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2008年9月

2008年9月30日 (火)

独逸でリンチの写真展(もう終わってますが)のハナシ

本日のDugpa.comネタ。

「David Lynch: New Photographs」と題するリンチの写真展が、8月1日から9月17日まで、ドイツのデュッセルドルフで開催されていた模様。

Emily_scream_2_pv 展示された作品の一部をここで見ることができるのだけれど、「Distorted Nudes」系列の作品ぽい「Couchシリーズ」や「Woman Thinkingシリーズ」があったり、抽象的な物体をモノ・トーンで写したドローイングと見間違うような「Chain of Events」などの作品もあったりで、色とりどり。

これまたドローイングと同じように「文字」を貼り付けた「Light Cigaretteシリーズ」があるかと思えば、花の一部を超接写で撮った「Yellow Blue Red」ってなまんまなタイトルの作品もあって、リンチの「テクスチャー」に対するこだわりがうかがえる感じ。

これまで開催されたリンチの作品展の主要リストも掲載されているのだけど、1997年の大阪を最後に、日本ではリンチの作品展が開催されてないって、あれ、そーだっけか? 確か2~3年前にもフィラデルフィアでリンチ展が開かれていたハズで、たまたま当地を訪れていた知り合いの某「ハーモニカ&ウクレレ奏者」が観て来てたんだけど、リストには載ってないのは規模が小さかったから? うーん、ちょっと、よくわかりません。

2008年9月29日 (月)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (2)

リハビリ中の大山崎です(笑)。大分、都会の生活に慣れて回復してきました。しかし、暑いところから帰ってくると、一段階飛ばしぐらいで秋の深まりが感じられますな。つか、もう寒いぐらいなんですが、どーしたもんでしょーか(笑)。

というわけで、「ロスト・ハイウェイ」に関する概論の続き。

さて、視点を変えて、「ロスト・ハイウェイ」をその「省略されたストーリー」からみるなら、以下のようになる。

妻=レネエ・マディソンの不貞を疑った夫=フレッド・マディソンが彼女を殺害し、逮捕される。死刑判決を受けて死刑囚房に収監されたフレッドは、妻を殺した罪の意識から自我を守るために、あるいは現在の状況から受ける精神的重圧から逃れるべく、その「内面」で「別人格」を形成し、それを核とした「幻想」のなかに逃げ込む。だが、妻を殺した「現実の記憶」はさまざまな形でその「幻想」を脅かし続け、最終的にそれを崩壊させてしまう。「幻想」が崩壊した後のフレッドが、再び新しい「別人格」を形成し新たな「幻想」に逃げ込もうとしていること、そしてそれは彼が処刑されるまで繰り返されるであろうことを示唆して、作品は終わる。

……と、いった具合だ。もちろん、作品中ではこうした「ストーリー」のかなりの部分は省略を受けており、客観的にそれを説明する映像は基本的に存在しない。フレッドによる「レネエ殺害」から逮捕・判決・収監は開巻前にすでに終わっており、作中で描かれているのはそれに関するフレッドの「記憶」だけである。

このように「省略されたストーリー」を捉えたとき、その直接的な関連はともかく、リンチのいう「O・J・シンプソン事件」とこの作品との比較/照合は、非常にわかりやすい説明だといえるだろう。刑事裁判では「人種差別」をキーにした弁護戦略、そして警察側の証拠保全の不手際で「合理的な疑い」が拭えず無罪になったシンプソンだが、その後の民事裁判では遺族への賠償金支払いを命じる判決が降りた。はっきりいって、全米、いや全世界の誰もがシンプソンが果てしなく疑わしいと感じている。そのなかで、彼がにこやかに笑いながらゴルフに興じている様子がTVから流れるという状況は、どこかがおかしい。何よりも、本人の「内面」において、一連の出来事はどのように解釈され、処理されているのだろう? もし、二人の殺人を犯した当時の「人格」や「記憶」がどこかに追いやられ、まったく新しい「人格」がその「内面」において形成されていると仮定すれば、これはかなり理解しやすい「モデル」ではないか。

一方、この作品の公開時に使用されたキャッチ・フレーズとして、「心因性遁走(サイコジェニック・フーガ)」という心理学用語がある*。何らかの重篤な心理的重圧を受けた人物が、それを逃れるために関連する記憶を喪失したり、自己同一性を失う(=別の人格を形成する)という症状を呈する疾患である。これも上述したシンプソンが抱えていたであろう心理状態を説明する用語として、あるいは作中のフレッドの心理状態を表す用語として、非常に端的なものであるといえるだろう。リンチの弁によれば、これはこの映画の宣伝担当だったデボラ・ウーリガーが医学雑誌か何かから探してきた語句だということだ**。ただし、リンチの証言を信じるなら、本人もギフォードもウーリガーに知らされるまで、この用語の存在自体を知らなかったらしい。かつ、リンチがこの「サイコジェニック・フーガ」という用語を気に入ったのは、それがフレッドが抱える疾患だからというよりも、その言葉が持つ「響き」のせいであるようである。

いずれにせよ、まさしく「ある日、とある人物が目覚めると別人になっていた」というリンチの基本アイデアそのままの事象が「ロスト・ハイウェイ」において発生していることは、改めて指摘するまでもないだろう。そして、上述したO・J・シンプソンの「例」を踏まえるなら、その事象がフレッド・マディソンの「内面」において起こっていることは見逃せない。なぜなら、この”フレッドの「内面」において起きている”という点が、「ロスト・ハイウェイ」が採用している「表現」を把握するための重要なキー・ポイントになるからだ。

端的にいえば、「ロスト・ハイウェイ」が主として提示しているのは、フレッドの「内面」で発生している事象を具体例とした、”人間の「記憶」の問題”である。そして、それは”人間の「外界に対する認知/認識」の問題”を扱っていることと同義だ。なぜなら、「記憶」は「長期的な認知/認識」であるといえるし、「認知/認識」は「短期的な記憶」であるといえるからだ。かつ、「記憶」あるいは「認知/認識」には、必ず「感情」が伴われ、我々の「記憶」あるいは「認知/認識」はその「感情」によって歪められざるを得ない。作中でフレッド・マディソンはビデオ・カメラが嫌いな理由を尋ねられて、「自分が好きなように記憶していたいから(I like to remember things my own way)」と答える(0:24:28)。だが、それはフレッドに限ったことではない。基本的に我々は”自分が好きなように、外界を「認識」し「記憶」する”……より正確にいうなら、そもそも我々は”自分が好きなようにしか、外界を「認識」したり「記憶」したりできない”のだ。別項で詳述するが、「ロスト・ハイウェイ」が提示する「映像群」がきわめて「表現主義的」なものであるのは、それらがフレッドの「感情」によって歪められた「記憶」であり、彼の「主観」に基づく「外界に対する認知/認識」であるからである。この作品内で発生している「事象」は基本的にすべてフレッドの「内面」におけるものであり、彼の「感情」や「主観」をキーにして読み取られるべきものなのだ。

……いや、これは話が逆だ。リンチが「ロスト・ハイウェイ」で描こうとしたのは、フレッドが抱えている「感情」そのものなのだから。我々は、その映像群が伝える「歪み」そのものをつうじて、その「歪み」の原因である彼の「感情」を……彼の「苦悩」と「願望」、自我を守るための「自己欺瞞」、「罪悪感」」、そして「レネエへの思い」を理解する。決して「誰が何をしてどうなった」という「物語=ナラティヴ」を通してではなく、この「歪み」を表す「表現」を通してダイレクトに(「非ナラティヴ」に)フレッドの「内面」を理解する。こうした「方法論」において、「ロスト・ハイウェイ」は、「イレイザー・ヘッド」や「マルホランド・ドライブ」、ひいては「インランド・エンパイア」と完全に相似形にあるといえるだろう。

とはいえ、リンチ作品において、この”「表現」を読み取る作業”とそれが伝える”「感情」を理解する作業”は、常に相互作用的であるのも間違いないところである。ある「表現」が伝える登場人物の「感情」をキーにして、他の部分の「表現」を読み取る。それがまた他の「表現」が表象するその人物の「感情」の把握につながる……といった「往復作業」がリンチ作品の受容者には要求され、ある意味で作品に対する理解は「循環論法的」にならざるを得ない。あるいは、リンチが受容者に対して繰り返し表明する「自分の直感を信じて観て欲しい」という要求の実体は、そうした「循環論法的な理解」にあるといえるのではないか。

また、「省略されたストーリー」をからみたとき、この作品が内包しているテーマのひとつが「機能しない家族」であることは、容易に理解できる。「インランド・エンパイア」において演技者=ニッキーと登場人物=スー、そして受容者=ロスト・ガールをつなぐキーとなったこのテーマは、この作品においては「フレッドによるレネエ殺し」という形で提示され、その「殺人=トラブル」は「家」の内部で、それも「ベッド・ルーム」において発生しているのは重要なポイントだ。「インランド・エンパイア」などと同様に、この「ロスト・ハイウェイ」においても、”「何かよくないことが起きる可能性のある場所」としての「家」”は重要なモチーフとして現れているが、それはこの作品の音響に関する質問に対し、リンチ自身が「『家庭はトラブルが生じるところ』というコンセプトで音を考えた」***と明確に答えていることによっても裏付けられる。そして、当然ながら、この作品に現れる「フレッドの家」が「フレッドの『内面』」を表すものとして捉えられることはいうまでもない。

*「解離性障害(dissociative disorders)」の一種で、現在では「解離性遁走(dissociative fugue)」と呼ばれる。

**「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.310

***同上 P.295

2008年9月27日 (土)

「ロスト・ハイウェイ」を観た (1)

えー、ちょいと一週間ばかり、南のほーでボーっとしておりました(笑)。それもすんげえ「山ん中」で木やら森やら鳥やら虫やらの自然方面はスゴイんですが、当然ながらネット・カフェなどあるわけもなく、ブログやらメールやらすっかり忘れて思いっきりボケっとしてたもんで、いやもう「社会復帰」がヤバいっス(笑)。いや、海辺も行ったんですが、現場についてまず現地の方から受けたのが「ハブに噛まれたときの応急手当」のレクチャーだったてのも、なんか思いっきりな感じでございますな(笑)。

さて、では、ボチボチと社会復帰のリハビリを兼ねて、「ロスト・ハイウェイ」に関する記述を始めることにする。ときどき復帰できないまま何か書くかもしれないけど、ま、テキトーに(笑)。

まずは事実関係的なところをば、軽くおさらい。

この作品はデイヴィッド・リンチの劇場作品としては7作目になり、アメリカでは1997年2月に、日本では同年6月に公開された。撮影開始は1995年11月だが、リンチの弁によれば、3月にはシナリオがアップしていたらしい。だが、製作出資契約をしていた「CIBY2000」からのゴーがなかなかかからず、この時期の撮影スタートとなった様子だ。なお、当時、「CIBY2000」とリンチは三本の映画製作契約を交わしており、「ロスト・ハイウェイ」はその二作目になる。ちなみに一作目は「ツイン・ピークス 劇場版」(1992))であり、この後、三本目の製作前にこの契約は「CIBY2000」側から破棄された。

撮影は、Mojeve Desert、Chapel Hillをはじめとするカリフォルニア州の各地で行なわれた。「ロスト・ハイウェイ・ホテル」の外観撮影にはDeath Valley JunctionにあるDeath Valley Buildingが使われ、内部の撮影には同じくDeath Valley JunctionにあるAmargosa Hotelなどが使われた。また、主人公のフレッド・マディソン宅の撮影には、Hollywood hillsにあるリンチの自宅が使用されたことは有名である。

一方、シナリオ製作に際しては、「ワイルド・アット・ハート」(1990)の原作者であるバリー・ギフォードが共同執筆者として参加している。あまり自作について語らないリンチの姿勢もあって、製作側の意図が表に出ないのがリンチ作品の常だ。だが、この作品に関してはギフォードからの発言が多々残されているため、リンチ作品にしては製作側からの証言が豊富な部類であるといえるだろう。加えて、シナリオが書籍の形で出版され、その邦訳まで出ているのも珍しい。この作品の撮影シーン等が「ナイト・ピープル」(原題:Pretty as a Picture/1997)というドキュメンタリー映像として残されているのも、特筆すべき点である。

バリー・ギフォードとのシナリオ執筆作業だが、共同でシナリオを執筆する作業自体は、「エレファント・マン」ではクリストファー・デヴォアと、TV版「ツイン・ピークス」ではもちろんマーク・フロストと、「ツイン・ピークス 劇場版」ではロバート・エンゲルスと行っており、この作品以前にもリンチはすでに経験済みである。しかし、執筆作業自体に関する経緯が部分的にせよ明らかにされている点で、「ロスト・ハイウェイ」は特殊であるといえるだろう。

