人のリビング・ルーム」のショットからずっと継続しており、前々回および前回採り上げたシークエンス群とあわせて理解されるべきものである。そのことは、(1:08:18)からこのシークエンスの途中まで、「心臓の鼓動に似たビート音」がサウンド・ブリッジとしてずっと継続していることによって明示されている。

なによりもまず指摘したいのは、カット(7)(9)におけるテリの発言である。これは、Mr.Kのオフィスにおいて、スー=ニッキーがMr.Kに向かって行う発言(1:22:55)と同一である。テリが発言した後、カット(11)からカット(25)にかけて、ロリ、ラニ、チェルシー、ドリたちによって行われる言動は、すべて男性との「性行為」に関連したものであるが、スー=ニッキーがMr.Kに向かって行う発言も、基調として男性との「性行為」に端を発する「トラブル」に関連している。つまり、ロコモーション・ガールたちによって行われる発言は、Mr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーによって「リフレイン」されており、基本的に「同一」なのである。そして、「インランド・エンパイア」に登場する数々の「キー・ワード」が示すように、これらの「リフレイン」ないし「ヴァリエーション」に関連する「者」は、基本的に「等価」なのだ。

こうしたスー=ニッキーとロコモーション・ガールたちとの「同一性」、およびそこから導かれる「等価性」は、「ロスト・ハイウェイ」におけるフレッドとミステリー・マンの間に横たわる「同一性/等価性」と同質のものである。つまり、ロコモーション・ガールたちは、リンチ作品に頻出する「概念の登場人物化」という「常套表現」のヴァリエーションなのだ。そして、ミステリー・マンがフレッドの「内面」に内在するものであるように、ロコモーション・ガールたちも、スー=ニッキーの「内面」に内在する「感情」を表すものとして捉えることができるのである。「心理展開の要請/心理展開のエスカレーション」を表す「青のモチーフ」がこのシークエンスにおいて基調として現れるのはそのためであり、なによりこの事象が発生しているのは「スー=ニッキーの『内面』」を表象する「スミシーの家」の内部なのである。

かつ、「ロコモーション・ガール(によって表わされるもの)」がニッキーの「記憶」であることは、彼女たちの発言が基本的に「過去」に発生したこととして、「過去形」で語られることによって示されている。カット(7)(9)におけるテリの発言に端的に現れているように、それは「以前、知っていた男のこと(There was a man...I once knew)」なのだ。であるならば、ロコモーション・ガール「たち」が「複数」であらねばならない理由、あるいは「女性形」であらねばらない理由は容易に理解できるだろう。それは演技者=ニッキーが彼女の「現実」で遭遇した、さまざまな「実体験」の反映であるのだ。忘れてはならないのは、「ロスト・ハイウェイ」のフレッドや「マルホランド・ドライブ」のベティが抱く「幻想=感情によって歪んだ記憶」に明らかなように、リンチ作品における「記憶」は(いや、現実に我々が抱える「記憶」も)必ず「感情」を伴うことである。ならば、「ニッキーの記憶=ロコモーション・ガールたち」も、ニッキーが抱いた「感情」を内包したものであることは自明だろう。

この「過去の感情=ロコモーション・ガールたち」は、前回に触れたように、”スーによる「ビリーについての回想」”をキーにして喚起されている。より正確にいえば、「登場人物=スーが登場人物=ビリーを回想する」にあたって、スーの「内面」においてどのような「感情」が発生しているかについて、演技者=ニッキーが「内省」を行うことによって、ロコモーション・ガールたちが喚起されているのだ。そしてそれが演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じるうえで……つまり、スーになりきるうえで必要とされる「感情移入=同一化」を獲得する「手段/方法論」であることを考えるとき、「メソッド演技」の基本理論における「情緒の記憶」という概念が「ロコモーション・ガールたち(によって表わされるもの)」と結びつけられることになるわけである。

