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2008年9月 5日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (112)

てなわけで、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(34)あたりから始まった具体的映像をもとに「イメージの連鎖」をさぐる作業は、一通り終わったことになる。ただし、最初はこんなに詳細にやるつもりがなかったので、(1:00:00)から(1:15:00)あたりまでの記述には、かなり抜けがあったりするのだな。大山崎がいかに行き当たりばったりで書いてるかを物語るものではあるが、ま、そんなもんス(笑)。これからしばらく、そのあたりを追補しつつ、整理する作業をしておきたい。

では、前回触れたときは省略した(1:00:00)から(1:03:43)までのシークエンスの具体的映像を引用してみよう。まず、”第一回目の「Axxon N.」の発現”のシークエンスから”スー=ニッキーの「スミシーの家」への侵入”までである。

裏通り 外部 (昼) (1:00:00)
(フェイド・イン)
(1)ロング・ショット。右から左へ移動。寂れた裏通り。左右に建物の壁があり、右の壁には円柱。画面手前には銀色のオープン・カーが駐車している。画面の奥から、緑色の柄のブラウスと黒のハーフ・パンツ姿、サングラスをかけたスーが、左手に食料品の入った紙袋、右手から黒のバッグを下げて近づいてくる。画面奥の通りでは、車が行き交っているのが見える。オープン・カーの前に立った彼女は自分の右手に何かを認めて、そちらのほうを見る。
(2)ミドル・ショット。若干左からのショット。食料品の袋をオープン・カーの後部座席に置きながらも、スーは自分の右手ののほうを見詰めている。背後の建物の壁には、茶色の鉄の扉が見える。扉の上には、白いエアコンの室外機が取り付けられている。壁に書かれた白い文字の落書き。奥の方の壁際には、水色のダスターが見える。
(3)ミドル・ショット。スーの主観ショット。半ば開かれた、薄汚れた灰色の鉄製の扉。扉には白い文字で"Axxon N. →"と書かれている。文字の下の方には、四角い枠の何かを剥がした跡のようなものがある。
(4)バスト・ショット。書かれている文字の方ををしげしげと見詰めるスー。
(5)スーの主観ショット。"Axxon N. →"へクロース・アップ。
(6)バスト・ショット。なおも文字を見詰めているスー。やがて、ゆっくりと左に歩き始め、画面の左手へと姿を消す。
(7)ミドル・ショット。スーの主観ショット。"Axxon N. →"が書かれた扉。扉の左には灰色い煉瓦の壁が見える。スーが歩くに連れて、近づいてくる"Axxon N. →"の扉。
(8)ミドル・ショット。やや右側からのショット。オープン・カーの横を通って、扉に近づいていくスー。それにつれて、左へパン。ゆっくりと扉の中に入っていくスー。それを追いかけるショット。扉の中の暗闇に、電球が灯っているのが見える。
(9)スーの主観ショット。右にパン。"→"がチラリと見える。闇に沈む通路。その奥に入っていく視点。丸電球が天井から下がっている。暗闇。ぼんやりとした照明を受ける天井。またもや暗闇。
[扉が閉まる音]
(10)闇の中、階段の手前で立ち止まるスーの姿がぼんやりと見える。一瞬、下に続く階段の踊り場にいるスーの姿が、閃光の中に浮かぶ。

カット(1)からカット(9)までのシークエンスにおいて「具体的映像」として提示されているものが、(0:56:20)からのシークエンスで女性/ニッキー/スーによって「言及されたもの」の「映像によるリフレイン」であることは明白だ。そして「インランド・エンパイア」の「実上映時間軸」からみたとき、この二つのシークエンスが”「昨日」と「明日」の関係”にあることについても、前項で述べたとおりである。映像からは明瞭ではないが、女性/ニッキー/スーの言及にしたがうなら、カット(4)-(6)におけるスーは「何かを思い出し始め(I start remembering something)」「すべての記憶が流れ込んで(I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory)」いる状態であるはずだ。そして「彼女が何を思い出しているか」に関しては、この後のシークエンス……スーが(あるいはスー=ニッキーが)、実体化した「スミシーの家」に入るまでのシークエンスにおいて明示されることになる。