たとえば、この作品に関して、1994年6月に発生した「O・J・シンプソン事件」に着想を得た……というリンチ自身の証言が残されている。

「あの映画のアイデアはテレビでO・J・シンプソンがゴルフをしているのを観たことから始まっている。この男は奥さんを殺したのに、どうしてこんなに楽しそうにゴルフなんかできるんだろうって思ったんだ。そこで僕は瞑想をしてシンプソンの気持ちになってみた。そうしたら理解できたんだ。彼は妻を殺した時の自分を記憶の中で別人格として分離しているに違いないってね。人格乖離、心因性記憶喪失というやつだ。シンプソンは自分の中で複雑に、しかし精緻に記憶を組み替えて殺人という現実から自分を守っているんだよ。その精神構造をそのまま映画化したのが僕の『ロスト・ハイウェイ』なんだ」

引用元をみればわかるように、この発言は「ロスト・ハイウェイ」公開時ではなく、その五年後の2001年、「マルホランド・ドライブ」の公開にあわせたインタビューにおけるものである。これを読む限りでは、確かにリンチは「シンプソン事件」を念頭においてこの作品を作ったように受け取れるが、2002年に出されたリンチ自身の別証言によれば、どうもそういう単純な話でもないようだ。この2002年の発言では、”シナリオ執筆時に世間を騒がせていた「シンプソン事件」および「裁判」に「無意識にインスパイアされていた(subconsciously inspired)」ことに、最近になって気がついた”とリンチは語っており、ダイレクトに「シンプソン事件」そのものが作品の着想になったというのとは、ちょっとニュアンスが違う感じである。

ギフォード側からの証言も、この「ニュアンスの差異」を部分的に裏付けるものだ。ギフォードによれば、そもそもリンチが持ち出した基本アイデアは「ある日、とある人物が目覚めると別人になっていた、というのはどうかな?」というものだったらしい。そして、このリンチのアイデアのようなことが実際に起きるとしたら、それはどういう状況下であるのか……というところが作品の出発点となったとのことだ。興味深いのは、「自分が犯した犯罪についての記憶がない犯罪者」はシンプソン以前にも実在しており、ギフォードがそうした「都合よく記憶をなくした犯罪者」を題材にした小説に関心をもっていたという証言があることである。このように、実は「ロスト・ハイウェイ」のどのアイデアがギフォードのものであり、どのアイデアがリンチのものかの境界線は、非常に不明瞭なのである。

この「境界線の不明瞭さ」は、リンチとギフォードが採用した執筆方法と密接に関係している。この二人がシナリオを共同執筆したときいて、まず外部の人間が想像するのは「ストーリー的な骨組みを小説家であるギフォードが作り、そこにリンチが発想する事象を盛り込んでいく」というやり方だろう。だが、実際はそういった「役割分担」は存在せず、意見交換を行ないがら全体を二人で構築したという両者からの証言が残されている。こうしたシナリオ執筆手順が上述した「不明瞭さ」につながっているのは間違いなく、むしろリンチとギフォードがともに暖めていたアイデアの「融合物」として「ロスト・ハイウェイ」のシナリオが成立した……と捉えた方がより正確であるようだ。

同様の指摘……つまり「境界線の不明瞭さ」は、たとえばロバート・アルドリッチ監督のフィルム・ノワール作品である「キッスで殺せ!」(1955)からの引用……「炎上する小屋」や「自動車修理工場の親父」といった引用についても当てはまる。リンチのフィルム・ノワールに対する嗜好は「ブルー・ベルベット」あるいは「ツイン・ピークス」などをみても明らかだが、実はギフォードもフィルム・ノワール作品に対する造詣が深く、「Out of the Past: Adventure in Film Noir」という書名のノワール作品に関する著作もあるぐらいなのだ(この書名自体が、ジャック・ターナー監督のフィルム・ノワール作品「過去を逃れて」(1947)に拠っている)。はたしてこの「キッスで殺せ!」からの引用のアイデアがリンチのものなのか、それともギフォードのものなのかについては、具体的な証言もなくまったく判然としない。だが、両者のうちどちらが提案したとしても、もう片方が賛成して採用されたであろうことは間違いないように思われる。

また、ギフォード側からの発言としては、「ミステリー・マン」の原型がイングマール・ベルイマン監督の「狼の時刻」(1968)に登場しており、それへのオマージュであることも明らかにされている。確かに、「狼の時刻」の画家ユーハン・ボイルが抱く「幻想」と、「ロスト・ハイウェイ」のサキソフォン奏者フレッドが抱く「幻想」は同質のものであるといってよい。そして、その悲劇的結末に関しても、この二作品は共通性を備えているといえるだろう。逆に、リンチ側からは、「パーティに来ていたウブな男に、別の若い男が奇妙なことを吹き込むというアイデアをギフォードに話したところ、彼の顔が輝いた」という証言*が残されている。これらの発言をみるかぎり、「ミステリー・マン」もまた、リンチとギフォードのアイデアが「融合」した例として理解してよいようだ。

*「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.299

2008年9月20日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (117)

さて、この後、「インランド・エンパイア」は……

・ロコモーション・ガールの二人による「ポーランド・サイド」の「ストリート」へのスー=ニッキーの誘導(1:11:30)
・ロスト・ガールによる「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」と「腕時計の必要性」の示唆(1:13:08)
・「スミシーの家」の内部で上下に交わされるニッキー(あるいはスー)の「視線」(1:13:55)
・ロコモーション・ガールによる「向かいの建物」の提示(1:14:14)
・腕時計をし、シルクの布に煙草の火で穴を開けてそれを覗くスー=ニッキー(1:17:03)

……などの映像イメージを提示し、「映画を作ることについて」に関連する事象だけでなく「映画を観ることについて」に関連する事象の記述を開始していくが、これ以降の「イメージの連鎖」に関してはすでに述べたことの繰り返しになってしまうので、割愛することにする。

敢えて付け加えるなら(1:06:05)および(1:16:46)において、「スー=ニッキーの様子をうかがいながら、廊下のドアの中に姿を隠すピオトルケ」のショットを挟んで提示される「無人のリビング・ルーム」の映像である。「スミシーの家」がニッキー(あるいはスー)の「内面」であり、この「無人のリビング・ルーム」がその「空虚さ」を表象するものであると捉えるなら、(1:08:24)の映像を含めたその繰り返しの提示や、(1:28:25)からの”「ロコモーション」にあわせて踊る「ロコモーション・ガールたち」の姿が消失し、「無人のリビング・ルーム」だけが残る”という表現もその延長線上にあるとして理解することが可能だろう。

     **********************

……てなわけで、非常に未整理なうえに、いろいろと「見落とし」あるいは「勘違い」も多々あるかとは思いつつ、「インランド・エンパイア」に関する個人的な「解釈」(あるいは「誤読」)については、ひとまずこれでひと区切りとしたいと思います(なんか思い付いたら、また書くかもしれないけどね)。行き当たりばったり、テキトーに書き散らした文章に最後までお付き合いいただいた皆様、お疲れさまでした。

締めくくりとして、何度目になるかわからないが雑感をば。

何を隠そう、大山崎自身にとっても、リンチ作品をここまで詳細に論じるのは初めての体験でりありました。ショット単位までさかのぼった映像の確認作業を通じて「見逃していたもの」がいろいろと見つかるのはスリリングな体験であったし、リンチが採用する「表現」の再認識や整理ができたのは大きな収穫だったと感じております。でもって、そうした作業を通じて実感したのは、「インランド・エンパイア」が冗談抜きに「リンチ作品の集大成」であるということ。これは、単に過去のリンチ作品が提示してきたテーマやモチーフが「インランド・エンパイア」においてもなぞられているからでもなければ、ましてや映画作品を売り込むに際に「なんか褒めとけ」的に用いられる思考停止気味な「キャッチ・フレーズ」でもございません(笑)。以前からの共通テーマやモチーフが有機的に結合されて、「映画というメディア」における……「映画」を「作る局面」と「観る局面」における様々な事象を描く上で、効果的に援用されていることが「集大成」と呼ぶ所以であります。

だが、逆にいうと、そのせいで、リンチが過去作品において展開してきたテーマやモチーフを把握できていない受容者にとって、「インランド・エンパイア」が非常に敷居の高い作品になってしまっているのも確かだと思う今日この頃。特に中盤から後半にかけての「抽象的表現」や「象徴表現」が咀嚼できなかった受容者が確実に存在していることは、巷に流れている”リンチの「作家性」など一切無視した感想”……たとえば「ナラティヴに理解しようとする試み」や「『統合失調症』をキーにしたアプローチ」などが証明しているわけで。

念のために補足しておくと、ここでいう「象徴表現」とは、非常に卑近な例でいえば、たとえば「鳩」が「平和の象徴」であるという「共通認識」を前提に、「平和な状態の終結=戦いの勃発」を「鳩の死体」の映像に仮託する……というようなことであります。結果として、「映像」と「それが表象するもの」がダイレクトに一致せず、いわば乖離状態にある、と。この「鳩の死体」の映像を”「鳩が死んでいる」という事実”を表していると具象的に捉えてしまっては、当然ながらそれが真に「表象しているもの」を見逃すことになってしまう……と書けば「なーんだ」なのだけど、リンチ作品の場合、コトがそれほど簡単ではないのはご存じのとおり。リンチは、「鳩=平和の象徴」といったような誰でもわかる「共通認識」とか、あるいは「図象学(イコノロジー)」上の象徴(イコン)なんかには見向きもしてくださらない。そうではなくて、リンチが採用するのは、リンチ自身の感覚や発想に基づいた独自の「象徴」なんであります。毎度引き合いに出して申し訳ないけれど、前述した「ナラティヴな理解への試み」や「『統合失調症』をキーにしたアプローチ」なんかは、リンチ独自の「象徴」を読み取ることに失敗して「映像」を具象的/表層的に受け取ってしまっている……つまり、「鳩の死体」の映像を「鳩が死んでいる」としか理解できていない「典型例」なんであります。

で、荒っぽくいうと、リンチ作品において「論理」がつながっているのは……つまり、「コンテキスト」を形成しているのは、この「象徴」の部分においてなわけです。大山崎は「イメージの連鎖」という言い方を用いましたけど、”「ある象徴」と「他の象徴」との関係性によって表されるもの”こそがリンチ作品が描いているものであるわけですね。別にしなくてもいいヤヤこしい書き方をするなら(笑)、いわゆる記号論における「連辞」やらナニやらが成立しているのは「シニフィエ(意味されるもの)=象徴=共示」間においてなのであって、「シニフィアン(意味するもの)=具体的映像=外示」間においてではないっつーことです。逆にいうと、リンチが用いている独自の「象徴」が理解できなければ、それを表している「映像」と「映像」の”つながり”がまったく認識できないのは当たり前で、それこそ「統合失調症患者が抱く妄想を描いている」などという粗雑な議論が発生してしまう理由は、まさにここらへんにあるといえましょう。

加えて、リンチ作品における「象徴」が一定の幅をもつこと……つまり、複合的/複義的で抽象的なものであることも問題を混迷させているといえます。たとえば「インランド・エンパイア」において、「サーカス」によって表されるものが「メディア」であると同時に「組織」でもあり得る……てか、この二つの間に境界がなく「融合」したものであるっつーのがその好例です(あくまで、「言語」で説明するなら、ですが)。んでもって、リンチ作品の場合、各「象徴」間の「つながり」が、この「融合」した状態で発生しているのがミソなんでありますね。「サーカス=メディア」と「ファントム=映画の魔」がくっつくと思えば、「サーカス=組織」と「夫の抽象概念=ピオトルケ」が連鎖するってなことが起きるわけです。こうした見方に基づくなら、「スミシーの家」の「裏庭」のシークエンスは、「夫の象徴=ピオトルケ」や「ニッキーの情緒の記憶=ロコモーション・ガール=私的なもの」が存在しているところに、「組織=メディア=公的なもの」を指し示す「サーカス団員」が乱入してくるという、複義的っつーか意味深っつーか、まあ、いろいろな具合に受け取れて「一粒で三百米走れるうえに、二度(以上)おいしい」場面だということになります。

話は戻って、もちろん、こうした「作家独自の象徴の採用」自体は、現代芸術全般においてごくフツーに認められるものであって、リンチ作品に限った話ではありません。のだけれど、それはそれとして、リンチ作品を受容する際して第一の障壁となっているのが、こうした点にあるであろうこともまた間違いないわけで。じゃー、それを理解するにはどーすればいーのよとなると、これがまた輪をかけて困ったちゃんな話になります。なぜなら、こうした「リンチ独自の象徴表現」に対する理解は、基本的に「過去作品を含めたリンチ作品を観ること」を通してしか得られないからです。つまり、リンチ作品を理解するためには、リンチ作品全体に対する(本来的な意味での)「作家論」的なアプローチが必要になる……つまり、実際の「映像」に対する分析的なアプローチの「集積」が不可欠である……というマコトに真っ当だけど、循環論法めいたコトになってしまう。小難しくいえば、あるリンチ作品を「テクスト分析」したうえで、他のリンチ作品との「間テクスト」を構築する……ってなことになるんでしょーか。いや、思いっきりぶっちゃけた言い方をすれば、単にリンチの「手癖」や「足癖」を把握するってだけのことなんですが。

