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« リンチの新DVDボックス・セットのおハナシ | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (107) »

2008年8月13日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (106)

まったりと続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回は前回の続き、(0:42:13)から(0:44:18)までのシークエンスについての第二回目であったりする。

さて、では二階に上がったニッキーが、ピオトルケとデヴォンの様子を「覗き見る」シークエンスを、実際の映像に従ってみてみよう。

ニッキーの屋敷の内部 廊下
(1)ミドル・ショット。廊下へ続く開口部。薄暗い廊下の壁には、額縁の入った風景画が掛けられているのが見える。その右手には、部屋の内部が見える。部屋の壁際には縁取りのある鏡と、その前に置かれた机が見える。鏡の左の壁には照明が取り付けられており、点灯している。
ニッキーが廊下の奥から現われ、開口部の左角のところに立ち、左手のほうをうかがう。
(2)ニッキーのアップ。薄暗い廊下から左手の方を窺っているニッキー。不安そうな表情だ。背後の廊下の天井に取り付けられた照明が見える。背後の壁には、左手からの灯りによるニッキーの影がうつされている。
[足音]
(3)ミドル・ショット。左半分が開けられた両開きの扉。扉の手前、左手には二人の少女を抱いて椅子に座る白髪の老人の絵がかかっている。その前に置かれた台の上には、左から白い陶器の踊り子、鉢の上に積まれた果物、白い花が生けられた緑の花瓶が置かれている。画面右手下には、壷が見切れている。扉の向こうには、明るい照明にてらされた白い壁と、閉ざされた木の扉が見える。両開きの扉をくぐって、まずダーク・スーツにネクタイ姿のデヴォンが、それからノーネクタイに白いワイシャツ姿のピオトルケが姿を現わす。
ピオトルケ: I'm listening to you, but... I don't hear you.
そのまま進み、バスト・ショットのツー・ショットまで近づいて、立ち止まる二人。画面左手にデヴォン、画面右手にでピオトルケ。ピオトルケを見るデヴォン。
デヴォン:
I'm not exactly sure what you're getting at.
ピオトルケ: I'm going put my arm around you.
ピオトルケは右腕をデヴォンの肩に回す。
ピオトルケ: I want to holds you close. You don't mind that, do you?
笑みを浮かべるデヴォン。
(4)デヴォンのアップ。笑いを浮かべ、ちらりを下を見てから、再びピオトルケを見る。
デヴォン: What do you mean?
(5)ピオトルケのアップ。真顔である。
ピオトルケ: Well, sometimes people don't say exactly what they mean, (笑みを浮かべて小首を傾げ)and you have been guilty of this all evening.
(6)デヴォンのアップ。次第に笑いが消え、不安そうな表情になる。
デヴォン: Yeah.
(7)ピオトルケのアップ。にんまりと笑いを浮かべている。
ピオトルケ: Now I'll tell you something, and I will mean everything I say.
(8)デヴォンのアップ。ひきつった表情を浮かべている。
(9)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: My wife is not a free agent. I don't allow her that.
(10)デヴォンのアップ。呆然としている。
ピオトルケ: (画面外から)The bonds of marriage are real bonds.
(11)ピオトルケのアップ。
ピオトルケ: (言い聞かせるように)The vows we take, we honor... and enforce them...
(12)デヴォンのアップ。呆然としている。
ピオトルケ: (画面外から) for ourselves... by ourselves, or... if necessary...they're enforced for us.
(13)ピオトルケのアップ。かすかに笑みを浮かべている。
ピオトルケ: Either way, she is... bound. Do you understand this?
(14)デヴォンのアップ。呆然としている。
(15)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: There are consequences to one's actions. And there would, for certain, be consequences to wrong actions. Dark, they would be...
(16)デヴォンのアップ。
ピオトルケ: (画面外から) and inescapable.
(17)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: (言い聞かせるように)Why instigate a need to suffer?
(18)ツー・ショット。
ピオトルケは笑みを浮かべつつ、デヴォンの肩から腕を外す。足音を立てつつ、両開きの扉をくぐって立ち去るピオトルケ。脱力した表情を浮かべて立ち尽すデヴォン。
(19)ニッキーのアップ。不安気な表情を浮かべている。
踵を返し、立ち去るニッキー。
(フェイド・アウト)