続いて、もうひとつの”「昨日」と「明日」の関係”が提示される。

「スタジオ4」(内部)
(11)暗闇。アウト・フォーカスからイン・フォーカスに。足音ともに近づいてくるスー。彼女は正面の何かを見詰めている。アップになるまで近づくスー。
ニッキー: (画面外で) "Oh, shit."
ニッキー:
(画面外で) "Look in the other room."
(12)ロング・ショット。人影が横切り、画面の左外へと消える。そこは「スタジオ4」の内部である。ニッキーとデヴォンの背後からショット。ニッキー、デヴォン、キングズレイ、フレディが、白い布をかけた長いテーブルにつき、椅子に座っている。彼らはリハーサルの最中だ。
フレディ: what the hell is that?
キングズレイ: Freddie, shh.
フレディ: No, somebody's over there.
驚いてフレディの方をみやり、慌てて正面を向き直るキングズレイ。全員がステージの奥のほうを見る。
キングズレイ: (溜息)
(13)スーのアップ。口を半ば開け、四人の方を見ている。背後は暗闇である。
キングズレイ: (画面外で) This stage is supposed to be ours and ours alone.
(14)ロング・ショット。スーの主観ショット。立ち上がって腰に手を当てているキングズレイ。座ったままのフレディ。左手で涙を拭っているニッキー。デヴォンも立ち上がっている。
デヴォン: (キングズレイに向かって)Let's have a look.
向き直り、ステージの奥(画面手前)に向かって歩き始めるデヴォン。
キングズレイ: (両手を広げ、ニッキーに)I'm sorry.
(15)スーのアップ。
ニッキー: (画面外で) It's Okay.
(16)ミドル・ショット。スーの主観ショット。キングズレイがテーブルの向こうで、腰に手を当てて立ったまま、彼女の方を見ている。フレディはテーブルの向こうに座ったまま、彼女の方を見ている。だが、そこにニッキーの姿はない。テーブルの上、キングズレイの左手には黒いコーヒー・メーカーが置かれ、その他マグカップやなどが置かれている。
(17)スーのアップ。しばしキングズレイたちの方を見つめたあと、画面の右方向に消える。

カット(11)において、そこが「スタジオ4」の内部であり、ニッキーたちを始めとした「四人」による「リハーサル」の最中であることが明示される。そこで交わされている様々な「会話」や発生している「事象」の「同一性」からして、これが(0:23:59)からのシークエンスで提示された「事象」と同一であることは明らかだ。「インランド・エンパイア」の実上映時間軸からみたとき、これもまたカット(10)までの映像と同じく過去に提示された事象のリフレインであり、二つの事象は”「昨日」と「明日」の関係”にあるわけである。

(0:23:59)からのシークエンスについて述べた項でも説明したとおり、このリフレインされる「リハーサル」の映像は、”第一回目の「Axxon N.」の発現”がどの時点でのことであったかを理解する端的な「手がかり」となるものだ。一連の映像を観るかぎり、それはこの「リハーサル」が行われている最中にすでに起きている。実上映時間軸上における「カット(1)-(10)」=「『Axxon N.』の発現」と「カット(11)-(17)」=「リハーサル」の「前後関係」あるいは「位置関係」からして……つまりこの二つのシークエンスの”「昨日」と「明日」の関係”からして、”第一回目の「Axxon N.」の発現”が「リハーサル」が始まった後のどこかの時点……すなわち「ニッキーがスーを演じている時点」で発生しているのは明瞭だからだ。

こうした一連の表現をつうじて、(0:14:56)で「訪問者1」が言及していた”「昨日」と「明日」の問題”が「映画」というメディアに関する「言説」であると同時に、「インランド・エンパイア」自体に関する「言説」でもあったこと……つまり、「自己言及」であったことが了解される。我々=受容者は、「インランド・エンパイア」においてこうした”「昨日」と「今日」の関係”が発生することを、あらかじめ「訪問者1」によって予告されていたのだ。我々=受容者は、「映画」というメディアにおいて物語記述上の「時系列操作」が発生していることを、なんら疑問を抱かず日常的に受け入れている。「操作を受け、入れ換えられた時系列」を認識し整理したうえで「正常な時系列」として再構成する……という非常に複雑な作業を、(ときとして「字幕」や「テロップ」の補助を受けることはあっても)我々はほとんど無意識にやってのけるのだ。「小説」などのメディアに比べ具体性が高い(言い替えれば「現実」に近い)「映像」というメディアの受容においてさえこうした作業が達成可能であることは、我々=人間=受容者が備える「高いパタン認識能力」と「ナラティヴに物事を理解する特性」を指し示すものである。このように、「インランド・エンパイア」が提示する「映画」における「時間コントロール」の問題……”「昨日」と「明日」の問題”について考えるとき、我々はそれが”「感情移入=同一化」の問題”と同じく、我々=受容者側の問題でもあることに思い至ることになるのだ。

