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2008年8月28日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (110)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。引き続き前回と同じ(0:56:39)から(1:00:00)までのシークエンスについて、ひとくさり、ふたくさり、あ、もひとつついでに、みくさり。

さて、このシークエンスが「インランド・エンパイア」の作品構造上、どのように機能しているかについては前回で説明したとおり。それはそれとして、さて、では、このシークエンスの映像群はいったい何を表象しているのだろう?

この後、徐々に明らかになっていくように、「インランド・エンパイア」において「スミシーの家」の内部で発生している事象は、基本的に「家族間のトラブル」に関するものである。その具体的な一例が「ピオトルケにとってあり得ないスーの妊娠」(1:29:26)であり、その結果としての「ピオトルケによるスーへの暴力」(2:16:32)だ。この「家族間のトラブル=機能しない家族」というテーマは、その最初期からリンチ作品に繰り返し登場するものである。たとえば「イレイザー・ヘッド」における「奇形の幼児殺し」や「ツイン・ピークス」における「リーランドによるローラ殺害」にはじまり、リンチ作品のなかでももっとも具象的な作品であるといえる「ストレイト・ストーリー」においてさえ、「兄と弟の長年の確執」という形で「機能しない家族」は描かれている。その根底には、これまたリンチが映画作品のみならず絵画作品においても一貫して採りあげ続けてきた「家=何かよくないことが起きる可能性がある場所」というモチーフが存在しており、「スミシーの家」はその典型例なのだ。

「家」が「何かよくないことが起きる可能性がある場所」であり得るのは、そこが「外界から遮断され、外からはその内部で何が発生しているかわからない場所」だからであり、リンチ作品において、それは「『人間の内面』の象徴」としての「家」という発想/表現につながっていく。たとえば「ロスト・ハイウェイ」における「砂漠の小屋」がフレッドの「内面の奥深い場所」として成立し、そこに住むミステリー・マンがフレッドの「隠匿された意識」の「代弁者/代行者」であり得るのはこうした発想に基づくものだ。そして、「スミシーの家」もまた、そうした発想/表現の延長線上にあるものとして、登場人物=スーの(あるいは彼女に「感情移入=同一化」する演技者=ニッキーの)「内面」の表象として捉えられ、その「内部」で発生している事象は、ニッキーの(あるいはスーの)「内面」で発生している「思考」や「感情」の表われであると理解される。その端的な例が、たとえば、(1:06:06)からの「スー=ニッキーによるベッド・ルームのピオトルケ目撃」から「『情緒の記憶=ロコモーション・ガールたち』との邂逅」へと続くシークエンスだ。それが提示しているのは、演技者=ニッキーが、登場人物=スーの「トラブル」が「夫との関係」に起因していることを理解したうえで、自らの「夫との関係」において体験した「感情=情緒の記憶」たぐる過程において、演技者=ニッキーの「内面」で発生している事象の映像化に他ならない。リンチが採用する諸表現がきわめて「表現主義的」なものと捉えられるのは、それらがこうした「人間の内面の映像化」であるからである。

前置きが長くなったが、このシークエンスにおける「スミシーの家」のベッド・ルームで発生している事象も、上述したようなリンチ固有のテーマやモチーフの表われとして理解されるものである。まず、「スミシーの家」の内部で発生している他の事象と同じく、このシークエンスで発生している事象も「トラブル=機能しない家族」の個別例のひとつである。と同時に、それはニッキーの「内面」で発生している事象であり、彼女が抱く「意識/感情」の反映なのだ。とういうような観点からみたとき、このシークエンスの映像自体にも、それがニッキーの「内面」で発生している事象であることの具体的な証左が散りばめられていることに気づくことになる。

たとえば、シークエンス全体をとおして認められる「青」のモチーフだ。総論部分で述べたように、「青」のモチーフは「心理展開の要請」を表すものとして、「物語展開の要請」を表す「赤」のモチーフに対置されるものである。このシークエンスはその「青」のモチーフが初めて表出する場面であり、そこで発生している事象が「心理/内面」に関連していることを指し示している。だが、より端的にそれを指し示しているのは、カット(34)およびカット(35)における男性/デヴォン/ビリーと女性/ニッキー/スーのやり取りだ。

(34)デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!

これをみる限り、男性は相手に「スー」と呼びかけている。それに対し、女性は自分がニッキーであると主張し、相手の男性に「デヴォン」と呼びかけている。(0:54:07)からのシークエンスなどのように、「インランド・エンパイア」は何度か「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影風景」の映像を提示してきたが、そこにみられたのは「演技者の混乱」……すなわち「ニッキーによる、自身とスーとのアイデンティティの混同」として理解されるものだった。だが、このシークエンスで発生している事象は、それとは真逆の現象である。すなわち、ここで描かれているのは、いわば「登場人物の混乱」……つまり、「スーによる、自身とニッキーのアイデンティティの混同」なのだ。

しかし、リンチ作品において、これが”「(作品内)非現実」の「(作品内)現実」化”……要するに、「架空世界の登場人物が、現実に現れる」というような「常套表現=クリシェ」を指し示していないことは明瞭である。それはあまりに「ナラティヴな理解」に過ぎるし、なによりも、その後「インランド・エンパイア」が提示する映像が伝えるものに合致しない。では、なぜ、ここで「アイデンティティの構造」が裏返されるのか? それが指し示すものは二点ある。一点目は、このシークエンスが「ニッキーの内面」であり、それまで描かれていた客観描写から主観描写へと転移したことだ。「外界」から「内面」へと「視点」が裏返ったとき、そこで発生している事象もまたそれにあわせて裏返るのである。二点目は、演技者=ニッキーの「内面」において、登場人物=スーのアイデンティティが形成された(あるいは、形成される過程にある)という事実だ。