まず、ピオトルケによる言及の前半(カット(3)-(8))にみられるのは、「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションである。ピオトルケ自身が発言しているように、ピオトルケはデヴォンの言っていることを「聞こえているが、理解できない(I'm listening to you, but... I don't hear you)」。この状態は、(0:34:00)で提示された「ポーランド語を理解できないニッキー」と同じ状態だ。同時に、この「聞こえるが、理解できない」ピオトルケの状態は、(2:01:35)からのシークエンスでピオトルケが発する「聞こえるが(ロスト・ガールの姿が)見えない」という言及と「対置」されるものであることがわかる。いずれにせよ、これらのシークエンスで描かれているのは「コミニュケーションの不在」であり、その結果としての「一方的な関係」以外のなにものでもない。ピオトルケとデヴォンは、まるで異なった言語を使用しているように、互いの意思疎通が図れていないわけだが、それは何に所以するのか。

それが明確になり始めるのは、カット(9)-(14)にかけてのピオトルケがニッキーとの「夫婦の絆(The bonds of marriage)」を語るシークエンスである。彼の言うことは、真っ当過ぎるほど真っ当で、健全だ。だが、「インランド・エンパイア」をあくまで「映画についての映画」としてみたとき非常に興味深いのは、彼が主張する「婚姻に関する価値観」が、黄金期の「ハリウッド映画」が提示し続けた「価値観」そのままだということである。だが、もちろんそれはハリウッドがそうした「価値観」を信じていたからではない。それ以前からときとして「映画」というメディアが抱えている扇情性は政界や宗教界から度々糾弾を受けていたが、20年代以降のハリウッドで顕在化した度重なるスキャンダルのおかげで、その糾弾は世論までを巻き込んで一層激しくなった。それが「映画」の商品価値の下落につながることを恐れたハリウッドは、対応策として「映画製作倫理規定(プロダクション・コード)」いわゆる「ヘイズ・コード」を設けることになるわけだが、その規定の第二項である「性」の項目には、以下のような条文が謳われていた。

「結婚の制度ならびに家庭の神聖さを称揚しなければならない。低級な形での性的関係を受容されたものであるとか、あるいは普通のことであるように示唆してはならない」*

あるいは、この条文に関する「具体的条項の根拠」として、以下のような文章がある。

「結婚と家庭の神聖さを尊重するために、三角関係、すなわち既婚者に対する第三者の恋愛の扱いには注意を要する。これを扱うことによって制度としての結婚に反感を抱かせてはならない」**

この「規定」が制定された1930年から、それに代わるものとして「レイティング・システム」の運用が開始される1968年までの間、ハリウッドで作られる映画はすべてこの規定条文の制限下にあり、1934年からは「PCA(映画製作倫理規定管理局)」いわゆる「ブリーン・オフィス」によるシナリオや完成作品のチェックが義務付けられた。繰り返すが、これはハリウッドによる自主規制であり、法的な縛りがあったわけではない。だが、事実上、「PCA」の認可のない作品を上映する映画館が存在しなかったことを考えると、この「映画製作倫理規定」がこの時期のハリウッド映画に与えた影響が多大なものであったことが理解できるだろう***。当然ながら、リンチが好む50年代ハリウッド映画もこの「規定」下のもと「健全な価値観」を提示しつづけ、その当時の「文化的状況」の形成に少なからず寄与したのである。だが、こうした「健全な価値観」をハリウッド映画が「売り」続ける一方で、たとえばヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズのような芸能記者たちはまた違った「ハリウッドの価値観」を「売って」いた。非常に大雑把な言い方をすれば、ハリウッドはあからさまに「建前」と「本音」を持ち、その両方を「商品化」してきたといえるのだ****

というような事項を念頭においたとき、このシークエンスが提示する「ニッキーの屋敷」の内部で発生している事象は、上述したような「ヘイズ・コード」下のハリウッド映画界における「価値観に関する二重構造」の図式化として捉えられる。「公的なイメージ」を付随させた場所である「二階」において、同じく「公的イメージ」を付随させるピオトルケが「健全な価値観」を語る。そして、その語る相手はデヴォンであり、物陰から様子を窃視しているのはニッキーだ。デヴォンとニッキーはともに「映画界」に属し、かつこの二人はピオトルケが語る「価値観」とは異なった「価値観」……マリリン・レーヴェンスによって「商品化」された「健全でない価値観」そのものなのである。デヴォンの言うことをピオトルケが「聞こえるが、理解できない」のは、まさしくこうした「立場の違い」に起因しているのだ。

