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2008年8月21日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (108)

うええええ、お盆休みが終わったら終わったで、ドタバタ忙しいんでやんの。ワケのわからんことになっていた各方面のトラブルをシュートしつつ、修羅場を縫って進む(笑)「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話であるが、気がついたら「X回目」の「108回目」である。うむ、「煩悩」でやんスな(笑)。

もう採り上げるべきシークエンスも残り少なくなってきた感じだが、今回は(0:55:24)から(0:56:20)まで。デヴォンとプロデューサーが「4-7」の製作が中断された理由と、それが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影に影響を与えているかどうかを語るシークエンスである。まずは、具体的な映像から。

スタジオのオフィス 内部
(1)デヴォンのアップ。
プロデューサー: (画面外から) And we just don't know the actual real reasons 
(2)プロデューサーのアップ。
プロデューサー: why this film wasn't finished. Now, you know some stories. 
(3)デヴォンのアップ。憮然とした表情である。
プロデューサー: (画面外から) But stories are stories. Hollywood's full of them.
(4)プロデューサーのアップ。
プロデューサー: Thank god. In this case, the same thing-- stories which grew out of imagination. And we're surrounded by these screwball stories every day. And they shouldn't be taken as truth or given credence... and jeopardize Nikki's performance.
どうだと問いたげにデヴォンを見つめるプロデューサー。
(5)デヴォンのアップ。まだ納得できない様子である。
デヴォン: Unless the stories are true.
(6)プロデューサーのアップ。デヴォンの台詞に被せるように。
プロデューサー: Devon.
言葉を切り、デヴォンを見つめるプロデューサー。
(7)デヴォンのアップ。黙ったまま、不満気にプロデューサーを横目で睨んでいる。
(8)プロデューサーのアップ。しばらく黙ったままデヴォンを見つめる。
プロデューサー: There is absolutely no proof that anything bad happened around this film.

 

二人の遣り取りには、「ストーリー(story)」という言葉が繰り返し登場する。これがこのシークエンスにおけるキー・ワードであるのは間違いないだろう。

もっとも「具象的」に受けとるなら、いうまでもなく、ここで言及されている「ストーリー」とは、キングズレイがデヴォンとニッキーに話した、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の原型とされる「4-7」という映画作品に関する「噂話/裏話」である(0:30:28)。つまり、過去において「4-7」という映画が撮影途中に製作を打ち切られたこと、打ち切られた理由が主演の俳優二人が殺されたことであり、その映画は呪われていること……という「ストーリー」である。この「噂話/裏話」は、カット(3)のプロデューサーによる「ハリウッドはそうした『ストーリー』で満ちあふれている」という言及によって、「サイド・ストーリー」あるいは「ゴシップ・ストーリー」全般のことにつながっていく。ネガティヴな「ストーリー」もあればポジティヴな「ストーリー」もあり、なかには「伝説化」していく「ストーリー」もあるかもしれない。マリリン・レーヴェンスが「商品」にした「ニッキーとデヴォンの不倫」という「ストーリー」も、そのなかのひとつであるわけだ。

しかし、「ストーリー(story)」という概念が内包するものを考えるなら、このプロデューサーによる一連の言及自体も「複合的」なものとして理解されることになる。「ストーリー」は「噂話」であるし「記事(news report)」であるし、「嘘(lie)」のことであるだろう。だが、同時にそれは「物語(tale)」であるし、「小説や映画の筋」のことでもあるのだ。ハリウッドには「噂話/裏話」だけでなく、「映画作品」という形の「ストーリー」もまた満ちあふれている。すでにフィルムとして(あるいは「商品」として)完成された「ストーリー」が存在すれば、まだそこまで至っていない「スクリプト」あるいは「企画」段階の未完成な「ストーリー」も存在する。あるいは「4-7」のように、あるいは「クィーン・ケリー」のように、完成に至るまでの間になんらかの理由で製作が「中断」される「ストーリー」もごく稀に存在するのだ。それら全体をも含めて、それこそ「よくある話(we're surrounded by these screwball stories every day)」なのである。もちろん、「インランド・エンパイア」自体が、そうした「ストーリー=映画作品」の一本なのである。