ニッキーの「内面」において、スーのアイデンティティが形成されたこと……つまり「登場人物=スー」が生まれたこと、そしてそれが「演技者=ニッキー」のアイデンティティを混在させた”「スー=ニッキー」と呼ぶべきもの”の成立につながっていくことに関しては、この後に発生する”一回目の「Axxon N.」の発現”のシークエンスにおいて明瞭に示唆される。「ステージ4」の内部において、「視線の交換」を行った後の「演技者=ニッキー」が消滅するシークエンスがそれである(1:02:31)。そして、この「ニッキーの消滅」が「ステージ4」で行われた「リハーサル」のシークエンス(0:27:00)で発生していることは、この「登場人物=スーの成立」がどのように起きたかを誤解のしようもないほど明確に説明している。「登場人物=スー」は、演技者=ニッキーがリハーサル時にみせた、優れた「演技能力」によって成立しているのだ。

もちろん、ニッキーの「演技能力」の高さは、「リハーサル」のシークエンスで彼女が流す「涙」によって表わされているように、その「感情移入=同一化」の能力によるものである。これらの事項すべてから読み取れるのは、ここで発生している事象は、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」そのものであるということだ。言葉を変えれば、演技者がどう登場人物の役になりきるか、それは演技者の「内面」においてどのような過程を経て成立するか……そうした事柄が「凝縮」され、「複合的」な形で伝えられているわけである。

ここでいう「複合的」とは、このベッド・ルーム内で発生している事象が、複数の文脈上に同時に置くことができるという意味だ。上述した「登場人物=スーのアイデンティティの形成」は、一連の「『ON HIGH』の撮影風景」を表わすシークエンスの文脈上にある。と同時に、以前にも述べたように、このベッド・ルームのシークエンスは、「窃視」のモチーフを内包した一連のシークエンス……(0:18:14)からの「二階からニッキーたちを見下ろすピオトルケ」のシークエンス、あるいは(0:42:13)からの「ピオトルケによるデヴォンへの恐喝を覗き見るニッキー」のシークエンスの文脈上にもあるのだ。この「窃視」のモチーフが、”ニッキーの「夫」としてのピオトルケ”が付随させている「監視/干渉」のイメージの表われであることについてはすでに何度か触れたが、このシークエンスにおいてもこの”「窃視」=「監視/干渉」のイメージ”は、「ベッド・ルームに侵入するピオトルケの主観視点」という形で明瞭に認められるのである。

このシークエンスが「ニッキーの『内面』」における事象を表わしており、彼女の「心象風景」であることを前提にするなら、この「ピオトルケの視線の侵入」という表現そのものが特に興味深いものになる。なぜなら、この”ピオトルケによる「監視/干渉」のイメージ”はニッキーの「内面」において発生しているものであり、そうしたイメージの発生自体が”彼女がピオトルケにによる「監視/干渉」を受けていると感じていること”と同義だからだ。彼女の抱く「夫=ピオトルケに対する『感情』」が「登場人物=スーのアイデンティティの成立」に関与していることが、このシークエンスに”「ピオトルケによる視線の侵入」が現れること”によって表象されているのである。

同時に、「夫=ピオトルケ」に対してこのような「感情」が表われていること自体が、演技者=ニッキーにとっての”「トラブル=機能しない家族」の発生”を物語っていることはいうまでもない。総論で述べたように、これもまた「トラブル=機能しない家族」の「個別例」のひとつであり、他の「個別例」とあわさって”「機能しない家族」の抽象概念”を構成する一要素なのである。前述したように、登場人物=スーもまた、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」のなかで彼女の「トラブル=機能しない家族」を抱えている。”演技者=ニッキーの「内面」における登場人物=スーの成立”にあたって、ニッキーの「感情移入=同一化」の能力が機能していることについては先に述べたとおりだが、その「感情移入=同一化」は、ともに「トラブル=機能しない家族」を抱えているという「共感」に裏付けられて発生しているのだ。これ以降の「スミシーの家」のシークエンスにおいて、ニッキーの「夫」であった「ピオトルケ」がスーにとっても「夫」であり得るのは、まさに「登場人物=スーのアイデンティティ」がこのような経緯を経て形成されたからに他ならない。

このようにみる限りにおいて、このシークエンスが最終的に提示しているのは、演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じるうえにおいて、どのようにスーに対して「感情移入=同一化」したかである。このモチーフについては、後に表われる「スミシーの家」のシークエンスにおいて、”演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を表わす「ロコモーション・ガールたち」との邂逅”という表現によって、形を変えて再提示されることになるだろう。

あるいは、このシークエンスにおける諸表現から読み取れるのは、「インランド・エンパイア」が内包する「機能しない家族」というテーマと「映画における『感情移入=同一化』」というテーマの、最初の接触である。いままで別々の事象として描かれていた二つのテーマが、このシークエンスにおいて接合される。そして、これが”「映画」による「感情移入=同一化」を通じての「自己確認」”という「インランド・エンパイア」の最終的なテーマに発展していくのだ。

(この項、まだ続く)

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