また、「二階」に付随する「公的なもの」のイメージを考えたとき、ある疑問が浮かび上がる。このシークエンスにおけるピオトルケによるデヴォンへの「恫喝」が、「スミシーの家」の「裏庭」でサーカス団員たちが繰り広げた「ハンマー争奪戦」(1:43:37)と、はたしてどれだけの質的差異があるのか……という疑問だ。いずれにせよ、ニッキーの意志がなんら反映されていない以上、ピオトルケのニッキーとの「絆」に関する言及は一方的なものである。ここではニッキーは「獲得されるべき対象」でしかなく、その意味合いにおいて「ハンマー」と実質上の差異はない。

続いて、カット(15)-(17)にかけて、ピオトルケは「行動は結果を伴う(There are consequences to one's actions)」というキー・ワードを述べる。同様のキー・ワード……「行動は結果を伴う(Actions do have consequences)」は、「訪問者1」によってすでに発せられており(0:17:06)、このピオトルケの言及がその「リフレイン」であることは言うまでもない。だが、同じキー・ワードであっても、「訪問者1」が述べた意味合いと、ピオトルケが述べる意味合いは、「同義」であると同時に少しく「異なって」いるように思える。「訪問者1」によるこのキー・ワードが「映画」に関する「ナラティヴ」を成立させる「因果律」……つまり、”「原因」と「結果」の関連性”について述べていることについては、すでに述べたとおりである。受容者側は、「作品」が提示する「原因」(と思われるもの)と「結果」(と思われるもの)を関係づけながら受容行為を行い、その作品が内包する「ナラティヴ」を再構成する。こうした行為こそが、一般的な意味合いでの「作品解釈」であり「作品理解」であるわけだ。

だが、この”「原因と結果の関連付け」=「解釈」を通じた「理解/認識」は、「非現実=架空」に対してのみ適用されるわけではない。それは「現実」に対しても、等しく適用される。「現実」に発生した事象であれ、あるいは「非現実=架空」で発生した事象であれ、我々は基本的に”「原因」と「結果」の関連性の構築”という形で……つまり、「ナラティヴの再構成=物語化」することで「理解/解釈/認識」しようとするのだ。こうした観点からみたとき、「訪問者1」が「非現実=映画」に対する「物語化を通じた理解」を述べているのに対し、ピオトルケは「現実」に対する「物語化を通じた理解」を述べている。逆にいうと、両者の差異は、「理解/解釈/認識」する「対象の差異」でしかない。であるならば、これらのキー・ワードのリフレインでもって「インランド・エンパイア」が提示しているのは、我々が「理解」し「認識」する対象としての「映画=非現実」と「現実」の「等価性」である。そして、それがリンチの言う「映画=世界」という概念の「言い換え」であることは、いまさら指摘するまでもないだろう。


*
「映画 視線のポリティクス」(加藤幹郎・筑摩書房刊)P.161

**同 P.172

***「映画製作倫理規定」の条文に対する抜け道の模索……たとえばビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白」における「回想方式」の採用などを含めての話である。この作品における「回想方式」採用の理由に関しては、「映像/言説の文化社会学」(中村秀之・岩波書店刊)で触れられている。

****リンチ作品が、その最初期から「機能しない家族」や「なにかよくないことが起きる可能性がある場所としての家」というテーマを提示し続けてきたことは、以前にも述べたとおりである。つまり、リンチは、自らが成長期に享受したハリウッド映画の「結婚や家族の神聖性」に対して、ずっと疑義を投げかけてきているわけだ。50年代ハリウッド映画作品が提示した「家族像」から、(リンチやスピルバーグを含む)40年代末のベビー・ブーム期に生まれた映画監督たちが提示する「家族像」への変遷については、「サバービアの憂鬱」(大場正明・東京書籍刊)に詳しい。

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