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2008年8月31日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (111)

なんやかんやで、やっと「ダーク・ナイト」を観たりしたのだけど、コレが9.11以降のアメリカで大当たりする状況ってのは、なんか非常に複雑なものがありますナー。かつ、アチラの映画評をあれこれ探しても、そのあたりに触れているものがどうにも見当たらないというのが、かえって不気味とゆーか、「根の深さ」を表わしているとゆーか。ま、なんかまとめられるようだったら、またの機会に詳しく。

とゆーよーなコトに関係なく続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。(0:56:39)から(1:00:00)までのシークエンスについての第三回目ということで。

概論的なところが終わったところで、では、具体的な映像を追いかけてみよう。ポイントとなるのは、カット(16)以降における女性/ニッキー/スーと男性/デヴォン/ビリーの会話である。念のため、重要と思われるカット(16)からカット(37)までの、台詞部分のみを再掲しておこう。

(16)ニッキー: (ささやき声で) You remember... remember that night...
(17)ニッキー: (画面外で) when I said that thing...about it being a--
(18)ニッキー: (画面外で) Oh, you feel that?
デヴォン: Yeah.
(19)ニッキー: (画面外で) Oh, remember--
(20)ニッキー: (画面外で) remember I told you... about thing,
(21)ニッキー:this thing that happened?
(22)ニッキー: (画面外で。ため息)
(23)ニッキー: It's a story that happened yesterday,
(24)ニッキー: (画面外から) but I know it's tomorrow.
デヴォン: That doesn't make sense.
(25)ニッキー: It was that scene that we did yesterday, when I'm getting groceries for you with your car. And it was in that alley,
(26)ニッキー: (画面外から) and I parked the car. There's always parking there.
(27)ニッキー: So there I am.
デヴォン:
(画面外から) What?
(28)デヴォン: Sue, damn.
ニッキー: (画面外から) It's a scene we did yesterday. You weren't in it. That one when I'm in the alley.
(29)ニッキー: I' going to get groceries for you with your car, and I park there 'cause there's always parking. You know the one.
(30)ニッキー:(画面外から)I see this writing on metal.
(31)ニッキー:And I start remembering something. I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory. I start to remember. And I-- I don't know. I don't know what it is.
(32)ニッキー: (画面外で)[荒い呼吸音]
(33)ニッキー: It's me. Devon, It's me. Nikki.
(34)ニッキー: (画面外で) [荒い息をしている]
デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!
(36)ニッキー:(画面外から)  Oh, Please. Please.
デヴォン:
[笑い声]
ニッキー:
(画面外から) Please. Oh--
(37)ニッキー: (ささやき声で) Look at me.
デヴォン: (画面外で)[笑い声]
ニッキー: Please.

まず明解に指摘できるのは、女性/ニッキー/スーが話しているのが”「Axxon N.」の発現”に関連した事項であるということだ。それは、カット(30)における「鉄の上に書かれた文字を見た(I see this writing on metal)」という言及によって明らかである。あわせて指摘できるのは、彼女がカット(25)からカット(30)にかけて語っている事象が(「鉄の上に書かれた文字」を含め)、このシークエンス直後の(1:00:00)からのシークエンスにおいて、「具体的映像」としてそっくりそのまま提示/反復されていることだ。

「インランド・エンパイア」がしばしば映画作品として「自己言及」を行なっていることについては何度か触れたが、この二つのシークエンスの関連によって表されるものも、そうした「自己言及」のひとつとして受け取ることが可能だだろう。(0:57:39)において語られていることが、(1:00:00)から映像として提示される……つまり、「インランド・エンパイア」の実上映時間(我々=受容者にとっての「実時間」でもある)のうえで、「昨日の話(It's a story that happened yesterday)」であったことが「明日、発生する(but I know it's tomorrow)」のだ。