前述したとおり、これは真っ当な方法論ではあるけれど、リンチ作品に対する「とっかかり」を求める受容者にとっては、非常に敷居が高い話ではあります。簡単に「とっかかり」を手に入れる手立てとしては、そうした分析的アプローチの「集積」がどこかに参照できる形で存在すれば……たとえば、書籍として存在すれば事足りるはずで、「David Lynch Decorded」の方法論自体はそういう点では正しいわけです……内容は、ちと、アレだけど(笑)。ところが、少なくとも日本に限っていえば、人口に膾炙する形でそうした観点からリンチ作品を論じたテキストはほぼゼロに等しくて、日本語による基礎資料と呼べるものは、実質上クリス・ロドリーによるインタビュー集しかないというのが現状であります。ま、実際問題として、リンチ作品に関する基礎資料を出版しても数としちゃそんなにハケないだろうなと思うので、大人の大山崎としてはそのこと自体の是非は問いません(笑)。

ただひとつ、明確にいえるのは、最初からリンチの「表現」を理解する「試み」を放棄してしまえば、そもそもそれを理解できるはずなどないということ。「そんなの、当り前やんケ」といわれればそのとおりなのだけど、なかなかこういう当たり前の議論がリンチ作品に関して起こらないのも、また事実なんですよねえ……。

てなことをツラツラ考えつつ、リンチ作品の「集大成」として「インランド・エンパイア」をみたとき、この作品はちょいと皮肉な事態を引き起こしているよーな気がします。っていうのは、「インランド・エンパイア」について何か言及することによって、その「語り手」の(「インランド・エンパイア」だけでなく)リンチ作品全般に対する「理解度」が透けてみえてしまうから。うーん、意地悪ですね、そーですね。とはいえ、作品公開当時の文章だけでもって、評論家筋の方々の「理解度」を計ってしまうのもフェアではないでしょう。試写で一回観せられただけで「何か書け」って言わわれても、「ナニをどーしろと」なんですわ、こーゆーの(笑)。ここはひとつ、リベンジの意もこめて、大山崎のみたいなウダウダのヤツでなくて(笑)、もっとちゃんとした「インランド・エンパイア」論をばどなたか提出していただけないもんでしょうかしらん?

……なんか最後は思いっ切り愚痴っぽくなってしまいましたが(笑)、それはともかくとして、「インランド・エンパイア」を牛のごとく繰り返し咀嚼する作業自体は、ヒジョーに(面倒臭いけど)面白いものでありました。まさか、一年以上もこのネタで引っ張るとは思わなかったけどな(笑)。安物リーフリDVDプレイヤー&安物液晶付きポータブル・プレイヤーも、連続ゴー&ストップ&リヴァースの「耐久テスト」によくぞ耐えてくれました。偉いぞ(笑)。

てなことで、これに味をしめたわけではないがって、ウソ、味をしめて(笑)、自分なりの「リンチ作品に関するテクスト分析の蓄積」を続けてみようかなと考え始めている今日この頃であります。次は何にし・よ・う・か・な……と迷った結果、引き続き「ロスト・ハイウェイ」に関するテクスト分析めいたことをやらかしてみる予定。この作品を選んだ理由はいろいろあるのだけれど、準備が整い次第、そこらへんもあわせてボチボチ明らかにしていくつもりでおります。さて、鬼が出るか蛇が出るか……いや、ミステリー・マンが出てくることだけは確実なんスけど(笑)。

2008年9月17日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (116)

てなわけで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の補追作業である。今回は、(1:09:09)から(1:11:30)までをば。

毎度おなじみ、まずは具体的な映像から。とりあえず、このシークエンスの前半部分をみてみよう。

「スミシーの家」の内部 小部屋 (続き)
(1)細長い青い電球のアップ。傘はついていない。そのままズーム・アウト。
(2)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。暗闇。テーブルの上の青い電球がついたライト・スタンド。闇の中に女性が二人(左からラニ、カリ)いるのが見える。少し右へパン。
(3)スー=ニッキーのアップ。驚きに息をのみ、目だけで自分の右の方向を見ている。
女性: (画面外から) Who the hell are you?
(4)ミドル・ショット。スー・ニッキーの主観ショット。たくさんの女性たちが暗い部屋の中にいる様子が、ところどころの明りのなかに見える。左からロリ、チェルシー、サンディ、ドリ、テリ。左から右へパン。
(5)ラニのミドル・ショット。暗闇の中、光の中に立っている。黒髪。
ラニ: Hey. Look at us and tell us if you're known us before.
(6)スー=ニッキーのアップ。呆然と様子を見ている。踊る光と影。
(7)テリのアップ。黒髪に青い目。
テリ:
There was a man...
(8)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の左手に視線を向ける。
(9)テリのアップ。
テリ: I once knew.
(10)スー=ニッキーのアップ。左手を見ている。
[心臓の鼓動に似たビート音]
(11)ロリのアップ。黒髪をアップにし、窓の下に座っている。
ロリ: [ささやき声で] I so liked to spread my legs wide for him. 
彼女は自分の右手の方に目をやる。踊る光と影。
(12)スー=ニッキーのクロース・アップ。口を半ば開け、呆然としている。
ラニ: (画面外から) Did he do that thing...
スー=ニッキーが声のした方(右手)を見る。
(13)ラニの斜め左からのアップ。肩までの黒髪。白いキャミソールに黒いブラジャー。
ラニ: you know... that little shaking thing, while he was...
(14)スー=ニッキーのクロース・アップ。
(15)ラニの斜め左からのアップ。
ラニ: you know. [笑う]
(16)スー=ニッキーのクロース・アップ。
チェルシー: (画面外から) wasn't that great?
スー=ニッキーが声がした方(左手)を見る。
(17)チェルシーのアップ。カールした金髪。踊る光と影。
チェルシー: (笑みを浮かべて) Yeah.
後退しつつ少し右へパン。
(18)スー=ニッキーのクロース・アップ。左手を見つめたいたが、やがてスー=ニッキーは目をつぶる。涙が彼女の右目からこぼれる。
(19)ドリのバスト・ショット。両肩に刺青。白いキャミソール。背後には積まれた箱が見える。
ドリ: I'd let him do... anything.
[女性たちの笑い声]
(20)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは目を閉じて泣いている。
(21)テリのアップ。左へパン。
(22)ラニのアップ
ラニ: (笑って)Yeah.
(23)スー=ニッキーのクロース・アップ。涙をため、右手を見つめている。目をつぶるスー=ニッキー。
チェルシー: (画面外から) Yeah.
(24)チェルシーの斜め右からのアップ。
チェルシー: [笑う]
(25)カリの斜め左からのアップ。ノースリーブの黒いドレス。背後には机の引き出しが見える。
カリ: [囁き声で] Yeah.
(26)スー=ニッキーのクロース・アップ。呆然と右手の方を見つめている。左下に目を動かした後、正面を見る。

現在論じているシークエンスは、(1:08:18)の「無人のリビング・ルーム」のショットからずっと継続しており、前々回および前回採り上げたシークエンス群とあわせて理解されるべきものである。そのことは、(1:08:18)からこのシークエンスの途中まで、「心臓の鼓動に似たビート音」がサウンド・ブリッジとしてずっと継続していることによって明示されている。

なによりもまず指摘したいのは、カット(7)(9)におけるテリの発言である。これは、Mr.Kのオフィスにおいて、スー=ニッキーがMr.Kに向かって行う発言(1:22:55)と同一である。テリが発言した後、カット(11)からカット(25)にかけて、ロリ、ラニ、チェルシー、ドリたちによって行われる言動は、すべて男性との「性行為」に関連したものであるが、スー=ニッキーがMr.Kに向かって行う発言も、基調として男性との「性行為」に端を発する「トラブル」に関連している。つまり、ロコモーション・ガールたちによって行われる発言は、Mr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーによって「リフレイン」されており、基本的に「同一」なのである。そして、「インランド・エンパイア」に登場する数々の「キー・ワード」が示すように、これらの「リフレイン」ないし「ヴァリエーション」に関連する「者」は、基本的に「等価」なのだ。

こうしたスー=ニッキーとロコモーション・ガールたちとの「同一性」、およびそこから導かれる「等価性」は、「ロスト・ハイウェイ」におけるフレッドとミステリー・マンの間に横たわる「同一性/等価性」と同質のものである。つまり、ロコモーション・ガールたちは、リンチ作品に頻出する「概念の登場人物化」という「常套表現」のヴァリエーションなのだ。そして、ミステリー・マンがフレッドの「内面」に内在するものであるように、ロコモーション・ガールたちも、スー=ニッキーの「内面」に内在する「感情」を表すものとして捉えることができるのである。「心理展開の要請/心理展開のエスカレーション」を表す「青のモチーフ」がこのシークエンスにおいて基調として現れるのはそのためであり、なによりこの事象が発生しているのは「スー=ニッキーの『内面』」を表象する「スミシーの家」の内部なのである。

かつ、「ロコモーション・ガール(によって表わされるもの)」がニッキーの「記憶」であることは、彼女たちの発言が基本的に「過去」に発生したこととして、「過去形」で語られることによって示されている。カット(7)(9)におけるテリの発言に端的に現れているように、それは「以前、知っていた男のこと(There was a man...I once knew)」なのだ。であるならば、ロコモーション・ガール「たち」が「複数」であらねばならない理由、あるいは「女性形」であらねばらない理由は容易に理解できるだろう。それは演技者=ニッキーが彼女の「現実」で遭遇した、さまざまな「実体験」の反映であるのだ。忘れてはならないのは、「ロスト・ハイウェイ」のフレッドや「マルホランド・ドライブ」のベティが抱く「幻想=感情によって歪んだ記憶」に明らかなように、リンチ作品における「記憶」は(いや、現実に我々が抱える「記憶」も)必ず「感情」を伴うことである。ならば、「ニッキーの記憶=ロコモーション・ガールたち」も、ニッキーが抱いた「感情」を内包したものであることは自明だろう。

この「過去の感情=ロコモーション・ガールたち」は、前回に触れたように、”スーによる「ビリーについての回想」”をキーにして喚起されている。より正確にいえば、「登場人物=スーが登場人物=ビリーを回想する」にあたって、スーの「内面」においてどのような「感情」が発生しているかについて、演技者=ニッキーが「内省」を行うことによって、ロコモーション・ガールたちが喚起されているのだ。そしてそれが演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じるうえで……つまり、スーになりきるうえで必要とされる「感情移入=同一化」を獲得する「手段/方法論」であることを考えるとき、「メソッド演技」の基本理論における「情緒の記憶」という概念が「ロコモーション・ガールたち(によって表わされるもの)」と結びつけられることになるわけである。

敢えて言及しておくなら、最終的に演技者=ニッキーが主として採用した「情緒の記憶」が「ラニとロリによって表わされるもの」であることは、この後のいくつかのシークエンスにおいてこの二人が「キー」となって登場していることから推察される。この二人は「ポーランド・サイド」の「ストリート」にスー=ニッキーを誘い(1:11:40)、「ストリート」挟んだ向かいの「建物」を提示し(1:14:15)、同じく「ポーランド・サイド」の「ストリート」でロスト・ガールを「魅了」する(2:11:34)。そして、最終的には「ファントムの崩壊」によって「迷宮めいた場所」から「解放」されるのだ(2:47:11)。

このように「ロコモーション・ガールたち」を演技者=ニッキーに内在する「情緒の記憶」として捉えるとき、「Mr.Kのオフィスにおけるスー=ニッキー」が表象するものについてまた新たな光が投げかけられることになる。スー=ニッキーがMr.Kに向かって話す「男性との性交渉」とそれが引き起こす「トラブル」の話は、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」に基づくものとして、彼女の「内面」から現れたものだ。では、彼女が話す「男性との性交渉」以外の話、たとえば「世界の終わり」を見て泣き叫ぶ少女(1:35:51)や、ファントムの片足の妹などの話(1:47:24)は、いったい誰の「情緒の記憶」なのか? ノース・カロライナに関する言及やファントムの片足の妹の話が、映画監督としてのリンチの私的な部分から生まれたものであることについては、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(27)および(28)において触れた。そこから推察するに、もしかしたら、Mr.Kに向かってスー=ニッキーが言及する事項には、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」だけでなく、その他のスタッフ……監督やシナリオ・ライターの「情緒の記憶」も同時に投影されてはいないか? つまり、スーという「登場人物」の「人物像」の成立には演技者=ニッキーだけでなく、他の製作スタッフの力も与っているということが、スー=ニッキーのMr.Kに対する一連の「言及」をとおして表わされているという可能性である。