敢えて言及しておくなら、最終的に演技者=ニッキーが主として採用した「情緒の記憶」が「ラニとロリによって表わされるもの」であることは、この後のいくつかのシークエンスにおいてこの二人が「キー」となって登場していることから推察される。この二人は「ポーランド・サイド」の「ストリート」にスー=ニッキーを誘い(1:11:40)、「ストリート」挟んだ向かいの「建物」を提示し(1:14:15)、同じく「ポーランド・サイド」の「ストリート」でロスト・ガールを「魅了」する(2:11:34)。そして、最終的には「ファントムの崩壊」によって「迷宮めいた場所」から「解放」されるのだ(2:47:11)。

このように「ロコモーション・ガールたち」を演技者=ニッキーに内在する「情緒の記憶」として捉えるとき、「Mr.Kのオフィスにおけるスー=ニッキー」が表象するものについてまた新たな光が投げかけられることになる。スー=ニッキーがMr.Kに向かって話す「男性との性交渉」とそれが引き起こす「トラブル」の話は、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」に基づくものとして、彼女の「内面」から現れたものだ。では、彼女が話す「男性との性交渉」以外の話、たとえば「世界の終わり」を見て泣き叫ぶ少女(1:35:51)や、ファントムの片足の妹などの話(1:47:24)は、いったい誰の「情緒の記憶」なのか? ノース・カロライナに関する言及やファントムの片足の妹の話が、映画監督としてのリンチの私的な部分から生まれたものであることについては、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(27)および(28)において触れた。そこから推察するに、もしかしたら、Mr.Kに向かってスー=ニッキーが言及する事項には、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」だけでなく、その他のスタッフ……監督やシナリオ・ライターの「情緒の記憶」も同時に投影されてはいないか? つまり、スーという「登場人物」の「人物像」の成立には演技者=ニッキーだけでなく、他の製作スタッフの力も与っているということが、スー=ニッキーのMr.Kに対する一連の「言及」をとおして表わされているという可能性である。

もう一点、指摘しておきたいのは、カット(11)においてロリの背後に見える「窓」と、カット(19)においてドリの背後に見える「積まれた箱」、そしてカット(25)においてカリの背後に見える「机」である。(1:25:53)からの映像との対比において、この「窓」「積まれた箱」「机」が「小部屋」に存在していることは明らかであり、現在論じているシークエンスの事象はすべてこの「小部屋」内で発生していることになる。だが、これ以降、たとえば(1:26:28)からのシークエンスにおいては、スー=ニッキーが存在しているのは確かにこの「小部屋」であるが、ロコモーション・ガールたちは「リビング・ルーム」に存在していることが確認される。そして、これ以降、ロコモーション・ガールたちは、(1:31:08)や(1:48:31)あるいは(2:06:52)にみられるように「小部屋」あるいは「リビング・ルーム」に存在しているか、あるいは(1:37:20)からのシークエンスのように「裏庭」に存在しているかのどちらかであり、「スミシーの家」のそれ以外の場所には現れない。

ピオトルケとの対比において、これは非常に面白い事実である。「ピオトルケ(によって表されるもの)」が「ベッド・ルーム」を起点として現れ、そこをメインの場所としながら「廊下」「ダイニング」「裏庭」と姿をみせ、(2:16:32)の「殴打シーン」においてそれまで足を踏み入れる描写がなかった「リビング・ルーム」に初めて現れる。それに対し、「ロコモーション・ガールたち(によって表されるもの)」は「小部屋」を起点に、主に「リビング・ルーム」に姿を現すのである。これは前回述べた、”「スミシーの家」の内部にある部屋の役割”とも密接に関連するものだ。「トラブル=機能しない家族」は「ベッド・ルーム」にその要因を内包し、「内省」や「認知/認識」は「小部屋」にその根源をもつ。そして、「裏庭」においてのみ、ピオトルケとロコモーション・ガールは同時に存在するのである。この構造は、「ニッキーの屋敷」における「高低のアナロジー」と一見「類似」したものであるように見える。だが、「スミシーの家」の内部における事象は、基本的に「内面」で発生しているものであるとういう点ですべて「私的」なものであること、その領域内でもっとも「公的」な場所が「半ば公的で半ば私的」な「裏庭」であることには留意しておかなければならない。「スミシーの家」におけるアナロジーは「水平方向」のものであり、「トラブル=機能しない家族」の要因である「ピオトルケ」と、「内省」「認知/認識」の結果である「ロコモーション・ガール」は、ともにニッキー(あるいはスー)の「感情の反映」として同一の「水平面」に存在するのである。