逆に最大限「抽象的」に捉えるなら、「ストーリー」という概念がもつ根本的なもの、つまり「事件や出来事を記述したもの(an account describing incidents or events)」という概念に帰着することになる。かつ、この”「事件」や「出来事」の発生”という事象自体が、”我々が「外界」を認識すること”と関係しているのは指摘するまでもないだろう。そもそも、我々が「認識」しない(できない)「事件」や「出来事」は、はたして我々にとって「発生」したことになるのだろうか? このような関連性の上に捉えるならば、このシークエンスにおいて「ストーリー」というキー・ワードによって言及されているのは、やはり”我々が「外界」を認識すること”全般についてだ。何度か述べたように、我々の「外界認識」には、必ず「物語化すること=ストーリー(ナラティヴ)を作ること」が伴う。その「外界認識=物語」が正しいかどうかを……すなわち「出来事」と「出来事」の間に認められた「因果律」が本当に存在するかどうかを我々は経験則に従って判断するしかなく、そこには決定的な「正確性」あるいは「客観性」など存在しない。むしろ往々にして我々が「主観」と「感情」に歪められた「物語」をすら作り上げてしまうことを鑑みるならば、カット(4)のプロデューサーの言及どおり、まさしく”「ストーリー=外界認識」は「真実(truth)」からではなく「想像(imagination)」から生まれ育つ”のである。いわばハリウッドだけでなく、我々が存在する「世界」そのものが「ストーリー」に満ちあふれているのだ。

「インランド・エンパイア」は、「感情移入」や「視線の問題」といった映画というメディア全般に関する言及を行うが、それはそのまま「インランド・エンパイア」という映画作品自身に関する「自己言及」であると同時に、我々=受容者の問題に収斂していくことについては、何度か述べたとおりだ。このシークエンスにおける「ストーリー」というキー・ワードによって表わされるものも、やはり「インランド・エンパイア」自身に関する「自己言及」であると同時に、受容者である我々の問題に帰着していく。そうした視点でみたとき、非常に興味深いのは、プロデューサーが発する最後の「台詞」である。「この作品に関して、何かよくないことが起きているという決定的な証拠は何もない」と彼は語るが、さて、この「作品(film)」とは、何を指すのか? 単純に受け取るなら、もちろんこれは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のことに他ならない。だが、これが「インランド・エンパイア」に関する「自己言及」であり、かつ「我々=受容者の問題」であるならば、この「作品(film)」が「インランド・エンパイア」自身を指していないと言いきれるだろうか? もしそうであるならば、あるいはこれは、時系列整理や人物整理を行い、「殺人」などの「事件」や「出来事」が散りばめられた「何かよくないことが起きる物語」として「インランド・エンパイア」を「認識」しようとするであろう受容者に対する、痛烈な「牽制球」ではないのか。

(0:36:24)から提示され続けた「演技者=ニッキーの感情移入」や「撮影現場の混乱」を表象する一連のシークエンスは、この直後の”「スミシーの家」のベッド・ルーム”のシークエンスで明瞭な「集約点」としての区切りをみせる。その後の「インランド・エンパイア」が提示する映像群が、ニッキー=スー=ロスト・ガールの「内面描写」の度合を深めていくことを考えるとき、このシークエンスで提示される「ストーリー」というキー・ワードが”「外界認識」の問題”に集約されていくことは、非常に興味深いといえる。なぜなら、そうした「表現主義的な映像群」こそが、ニッキー=スー=ロスト・ガールが「どのように『外界=世界=映画』を認識したか」を表わすものに他ならないからだ。受容者=ロスト・ガールによるこの「外界認識」は……「映画=世界」を体験したことによって発生した「感情移入=同一化」とその結果としての「自己確認」は、最終的に彼女自身の「内的変化」へとつながっていくのである。

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