もう一点、指摘しておきたいのは、カット(11)においてロリの背後に見える「窓」と、カット(19)においてドリの背後に見える「積まれた箱」、そしてカット(25)においてカリの背後に見える「机」である。(1:25:53)からの映像との対比において、この「窓」「積まれた箱」「机」が「小部屋」に存在していることは明らかであり、現在論じているシークエンスの事象はすべてこの「小部屋」内で発生していることになる。だが、これ以降、たとえば(1:26:28)からのシークエンスにおいては、スー=ニッキーが存在しているのは確かにこの「小部屋」であるが、ロコモーション・ガールたちは「リビング・ルーム」に存在していることが確認される。そして、これ以降、ロコモーション・ガールたちは、(1:31:08)や(1:48:31)あるいは(2:06:52)にみられるように「小部屋」あるいは「リビング・ルーム」に存在しているか、あるいは(1:37:20)からのシークエンスのように「裏庭」に存在しているかのどちらかであり、「スミシーの家」のそれ以外の場所には現れない。

ピオトルケとの対比において、これは非常に面白い事実である。「ピオトルケ(によって表されるもの)」が「ベッド・ルーム」を起点として現れ、そこをメインの場所としながら「廊下」「ダイニング」「裏庭」と姿をみせ、(2:16:32)の「殴打シーン」においてそれまで足を踏み入れる描写がなかった「リビング・ルーム」に初めて現れる。それに対し、「ロコモーション・ガールたち(によって表されるもの)」は「小部屋」を起点に、主に「リビング・ルーム」に姿を現すのである。これは前回述べた、”「スミシーの家」の内部にある部屋の役割”とも密接に関連するものだ。「トラブル=機能しない家族」は「ベッド・ルーム」にその要因を内包し、「内省」や「認知/認識」は「小部屋」にその根源をもつ。そして、「裏庭」においてのみ、ピオトルケとロコモーション・ガールは同時に存在するのである。この構造は、「ニッキーの屋敷」における「高低のアナロジー」と一見「類似」したものであるように見える。だが、「スミシーの家」の内部における事象は、基本的に「内面」で発生しているものであるとういう点ですべて「私的」なものであること、その領域内でもっとも「公的」な場所が「半ば公的で半ば私的」な「裏庭」であることには留意しておかなければならない。「スミシーの家」におけるアナロジーは「水平方向」のものであり、「トラブル=機能しない家族」の要因である「ピオトルケ」と、「内省」「認知/認識」の結果である「ロコモーション・ガール」は、ともにニッキー(あるいはスー)の「感情の反映」として同一の「水平面」に存在するのである。

(27)ラニのアップ。
ラニ: Strange... what love does.
(28)スー=ニッキーのクロース・アップ。
ロリ: (画面外から) So...
(29)ロリのアップ。左手を見ている。彼女にクロース・アップ。
ロリ: strange.
(30)スー=ニッキーのクロース・アップ。目を閉じるスー=ニッキー。
["Ghost of Love"が流れはじめる]
(31)長椅子に埋まるように座ったサンディのアップ。黒髪。ピンクのキャミソール。両側には他の女性の腹部あたりと腕が見える。
サンディ: In the future...
(32)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の右の方に視線を移すスー=ニッキー。
(33)ドリのアップ。下方からから上へ女性の顔までパン。彼女は右手の方を見ている。
ドリ: you will be dreaming...
(34)テリのアップ。右手の方を見ている。
テリ: in a kind of sleep.
(35)スー=ニッキーのクロース・アップ。右を見つめているスー=ニッキー。
(36)カリのアップ。
カリ: When you open your eyes...
(37)スー=ニッキーのクロース・アップ。声のした方(自分の左手)を見るスー=ニッキー。
(38)ラニのアップ。
ラニ: someone familiar will be there.
(39)スー=ニッキーのクロース・アップ。自分の左手を見ているスー=ニッキー。
-- Strange
スー=ニッキーは目をつぶり、両手で目を覆う。
(40)ラニのアップ。ズーム・イン。
-- What love does
(41)両手で目を覆っているスー=ニッキー。ズーム・イン。
(フェイド・アウト)

続いて、このシークエンスの後半部分では、二つのものが提示される。

ひとつは、「Ghost of Love」という曲によって示唆される「トラブル=機能しない家族」の発生要因である。「家族」の始まりが「男女の関係」に起因するなら、そしてその「男女の関係」が両者の相手に対する「愛」によって成立するなら、「トラブル=機能しない家族」は”「愛」が起こす「奇妙なこと」”のひとつに他ならない。

もうひとつは、ロコモーション・ガールたちによる「映画というメディア」についての言及だ。「近い将来/眠りのようなものの中で/あなたは夢を見る。そして目を開けたとき/よく知っている者がそこにいる」……すなわち、「時間と空間に対する見当識の失当」の果てに「感情移入=同一化」の対象を見付けるであろうことを、ロコモーション・ガールたちは「予告」する。そして、その「予告」どおり、「インランド・エンパイア」はこの後、「映画を作ること」「映画を観ること」についての記述を交錯させることによって、演技者と受容者による登場人物の「共有」を描くことになる。

このようにしてみる限りにおいて、このシークエンスの後半が提示しているのは、やはり「機能しない家族」と「映画についての映画」という二つのテーマを「インランド・エンパイア」が内包していることの「宣言」であるといえるだろう。と同時に、これは「映画」というメディアが映像と音響でもって、何をどう伝えることができるかということの「例示」でもあるはずだ。つまり、映像が「映画についての映画」についてのテーマを展開しつつ、そのかたわらで音響はそれが「機能しない家族」に関連していることを伝えるという多重構造を形成しているのである。我々=受容者が、「映画」が提示するこうした多層的な「情報」を受け取り、それを統合して総体的に理解する作業を意識的/無意識に行ないつつ「映画」を受容することを考えるとき、これもまた「インランド・エンパイア」が行なう「自己言及」のひとつであり得るし、我々=受容者の問題としての「映画受容」に関する言及となり得るのだ。

2008年9月15日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (115)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の追補の続きである。今回は(1:08:24)から(1:09:09)までをば。

では、さっそく、サクサクと具体的な映像から。

「スミシーの家」の内部 廊下 (昼)
[心臓の鼓動に似たビート音]
(1)ミドル・ショット。誰もいない暗い廊下。左から右へ移動するショット。
(2)ミドル・ショット。スー=ニッキーが暗い廊下に立っている。逆光でシルエットになっており、その詳細は見えない。彼女が立っているのは廊下の右側、リビング・ルームの隣の小部屋の前である。彼女はドアを開き、小部屋に入る。赤い光が小部屋から漏れ出る。

「スミシーの家」の内部 小部屋 (昼)
[心臓の鼓動に似たビート音]
(3)ミドル・ショット。背の高い赤い傘のライト・スタンドが、サイド・ボードの上に置かれている。赤い光を放っている。
(4)スー=ニッキーのアップ。左下方からのショット。彼女は首をやや左に傾け、壁にもたれている。あたり一面、ライト・スタンドの光で赤い。
(5)スー=ニッキーの主観ショット(左に傾いている)。背の高い赤い傘のライト・スタンド。急激に明るくなるスタンドの灯り。
(6)スー=ニッキーのアップ。息をのみ、瞬きをするスー=ニッキー。赤い光が彼女の顔を照らしている。
(7)スー=ニッキーの主観ショット(左に傾いている)。 背の高い赤い傘のライト・スタンド。スタンドの灯りが暗くなっていく。
(オーヴァーラップ)
デヴォン=ビリーのバスト・ショット(0:36:24)。
(オーヴァーラップ終了)
サイド・ボードの上の背の高い赤い傘のライト・スタンド。また明るくなる灯り。
(8)スー=ニッキーのアップ。赤い光に照らされたスー=ニッキ。
(9)ミドル・ショット。赤い傘のライト・スタンド。白いフラッシュ光が明滅を始める。
[クラック・ノイズ]
(10)赤い傘のライト・スタンドを見詰めるスー=ニッキー。白いフラッシュ光が彼女を照らす。
(フェイド・アウト)

この段階で具体的映像としての明示はないが、後に提示される(1:16:54)あるいは(1:25:53)などのショットから、カット(2)でスー=ニッキーが入ったのが、リビング・ルームの隣の小部屋であり、カット(3)以降はその内部であると了解される。

「スミシーの家」の内部構造については、映像で説明されない不明な部分が多々ある。その「実体化」以降、映像として登場する「部屋」を登場順に挙げると、以下のようになる。

リビング・ルーム
ベッド・ルーム
小部屋
キッチン
ダイニング

これに加えて「前庭」「裏庭」も「スミシーの家」は備えているのだが、それについてはひとまずおいておこう。

さて、これらの部屋で起こっている事象をみたとき、それぞれゆるやかな役割分担が与えられているように捉えられなくもない。そしてそのなかでも、「小部屋」は少しく特殊な位置づけがされているようだ。

たとえば、「ベッド・ルーム」が「夫=ピオトルケ」とダイレクトに関連付けられ、”「トラブル=機能しない家族」の要因が存在する場所”として描かれていることは何度か述べたとおりだが、その他の部屋においても「機能しない家族」に関連した事象の発生は描かれている。キッチンにおいてはスー=ニッキーが妊娠を悟るショットが提示され(1:15:28)、ダイニングではスー=ニッキーから妊娠を告げられたピオトルケが彼女の不倫を悟る(1:29:26)。加えてリビング・ルームでは、ピオトルケによるスー=ニッキーへの暴力が振るわれるとともに、彼が子供を作ることができないという事実が告げられている(2:16:43)。それに対し、この「小部屋」においては、スーとピオトルケの間に発生している「トラブル=機能しない家族」を指し示す具体的な映像がまったく登場しないのだ。

そのかわり、この「小部屋」の内部で発生しているのは、「スー=ニッキーによる『ロコモーション・ガール=情緒の記憶』の幻視」(1:09:09)(1:26:19)であったり、「『訪問者2』の来訪の感知」(1:56:54)であったりするわけだが、なによりこの「小部屋」の「性格」とそれが果たしている「機能」を明瞭に提示しているのは、そこが「スー=ニッキーがシルクの布に煙草の火で穴を開け、腕時計を用意したうえでその穴を覗くという行為を行う場所」(1:16:54)(1:25:53)(1:48:53)であるという映像である。

これらの映像からまず読み取れるのは、この「小部屋」がニッキー(あるいはスー)の「内省」の場所として性格づけられ、機能しているということである。加えて、ニッキー(あるいはスー)が「訪問者2」の来訪を知るのがこの「小部屋」であることに表されるように、”「スミシーの家」の「内部」=「内面」”から「外界」に関する「認知/認識」を行う場所でもあるということだ。この「外界に対する認知/認識」をキーにして考えるなら、「シルクの布に煙草の火で開けた穴を覗く行為」が行われるのがこの「小部屋」であることは、非常に正当な意味を持つことになる。なぜなら、以前にも述べたとおり、「この行為」は「撮影カメラを覗く行為」=「映画を作る行為」を指し示すとともに、「映画を観る行為」をも示唆しているからだ。そして、「映画を観る行為」はリンチにとって「世界を体験する行為」であり、つまりは「世界を認知する行為」に他ならないからである。

さて、そうした「内省」「認知」を行う場所である「小部屋」の内部で、現在、どのような事象が発生しているのか? それを提示しているのがカット(3)以降のシークエンスのショット群であり、それを理解するための「手掛かり」のひとつになるのが、オーヴァー・ラップで提示されるカット(7)の「ビリー=デヴォン」の映像である。このショットは(0:36:24)で提示された映像と同一のものであり、そこでは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影現場の映像として、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」内の1シーンという扱いで現れていたものだ。

他の撮影現場のショット/シークエンスで提示された映像と同じく、現在論じているシークエンスにおける「デヴォン/ビリーのショット」の提示もまた、複合的/複義的な理解が可能である。ひとつは、登場人物=スーに関連する「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語内」で発生している事象として、つまりビリーに思いを寄せているスーの「回想」としてこのショットが表れているという理解だ。そして、この場合、スーの「回想」が喚起された契機となっているのは、(1:05:47)から提示される「ベッド・ルーム内のピオトルケ」という”スーにとっての「トラブル=機能しない家族」の要因”を彼女が目撃したことから始まり、「無人のリビング・ルーム」によって表される”彼女が感じた「空虚さ」”を経て、この”ビリーとの逢瀬の「回想」”へと至るという「物語=ナラティヴ」が「インランド・エンパイア」の受容者である我々の「内面」で構成されることになるわけである。カット(2)以降のシークエンスにおいて、「赤のモチーフ=物語展開の要請」が顕著に現れる第一義的な理由は、こうした点にあるはずだ。