要するに、(「感情移入=同一化」などの問題と同じく)これもまた「インランド・エンパイア」という映画作品による、自身を具体例とした”「映画」というメディアに関する記述”……「自己言及」に他ならない。基本的に「映画」というメディアが提示する「映像」自体が「過去=昨日」に撮影されたものであること、その「映像」は反復性/再現性をもって「明日」以降も同一性を保ちつつ上映/提示され「受容対象」となること、あるいは実際の「撮影」の順序が映画内の時系列に沿って行なわれるわけではないこと、はたまた「フラッシュ・バック」などの「物語記述」の技法としての時系列操作の問題……等々、「映画」が種々の「時間コントロール」を伴うメディアであり、そうした「時間コントロール」自体が「映像としての表現」の一要素であることが、”「昨日の話」「明日の事件」の関連性”という表現で表象されているのだ。当然ながら、「インランド・エンパイア」あるいは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「登場人物」であり、その「時間コントロール」下にある男性/デヴォン/ビリーには、自らが属する「時間」に関する概念が「理解できない(That doesn't make sense)」(カット(24)(34))。当然ながら、同じ立場である女性/ニッキー/スー自身にも「どういうことだかわからない(I don't know what it is)」(カット(31))ことになる。「インランド・エンパイア」の「時間概念」を理解できるのは、それに対してメタな視点をもてる「我々=受容者」だけなのだ。

また、このカット(31)における女性/ニッキー/スーの言及を子細にみると、それが(0:14:56)における「訪問者1」の言及と対応したものであることが確認される。

訪問者1: An old tale. And the variation....a little girl went out to play.
訪問者1: Lost in the marketplace as if half-born.
訪問者1: Then ... not through the marketplace --  you see that, don't you --  but through the alley behind the marketplace.
訪問者1: This is the way to palace. But it isn't something you remember.
訪問者1: Forgetfulness. It happens to us all. And...me? Why, I'm the worst one.
訪問者1: Oh. Where was I?

訪問者1: I can't seem to remember if it's today, two days from now, or yesterday. Hmm. I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight.
訪問者1: For instance, if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.

これらの「訪問者1」による言及が、上述したような「映画」というメディアが内包する「時間」(あるいは「空間」)の諸要素に関連していることは、すでに当該シークエンスについて述べる際に指摘したとおりだ。これらは「映画製作」における「時間/空間コントロール」の概念につながり、また一方でそれを受容する者はそうした「時間/空間コントロール」の制御下におかれ、結果として「実時間/実空間に対する見当識の失当」を引き起こすことになるわけである。

だが、「yesterday」「tomorrow」とあわせ、女性/ニッキー/スーによる言及と「訪問者1」の言及を関連付けるもうひとつの「キー・ワード」……「remember」が示唆するものをみたとき、「訪問者1」の言及がそれ以外の概念をも含み、非常に複合的な意味合いを内包していることが逆照射されることになる。それを端的に表わしているのが、カット(31)における女性/ニッキー/スーの言及だ。みてのとおり、ここで記述されているのは、「映画」における「時間/空間のコントロール」や「時間/空間に対する見当識の失当」に関してではない。そこで語られているのは、「何かを思い出す(And I start remembering something)」という肯定的な文脈上における、「記憶(memory)」についてなのだ。

これもまた、前回述べた「演技者=ニッキーの『内面』における登場人物=スーのアイデンティティの形成」に、過去、彼女が「夫=ピオトルケ」との「トラブル」に際して抱いた「感情」が関与していることを示唆している。この「演技」と「記憶」に関する問題は、「ロコモーション・ガール」によって表される「情緒の記憶」という表現につながっていく。そう考えるとき、「訪問者1」による「それはあなたが思い出せないでいるものだ(But it isn't something you remember)」という言及が何を指し示しているのかが、おぼろげに見えてくる。彼女の言及によれば、それは「宮殿に至る道」であり、そこへは「市場の裏側の路地」を通ることによって到達できる。そして、女性/ニッキー/スーが”「Axxon N.」の発現”を目撃し「何かを思い出した」のは、「市場(いちば)で食料品を買った後の路地」であるのだ。「市場ーいちばーしじょう」という複合的なイメージの連鎖に基づき、「『映画』というメディアが内包する商品/工業製品としての性格が、作品に対してもたらす制限からの脱却」という概念と、「登場人物を演じるうえで演技者が援用する自身の『情緒の記憶』」という概念の両方が、少しずつずれながら「訪問者1」の言及に内包され、ともに「宮殿に至る道」として語られているのである。