(27)ラニのアップ。
ラニ: Strange... what love does.
(28)スー=ニッキーのクロース・アップ。
ロリ: (画面外から) So...
(29)ロリのアップ。左手を見ている。彼女にクロース・アップ。
ロリ: strange.
(30)スー=ニッキーのクロース・アップ。目を閉じるスー=ニッキー。
["Ghost of Love"が流れはじめる]
(31)長椅子に埋まるように座ったサンディのアップ。黒髪。ピンクのキャミソール。両側には他の女性の腹部あたりと腕が見える。
サンディ: In the future...
(32)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の右の方に視線を移すスー=ニッキー。
(33)ドリのアップ。下方からから上へ女性の顔までパン。彼女は右手の方を見ている。
ドリ: you will be dreaming...
(34)テリのアップ。右手の方を見ている。
テリ: in a kind of sleep.
(35)スー=ニッキーのクロース・アップ。右を見つめているスー=ニッキー。
(36)カリのアップ。
カリ: When you open your eyes...
(37)スー=ニッキーのクロース・アップ。声のした方(自分の左手)を見るスー=ニッキー。
(38)ラニのアップ。
ラニ: someone familiar will be there.
(39)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の左手を見ているスー=ニッキー。
-- Strange
スー=ニッキーは目をつぶり、両手で目を覆う。
(40)ラニのアップ。ズーム・イン。
-- What love does
(41)両手で目を覆っているスー=ニッキー。ズーム・イン。
(フェイド・アウト)

続いて、このシークエンスの後半部分では、二つのものが提示される。

ひとつは、「Ghost of Love」という曲によって示唆される「トラブル=機能しない家族」の発生要因である。「家族」の始まりが「男女の関係」に起因するなら、そしてその「男女の関係」が両者の相手に対する「愛」によって成立するなら、「トラブル=機能しない家族」は”「愛」が起こす「奇妙なこと」”のひとつに他ならない。

もうひとつは、ロコモーション・ガールたちによる「映画というメディア」についての言及だ。「近い将来/眠りのようなものの中で/あなたは夢を見る。そして目を開けたとき/よく知っている者がそこにいる」……すなわち、「時間と空間に対する見当識の失当」の果てに「感情移入=同一化」の対象を見付けるであろうことを、ロコモーション・ガールたちは「予告」する。そして、その「予告」どおり、「インランド・エンパイア」はこの後、「映画を作ること」「映画を観ること」についての記述を交錯させることによって、演技者と受容者による登場人物の「共有」を描くことになる。

このようにしてみる限りにおいて、このシークエンスの後半が提示しているのは、やはり「機能しない家族」と「映画についての映画」という二つのテーマを「インランド・エンパイア」が内包していることの「宣言」であるといえるだろう。と同時に、これは「映画」というメディアが映像と音響でもって、何をどう伝えることができるかということの「例示」でもあるはずだ。つまり、映像が「映画についての映画」についてのテーマを展開しつつ、そのかたわらで音響はそれが「機能しない家族」に関連していることを伝えるという多重構造を形成しているのである。我々=受容者が、「映画」が提示するこうした多層的な「情報」を受け取り、それを統合して総体的に理解する作業を意識的/無意識に行ないつつ「映画」を受容することを考えるとき、これもまた「インランド・エンパイア」が行なう「自己言及」のひとつであり得るし、我々=受容者の問題としての「映画受容」に関する言及となり得るのだ。

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