もうひとつの理解がもたらされるのは、これを演技者=ニッキーに関する事象として捉えた場合だ。ここで基本として押さえておかなければならないのは、演技者=ニッキーは登場人物=スーに対して「メタな立場」にいるということである。つまり、スーの身上にどのようなことが起きたか/起きるかに関して、彼女は「シナリオ」を通読することによって既に知っているのだ。このことは、たとえば(0:25:49)からのリハーサルに際し、キングズレイが選択したシークエンスに対して「好きなシーンだわ(I love that scene)」とニッキーが発言することで明示されているといえるだろう。つまり、ニッキーは、スーがビリーに思いを寄せ彼を「回想」することを「知っている」という「俯瞰的立場=メタな立場」にいることになる。だが、もう一歩踏み込んで「ニッキーが既にシナリオを通読していた理由」を考えれば、ニッキーがスーに対して「メタな立場」に置かれる「根本的な理由」が明瞭になるはずだ。それは、ニッキーがスーを「演じる立場」であるということである。少なくともニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」が完全でない時点では、この「メタ」な関係性は変わらない。

ニッキーがスーを「演じる立場」であるということは、逆にいえば、ニッキーはスーという「人物」の人物像を、不自然でなくかつ一貫性をもって「創出」する義務=「演技」する義務をおわされている。簡単にいえば、ニッキーはスーという「人物」になりきることを、職業上の必然として「要請」されているわけだ。その「要請」に応えるために、演技者=ニッキーは(「メソッド演技」の基本理論に基づけば)登場人物=スーが抱いている「感情」を理解する必要に迫られているのである。そのような観点から、カット(3)以降の”ニッキーの「内面」”において発生しているものを端的に捉えるなら、それは”スーが「ビリーとの逢瀬」を回想するにあたって、スーがどのような「感情」を抱いているか”についての「内省」であり「認知/認識」だということになる。そして、演技者=ニッキーの「内省」がどのように行なわれ「認知/認識」が成立していくかについては、この直後のシークエンスにおいて、リンチ独特の表現主義的な手法を用いた「映像」によってより詳細に提示されるだろう。

そうした「詳細」に向けての「場面の接合」を表す表現として、カット(9)(10)において「フラッシュ・ライトによる明滅」と「クラック・ノイズ」という「電気に関するモチーフ」が現れる。同様の「場面の接合」を指し示す表現は、(2:06:01)においても「Rabbitsの部屋」から”「スミシーの家」の裏庭に座るスー=ニッキーのショット”への転換においても現れており、どちらも「赤のモチーフ」を基調としている点など、その「表現」としての「同一性」は明らかだ。つまり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開の要請」が高まり、それを連動して「心理展開の要請」が喚起されるポイントでこうした「表現」が用いられていることが、この二つの「場面の接合」をつうじて確認されることになる。こうした表現もまた、リンチが採用する「常套表現」のひとつであるわけだが、それについての詳細は「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(60)の項を参照されたい。

2008年9月12日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (114)

引き続き「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についての追補作業であったりする。今回は、(1:05:47)から(1:08:24)までをば。

んでわ、今回もまずはこのシークエンスの具体的映像から。

「スミシーの家」の内部 リビング・ルーム(昼)
(1)ミドル・ショット。玄関のドアが開き、スー=ニッキーがゆっくりと部屋の中に入ってくる。後ろ手でドアを閉めるスー=ニッキー。しばらくドアのノブに手を掛けたまま、部屋の中を見回していたが、やがてバッグを両手で抱えてゆっくりと部屋を歩き始める。それに連れて右から左へと移動するショット。スー=ニッキーは自分の右手にある他の部屋に通じる廊下に視線を向ける。
(2)ミドル・ショット。他の部屋に続く暗い廊下。廊下の左手前には他の部屋(ダイニング・キッチン)へと続く開口部が見える。廊下の両側と突き当たりにドアがある。突き当たりのドアは、後に”「Axxon N.」の扉”とわかるものだ。画面右手からスー=ニッキーが表われ、廊下に向かって歩き始める。
(3)スー=ニッキーの主観ショット。薄暗い白い廊下と、他の部屋に続く白いドア。視線はゆっくりと廊下を進み、突き当たりのドアへと進む。T字に交わる短い廊下。視線は左に曲がる。短い廊下の先にある部屋(ベッド・ルーム)の一部が視界に入ってくる。部屋のドアは一杯に開かれている。部屋の左側の壁に絵が掛けられている。正面の壁の前にチェストと、その上に置かれた四角いシェイドのライト・スタンドが見える。ライト・スタンドはボディも直方体で出来ていて、その灯りは点っている。 
(4)スー=ニッキーのアップ。スー=ニッキーはドアのところで立ち止まり、ベッド・ルームの内部を見回す。背後に見える廊下と他の部屋のドア。
(5)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。ベッド・ルームの内部。
(6)スー=ニッキーの右からのアップ。短い廊下を進むスー=ニッキー。
(7)スー=ニッキーの主観ショット。ベッド・ルームの内部。視線は部屋の中に入り、壁の角を右側に曲がる。今まで見えなかったベッド・ルームの内部が見えてくる。
(8)スー=ニッキーのアップ。右側に視線をやりながら、ゆっくりと部屋に入るスー=ニッキー。
(9)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。緑の布が掛かったベッド。一度右に振って木のクローゼットを映したあと、左にパンするショット。女性の肖像画がベッドの頭の方の壁に掛かっている。ベッドの両側には低いサイド・テーブルがあり、それぞれのテーブルの上には同じ背の低いライト・スタンドが載せられている。左には先ほど見えたチェストと四角いライト・スタンドがある。ベッドの右側には、別の部屋に続く入り口が、真っ暗な口を開けている。ベッドに留まる視点。
(10)スー=ニッキーの右からのクロース・アップ。スー=ニッキーが角のところからベッドを見詰めている。
(11)スー=ニッキーの主観ショット。ベッドとその両脇のテーブル、それに載ったライト・スタンド、壁に掛かった肖像。かすかにベッドに近付く視点。
(12)スー=ニッキーの右からのクロース・アップ。スー=ニッキーは左手を見る。
(13)
スー=ニッキーの主観ショット。右から左へパン。背の低いクローゼットと、その上に置かれた四角いシェイドのライト・スタンド。
(14)スー=ニッキーのクロース・アップ。若干後退する視点。 
(15)ミドル・ショット。四角いライト・スタンド。
(16)スー=ニッキーのクロース・アップ。
(17)誰かが、クローゼットの前で緑色のコートをたぐっている。その人物の足しか見えない。
(フェイド・アウト)
(18)ピオトルケの右背後からのバスト・ショット。
(19)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは自分の右手を見詰めている。
(20)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。ベッドの左側に潜り込むピオトルケ。上がけを腹の上に引きよせた後、彼はベッドの向かって左側のライト・スタンドのスイッチに右手を伸ばす。
(21)ベッドに横たわったピオトルケのアップ。画面外でスイッチを引き、彼はライトを消す。
[スイッチが切れる音]
暗闇。

このシークエンスで提示されているものを端的に言い表すなら、それは「スー=ニッキーによる『スミシーの家』のベッド・ルームへの侵入」である。彼女の「侵入」は、カット(3)(5)(7)(9)(11)にみられる”廊下からベッド・ルーム内部へと「侵入する視点」”というモチーフを伴って提示されており、その映像的特徴の「同一性」からみても、(0:56:20)からの”「ピオトルケ」による「侵入する視点」”を伴ったシークエンスと「対置関係」にあるとみてよい。そして、この「対置性」が第一義的に示唆しているのが、(0:56:20)からのシークエンスで発生している「事象」と、このシークエンスにおいて発生している「事象」の「等価性」であることは指摘するまでもないだろう。すなわち、どちらのシークエンスにおいても「侵入する視点」が見る/観る「対象」となっているのは、「トラブル=機能しない家族」に関する「事象」であるということだ。

このシークエンスにおける事象が「トラブル=機能しない家族」の問題に関連していることは、スー=ニッキーを「スミシーの家」の内部に追い込んだはずの「ピオトルケ」が、「スミシーの家」の内部に、それも「ベッド・ルーム」に存在するというカット(17)(18)の表現によって、端的に表されているといえるだろう。加えて、(1:03:11)に現れる”「家」の内部にいる「ピオトルケ」”と”「スミシーの家」の内部にいる「ピオトルケ」”の対比を通じて、演技者=ニッキーにとって「夫」が「トラブル=機能しない家族」の要因であったように、登場人物=スーにとっても「夫」が「トラブル=機能しない家族」の要因であることが明示されるのだ。この瞬間、「ピオトルケ(によって表されるもの)」は、具象的な意味での「ニッキーの夫」の範疇から外れ、「スーの夫」としても機能し始める。そして、この「ピオトルケ(によって表されるもの)」が「『夫』の抽象概念」であることは、彼が「不特定多数の受容者=ロスト・ガールの夫」として「スミシーの家」に息子を連れて現れるとき(2:49:07)、完全に明示されることになる。

このように考えるとき、(0:56:20)からのシークエンスが備える「複合性/多義性」と、それが内包するものがまたひとつ明瞭になるだろう。「スーの夫としてのピオトルケ」にとって、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の登場人物であるピオトルケにとって、「スーとビリーの不倫」は「トラブル=機能しない家族」に他ならないということだ。これは、後に「ピオトルケにとってあり得ないスーの妊娠」(1:29:26)や「ピオトルケによるスーへの暴力と告白」(2:16:32)によって、誤解のしようもなうほど明確に裏付けられる。そして、このコンテキスト上に捉えるなら、(0:56:20)からのシークエンス(の持つ意味のひとつ)と、現在論じているシークエンスの「対置性」がどのようなものかが、よりはっきりと浮かび上がってくるはずだ。すなわち、(0:56:20)からのシークエンスが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」内の事象として「男性=スーの夫としてのピオトルケ」の視点から「トラブル=スーとビリーの不倫」を描いているのに対し、現在論じているシークエンスは「インランド・エンパイア」内の事象として「女性=ニッキー(あるいはスー=ニッキー)」の視点から「トラブル=ピオトルケによる監視・干渉」を描いているのである。

しかし、以前にも述べたように、(0:56:20)からのシークエンスの最大のポイントはそれが内包する「複合性/多義性」であり、そこを結節点としてさまざまなコンテキストが交錯/混合し、「複合的なイメージ」を構成している点にある。それは現在論じているシークエンスにおいても同様で、要諦となるのは、上に挙げたような「対置性」が交錯/混合し、「等価性」へと置換されていることなのだ。すなわち「ニッキーのトラブル」と「スーのトラブル」が個別例として「等価」であり、それはこの二人の女性がともに「ピオトルケ」を「夫」としてもつという「表現」によって示されているのである。

「スミシーの家」の内部 リビング・ルーム (昼)
[心臓の鼓動のようなビート]
(20)ミドル・ショット。廊下に続くあたりからのショット。黄色のカーテンが閉められている窓の方からほのかな光が入っている。その光で長椅子と、白いコップと灰皿が置かれたテーブルがほのかに見えている。左から右へパン。

続いて、インサート・ショットとしてカット(20)が提示される。このショットから始まる「低音のビート音」は、これ以降のシークエンスにおいても継続し、これらのショットが一塊のものとして理解されるべきものであることを明示している。

「スミシーの家」がニッキーの(あるいはスーの)「内面」を表しているならば(言葉を変えれば、これも表現主義的手法によるものと捉えるならば)、この「無人のリビング・ルーム」は、ピオトルケをベッド・ルームで目撃したニッキーが(あるいはスーが)感じた「空虚さ」を表象していることになる。同時に、本来「家族の構成要員」であるべき「家人」が集合するはずのリビング・ルームが「無人」であることは、そこで発生している「機能不全」をも表象していると読むことも可能だろう。

だが、このショットが担っている機能を映像的特徴から述べるなら、まず気がつくのが(0:03:12)の「無人の部屋」のショットとの「類似性/共通性」である。この(0:03:12)の「無人の部屋」が「顔のない男女が性交を行った部屋」であることを考えるなら、この”無人の「スミシーの家」のリビング・ルーム”のショットが指し示すものは明瞭だろう。この「類似性/共通性」は、そこで”発生している/これから発生する”事象の「類似性/共通性」あるいは「等価性」を指し示すものであり、「顔のない男女」の間の「関係性」がスー=ニッキーとピオトルケの間で「リフレイン」される/されていることの宣言である。