そして、カット(16)における「ニッキーの消失」である。演技者=ニッキーの「内面」における「登場人物=スーのアイデンティティの形成」を経て、この二人の混淆物である「スー=ニッキーの形成」が行われたことを、この「ニッキーの消失」は物語っている。かつ、ここで発生している「観るもの」「観られるもの」の関係性の発生が、この後二回にわたって発生する「Axxon N.」の発現に共通して認められ、そこで発生する「視線の交換」が映画というメディアにおける「感情移入=同一化」の喚起のキーになっていることは、何度か述べたとおりだ。

ただし、このシークエンスにおける「視線の交換」が、実は「スーからニッキーへ」の一方通行であること……つまり「交換」が成立していないことは注目すべきだろう。これは、基本的に(0:56:39)からのシークエンスにおいて提示される「スーのアイデンティティの形成」あるいは「スー=ニッキーの形成」が、演技者=ニッキーの「内面」で発生している事象であり、「外界」からは認知不能であることの表象として受け取るのが妥当なはずだ。それを裏書するように、”「スミシーの家」の実体化”後のシークエンスにおいて、同様の事象が「デヴォンとスー=ニッキーの間に発生する『視線の交換』の不能性」という表現で再提示されている(1:04:07)。

興味深いのは、ニッキーたち四人のなかで、フレディだけが朧げとはいえスーの存在を認めたことだ。「動物」に関する言及を行ったり「金銭」に関連する言動をみせたりと(0:38:39)、彼が”映画監督としてのリンチの「代弁者」”という機能を担っていることは確かだ。ただし、彼が「スーの目撃者」である理由がそれであるのかどうか、映像からは明瞭ではない。

(18)ミドル・ショット。アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。暗闇のなかを、画面手前に近づいてくるデヴォン。アップになり、イン・フォーカスになった位置で立ち止まるデヴォン。
[スー=ニッキーの足音]
それを聞いたデヴォンは再び歩き出し始め、画面手前に姿を消する。暗闇だけが残る。
(19)ミドル・ショット。スー=ニッキーの右手からのショット。暗闇のなか、ステージの奥に向かうスー=ニッキー。それを追って、右へパン。大きな鏡の前を通り、カーテンの向こう側に姿を消す。
(20)デヴォンのアップ。背後は暗闇。
[スー=ニッキーの走る音]
それを聞きつけたデヴォンも走り始め、画面右に姿を消す。
(21)ミドル・ショット。ステージの中を、奥(画面手前)に向かって走るスー=ニッキー。それにつれて後退する視点。背後には組み立て中のセットが、背後右手にはステージの壁が見える。あえぐスー=ニッキー。
(22)ミドル・ショット。暗闇のなか、スー=ニッキーの走る足音を追いながら、画面右から左へと姿を消すデヴォン。
(23)ミドル・ショット。暗いステージの奥(画面手前)に向かって走り続けるスー=ニッキー。それに連れて後退する視点。彼女の右の肩越しに、セットの窓からこちらを見ているピオトルケの姿が見える。彼は緑色のコートを着ている。
(24)ミドル・ショット。スー=ニッキーは「スミシーの家」のセットの前までたどりつく。立ち止まり、後ろを振り向く。何かを目にする。
(25)スー=ニッキーのアップ。何かを目にして、息を飲むスー=ニッキー。
(26)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。 暗闇のなか、緑のコートを着たピオトルケが、そこだけ明るい窓の中から彼女を見ている。揺れながら急激にクロース・アップ。
(27)ミドル・ショット。デヴォンがステージの暗闇の中を歩いている。デヴォンの背後からのショット。早足で画面左から右へと姿を消す。
(28)スー=ニッキーのアップ。戦きの表情。彼女の背後には「スミシーの家」のセットが見える。彼女の左手には白い扉、右手には窓の一部が見える。
(29)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。窓の中から彼女を見ているピオトルケ。
(30)バスト・ショット。ステージの暗闇の中を、画面手前に向かって走るデヴォン。それに連れて後退する視点。彼の背後には組み立て中のセットが見える。 (31)スー=ニッキーのアップ。恐怖の色を浮かべている。
スー=ニッキー:
Billy!
(32)デヴォンのアップ。セットの暗闇の中を、画面手前に向かって走るデヴォン。それに連れて後退する視点。彼の右の肩越しに、窓からこちらをうかがっているピオトルケの姿が見える。
(33)スー=ニッキーのアップ。
スー=ニッキー: Billy!
(34)スー=ニッキーのクロース・アップ。
スー=ニッキー: Billy!
(35)スー=ニッキーは踵を返し、「スミシーの家」のセットに駆け寄る。彼女の背後から、まばゆい照明が彼女と「スミシーの家」を捕らえる。玄関のドアの前でスー=ニッキーは立ち止まり、左手をドアのノブにかけたまま、照明の方を振り返る。「スミシーの家」の玄関ドアの左側の壁には、"1358"という標識と郵便ポストがある。右側の壁には、鉄製の枠でできた外灯と、窓越しの黄色いカーテンが見える。窓の下のあたり地面から、雑草が生えているのが見える。
(36)スー=ニッキーの主観ショット。窓越しのピオトルケのアップ。下から上にパン。
(37)スー=ニッキーのアップ。彼女は自分が目にしたものに慄いている。「スミシーの家」のドアを開け、中に入るスー=ニッキー。