もうひとつ、キー・ワードとして表出しているのが、女性/ニッキー/スーが男性/デヴォン/ビリーに対して何度も繰り返す「私を見て(Look at me)」である。このキー・ワードはこの後、「スミシーの家」の小部屋でロコモーション・ガールの一人によって(1:09:20)、あるいは「スミシーの家」の裏庭におけるホーム・パーティの席上でスー=ニッキーによって(1:37:21)、あるいは、ポーランドの夜の「ストリート」においてロスト・ガールによって(2:11:22)、それぞれ「リフレイン」され「変奏」される。より正確に述べるなら、これら三つの「リフレイン」においては、必ず「あなたは私(たち)を以前から知っているか?(...and tell me if you've know me/us before)」という問いかけが伴われている。つまり、これらの諸例をみるかぎりにおいて、「Look at me」というキー・ワードは「自己のアイデンティティの確認」のために発せられているのだ。こうした文脈上に捉えるなら、当然ながらこのシークエンスにおける女性/ニッキー/スーの「Look at me」も、彼女の「自己確認」の試みとして捉えられることになる。ただし、この「自己確認の試み」の命題が、「自分がニッキーであるのかスーであるのか」などという「対立概念」の範囲に収まらない。それは上述した「ロコモーション・ガール→スー=ニッキー→ロスト・ガール」という「Look at me」のリレーに表されている。彼女たちはそれぞれ自分たちの「自己確認」を試みるが、それは「自分(たち)がどういう存在であるのか」という実存的かつ根源的な問いかけの反映に他ならない。

ここで見落としてはならないのが、まずカット(13)において、男性/デヴォン/ビリーが……

デヴォン: Shh... (ささやき声で) Look at me.

……という具合にこのキー・ワードを発していることだろう。「インランド・エンパイア」は基本的に女性を中心にした視点で描かれているが、それはイコール”男性が「機能しない家族」の問題を抱えておらず、「自己確認」も必要としていない”ことを表わしているわけではない。それは作品構成上「省略」を受けているだけであり、男性もまた同じ問題を抱えていることは、「インランド・エンパイア」の随所で断片的に示唆されている。この男性/デヴォン/ビリーによる「Look at me」も、そうした断片的な示唆のひとつなのである。

いずれにせよ興味深いのは、こうした「自己確認」の問いかけが、「Look at me」という”自らを「観られるもの」と規定する発言”によってなされることだ。この後「インランド・エンパイア」が三度にわたる”「Axxon N.」の発現”をとおして、「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「受容者=ロスト・ガール」の三者間における”「観るもの」と「観られるもの」の関係性の発生から消滅まで”を描き、”「映画」における「視線の問題」”に関するいろいろな事象を提示することを考えると、これは非常に示唆的だといえるだろう。

しかし、だ。”「映画」における「視線の問題」”そのものが”優秀な「感情移入装置」としての「映画」”を指し示すのであれば、このシークエンスにおいて「ピオトルケの視線」が「主観ショット」で提示されていること自体が……すなわち、彼の「視線」を我々=受容者が「共有」し、”「スミシーの家」のベッド・ルーム”=”ニッキーの「内面」の奥深いところ”への侵入を「共有」していること自体が、これまた非常に「示唆的な表現」ではないだろうか。なぜなら、あるいは、これも「インランド・エンパイア」による、自身を具体例とした「『映画』における視線の問題」の提示であり、「自己言及」であり得るのだから。もし、この見方が正しいのなら、これもまたリンチによる「周到な仕掛け」のひとつであるわけだ。

(この項、おしまい)

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