と同時に、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(91)の項でみたように、(0:03:12)の「無人の部屋」のショットが、直前に提示される「第二の顔のない女性(ロスト・ガール)の部屋」のモノクロ・ショット(0:03:02)との「対比」として現れ、「撮影カメラのレンズ」のショットをインサートしつつ、カラー化した「ロスト・ガールの部屋」のシークエンスへと移行することを考えるならば……そして、これが「顔のない女性」と「ロスト・ガール」の「等価性」を指し示しているならば、「ニッキーあるいはスーあるいはスー=ニッキー」と「ロスト・ガール」も「等価」であることになる。「インランド・エンパイア」における「受容者=登場人物=演技者」のネスティングは、このような形でも提示されているのだ。

といった具合に「顔のない女性」「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「受容者=ロスト・ガール」の四者に関連する事象が「等価」であることが明らかにされたとき、「顔のない男女」が繰り広げていたのが「機能しない家族」の「典型例」であり「原型」であることが総体的に……「冒頭での提示」「顔をもたないという匿名性=一般性」「スー=ニッキーとピオトルケの間に今後発生する事象群」などともに、了解されることになるのである。

2008年9月 9日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (113)

前回から継続している「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の追補作業である。今回は(1:03:43)から(1:05:47)までをチビチビとやってみる。

まずは、このシークエンスの具体的映像から。

「スミシーの家」の内部 リビング・ルーム (昼)
(1)ミドル・ショット。スー=ニッキーが左手に黒いバッグを持ち、後ろを振り返りながら、部屋に入ってくる。玄関のドアを叩きつけるようにして閉めるスー。あえぎながら、彼女はしばらくドアを見つめ、次いで「スミシーの家」のリビング・ルームを見回す。明るい陽光が、ドアの横の黄色いカーテンがかかった窓から射し込んでいる。左から、ソファ、背の高いライト・スタンド、長椅子、サイド・テーブル、その上のライト・スタンド(点灯中)が見える。長椅子の前には低いテーブルがあり、その上には白いカップと灰皿がある。長椅子の上の壁には絵が掛けられている。左には、他の部屋に続く入り口がある。
(2)スー=ニッキーのアップ。あえぎながら自分の左手から背後を見回す。
(3)スー=ニッキーの左からのアップ。口を開け、荒い息をしている。
(4)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。画面左下から右上へパン。壁の前に置かれた一人掛けの椅子から、壁に掛かった時計まで。
(5)スー=ニッキーのアップ。口を開け、驚きの表情を浮かべている。後退する視点。
(6)スー=ニッキーのアップ。スー=ニッキーの背後からの右肩越しのショット。壁にかかった時計の方を見ている。急激に右を振り向くスー=ニッキー。それに連れて右へパン。視点はそのまま彼女から離れ、窓にかかっている黄色いカーテンを映す。
(7)スー=ニッキーのアップ。玄関のドアに近づくスー=ニッキー。それを追って右へパン。ドアを開けようとノブにとりつくスー=ニッキー。
(8)ミドル・ショット。スー=ニッキーの背後からのショット。両手でドアノブを握り、それを回してドアを開けようとするスー=ニッキー。
スー=ニッキー:
Uhh.
ドアの右手、黄色いカーテンが掛かった窓に、誰かのシルエットが見える。それを認め、窓の方に走るスー=ニッキー。
(9)ミドル・ショット。窓に掛けより、外を見るスー=ニッキー。
スー=ニッキー: Billy!
(10)ガラス越しのデヴォンのアップ。スー=ニッキーの主観ショット。彼が「スミシーの家」の汚れたガラス窓越しに、中をうかがおうとしているのが見える。背後からの光を受けつつ、右に移動するデヴォン。それを追いかけるショット。少し左に移動するデヴォン。
(11)ガラス越しのスー=ニッキーのクロース・アップ。「スミシーの家」の外からのショット。光に照らされつつ、スー=ニッキーも汚れたガラス窓越しに外をうかがう。上から下へパン。
スー=ニッキー: Billy!
(12)ガラス越しのデヴォンのアップ。スー=ニッキーの主観ショット。デヴォンは汚れたガラスに手をつき、窓越しに中をうかがっている。それを追って左右に動く視点。
(13)ガラス越しのスー=ニッキーのクロース・アップ。「スミシーの家」の外からのショット。汚れたガラス窓越しに外にいるデヴォンに呼びかけるスー=ニッキー。それを追って揺れ動く視点。
スー=ニッキー: Billy!
(14)ガラス越しのデヴォンのアップ。スー=ニッキーの主観ショット。デヴォンが汚れたガラス窓越しに顔を擦り付けて、中をうかがおうとしている。
(15)ミドル・ショット。スー=ニッキーの右から背後に回り込むショット。身をよじって、呼びかけるスー=ニッキー。
スー=ニッキー: Billy!
スー=ニッキーの右横顔へクローズ・アップ。驚きで、息を飲むスー=ニッキー。
(16)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。ガラス窓越しに、家の外部が見える。日の光が射す前庭。鉄製の門へと続く土の道と、その両側の芝生。左手の芝生には、木が生えているのが見える。門の両側の外壁。ゲート越しに家の前の道と、木々の植わった向かいの家が見える。 
(オーヴァー・ラップ)
(17)スー=ニッキーの主観ショット。汚れた窓ガラス。ガラス越しに、ステージの暗闇が見える。
(18)スー=ニッキーのクロース・アップ。右からのショット。ガラス窓越しに外を見つめ、息をのむスー=ニッキー。
(19)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。日の光が射す前庭。そよ風が木の枝を揺らしている。鳥のさえずりが聞こえる。
(20)スー=ニッキーのクロース・アップ。スー=ニッキーは口を開けたまま、外を見詰めている。少し後退する画面。
[ドアが開く音]
音がした方向(画面手前)を見るスー=ニッキー。少し後退する画面。
(21)ドアノブのアップ。いつの間にかドアが開いている。
[ドアが開く音、ラッチの金属音]
かすかに揺れるドア。
(22)ミドル・ショット。スー=ニッキーは玄関のドアに近づき、少しそれを開ける。しばし外の様子を伺った後、家の外に出て行くスー=ニッキー。ドアが閉まり、無人のリビング・ルームが残される。
(23)ロング・ショット。家の内部からの窓越しのショット。スー=ニッキーが家や回りを見回しながら、後ろ向きに前庭の土の道を歩いているのが見える。やがて、立ち止まるスー=ニッキー。
(24)家の内部からの窓越しのショット。スー=ニッキーのバスト・ショット。彼女は絶望的な表情を浮かべながら、家の方を見回している。鉄のゲート越しに、向かいの家の植え込みと木、鉄柵、窓がある白い壁が見える。やがて、諦めたように彼女は家に引き返し始め、画面の右手に姿を消す。

このシークエンスにおいて、「スミシーの家」は明確に「実体化」を遂げる。リンチ作品における「家」が”人間の「内面」”を指し示すことを念頭におけば、これはとりもなおさず、これ以降の映像がスー(およびニッキー)の「内面」で発生している事象であることを宣言するものだ。

カット(8)からカット(15)にかけての映像がそれを裏付ける。映像を観るかぎり、「スミシーの家」の内部にいるスー=ニッキーからは外にいるデヴォンが見えるが、外部から中をうかがうデヴォンにはスー=ニッキーの姿が見えず、彼女の呼びかけも聞こえていない。こうした「表現」から読み取れるのは、スー=ニッキーとデヴォンが「断絶された場所」にいるということであり、これもリンチ作品がしばしば採用する「常套表現」のひとつである。

たとえば「ロスト・ハイウェイ」おける「レネエによるフレッドの捜索」(0:38:07)という「表現」が指し示すのは、この二人が”「断絶された場所」にいること=レネエがすでにフレッドを殺害していること”を表わすとともに、”フレッドが自身のレネエ殺害を思い出しつつあること”を示唆するものだった。もしくは、「マルホランド・ドライブ」における「ブルー・ボックス」開封直前に発生した「リタによるベティの捜索」(1:53:07)は、この二人が”「断絶された場所」に向かっていること=ダイアンが覚醒しようとしていること”を指し示している。この両者とも、「現実から離れた記憶=幻想」と「現実に近い記憶」という「外界認識」上の「界」の差異を表わすための表現であり、それに際してリンチは好んで「誰かの不在/消失」というモチーフを用い、その具体的映像として「誰かによる他の誰かの捜索」を採用する。カット(8)からカット(15)の映像が提示する「デヴォンにとってのスー=ニッキーの不可視性」あるいは「デヴォンによる侵入者(スー=ニッキー)の捜索」も、上述したような「表現」と同一のパターンを踏襲しており、その「ヴァリエーション」として捉えられることは明瞭だろう。

たびたび指摘してきたように、ここで表わされているのは”人間の「内面」の不可視性”である。スー=ニッキーには「スミシーの家」の外部にいるデヴォンの姿が見えるように、「内面」から「外界」をうかがうことは可能だ。だが、逆にデヴォンには「家」の内部にいるスー=ニッキーの姿が見えず彼女の声も届かないように、「外界」から「内面」を計り知ることは困難……というより不可能なのである。(0:29:41)の映像は同一の事象を「外界」からの文脈で描いているものとして捉えられるが、デヴォンが窓越しにうかがう「スミシーの家」の「内部」は、単なる「不可視のもの=暗闇」でしかない。これらの表現と、リンチにとっての定番テーマである「何かよくないことが起きる場所としての家」の関連からみえてくるのは、”人間の「内面」の不可視性”であり、「外界」と「人間の内面」という「界(plate)」の差異であるわけだ。

カット(17)からカット(24)にかけて、「スミシーの家」は完全に「実体化」を果たす。特筆すべきなのは、カット(19)以降に表われているように、「スミシーの家」の「実体化」に連れて、「外界」もまた”「スタジオ4」の内部”から”「スミシーの家」の前庭”に変わってしまっていることだ。「内面」の変動に連れて「外界」も変動することを……正確にいえば、”「外界」に対する「認識」”は「内面」にあるものによって変わってしまうことを、カット(17)-(24)の映像は如実に指し示している。これもまた、リンチが好んで採用する「表現」……端的にいえば「表現主義的手法」に則った「表現」の非常にわかりやすい例だといえるだろう。もちろん、このシークエンスにおける”「内面」の変動”とは、演技者=ニッキーの「内面」における「登場人物=スーのアイデンティティの形成」、ひいては「両者の混淆物であるスー=ニッキーの形成」を指すことはいうまでもない。そして、それはどうしても開かなかった扉が自然に開くとき(カット(21))、ひとつの達成をみるのである。

見落としてはならないのは、カット(4)である。パンを用いて誘導される「視線」の先に、壁に掛けられた特徴のある形状の「時計」が提示される。前後のカットにおけるスー=ニッキーの継続動作(カット・イン・アクション)から、カット(4)の映像がスー=ニッキーの主観ショットであることが明示され、我々=受容者は彼女の「視線」を共有しつつ、この「時計」を見ることになる。言うまでもなく、こうしたカッティングの目的は壁に掛かった「時計」の強調であって、我々はこの「時計」がこれ以降の展開においてなにがしかの重要性を帯びていることを示唆される。そして、案に違わず、「インランド・エンパイア」はこの後、繰り返し「腕時計」を含めた「時計」のイメージを提示する。たとえば(1:17:03)あるいは(1:49:02)においては「煙草の火で穴を開けられたシルクの布」とともに「腕時計」を提示し、「映画」における「空間/時間のコントロール」のイメージを伝える。あるいは、そうしたコントロールのもとに、”登場人物に「感情移入=同一化」を果たした演技者/受容者”が抱く「時間に関する見当識の失当」を、”「腕時計」の所持者である「口髭の男の死」”(1:43:17)という表現を通して記述することになるのだ。

以上のような事項を考えたとき、この「スミシーの家」に入ったばかりの……登場人物=スーに「感情移入=同一化」した直後の演技者=ニッキーの「内面」において、「時計」のイメージがまず提示されることは非常に興味深い。これにはいろいろな読み方が可能だろうが、彼女がこの時点では「時間に対する見当識」を保持しているということの表われとして捉えるのがもっとも妥当なように思われる。なぜなら、カット(23)(24)にみられるように、「実体化」した”「スミシーの家」の前庭”に対して彼女があらわにする動揺は、彼女がまだ「場所に対する見当識」を保持していることの逆説的な表われだからだ。「空間に対する見当識」を彼女が保持しているなら、もう片方の「時間に対する見当識」も同様に保持していると考えるのがもっともストレートだろう。

しかし、この後、前述したような”「映画」による「時間/空間のコントロール」”を体験し、登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を進めたニッキーは、「時間に対する見当識」を失っていく。それを表わすかのように、この”「スミシーの家」の「時計」”が明瞭に映し出される映像は、これからしばらくは存在しない。それが再びスー=ニッキーの背景として姿を表わすのは、もう一人の”「腕時計」の所持者”である「訪問者2」の訪問(1:57:03)を受けたときである。この「訪問者2」による「時計」のイメージの再喚起が表すものは、彼女が付随させる「介入/コントロール」のイメージを考えれば明瞭だろう。”「スミシーの家」の「時計」”の存在は、ニッキーの(あるいはスー=ニッキーの)「時間に関する見当識の失当」の程度を表象する「指標」であり、「訪問者2」が付随させる”「外部性」と「介入」のイメージ”によって、一時的にせよニッキーは「時間に対する観念」を回復させるのである。