カット(18)からカット(37)にかけて、再び「監視/干渉」のイメージを付随させた「ピオトルケ」の映像が提示される。カット(26)(29)に明瞭であるように、彼は「緑のコート」を着用しており、(2:05:17)からのシークエンスでジャック・ラビットが言及する「緑のコートの男(It was the man in the green coat)」がピオトルケを指していいることを明示している。そして、それを裏付ける形で、「スミシーの家」のベッド・ルームに置かれているクローゼットの中で、老人がピオトルケに手渡した「拳銃=物語展開の要請」が「緑色のコート」とともにスー=ニッキーによって発見されることになる(2:40:54)。

同様にカット(18)からカット(37)の映像によって明らかなように、スー=ニッキーを「スミシーの家」に……つまり、彼女の「内面」に追い込むのは「ピオトルケの視線」である。繰り返し述べたように、これは演技者=ニッキーが登場人物=スーに「感情移入=同一化」を果たすうえで、個人としてのニッキーが抱える「トラブル=機能しない家族」に接した際の「感情」がキーとなっていることの表れとして了解される。こうした「感情」こそが、ニッキーが(あるいはスー=ニッキーが)思い出した「記憶」であることの明示に他ならない。(0:56:20)のシークエンスにおいても、同じく「ピオトルケの視線」がニッキーの「感情移入=同一化」の成立に関与していることが描かれており、このシークエンスにおいて提示されているのは、その「リフレイン」であり「ヴァリエーション」であるといえる。

かつ、ピオトルケは「家」の窓から「監視」の視線を送るが、つまりこれは彼が「家」の内部にいることの表象である。ニッキーの「トラブル=機能しない家族」は、当然ながら彼女の「家」の内部に存在するのだ。しかし、「スー=ニッキー」が生成された時点で、彼女(たち)の「内面」としての「家」は「スミシーの家」によってとって変わられている。もともとニッキー個人の「家」であったものは彼女から切り離され、その「内部」にある「トラブル=機能しない家族」の要因である「ピオトルケ」とともに、”機能しない家族の「個別例」”として「スミシーの家」と「対置」されるものとなる。カット(23)以降の映像において、ピオトルケが「内部」に存在する「家」(のセット)が、「スミシーの家」(のセット)と対面する形で位置していることが見て取れるが、これはそうした”「家」の分化”を指し示す表現として理解可能だ。

見落とせないのは、スー=ニッキーを追いかけるデヴォンもまた、「ピオトルケの視線」に晒されていることだ。(0:56:39)からの「スミシーの家」のベッド・ルームにおける事象と同じく、このシークエンスで発生している事象も、女性/スー/ニッキーと男性/デヴォン/ビリー、そしてピオトルケの三者の間で発生している事象であり、女性/スー/ニッキーと男性/デヴォン/ビリーはともに「ピオトルケの視線」に晒されているのだ。その意味において、カット(18)からカット(37)のシークエンスで提示されている事象は、「スミシーの家」のベッド・ルームにおける事象の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。そして、当然ながら、この二つの事象がそれぞれ指し示すのは、ニッキーのスーに対する”「感情移入=同一化」の形成/深化”に「夫=ピオトルケ(の視線)」が関与しているということに他ならない。

このようにしてみるかぎりにおいて、(1:00:00)から(1:03:43)までのシークエンスが提示/表象するものは、基本的にそれまでのシークエンスが提示/表象したものの「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。そしてその一部は、これ以降のシークエンスにおいても、また違った形で繰り返され、変奏されることになる。「同一テーマ/同一モチーフ」の「リフレイン/ヴァリエーション」の提示はリンチ作品が共通してもつ特徴であり、「インランド・エンパイア」もその例外ではない。こうした「同一テーマ/同一モチーフ」の把握は、この作品を理解するうえで重要なポイントになるはずだ。

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