2008年9月 7日 (日)

「Lime Green Set」予約受付開始その他のおハナシ

引き続き、今日のDugpa.comネタ。

Dllimegreen_2以前にも紹介した デイヴィッド・リンチ作品のDVDボックス・セット「David Lynch The Lime Green Set」の予約受付が米アマゾンで開始されている。今なら、30%OFFの$125.99也。現在のところ、いまだ「Mystery Disc」の内容はミステリーのまんま。

で、それにあわせてとゆーわけでもないだろうけど、あちこちの国でリンチ作品のDVDボックス・セットの発売が相次いでいる様子であったり。

 

Engbox_2 まず、こちらがイギリスですでに発売中のボックス・セット。収録されているのは「エレファント・マン」「マルホランド・ドライブ」「インランド・エンパイア」の三作品で、こちらの内容紹介をみるかぎりでは、以前から発売されていたものとトランスファーも「映像特典」も同一であるよーだ。うーむ、どっちかってーと「お徳用三作品パック」って感じ?(笑)


Audvd ほんでもって、こちらが9月29日にオーストラリアで発売予定のボックス・セット。こちらはイギリスよりは気合が入っていて(笑)、「イレイザー・ヘッド」「初期短篇作品集」「Dynamic 01」「リンチ1」「Dumbland」というセレクション。当然ながらお値段のほーも気合が入っていて(笑)、AU$149.83ってえと日本円で13,200円ぐらいかな? リージョン・コードが「1,2,3,4,5,6対応」なうえに、こちらの説明を読むとPALじゃなくてNTSCなので、日本の国内向機器でも問題なく視聴できるハズ。しかし、送料を考えると、米アマゾンでバラで買ったほーが安いかもしれん。あら、知らなかったけど「イレイザー・ヘッド」はオーストラリアではこれが初DVD化なのね。

そろそろ日本でも「初期短篇集」とかが入ったDVDボックスが出てくれんかのう……と思ったりせんでもないんだが、出たら出たでお財布にやさしくなかったりするんでしょーね、はい(笑)。

2008年9月 6日 (土)

「ツイン・ピークス」関連の捜しモノのおハナシ

本日のDugpa.comネタ。というか、「TWIN PEAKS ARCHIVE」ネタ。

お母さん、あの汽車の車両、どうしたでしょうね。ええ、ローラ・バーマーが殺された、あの車両ですよ……

……というような話題が、ずっと以前から向こうの「ツイン・ピークス」ファンの間では出ていたらしい。実は大山崎は知らなかったのだけど、あのローラ・パーマーの殺害現場になった車両が、いつのまにかロケ地となった「Snoqualmie Valley Railroad Yard」から姿を消していたらしいんである。

Car_273_original ←コイツね。その行方に関しては、当時からいろいろなウワサ・ヨタ話・都市伝説(笑)が飛び交っていた様子なんだけど、90年代前半から半ばにかけてマコトしやかに囁かれていたのは、「日本の『ツイン・ピークス』ファンが買って、コレクションにした」というものだったらしいから、ちょっとオドロキ(笑)。いやあ、あの頃はバブルで日本も景気良かったしなあ、思わず遠い目になっちゃうなあ(笑)。てな感慨はさておき、日本からわざわざツアーを組んで、遠路はるばるワシントン州スノコルミーまでロケ地見物に訪れる日本の「ツイン・ピークス」ファンの存在に、向こうのファンも一目置いていた様子がうかがえる。うむ、ちょいと、いい話ではある(そーなのか?)。

その後、「2000年5月に、解体されてオレゴン州のアストリア(Astoria)の鉄道博物館に送られ、そこで修復を受けた」という話が2002年の「ツイン・ピークス・フェスティヴァル」の席上で発表され、ファンの間ではこれが「定説」となっていた。この話はスノコルミーにある「Northwest Railway Museum」が出元だったので、まあ、信じますわな、フツー。

んが、なんと、この話がアヤシイことが最近になって判明。「Northwest Railway Museum」の記録によれば、撮影に使われた車両は「1915年製造、Barney&Smith社製造の客車#273である」ということだった。しかし、アストリアまで車両を見に訪れた物好き……いや、熱心なファンの証言によると、そこに存在した「Spokane Portland and Seattle car #273」の車両は、半分貨車半分客車のいわゆる「貨客車」であって、「ツイン・ピークス」に登場したものとはゼーンゼン違った形をしていたとゆーのである。

Car_2731 ←こちらがアストリアの鉄道博物館にある現物。確かに窓の形状とかが、まるで違いますわな。


あやや? 「Northwest Railway Museum」ってば、ナンか勘違いしてね? と向こうのファンがどよめいていたところに、この博物館の歴史を調査しているというボランティアの人から、衝撃的な手紙が舞い込んだ。問題の車両は、すでにスクラップ処分にされていたというんである。

調査の時に出会った博物館の技術者に問題の車両のことを尋ねてみたところ、かえってきた返事は「アレはTOYOTAの自動車になった(It's making Toyotas)」。なんのこっちゃいと思って詳しく話を聞いたところ、しばらく前に「Northwest Railway Museum」は収集していた車両の整理を行ったらしい。これが2000年のことだかどーだかよくわからないのだが、その際、傷んで修復不可能なものはすべてスクラップ処分にされてしまったのだけど、技術者の人の証言によれば「『Barney&Smith社製の客車#273』もそのとき処分された」とゆーんである。

しかしまた、なんで「TOYOTA車」御指名?(笑) 絶対に「FORD」じゃない確信があんのかよう、コラ……などという小学生レベルの難癖はともかく(笑)、とにかく「TWIN PEAKS ARCHIVE」に出入りしているファンたちは、現在、当該車両がスクラップされたことを裏付けるための書類を探している様子だ。が、それでも希望を失わず「泣くのはイヤだ笑っちゃおう」なのが向こうのファンのいいところである。「もし、どこかであの車両が置かれているのを見かけたら、証拠写真を送ってちょ」とゆーことなので、「あ、そーいえばウチの家のガレージに置いてあるわ」という方がいらっしゃたら、連絡とってあげてください、ぜひ。

6 まあ、なんつーか、つい先月、「ツイン・ピークス 劇場版」に登場したトレーラー・カー・パーク(「Fat Trout Trailer Park」とゆーところらしい)の電柱に掛けられていた「6」という表示の看板が、何者かに盗まれる事件があったばかりなのね。心ないファンの仕業という可能性が高くてナントモなんだけど、「あ、そーいえばウチの勉強部屋の壁に、富士山登頂記念のペナントと一緒に掛かってるわ」という方がいらっしゃたら、コッチの方もそっと返しておいてやってください、ぜひ。

Fwwm_car_273 Car_2732 追記:どーやら「ツイン・ピークス 劇場版」の撮影には二種類の車両が使われていたようで、それで「Northwest Railway Museum」が混乱したんじゃねーの? という説が出ているようだ。向こうのファンたちが探しているのは、写真の「パイロット・フィルム」および「劇場版」の撮影に使われた車両なんだけど、「劇場版」の撮影のみに使われた別の車両があるとのこと。確かに「劇場版」の車両にはスライド・ドアが付いてるのが認められ、アストリアの鉄道博物館が所有しているのは、思いっきり後者のほうっぽい感じでありマス。

2008年9月 5日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (112)

てなわけで、「インランド・エンパイア」を観た(X回目)(34)あたりから始まった具体的映像をもとに「イメージの連鎖」をさぐる作業は、一通り終わったことになる。ただし、最初はこんなに詳細にやるつもりがなかったので、(1:00:00)から(1:15:00)あたりまでの記述には、かなり抜けがあったりするのだな。大山崎がいかに行き当たりばったりで書いてるかを物語るものではあるが、ま、そんなもんス(笑)。これからしばらく、そのあたりを追補しつつ、整理する作業をしておきたい。

では、前回触れたときは省略した(1:00:00)から(1:03:43)までのシークエンスの具体的映像を引用してみよう。まず、”第一回目の「Axxon N.」の発現”のシークエンスから”スー=ニッキーの「スミシーの家」への侵入”までである。

裏通り 外部 (昼) (1:00:00)
(フェイド・イン)
(1)ロング・ショット。右から左へ移動。寂れた裏通り。左右に建物の壁があり、右の壁には円柱。画面手前には銀色のオープン・カーが駐車している。画面の奥から、緑色の柄のブラウスと黒のハーフ・パンツ姿、サングラスをかけたスーが、左手に食料品の入った紙袋、右手から黒のバッグを下げて近づいてくる。画面奥の通りでは、車が行き交っているのが見える。オープン・カーの前に立った彼女は自分の右手に何かを認めて、そちらのほうを見る。
(2)ミドル・ショット。若干左からのショット。食料品の袋をオープン・カーの後部座席に置きながらも、スーは自分の右手ののほうを見詰めている。背後の建物の壁には、茶色の鉄の扉が見える。扉の上には、白いエアコンの室外機が取り付けられている。壁に書かれた白い文字の落書き。奥の方の壁際には、水色のダスターが見える。
(3)ミドル・ショット。スーの主観ショット。半ば開かれた、薄汚れた灰色の鉄製の扉。扉には白い文字で"Axxon N. →"と書かれている。文字の下の方には、四角い枠の何かを剥がした跡のようなものがある。
(4)バスト・ショット。書かれている文字の方ををしげしげと見詰めるスー。
(5)スーの主観ショット。"Axxon N. →"へクロース・アップ。
(6)バスト・ショット。なおも文字を見詰めているスー。やがて、ゆっくりと左に歩き始め、画面の左手へと姿を消す。
(7)ミドル・ショット。スーの主観ショット。"Axxon N. →"が書かれた扉。扉の左には灰色い煉瓦の壁が見える。スーが歩くに連れて、近づいてくる"Axxon N. →"の扉。
(8)ミドル・ショット。やや右側からのショット。オープン・カーの横を通って、扉に近づいていくスー。それにつれて、左へパン。ゆっくりと扉の中に入っていくスー。それを追いかけるショット。扉の中の暗闇に、電球が灯っているのが見える。
(9)スーの主観ショット。右にパン。"→"がチラリと見える。闇に沈む通路。その奥に入っていく視点。丸電球が天井から下がっている。暗闇。ぼんやりとした照明を受ける天井。またもや暗闇。
[扉が閉まる音]
(10)闇の中、階段の手前で立ち止まるスーの姿がぼんやりと見える。一瞬、下に続く階段の踊り場にいるスーの姿が、閃光の中に浮かぶ。

カット(1)からカット(9)までのシークエンスにおいて「具体的映像」として提示されているものが、(0:56:20)からのシークエンスで女性/ニッキー/スーによって「言及されたもの」の「映像によるリフレイン」であることは明白だ。そして「インランド・エンパイア」の「実上映時間軸」からみたとき、この二つのシークエンスが”「昨日」と「明日」の関係”にあることについても、前項で述べたとおりである。映像からは明瞭ではないが、女性/ニッキー/スーの言及にしたがうなら、カット(4)-(6)におけるスーは「何かを思い出し始め(I start remembering something)」「すべての記憶が流れ込んで(I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory)」いる状態であるはずだ。そして「彼女が何を思い出しているか」に関しては、この後のシークエンス……スーが(あるいはスー=ニッキーが)、実体化した「スミシーの家」に入るまでのシークエンスにおいて明示されることになる。

続いて、もうひとつの”「昨日」と「明日」の関係”が提示される。

「スタジオ4」(内部)
(11)暗闇。アウト・フォーカスからイン・フォーカスに。足音ともに近づいてくるスー。彼女は正面の何かを見詰めている。アップになるまで近づくスー。
ニッキー: (画面外で) "Oh, shit."
ニッキー:
(画面外で) "Look in the other room."
(12)ロング・ショット。人影が横切り、画面の左外へと消える。そこは「スタジオ4」の内部である。ニッキーとデヴォンの背後からショット。ニッキー、デヴォン、キングズレイ、フレディが、白い布をかけた長いテーブルにつき、椅子に座っている。彼らはリハーサルの最中だ。
フレディ: what the hell is that?
キングズレイ: Freddie, shh.
フレディ: No, somebody's over there.
驚いてフレディの方をみやり、慌てて正面を向き直るキングズレイ。全員がステージの奥のほうを見る。
キングズレイ: (溜息)
(13)スーのアップ。口を半ば開け、四人の方を見ている。背後は暗闇である。
キングズレイ: (画面外で) This stage is supposed to be ours and ours alone.
(14)ロング・ショット。スーの主観ショット。立ち上がって腰に手を当てているキングズレイ。座ったままのフレディ。左手で涙を拭っているニッキー。デヴォンも立ち上がっている。
デヴォン: (キングズレイに向かって)Let's have a look.
向き直り、ステージの奥(画面手前)に向かって歩き始めるデヴォン。
キングズレイ: (両手を広げ、ニッキーに)I'm sorry.
(15)スーのアップ。
ニッキー: (画面外で) It's Okay.
(16)ミドル・ショット。スーの主観ショット。キングズレイがテーブルの向こうで、腰に手を当てて立ったまま、彼女の方を見ている。フレディはテーブルの向こうに座ったまま、彼女の方を見ている。だが、そこにニッキーの姿はない。テーブルの上、キングズレイの左手には黒いコーヒー・メーカーが置かれ、その他マグカップやなどが置かれている。
(17)スーのアップ。しばしキングズレイたちの方を見つめたあと、画面の右方向に消える。

カット(11)において、そこが「スタジオ4」の内部であり、ニッキーたちを始めとした「四人」による「リハーサル」の最中であることが明示される。そこで交わされている様々な「会話」や発生している「事象」の「同一性」からして、これが(0:23:59)からのシークエンスで提示された「事象」と同一であることは明らかだ。「インランド・エンパイア」の実上映時間軸からみたとき、これもまたカット(10)までの映像と同じく過去に提示された事象のリフレインであり、二つの事象は”「昨日」と「明日」の関係”にあるわけである。

(0:23:59)からのシークエンスについて述べた項でも説明したとおり、このリフレインされる「リハーサル」の映像は、”第一回目の「Axxon N.」の発現”がどの時点でのことであったかを理解する端的な「手がかり」となるものだ。一連の映像を観るかぎり、それはこの「リハーサル」が行われている最中にすでに起きている。実上映時間軸上における「カット(1)-(10)」=「『Axxon N.』の発現」と「カット(11)-(17)」=「リハーサル」の「前後関係」あるいは「位置関係」からして……つまりこの二つのシークエンスの”「昨日」と「明日」の関係”からして、”第一回目の「Axxon N.」の発現”が「リハーサル」が始まった後のどこかの時点……すなわち「ニッキーがスーを演じている時点」で発生しているのは明瞭だからだ。

こうした一連の表現をつうじて、(0:14:56)で「訪問者1」が言及していた”「昨日」と「明日」の問題”が「映画」というメディアに関する「言説」であると同時に、「インランド・エンパイア」自体に関する「言説」でもあったこと……つまり、「自己言及」であったことが了解される。我々=受容者は、「インランド・エンパイア」においてこうした”「昨日」と「今日」の関係”が発生することを、あらかじめ「訪問者1」によって予告されていたのだ。我々=受容者は、「映画」というメディアにおいて物語記述上の「時系列操作」が発生していることを、なんら疑問を抱かず日常的に受け入れている。「操作を受け、入れ換えられた時系列」を認識し整理したうえで「正常な時系列」として再構成する……という非常に複雑な作業を、(ときとして「字幕」や「テロップ」の補助を受けることはあっても)我々はほとんど無意識にやってのけるのだ。「小説」などのメディアに比べ具体性が高い(言い替えれば「現実」に近い)「映像」というメディアの受容においてさえこうした作業が達成可能であることは、我々=人間=受容者が備える「高いパタン認識能力」と「ナラティヴに物事を理解する特性」を指し示すものである。このように、「インランド・エンパイア」が提示する「映画」における「時間コントロール」の問題……”「昨日」と「明日」の問題”について考えるとき、我々はそれが”「感情移入=同一化」の問題”と同じく、我々=受容者側の問題でもあることに思い至ることになるのだ。

そして、カット(16)における「ニッキーの消失」である。演技者=ニッキーの「内面」における「登場人物=スーのアイデンティティの形成」を経て、この二人の混淆物である「スー=ニッキーの形成」が行われたことを、この「ニッキーの消失」は物語っている。かつ、ここで発生している「観るもの」「観られるもの」の関係性の発生が、この後二回にわたって発生する「Axxon N.」の発現に共通して認められ、そこで発生する「視線の交換」が映画というメディアにおける「感情移入=同一化」の喚起のキーになっていることは、何度か述べたとおりだ。

ただし、このシークエンスにおける「視線の交換」が、実は「スーからニッキーへ」の一方通行であること……つまり「交換」が成立していないことは注目すべきだろう。これは、基本的に(0:56:39)からのシークエンスにおいて提示される「スーのアイデンティティの形成」あるいは「スー=ニッキーの形成」が、演技者=ニッキーの「内面」で発生している事象であり、「外界」からは認知不能であることの表象として受け取るのが妥当なはずだ。それを裏書するように、”「スミシーの家」の実体化”後のシークエンスにおいて、同様の事象が「デヴォンとスー=ニッキーの間に発生する『視線の交換』の不能性」という表現で再提示されている(1:04:07)。

興味深いのは、ニッキーたち四人のなかで、フレディだけが朧げとはいえスーの存在を認めたことだ。「動物」に関する言及を行ったり「金銭」に関連する言動をみせたりと(0:38:39)、彼が”映画監督としてのリンチの「代弁者」”という機能を担っていることは確かだ。ただし、彼が「スーの目撃者」である理由がそれであるのかどうか、映像からは明瞭ではない。

(18)ミドル・ショット。アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。暗闇のなかを、画面手前に近づいてくるデヴォン。アップになり、イン・フォーカスになった位置で立ち止まるデヴォン。
[スー=ニッキーの足音]
それを聞いたデヴォンは再び歩き出し始め、画面手前に姿を消する。暗闇だけが残る。
(19)ミドル・ショット。スー=ニッキーの右手からのショット。暗闇のなか、ステージの奥に向かうスー=ニッキー。それを追って、右へパン。大きな鏡の前を通り、カーテンの向こう側に姿を消す。
(20)デヴォンのアップ。背後は暗闇。
[スー=ニッキーの走る音]
それを聞きつけたデヴォンも走り始め、画面右に姿を消す。
(21)ミドル・ショット。ステージの中を、奥(画面手前)に向かって走るスー=ニッキー。それにつれて後退する視点。背後には組み立て中のセットが、背後右手にはステージの壁が見える。あえぐスー=ニッキー。
(22)ミドル・ショット。暗闇のなか、スー=ニッキーの走る足音を追いながら、画面右から左へと姿を消すデヴォン。
(23)ミドル・ショット。暗いステージの奥(画面手前)に向かって走り続けるスー=ニッキー。それに連れて後退する視点。彼女の右の肩越しに、セットの窓からこちらを見ているピオトルケの姿が見える。彼は緑色のコートを着ている。
(24)ミドル・ショット。スー=ニッキーは「スミシーの家」のセットの前までたどりつく。立ち止まり、後ろを振り向く。何かを目にする。
(25)スー=ニッキーのアップ。何かを目にして、息を飲むスー=ニッキー。
(26)ロング・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。 暗闇のなか、緑のコートを着たピオトルケが、そこだけ明るい窓の中から彼女を見ている。揺れながら急激にクロース・アップ。
(27)ミドル・ショット。デヴォンがステージの暗闇の中を歩いている。デヴォンの背後からのショット。早足で画面左から右へと姿を消す。
(28)スー=ニッキーのアップ。戦きの表情。彼女の背後には「スミシーの家」のセットが見える。彼女の左手には白い扉、右手には窓の一部が見える。
(29)ミドル・ショット。スー=ニッキーの主観ショット。窓の中から彼女を見ているピオトルケ。
(30)バスト・ショット。ステージの暗闇の中を、画面手前に向かって走るデヴォン。それに連れて後退する視点。彼の背後には組み立て中のセットが見える。 (31)スー=ニッキーのアップ。恐怖の色を浮かべている。
スー=ニッキー:
Billy!
(32)デヴォンのアップ。セットの暗闇の中を、画面手前に向かって走るデヴォン。それに連れて後退する視点。彼の右の肩越しに、窓からこちらをうかがっているピオトルケの姿が見える。
(33)スー=ニッキーのアップ。
スー=ニッキー: Billy!
(34)スー=ニッキーのクロース・アップ。
スー=ニッキー: Billy!
(35)スー=ニッキーは踵を返し、「スミシーの家」のセットに駆け寄る。彼女の背後から、まばゆい照明が彼女と「スミシーの家」を捕らえる。玄関のドアの前でスー=ニッキーは立ち止まり、左手をドアのノブにかけたまま、照明の方を振り返る。「スミシーの家」の玄関ドアの左側の壁には、"1358"という標識と郵便ポストがある。右側の壁には、鉄製の枠でできた外灯と、窓越しの黄色いカーテンが見える。窓の下のあたり地面から、雑草が生えているのが見える。
(36)スー=ニッキーの主観ショット。窓越しのピオトルケのアップ。下から上にパン。
(37)スー=ニッキーのアップ。彼女は自分が目にしたものに慄いている。「スミシーの家」のドアを開け、中に入るスー=ニッキー。

カット(18)からカット(37)にかけて、再び「監視/干渉」のイメージを付随させた「ピオトルケ」の映像が提示される。カット(26)(29)に明瞭であるように、彼は「緑のコート」を着用しており、(2:05:17)からのシークエンスでジャック・ラビットが言及する「緑のコートの男(It was the man in the green coat)」がピオトルケを指していいることを明示している。そして、それを裏付ける形で、「スミシーの家」のベッド・ルームに置かれているクローゼットの中で、老人がピオトルケに手渡した「拳銃=物語展開の要請」が「緑色のコート」とともにスー=ニッキーによって発見されることになる(2:40:54)。

同様にカット(18)からカット(37)の映像によって明らかなように、スー=ニッキーを「スミシーの家」に……つまり、彼女の「内面」に追い込むのは「ピオトルケの視線」である。繰り返し述べたように、これは演技者=ニッキーが登場人物=スーに「感情移入=同一化」を果たすうえで、個人としてのニッキーが抱える「トラブル=機能しない家族」に接した際の「感情」がキーとなっていることの表れとして了解される。こうした「感情」こそが、ニッキーが(あるいはスー=ニッキーが)思い出した「記憶」であることの明示に他ならない。(0:56:20)のシークエンスにおいても、同じく「ピオトルケの視線」がニッキーの「感情移入=同一化」の成立に関与していることが描かれており、このシークエンスにおいて提示されているのは、その「リフレイン」であり「ヴァリエーション」であるといえる。

かつ、ピオトルケは「家」の窓から「監視」の視線を送るが、つまりこれは彼が「家」の内部にいることの表象である。ニッキーの「トラブル=機能しない家族」は、当然ながら彼女の「家」の内部に存在するのだ。しかし、「スー=ニッキー」が生成された時点で、彼女(たち)の「内面」としての「家」は「スミシーの家」によってとって変わられている。もともとニッキー個人の「家」であったものは彼女から切り離され、その「内部」にある「トラブル=機能しない家族」の要因である「ピオトルケ」とともに、”機能しない家族の「個別例」”として「スミシーの家」と「対置」されるものとなる。カット(23)以降の映像において、ピオトルケが「内部」に存在する「家」(のセット)が、「スミシーの家」(のセット)と対面する形で位置していることが見て取れるが、これはそうした”「家」の分化”を指し示す表現として理解可能だ。

見落とせないのは、スー=ニッキーを追いかけるデヴォンもまた、「ピオトルケの視線」に晒されていることだ。(0:56:39)からの「スミシーの家」のベッド・ルームにおける事象と同じく、このシークエンスで発生している事象も、女性/スー/ニッキーと男性/デヴォン/ビリー、そしてピオトルケの三者の間で発生している事象であり、女性/スー/ニッキーと男性/デヴォン/ビリーはともに「ピオトルケの視線」に晒されているのだ。その意味において、カット(18)からカット(37)のシークエンスで提示されている事象は、「スミシーの家」のベッド・ルームにおける事象の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。そして、当然ながら、この二つの事象がそれぞれ指し示すのは、ニッキーのスーに対する”「感情移入=同一化」の形成/深化”に「夫=ピオトルケ(の視線)」が関与しているということに他ならない。

このようにしてみるかぎりにおいて、(1:00:00)から(1:03:43)までのシークエンスが提示/表象するものは、基本的にそれまでのシークエンスが提示/表象したものの「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。そしてその一部は、これ以降のシークエンスにおいても、また違った形で繰り返され、変奏されることになる。「同一テーマ/同一モチーフ」の「リフレイン/ヴァリエーション」の提示はリンチ作品が共通してもつ特徴であり、「インランド・エンパイア」もその例外ではない。こうした「同一テーマ/同一モチーフ」の把握は、この作品を理解するうえで重要なポイントになるはずだ。

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